ヤマモトヨウコ Yokoの鎌倉なまくら撮影日記
写真家の撮影に関する日記
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御霊神社 面掛行列撮影記
<鎌倉・御霊神社 面掛行列撮影記 2012.9.18> 鎌倉・坂の下の御霊神社では毎年9月18日の例祭に面掛行列(めんかけぎょうれつ)が行われる。 ことの起こりは、1187年、鶴岡八幡宮の放生会に、京の石清水八幡宮に倣って、流鏑馬だけでなく、雑色を呼んで面掛行列が始められたといわれている。それから芸能衆へと変転したようだが、明治時代を迎え、神仏分離令に よって面掛行列は御霊神社に移されて、御祀りしている梶原景時(権五郎)の命日に納められることになった。 男性ばかりの行列で、面掛の先頭は天狗面の猿田彦の神、獅子頭二頭、そして、爺、鬼、異形、鼻長、からす天狗、翁、火吹き男(ひょっとこ)、福禄寿、おかめ、女(取り上げ女)と続く。おかめは孕み女で、とても滑稽な様子に演じられるし、お腹を撫でると安産祈願となるということで、行列の最中もお母さんが撫でにきたり、観衆の人気の的である。行列の後には御霊神社の神輿も続き、坂の下界隈の道を練り歩く。 御霊神社は通称、鎌倉権五郎神社とも呼ばれ、義経を讒言し、歌舞伎では悪名高き梶原景時を祀る神社であるが、御由緒は平安後期、関東平氏五家(鎌倉氏・梶原氏・村尾氏・長尾氏・大庭氏)の霊を守ったと伝えられている。 なんとも古びた土着の薫りのする神社で、鎌倉の海の風と山の匂いが心地よく、地元の守り神様という感じが 漂っていて、もしかしたら、あの梶原景時も意外に素朴なおじさんだったのかしら?と思ったりもする。 私が好きなのは境内にある大きなタブの木(樹齢350年)。例祭ではこの大樹の陰に神輿が据えられ、神事が恭しく行われ、地元の漁業組合長さん達の仕切りで神輿が江の電の踏切を越えて坂の下の通りへとでていく。 面掛行列はたいへんに楽しいものだが、殊に今年は、フジTVのドラマ{最後から二番目の恋」エンドロール撮影で お世話になった方々が行列の中に歩いていらしたりして、なんだかとても親近感を覚えてしまった。 しかし感心したのは江の電である。神事の最中に、電車がバックを通るところを写そうと待っていると、 何時までたっても通らない。あらっと思ってファインダーを外して見ると、なんと電車が踏切の手前で止っているではないか。まさにローカルと共に歩む江の電である。 また、私は、祭りは前後を撮影するのが面白いと思っているが、この日も祭りの最後に、おかめの妊婦さんが 一人で線路を渡れず(実際には面で視界が悪い!?)白衣の女性に手を引かれて渡っているのが、本当の妊婦さんのようで可笑しかった。 一説にはこの面掛行列は、頼朝公が浮気した女性を政子さんに察知され、行列にまぎれて逃がす為だったとも 言われているが、この日の妊婦さんの中身は、もちろん男性です!
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Yoko's Photo World
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23
October
鎌倉の笑顔 秀吉さん
重陽の日も終わり、まもなく仲秋の名月。今日は911から大好きな暑い夏も終わりに近づきました(終わっているはずなのですが) それにしても鎌倉の自然環境は東京から一時間とは思えないほど恵まれていますね。 海へ行けるのも嬉しいことですが、山にのこされている自然も素晴しい。 近くの鶴岡八幡宮の源平池に行くだけでも、鳥をみたり、鯉や亀をみたり、 なかなかに面白いものです。 しかし、長く住んでいた神楽坂であまりにもよくして頂いていたせいでしょうか? 鎌倉に移転してからというもの、役人との仕事がメインで、世界遺産の撮影で楽しみにしていた寺社の方の お話を伺うどころか接触しないでくれと言われておりましたので、寂しくもストレスが溜まり、 笑顔を忘れていた気がするのです。 写真って、お話を伺ったり、交流したり、そんな中から生まれるものなんですけどね! そんな訳で、徐々に御会いできてきた、鎌倉の笑顔の素敵な方達、出逢いも書いていきたいと思います。 まづは、鎌倉野菜市場が好きな私としましては、市場にある、秀吉(やきとりやさん)のおじさんとファミリー! 鎌倉というところは、長く住んでいた神楽坂と違って、午後六時になるとお店も締まり、町は暗い。 そんな中で鎌倉野菜市場の前で煌々と明りのついている秀吉をみると、ほっとするのです。 (赤い提灯と明りとは、よく考えられたものですね。昆虫だけでなく、人も明りに吸い寄せられるのでしょうか!?) そして昼間から市場の通路脇にある席が、東南アジアのように開放的で、なんとも魅力的です! とはいえ、野菜市場へはよく行っていたものの、入ってみたいと思いつつも、なかなか入れませんでした。 それに加えて、実は私は「鳥」が苦手なのです。なのに、秀吉のつくねとレバーは、とても美味しかったのです! そして秀吉のおじさんの笑顔! これがなんともいえない! どこかで拝顔したと思いましたら、七幅神の船に乗っているあの方の笑顔にていらっしゃるんですね!! そしてやはり笑顔の素敵な奥さんと娘さん達。。 このファミリーの活気と、焼き鳥を焼く煙が暖かい気持ちにさせてくれるのです。気取らない焼き鳥屋さんなのだけれど、ちょっと違う雰囲気なのです! 食べ物屋さんって、やっぱり笑顔や活気も味のうちですね! 鎌倉にいらしたら、ぶらりと気楽に立ち寄ってみることをお勧め致します。

15
August
02
July
黒田正夕先生について その三 画歴
黒田正夕(本名・正男)画伯は今月(平成二十四年)六月五日に大阪・明生病院で亡くなりました。
享年92歳。
黒田先生は、画壇に属さず、京都では有名であり、ご紹介の記事もたくさんありますが、
全国的にはそれほど知られているとはいえません。
(ご自分のお仕事をあまり仰有らなかったので。町内会長さんも普通の紳士と思っていたということです。)
しかし、京都の青蓮院門跡、天龍寺多宝殿、西山十輪寺、三十三間堂など名刹の襖絵や、
その他多くの名刹で御影、頂相、昭和天皇のご肖像画(宮内庁蔵)などを描かれましたことからも、
日本伝統文化の最高の有識と品格を持つ方々から評価を受けておられることは一目瞭然でありましょう。
また、戦後は京阪の重要な文化財などが痛んでいて、まだ誰も修復を手がける時代ではなかったので、
こつこつと修復をお続けになり、国宝や重要文化財(後白河法王像/三十三間堂などの貴重な名画
の修復もなさいました。
そんなことから、大和絵、西洋画、漢画と研鑽を重ねた上で、古今の名作や、特に安土桃山期の
狩野派の名作を研究されて、襖絵、頂相画に力をいれて描いておられました。
黒田先生は、天龍寺他宝殿の襖絵を作画中に御会いした時、
「こうした素晴しい寺に描けば、五百年でも沢山の人にみて貰える、
名声や権力よりも、それが画家として本懐やと思う」
と、おっしゃっておられました。
そして今,
先生らしく、無一物で、無に還られた時、
京の寺にたくさんの先生の魂をこめた絵がのこされました。
私は、20年以上前に天龍寺で作画中に御会いしたときから教えて頂き、数年前の大阪での個展で
未熟ながら返礼させていただき、また最後にお手紙を戴いた者として、誠に僭越はございますが、
黒田先生のご遺志(「永く人に見てもらいたい」)を、皆様にここにお伝えしたいと思います。
-------
作品は残念ながらあまり一般には公開されておりませんが、
青蓮院門跡寺襖絵、同・三十六歌仙画、嵐山天竜寺多宝殿襖絵十六面・
西山十輪寺襖絵三十八面・衝立画二面は現在もみて戴けます。
京都にいらっしゃる機会がございましたら、ぜひご覧下さい。
以下、ご紹介です。
黒田正夕画伯(本名・正男)は大正九年、岡山生まれ。平成二十四年六月五日没。
尊敬し私淑したのは尾形乾山。
幼時より大和絵の手ほどきを受け、東京・太平美術学校で西洋画を学び、仏国留学途上戦争勃発の為、断念。
戦後は漢画の研鑽を重ねた上で、古今の名作や、特に安土桃山期の狩野派の技法を研究。
京都の最高格式の名刹、歴代天皇ゆかりの部屋などに襖絵を描き、古来の名僧の頂相などを描く。
重要文化財の肖像画など名画の修復にも力を注ぎ、古来から昭和期に至る美術、技法の研究
のみならず、歴史全般の知識研究も広汎にして深く、その知識に基づいて、平安風俗、装束なども
描かれている。
鶴、鴇など自然を題材とした画にも優れる。最期に座右にあるのは、苦心創案中の虎の絵の複写、
夢窓国師像の写真であった。
以下に画歴を掲載させて戴きます。
伝統日本画家 黒 田 正 夕__
_画 歴_ _
京、粟田青蓮院門跡寺襖絵二十二面・壁画五画制作_
京、嵐山天竜寺多宝殿襖絵十六面・壁画四画制作_
京、西山十輪寺襖絵三十八面・衝立画二面制作_
京、鷹峰妙見宮円成寺襖絵二十四面・杉戸絵二面制作_
京、岡崎善正寺霊殿天井画一面制作_
大和、橿原神宮貴賓殿額装画二面制作_
摂津、伊丹混陽寺軸装大幅佛画一面制作_
京、左京南禅寺金地院板絵三十六面制作_
京、東山三十三間堂妙法院門跡御影四面謹作_
京、紫野太徳寺高桐院額装画一面制作_
京、東山今熊野御寺泉涌寺御影三面謹作_
京、字多野仁和時門跡高僧御影二面謹作_
京、粟田口青蓮院三十大歌仙、三十六面制作_
京、嵐山天竜寺弘源時管長頂相_
京、花園妙心音開山関山慧玄頂相__
御影、肖像画制作 順不同__
一、 神武天皇尊像、大和、橿原神宮蔵_
一、 後白河天皇尊影、京、妙法院、三十三間堂、蔵二点_
一、 大正天皇尊影、京、東山御寺泉涌寺蔵_
一、 昭和天皇尊影、京、粟田口青蓮院蔵
京、東山御寺泉涌寺蔵_
一、 在原業平卿御影像、京、西山十輪寺蔵_
一、 牧翁山魏天竜寺管長頂相、京、嵐山天竜寺蔵_
一、 杉谷天台大僧正妙法院門主御影、京、東山妙法院蔵_
一、 聖膸仙院天台大僧正妙法院門主御影、京、東山妙法院蔵_
一、仁和寺門跡高僧御影二面、京、仁和寺蔵__
略 歴__
一、 一九二〇年 岡山市瀬尾町二十三(現在清輝本町一丁目)に天文二年より約五百年続く旧家の長男として出生_
一、 五オより十二オまで祖父より家伝の大和絵の画法伝授_
一、十六オより十八オまで大阪信濃橋洋画研究所、東京太平洋美術学枚にて洋画の技法習得
一、 十九オより二十一オまで大阪備後町懐徳堂に人塾し漢画全般を研鑽_
一、 二十五オより二十九オまで大阪西区信濃橋奥美町に美巧杜を創始大作装飾画制作_
以上
(後日訂正、幸いにも作品の写真は見つけられました。また、その他、トキの下絵、虎の絵、先生の資料、創案資料、歴史書なども大切に中島家に保管されています。)
享年92歳。
黒田先生は、画壇に属さず、京都では有名であり、ご紹介の記事もたくさんありますが、
全国的にはそれほど知られているとはいえません。
(ご自分のお仕事をあまり仰有らなかったので。町内会長さんも普通の紳士と思っていたということです。)
しかし、京都の青蓮院門跡、天龍寺多宝殿、西山十輪寺、三十三間堂など名刹の襖絵や、
その他多くの名刹で御影、頂相、昭和天皇のご肖像画(宮内庁蔵)などを描かれましたことからも、
日本伝統文化の最高の有識と品格を持つ方々から評価を受けておられることは一目瞭然でありましょう。
また、戦後は京阪の重要な文化財などが痛んでいて、まだ誰も修復を手がける時代ではなかったので、
こつこつと修復をお続けになり、国宝や重要文化財(後白河法王像/三十三間堂などの貴重な名画
の修復もなさいました。
そんなことから、大和絵、西洋画、漢画と研鑽を重ねた上で、古今の名作や、特に安土桃山期の
狩野派の名作を研究されて、襖絵、頂相画に力をいれて描いておられました。
黒田先生は、天龍寺他宝殿の襖絵を作画中に御会いした時、
「こうした素晴しい寺に描けば、五百年でも沢山の人にみて貰える、
名声や権力よりも、それが画家として本懐やと思う」
と、おっしゃっておられました。
そして今,
先生らしく、無一物で、無に還られた時、
京の寺にたくさんの先生の魂をこめた絵がのこされました。
私は、20年以上前に天龍寺で作画中に御会いしたときから教えて頂き、数年前の大阪での個展で
未熟ながら返礼させていただき、また最後にお手紙を戴いた者として、誠に僭越はございますが、
黒田先生のご遺志(「永く人に見てもらいたい」)を、皆様にここにお伝えしたいと思います。
-------
作品は残念ながらあまり一般には公開されておりませんが、
青蓮院門跡寺襖絵、同・三十六歌仙画、嵐山天竜寺多宝殿襖絵十六面・
西山十輪寺襖絵三十八面・衝立画二面は現在もみて戴けます。
京都にいらっしゃる機会がございましたら、ぜひご覧下さい。
以下、ご紹介です。
黒田正夕画伯(本名・正男)は大正九年、岡山生まれ。平成二十四年六月五日没。
尊敬し私淑したのは尾形乾山。
幼時より大和絵の手ほどきを受け、東京・太平美術学校で西洋画を学び、仏国留学途上戦争勃発の為、断念。
戦後は漢画の研鑽を重ねた上で、古今の名作や、特に安土桃山期の狩野派の技法を研究。
京都の最高格式の名刹、歴代天皇ゆかりの部屋などに襖絵を描き、古来の名僧の頂相などを描く。
重要文化財の肖像画など名画の修復にも力を注ぎ、古来から昭和期に至る美術、技法の研究
のみならず、歴史全般の知識研究も広汎にして深く、その知識に基づいて、平安風俗、装束なども
描かれている。
鶴、鴇など自然を題材とした画にも優れる。最期に座右にあるのは、苦心創案中の虎の絵の複写、
夢窓国師像の写真であった。
以下に画歴を掲載させて戴きます。
伝統日本画家 黒 田 正 夕__
_画 歴_ _
京、粟田青蓮院門跡寺襖絵二十二面・壁画五画制作_
京、嵐山天竜寺多宝殿襖絵十六面・壁画四画制作_
京、西山十輪寺襖絵三十八面・衝立画二面制作_
京、鷹峰妙見宮円成寺襖絵二十四面・杉戸絵二面制作_
京、岡崎善正寺霊殿天井画一面制作_
大和、橿原神宮貴賓殿額装画二面制作_
摂津、伊丹混陽寺軸装大幅佛画一面制作_
京、左京南禅寺金地院板絵三十六面制作_
京、東山三十三間堂妙法院門跡御影四面謹作_
京、紫野太徳寺高桐院額装画一面制作_
京、東山今熊野御寺泉涌寺御影三面謹作_
京、字多野仁和時門跡高僧御影二面謹作_
京、粟田口青蓮院三十大歌仙、三十六面制作_
京、嵐山天竜寺弘源時管長頂相_
京、花園妙心音開山関山慧玄頂相__
御影、肖像画制作 順不同__
一、 神武天皇尊像、大和、橿原神宮蔵_
一、 後白河天皇尊影、京、妙法院、三十三間堂、蔵二点_
一、 大正天皇尊影、京、東山御寺泉涌寺蔵_
一、 昭和天皇尊影、京、粟田口青蓮院蔵
京、東山御寺泉涌寺蔵_
一、 在原業平卿御影像、京、西山十輪寺蔵_
一、 牧翁山魏天竜寺管長頂相、京、嵐山天竜寺蔵_
一、 杉谷天台大僧正妙法院門主御影、京、東山妙法院蔵_
一、 聖膸仙院天台大僧正妙法院門主御影、京、東山妙法院蔵_
一、仁和寺門跡高僧御影二面、京、仁和寺蔵__
略 歴__
一、 一九二〇年 岡山市瀬尾町二十三(現在清輝本町一丁目)に天文二年より約五百年続く旧家の長男として出生_
一、 五オより十二オまで祖父より家伝の大和絵の画法伝授_
一、十六オより十八オまで大阪信濃橋洋画研究所、東京太平洋美術学枚にて洋画の技法習得
一、 十九オより二十一オまで大阪備後町懐徳堂に人塾し漢画全般を研鑽_
一、 二十五オより二十九オまで大阪西区信濃橋奥美町に美巧杜を創始大作装飾画制作_
以上
(後日訂正、幸いにも作品の写真は見つけられました。また、その他、トキの下絵、虎の絵、先生の資料、創案資料、歴史書なども大切に中島家に保管されています。)
08
June
伝統日本画家 黒田正夕画伯ご逝去 Kanou-school Painter, Shouseki Kuroda died
四月二十一日にブログに書かせて頂きました、京都の十輪寺、青蓮院門跡、天竜寺の襖絵などに
伝統日本画のお仕事をなされた黒田正夕画伯が6月5日、午前11時45分、大阪市京橋の明生病院にて
おなくなりになられました。享年92歳。葬儀は町内会で行われました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
と共に、黒田先生にご縁ある皆様にもう一度ご報告申し上げます。
本年一月末、黒田先生よりお手紙を頂いてから、馳せ参じようと言う時にお電話が通じず、
恥ずかしくも訪ね回って手紙をだした処、4月下旬にお見舞いさせて頂く事ができました。
ご入院先の先生は涙を流して喜んで下さり、しかしながら、やはりいつものように歴史、絵画に
わたる博識のお話は溢れ出る泉のごとくでした。鎌倉の円覚寺の写真をみて下さって、世界遺産
申請の写真の終了を喜んで下さり、写真集をだしなさいとご指導下さいました。
私は奥様が早くになくなられたことは伺っておりましたが、四年前にご子息がいると別の方から
伺ったのでご遠慮した不覚を詫びました。ご親族もなく、お一人で生活なさっていたとその時に
はじめて知った次第ですが、先生は「苦労なんて何一つしてへん」と笑っておられました。
ユーモアたっぷりはそのままに、病床の先生をスヌーピーのタオルと一緒に写真をとって笑い合い
ました。私は先生に龍の絵を描いてくださいとせがんだところ、ノートに「こうやろ、こうや」
と、さらさらとスケッチを描いて下さいましたが、いささかユーモラスな龍でした。
ある方から展覧会の企画を戴き、できればご存命中に展覧会をしたいと思いましたので、
先生の作品ネガも失われたということから、ご紹介状をお願いしてご承諾頂きました。
それから、翌日も伺い、次回は六月のお見舞いを約束し、京都の寺社の先生の作品を見に行くというと
先生は頷いて「はよ、いっておいで。」とのこと。お名残惜しいものの、京都の撮影のロケハンに
回りましたが、京都の十輪寺、青蓮院門跡、天竜寺多宝殿の襖絵とみせて頂いて、
改めて、黒田正夕画伯の偉大なお仕事に感服致しました。
以前より、青蓮院門跡は天皇陛下の伯父上様がご門主であらせられる非常に格の高いお寺と伺って
おりましたが、そこにある黒田先生の絵は、
江戸初期の重要文化財に並んでの襖絵、板絵、三十六歌仙の絵などです。
天竜寺多宝殿の襖絵も、歴代天皇のご位牌のある部屋です。昭和天皇のご肖像画も宮内庁にあり、
今だからわかるのですが、黒田先生を、多分、ご理解し支えて下さったのは日本で最高の
伝統文化有識の方々だったのでありましょう。
そして昨日、また大阪にお見舞いに伺おうと思って風邪で寝込んで遅れてしまって、
その矢先の訃報のご連絡でした。
ずっと先生のお世話をして下さった中宮五東町会長の中島様からご連絡を頂きました。
眠るように穏やかになくなられたと伺いましたが、四月に御会いしたときはお元気そうで
先生はリハビリに入られたとのことでしたから、想定外に早いご逝去でありました。
介護して下さった方から、「陽子さんの作品の写真を入院中に嬉しそうに胸に抱いて
持っていたから、町内会長さんにお棺に一緒にいれてあげて」って頼んじゃった。
陽子さんのこと、最後まで気にかけていました」とのこと。
お心遣いに涙がでました。
黒田先生へお心づくしの世話をして下さった方には頭の下がる思いが致します。
私はほんとうに、何も尽くすことができませんでしたが、
遅まきながら、ご縁に対して報いることができればと思います。
-----------
黒田先生はお人柄も暖かく、おやさしい方でした。
父が病気になれば住吉大社へ行って平癒祈願の浴衣を送って下さったり、
フランスへ写真の勉強にいくといえば、ご自分はかつてフランスへ西洋画の勉強で行く途中に
戦争が始まり、戦争に行った外地で足を悪くされたので、二度と行けなかった、頑張っておいで。。
と、お餞別と香水を送って下さったり、
また有る時は京都の朝掘りの竹の子を山のように送って下さったり、
近年もご不自由な足で個展に来て下さったりと・・、何かと気にかけて頂きました。
天龍寺で作画中に二度拝見してからのご縁で、父のようにも何でも相談してほしいとお手紙を戴きました。
東京におりましたので、お手紙やお電話で毎日のようにご指導戴きましたが、ご期待に応えるより
も、写真家としてプロスタート致しましたので、無沙汰をした時期もございました。
近年、大阪で個展をみて戴けたこと、また、鎌倉の世界遺産申請写真終了後には改めて絵画を習うご連絡を
しており、先日作品を送って喜んで頂けたのが、幸いでした。
先生には、日本美術、歴史、品格と本物とは何かを教えようとして下さったことに深く感謝しております。
ご逝去の後で、20年前の手紙や、個展の時の先生からのお手紙を大切にもっていて下さったことを知り、
胸をつかれる思いがいたしました。
先生とはいつも、歴史や仏像とか美術の話をおききして夢中になってしまいましたので、プライペート
なことの多くを知るとはとてもいえませんが、私の知る限りは、終始、大正生まれの紳士として、
美術の先達として接して下さった黒田先生像は、お伝えしておきたいと思います。
再度、本年五月連休中に、黒田先生の襖絵がある寺社を回りました折、
天竜寺多宝殿で、一般の観光客の方々が群がって覗き込み、「うわーっすごい絵」
「僕はわかる、これは狩野派の画だ」と、くちぐちにおっしゃっていたのが忘れられません。
はじめて黒田先生に天竜寺で作画中に御会いした時、 先生はおっしゃいました。
------信長の頃の狩野派の画家は命がけだった。私はまたまだ甘いと言われるやろなぁ。
しかし、こうしたお寺に描かせて頂ければ、五百年、いろんな人がみてくれる。
私はそれが画家の本望やと思う。
画壇の世界には興味がない。
黒田正夕先生は、尊敬する尾形乾山先生と魂の会話をされて、亡くなる前まで精進されていたと思います。
そして、無一物で、無になられました。
先生らしい生き方です。
黒田先生へ、私もやがて無縁仏となりましょう。あの世でまた、歴史や文化のお話をお聞かせ戴き、
楽しく語り合いましょう。
合掌。
伝統日本画のお仕事をなされた黒田正夕画伯が6月5日、午前11時45分、大阪市京橋の明生病院にて
おなくなりになられました。享年92歳。葬儀は町内会で行われました。
ご冥福をお祈り申し上げます。
と共に、黒田先生にご縁ある皆様にもう一度ご報告申し上げます。
本年一月末、黒田先生よりお手紙を頂いてから、馳せ参じようと言う時にお電話が通じず、
恥ずかしくも訪ね回って手紙をだした処、4月下旬にお見舞いさせて頂く事ができました。
ご入院先の先生は涙を流して喜んで下さり、しかしながら、やはりいつものように歴史、絵画に
わたる博識のお話は溢れ出る泉のごとくでした。鎌倉の円覚寺の写真をみて下さって、世界遺産
申請の写真の終了を喜んで下さり、写真集をだしなさいとご指導下さいました。
私は奥様が早くになくなられたことは伺っておりましたが、四年前にご子息がいると別の方から
伺ったのでご遠慮した不覚を詫びました。ご親族もなく、お一人で生活なさっていたとその時に
はじめて知った次第ですが、先生は「苦労なんて何一つしてへん」と笑っておられました。
ユーモアたっぷりはそのままに、病床の先生をスヌーピーのタオルと一緒に写真をとって笑い合い
ました。私は先生に龍の絵を描いてくださいとせがんだところ、ノートに「こうやろ、こうや」
と、さらさらとスケッチを描いて下さいましたが、いささかユーモラスな龍でした。
ある方から展覧会の企画を戴き、できればご存命中に展覧会をしたいと思いましたので、
先生の作品ネガも失われたということから、ご紹介状をお願いしてご承諾頂きました。
それから、翌日も伺い、次回は六月のお見舞いを約束し、京都の寺社の先生の作品を見に行くというと
先生は頷いて「はよ、いっておいで。」とのこと。お名残惜しいものの、京都の撮影のロケハンに
回りましたが、京都の十輪寺、青蓮院門跡、天竜寺多宝殿の襖絵とみせて頂いて、
改めて、黒田正夕画伯の偉大なお仕事に感服致しました。
以前より、青蓮院門跡は天皇陛下の伯父上様がご門主であらせられる非常に格の高いお寺と伺って
おりましたが、そこにある黒田先生の絵は、
江戸初期の重要文化財に並んでの襖絵、板絵、三十六歌仙の絵などです。
天竜寺多宝殿の襖絵も、歴代天皇のご位牌のある部屋です。昭和天皇のご肖像画も宮内庁にあり、
今だからわかるのですが、黒田先生を、多分、ご理解し支えて下さったのは日本で最高の
伝統文化有識の方々だったのでありましょう。
そして昨日、また大阪にお見舞いに伺おうと思って風邪で寝込んで遅れてしまって、
その矢先の訃報のご連絡でした。
ずっと先生のお世話をして下さった中宮五東町会長の中島様からご連絡を頂きました。
眠るように穏やかになくなられたと伺いましたが、四月に御会いしたときはお元気そうで
先生はリハビリに入られたとのことでしたから、想定外に早いご逝去でありました。
介護して下さった方から、「陽子さんの作品の写真を入院中に嬉しそうに胸に抱いて
持っていたから、町内会長さんにお棺に一緒にいれてあげて」って頼んじゃった。
陽子さんのこと、最後まで気にかけていました」とのこと。
お心遣いに涙がでました。
黒田先生へお心づくしの世話をして下さった方には頭の下がる思いが致します。
私はほんとうに、何も尽くすことができませんでしたが、
遅まきながら、ご縁に対して報いることができればと思います。
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黒田先生はお人柄も暖かく、おやさしい方でした。
父が病気になれば住吉大社へ行って平癒祈願の浴衣を送って下さったり、
フランスへ写真の勉強にいくといえば、ご自分はかつてフランスへ西洋画の勉強で行く途中に
戦争が始まり、戦争に行った外地で足を悪くされたので、二度と行けなかった、頑張っておいで。。
と、お餞別と香水を送って下さったり、
また有る時は京都の朝掘りの竹の子を山のように送って下さったり、
近年もご不自由な足で個展に来て下さったりと・・、何かと気にかけて頂きました。
天龍寺で作画中に二度拝見してからのご縁で、父のようにも何でも相談してほしいとお手紙を戴きました。
東京におりましたので、お手紙やお電話で毎日のようにご指導戴きましたが、ご期待に応えるより
も、写真家としてプロスタート致しましたので、無沙汰をした時期もございました。
近年、大阪で個展をみて戴けたこと、また、鎌倉の世界遺産申請写真終了後には改めて絵画を習うご連絡を
しており、先日作品を送って喜んで頂けたのが、幸いでした。
先生には、日本美術、歴史、品格と本物とは何かを教えようとして下さったことに深く感謝しております。
ご逝去の後で、20年前の手紙や、個展の時の先生からのお手紙を大切にもっていて下さったことを知り、
胸をつかれる思いがいたしました。
先生とはいつも、歴史や仏像とか美術の話をおききして夢中になってしまいましたので、プライペート
なことの多くを知るとはとてもいえませんが、私の知る限りは、終始、大正生まれの紳士として、
美術の先達として接して下さった黒田先生像は、お伝えしておきたいと思います。
再度、本年五月連休中に、黒田先生の襖絵がある寺社を回りました折、
天竜寺多宝殿で、一般の観光客の方々が群がって覗き込み、「うわーっすごい絵」
「僕はわかる、これは狩野派の画だ」と、くちぐちにおっしゃっていたのが忘れられません。
はじめて黒田先生に天竜寺で作画中に御会いした時、 先生はおっしゃいました。
------信長の頃の狩野派の画家は命がけだった。私はまたまだ甘いと言われるやろなぁ。
しかし、こうしたお寺に描かせて頂ければ、五百年、いろんな人がみてくれる。
私はそれが画家の本望やと思う。
画壇の世界には興味がない。
黒田正夕先生は、尊敬する尾形乾山先生と魂の会話をされて、亡くなる前まで精進されていたと思います。
そして、無一物で、無になられました。
先生らしい生き方です。
黒田先生へ、私もやがて無縁仏となりましょう。あの世でまた、歴史や文化のお話をお聞かせ戴き、
楽しく語り合いましょう。
合掌。
06
June