青島ドイツ軍俘虜概要
その事績・足跡
はじめに
本資料は、第一次世界大戦時に、当時ドイツの租借地だった中国山東半島の青島(チンタオ)攻防をめぐる戦闘、いわゆる日独戦争でのドイツ軍俘虜の事績・足跡等を紹介する資料として、高知大学学術研究報告第50巻人文科学編(平成13年(2001年)12月25日発行)及び高知大学学術研究報告第52巻人文科学編(平成15年(2003年)12月25日発行)に発表したものを一つに纏めて、それに大幅な加筆・修正を施したものである。
これまでにも数多くの文献の中で独軍俘虜についての記述ないしは紹介が行われている。俘虜となる以前の青島等各地での生活、日独戦争時の行動、日本各地の収容所での活動、さらに大戦が終結してからの足跡等、俘虜となった人物の紹介は多岐にわたっている。それらを一覧の形にして纏めることが出来れば、青島ドイツ軍の実体や青島におけるドイツ人の生活の一端、さらには日本との関わり、日本の時代状況の一面を多少なりとも浮かび上がらせることが出来るのではないだろうか。また平成17年4月から翌年3月までの一年に亘る「日本におけるドイツ2005/2006」、いわゆる「ドイツ年」の開催以降、ドイツ兵俘虜とその収容所をめぐっては、日独文化交流史上の意義からもクローズアップされている。
本資料では「青島ドイツ軍俘虜」という言葉を用いた。日独戦争における俘虜に対しては従来、「ドイツ人俘虜」、「ドイツ俘虜」また「ドイツ兵俘虜」の言葉が用いられてきた。ここには悩ましい一面がある。日本軍の戦闘相手はドイツ軍及びその同盟国のオーストリア軍であった。そのドイツ青島守備軍には当時のドイツ領土の関係から、ポーランド、デンマーク、ベルギー及びフランス系の軍人・兵士がいた。さらに事柄をややこしくしているのは、当時のオーストリア帝国とは正しくは、オーストリア=ハンガリー帝国と呼ばれる多民族国家だったからである。従ってゲルマン民族であるオーストリア人以外にハンガリー人、ポーランド人、チェコ人、スロヴァキア人、クロアチア人等実に多様な人々がいて、領域内にはイタリア人すら住んでいた。日本軍の俘虜となったオーストリア=ハンガリー帝国巡洋艦皇后エリーザベトの乗員には、そうした多様な軍人・兵士が含まれていたのである。本資料が依拠する最も重要な資料である当時の日本帝国俘虜情報局による『俘虜名簿』も、『獨逸及墺洪國俘虜名簿』となっている。
しかし本資料で「青島ドイツ軍俘虜」の語を選んだのは、第一に日本が最後通牒を発して戦闘国としたのはドイツであったことによる。オーストリア=ハンガリー帝国の艦船には退去・武装解除を勧告し、当初巡洋艦皇后エリーザベトもその警告に従った。結局は戦闘に参加したものの、終始ドイツ軍の指揮下にあった。第二に青島を含む膠州湾租借地はドイツの保護領であり、そしてなによりも青島をめぐる戦争は、「日独戦争」の語をもって表記されることが通例であることによる。青島以外で捕虜となって収容された俘虜もごく少数存在するが、基本的には青島をめぐる日独戦争の結果と考えてよいであろう。
なお、人名・地名の表記には、慣用表記に従った場合もある。例えばJuchheim(ユッフハイム)はユーハイム、Berlin(ベルリーン)はベルリンと表記した。また、大都市やよく知られた地名はカタカナ表記のみとした。
本資料では以下の方針に基づいて俘虜概要の名簿を作成した。
1)日本帝国俘虜情報局作成の『獨逸及墺洪國俘虜名簿』(大正6年6月改訂)―以下本書では単に『俘虜名簿』と略す―に掲載された俘虜を採り上げた。この際の『俘虜名簿』は、防衛庁防衛研究所図書館所蔵と外務省外交資料館所蔵の二点の同名資料を用いた。後者では1920年初頭に、その後に追加されるべき俘虜や死亡した俘虜の死亡年月日が手書きで付け加えられ、新たな宣誓解放、移送先収容所がゴム印で追加押印されている。また俘虜番号の変更もなされていることから、後者を主たる『俘虜名簿』とした。
2)収容所内ないしは、日本国内及び国外で何らかの活動・行為、または足跡が判明している場合。
3)青島における戦闘での任務、守備位置が判明している場合。
4)青島等での応召以前の職業が判明している場合。
5)家族の消息が判明している場合。
6)生没年のいずれか一つでも判明している場合。
(外務省外交資料館所蔵) 俘虜収容所配置図
『俘虜名簿』(外務省外交資料館所蔵版)には4715名が記載されているが、本資料で採り上げている俘虜数は2537名で、俘虜総数4715名の53.8%に当たる。
名簿の作成方法は『俘虜名簿』に準拠しているが、本資料での記載方法にはいくつか違いがある。以下の要領で俘虜概要名簿を作成した。
1)『俘虜名簿』では将校及び同相当者と下士卒に分けられているが、本稿では区別することなくドイツ語のアルファベット順に掲載し、本稿での通し番号を設けた。
2)諸事項の配列順は、通し番号、姓(カタカナによるその読み方)、名前等、生没年、所属部隊・階級、任務・守備位置、前職、事績・足跡等、出身地(出生地、もしくは本国居住地・帰還地)、俘虜番号・収容所名とした。収容所名の記述で、東京→習志野、大阪→似島となっている場合は、当初は東京俘虜収容所や大阪俘虜収容所に収容されたが、後に習志野俘虜収容所、似島俘虜収容所へ収容所換えになったことを示す。「大阪→」徳島→板東、「熊本→」大分→習志野の場合は、大阪及び熊本の俘虜収容所に収容された期間が、四週間程度と暫定的であることを示している。
3)将校の階級名では、『俘虜名簿』あるいはドイツ側の資料で「海軍」と規定されている場合のみ海軍将校とした。その他の将校は、第3海兵大隊等に属して、形式上は海軍将校であってもその実体が陸軍将校である場合は陸軍の階級とした。例えば、第3海兵大隊長のケッシンガー中佐は海軍歩兵中佐であるが、実態に合わせて陸軍歩兵中佐とした。
上記の関連で、「青島ドイツ軍参謀本部並びに部隊編成・配置とその指揮官」を以下に掲げる。なお、武装を解除され俘虜とはなったが、欧州ではまだ戦争が続いていて、収容所内においても軍隊組織が存在していた。つまり、俘虜にとっては依然として軍隊勤務の中にあり、それに応じた俸給も日本側から支給されていた。なおこれまで筆者は、「海軍歩兵第3大隊」及び「海軍東亜分遣隊」の部隊名を用いてきたが、本資料ではそれぞれ「第3海兵大隊」、及び「海軍東アジア分遣隊」の部隊名を用いることにした。
表1:青島ドイツ軍参謀本部並びに部隊編成・配置とその指揮官(『青島戰史』より)
参謀本部
膠州総督:A.Meyer-Waldeck(マイアー=ヴァルデック)海軍大佐
副官:G.v.Kayser(カイザー)陸軍少佐
参謀長:L.Saxer(ザクサー)海軍大佐
参謀:W.Freiherr v. Bechtolsheim(ベヒトルスハイム)海軍大尉
情報部長:W.Vollerthun(フォラートゥン)海軍大佐(海軍省膠州課長)
砲兵部長:P.Boethke(ベトケ)海軍中佐
工兵部長:C.Siebel(ジーベル)陸軍少佐
通信兼信号将校:K.Coupette(クーペッテ)陸軍中尉
飛行将校:G.Plüschow(プリュショーウ)海軍中尉
暗号将校:P.Kempe(ケンペ)陸軍中尉
同 上:W.Trittel(トリッテル)予備陸軍少尉
軍医長:Dr.Foerster(フェルスター)海軍軍医大佐
法務長:G.Wegener(ヴェーゲナー)海軍法務官
民政長:O.Günther(ギュンター)青島民政長官
財政長:C.Knüppel(クニュッペル)海軍財政官
情報部通訳:J.Überschaar(ユーバシャール)予備陸軍中尉
同 上:F.Hack(ハック)予備陸軍中尉
第3海兵大隊長:Fr.von Kessinger(ケッシンガー)陸軍中佐
副官:W.Bringmann(ブリングマン)陸軍中尉
第1中隊長:G.Weckmann(ヴェックマン)陸軍大尉:右地区(第1歩兵堡塁=湛山堡塁)
第2中隊長:W.Lancelle(ランセル)陸軍大尉:中央地区(第4歩兵堡塁=台東鎮東堡塁)
第3中隊長:H.v.Wedel(ヴェーデル)陸軍少佐:左地区(第5歩兵堡塁=海岸堡塁)
第4中隊長:E.Perschmann(ペルシュマン)陸軍大尉:右地区(第1・第2歩兵堡塁
中間地区)
第5中隊長:E.Kleemann(クレーマン)陸軍騎兵少佐:中央地区(第3・第4歩兵堡
塁中間地区)
第6中隊長:C.Buttersack(ブッターザック)陸軍中尉:右地区(湛山堡塁)
第7中隊長:H.Schulz(シュルツ)陸軍大尉:右地区(第2歩兵堡塁=湛山北堡塁)と中央地区(第3歩兵堡塁=中央堡塁)
砲兵中隊長:S.v.Saldern(ザルデルン)海軍大尉:左地区
工兵中隊長:E.A.Sodan(ゾーダン)陸軍大尉:中央地区の第2・3歩兵堡塁中間地区
野戦砲兵隊長:W.Stecher(シュテッヒャー)陸軍大尉:中間掃射4砲兵陣地(鉄道列車上)
重野戦榴弾砲兵隊長:R.Boese(ベーゼ)陸軍中尉
自働短銃隊長:G.Charrière(シャリエール)陸軍中尉(後日、C.Krull(クルル中 尉)
機関銃隊長:Fr.F.v.Schlick(シュリック)陸軍中尉
海軍膠州砲兵隊長:G.Hass(ハス)海軍中佐
海正面司令官:H.Wittmann(ヴィットマン)海軍大尉
第1中隊長:H.Wittmann(ヴィットマン)海軍大尉(?)
第2中隊長:H.Kux(ククス)海軍大尉
第3中隊長:R.Duemmler(デュムラー)海軍大尉
第4中隊長: S.v.Saldern(ザルデルン)海軍大尉(兼任?)
第5中隊長:G.Griebel(グリーベル)海軍中尉
海軍東アジア分遣隊長:P.Kuhlo(クーロ)陸軍中佐
第1中隊長:Graf v.Hertzberg(ヘルツベルク伯爵)陸軍大尉 :左地区(第4・第5歩兵堡塁中間地区)
第2中隊長:O.Schaumburg(シャウムブルク)陸軍大尉:左地区(第6歩兵堡塁)
第3中隊長:H.v.Strantz(シュトランツ)陸軍大尉:第1中隊と同じ地区
動員国民軍指揮官:L.Wiegand(ヴィーガント)陸軍中尉
第1国民軍小隊長:H.Walter(ヴァルター)中尉補
第2国民軍小隊長:E.Lehmann(レーマン)中尉補
また、表1との関連で、日本の青島(せいとう)攻囲軍の陣容概略を表2として掲げる。表2:青島攻囲軍陣容(『大正三年 日獨戰史』附表1~3より)
独立第18師団
師団長:神尾光臣陸軍中将
参謀長:山梨半造陸軍少将
師団本隊
第1梯団長:長堀均陸軍歩兵大佐
第2梯団長:堀内文次郎陸軍少将
第3梯団長:野中光祥陸軍輺重兵中佐
山田支隊:山田良水陸軍少将
第1梯団長:松前定義陸軍歩兵大佐
第2梯団長:山田良水陸軍少将
第3梯団長:加藤豊三郎陸軍歩兵大佐
独立攻城重砲隊
司令官:渡辺岩之助陸軍少将
海軍重砲隊(3中隊、通信隊、担架隊、衛生隊、給養隊)
司令部指揮官:正木義太海軍中佐
参謀:江渡恭助海軍少佐
副官兼参謀:杉本幸雄海軍大尉
副官:福永恭助海軍中尉
編成部隊の概要
陸軍
独立第18師団(師団長神尾光臣陸軍中将)
歩兵第23旅団(旅団長堀内文次郎少将、歩兵第46連隊、歩兵第55連隊):右翼隊
歩兵第24旅団(旅団長山田良水少将、歩兵第48連隊、歩兵第56連隊):中央隊
歩兵第29旅団(旅団長浄法寺五郎少将、歩兵第34連隊、歩兵第67連隊):左翼隊
野砲兵第24連隊(2大隊で、1大隊は3中隊)
工兵第18大隊(2中隊)
航空隊
無線電信隊
師団輺重(輺重兵1大隊、衛生隊、野戦病院4)
野戦重砲兵第2連隊(6中隊)
野戦重砲兵第3連隊(4中隊)
独立攻城重砲兵第1大隊(3中隊)
同 第2大隊(2中隊)
同 第3大隊(3中隊)
同 第4大隊(3中隊)
同 中 隊
独立工兵 第4大隊(3中隊)
海軍
艦隊編成表
第1艦隊:司令長官: 加藤友三郎海軍中将
第1戦隊:摂津、河内、安芸、薩摩
第3戦隊:金剛、比叡、鞍馬、筑波
第5戦隊:矢矧、平戸、新高、笠置
第1水雷戦隊:音羽、第1、第2、第17駆逐隊
第2艦隊:司令長官:加藤定吉海軍中将
第2戦隊:周防、岩見、丹後、沖島、見島
第4戦隊:磐手、常磐、八雲
第6戦隊:千歳、千代田、秋津洲
第2水雷戦隊:利根、第9、第12、第13駆逐隊
特務艦:熊野丸、高千穂、松江
掃海隊:甲掃海隊(6隻)、乙掃海隊(7隻)
航空隊:若宮丸、飛行機4台
第3艦隊:司令長官:土屋光金海軍少将
対馬、淀、最上、嵯峨、宇治、隅田、鳥羽、伏見
4)階級は日独戦争終結時点でのものとし、下士卒の階級には海軍及び陸軍の呼称を省いた。階級名は、参考文献に掲げた諸官階表におおむね依拠した。
5)俘虜の多くは収容所の整理・統合等で、収容所替えを経験している。その場合は矢印→で移送先を示した。
なお、当初収容された収容所を俘虜番号順別に示すと、以下のようになる。
表3 1(Agethen,H.)~ 315(Zilosko,H.)… 東京(315名;但し、108の1名は青島で死亡)
316(Anders,E.)~ 852(Zoepke,G.)… 久留米(537名)
853(Adler,N.)~ 1702(Zschöckner,W.)… 福岡(850名)
1703(Ahe,E.v.d.)~ 1809(Zimmermann,W.)… 静岡(107名)
1810(Adamczewski,B.)~ 2133(Zimmermann,E.)… 丸亀(324名)
2134(Allenstein,O.)~ 2456(Zecha,J.)… 姫路(323名)
2457(Ahlers,L.)~ 2765(Zimmermann,H.)… 名古屋(309名)
2766(Abelein,G.)~ 3180(Zimmermann,K.)… 松山(415名)
3181(Alinge,K.)~ 3831(Zielaskiwitz,K.)… 熊本(651名)
3832(Artelt,M.)~ 4117(Ziolkowski,W.)… 大阪(286名)
4118(Auer,A.A.)~ 4323(Wieser,R.)… (大阪※→)徳島(206名)
4324(Altenbach,Th.)~ 4464(Zahn,H.)… (熊本※→)大分(141名)
4465(Anstoltz,Chr.)~ 4709(Walther,Hugo)… 大阪(245名;但し、4627の1名は青島俘虜収容所から逃走、4659から4664までの6名は青島およびその周辺で死亡、4665から4673までの9名は西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが宣誓解放され、4687の1名は大戦終結まで青島俘虜収容所に収容されたままであった)
その他上記に含まれないケース
4710(Strempel,Walter)… 久留米
4711(Morawek,Rudolf Edler v.)… 大阪
4712(Keining,Ernst)… 大阪
4713(Ivanoff,Valentin D.)… 大阪
4714(Wegner,Ferdinand)… 青野原
4715(Günther,Otto)… 板東
※(4週間前後のごく短期間)
各俘虜収容所の開所及び閉鎖時期と、俘虜収容所長を以下に表4及び表5として記す。開閉時期は、『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置竝獨國俘虜関係雑纂第一巻ノ一』(大正九年四月十三日 陸軍省飯田大尉報告※)に拠ったが、配列を開所順とし、開所が同日付けの場合は閉鎖順の配列にした。なお、ここでは文書通りに、大正の元号を使用した。
※俘虜送還委員会委員であった陸軍省軍務局課員飯田祥二郎陸軍歩兵大尉と思われる。
表4:俘虜収容所開閉一覧表
久留米:大正3年10月6日開始、大正9年3月12日閉鎖
熊本:大正3年11月11日開始、大正4年6月9日閉鎖(久留米へ移転)
東京:大正3年11月11日開始、大正4年9月7日閉鎖(習志野へ移転)
姫路:大正3年11月11日開始、大正4年9月20日閉鎖(青野原へ移転)
大阪:大正3年11月11日開始、大正6年2月19日閉鎖(似島へ移転)
丸亀:大正3年11月11日開始、大正6年4月21日閉鎖(板東へ移転)
松山:大正3年11月11日開始、大正6年4月23日閉鎖(板東へ移転)
福岡:大正3年11月11日開始、大正7年4月12日閉鎖(久留米、青野原、習志野等へ)
名古屋:大正3年11月11日開始、大正9年4月1日閉鎖
徳島:大正3年12月3日開始、大正6年4月9日閉鎖(板東へ移転)
静岡:大正3年12月3日開始、大正7年8月25日閉鎖(習志野へ移転)
大分:大正3年12月3日開始、大正7年8月25日閉鎖(習志野へ移転)
習志野:大正4年9月7日開始、大正9年4月1日閉鎖
青野原:大正4年9月20日開始、大正9年4月1日閉鎖
似島:大正6年2月19日開始、大正9年4月1日閉鎖
板東:大正6年4月9日開始、大正9年4月1日閉鎖
開設時期が遅れたために、徳島俘虜収容所に収容予定の俘虜は、大阪俘虜収容所に4週間ほど収容されていた。大分俘虜収容所の開設も同様で、俘虜は当初熊本俘虜収容所に収容された。静岡俘虜収容所に収容された俘虜の大多数(ごく少数が大阪から移送)は、12月8日に宇品港に到着した。
表5:俘虜収容所長一覧表
久留米俘虜収容所長:歩兵第48連隊附歩兵少佐 樫村弘道、後に真崎甚三郎歩兵中佐、その後林銑十郎歩兵中佐、高島巳作歩兵中佐、渡辺保治工兵大佐
熊本俘虜収容所長:歩兵第13連隊大隊長歩兵少佐 松木直亮
東京俘虜収容所長:歩兵第1連隊附歩兵中佐侯爵 西郷寅太郎
姫路俘虜収容所長:歩兵第10連隊附歩兵中佐 野口猪雄次
大阪俘虜収容所長:歩兵第37連隊附歩兵中佐 菅沼來
丸亀俘虜収容所長:歩兵第12連隊附歩兵中佐 石井彌四郎(後に大佐)、後に納富廣次歩兵少佐(後に中佐)
松山俘虜収容所長:歩兵第22連隊附歩兵中佐 前川譲吉
福岡俘虜収容所長:歩兵第24連隊附歩兵中佐 久山又三郎、後に白石通則歩兵大佐、江口鎮白砲兵中佐
名古屋俘虜収容所長:歩兵第33連隊附歩兵中佐 林田一郎、後に中島銑之助歩兵大佐
徳島俘虜収容所長:歩兵第62連隊附歩兵中佐 松江豊寿
静岡俘虜収容所長:歩兵第34連隊附歩兵少佐 蓮實鐡太郎、後に嘉悦敏騎兵大佐
大分俘虜収容所長:歩兵第72連隊附歩兵中佐 鹿取彦猪、後に西尾赳夫中佐
習志野俘虜収容所長:西郷寅太郎中佐(後に大佐)、後に山崎友造砲兵大佐(後に少将)
青野原俘虜収容所長:野口猪雄次中佐(後に大佐)、後に宮本秀一歩兵中佐
似島俘虜収容所長:菅沼來中佐(後に大佐)
板東俘虜収容所長:松江豊寿中佐(後に大佐)
( )内で「後に大佐」等と記した場合は、俘虜収容所長在任中での昇進を意味する。
A)俘虜番号を付された俘虜総数:4715名
B)青島及びその周辺で死亡した俘虜数:7名
C)大戦終結まで青島俘虜収容所に収容された俘虜数:1名
D)青島俘虜収容所から逃亡した俘虜数:1名
E)南洋群島のヤップ島で宣誓解放された俘虜数:9名
F)南洋群島から日本の俘虜収容所に移送された俘虜数:5名
G)日本国内等(横浜、門司、長崎、奉天)で俘虜となった俘虜数※:4名
H)青島から日本へ移送された俘虜数:4688名(A-(B+C+D+E+F+G)=4688)
I)日本各地の俘虜収容所に収容された俘虜数:4697名(F+G+H=4697)
J)日本の俘虜収容所から海外へ逃亡した俘虜数:5名
K)日本の俘虜収容所に収容後釈放された俘虜数:1名
L)日本の俘虜収容所に収容中に死亡した俘虜数:87名(内、自殺した俘虜数:2名):習志野(31名)、名古屋(12名)、久留米(11名)、似島(9名)、板東(9名)、青野原(6名)、大分(2名)、福岡(2名)、大阪(1名)、熊本(1名)、静岡(1名)、松山(1名)、丸亀(1名);各収容所名の後の( )内の数字は、板東俘虜収容所跡に昭和51年11月14日建立された、日本における戦没ドイツ兵士合同慰霊碑の名簿による。またこれは各俘虜収容所管轄俘虜による数字で、必ずしも死亡地を示すものではない。
※『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』(防衛研究所図書館所蔵)中の「獨逸及墺洪国俘虜捕獲及内地後送對照表」の「第三、其ノ他ノ俘虜」に拠る。
[日本国内から応召して青島に赴いたドイツ人数:118名(Kurt Meissner《Deutsche in Japan 1639-1939》101頁より)]
表7:大戦終結後の俘虜の動向
大正7年(1918 年)12月付けの『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂』「第十九巻俘虜解放及送還ニ関スル件八」による俘虜の大戦終結後の動向を以下に記す。なお、これは上記資料の附表「第十二表」によるもので、それには「大正八年」の年号が記されている。この一覧表でもなお未定者の欄がある。
表番号
1)日本内地有職者136名(未確定者:17);内訳:青野原:8(1)、板東:50(5)、久留米:26(3)、習志野:22(1)、名古屋:20(1)、似島:16
2)青島有職者56名(2);内訳:青野原:1、板東:22、久留米:4、名古屋:5(1)、習志野:4、似島:18(1)
3)日本内地自活者23名;内訳:板東:11、名古屋:4(1)、習志野:5、似島:3
4)青島自活者26名;内訳:青野原:2、久留米:2、習志野:3、似島:19
5)日本ヨリ自費旅行者17名;内訳:板東:5、久留米:2、名古屋:4、習志野:6
6)日本内地ニテ帰休後日本ヨリ送還67名(2);内訳:青野原:1、板東:32(2)、
久留米:9、名古屋:2、習志野:16、似島:7
7)解放後青島ニ渡航シ同国ヨリ本国送還ニ加ワラント欲スルモノ101名(7);内訳:青野原:5、板東:25(7)、久留米:16、名古屋:2、習志野:11、似島:42
8)解放後支那ニ渡航シ同地ヨリ本国送還ニ加ワラント欲スルモノ107名;内訳:青野原:4、板東:29(6)、久留米:21、名古屋:7、習志野:14、似島:32
9)解放後支那ニ渡航シ本国送還ニ加ワラザルモノ108名;内訳:青野原:5、板東:43(4)、久留米:22(7)、名古屋:11(3)、習志野:22(4)、似島:5
10)和蘭政庁有職者151;内訳:青野原:13、板東:70、久留米:39、名古屋:15、習志野:4、似島:10
11)蘭領東印度有職者105名;内訳:板東:67(24)、久留米:11(8)、名古屋:1、習志野:11(4)、似島:15(11)
6)単独自費デ獨逸ヘ帰還スル者:1名:久留米(1)
6)年号は原則として西暦を用いた。
7)注で触れている人名・事項等は太字とした。さらに注の各項目末尾には、当該個所が判りやすいように矢印(→)で通し番号を示した。なお、注における人物紹介にあたっては、当時の状況等との関連及び理解のために、かなりの字数を用いた場合がある。
8)出典、参考文献を記した場合、及び関連参考事項等は【 】で示した。俘虜の事績・足跡等の記述に当たって参考とした文献は本資料末尾に記したが、概要の中で該当文献及びその個所を、必ずしも全てに亘って明示しているものではない。一つの文献だけに依拠した訳ではなく、場合によっては相当数の文献からの抽出であり、また煩雑さを避けることも考慮した。しかし、明らかなる引用(その場合は「」で括ってある)の場合は明示した。
9)概要の中には、中国の地名が多く出てくることから、資料末尾に関連図を5葉及び、日本の16ヶ所の俘虜収容所所在地図を掲げた。
表9 歴代膠州総督
初代総督 カール・ローゼンダール(Karl Rosendahl,1852-1917)
第二代総督 パウル・イエシュケ(Paul Jaeschke,1851-1901)
第三代総督 オスカル・フォン・トゥルッペル(Oskar von Truppel,1854-1931)
第四代総督 アルフレート・マイアー=ヴァルデック(Alfred Meyer-Waldeck,1864-1928)
表10 歴代青島守備軍司令官
初代司令官 神尾光臣(1855-1927;安政2年~昭和2年):大正3年11月26日司
令官に就任。
第二代司令官 大谷喜久蔵(1855-1923;安政2年~大正12年):大正4年5月4日司令官に就任。
第三代司令官 本郷房太郎(1860-1931;万延元年~昭和6年):大正6年8月6日司令官に就任。
第四代司令官 大島健一(1858-1947;安政5年~昭和22年):大正7年10月10日司令官に就任。
第五代司令官 由比光衛(1860-1925;万延元年~大正14年):大正8年6月28日司令官に就任。
青島ドイツ軍俘虜概要
通し番号) 姓(フリガナ) 名前等 (生没年):所属部隊・階級 〔日独戦争での任務・守備位置〕[前職] 事績・足跡等 出身地「出生地・帰還地」(俘虜番号・俘虜収容所)
1) Abele(アーベレ),Karl(1892-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。解放されて帰国後の4月15日、郷里のアムベルクの両親の元へ戻ったが、6月25日ミュンヘン、7月6日にギーセン、1912年4月20日にレーゲンスブルクに移った。上部プファルツのアムベルク(Amberg)出身。(3833:大阪→似島)
2) Abelein(アーベライン),Georg(1892-1966):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代、山越(やまごえ)の収容所講習会でフランス語の講師を務めた【冨田『板東俘虜収容所 -日独戦争と在日ドイツ俘虜』235頁】。板東では劇場委員会に属した。ヴュルテンベルクのクライルスハイム(Crailsheim)出身。(2766:松山→板東)
3) Ackenhausen(アッケンハウゼン),Wilhelm(?-?):国民軍・軍曹。[巡査]。青島時代はテティス街(Thetisstraße)に住んでいた。妻ヘンリエッテ(Henriette)と二人の子供(内一人は12歳以上の娘)は大戦終結まで上海で暮らした【『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置並獨國俘虜関係雑纂第十巻 在本邦俘虜ノ家族取締ニ関スル件』より。以下、妻子に関する事項はこの資料による】。ブラウンシュヴァイクのシェーニンゲン(Schönigen)出身。(4469:大阪→似島)
4) Ackermann(アッカーマン),Eduard(?-?):国民軍・上等兵。[植字工]。青島時代はベルリン街(Berlinerstraße;日本による占領統治時代は麻布町)に住んでいた。妻クラーラ(Clara)は大戦終結まで上海で暮らした。解放後、上海の商業新聞の仕事に就いた。ハンブルク出身。(2135:姫路→青野原)
5) Adamczewski(アダムチェフスキー),Dr. Boleslau(1885-1962):第3海兵大隊第7中隊・予備陸軍少尉。[エーラース商会(Ehlers & Co.)上海支店]。父親はポーゼン出身の仕立て職マイスターで、9人兄弟で生まれた。化学を勉強し、1911年にハイデルベルク大学で学位を取得した。1914年の大戦勃発まで、上海のエーラース商会に勤めた。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツの俘虜将校7名と収容所員10名の計17名の集合写真である。アダムチェフスキー少尉は、中列向かって左から二人目である【〔写真1〕参照。撮影時期は、後列に写っている里見金二陸軍中尉が、歩兵第12連隊から丸亀俘虜収容所に着任した1916年(大正5年)3月9日から、石井所長の離任の日である同年4月14日の間と考えられる。『丸亀俘虜収容所日誌』には、4月14日の石井所長離任に際して俘虜将校等に告別の辞を述べ、また将校等俘虜の写真を撮った、との記述がある。それ以前には写真撮影の記述は見当たらない。なお、注4)を参照】。1916年10月4日、ランセル(Lancelle)大尉、ラミーン(Ramin)中尉、シュリーカー(Schliecker)中尉、フェッター(Vetter)中尉、シェーンベルク(Schönberg)少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。解放後の1920年上海に戻り、エーラース商会の技術部主任を務めた。ゼルマ(Selma Szebrat)と結婚して息子二人をもうけた。1938年、家族はドイツに帰り、アダムチェフスキーも1941年にシベリア鉄道で本国に戻った【在ドイツの俘虜研究家ハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏のホームページ(www.tsingtau.info)より。以下、同ホームページからの情報は、「シュミット」とのみ記す】。。マンハイム出身。(1810:丸亀→大分→習志野)
6) Adamzek(アダムツェク),Franz(?-?):オーストリア=ハンガリー帝国2等巡洋艦皇后エリーザベト(Kaiserin Elisabeth)乗員・2等水兵。久留米時代の1916年秋、アダムツェクがカルブルンナー(Kalbrunner)とともに写っているバーラウフ競技(陣取りゲーム)チームを写した写真が、『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)100頁に掲載されている。また演劇活動では、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』に出演した【津村「久留米俘虜収容所における演劇活動(1)」37-43頁。以下、久留米の演劇活動に関する事項は、同論文に依拠するものである】。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。ハンガリーのサバトゥカ(Szabatka)出身。(3193:熊本→久留米→習志野)
7) Adler(アードラー),August(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[建築家]。丸亀時代の1917年1月9日から3月27日まで、ノイマン(Max Neumann)とともに俘虜傭役で香川県立工芸学校に勤務した。労役賃金は一日30銭で、内2割の6銭は軍資金歳入に納付し、手取り24銭を得た。これは丸亀収容所における唯一の労役事例である。板東時代、1918年3月8日から19日にかけて公会堂で開催された工芸品展に、ジュレ(Syré)と共同で縮尺25分の1の橋を制作・出品した【『ディ・バラッケ』(以下、『バラッケ』と略記する)第1巻335頁】。また、グリル(Grill)によって製作・印刷された収容所紙幣の原型を作った。カールスルーエ出身。(1818:丸亀→板東)
8) Adler(アードラー),Nicolaus(1890-1969):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1920年郷里のゲルンスハイムに戻って結婚、子供二人をもうけた【「シュミット」】。ゲルンスハイム(Gernsheim)出身。(853:福岡→習志野)
9) Agethen(アゲーテン),Heinrich(?-1919):海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等歩兵。1919年2月1日、スペイン風邪により習志野で死亡。ライン河畔のエンガース(Engers)出身。(1:東京→習志野)
10) Ahl(アール),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。1914年9月23日、青島北方の流亭で俘虜となった【日本軍の傷病兵と一緒に病院船博愛丸で、9月30日に門司に送られ、鉄道で久留米に送られたものと思われる。負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された】。1915年10月2日、ルント(Lund)、ジン(Sinn)、ツェルナー(Zoellner)の4名で脱走したが3名は同日捕まり、ジンも5日に捕まった。1919年10月21日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅高跳び Bクラス」で、高さ1.50m、幅2.80m 接触で1位になった。ヴェストファーレンのヘルデ(Hoerde)出身。(323:久留米)
11) Ahlers(アーラース),Heinrich(?-?):青島船渠・上等兵。[船大工マイスター]。妻アンナ(Anna)と娘オルガ(Olga;1908-?)は大戦中も青島に留まった。1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された、似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のために発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」【〔図1〕参照】の27頁には、アーラースの写真スタジオのスケッチが掲載された。解放後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より。以下、日本国内での解放を記述したものはこの書類による】。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4468:大阪→似島)
12) Ahlers(アーラース),Leonhard(1869-1941):第3海兵大隊参謀本部先任参謀・退役陸軍大尉。[クルップ鉄鋼会社北京支社顧問]。父親は大商人レオンハルト・アーラース(Leonhard Ahlers)だった。1889年3月28日、ヴュルテンベルク公国徒歩砲兵第13大隊に入隊した。1890年9月同上第2少尉、1897年5月同第1少尉、1897年9月25日アグネス・ヒンツェ(Agnes Hintze)と結婚、娘一人をもうけた。 1899年1月27日同中尉、1902年6月19日退役した。1902年7月第2後備中尉、1902年11月14日 エッセンのクルップに入った。1906年12月15日 退役陸軍大尉、1907年クルップ砲の売り込み等のために中国へ派遣された。1911年蘭領印度滞在、1914年1月1日 クルップ社北京支社顧問。ローマン(Lohmann)の遺品中には、アーラース、ローマン及びシュテーゲマン(Stegemann)の三人が屋外でトランプをする風景写真が遺されている【ローマンの項参照】。1914年(大正大三年)12月10日付けの新聞『新愛知』には、アーラース、ケーニヒ(Leo König)、ライマース(Otto Reimers)及び少年兵ビーン(Ludwig Bien)の四人の写真が掲載された。ビーンを除く三人は日本語通とされている。1915年1月15日の雪の日の朝、林田一郎名古屋俘虜収容所長、中村明人中尉他の総勢9名の日本人所員が写っている写真が現存している。写真の枠にはアーラース大尉のものと思われる署名が記されている。大戦終結してドイツに帰国後再びクルップ社に戻った。1920年12月陸軍少佐,1929年1月11日、クルップ社取締役就任、1934年に年金生活に入った。エルベ河畔のダンネンベルク(Dannenberg)出身。(2457:名古屋)
13) Ahrens(アーレンス),Heinrich(1893-?):砲艦ヤーグアル(Jaguar)乗員・2等機関兵曹。解放後の1920年、蘭領印度に渡った【シュミット】。ブレーマーフェルデ(Bremervörde)郡のゼルジンゲン(Selsingen)出身。(5:東京→習志野)
14) Ahrens(アーレンス),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[建設業;H.アーレンス商会経営]。青島時代はダンチヒ街(Danzigerstraße;日本による占領統治時代は比治山町)に住んでいた。丸亀時代の1915年3月17日、大連の菅原工務所有賀定吉が面会に訪れ、アーレンスの妻からの託送品(夏服、夏肌着、靴下等)を差し入れた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代の1919年8月31日、収容所の北外れに落成した「ドイツ兵墓碑」の施工を担当した。妻エルゼ(Else)は息子二人と娘二人の四人の子供ともに、夫の解放まで青島で暮らした。大戦終結して解放後は青島に戻り建設会社を再興した。長女のヘレーネ(Helene)は、1914年にカール・ヴィルデ(Carl Wilde)と婚姻届を青島の役所に届けていたが、1920年5月21日にリヒャルト・ヴィルヘルムの司式で正式な結婚式を挙げた。それはヴィルヘルムが執り行った青島での最後の結婚式であった。アルトナ(Altona)出身。(1815:丸亀→板東)
15) Ahrens(アーレンス),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。青島時代はダンチヒ街に住んでいた。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放され、青島のH.アーレンス商会に勤めた。上記H.アーレンスの身内と思われる。アルトナ出身。(1816:丸亀→板東)
16) Ahrens(アーレンス),Wilhelm(1891-1964):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。ハールツ山麓のブランケンブルク(Blankenburg)(2463:名古屋)
17) Albers(アルバース),Carl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。上海から応召。ギムボルン(Gimborn)とは上海時代からの知己である。丸亀時代の1916年10月16日、クラウスニツァー(Claussnitzer)、デーゼブロック(Desebrock)及びヒンツ(Hinz)の四人で相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東収容所での、大規模な健康保険組合のモデルとなった【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』(Ulrike Klein:Deutsche Kriegsgefangene in japanischem Gewahrsam 1914-1920 Ein Sonderfall)109頁】。板東時代も収容所保険組合の設立に幹事として加わり、後にデーゼブロックが第2中隊代表理事を務めたのに対して、アルバースは第7中隊代表理事を務めた。ハンブルク出身。(1817:丸亀→板東)
18) Albrecht(アルブレヒト),Fritz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備伍長。青島時代は市内中心、青島市内でも随一の住宅街であったフリードリヒ街(Friedrichstraße;日本による占領・統治時代は静岡町)に住んでいた。丸亀時代の1914年12月16日、青島のティルピッツ街(Tirpitzstraße;日本による占領統治時代は忠海町)4番地に住むバッセ(Louis Basse)に宛てて、クリスマスと新年の挨拶状を出した。文面は「親愛なるバッセ並びにご家族様。楽しいクリスマスと喜ばしき新年を迎えられますよう。フリッツ・アルブレヒト」である。収容所員福島格次大尉を示す福島印が押されている【高松市在住の郵趣家三木充氏の所蔵品より】。板東時代、収容所で通訳の任にも当っていた高木繁大尉事務室の書記を務め、面会人がある時は高木大尉とともに立ち会った。アイゼナハ出身。(1814:丸亀→板東)
19) Albrecht(アルブレヒト), Fritz H. R.(1893-1966):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。[商人]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。第二次大戦後、「チンタオ戦友会」の代表を務めたこともあった。マグデブルク出身。(854:福岡→習志野)
20) Albrecht(アルブレヒト),Hans(?-?):第3海兵大隊第3中隊・後備上等歩兵。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ロストック出身。(4466:大阪→似島)
21) Albus(アルブス),Karl(1892-1954):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。帰国後、鍛冶職人として働いたが、30年代に郷里の町の町長になった。ヘッセンのボーベンハウゼン(Bobenhausen)出身。(2465:名古屋)
22) Alester(アレスター),August(?-?):守備隊本部・軍曹。[守備隊兵営監守]。松山時代(大林寺収容)の1916年6月20日、妻から届いた書籍に秘密の通信があることが発覚した。その方法は、信書を頁の間に挟んで貼り合わせたものだった。妻エンマ(Emma)は大戦終結まで青島に留まった大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンのゴルダプ(Goldap)出身。(2776:松山→板東)
23) Alfes(アルフェス),Gottfried(1893-1980):第3海兵大隊第3中隊・予備伍長。[上海のエーロス(A.Elos)商会]。解放後は、蘭領印度に渡ってバタビアの商会(Erdmann & Sielcken)に勤務した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。ブレーメン出身。(318:久留米)
24) Alinge(アーリンゲ),Kurt(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、クライスト作の喜劇『壊れ甕』等8演目に出演した1919年12月に日本国内で解放され、横浜の商社「中国・アメリカ貿易」に勤務したが、その後天津に渡り、更にその後ハンブルクの商船船長になった。ツィッタウ(Zittau)出身。(3181:熊本→久留米)
25) Alsleben(アルスレーベン),Gustav(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海のスレフォークト商会(Slevogt & Co.)]【板東収容所俘虜に関する前職・前勤務先の記述並びに注は、『板東収容所俘虜故国住所録』(Heimatsadressen der Kriegsgefangenen im Lager Bando,Japan)、『青島経済事情』、『青島研究資料』及び『近代中国専名翻訳詞典』による】。ヴィルヘルム・メラー(Wilhelm Meller)の1919年12月24日のクリスマスイヴの日の日記には、「今夜は部屋の静かな片隅で、ハリー・メラー(Harry Möller)とグスタフ・アルスレーベン(Gustav Alsleben)の三人で、メラー(Möller)のウサギを食べる」との記述がある【アードルフ・メラー『第一次大戦時の青島守備軍の運命』(Adolf Meller:Das Schicksal der Verteidiger von Tsingtau im Ersten Weltkrieg.Aus dem Nachlaß meines Vaters)67頁】。ウンシュトルート(Unstrut)河畔のフライブルク(Freyburg)出身。(2769:松山→板東)
26) Alt(アルト),Carl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本で解放された。ヴェーザー河畔のレーア(Lehr)出身。(4326:「熊本→」大分→習志野)
27) Alt(アルト),Karl Otto Kurt(1894-1975):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1920年郷里に戻り、1926年に最初の結婚をし、1955年グライツ(Greiz)で二度目の結婚をし、1975年グライツで没した【シュミット】。2005年9月30日、曾孫に当るイェルク・ヒュースマン(Jörg Huesmann)氏がシュミット氏のホームページの「訪問者欄」に、曽祖父のチンタオでの足跡を調べていたところ、上述のホームページに辿りついた旨の書き込みをした。テューリンゲン地方のフレムシュテット(Frömmstedt)出身。(2464:名古屋)
28) Altmann(アルトマン),Max(?-?):海軍野戦砲兵隊・副曹長。ローマン(Lohmann)の遺品中に、アルトマン、ローマン及びツィンク(Zinck)の三人が名古屋収容所の建物の窓辺で撮った写真が現存している【ローマンの項参照】。ゲルリッツ(Görlitz)出身。(2459:名古屋)
29) Aly(アリー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[カルロヴィッツ(Carlowitz & Co.)商会天津支店]。ライプチヒ出身。(1813:丸亀→板東)
30) Anders(アンデルス),Ernst(1869-?):第3海兵大隊参謀本部・陸軍歩兵少佐。〔外方陣地部隊右翼陣地指揮官〕。1888年4月陸軍に入隊し、1889年9月歩兵少尉、1897年4月中尉、1902年9月大尉に昇進した。海軍歩兵に移籍し、1913年2月18日少佐に昇進した。日独戦争では独軍の主力部隊であるアンデルス支隊を率いて、日本軍の前線部隊と激しい戦闘を繰り広げた。青島時代はキリスト小路(Christweg)に住んでいた。11月19日、久留米から青島の堀内文次郎少将に宛てて、青島での配慮に対する感謝の言葉とともに、久留米収容所での厳しい監視・管理に耐えなければならないことを記した書簡を送った。文面最後の発信地としては、久留米の「第3海兵大隊本部にて」と記されている【堀内『青島攻囲陣中記』155頁】。久留米俘虜収容所の先任将校だった。1915年11月15日に起こった真崎甚三郎所長によるベーゼ(Boese)、フローリアン(Florian)両中尉殴打事件では、俘虜の虐待を禁じたハーグ条約を根拠に真崎所長の行為に激しく抗議し、米国大使館員の派遣を要求した。会談にはスクリバ(Scriba)予備少尉とフォークト(Vogt)予備少尉が、日本の事情通として同席した。1917年2月3日、俘虜将校を代表して情報局へ信書の発送を願い出た。支給される俸給と自己貯蓄の取り崩しでは、特に中尉、少尉の生活に困窮を来たしてきたためであった。本国からの補填を申請するため、青島陥落前に上海に逃れたクルーゼン青島高等判事に信書を出したいと願い出たが却下された。1920年1月30日(1918年4月18日辞令)中佐に昇進し、1920年3月9日帝国陸軍へ移籍。ベルリンのグロース=リヒターフェルデ(Gross-Lichterfelde)出身。(316:久留米)
31) Andrae(アンドレ),Hans(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。[アーレンス継続社(H.Ahrens & Co.Nchf.)横浜支店]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では横浜)。(1811:丸亀→板東)
32) Andrea(アンドレーア),Willy(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代の1917年1月28日、横領によりカロルチャク(Karolczak)等の18人から袋叩きにあって負傷した。2月9日横領罪で懲役4月に処せられて、福岡監獄に収監された。なお、18人の内5人が傷害罪で懲役2月、13人が重営倉1月の処罰を受けた【『久留米俘虜収容所』(久留米市教育委員会)28頁】。キール出身。(3191:熊本→久留米)
33) Andreas(アンドレーアス),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[アーレンス継続社横浜支店]。松山時代、大林寺の収容所講習会で日本語の講師を務めた。マイン河畔のフランクフルト出身。(2771:松山→板東)
34) Andrée(アンドレー),Johannes(1883-?):海軍砲兵中隊・海軍大尉。1901年4月海軍へ入隊し、1904年9月海軍少尉、1907年3月海軍中尉、1912年4月海軍大尉に昇進した。砲艦イルチスの1等将校。1914年9月海軍膠州砲兵隊へ移籍。1914年12月1日付け「九州日日新聞」の記事によると、ジーメンス=シュッケルト社のドレンクハーンからアンドレー大尉宛てに、将校下士用として毎日パンを送る、12月からは毎週各種バター、マーガリンを送るが、これは日本及び中国在住のドイツ人の寄贈である。将校には葉巻煙草、コーヒー、茶、ハム、ぶどう酒、ラム酒、火酒を送るが、これらは平和克復後に代金を返して貰う、書籍もお金も要求次第送るとの通知があった【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787頁】。1920年6月(1920年3月20日発令)海軍少佐となり、1920年9月10日退役した。ハノーファー出身。(3187:熊本→久留米)
35) Andrezejewski(アンドレツェイエフスキー),Johann(?-?):第3海兵大隊・工兵中隊・2等工兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した【以下、「エンゲル・オーケストラ」に関する記述は、『エンゲル・オーケストラ その生成と発展1915-1919』に依拠する】。ベルゲ(Berge)山麓のノイドルフ(Neudorf)出身。(2774:松山→板東)
36) Anemüller(アネミュラー),Hugo(1892-1969):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡って、ジャワ島西部のバタビア新市街のヴェルテフレーデン(Weltevreden)に住んだ【シュミット】。ザクセン=マイニンゲン(Sachsen-Meiningen)のガルンスドルフ(Garnsdorf)出身。(320:久留米→板東)
37) Angerstein(アンゲルシュタイン),Max(?-?):国民軍・後備伍長。[数学教師]。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenloheweg;日本による占領・統治時代は治徳通)に住んでいた。妻と二人の子どもは大戦終結まで上海で暮らした。ヘッセン=ナッサウのディレンブルク(Dillenburg)出身。(2775:松山→板東)
38) Ankersen(アンケルゼン),Klaus Peter(1887-1926):海軍砲兵中隊・2等機関兵曹。解放されて帰国後の1923年3月28日、カローラ(Karola Adele Henriette Jacobsen)と結婚した。ベルリンで没した。レンツブルク(Rendsburg)出身。(4:東京→習志野)
39) Anschütz(アンシュッツ),Max(1892-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等焚火兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。テューリンゲンのゾンネンベルク(Sonnenberg)出身。(8:東京→習志野)
40) Antoschowitz(アントショヴィッツ),Theodor(?-?):所属部隊不明・伍長。[巡査]。青島時代はダンチヒ街に住んでいた。妻は大戦終結まで青島に留まった。『大阪朝日新聞』(大正4年5月19日付け)は、アントショヴィッツに関して次のように報じた【大阪収容所へ護送さるゝ青島の俘虜が又三名十八日正午臺北丸にて寄港午後四時半宇品に向かった。其の中のアントシュミツツと云ふ四十ばかりの壯漢は獨逸探偵長として重視せられ能く其の技を發揮し青島にあること既に十七年専ら其の職に努め日本及び支那語熟達し且日支の事情に詳しく支那の兇漢悪徒の仲間に於て其の面を利かし居たり。又寫眞術にも上達し居り日獨戰争前に青島の要塞や各部を悉く撮影して居たので之を取調べる爲に今迄青島に残されて居たのである(門司電話)】。大阪時代の1915年9月9日、真田山陸軍墓地で執り行われたヘルマン・ゴル(Hermann Goll)の葬儀では喪主役を務めた。また大阪時代にはヒンナイ(Hinney)と共に『大阪俘虜収容所新聞』(Die Osakaer Lager-Zeitung)の編集人を務めた。妻エンマ(Emma)は大戦終結まで娘(12歳以下)と二人青島に留まった。上部シュレージエンのノイシュタット(Neustadt)出身。(4623:大阪→似島)
41) Apel(アーペル),Adolf Waldemar(?-?):第2船渠部隊・予備1等焚火兵。青島時代はイレーネ街(Irenestraße;日本による占領・統治時代は久留米町)に住んでいた。似島時代の1919年1月26日、広島高等師範学校の運動場で、似島収容所の俘虜と高等師範学校、県師範学校、付属中、一中とのサッカー交歓試合が行われた。この試合にアーペルが出場したと思われる。当時付属中の生徒でサッカーに出場した茂森薫の次の証言が残されている。「アッペルという常駐通訳官が居た。(中略)或る日彼の素性を聞いたところ、横浜で生まれ、三十年前(大正三年)の第一次欧州大戦のとき召集され、青島で日本軍と戦ったが俘虜となり、広島の似島に収容されたという。そして曰く、当時最も楽しかったことはコウシ[高師]のグランドでやる蹴球だったという。」【『広島大学付属中・高八十年史 上巻』281頁】。また3月には、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、運営本部の一員として出納係りを務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、広島の広島電気機械会社に雇用された。アイゼナハ出身。(4624:大阪→似島)
42) Apitz(アーピッツ),Emil(?-?):海軍第1水兵団第9中隊測量船第3号・1等測量手。1914年10月19日、東カロリン群島のトラック島で俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた【『欧受大日記』(大正4年11月上)より】。ブランデンブルク出身。(324:久留米)
43) Arnold(アルノルト),Alfred(1888-?):海軍膠州砲兵隊・予備1等砲兵。[商会雇員]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡り、バンドンでアルノルト商会(Arnoldt & Co.)を営んだ。ザールフェルト出身。(857:福岡→大阪→似島)
44) Arnold(アルノルト),Wilhelm(1896(?)-1958):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。ザクセンのオシャッツ(Oschatz)出身。(1705:静岡→習志野)
45) Arnstadt(アルンシュタット),Walter(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エアフルト郡のダハヴィッヒ(Dachwig)出身。(3837:大阪→似島)
46) Arps(アルプス),Ernst(1881-1968):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。〔湛山堡塁(第1歩兵堡塁)〕。[天津ドイツ中学校教師]。松山時代、公会堂の日曜講演会で「ピン・シアン」と題して二度講演した。板東時代は、1918年春のテニス・トーナメントのダブルス(ハンディ付き)で、ティース(Thies)上等歩兵と組んでAクラス2位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。板東テニス協会の記録係を務めた。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒのエケニス(Ekenis)出身。(2767:松山→板東)
47) Arps(アルプス),Wilhelm(1881-1968):第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[天津ドイツ中学校教師]。板東時代、板東ホッケー協会のコート係を務めた。【二人のアルプスを区別するために、前者はアルプスⅡ、後者はアルプスⅠと通称された】。ハンブルク出身。(2768:松山→板東)
48) Artelt(アルテルト),Max(1873-?):海軍膠州砲兵隊・海軍大主計(大尉相当)。〔総督府参謀本部〕。1891年10月海軍に入隊し、1902年4月少主計、1904年5月中主計、1913年4月に大主計に昇進した。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenloheweg)に住んでいた。青島からの俘虜輸送船大通丸乗っ取りを計画したが断念した。大阪所時代の1915年9月4日、調達した和服を纏って人力車で大阪駅に向かい、電車で神戸に行き旅館で一泊、翌5日下関から釜山行きの連絡船に乗船する際に逮捕され、禁錮4ヶ月の処罰を受けた。後に再び、エステラー(Esterer)、モーラヴェク(Morawek)及びシャウムブルク(Schaumburg)と共謀して脱走を企て頓挫し、彼を除く三人は1ヶ月の処罰を受けた。更に似島俘虜収容所に移ってからもこの4人は脱走を企てが、露見・逮捕され、アルテルトとエステラーは3年、モーラヴェクとシャウムブルクは2年半の刑を受けた。日独講和を受けての特赦で釈放された1920年1月15日まで、広島の吉島刑務所に服役した。妻と四人の子供は大戦中上海で暮らした。ドイツの資料で彼は「脱走王」の異名を付けられた。大戦終結して帰国後、引き続きドイツ海軍に属した。1940年から1942年まで海軍大尉として、北海ドイツ海軍基地中央資料室長を務めた。カーラウ(Kahlau)郡ゼンフテンベルク(Senftenberg)出身。(3832:大阪→似島)
49) Ascher(アシャー),Max S.(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をカロルチャク(Karolczak)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った【以下、蘭領印度に渡ったことを示す記述は、ジャカルタで発行された『ドイツの守り』(Deutsche Wacht)の1922年第5号記載の蘭領印度におけるかつてのチンタオ戦士、及び日本の収容所俘虜の名簿による】。ベルリン出身。(3190:熊本→久留米)
50) Aspeck(アスペック),Rupert(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・伍長。熊本時代の1915年2月28日、それまで妙永寺に収容されていたが、同寺の水兵・古参下士との間で軋轢があり、フラヴィツァ(Hlavica)及びラーツェンベルガー(Razenberger)とともに、細工町阿弥陀寺に移された。久留米時代は収容所の音楽活動で、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、弦楽四重奏曲等でヴァイオリンを弾いた【『久留米俘虜収容所 1914~1920』44頁等】。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の1919年3月30日と4月1日の収容所楽団第4回コンサートでは、モーツァルトの「魔笛」等を指揮し、また同年10月5日、マルフケ(Marufke)のために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第一部でドヴォルザークの「ユモレスク」等をピアノ演奏した。グラーツ出身。(3192:熊本→久留米→習志野)
51) Assing(アッシング),Max(1886-1949):国民軍・上等歩兵。ライプチヒ出身。(2136:姫路→青野原)
52) Auberle(アウベルレ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門で、鉱物・岩石の標本収集を出品した。バーデンのフルトヴァンゲン(Furtwangen)出身。(3835:大阪→似島)
53) Auer(アウアー),Alois A.(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、ピータック(Pietack)、ラングロック(Langrock)及びケラー(Keller)と筆耕係で協力した。1916年1月1日付けの『徳島新報』第2巻第15号によれば、アウアーはルートヴィヒ・トーマ作のクリスマス劇で、大尉役を演じた。ミュンヘン出身。(4118:「大阪→」徳島→板東)
54) Auer(アウアー),Johann(1887-1952):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[朝鮮ソウル・聖ベネディクト修道院(Abtei St.Benedikt O.S.B.,Soeul,Korea)]。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放されたが、やがて朝鮮に再び渡った。1952年4月4日朝鮮で没した。ラウターホーフェン(Lauterhofen)出身。(2770:松山→板東)
55) Auerswald(アウアースヴァルト),Kurt(1893-1973):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケムニッツ出身。(855:福岡→青野原)
56) August(アウグスト),Jacob(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。大阪時代の1915年2月15日、静岡俘虜収容所で俘虜による自炊を行うことになったことから、料理の心得のあるアウグストは、ブロベッカー(Brobecker)とともに静岡俘虜収容所へ移送された【『静岡民友新聞』記事より】。下部エルザスのザルムバハ(Salmbach)出身。(3836:大阪→静岡→習志野)
57) Aust(アウスト),Karl(?-?):海軍野戦砲兵隊・軍曹。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡り、バタン(Batang)の州警察2等巡査になった【シュミット】。ヘルムスドルフ(Hermsdorf)出身。(2461:名古屋)
58) Avemarg(アーヴェマルク),Ernst(1895-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付)によると、アーヴェマルクは1919年6月8日に開催されたサッカーの試合で活躍した。また、1919年10月21日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅高跳び Bクラス」で、高さ1.40m、幅2.60m クリアで2位になった。カッセル出身。(317:久留米)
59) Ax(アックス),Bernhardt(1892-1943):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月20日福岡から大分へ、更に1917年2月習志野へ収容所換えになった【シュミット】。ズィーゲン(Siegen)近郊のヴィルガースドルフ(Wilgersdorf)出身。(852:福岡→大分→習志野)
60) Baacke(バーケ),Wilhelm(1881-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・陸軍歩兵中尉。1914年10月2日夜から3日未明にかけての台東鎮北方海泊河橋附近での戦闘では、戦死した第1中隊長ヘルツベルク大尉に代わり先任小隊長として中隊の指揮を執った。一時期、チェンチャー(Tschentscher)中尉がその指揮官を務めた。エルベ河畔のシェーンハウゼン出身。(9:東京→習志野)
61) Bachstein(バッハシュタイン),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等砲兵。久留米の演劇活動では、カーン作の1幕物『ダイナミック』等11演目に出演した。ザーレ河畔のハレ(Halle)出身。(887:福岡→久留米)
62) Backeshof(バッケスホーフ),Otto(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。熊本時代、1914年12月19日から翌年の5月15日まで、靴工として従事した。1915年6月、熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点121点⅓で初級の1位になった。エルバーフェルト(Elberfeld)出身。(3226:熊本→久留米)
63) Bade(バーデ),Otto(?-?):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。妻アンナ(Anna)は大戦終結まで、子ども二人(いずれも12歳以下)と上海で暮らした【『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置竝獨國俘虜関係雑纂』第十巻(大正8年1月)「在本邦俘虜ノ家族取扱ニ関スル件」による。以下、こうした記述は同年月での時点】。キール出身。(29:東京→習志野)
64) Baden(バーデン),Hermann Wilhelm Christian(1890-1985):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ハノーファーのシュネフェアディンゲン(Schneverdingen)出身。(353:久留米)
65) Bader(バーダー),Johannes(1890-1926):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。ガラス細工師の父セバスチアン・バーダー(Sebastian Bader)と母ローザ・レギーナ(旧姓Walz)との間に1890年7月26日に生れた。後に馬具職人になった。1921年1月15日、アンナ・レオポルディーネ・レオポルト(Anna Leopoldine Leopold)と結婚して子供が四人いた。1926年8月20日、敗血症で没した【シュミット】。バーデンのクッペンハイム(Kuppenheim)出身。(3206:熊本→久留米)
66) Bahlke(バールケ),Hans(?-?):国民軍・上等歩兵。大戦終結して解放後は北京に赴いた。出身地不明(『俘虜名簿』では北京)。(2145:姫路→青野原)
67) Bahr(バール),Alwin(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等機械砲兵補。徳島時代の1916年10月、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(P.Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で、徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。1日8時間、賃金・期間は不明。キール出身。(4123:「大阪→」徳島→板東)
68) Bahr(バール),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の『御者ヘンシェル』等5演目に出演した。ダンチヒ郡のボーデンヴィンケル(Bodenwinkel)出身。(896:福岡→久留米)
69) Bahr(バール),Hermann(1872-?):海軍守備隊・経理監督官。青島時代はフリードリヒ街に住んでいた。1918年8月4日久留米から青野原へ収容所換えになった。妻アンナ(Anna)と娘のルイーゼ(Luise)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。オーデル河畔のシュヴェート(Schwedt)出身。(382:久留米→青野原)
70) Baehr(ベーア),Karl(1889-1961):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース(Kunst & Albers)商会ブラゴヴェシチェンスク(Blagowjestschensk)支店]。ウラジオストックの上記商社に勤めていた時に、ブラゴヴェシチェンスクから応召して青島に来た。板東時代の1917年12月、『バラッケ』募集の懸賞作文に「グスタフ叔父」で一等賞を受賞して、賞金5円を獲得した。また1918年5月の第2回懸賞作文に「チビのリヒターの降臨祭遠足」で二等賞を受賞した。なお「チビのリヒターの降臨祭遠足」は『バラッケ』第2巻第8号(1918年5月19日号)に掲載された。さらに板東俘虜収容所詩画集『鉄条網の中の四年半』(4½Jahre hinter’m Stacheldraht)の短詩を書き、『第6中隊の過去の影絵もしくは不滅なる鉄条網病患者のひらめき』という演劇シナリオも書いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ピルナ近郊のコーピッツ(Copitz)出身。(2793:松山→板東)
71) Bahre(バーレ),Ralf(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備上等兵。バーレは、「買淫ノ目的ヲ以テ脱柵シ漫リニ民家ニ立到リ且其取調ニ際シ事実ヲ詐リタル科」によって、営倉に入れられた【俘虜情報局『俘虜処罰表』より】。ハンブルク出身。(2487:名古屋)
72) Baehring(ベーリング),Bernhard(1884-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・海軍少尉。1909年10月1日海軍に入隊し、1911年10月14日予備海軍少尉になる。大戦終結して帰国後の1920年1月30日、予備海軍中尉になる(1915年1月27日付け発令)。大阪時代は収容所内の演劇活動では舞台監督を務めた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。プファルツのカンテル(Kantel)出身。(3840:大阪→似島)
73) Baierle(バイエルレ),Ivo Maria(1893-1964):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・海軍中尉。〔第15砲台指揮官〕。第15砲台は巡洋艦皇后エリーザベトの陸揚砲によるもので、偽装充分と思われた。しかし1914年10月31日、陸正面から日本軍の猛烈な砲撃を受け、砲員5名が死亡し、バイエルレも重傷を負った。大阪時代、秘密通信を企画し、また日本官憲に対して不敵なる態度・言動を弄した科で重謹慎20日の処罰を受けた。似島時代の1917年2月24日、「所長ノ命令ニ反抗シタル科」で禁錮4月に処せられた。ボヘミアのゲールハン(Görhan)出身。(4481:大阪→似島)
74) Baist(バイスト),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ香港支店]。板東時代、1918年3月8日から19日にかけて公会堂で開催された絵画・工芸品展の水彩画風景部門に、「冬」(二等賞)、「老木」、「森の神社」、「コスモス」(三等賞)等を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト出身。(2792:松山→板東)
75) Bakemeier(バーケマイアー),Ernst(?-?):総督府・副曹長。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのミンデン郡レルベック(Lerbeck)出身。(2139:姫路→青野原)
76) Ballschmiede(バルシュミーデ),Karl(?-?):海軍砲兵中隊2等水兵。2003年6月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、息子のゲルハルトおよびロルフ・バルシュミーデから、1914年12月7日に浅草本願寺での日独戦没者法要の際に撒かれた、「散華」のコピー写真が鳴門市ドイツ館に寄贈された。ヒルデスハイム出身。(32:東京→習志野)
77) Banke(バンケ),Arthur(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。[指物師]。1915年7月11日久留米へ収容所換えになった。ブレスラウ出身。(958:福岡→久留米)
78) Banthien(バンティーン),Christian(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等砲兵。板東時代の1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライスト作『壊れ甕』の上演に際して、主人公の村長アーダム役をほとんど欠陥がないほど上手に演じた【『バラッケ』第2巻33頁】。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時25歳)、2時間30分59秒で85人中の29位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。ライト(Rheydt)出身。(4133:「大阪→」徳島→板東)
79) Bär(ベーア),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。大戦終結して解放後、蘭領印度に渡って巡査になった。ジーアスレーベン(Siersleben)出身。(1826:丸亀→板東)
80) Bargatzki(バルガツキ),Peter(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。福岡時代の1916年(月日不明)、「買淫ノ目的ヲ以テ脱柵シ民家ニ立入ル科」で重営倉30日に処せられた。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。ミュールハイム(Mühlheim)出身。(913:福岡→青野原)
81) Barghoorn(バルクホールン),Adolf(1886-1920):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。材木商の父シッコ(Sikko Barghoorn;1837-1929)と母アリーデ(Alide、旧姓Swart;1848-1909)の次男として1886年3月31日にデュッセルドルフに生れた。1913年10月4日、女教師ヨハンナ・レンシュ(Johanna Rönsch)と結婚、子供はいなかった。板東時代、徳島演劇グループを結成し、1917年7月10日シラー作の戯曲『群盗』を上演した。1919年には、カイスナー(Keyssner)、ラーン(Laan)、ルードルフ(Rudolf)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』(Das Jahr im Erleben des Volkes)の出版に関わった。1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。バルクホールンは第2組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻183頁】。また、1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、バルクホールンは122½点を挙げて古参選手の部三位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。1920年10月20日小樽で没した。デュッセルドルフ出身。(2790:松山→板東)
82) Barm(バルム),Kurt(1892-1971):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においてバルム(当時27歳)は、2時間45分18秒で85人中の75位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(1833:丸亀→板東)
83) Barth(バールト),Johannes(1891-1981):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[アルンホルト、カルベルク商会(Arnhold,Kalberg und Co.)広東支店]。1912年6月、ベルリンに本社を置く上記貿易商社の広東支店に応募して採用され、8月13日広東に着任した。英仏共同租界の珠川中州の沙面島は好ましく思えなかったので、中国人街をオスカール・マイ(Oskar May)と好んで散策した。2年間の広東暮らしの後、大戦の勃発により1914年8月初め青島に向かい、7日到着した。板東時代、収容所病院の一室でA.ヴェルナー(Werner)と同室で過ごした。大戦終結して解放後の1920年1月、歯科医師前田氏の紹介で神戸の内外貿易に勤めた。ブレーメンに一時帰郷の後東京で貿易商となり、日本女性と結婚した。1941年、商用のためシベリア鉄道でドイツへ向かう途中独ソ戦が勃発して一時捕虜となるが、釈放されてドイツに帰還した。しかし日本には戻れず4年間千代夫人や子ども達と離れ離れとなり、ドイツでは映画会社に勤務した。1945年特殊任務を帯びて、日独間を往復していた潜水艦イ29号でシンガポールに到着、軍用機で日本に戻った。終戦後アメリカ進駐軍により財産没収、ドイツへ強制帰国させられた。5年後再び日本に戻り、以後終生鎌倉に住んだ。『鎌倉時代の歴史と文化』、『日本演劇の歴史』等及び『青島日記』(Tsingtau Tagebuch)、『極東のドイツ人商人』(Als deutscher Kaufmann in Fernost.OAG Tokyo)の著書がある。ドイツ東洋文化研究協会(OAG)の会長代理を務めた。ブレーメン出身。(1851:丸亀→板東)
84) Bartels(バルテルス),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。解放後はマカオに渡った。ククスハーフェン出身。(3241:熊本→久留米)
85) Barthke(バルトケ),Max Otto(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。マンスフェルト(Mansfeld)出身。(943:福岡→久留米)
86) Baerwald(ベーアヴァルト),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カッセラ商会(Cassella & Co.)横浜支店]。父へルマン(1828-1907)はフランクフルトの汎愛主義的ユダヤ人学校の校長だった。1904年から1912年までミラノのカッセラ商会に勤務し、1912年日本に来て、主に神戸と横浜に住んだ。1914年8月、横浜から応召して青島に赴いた。祖国からの送金や義捐金等による200円でピアノを購入して、神戸からドイツに送らせた。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第1ヴァイオリンを担当した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本国内で解放され、大阪の松浦商会に勤めた。1920年にドイツに戻ったが、1921年初頭に結婚して再び日本に来て東京に住んだ。子供が二人いた。1940年11月、カリフォルニアのバークレーに移住した。マイン河畔のフランクフルト出身。(2802:松山→板東)
87) Bass(バス),Fritz(1886-?):海軍砲兵中隊・予備1等機関兵曹。1912年11月からメルヒャース商会(Melchers & Co.)漢口支店に勤務していた。1914年8月青島に応召し、当初は機雷敷設艦ラウチング(Lauting)の予備1等機関兵曹だったが、後に砲兵中隊に移った。1915年6月熊本から久留米に移送され、更に、1918年8月5日名古屋へ収容所換えになった。大戦終結して解放後は豊福丸でドイツに帰還した。1920年から1922年まで郷里キールで働いた後、1922年にカルロヴィッツ商会南昌支店、その後奉天に赴き、1936年クンスト・ウント・アルバース商会奉天支店の技術部主任となった【シュミット】。キール出身。(3230:熊本→久留米→名古屋)
88) Basse(バッセ),Louis(?-1952):所属部隊不明・2等水兵。1914年12月16日、当時はまだ俘虜とはならずに、青島のティルピッツ街4番地でレストランを経営していた。日本送還前のバッセ宛てて、丸亀俘虜収容所のアルブレヒト(Albrecht)からクリスマスと新年の挨拶状が出された。文面は「親愛なるバッセ並びにご家族様。楽しいクリスマスと喜ばしき新年を迎えられますよう。フリッツ・アルブレヒト」である。【アルブレヒトの項参照】。大戦終結後は、青島就職既定者として日本国内で解放された。ドイツに帰国後、北海のヘルゴラント島でホテルを経営した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゴスラール出身。(4485:大阪→似島)
89) Bastel(バステル),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸の「Selles Harmano」に勤めた。ハンブルク出身。(873:福岡→青野原)
90) Bätz(ベッツ),Oskar(1892-1970):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[製陶職人]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。帰国後、テクラ・ムンシェ(Thekla Munsche)と結婚し、子供が二人いた。ウンターヴァイスバハ(Unterweissbach)出身。(944:福岡→名古屋)
91) Bauch(バオホ),Johann(?-1919):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年2月11日、スペイン風邪により習志野で死亡。中部フランケンのアイヒャ(Aicha)出身。(914:福岡→習志野)
92) Bauer(バウアー),Alfred(?-?):第2工機団・1等麺麭工。[河用砲艦チンタオ(Tsingtau)乗員]。ナウムブルク出身。(1854:丸亀→板東)
93) Bauer(バウアー),Ernst August(1887-1945):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1907年海軍に入り、青島へ配属になった。大戦終結して帰国後予備少尉になった。1922年結婚し、子供二人をもうけた。籠編み職人となったが、後に郵便局に勤務した。コーブルクのヴァイトハウゼン(Weidhausen)出身。(906:福岡→大分→習志野)
94) Bauer(バウアー),Hugo(?-?):河用砲艦チンタオ乗員・2等水兵。1919年4月20日に行われた「久留米体操クラブ(Turnenverein Kurume)」の5種競技(投擲用ボール投げ、石投げ(15kg)、幅跳び、棒高跳び、100m競争)では、得点74点で初級の6位になった。ケーニヒスベルク出身。(377:久留米)
95) Bauer(バウアー),Josef(?-1919):第3海兵大隊第6中隊・補充後備兵。1919年11月7日久留米で死亡、久留米の山川陸軍墓地に埋葬された。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された。ドナウ河畔のヴェルト(Wörth)出身。(3212:熊本→久留米)
96) Bauer(バウアー),Wilhelm(?-?):海軍第2工機団・後備2等焚火兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ハールツ山麓のゲルンローデ(Gernrode)出身。(4628:大阪→似島)
97) Bauer(バウアー),Wilhelm Otto(?-1915):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。1915年1月23日青島で死亡、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。ヴュルテンベルクのエルズィンゲン(Ersingen)出身。(4663:なし)
98) Baum(バウム),Leo(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にホルテンシオ役で出演した。デュッセルドルフ出身。(1852:丸亀→板東)
99) Baum(バウム),Wilhelm(1893-1960):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山山中で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。【なお、浮山は四つの峰からなる連山で、その最高峰(標高330m)が浮山であるが、連山の総称でもあった。巫山とも、また福山とも称された。なお、ドイツ名はプリンツ・ハインリヒ(Prinz Heinrich)山である】。ラインラントのエシュヴァイラー(Eschweiler)出身。(357:久留米)
100) Baumann(バウマン),Albert Robert(1883-1974):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[雑貨店Arnold(?) Baumann経営]。青島時代はフリードリヒ街に面した二階建ての店舗で、雑貨店を営むとともに、ホテル・メトロポーレ(Metropole)を経営していた。妻シャルロッテ(Charlotte)は大戦終結まで、息子ハンス(Hans Gerhardt;1915年生れか?)と青島に留まった。大戦終結後は、青島就職既定者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのレーダ(Rheda)出身。(1849:丸亀→板東)
101) Baumanns(バウマンス), Hubert Heinrich(1893-1951):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。大戦終結して帰国後の1922年、イーダ・エスラー(Ida Essler)と結婚した。アーヘンのバルデンベルク(Bardenberg)出身。(370:久留米)
102) Baumgarten(バウムガルテン),Kurt(1894-1972):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。板東時代、収容所内の商店街区タパタオで魚料理の店を営んだ。近くの市場から魚を仕入れ、新鮮な鯉料理等を出した。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時25歳)、2時間34分27秒5分の1で85人中の43位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセン=アンハルトのケーテン(Koethen)出身。(4131:「大阪→」徳島→板東)
103) Baumgärtner(バウムゲルトナー),Nikolaus(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門で、寄木細工の図案を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのニーダーオルム(Niederolm)出身。(3845:大阪→似島)
104) Bäumle(ボイムレ),Eugen(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年7月11日久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の『御者ヘンシェル』他1演目に出演した。ゼッキンゲン(Säckingen)出身。(945:福岡→久留米)
105) Bautz(バウツ),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・曹長。丸亀収容所では収容所当局から、先任准士官として第2中隊の班長に指名された。板東時代、第4棟の先任准士官だった。ポーゼン出身。(1819:丸亀→板東)
106) Becher(ベッヒャー),Albert(?-?):所属部隊不明・2等歩兵。[巡査]。青島時代は警察署近くのリューベック街(Lübeckerstraße;日本の占領統治時代は大阪町)436番地の警察官舎に住んでいた。板東時代、公会堂での絵画と工芸品展覧会に「男達の顔」を出品して好評を得た。妻リーナ(Lina)と二人の子(いずれも12歳以下)は大戦終結まで上海で暮らした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのペーテルスハーゲン(Petershagen)出身。(2816:松山→板東)
107) Bechtolsheim(ベヒトルスハイム男爵),W.Frhr.v.(1881-1967):総督府参謀・海軍大尉。通称マウヘンハイム(Mauchenheim)。父モーリッツ・フォン・ベヒトルスハイム男爵とその二度目の妻マティルデ・フライイン・フォン・シュテルネックとの間に生れた。1899年4月10日海軍に入った。1902年9月27日海軍少尉,1904年4月1日中尉、1908年9月12日大尉となった。1909年9月26日、ベルリンでマルガレーテ・パッシェン(Margarete Paschen;1887-1967)と結婚し、ハンス・ヴィルヘルム(Hans Wilhelm;1910-1989)とエーバーハルト(Eberhard;1911-1943)の息子二人がいた。戦死者埋葬、負傷者救出のための一時休戦を取り決める会談が1914年10月13日に東呉家村で行われた。その折り、ドイツ人婦女子等の避難も合意された。15日に避難船が用意され、その指揮官を勤めた。胸には日本の旭日章を付けていた。それはかつて伊集院五郎海軍大将がキール軍港を視察した際に、案内役を果たしたことから授与されたものであった【『青島戰記』94頁】。日本側では山田耕三大尉が避難船に乗りこんで塔埠頭まで行き、さらに膠州からは山東鉄道で済南まで同行した。「10月27日の李村ポンプ所附近での戦闘時に、山田大尉はかつての僚友シュテッヒャー(Stecher)大尉に宛てて、絵葉書を折ってドイツ側前線に投げた。深夜、ベヒトルスハイム大尉がその葉書をビスマルク兵営の参謀本部に持ち帰る。…『我々が思いもよらなかった戦闘の中より、心からの挨拶を送る。わが友に神のご加護があらんことを! 山田大尉』と記されてあり、総督のテーブルの周囲でどっと笑いが生じた」【『チンタオの英雄たち』(Die Helden von Tsingtau)140頁】。1918年3月25日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の1919年3月5日に開催された「朗読の夕べ」では、ハイメンダール少尉とメンデルスゾーンの歌曲を二重唱した。また5月24日の習志野合唱協会による「歌曲の夕べ」では、ゲーテの詩になるレーヴェ作曲の「魔王」を独唱し、またエンスリン、ハイメンダール及びヴィーダーの四人でシュヴァーベン民謡の「選ばれし者」を四重唱し、メンデルスゾーンの「夕べの歌」をエンスリンと二重唱した。その他演劇にも出演した。大戦終結して帰国後の1920年1月30日海軍少佐となった。1921年3月29日 海軍中佐で退役した。後更に二人の息子が生れた。1920年代に商人として活動。20年代の終わりには映画制作会社ウーファー(UFA)で仕事をした。やがてアメリカへ派遣され、ニューヨークのブロードウエイに居を定めた。1932年8月に離婚して数学者ルル・ホフマン(Lulu Hoffmann;1902-1989)と再婚した。今日、ベヒトルスハイム男爵家には「習志野にて ホルツベルガーより」と刻まれた銀のマッチ入れ、豪華な日本の織物、習志野俘虜収容所で製作された男爵家の居城の木製模型が遺されている【参照:『『習志野市史研究3』所載の「ドイツ捕虜調査のその後」(社会教育課星昌幸)】。カリフォルニアのレッドランヅ(Redlands)で没した。バート・テルツ(Bad Töltz)のホーエンブルク(Hohenburg)城出身。(859:福岡→習志野)
108) Beck(ベック),Hugo(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で下記オスカール(Oskar)と同船でドイツに帰国した【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第三「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ライン河畔のゼッキンゲン(Säckingen)出身。(2488:名古屋)
109) Beck(ベック),Oskar Eduard(1881-?):所属部隊不明・後備1等砲兵。青島時代はテティス街に住んでいた。妻フリーダ(Frieda)は娘フリーダ(2歳)と息子オスカル(1歳)とともに、1915年1月22日に「マンチュリア号」で故国に帰った。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で上記フーゴー(Hugo)と同船でドイツに帰国した【前記「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。バーデン州のノルトハルテン(Nordhalten)出身。(4487:大阪→似島)
110) Beck(ベック),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。ウラジオストックから応召か?大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。デュッセルドルフ出身。(2470:名古屋)
111) Beckendorf(ベッケンドルフ),Willy(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、得点107で初級7位になった。1918年6月、「久留米体操クラブ」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の会長を務めた。ザクセンのヒンダーブルク(Hinderburg)出身。(332:久留米)
112) Becker(ベッカー),Anicet(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1915年12月10日、ドイツ生まれの俘虜16名から袋叩きに合い、16名は10日間から19日間の重営倉に処せられた。20日には再び重営倉を喰らった腹いせに暴行を受けた。後に大阪で宣誓解放された。ロートリンゲンのニルヴィンゲン(Nilvingen)出身。(3851:大阪)
113) Becker(ベッカー),Ernst(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。熊本時代の1915年、3月27日に脱柵して民家に入ろうとした科で重営倉5日の処罰を受けた。また許可なく市街に外出して、酒楼に登った科で重営倉10日の処罰を受けた。東プロイセンのシューステン(Schusten)出身。(3236:熊本→久留米)
114) Becker(ベッカー),Fritz(1890-1949):海軍東アジア分遣隊・予備2等歩兵。解放後は蘭領印度に渡った。1924年12月18日、パダン(Padang;蘭領印度)から郷里に戻りリナ・ザールホルツ(Lina Sahrholz;-1948)と結婚した。子供はいなかった。リューデスハイム出身。(1712:静岡→習志野)
115) Becker(ベッカー),Hermann(?-1919):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1919年1月26日、スペイン風邪により習志野で死亡。ズィーデンボレンティン(Siedenbollentin)出身。(34:東京→習志野)
116) Becker(ベッカー),Josef(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・2等砲手。[指物師]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ヴッパー河畔のヴィッパーフュルト(Wipperfürth)出身。(953:福岡→名古屋)
117) Becker(ベッカー),Otto(1885-1955):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備兵曹。1912年、岡山の第六高等学校講師として招聘され来日。大戦勃発で応召して青島に赴いた。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ドイツに帰国後、1924年にベルリン大学で教授資格を得て、1927年から1931年までハレ大学、1931年から1953年まではキール大学近代史の正教授を務めた。久留米時代の遺品として、収容所のミニチュアが遺されている。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。【息子のディールク=エックハルト・ベッカー氏(Dr.Dierk-Eckhard Becker)が、シュミット氏のホームページの読者書き込み欄に2003年2月24日に寄せた記述より】。ノイブランデンブルク県のマルヒョウ(Malchow)出身。(3240:熊本→久留米)
118) Becker(ベッカー),Paul(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、小太鼓を担当した。ホーエンツォレルンのヘヒンゲン(Hechingen)出身。(378:久留米→板東)
119) Becker(ベッカー),Robert(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1919年6月22日に開催された「名古屋俘虜製作品展覧会」で配布されたと思われるカタログに拠れば、ベッカーはデーネケ(Denecke)、キューン(Wilhelm Kühn)及びエングラー(Engler)とともに、名古屋収容所におけるトゥルネンの指導者の一人であった。ゾーリンゲン近郊のメルシャイト(Merscheid)出身。(863:福岡→名古屋)
120) Beckers(ベッカース),Leonhard(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代の1915年8月30日、オットー・ヴェルナー(Otto Wener)と柵外から物品を購入した科で重営倉3日に処せられた。板東時代、スポーツクラブのレスリング部に属した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケルン出身。(2786:松山→板東)
121) Beckmann(ベックマン),Heinrich(1893-1936):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1936年、ミュンスターで没した。ヴァーレンドルフ(Warendorf)出身。(947:福岡→久留米)
122) Beckmann(ベックマン),Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点108点⅓で初級の4位になった。シュレージエンのオーラウ(Ohlau)出身。(3227:熊本→久留米)
123) Beder(ベーダー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に共同主催者として出席した。ヴァイクセル川(今日はポーランドのヴィスラ川)河畔のメーヴェ(Mewe)出身。(884:福岡→習志野)
124) Bednarik(ベトナリク),Emmerich(1895-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ベトナリクは絵画部門に水彩画、ペン画、木炭画、鉛筆画等8点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』70頁】。ハンガリーのイラヴァ(Illava)出身。(2152:姫路→青野原)
125) Beer(ベーア),Johann(1892-1941):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。低地バイエルンのライテンシュタイン(Reitenstein)出身。(3846:大阪→似島)
126) Beerhorst(ベーアホルスト),Bernhard(1893-1969):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。第2次大戦には空襲により負傷した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オスナブリュック近郊のシンケルン(Schinkeln)出身。(352:久留米)
127) Beermann(ベールマン),Laurentius(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。静岡時代、年号は不明であるが5月24日付けで、天津在住のキルン氏(E.Kirn)に宛てたメツォルト(Mätzold)の葉書にベールマンが最後に寄せ書きしている。寄せ書きの内容は聖霊降臨祭を祝うという一行の文章である【メツォルトの項参照】。習志野時代の1919年8月12日、習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』及び同年10月5日、「マルフケ(Marufke)のための謝恩の夕べ」で、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』の舞台背景を制作した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エッセン郡のクライ(Kray)出身。(1710:静岡→習志野)
128) Beger(ベーガー),Max(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ドレスデン近郊のゴリス(Golis)出身。(3202:熊本→久留米)
129) Behaghel(ベハーゲル),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の1919年10月5日、「マルフケのための謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』の助手を務めた。【人名表記が『俘虜名簿』とは異なっているが、シュミット氏の指摘による】。2007年1月29日、ベハーゲルの姪ヘルガ・ベハーゲル(Helga Behaghel)氏が、シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に書き込みをした。ベハーゲルの兄弟であるヘルガさんの父親ハンスは、1906年から1923年まで両親とともに中国にいたとのことである。ベルクハイム(Bergheim)出身。(889:福岡→習志野)
130) Behr(ベーア),Adolf(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。テューリンゲンのコーブルク(Koburg)出身。(1829:丸亀→板東)
131) Behren(ベーレン),Johann(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。大分時代の1916年6月7日、福岡のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は大分の名勝吉野臥龍梅を写した絵葉書である。文面は次の通り簡単なもの。「聖霊降臨祭の挨拶を送ります。」なお、この葉書からマイレンダーが兵営の第6棟に居住していたことが判明した【マイレンダーの項参照】。ライト(Rheydt)出身。(4340:「熊本→」大分→習志野)
132) Behrendt(ベーレント),Karl(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。[山東鉄道技師]。青島時代は山東省の省都済南に住んでいた。大戦終結して解放後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。1920年、済南に赴いた。オーデル河畔のフランクフルト出身。(4328:「熊本→」大分→習志野)
133) Behrens(ベーレンス),Alfred(?-?):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で下記ハインリヒ(Heinrich)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのグリュックシュタット(Glückstadt)出身。(30:東京→習志野)
134) Behrens(ベーレンス),August(?-1915):海軍膠州砲兵隊・1等水雷砲兵。1915年1月7日青島で死亡、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。ブレーメン出身。(4662:青島)
135) Behrens(ベーレンス),Eduard(?-?):測量艦プラーネット(Planet;660トン)乗員・1等機関兵曹。1914年10月19日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日、ブライトハルト(Breithard)、エーバーライン(Eberlein)、ガウエルケ(Gauerke)、ハルトヴィヒ(Hartwig)、ハッセ(Hasse)、リールシュ(Liersch)、ライエケ(Reieke)及びショルツ(Schortz)の8名とともに宣誓解放された【大正4年10月調『俘虜名簿』より】。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4666:なし)
136) Behrens(ベーレンス),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所替えになった。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で上記アルフレート(Alfred)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。グリュックシュタット出身。(880:福岡→名古屋)
137) Behrens(ベーレンス),Wilhelm(1892-1974):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。シュネヴェルディンゲン(Schneverdingen)出身。(885:福岡→青野原)
138) Belling(ベリング),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、ラウフス作の茶番劇『ペンション・シェラー』に女役で出演した。ハンブルク出身。(890:福岡→久留米)
139) Below(ベーロウ),Hans(1887-1965):海軍東アジア分遣隊第1中隊・予備陸軍少尉。1914年9月19日、柳樹台で日本軍と激戦を交わした際の独軍指揮官。独軍の陣容は、上記1中隊下士卒14名、第3海兵大隊第5中隊の将校フリース少尉以下19名、同大隊第4中隊の下士卒5名の計39名であった。1915年12月25日の習志野収容所でのクリスマスコンサートでは、シューベルトの「ロザムンデ間奏曲」をクーロ(Kuhlo)中佐のピアノに合わせてチェロ演奏し、またメンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第一番」からのアレグロとアンダンテをクーロ中佐のピアノとヴォストマン(Wostmann)軍楽兵曹のヴァイオリンと一緒にチェロ演奏した。グライフスヴァルト(Greifswald)出身。(10:東京→習志野)
140) Benck(ベンク),Cäsar(?-?):第2国民軍・階級不明。[ベンク・ウント・クレッチュマー商会(Benck & Kretschmar)社長]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通(Kaiser-Wilhelm-Ufer;日本の占領統治時代は舞鶴浜)に住んでいた。大阪時代の1915年3月25日、ジームセン商会社長のヘフト(Hoeft)とともに陸軍省に宛てて請願書を提出した。それはディーデリヒセン商会社長等青島の大商人6名が、俘虜として送還される前、2ヶ月以上用務整理の期間を与えられたことから、自分たちにもその機会を与えるべく2、3ヶ月の青島帰還の許可を願うものであった【『欧受大日記』大正十一年一月より】。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(4478:大阪→似島)
141) Benedix(ベネディクス),Max(?-?):国民軍・階級不明。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のトーマス・トーマス商会(Thomas Thomas & Co.)に勤めた。ハンブルク出身。(4479:大阪→似島)
142) Benz(ベンツ),Bernhard(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年10月18日に開催された三種競技(高飛び踏み切り台なし、砲丸投げ、100m競争)で、E.ヴェーバー(Weber)と共に17点を挙げて一位になった。大戦終結後は蘭領印度に渡りバガンシ(Bagansi)で巡査となり、後にジャワのヴェルテフレーデン(Weltevreden)に移った。ヘッセンのヴィクスハウゼン(Wichshausen)出身。(340:久留米)
143) Berg(ベルク), Christian von(?-1964):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。アーヘン近郊のアルスドルフ(Alsdorf)出身。(379:久留米→板東)
144) Bergau(ベルガウ),Albert(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。解放後は蘭領印度に渡った。ポーゼンのナーケル(Nakel)出身。(2779:松山→板東)
145) Bergemann(ベルゲマン),Richard(1869-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・海軍中尉。[膠州高等裁判所1等書記官]。1892年10月1日海軍砲兵隊に入隊、1909年8月6日後備役海軍中尉で現役を退いた。青島時代はイレーネ街201番地に住んでいた。1934年、ハンブルクの東アジア協会発行の『東アジア展望』(Ostasiatische Rundschau)に、大阪、似島の両収容所で一緒だったオトマー(Othmer)について、「日本で俘虜となったオトマー博士とともに」(Mit Dr.Othmer in japanischer Kriegsgefangenschaft)と題して寄稿した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブランデンブルクのキュストリン(Cüstrin)出身。(3839:大阪→似島)
146) Berger(ベルガー),Alfons(1892-1969):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。ヴァルツフート(Waldshut)近郊のヴィクスハウゼン(Wichshausen)で没した。ヴァルツフート(Waldshut)近郊のアムリヒシュヴォント(Amrigschwond)出身。(16:東京→習志野)
147) Berger(ベルガー),Robert(?-?):国民軍・階級不明。[徳華高等学堂(Deutsch-Chinesiche Hochschule)教師]。青島時代は労山街(Lauschenstraße)に住んでいた。妻アンア(Anna)と息子のクルト(Kurt)は1915年1月22日に蒸気船「マンチュリア号」で帰国した。解放後、当初は中国の呉淞(Wusung)に赴いたが、その後南海丸で帰国した。ベルリン出身。(4477:大阪→似島)
148) Berger(ベルガー),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代の1918年、聖霊降臨祭の記念絵葉書を作画した【高橋スタンプ商会のHP「第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 98」を参照:http://www.takahashistamp.com/2note98.htm】。トリーア出身。(3844:大阪→似島)
149) Bergmann(ベルクマン),Ernst(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、トランペットを担当した。解放後は蘭領印度に渡ったが、1922年以前に帰国した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ライン州のバルメン(Barmen)出身。(1837:丸亀→板東)
150) Bergmann(ベルクマン),Hermann(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。解放後、蘭領印度に渡って巡査になった。プロイセンのクラインモンタウ(Kleinmontau)出身。(2783:松山→板東)
151) Bergner(ベルクナー),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。[シュナーベル、ガウマー商会(Schnabel,Gaumer & Co.)漢口支店]。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。ハンブルク出身。(1820:丸亀→板東)
152) Bergwein(ベルクヴァイン),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊・上等掌砲兵曹。〔イルチス(Iltis)山上部砲台指揮官〕。1898年6月1日海軍に入隊した。青島時代は太子街(Kronprinzenstraße;日本の占領統治時代は浜松町)に住んでいた。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マグデブルク管区のレッツリンゲン(Rätzlingen)出身。(902:福岡→習志野)
153) Berker(ベルカー),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備掌砲兵曹長。『熊本俘虜収容所記事』中の附表第21「負傷證明書附與者一覧表」には、ベルカーについて「左下腿脛骨擶上端外方ノ部ヨリ腓骨頭部ニ貫通スル軟部銃創」と記述されている。アルトナ(Altona)出身。(3243:熊本→久留米)
154) Berker(ベルカー), Wilhelm(1893-1950):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後の1920年3月15日、郷里に戻り、1921年3月31日マルガレーテ・シュタットラー(Margarete Stadtler)と結婚して息子一人をもうけた。ヴェストファーレンのゲフェルスベルク(Gevelsberg)出身。(361:久留米)
155) Berkling(ベルクリング),Otto(1895-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。[腸詰製造職人]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。オシャースレーベン郡のオットレーベン(Ottleben)出身。(908:福岡→習志野)
156) Berliner(ベルリーナー),Dr. Siegfried(1884-1961):第3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。[東京帝国大学法科大学教師]。1884年2月15日ハノーファーに生まれた。1902年ハノーファーの実科学校を卒業し、同年から1906年までライプチヒ大学およびゲッチンゲン大学で数学、経済学、物理学を学んだ。1905年ゲッチンゲン大学から経済学博士の学位を授与された。1906年にプロシア高等教員試験に合格した後、翌年まで兵役に就き、除隊後アメリカを旅行した。帰国後ライプチヒの公立商業学校で教務事務の仕事に就いた。1908年ライプチヒ大学講師、1909年ライプチヒ高等商業学校で保険数学、統計学および商業経営学の講義を担当した。1913年4月に東京帝国大学法科大学教師として来日したが、第1次大戦勃発により1914年8月応召して青島に赴いた。1914年10月8日、山川健次郎東京帝国大学総長から俘虜情報局に、ベルリーナー安否の問い合わせが文書で寄せられた。丸亀俘虜収容所時代の1915年1月25日、ベルリーナー夫人アンナ(Anna)より東京俘虜収容所への収容所替えの申請が俘虜情報局に出されたが不許可となった。ベルリーナー夫人は1915年2月中旬から半年間、六郷村塩屋新浜(現丸亀市新浜町)の借家に居住して20回面会に訪れた。6月14日、夫人は雇った車夫に信書と食料品を差し入れさせ、ベルリーナーが所有の子犬を受け取らせた。このことにより翌15日、ベルリーナーは石井収容所長から、重謹慎10日の処罰を申し渡された。8月22日、ベルリーナー夫人はアメリカに赴くために丸亀を引き揚げた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。なお、監視の目を盗んで、丸亀に収容されていた俘虜の妻の手を経て、告発文書をアメリカ経由でドイツ本国に送るという事件が発生したことが、高橋輝和岡山大教授の研究で明らかになった。この俘虜の妻はベルリーナー夫人と推定される【上記の出来事について及びベルリーナーとその夫人については、高橋輝和「丸亀俘虜収容所からの告発文書」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』創刊号に詳述されている。それによれば、夫妻はナチスが政権を掌握した後アメリカに亡命した。夫人もベルリーナー同様にアメリカの大学で教授となって心理学の講座を担当し、さらに日本に関する著作も出版している。夫妻ともにユダヤ系ドイツ人であった】。また、夫人が女中と住まいした借家は、2003年3月上旬まで存在した【「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ(http://homepage3.nifty.com/akagaki/)中のメール会報第1号を参照】。板東時代、郡役所で郡長以下の職員及び小・中学校長に講演、徳島商工会議所では「大戦と世界経済の展望」と題して講演を行った。1917年5月23日、「株式会社の資金調達」という題目で講演を開始する。またこの1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第1ヴァイオリンを担当した【〔写真15〕参照】。1923年2月1日から3ヶ年契約で東京帝国大学に再雇用された。1925年帰国して、38年までライプチヒのドイツ=ロイド生命保険会社に重役として勤めた。また1927年からはライプチヒ商業大学教授を兼任した。1938年アメリカに亡命し、翌1939年にはワシントン特別区のハワード大学教授となり、シカゴなどの保険会社の重役も兼務した。1952年に名誉教授となり、1961年にオレゴン州で没した。著書に『日本の輸入貿易の組織と経営』(Organisation und Betrieb des japanischen Importhandels,Hannover,1920)等がある【『欧受大日記』、『来日西洋人名事典』、松尾『来日したザクセン関係者』等より】。ハノーファー出身。(1841:丸亀→板東)
157) Berndes(ベルンデス),Ferdinand(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。[ジームセン(Siemssen & Co.)上海支店]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。ハンブルク出身。(3217:熊本→久留米→板東)
158) Berndt(ベルント),Alfons(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日、グラースマッハー(Glasmacher)等68名とともに、福岡から大分に移送された。1919年1月31日、スペイン風邪により習志野で死亡。ブレスラウ出身。(876:福岡→大分→習志野)
159) Berndt(ベルント),Emil(1870-?):第3海兵大隊工兵中隊・陸軍工兵大尉。〔参謀本部幕僚・工兵将校〕。1889年4月13日陸軍(技術部隊)に入隊し、1890年11月18日陸軍少尉、1899年5月22日陸軍中尉、1906年9月13日陸軍大尉、1914年11月8日陸軍少佐に昇進した【青島ドイツ軍降伏の翌日の日付】。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenloheweg)に住んでいた。大戦終結して帰国後の1920年3月9日、陸軍に入った。デュッセルドルフ出身。(956:福岡→習志野)
160) Bernhardi(ベルンハルディ),Friedrich von(1886-1948):海軍東アジア分遣隊・陸軍少尉。[商人]。ベルンハルディはヴォルフガング・アードルフ・ベルンハルディ(Wolfgang Adolf Bernhardi)の息子として1886年10月17日ベルリンに生れた。1900年2月14日、伯父(Friedrich von Bernhardi,1849-1930)の養子に迎えられ、貴族となった。伯父であり義父のベルンハルディは1849年9月22日、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれ、生家はプロイセンの貴族であった。1898年から1901年まで参謀本部戦史部長を務めた。1912年に発表した『ドイツと来るべき戦争』(Deutschland und der nächste Krieg)は、欧州戦争を不可避として、それどころか必然としたことこから物議を醸し、外国では戦争を煽り立てる書物と見做された。1900年、甥になる弟の息子を養子にした。ベルンハルディ少尉は1907年から1909年にかけて、南西アフリカのドイツ植民地で起きたヘレロ族の反乱に、歩兵第26連隊付きとして参加。しかしベルンハルディは1910年に中国で商人となる。1914年、青島総督府参謀本部に加わり青島防御に参加した。習志野時代の1919年10月5日、マルフケ(Marufke)のために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』の舞台監督を務めた。大戦終結して解放後、南米チリで商人となり、1925年5月にベニヤ(Benigna Emilia Elisa Schwob)と結婚した。その妻との間に4人の息子をもうけたが、58歳でサンチャゴに没した。一番下の息子のベルンハルディ=シュボープ(Diedrich von Bernhardi-Schwob)氏によれば、日本時代の資料等は全て洪水で失われたとのことである。サンクトペテルブルク出身。(932:福岡→習志野)
161) Bernick(ベルニック),Gustav(1883-1933):第3海兵大隊第4中隊・後備伍長。[ベルニック・ウント・ミュンスター(Bernick & Münster Co.)商会共同経営者]。1902年から1904/5年には青島にいたと思われる。青島に着た1902年当初は、兄ヘルマンとペッター(Karl Pötter)の共同経営の「H.ベルニック・ウント・ペッター(H.Bernick & Pötter Co.)商会」にアシスタントとして働いた。1907年に再び青島に戻り、1909年に青島を離れ、天津や満州に赴いたが、大戦勃発で青島に馳せ参じた【ボン大学のマツァトゥ(Wilhelm Matzat)教授のインターネット情報から】。青島時代はハンブルク街(Hamburgerstraße;日本による占領・統治時代は深山町)に住んでいた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のドブロヴォルスキー(Fr.Dobrovolsky)商会に勤めたその後ハルピンに赴き、ベルニック・ウント・ミュンスター商会共同経営者となった。1933年6月11日、腸チフスでハルピンに没した。妻と息子一人が残された。マグデブルク近郊のダーレンヴァルスレーベン(Dahlenwarsleben)出身。(3200:熊本→久留米)
162) Berthold(ベルトルト), Karl Arthur(1892-1965):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後の1922年結婚したが1928年に先立たれ、1933年に再婚した。ザクセンのゲリングスヴァルデ(Geringswalde)出身。(350:久留米)
163) Bertrand(ベルトラント),Ernst(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野戦砲兵。宣誓解放された。エルザス=ロートリンゲンのレーベラウ(Leberau)出身。(2494:名古屋)
164) Bethge(ベトゲ), Heinrich(1893-1963):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後の1920年10月25日、鉄十字1等勲章を授与された。ザクセンのウンゼブルク(Unseburg)出身。(11:東京→習志野)
165) Bettaque(ベタク),Carl(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備2等砲兵。解放後、蘭領印度に渡って気船会社に勤めた。シュテッティン出身。(2498:名古屋)
166) Betz(ベッツ),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月21日、名古屋へ収容所換えになった。2006年10月25日、シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に息子のヴァルター・ベッツ氏が書き込みをした。それによれば、収容所は厳格であったが多くの活動が出来た、とベッツは語っていたとのことである。ヘッセン=ナッサウのシュテルベルク(Stellberg)出身。(916:福岡→名古屋)
167) Beushausen(ボイスハウゼン),Paul(1893-1950):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ヴェント商会(Wendt & Co.)香港支店]。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのシングル(ハンディ付き)Bクラスで1位になり、ダブルスでもシュタインフェルト(Steinfeld)と組んでBクラス1位になった。香港から青島への応召、更に日独戦争時の体験を記した日記2冊が遺されている。その内の前半部、1914年8月1日から10月半ばまでの部分が、シュミット氏のホームページに掲載されている。ハノーファーのロックム(Loccum)出身。(2797:松山→板東)
168) Beutner(ボイトナー),Erwin(1889-?):海軍膠州砲兵隊・海軍少尉。〔第3砲台指揮官〕。1909年4月1日海軍に入隊した。1912年9月19日少尉。ドイツに帰国後の1920年1月30日海軍中尉(1915年5月2日付け)1920年7月7日海軍大尉に昇進し、同年9月9日退役した。プファルツのランダウ出身。(4119:「大阪」→徳島→板東)
169) Beyer(バイアー),Friedrich August(1891-1970):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。ヘルムスドルフ(Hermsdorf)出身。(962:福岡→久留米)
170) Beyer(バイアー),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。カール・クリューガー(Karl Krüger)によれば、絶えず本を読んでいる読書家だった。もちろん娯楽本などではなかったとのことである。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。バント(Bant)出身。(907:福岡→習志野)
171) Beyer(バイアー),Otto(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2上等歩兵。1919年10月4日、名古屋市内の明倫中学校校庭で行われた「日独混合蹴球戦」で、白軍のRH守備の選手として出場した。試合の結果は白軍が2対1で黒軍を破った。この試合の模様は、10月6日付けの新聞『新愛知』で詳細に報じられた。なお、バイアー、クドラ(Kudla)、クルーク(Krug)及びシュテーゲマン(Stegemann)以外に7名の名古屋の俘虜が出場したが、ビーン(Ludwig Bien)の他は同姓が二名以上いる等から特定することが不可能である。ザーレ河畔のハレ出身。(2478:名古屋)
172) Beykirch(バイキルヒ),Emil(?-?):第3海兵大隊第1中隊・後備伍長。[商人]。青島時代はホーエンローエ小路に住んでいた。妻マリー(Marie)は大戦終結まで、息子と娘(ともに12歳以下)の三人で青島に留まった。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。大戦終結後、青島で「バイキルヒ商会」を経営して、輸入業を営んだ。ザクセンのアーデルシュテット(Aderstedt)出身。(331:久留米→板東)
173) Bialucha(ビアルハ),Arthur(1880-1947):海軍膠州砲兵隊第4中隊・後備1等砲兵。『青島住民名簿(Tsingtauer Adressbücher)』によれば、1907年にはその氏名が記載されている。1907年から1908年にかけて、煙突掃除職マイスターのO.マイヤー(O.Meyer)とともに、ハンブルク街とベルリン街の角で運送業を営んだ。1910年から1911年にかけて、ハインリヒ・アーレンス(Heinrich Ahrens)の商会の元で左官頭として働いた。その後中国のほかの都市に赴いたと思われるが、大戦勃発で青島に戻った。1916年10月18日、マイレンダー(Mailänder)等68名とともに、福岡から大分に移送され、その後さらに習志野へ移された。解放後は、青島での就職既定者として日本国内で解放されたがドイツに帰国し、やがて1926年に青島に再び戻って没するまで青島に住んだ。建築家としての仕事をした。スタイル派の伝道会のための印刷所、陰島や台東鎮の教会を2軒建築した。その後もスタイル派のために台西鎮に教会の建築に従事した。結婚はせず、晩年は太平路13に住んだ。上部シュレージエンの出であるが、『俘虜名簿』ではザクセンのファルケンドルフ(Falkendorf)郡アルンスドルフ(Arnsdorf)出身。(875:福岡→大分→習志野)
174) Bianchi(ビアンキ),Leone de(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等軍楽下士。1916年10月9日、リッチ(Rizzi)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのチッタノーヴァ(Cittanova)出身。(2147:姫路→青野原→丸亀→板東)
175) Biber(ビーバー),Fritz(1875-1969):所属部隊不明・副曹長。石工マイスターの父の元、カールスルーエに生まれた。1886年にランダウに移り、1900年1月1日中国に渡った。1902年10月9日、青島で第三代膠州総督オスカル・トゥルッペル(Oskar Truppel)家の養育係りヘレーネ(Helene Margarethe Jänigen)と結婚した。青島時代当初は病院小路、やがて市内中心のフリードリヒ街やブレーメン街に住んだが、1911年には河南街と大沽街の角、1912年には再びフリードリヒ街の269番地に住んだ。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催で、展覧会カタログの補遺によれば、額縁を出品した。1920年、アメリカのシカゴを経由して帰国した。93歳でランダウ(Landau)に没した。カールスルー出身。(4486:大阪→似島)
176) Bieber(ビーバー),Dr.Arthur(1880-1966):海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。〔第2中間地掃射砲台指揮官〕。青島時代はハンブルク街に住んでいた。1914年12月1日付け「九州日日新聞」の記事によると、ビーバー予備少尉はハンブルクのコーヒー一手販売店主で、家には巨万の富があるとのことだった。新婚旅行先は日本だった。横浜、東京、日光から箱根を巡って温泉に浸かり、京都、奈良、広島と周遊したとのことである【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787頁】。1916年3月7日、久留米俘虜収容所の「謝肉祭コンサート」では指揮者を務めた。1917年3月、米国シンシナチー市の「ファースト・ナショナルバンク」からジーメンス社の東京支社代表ドレンクハーンを通じて小切手1110ドルが送金され、日本貨幣に換算されて、2176円47銭が渡された【『久留米俘虜収容所』29頁】。演劇活動としては、ハウプトマン作の喜劇『ビーバーの毛皮』等19演目の演出を担当し、また21演目に出演するなど、久留米の演劇活動では最も活躍した一人である。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(3215:熊本→久留米)
177) Biedermann(ビーダーマン),Pau(?-?)l:第3海兵大隊第1中隊・予備2等歩兵。[インド・カルカッタのグランドホテル]。久留米時代は演劇活動で、レスラー及びレラー作の喜劇『クラブチェアーに座って』に出演した。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時33歳)、2時間54 分49 秒で85人中の83位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ツヴィッカウ(Zwickau)出身。(355:久留米→板東)
178) Bieger(ビーガー),Albert(1888-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。久留米時代は演劇活動で、1幕物『インディアン達』の演出をするとともに、6演目に女役で出演した。1916年9月16日、ゾイフェルト(Seufert)等5人とともに久留米から青野原へ収容所換えになった。ドイツに帰国後の1920年5月6日マリー・ホフマン(Marie Hoffmann)と結婚した。デッサウ出身。(333:久留米→青野原)
179) Bien(ビーン),Georg(1875-1964):総督府・2等機関兵曹。1898年頃妻カタリーナ・ツォルン(Katharina Zorn)と結婚し、ルートヴィヒ(Ludwig;1900-)、ハンス(Hans;1905-)の二人の息子をもうけた。1907年頃家族を伴って青島へき、当初は青島醸造所で働いた。後に青島屠畜場の機械工になった。青島で三男のフリッツ(Fritz;1909-2001)が生れた。14歳の長男ルートヴィヒが俘虜として日本に送られ、妻は大戦終結まで、息子二人と上海で暮らした。三人の息子を伴って1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト出身。(4483:大阪→似島)
180) Bien(ビーン),Ludwig(1900-1970頃):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。俘虜となった当初は14歳の少年だった【「Bien(ビーン)Georg」の項、及び〔写真9〕参照】。大正3年12月4日付けの新聞記事(『朝日新聞〈復刻版〉』)によると、両親と弟二人の家族で久しく前から青島に居住し、ビーンは自動車の運転手として軍の部隊に弾薬運搬に携わったとのことである。前線への任務では日本軍とピストルで銃撃戦も体験、最後は独亜銀行の建物に隠れていたところを捕まった。上記ゲーオルク・ビーン(Georg Bien)は父親である。愛嬌があって可愛らしいビーン少年は、将校達が開け閉ての際につい破ってしまう障子の繕い役に専ら従事した。時に将校から煙草を貰って喫うという噂が立ち、林田所長から叱られた【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、788頁】。1914年(大正大三年)12月10日付けの新聞『新愛知』には、アーラース(Leonhard Ahlers)、ケーニヒ(Leo König)、ライマース(Otto Reimers)及びビーンの四人の写真が掲載された。ビーンを除く三人は日本語通とされている。1919年10月4日、名古屋市内の明倫中学校校庭で行われた「日独混合蹴球戦」で、白軍のRF守備の選手として出場した。試合の結果は白軍が2対1で黒軍を破った。他の出場選手は、バイアー(Beyer)、クルーク(Krug)、クドラ(Kudla)、シュテーゲマン(Stegemann)である。父、二人の弟とともに1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト出身。(2468:名古屋)
181) Bienengräber(ビーネングレーバー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マグデブルク近郊のグロース=ローデンスレーベン(Gross-Rodensleben)出身。(886:福岡→習志野)
182) Bientz(ビーンツ),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術部門の絵画で掛け布等のための図案1点を出品した。エルザスのミュールハウゼン出身。(3863:大阪→似島)
183) Bier(ビーア),Eduard(1886-?):第3海兵大隊第3中隊・陸軍歩兵少尉。1904年プロイセン陸軍に入隊し、1906年7月少尉、1914年8月第3海兵大隊に移籍した。1914年9月26日から27日にかけての一大決戦では、小隊を率いて李村高地に陣を敷いた。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年6月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、61⅔点を獲得して第8位になった。1914年11月28日付けで陸軍中尉、大戦終結して帰国後の1920年1月30日陸軍大尉に昇進した【1916年1月27日付け発令】。1920年3月9日陸軍に再入隊した。ザールラントのザールルゥイ(Saarlouis)出身。(326:久留米)
184) Biermann(ビーアマン),Johannes(?-?):青島船渠・軽歩兵。青島時代はベルリン街に住んでいた。妻へレーネ(Helene)は大戦終結まで青島に留まった。特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。オルデンブルクのイェーファ(Jever)出身。(4480:大阪→似島)
185) Biester(ビースター),Wilhelm(1878-?):海軍東アジア分遣隊・後備陸軍少尉。[膠海関上席秘書官]。1915年1月2日、歩兵第56連隊付歩兵中尉東矢率由が訪れて、故陸軍歩兵大尉玉崎某戦死の情況に就いて調査すべし、との連隊長の命令でビースターに面会し、約20分当時の状況に関して聴取した【『熊本俘虜収容所日誌』より】。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)157及び158頁には、ツェレに住む妻からビースターに宛てた手紙二通の封筒が掲載されている。ツェレ(Celle)出身。(3224:熊本→久留米)
186) Bilber(ビルバー),Albert(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代の1918年5月4日、シラーの『ヴァレンシュタインの陣営』上演に際して、純粋で誠実な曹長役を感動的に演じた。また「エンゲル・オーケストラ」の応援で、バステューバを担当した。後に宣誓解放された。エルザス地方のロール(Lohr)出身。(2782:松山→板東)
187) Billau(ビラウ),Heinrich(1892-1974):第3海兵兵大隊第3中隊・上等歩兵。ヘッセンのノルトハイム(Nordheim)出身。(360:久留米)
188) Billmeyer(ビルマイアー),Otto Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等機関兵曹。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本で解放された。イェーナ出身。(1707:静岡→習志野)
189) Bindemann(ビンデマン),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。解放後は蘭領印度に渡って、サマラン(Samarang)の郵便局に勤めた。ミルデ河畔のカルベ(Kalbe)出身。(3854:大阪→似島)
190) Birnbaum(ビルンバウム),Otto(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ゴータ(Gotha)出身。(344:久留米)
191) Birras(ビラス),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年1月30日、ルフ(Ruff)指導による寄席「ミモザ」(Mimosa)の第2回上演会が開催された。その折りビラスは美しくかつ力強いテノールを聴かせた【『徳島新報』(Tokushima Anzeiger)第19号(1916年1月30日発行)より】。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(4127:「大阪→」徳島→板東)
192) Bischoff(ビショフ),Karl(1853-1949):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。ゾンダースハウゼン(Sonderahausen)出身。(1853:丸亀→板東)
193) Bischofs(ビショフス),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵伍長。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁10点を出品した。ラインラントのミュンヒェン=グラートバッハ(München-Gladbach)出身。(3849:大阪→似島)
194) Biston(ビストン),Adolf(1893-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。『ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の1916年12月7日付け49号に、「日本の久留米収容所のドイツ・トゥルネンクラブ」と題された記事の中で、ビストンからの写真掲載についての報告が載った【山田理恵『俘虜生活とスポーツ』145頁】。デュッセルドルフ出身。(375:久留米)
195) Blanke(ブランケ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵軍曹長。その「日記」がフライブルクの連邦文書館軍事資料室に所蔵されている【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』308頁】。ラウエンシュタイン(Lauenstein)出身。(903:福岡→大分→習志野)
196) Blaschke(ブラシュケ),Friedrich(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・伍長。板東時代、無料水泳教室の教官を務めた。また「我らがチンタオ」(Unser Tsingtau)の詩を書いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リューゲン(Ruegen)島出身。(2804:松山→板東)
197) Blass(ブラス),Ernst(1892-?):海軍砲兵中隊・2等測量兵。ヴュルツブルク出身。(3231:熊本→久留米)
198) Bleistein(ブライシュタイン),Georg(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。熊本時代、酩酊して脱柵を企てた科で重営倉15日の処罰を受けた。久留米時代は演劇活動で、トランディース作の笑劇『彼は夢遊病』他1演目に出演した。宣誓解放された。ベルリン出身。(3204:熊本→久留米)
199) Blessing(ブレシング),Wilhelm(1894-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放されてドイツに帰国後、クリスティーネ(Christine Pauline Schöllkpf)と結婚し、1926年5月9日アメリカへ移住した。アルバースハウゼン(Albershausen)出身。(861:福岡→習志野)
200) Blettgen(ブレットゲン),Hermann(1894-1945):総督府・2等電信兵。マインツ近郊のゴンゼンハイム(Gonsenheim)出身。(2142:姫路→青野原)
201) Bley(ブライ),Johann(1892-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・2等砲兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメ(Brehme)出身。(955:福岡→名古屋)
202) Bleyhoeffer(ブライヘッファー),Bruno(?-?):第3海兵大隊参謀本部・退役陸軍大尉。〔幕僚砲兵部長〕。[北京中国学堂教官]。日独戦争前、中国軍部隊で教官を勤めていた。グムビンネン郡のフロールケーメン(Florkehmen)出身。(2466:名古屋)
203) Blochberger(ブロッホベルガー),Max(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、船本牧舎(いわゆる「ドイツ牧舎」)【クラウスニッツァー(Claussnitzer)の項を参照】で屠畜の技術指導を行った。なお、このブロッホベルガーは『俘虜名簿』では「Blocksberg」と綴られている。従来、日本の文献では「ブロフツ・ベーアゲーア」や「ヘーアゲーア」(『板東ドイツ人捕虜物語』140頁)等の表記で紹介されていたため、『俘虜名簿』では推定・特定が困難な人物名だった。今回、ディルク・ファン・デア・ラーン氏の推定によってほぼ確定することが出来た。板東俘虜収容所で1919年に印刷・発行された『故国住所録』《Heimatsadressen der Kriegsgefangenen im Lager Bando》では、「Blochberger」の綴りである。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)、2時間33 分16 秒5分の3で85人中の40位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。テューリンゲンのゴルンドルフ(Gorndorf)出身。(1834:丸亀→板東)
204) Block(ブロック),Anton(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月の第2回スポーツ週間開催に当たって、ブロックは陸上競技の試合規則制定や、審判を選ぶための技術委員会の一員にマーニッツ(Manitz)、H.オルトレップ(Ortlepp)、ペッヒ(Pech)、E.ヴェーバー(Weber)、プロイ(Preu)とともに選ばれた。解放後の1920年、蘭領印度に渡って巡査になった。ケルン出身。(345:久留米)
205) Blomberg(ブロムベルク),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[鷲屋薬局(Adler-Drogerie & Co.)ウラジオストック支店]。ロシア系ドイツ人。松山時代、展覧会での最初の受賞者だった。また演劇上演に際しては、面や衣装の制作・手配に貢献した。グリューフィウス作のバロック喜劇『ペーター・スクヴェンツ』に出演した役者たちを写した写真が、ケーバライン(Köberlein)の遺品中にあるのが知られている【アンドレーアス・メッテンライター『極東で俘虜となる』(Mettenleiter,Andreas:Gefangen in Fernost)58頁】。板東時代には公会堂での絵画と工芸品の展覧会でも、水彩画部門に「雪」を出品して一等賞を受賞した。ブロムベルクが描いた「10枚の収容所スケッチ」の内8枚が現存して、鳴門市ドイツ館に展示されている。ケーバラインの友人であった。出身地不明(『俘虜名簿』ではモスクワ)。(2795:松山→板東)
206) Blösse(ブレッセ),Johannes(?-?):河用砲艦チンタオ乗員・2等焚火兵。久留米時代、1919年6月から日本製粉株式会社久留米支店に、蒸気機関火夫の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ホルシュタインのレリンゲン(Rellingen)出身。(3245:熊本→久留米)
207) Blume(ブルーメ),Heinrich(?-?):港湾局・上等機関兵曹。[機関士]。1899年4月1日海軍に入隊、1907年10月1日上等機関兵曹になった。松山時代、大林寺の収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代の1918年9月、「板東健康保険組合」代表理事に選ばれた。ハノーファー出身。(2811:松山→板東)
208) Blumenfurth(ブルーメンフルト),Johann(1889-1956):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。2等巡洋艦エムデン(Emden;3650トン)乗員だった。デュッセルドルフ郡のブーフホルツ(Buchholz)出身。(35:東京→習志野)
209) Blunck(ブルンク),Walter(?-?):国民軍・後備副曹長。青島時代はイレーネ街(Irenestraße)に住んでいた。ダンチヒ出身。(2812:松山→板東)
210) Bobacher(ボーバッハー),Robert(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。解放後の1920年、蘭領印度に渡って巡査になった。エルザスのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(3210:熊本→久留米)
211) Boberg(ボーベルク),Kurt(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備2等歩兵。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße;日本による占領統治時代は佐賀町)に住んでいた。久留米の演劇活動では、リンダウ作『もう一人の男』の演出を担当するとともに、23演目に出演した。ベルリン出身。(368:久留米)
212) Bobers(ボーバース),Wilhelm W.v.(1886-1952):第3海兵大隊第3中隊・予備陸軍少尉。[通訳官・ザクセン王国予備少尉]。久留米収容所の音楽活動では、ワーグナーの「ローエングリーン」等に出演し、特に1917年8月7日の「リヒャルト・ワーグナーの夕べ」では、「ニーベルングの指輪」の中の歌曲独唱で活躍した。演劇活動では、ガイベル作の喜劇『アンドレーア親方』等3演目に出演した。ドイツ帰国後の1938年にツェレに移り住み、その地で没した。ユルツェン(Uelzen)近郊のオルデンシュタット(Oldenstadt)出身。(327:久留米)
213) Bobrik(ボブリク),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。[ドイツアジア銀行香港支店]。ボイスハウゼン(Beushausen)の日記には、1914年8月10日に済南から青島へ向かう列車のなかで、ボブリクに会ったことが記されている。ケーニヒスベルク出身。(1713:静岡→習志野)
214) Böcher(ベッヒャー),Karl(?-1919):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。熊本時代(長国寺に収容)の1915年3月15日、少し以前から高熱で入院していたが、この日グラーゼル(Glaser)及びシュトラウス(Paul Strauss)とともに腸チフスと診断された。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。1919年2月7日、スペイン風邪により習志野で死亡。ギーゼン郡のフィリンゲン(Fillingen)出身。(3201:熊本→久留米→習志野)
215) Bochnig(ボホニヒ),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したボホニヒは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られたが4位に終わり、本戦のB級進出に留まった【『徳島新報』1915年4月25日第4号より】。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時37歳)、2時間34 分41 秒5分の3で「シニアの部」16人中の2位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。また、1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ボホニヒは110点を挙げて古参選手の部6位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのカッテルン(Kattern)出身。(4128:「大阪→」徳島→板東)
216) Bock(ボック),Alfred(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・副曹長。解放後の1920年、蘭領印度に渡って巡査になった。ライプチヒのモッカウ(Mockau)出身。(3220:熊本→久留米)
217) Bock(ボック),Friedrich Wilhelm(1891-1932):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。労働者の父フリードリヒ・ヴィルヘルム・ボック(Friedrich Wilhelm Bock)と母ヴィルヘルミーネ・ミンナ・ドロテー・フンツェ(Wilhelmine Minna Dorothee Hunze)との間に、14人兄弟の長子として生れた。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。ドイツに帰国後、未亡人のヘンリエッテ・フリーデリーケ・エリーザベト・グロースマン(Henriette Friederike Elisabeth Großmann)と結婚した。ハールツ山麓のオスターヴィック(Osterwick)出身。(918:福岡→大阪→似島)
218) Bock(ボック),Peter(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時23歳)、3時間30 分31 秒で最下位の85位だった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。1984年2月の手紙によると(当時92歳)、板東では陸上競技とフェンシングの協会に加入し、金属加工の講座で勉強したとのことである【『「第九」の里―ドイツ村』159頁】。ケルン出身。(1839:丸亀→板東)
219) Bock(ボック),Richard(?-?):海軍砲兵中隊・後備2等兵曹。[山東鉄道事務助手]。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。妻エンマ(Emma)と二人の息子ヴァルター(Walter)及びルードルフ(Rudolf)は、1914年12月25日の「コリア号」で故国に戻った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレスラウ出身。(4336:「熊本→」大分→習志野)
220) Bockhorn(ボックホルン),Fritz(1894-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゲーステミュンデ(Geestemünde)のウトレーデ(Uthlede)出身。(348:久留米)
221) Böckmann(ベックマン),Georg(1893-1944):海軍膠州砲兵隊・2等水兵。解放されてドイツに帰国後に船大工の見習いとなり、1924年12月30日、メヒティルデ(Mechitilde Janßen;1901-1974)と結婚し、娘が一人あった。晩年、時に練習船の水兵を務めることがあった。オルデンブルクのアルテネシュ(Altenesch)出身。(4341:「熊本→」大分→習志野)
222) Boda(ボーダ),Karl(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放されて「高砂商会」に勤務したが、やがて蘭領印度に渡った。ハンガリーのバロート(Baroth)出身。(3247:熊本→久留米→習志野)
223) Bodarwe(ボダルヴェ),Joseph(1892-?):海軍東アジア分遣隊・第1中隊・2等砲兵。一足早く解放されて、1919年10月28日に横浜から帰国し、1919年12月29日故国の郷里に戻った。ラインラントのマルメディ(Malmedy)郡のシュタインバッハ(Steinbach)出身。(19:東京→習志野)
224) Bodecker(ボーデカー),Karl Friedrich Georg von(1875-1957):砲艦ティーガー(Tiger)艦長・海軍少佐。後に砲艦ヤーグアルがマティアース(Matthias)大尉の指揮の下青島に到着すると、その艦長になった。父フリードリヒ(Friedrich Bernhard von Bodecker)と母マリー (Marie)との間の六人兄弟で生れた。1895年5月海軍に入って実務と理論を学び、 1897年10月25日海軍下級少尉、1899年1月1日海軍少尉、1900年6月18日海軍中尉、1905年3月21日海軍大尉、1911年11月11日海軍少佐 、1914年4月10日東アジアへ赴き、同年6月4日に砲艦ティガーの艦長となった。1914年8月4日から11月7日まで砲艦ヤーグアル艦長。日独戦争時の海戦で危うく難を逃れたが衛戍病院へ搬送された。青島陥落後も衛戍病院に留まり、1915年1月21日重傷者用輸送船で大阪衛戍病院へ運ばれた、快復後の3月15日大阪俘虜収容所へ収容された。大戦終結後の1920年1月27日、ボーデカー少佐を輸送指揮官とする帰還船「ハドソン丸」は、最後の俘虜600名近くが乗船して神戸を出発し、2月初め上海で駆逐艦S90乗組員を収容して、4月2日ブレーメンに到着した。1920年1月30日海軍中佐(1917年10月14日付け)、1920年2月5日海軍大佐となった。1923年10月31日海軍少将で退役した。1921年7月28日ゲルトルート・ホッペンシュテート(Gertrud Hoppenstedt)と結婚し、子供三人をもうけた。第2次大戦に再び応召してニコラーイェフ等(現ウクライナ)へ赴いたが、1943年に退役した。キール出身。(4484:大阪→似島→習志野)
225) Bodenstedt(ボーデンシュテット),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。習志野時代、一時期クリューガー(Karl Krüger)と同じ建物で部屋も一緒だった。アルコールにお金をつぎ込むことが多かった。1915年9月15日習志野へ収容所換えになった。解放後はアルゼンチンに渡った。ブレーメン出身。(882:福岡→習志野)
226) Böhm(ベーム),Carl(1893-1983):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等麺麭工。[パン職人]。ヴュルテンベルクのボプフィンゲン(Bopfingen)出身。(900:福岡→久留米)
227) Böhm(ベーム),Karl(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。板東時代、タパタオの30号小屋でグヌシュケ(Gnuschke)と配管及び機械工の仕事を営んだ。また、1918年5月2日、東久邇稔彦王が四国旅行で徳島に立ち寄った際、急遽撫養(むや)で俘虜による作品展示会が特別に開催された。その折ベームはグヌシュケとともにパイプを制作出品し、それが買い上げられた。他にヘフト(Hoeft)、クヴィンテン(Quinten)の作品も買い上げられた。大戦終結後はポーランド国籍となり宣誓解放された。エッセン出身。(1840:丸亀→板東)
228) Böhm(ベーム),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。熊本時代、1915年1月20日から5月26日まで、靴工として従事した。1918年8月4日、久留米から青野原へ収容所換えになった。東プロイセンのザルカン(Sarkan)出身。(3242:熊本→久留米→青野原)
229) Böhm(ベーム),Karl Paul(1887-1968):第3海兵大隊第4中隊・後備伍長。父カール・クレーメンス(Karl Clemens Böhm)と母アンナ(Anna August)との間に10人兄弟でフライベルクに生まれた。同地の由緒ある鉱山大学に学び、1907年軍隊に入った【松尾展成『ザクセン王国出身の青島捕虜』152頁】。ドレスデンに没した。ザクセンのフライベルク(Freiberg)出身。(3199:熊本→久留米)
230) Böhme(ベーメ),Karl(1882-?):総督府・海軍中主計(中尉相当)。妻マリー(Marie)は大戦終結まで息子ディートリヒ・ハンス(Dietrich Hans)と青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として、日本国内で解放された。ベルリン出身。(381:久留米)
231) Böhme(ベーメ),Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[ザンダー、ヴィーラー青島支店]。青島時代は皇帝街に住んでいた。解放後は青島に戻った。テューリンゲンのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(3853:大阪→似島)
232) Böhmer(ベーマー),Adam(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ラインラントのヴィントベルク(Windberg)出身。(342:久留米)
233) Boehmer(ベーマー),Alwin(1887-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等機関兵補。[リックマース(Rickmers)汽船]。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したベーマーは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り振られたが4位に終わり、本戦のB級進出に留まった【『徳島新報』1915年4月25日第4号より】。また徳島時代の1916年10月、バール(Alwin Bahr)、フィッシャー(Paul Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Max Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。1日8時間、賃金・期間は不明。解放後は蘭領印度に渡った。エルベ河畔のハルブルク(Harburg)出身。(4130:「大阪→」徳島→板東)
234) Böhmer(ベーマー),Heinrich(1885-1957):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海医療技術学校(Medizin-Ingenieur-Schule)]。ドイツに帰国後結婚して娘一人をもうけた。メレ近郊のノイキルヒェン(Neuenkirchen)出身。(1847:丸亀→板東)
235) Böhmer(ベーマー),Hermann(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。デュッセルドルフ出身。(341:久留米)
236) Böhmer(ベーマー),Johaness(1887-?):第3海兵大隊第6中隊・戦時志願兵。プファルツのラムシュタイン(Ramstein)出身。(2471:名古屋)
237) Böhmer(ベーマー),Wilhelm(?-1919):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備2等歩兵。クラウス(Kraus)と喧嘩騒動を起こした。1919年2月2日、スペイン風邪により習志野で死亡。ヴェストファーレンのアンネン(Annen)出身。(28:東京→習志野)
238) Bohn(ボーン),Friedrich(1882-1971):所属部隊・階級不明。[巡査]。1912年2月19日、青島でアンナ・ホフマン(Anna Hoffmann)と結婚し、1913年3月31日、娘(1913-1971)が生まれた。青島時代は虎街(Tigerstraße)に住んでいた。妻と娘は大戦終結まで上海で暮らした。ハイデルベルク近郊のグロームバハ(Grombach)出身。(2815:松山→板東)
239) Bohner(ボーナー),Dr.Hermann(1884-1963):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[宣教師]。アフリカ黄金海岸アボコビ(現ガーナ)に生まれた。父親は当地の福音教会牧師を勤めていた。シュパイエルのギムナジウム時代、〈ワンダーフォーゲル〉の指導者カール・フィッシャー(Karl Fischer)の後についてシュヴァルツヴァルト、エールツゲビルゲ等の山歩きをした。ハレ、エルランゲン、テュービンゲンの各大学で神学と哲学(1903-07)、シュトラースブルク大学でヘブライ学を学び(1911)、1914年にエルランゲン大学で哲学博士の学位取得後4月、「統合福音派海外伝道教会」(AEPM)の派遣教師として青島に赴き、長年密かに尊敬していたリヒャルト・ヴィルヘルムの下で布教・教育活動に入った。大戦勃発とともに応召し、上記第6中隊に配属された。戦闘中、「青島最初の砲撃」や「歩哨」と題する詩を作った。やがて先輩牧師W. ゾイフェルト(Seufert)と共に俘虜として日本に送られた。板東時代、収容所印刷所から『絵画についての対話』を出した。1918年6月1日、板東俘虜収容所においてベートーヴェンの「第九交響曲」が日本国内で初演された際に、「ベートーヴェン、シラー、ゲーテ 第九交響曲に添えて」の講演を行った。また「ドイツの歴史と芸術」の連続講義を33回に亘って行うなど多種多彩な数多くの講演を行った。大戦終結して解放後青島に戻り、ヴィルヘルムの精神を継承して2年間活動した。1922年、この年の4月1日に設立された大阪外国語学校講師に就任した(1922-1937)。1923年夏、ヴィルヘルムの元で知り合った夫人の妹ハンナ・ブルームハルト(Hanna Blumhardt;1883-1971)をドイツから迎えて結婚した。1937年に契約満期で帰国したが、再び大阪外国語学校講師に就き、勅任官ドイツ政府「教授」の称号を与えられて(1951-1963.6.24)教授として勤務、1963年6月24日(没日)付けで勲四等瑞宝章を授与された。『神皇正統記』、『聖徳太子』、『能作書』等数多くの著作を残した。終生日本に住んだ。弟二人も来日し、ゴットロープ(Gottlob)は高知高等学校(1925年から1928年まで)、アルフレート(Alfred)は松山高等学校で(1922年から1928年まで)ドイツ語教師を勤めた。1963年6月24日永眠した。神戸再度山の墓地には教え子達が建てた墓碑がある。ハンナ夫人は1971年、故郷バート・ボルで没した。マンハイム出身。(2794:松山→板東)
240) Bolay(ボライ),Hermann(1892-1971):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後結婚して子供四人をもうけた。コンスタンツ出身。(2489:名古屋)
241) Bolland(ボラント),Heinrich(1889-1976):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。[メルヒャース商会青島支店]。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。大戦終結して解放後は、青島における就職既定者(メルヒャース商会)として日本国内で解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン出身。(2477:名古屋)
242) Bollmann(ボルマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。妻と息子のフリッツ(1914年生まれ)は、1914年12月25日と蒸気船朝鮮号で帰国した。[山東鉄道鉱山部採鉱夫]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ボッフム出身。(4331:「熊本→」大分→習志野)
243) Boemer(ベーマー),Friedirch W.(1882-1932):海軍野戦砲兵隊・後備上等兵。旅館主ヨーゼフ(Joseph)と母マティルデ(Mathilde)の元に1882年5月5日にアルフ(Alf)で生まれた。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた。ハレ(Halle)で没した。モーゼル河畔のアルフ(Alf)出身。(4471:大阪→似島)
244) Bomsdorf(ボムスドルフ),Johann(1890-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。[龍海鉄道(Lung Hai Eisenb.)南京支店]。板東時代、収容所義勇消防団の第1小隊長を務めた。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」(当時39歳)で、2時間52分03秒5分の3で7位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ローザ(Lohsa)出身。(2799:松山→板東)
245) Boncour(ボンクール),Peter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山収容所時代、フランス大使館から健康状態についての問い合わせがあった。ロートリンゲン出身でフランス名はピエール。ヴェルサイユ講和条約後、宣誓解放された。ロートリンゲンのローデンマッヘルン(Rodenmachern)出身。(2784:松山→板東→習志野)
246) Bonifacio(ボニファキオ),Georg(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で錨2点、蹄鉄2点、火鉢3点を出品した。イストリアのピラノ(Pirano)出身。(4482:大阪→似島→習志野)
247) Bonin(ボーニン),Gustav(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。習志野時代の1916年7月、ハインリヒ・ハム(Hamm)とギターの製作を行った。ハムの日記によれば二人は、7月29日にギターの指板のフレット間隔を計算している【『習志野市史研究3』所載の「ハインリヒ・ハムの日記から」(カール・ハム編/生熊文訳)より】。ポーゼンのシュナイデミュール(Schneidenmühl)出身。(27:東京→習志野)
248) Bonk(ボンク),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。[パン職人]。久留米時代、1918年10月から久留米市通町の本村治兵衛工場で、麺麭及び洋菓子製造の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、東京の日清製粉に勤めた。ハレ地区のアイスレーベン(Eisleben)出身。(897:福岡→久留米)
249) Borcherding(ボルヒャーディング),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。[メルヒャース上海支店]。ブレーメン出身。(2798:松山→板東)
250) Borcke(ボルケ),Otto von(1883-1941):第3海兵大隊第3中隊・陸軍歩兵中尉。陸軍大尉の父エーミール(Emil;1841-1900)と母イェニー(Jeny;1855-1946)の五男としてメーヴェ(Meve)に生まれた。妻イサベル(Ysabel;1886-1974、アメリカのフィラデルフィア出身)は一時期東京の帝国ホテルに居住した。子供が三人いたが、一番年上の長女は1915年4月8日東京で生まれた。1914年11月28日付けで大尉に昇進した。コーブレンツ近郊のヴァイセントゥルム(Weissenthurm)出身。(325:久留米)
251) Boris(ボリス),Paul(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ボリスは布製品、革製品の部でハンガリー模様の女性スリッパ8点、男性スリッパ7点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』81頁、大津留厚編・監訳/福島幸宏編『小野市史第三巻 本編Ⅲ』別冊】。ハンガリーのセゲディン(Szegedin)出身。(2151:姫路→青野原)
252) Bormacher(ボルマッハー),Josef(1894-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門では、シュルテ(Schulte)と共同で昆虫標本3箱(蛾、甲虫、蝶)を出品した。ラインラントのモンハイム(Monheim)出身。(3855:大阪→似島)
253) Bormann(ボルマン),Karl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、横浜に住んだ。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。また1960年頃にも、「チンタオ戦友会」に出席した。シュヴェーリン出身。(329:久留米)
254) Born(ボルン),Carl Christian(1884-1929):海軍野戦砲兵隊・予備1等砲兵。[皮革業]。1915年9月20日、名古屋へ収容所換えになった。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のカルロヴィッツ商会に勤めた。後に中国に渡りその地で死去した。ラーン河畔のナッサウ(Nassau)出身。(961:福岡→名古屋)
255) Born(ボルン),Luis(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。解放後は蘭領印度に渡った。グムビンネン(Gumbinnen)出身。(376:久留米)
256) Bornemann(ボルネマン),Erich(1888-?):海軍膠州砲兵隊・1年志願兵。1916年10月20日大阪へ収容所換えになった。ロスラウ(Rosslau)出身。(930:福岡→大阪→似島)
257) Bornmann(ボルンマン),Bernhard(?-?):海軍砲兵中隊・1等焚火兵。大戦終結後、第4次送還船で下記エーミール(Emil)と同船でドイツに帰国した。ハンブルク出身。(3234:熊本→久留米→板東)
258) Bornmann(ボルンマン),Emil(?-?):国民軍・上等歩兵。[商人]。青島時代は太子街(Kronprinzenstraße)に住んでいた。大戦終結して解放後、第4次送還船で上記ベルンハルト(Bernhard)と同船でドイツに帰国した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(2144:姫路→青野原)
259) Bornmann(ボルンマン),Peter(?-?):国民軍・階級不明。[大工棟梁]。青島時代は太子街に住んでいた。ハンブルク出身。(4476:大阪→似島)
260) Borries(ボリース),Theodor von(1889-1939):第3海兵大隊第3中隊・予備上等歩兵。[カルロヴィッツ商会天津、上海、済南支店]。1915年9月20日名古屋へ収容所に収容換えになった。1939年4月24日、チリのコンケプキオン(Concepcion)で没した。ハンブルク出身。(957:福岡→名古屋)
261) Borstel(ボルステル),Emil(1893-1966):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。キールで没した。マグデブルク管区シュテンダール(Stendal)郡のタンガーヒュッテ(Tangerhütte)出身。(2493:名古屋)
262) Boerstling(ベルストリング),Richard(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、ベルストリングは1919年6月1日に開催されたホッケーの試合に出場したが、ビューラー(Buehrer)と同じような失策をした。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のコスモス貿易(Kosmos Trading Coep.)に勤めた。出身地不明(『俘虜名簿』では満州のハルピン)(330:久留米)
263) Bosch(ボッシュ),Otto(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・伍長。1915年(月日不明)、「暑熱ノ故ヲ以ッテ上衣ヲ脱シ且ツ団扇ヲ所持シテ点呼ニ整列セシハ日本日直士官ニ対シテ礼ヲ失スル」の科で重営倉2日の処罰を受けた。ペテルスドルフ(Petersdorf)出身。(2476:名古屋)
264) Boese(ベーゼ),August(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。小樽から応召か?大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、大阪で商会を経営し、1930年頃は宝塚に住んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのヴァンネ(Wanne)出身。(2469:名古屋)
265) Boese(ベーゼ),Robert(1885-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊長・陸軍中尉。1905年3月14日陸軍の徒歩砲兵部隊に入隊、同年6月14日陸軍少尉、1914年1月1日海軍歩兵部隊に移り、同年6月19日中尉に昇進した。1914年9月27日午前6時、ヴァルダーゼー高地北西の口子で、モッデ(Modde)予備少尉とともに日本軍への砲撃を開始する。久留米時代、1915年11月15日の大正天皇即位大典の祝いに、俘虜一人につきビール一本とりんご2個が配布された。しかしベーゼはフローリアン(Florian)中尉とともに日独両国が交戦中であることを理由に拒否すると、激怒した真崎甚三郎所長から殴打された。このことは後に大問題となった。息子のエルンスト(Ernst;1919年時点で11歳)は一人青島に留まった。ブレスラウ管区のヴェルフェルスドルフ(Wölfelsdorf)出身。(3218:熊本→久留米)
266) Boesler(ベスラー),Ernst(1880-1916):第3海兵大隊第2中隊・後備陸軍歩兵少尉。[上海・医療技術専門学校]。1914年9月28日、浮山で日本軍に包囲され、退却を求めて協議を申し出るが武装解除され俘虜となる。グラーボウ(Grabow)中尉等の一隊を含めてこの日下士以下60名が俘虜となった。パウリー(Pauly)軍曹は11人の兵とともに逃れた。その折り俘虜を尋問したのは山田耕三大尉であった。10月9日、日本への護送可能なグラーボウ中尉等55名とともに俘虜第一陣として門司に到着し、久留米俘虜収容所に送られた。【『日獨戰史』402頁等より】1916年4月18日、肺結核兼肋膜炎により久留米で死亡、久留米の山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)116頁には、ベスラー少尉を送る葬列、弔辞を読む収容所長真崎甚三郎中佐、火葬の様子、及び墓標等6点の写真が掲載されている。なお、大戦終結して解放後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された。ドイッチュアイラウ(Deutscheylau)出身。(356:久留米)
267) Bost(ボスト),Friedrich(?-?):海軍野戦砲兵隊・軍曹。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シフヴァイラー(Schiffweiler)出身。(2475:名古屋)
268) Both(ボート),Henry(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カール・ローデ商会(Carl Rohde & Co.,Kobe)神戸支店]。アルトナ出身。(2796:松山→板東)
269) Both(ボート),Josef(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[石工職人]。丸亀時代の1916年11月6日、エーラート(Ehlert)とともに自殺を企てたが未遂に終わった。収容所内の夾竹桃の葉を煎じて服用する方法だった【『機密日誌 丸亀俘虜収容所』より】。また23日にはエーラートと逃亡を企てて、懲役1年6ヶ月の刑を受けて高松監獄に収監された。【なお、『俘虜名簿』ではボートの所属部隊として、海軍野戦砲兵隊第2中隊となっているが誤記である。海軍野戦砲兵隊は1中隊のみの構成であった】。マイエン(Mayen)出身。(1832:丸亀→板東)
270) Bothe(ボーテ),Carl(?-?):総督府・1等木工。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。リューベック出身。(3862:大阪→似島)
271) Boethke(ベトケ),Paul(1872-1964):総督府参謀本部幕僚・海軍中佐。〔要塞砲兵部長・砲銃庫兼水雷庫長〕。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。1914年11月9日以後の青島開城交渉におけるドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。11月20日、すでに日本に渡っていたベトケ夫人から堀内少将宛てに手紙が届いた。それ以前にもすでに数度の通信があった【『青島攻囲陣中記』144頁等】。大戦終結して解放後の1920年1月5日、ベトケを輸送指揮官とする帰還船「ヒマラヤ丸」は、板東7名、習志野9名、名古屋90名、似島40名、久留米812名の計958名が乗船して神戸を出発し、3月3日に本国に到着した。1960年頃前に「チンタオ戦友会」に出席した。ヴァイクセル川(今日はポーランドのヴィスラ川)右岸のトルン(Thorn)出身。(858:福岡→習志野)
272) Bötjer(ベートイェ),Otto(1890-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・砲兵伍長。大戦終結して解放後、蘭領印度のバタヴィアに赴いて、その地の警察官になった。ザクサー(Saxer)大佐の署名入り証明書が遺されている。シュトルマルン郡のレムザール(Lemsahl)出身。(871:福岡→習志野)
273) Boeving(ベーフィング),Richard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。板東時代、新板東テニス協会のコート係を務めた。1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時29歳)、2時間43 分12 秒で85人中の72位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。また1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ベーフィングは1007分の2点を挙げて上級の部6位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン出身。(2791:松山→板東)
274) Bourguinon(ブルニュヨン),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊。2等砲兵。1915年12月、宣誓解放された。ロートリンゲンのロゼリエレ(Rozeriäulles)出身。(922:福岡)
275) Boysen(ボアゼン),Alfred(?-?):第3海兵大隊第5中隊・戦時志願兵。ローマン(Lohmann)もしくはシュテーゲマン(Steegemann)の遺品と思われる写真中に、青島から日本への俘虜輸送船「ヨーロッパ丸」船上で、ボアゼンが座り込んで手元の何かを眺めている写真、及びボアゼン、シュテーゲマン、エンゲルホルン(Engelhorn)、ヤンゼン(Jansen)の四人が写った写真が現存している【シュテーゲマンの項参照】。ハンブルク郊外のオットマルシェン(Ottmarschen)出身。(2499:名古屋)
276) Brakemeier(ブラーケマイアー),Wilhelm(1876-1958):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。[山東鉄道保線マイスター]。ドイツで指物師としての教育を受けた。デトモルトのブラーケンベルク(Brakenberg)出身。(4333:「熊本→」大分→習志野)
277) Brandau(ブランダウ),Alfred(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・海軍少主計補。板東時代にブランダウ演劇グループを組織した。1918年4月4日から6日の三日間クライストの喜劇『壊れ甕』を上演し、その際に上演の監督を務めた。ワイマール出身。(4135:「大阪→」徳島→板東)
278) Brandes(ブランデス),Otto(1890-1978):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備1等砲兵。[シュヴァルツコップ(F.Schwarzkopf & Co.)青島支店]。青島時代は皇太子街に住んでいた。1916年10月18日大分に、1918年8月に習志野に収容所替えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヒルデスハイム管区のメレンゼン(Möllensen)出身。(874:福岡→大分→習志野)
279) Braendlein(ブレントライン),Richard(1891-?):第3海兵大隊・予備上等歩兵。[商人]。解放後は蘭領印度に渡った。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)156頁には、ブレントラインがドイツの家族へ宛てたクリスマスと新年の挨拶を述べた葉書が紹介されている。ライン河畔のシュヴァインフルト(Schweinfurt)出身。(3213:熊本→久留米)
280) Brandt(ブラント),Albert(?-1956):国民軍・卒。[酪農場経営]。青島近郊の四方(Syfang)で酪農場を経営していた。1915年9月下旬に青島俘虜収容所に収容され、1916年1月31日青島から大阪に移送された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのラウエンブルク(Lauenburg)出身。(4674:青島→大阪→似島)
281) Brandt(ブラント),Friedrich(?-?):第3海兵大隊参謀本部・1等水兵。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロを担当した。また1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、デーゼブロック伍長と組んでAクラス1位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。また工芸品展に自動珈琲沸かし機を、またシュルツ(Schulz)と共同で楽器のチェロを制作・出品した。板東ホッケー協会の、コルトゥム(Cortum)が率いるホッケーチームの一員で、ゴールキーパーを務めた。ヘルゴラント(Helgoland)島出身。(2817:松山→板東)
282) Brandt(ブラント),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1915年6月久留米へ、1918年8月7日板東へ収容所換えになった。レルベック(Lerbeck)出身。(3223:熊本→久留米→板東)
283) Brass(ブラス),Josef(1892-):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』(205頁)には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その右から四人目にブラスが写っている。大戦終結して解放後は蘭領印度に渡り、ケリボン(Cheribon)でライン=エルベ同盟(Rhein-Elbe Union)のために活動した。クレーフェルト(Crefeld)出身。(339:久留米)
284) Brauer(ブラウアー),Friedrich(1891-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。ライン=ヘッセンのフラインヴァインハイム(Freiweinheim)出身。(3852:大阪→似島)
285) Bräuer(ブロイアー),Karl(1878-1959):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・後備伍長。[山東鉄道・四方工場]。1878年5月25日、鉄道局助手の父ルードルフ(Rudolph)と母ルーツィエ(Luzie)の元にザールブリュッケンに生れた。中国に赴いて、山東鉄道の四方工場で主任として勤め、1914年8月上記部隊に入隊した【シュミット】。ザールブリュッケン出身。(4472:大阪→似島)
286) Braun(ブラウン),Fritz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代の1918年5月5日、「航海生活25年」と題して講演した。ベルリン出身。(1844:丸亀→板東)
287) Braun(ブラウン), Heinrich(1892-1953):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1918年3月22日習志野へ収容所換えになった。ドイツへ帰国後結婚して子供一人をもうけ、塗装店を経営した。ヘッセンのクレーバ(Kleba)出身。(862:福岡→習志野)
288) Brauner(ブラウナー),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月20日青野原へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメンのフェーゲザック(Fegesack)出身。(910:福岡→青野原)
289) Braeuninger(ブロイニンガー),Waldemar(1887-?):総督府経理局・1等給与掛筆記。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。フレンスブルク出身。(2814:松山→板東)
290) Bredebusch(ブレーデブッシュ),Karl August(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。[カッセラ済南支店]。板東時代、『日刊電報通信』(Täglicher Telegrammdienst Bando、略称TTD.)に掲載するニュースの整理に当たり、やがて1918年8月以降はブレーデブッシュの編集の下で、様々なニュースが追加されて日々の電報を補足するという通信サービスが始まった【『バラッケ』第2巻82頁】。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(2801:松山→板東)
291) Breidenassel(ブライデナッセル),Joseph(1893-1966):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、第2棟3室でビールを販売した。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、クラリネットを担当した。大戦終結して解放後は、蘭領印度のメダンに渡った。ケルン出身。(1823:丸亀→板東)
292) Breithardt(ブライトハルト),Karl(1891-1948):測量艦プラーネット乗員・2等水兵。研磨師の父カール・ヴィルヘルムと母ユーリエとの間に7番目の子として生れた。商人として修業の後1912年12月13日海軍に入り、河用砲艦チンタオの水兵となった。1914年10月10日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となり、日本へ送還されたが11月1日宣誓解放された。その後中国に赴き、1917年4月3日北京で日本軍により中国管轄の「Hai-Chien」俘虜収容所へ送られた。1920年1月ハドソン丸でドイツに帰還した。1921年6月4日エンネ・アウグスト・クリューガー(Aenne August Krüger)と結婚して息子一人をもうけ、ライン=ヴェストファーレンの電気会社で簿記係として勤務した。ラインラントのオーリクス(Ohligs)出身。(4667:なし)
293) Bremser(ブレムザー),Willy(1885-?):海軍砲兵中隊・後備兵曹。[山東鉄道四方工場事務員]。父は鉄道車両マイスターで、母はアウグステという名であった。出納業務修業のために国営鉄道(管理・会計係り)入りしたが、後に海軍に入り、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍北海司令本部記録係りとなった。その後いく度か巡洋艦に乗り組み、最終的に青島の山東鉄道四方工場の事務部に入った。1913年エリーゼ(Elise)と結婚した。妻は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結して解放後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。ヴィースバーデン出身。(4337:「熊本→」大分→習志野)
294) Breternitz(ブレーターニッツ),Robert(1875-?):第3海兵大隊工兵中隊・予備陸軍工兵少尉。1905年10月19日第1鉄道連隊少尉、後にゲロルシュタイン(Gerolstein) の鉄道建設・運営監督官になった。1914年11月9日の青島開城交渉ではドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。テューリンゲンのルードルスシュタット(Rudolstadt)出身。(3222:熊本→久留米)
295) Bretz(ブレッツ),Gustav(1892-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。ラインプファルツのディールキルヒェン(Dielkirchen)出身。(1821:丸亀→板東)
296) Breuer(ブロイアー), Johann Hubert(1890-1943):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。アーヘン近郊のオイヒェン(Euchen)出身。(925:福岡→大阪→似島)
297) Brilmayer(ブリルマイアー),Joseph(1886-1920):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備海軍少尉。〔第13砲台指揮官〕。1920年1月16日、似島で死亡。ビンゲン出身。(3841:大阪→似島)
298) Bringmann(ブリングマン),Wilhelm(1883-1939):第3海兵大隊副官・陸軍中尉。[高等山林局長]。1902年7月19日陸軍入り、同年10月18日歩兵少尉、1908年10月1日海軍歩兵隊に移り、1911年10月18日海軍歩兵中尉、1914年11月8日海軍歩兵大尉に昇進した。青島時代は太子街に住んでいた。1914年11月18日、局長官舎は日本の青島守備軍旅団司令部に充てられた。大戦終結して解放後の1920年3月9日陸軍に入り、同年5月29日ケルンで結婚した。ラインプファルツのクリークスフェルト(Kriegsfeld)出身。(2467:名古屋)
299) Brinker(ブリンカー),Franz(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、第7室の6室でビールとタバコを販売した。ヴァルトロプ(Waltrop)出身。(2778:松山→板東)
300) Brinkhaus(ブリンクハウス),Fritz(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ミュンスター出身。(2806:松山→板東)
301) Brinkmann(ブリンクマン),Heinrich(?-?):第3海兵中隊機関銃隊・上等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ボッフム県のヴァイデマール(Weidemar)出身。(2486:名古屋)
302) Brobecker(ブロベッカー),Huber(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。大阪時代の1915年2月15日、静岡俘虜収容所で俘虜による自炊を行うことになったことから、料理の心得のあるブロベッカーは、アウグスト(August)とともに静岡俘虜収容所へ移送された【『静岡民友新聞』記事より】。静岡時代、札の辻八木麺麭店に指導に出かけた【「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ中の、「16の収容所」中の静岡俘虜収容所の項より】。アーヘン出身。(3850:大阪→静岡→習志野)
303) Brockdorff(ブロックドルフ),Cay Graf von(伯爵;1890-?):第3海兵大隊第1中隊・後備伍長。中国税関長の伯爵フーゴー・フォン・ブロックドルフ(Hugo Graf von B.)を父に北京で生れた。1915年6月久留米に収容所換えになり、1919年12月習志野へ移送された。大戦終結して解放後は蘭領印度に渡り、1929年8月28日インタ(Inta Martini)と結婚した。北京出身。(3194:熊本→久留米→習志野)
304) Brodbeck(ブロートベック),Hermann(1890-1963):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等焚火兵。1915年7月11日久留米に収容所換えになった。クレーフェルト(Krefeld)出身。(899:福岡→久留米)
305) Brodnitzki(ブロートニツキ),Paul(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第4棟7室でハーベレヒト(Haberecht)及びヘッカー(Höcker)とゴミ処理会社を営んだ。ドルトムント出身。(1836:丸亀→板東)
306) Bröhl(ブレール),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。1915年9月20日、名古屋へ収容所換えになった。解放後はロシアのウラジオストックに赴いた。ボン出身。(939:久留米→名古屋)
307) Brohm(ブローム),Karl(1896-1963):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[錠前工]。後に職工マイスターになった。ザクセンのヴァルダースハウゼン(Waldershausen)出身。(923:福岡→青野原)
308) Broihan(ブロイハン),Andreas August(1893-1971):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後エルフリーデ(Elfriede)と結婚したが子供はいなかった。ウーペン(Upen)出身。(346:久留米)
309) Brondke(ブロントケ),Willy(1894-1958):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。工場主にして商人のパウル(Paul Brondke;1869-1945)を父に生れた。解放後は商人となり、アンネリース(Annelies Lehmann)と結婚し、息子が三人いた。ニーダーライジッツのフィンスターヴァルデ(Finsterwalde)出身。(373:久留米)
310) Bronner(ブロンナー),Johann(1893-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年1月30日、ルフ(Ruff)指導による寄席「ミモザ」の第2回上演会が開催された。その折りブロンナーはケラー(Keller)、シルト(Schild)及びローレンツ(Lorentz)とともにチロルのダンスと歌を披露した。彼らの即興歌と靴底を叩くダンスは喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916年1月30日発行)より】。板東時代、第3棟1室でビール販売を営んだ。バーデンのブルフザール(Bruchsal)出身。(4122:「大阪→」徳島→板東)
311) Bronzovic(ブロンソヴィッチ), Josef (クロアチア語名は Josip;1891-1934): 巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。解放されて帰国後フランカ(Franka)と結婚して子供二人をもうけた。アルゼンチンに移住したが、1930年にダルマチアに戻った。ダルマチアのセルカ(Selca)出身。(2157:姫路→青野原)
312) Brosseit(ブロサイト),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。1915年9月15日習志野へ収容所換えになった。習志野時代のクリューガー(Karl Krüger)によれば、実にちゃっかりした若者で、郷里の大勢の娘達と文通し、それを活かして収容所内でも、贈り物の小包を一番沢山貰っていた。習志野収容所での映画上映を軌道に乗せた人物でもある【『ポツダムから青島へ』210頁】。東プロイセンのラーギング(Raging)出身。(881:福岡→習志野)
313) Brück(ブリュック),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代の1918年5月4日、シラーの『ヴァレンシュタインの陣営』上演に際して、クレーマー(Kremer)とともに狩人を軽快に演じた。ラインラントのフェルベルト(Velberlt)出身。(2780:松山→板東)
314) Bruck(ブルック),Hugo vom(1869-1951):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。[山東鉄道鉱山部]。1891年11月4日徒歩砲兵連隊に入隊した。後に中国に赴き、山東鉄道会社に入った。済南から応召した。クララ・ラース(Klara Laas)と結婚し、子供6人をもうけた。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、満州に渡って南満州鉄道会社に入ったが、1921年10月18日故郷のフェルベルトに戻った。ラインラントのフェルベルト(Velbert)出身。(4332:「熊本」→大分→習志野)
315) Brückel(ブリュッケル), Friedrich Wilhelm(1894-1966):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日、福岡から大阪へ収容所換えになった。大戦終結して郷里の戻った後、アメリカに渡って結婚し娘一人をもうけた。カリフォルニアのフレスノでいちぢく農園を経営した。フレスノで没した。バイエルンのポルジンゲン(Polsingen)出身。(924:福岡→大阪→似島)
316) Brügge(ブリュッゲ), Josef(1888-1968):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。[青島膠海関]。戦争勃発時、青島のドイツ街(Deutschlandstraße;日本による占領・統治時代は大和町)に住んでいた。郷里に帰国後結婚して、娘二人をもうけた。園丁師として働いた。ヴェストファーレンのマリーエンフェルト(Marienfeld)出身。(3239:熊本→久留米)
317) Brüggen(ブリュッゲン), Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リューベック出身。(893:福岡→習志野)
318) Brügner(ブリューグナー),Arthur(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備2等歩兵。静岡時代の1917年2月17日から、静岡工業試験場に出向き、指物・玩具の製作指導をし、19日(月曜)から「方七寸位の箱の製作に着手した」【『静岡新報』(大正6年2月20日付記事及び「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページの、「16の収容所」中の静岡俘虜収容所の項より】。ライプチヒ出身。(1711:静岡→習志野)
319) Brundig(ブルンディヒ),Otto(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、1917年7月17日に発足した「収容所保険組合」に工兵中隊代表となって組合の運営に従事した。マグデブルク出身。(2805:松山→板東)
320) Brunni(ブルンニ),Angello(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916年10月9日、ツリアーニ(Zulliani)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのロヴィンゴ(Rovingo)出身。(2159:姫路→青野原→丸亀→板東)
321) Bruns(ブルンス),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊・上等掌砲兵曹。1896年11月3日海軍に入り、1909年4月1日上等掌砲兵曹になった。青島時代はアウグステ・ヴィクトリア浜(Auguste-Victoria-Ufer;日本の占領統治時代は旅順町)に住んでいた。1915年9月15日習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オステ河畔のノイハウス出身。(901:福岡→習志野)
322) Brüsehof(ブリュゼホーフ),Adolf(1884-?):海軍膠州砲兵隊・海軍少主計。1902年10月1日海軍入り、1912年3月30日海軍少主計になった。1914年8月、総督府被服・糧食部任務となった。大戦終結後、パッツィヒ(Patzig)中尉指揮の俘虜帰還船ハドソン丸の主計を務めた。エムス(Ems)河畔のリンゲン(Lingen)出身。(3842:大阪→似島)
323) Büch(ビューヒ),Ludwig(1890-1960):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。青島時代の青島周辺の林の中で、右手に持った銃を下ろして立つ写真、並びに戦友と二人が写った(場所・日付不明)が遺されている【シュミット氏のホームページより】。板東時代の1919年4月6日、習志野のマイレンダーに宛てて葉書を出した。葉書は徳島市東新町の光景写した絵葉書である。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。1960年1月10日、ホルツ(Holz)で死去。ラインラントのホスターホーフ(Hosterhof)出身。(2808:松山→板東)
324) Büchel(ビュッヒェル),Christoph Johann(1894-1932):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。ドイツ帰国後の1921年4月30日、ラウラ・プラズーン(Laura Prasuhn)と結婚した。子供はいなかった。オルデンブルクのデルメンホルスト(Delmenhorst)出身。(4339:「熊本→」大分→習志野)
325) Buchenau(ブヘナウ),Paul(?-?):国民軍・階級不明。[アルンホルト、カルベルク青島支店]。青島時代はブレーメン街(Bremerstraße;日本の占領統治時代は馬関通)に住んでいた。大阪時代手紙を出す際に、カタカナで「ブヘナウ」と彫った楕円の判子を使用した。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ラインラントのレネップ(Lenepp)出身。(4474:大阪→似島)
326) Buchenthaler(ブーヘンターラー),Heinz(1876-?):第3海兵大隊参謀本部・陸軍大尉。〔給養及び通信将校〕。[北京大使館武官兼通訳]。1895年3月22日歩兵少尉、1904年11月15日歩兵中尉、1911年5月30日歩兵大尉(歩兵第112連隊)。1914年8月第3海兵大隊参謀本部に入った。1916年11月2日、秘密通信を行ったことで処罰を受けた。1919年11月、ドイツの利益代表を務めるスイス公使に宛てて、蘭領バタヴィアでの就職に関して斡旋依頼方の信書を出した。1920年1月20日、インゲ(Inge Marie Anna Bruun de Neergaard;1882-1950)と結婚した。後に蘭領印度のバンドンで財務部に勤めた。出身地不明(『俘虜名簿』では北京大使館)。(380:久留米)
327) Bucher(ブーハー),Franz(1892-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。レーゲンスブルク出身。(1846:丸亀→板東)
328) Buchmann(ブーフマン),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備1等砲兵。[塗装職マイスター]。青島時代は台西鎮街通(Taihsitschenstraße)に住んでいた。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、シュミット(Schmidt;特定不可)とデザインの面で協力した。1918年3月8日から19日かけて開かれた板東公会堂での絵画と工芸品展覧会で、出品した油絵「海の光景」は最も好評を博し、写真部門の「青島」では一等賞を受賞した。『バラッケ』1919年6月号に、ブーフマンによる大麻神社の狛犬のスケッチが掲載されている。ザクセンのヒラースレーベン(Hillersleben)出身。(4124:「大阪→」徳島→板東)
329) Buchner(ブーフナー),Emil(1891-1977):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日久留米へ収容所換えになった。帰国後の1920年5月22日、マルタ(Martha Schäfer)と結婚して息子二人をもうけた。靴製造工場をもつ靴店を経営した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデンのニーダーロスバッハ(Niederrossbach)出身。(950:福岡→久留米)
330) Budde(ブッデ),Frantz(1893-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。ヴェストファーレンのホルン(Horn)出身。(1822:丸亀→板東)
331) Budde(ブッデ),Karl(1891-1960):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後ヨゼフィーネ・ヴェルナー(Josefine Werner)と結婚して子供三人をもうけた。製紙工場のボイラーマンとして働いた。ヴレクセン(Wrexen)出身。(374:久留米)
332) Budich(ブーディヒ),Georg(?-?):第3海兵大隊第3中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、61⅓点を獲得して第9位になった。ライジッツのゾーラウ(Sorau)出身。(358:久留米)
333) Buehrer(ビューラー),Alfred(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。[銀細工職人]。1917年5月、横浜万国宝通銀行から情報局へ、ビューラー宛60円(郵便為替)と信書1通交付の問い合わせがあった。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、ビューラーは1919年6月1日に開催されたホッケーの試合に出場したが、ベルストリング(Börstling)と同じような失策をした。1919年3月に発行された『久留米詩文集』(Dichtungen von Kriegsgefangenen des Lagers Kurume-Japan)の図案・装丁を担当した。解放後は蘭領印度に渡って商会に勤めた。プフォルツハイム出身。(336:久留米)
334) Buhrmester(ブーアメスター),Heinrich(1894-1972):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年9月20日名古屋へ収容所換えになった。ドイツに帰国後は煙草工場で働いた。ミンデンに没した。ミンデン(Minden)出身。(951:福岡→名古屋)
335) Bungarts(ブンガルツ),Hubert(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。2007年11月7日、孫のブンガルツ氏がハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に書き込みをした。祖父についての情報を尋ねる内容である。ラインラントのギア(Gier)出身。(4470:大阪→似島)
336) Bunge(ブンゲ),Karl(?-?):国民軍・2等歩兵。板東時代、兄マックス(Max)・ブンゲとともに展覧会で活躍した。解放後は蘭領印度に渡った。ホルシュタインのハイリゲンハーフェン(Heiligenhafen)出身。(2813:松山→板東)
337) Bunge(ブンゲ),Max(1881-1964):第3海兵大隊第7中隊・曹長。〔第2歩兵堡塁〕。[徳華高等学堂(Deutsch-Chinesiche Hochschule)管理官]。大胆な行動で日本軍の前線を突破して、日本軍陣地を詳細に偵察して報告した。青島陥落前夜部下達に、「我ら進まん祈りに応えて…」の歌を歌うよう励ました【ゴットベルク『チンタオの英雄たち』(Gottberg:Die Helden von Tsingtau)108頁】。ブンゲ曹長は一兵卒の時代に起こった義和団事件の折りの活躍で、青島のドイツ人社会では知らぬ人のいない人物であった。除隊後も東アジアに留まった。青島のベルリン福音教会教区監督フォスカンプの日記を基にした体験記『包囲された青島から』(Aus dem belagerten Tsingatu)にも、しばしばその名が登場する。1914年、『膠州の1898年から1901年。一兵卒の回想録―第3海兵大隊の平時と戦時』(Kiautschou 1899/1901. Erinnerungen eines ehemaligen Seesoldaten.In Kriegs- und Friedenzeiten beim Ⅲ. Seebataillon)を著し、青島のアードルフ・ハウプト(Adolf Haupt)印刷所から出版した。膠州総督府に寄贈されたヴィルヘルム・コーン叢書中には、この本が30冊まとめて収蔵されていた。他の蔵書にも複数単位で見受けられることから、青島ドイツ人社会で広く読まれたものと推測される【参照:『鹵獲(ろかく)書籍及図面目録』、へ‐19頁等】。この回想録によるとブンゲは、1898年11月にキールで海軍歩兵第3大隊に2年勤務の志願兵として応募した。新聞各紙に新設の上記大隊への募集が行われていたのであった。ヴィルヘルムスハーフェンで数ヶ月の訓練を受けた後、1899年3月2日に輸送船ダルムシュタットで青島に向かい、4月11日到着した。青島では4中隊編成の第4中隊に属した。1900年5月末、義和団により騒乱状態の天津へ派遣された。天津に着く前に大沽要塞攻防に従事、後に天津での戦闘に参加し、6月9日青島へ帰還した。やがて膠州租借地周辺、特に高密で山東鉄道建設を阻止しようとする義和団や農民等が荒れ狂うと、青島の海軍歩兵大隊に、4中隊の各中隊から人員が出されて、第5中隊として騎兵中隊が編成された。ブンゲはその騎兵中隊所属となる。ブンゲはドイツとの話し合いを拒む高密管轄の官人が居住する高密城の城壁をよじ登って、城門を開ける功績を挙げた。高密管轄の官人との話し合いには、総督府の通訳官シュラマイアーが当った。鉄道の建設工事を護るために、ドイツ守備隊の高密駐屯を認めさせる交渉であった。2年の兵役義務を果たしたブンゲはいったん帰国するがやがて青島に戻り、1908年上海でグレーテ(Grete)と結婚した。丸亀俘虜収容所では収容所当局から、古参の准士官として第7中隊の班長に指名された。収容されてまもない1914年11月18日、ランセル(Lancelle)大尉とともに収容所当局に4項目の要求を申し入れた。それは、1)食事ノ量ヲ増スコト 2)麦酒(ビール)ヲ飲マシムルコト 3)酒保ヲ開クコト 4)将校ニハ散歩ノ自由ヲ許スコト、の4項目であった【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代の1918年3月8日から19日かけて開催された板東公会堂での絵画と工芸品展覧会において、弟カール(Karl)・ブンゲとともに公会堂を美術ホール風に飾りつけた。自身は油絵「私の両親の家」という、丁寧な作品を出品して三等賞を受賞した。妻グレーテは大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結してドイツに帰国後、1922年に再び中国の上海へ赴き、1926年にその地で娘のエルゼ(Else)が生まれた。1928年ドイツに戻り、1932年から45年まで、郷里ハイリゲンハーフェンの町長を務めた。1945年以後は、ハンブルクの会社に勤め、1964年3月6日郷里に没した。2007年2月8日、孫のフランツ・クロンキ(Franz Klonki)氏がシュミット氏のホームページ中の「ゲストブック」にコメントを寄せた。それによれば、クロンキ氏はマックス・ブンゲの一人娘エルゼ(Else)の息子である。ホルシュタインのハイリゲンハーフェン(Heiligenhafen)出身。(1842:丸亀→板東)
338) Bunsen(ブンゼン),Karl(?-1923):第3海兵大隊第1中隊・予備2等歩兵。解放後は蘭領印度に渡って商会に勤めた。ハンブルク出身。(354:久留米)
339) Bünting(ビュンティング),August(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[中国輸出入会社青島支店代表]。青島時代はドイツ街(Deutschlandstraße)に住んでいた。解放後は日本に留まり、カテリーネ(Katherine)と結婚、神戸市山本通4丁目97-7で「K. H. A. ビュンティング商会」を経営した。ブレーメン出身。(1845:丸亀→板東)
340) Burberg(ブルベルク),Max(1892(?)-1948):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備砲兵伍長。1915年9月20日名古屋へ収容所換えになった。ローマン(Lohmann)の遺品と思われる写真中に、ブルベルク、ローマン(Lohmann)及びヤコービ(Jacobi)の三人が、寺の山門を通り抜けて手歩いて来る様子を写した写真が現存している【ローマンの項参照】。1944年2月17日、ウィーンで結婚した。デュッセルドルフ近郊のメットマン(Mettmann)出身。(869:福岡→名古屋)
341) Bürckmann(ビュルクマン),Karl Stefan(1894-1982):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後は郷里の煉瓦工場で働いた。プファルツのラインツァーベルン(Rheinzabern)出身。(362:久留米)
342) Burggraf(ブルクグラーフ),Lubens(1891-1957):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日名古屋へ収容所替えになった。1921年12月5日カタリーナ(Katharina Meis)と結婚し、子供が二人あった。リンベルク近郊のデーレン(Dehren)出身。(941:福岡→名古屋)
343) Burhop(ブルホープ),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1918年9月、「板東健康保険組合」の第4中隊代表理事に選ばれた。解放後は蘭領印度に渡って、浚渫船「スマトラ」の仕事に従事した。ブレーメン出身。(4126:「大阪→」徳島→板東)
344) Burkhardt(ブルクハルト),Martin(1879-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。ザクセンのグロースレールスドルフ(Grossröhrsdorf)出身。(23:東京→習志野)
345) Burmeister(ブルマイスター),Albert(1886-?):第3海兵大隊第5中隊・軍曹。1919年8月23日付けでカルクブレンナー(Kalkbrenner)を代表者として、名古屋俘虜収容所を通じて北海道帝国大学に提出された下記「趣意書」には、次の経歴が記されている。敢えて表記等原文のままにした。「14歳ニシテロイツノ小学校ヲ卒業ス 幼少ヨリ1905年10月兵役迄農業ニ関スル全テノ実際的方法ノ研究ヲ終エタリ 入隊後ハ乗馬隊於テ養馬ノ方法ヲ実際ト学理トニ就テ修得シ二ヶ年糧秣下士タリキ 耕作、馬畜、家禽飼養ヲ特技トス、乗馬ノ練育ニ就キ特殊ノ技能ヲ有ス」【「獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書」より。以下「北海道移住」とのみ記す】。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。ポンメルンのロイツ出身。(2473:名古屋)
346) Burmeister(ブルマイスター),Wilhelm(1895-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その中央にブルマイスターが写っている。脚にガードを付けていることからキーパーをしていたと思われる。ロストック出身。(347:久留米)
347) Buroh(ブロー),Christian(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備砲兵軍曹長。[商会店員]。青島時代はティルピッツ街に住んでいた。1916年10月18日、ノイマイアー(Neumaier)等68名とともに、福岡から大分に移送された。妻アルヴィーネ(Alwine)は大戦終結まで青島に留まった。キール出身。(904:福岡→大分→習志野)
348) Busam(ブーザム),Karl(?-?):所属部隊・階級不明。[築港倉庫監督官]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。1915年1月2日に青島で俘虜となったが、ブーザムは5月22日、青島俘虜収容所を逃亡して上海に逃れ、日本への移送を免れた【なお1915年1月4日、非戦闘員と称した者で予備後備等の軍籍にあった者の一斉大検挙が行われ、92名が新たに俘虜とされた。また、軍に提供した家屋の接収も行われた】。出身地不明。(4627:青島)
349) Busch(ブッシュ),Alfred(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(1843:丸亀→板東)
350) Busch(ブッシュ),Henry(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備上等兵。[山東鉄道管理部簿記係]。青島時代は停車場街(Bahnhofstraße;日本による占領統治時代は横須賀町)に住んでいた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク出身。(4330:「熊本→」大分→習志野)
351) Busch(ブッシュ),Johannes(1883-1971):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。[カルロヴィッツ青島支店]。熊本時代の1915年1月24日、阿弥陀寺に収容されていたブッシュは、ラッペンエッカー(Rappenecker)、ツァイス(Zeiss)及びフリッケ(Fricke)の四人で収容所から脱走した。夜の内に海岸へ20キロの地点まで進んだ。翌朝早くに同罪となることを恐れたシューマン(Paul Schumann)の報告で脱走が分かり、四人はボートで海に漕ぎ出す寸前で警察官に逮捕された。荒縄で繋がって縛られて収容所に連れ戻され、やがて軍法会議で一年の禁固に処せられた。拘禁中は赤茶色の囚人服を着せられた。1915年11月、大正天皇の即位による恩赦でクリスマスに釈放されて久留米俘虜収容所に送られた【メラー『日本の収容所から脱走を企てる』(Meller,Adolf:Fluchtversuche von Tsingtau-Verteidigern aus japanischem Gewahrsam im Ersten Weltkrieg)より】。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時35歳)、2時間19 分48 秒で85人中の4位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。シュヴェーリン出身。(3197:熊本→久留米→板東)
352) Busch(ブッシュ),Walter(?-?):海軍兵站部・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュテーゲマン(Steegemann)の依頼で、青野原収容所についての私記を寄せた、それはシュテーゲマンの報告書に反映されている。バルメン出身。(2143:姫路→青野原)
353) Buschow(ブショーウ),Erwin(?-?):第3海兵大隊第3中隊・伍長。久留米の演劇活動では、レッシング作の喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』等の24演目全てに女役で出演した。ベルリン出身。(359:久留米)
354) Busse(ブッセ),Wilhelm(1893-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(山越・弘願寺収容)の1915年6月30日、酒保においてビールを騙し取ろうとして7月3日に重営倉10日に処せられた。また1916年7月22日には、命令に反抗したことで重営倉20日に処せられた。解放後は後アメリカに渡り、ニューヨーク等に住んでアメリカの官吏になった。1965年ブッパータール(Wupperthal)に赴き、1967年9月、再びアメリカに渡った。ハノーファーのヒラーゼー(Hillersee)出身。(2788:松山→板東)
355) Bussick(ブシック),Gottlieb(1888-1968):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、63⅔点を獲得して第6位になった。西プロイセンのリュベッケ(Luebbecke)郡ベルニングハウゼン(Boerninghausen)出身。(335:久留米)
356) Bussmann(ブスマン),Johann(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(大林寺収容)の1915年11月1日、日本官憲が命じた取締准士官の命令に従わず、放歌喧騒した咎で、11月3日に重営倉5日に処せられた。また1916年10月15日には、侮辱、違令、暴行未遂に問われていたところ、違令、暴行未遂は証拠不十分とされたが、侮辱罪により拘留20日に処せられて広島監獄に入れられた。ブレーメン出身。(2785:松山→板東)
357) Buttersack(ブッターザック),Conrad(1881-1961):第3海兵大隊第6中隊長・陸軍歩兵中尉。〔歩兵堡塁中間防禦右翼隊指揮官〕。1901年3月22日陸軍入り、同年6月22日歩兵少尉、1906年8月18日海軍歩兵に移り、1910年6月16日海軍歩兵中尉、1914年8月第3海兵大隊へ移籍し、1914年8月大尉になった。青島時代はビスマルク街(Bismarckstraße;日本の占領統治時代は万年通)に住んでいた。松山時代には、『陣営の火』に都合3回に亘って計50頁に及ぶ、第3海兵大隊の歴史と活動を紹介した文章を寄稿した。1917年6月15日、板東では「カンネーの戦いについて」の第1回講演を行う。同年9月21日、「旅順と青島について」の第1回講演を行う。1920年3月10日陸軍へ復帰し、アニー(Anny)と結婚した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデン出身。(2777:松山→板東)
358) Büttinghaus(ビュッティングハウス),Karl(?-1944):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。[食肉加工職人]。大戦終結後、千葉出身の日本女性と結婚した。1925年頃、目黒に東京で最初のソーセージ工場を作り店舗も構えたが、後に神戸に進出した。1944年暮れに死去。1945年の神戸空襲で店舗は焼失し、戦後再建には至らなかった。なお、1924年に横浜の本牧で精肉業を営んでいた矢島八郎は、上記目黒の工場に豚肉を納めていたが、やがてビュッティングハウスの指導を受けてハム・ソーセージ造りを手がけることになり、今日は三代目の矢島八郎が神奈川県茅ヶ崎で、手造りハムの店「ハム工房ジロー」を営んでいる。ヴェストファーレンのバート・ザッセンドルフ(Bad Sassendorf)出身。(878:福岡→大分→習志野)
359) Büttner(ビュットナー),Hermann(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備上等工兵。板東時代、公会堂での手工芸品展に蝶の標本採集を出品した。トリーア出身。(2807:松山→板東)
360) Büttner(ビュットナー),Karl(?-?):海軍東アジア分遣隊・予備副曹長。1915年7月11日久留米へ収容所換えになった。久留米時代の1919年、カール・フォークト(Karl Vogt)作曲『四つの歌』の内の「到着」を歌った。トリーア出身。(933:福岡→久留米)
361) Buzan(ブツァン),Stephan(1893-1968):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。帰国後結婚して息子三人をもうけた。ダンチヒ地区のブレトシン(Bretoshin)出身。(17:東京→習志野)
362) Buzmann(ブーツマン),Franz(1892-1967):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。板東時代、収容所正門を入って左脇にある衛兵所横の小屋に詰めた。解放後は指物師として働き、1923年結婚して二人の子供をもうけた。妻と死別後の1933年再婚して7人の子供をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセン=アンハルトのアーメスドルフ(Amesdorf)出身。(4129:「大阪→」徳島→板東)
363) Cainennberg(カイネンベルク),Heinrich(1890-1968):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。解放されて帰国後、ヨハンナ(Johanna Buttenborg)と結婚して子ども二人をもうけた。ラインラントのレース郡イッセルブルク(Isserburg)出身。(2503:名古屋)
364) Carl(カール),Wilhelm(1880-1960):第3海兵大隊・2等歩兵。[山東鉄道]。エアフルト出身。(4342:「熊本→」大分→習志野)
365) Carstens(カルステンス),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[香港のウルデルプ、シュリューター(Ulderup & Schlüter)商会]。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。ドイツ領からデンマーク領に編入されたアーベンラー(ドイツ語名アーペンラーデ)出身。(2822:松山→板東)
366) Casapiccola(カサピッコラ),Cyrill(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等機関下士。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。イストリアのゲリー(Goery)出身。(2165:姫路→青野原)
367) Caspari(カスパリ),Albert Friedrich Otto(1896-1976):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術部門の写真で、大阪収容所の写真50点を出品した。ザクセンのシャッハヴィッツ(Schachwitz)出身。(3866:大阪→似島)
368) Castagne(カスタニュ),Rudolf(?-?):海軍砲兵中隊・1等信号兵。解放後は蘭領印度に渡った。ハンブルク出身。(3254:熊本→久留米)
369) Christian(クリスティアン),Erich(1892-1983):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部の作業道具の部門に鉋台を出品した。ザクセンのグラウハウ(Glauchau)出身。(4488:大阪→似島)
370) Christensen(クリステンセン),Karl(?-?):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹補。1919年8月、上海のデンマーク公使宛に送付請求の信書を出し、検閲の上18日に情報局へ転送された。1919年6月28日に締結されたヴェルサイユ講和条約により、宣誓解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。アーペンラーデ(Apenrade)出身。(3255:熊本→久留米)
371) Christiansen(クリスチアンセン),Christian(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[船員]。1915年9月15日習志野へ収容所換えになった。デンマーク人。クリューガー(K.Krüger)によると、習志野時代は人とはあまり付き合わず、一人閉じこもっていた。ドイツ人に対しては、良い感情を抱いていなかったとのことである。グラーフェンシュタイン(Gravestein)出身。(965:福岡→習志野)
372) Christiansen(クリスチアンセン),Friedrich(1880-1960):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[レストラン経営]。青島時代は即墨街(Tsimostraße;日本の占領統治時代は即墨町)に住んで、「レストラン・ドイツ館(Restaurant zum Deutschen Haus)」を経営していた。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。シュレースヴィヒのトライア(Treia)出身。(1858:丸亀→板東)
373) Christi(クリスティ),Karl(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。メーレン(Mähren)のブリュン(Brünn)出身。(3256:熊本→久留米→習志野)
374) Christophe(クリストーフェ),Friedrich Ludwig(1886-1942):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。1915年9月20日名古屋へ収容所換えになった。ケルン出身。(969:福岡→名古屋)
375) Chudzicki(チュジィッキ),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば静岡時代、チュドゥチキは青島時代に二度の外科手術を受けた病歴があった。静岡では鼠径ヘルニアのために二度手術を受けたが再発しているとのことである。参照:大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』216頁】。ポーゼンのルバン(Luban)出身。(1718:静岡→習志野)
376) Claasen(クラーゼン),Hermann(1887-1950):第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。[メルヒャース(Melchers)商会香港支店]。丸亀時代の1915年7月8日、第1ヴァイオリンのエンゲル(Paul Engel)、第2ヴァイオリンのモルトレヒト(Moltrecht)、第3ヴァイオリンのライスト(Leist)、第1フルートのヘス(Hermann Hess)、第2フルートのヤーコプ(Jacob)及びオルガンのクラーゼンの6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「保養楽団」の名称で、1915年1月10日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団】が成立した。また丸亀時代に、1916年11月3日付けの葉書がクラーゼンに届いた。葉書には、立太子礼の記念切手1銭5厘と3銭の二種が貼られている。差出人及び文面は不明【郵趣家三木充氏所蔵品より】。板東時代の1918年4月21日、フリッシュ(Frisch)及びヴェーゲナー(Wegener)と共同で「歌の夕べ」を開催して仲間達に感動を与えた。1918年9月、「板東健康保険組合」の第7中隊代表理事に選ばれた。また、板東俘虜収容所における丸亀蹴球クラブの役員も務めた。1919年3月26日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りクラーゼンはピアノを担当した。編成はガルスター(Galster)海軍中尉のヴァイオリン、デュムラー(Duemmler)海軍大尉のチェロ、クラインシュミット(Kleinschmidt)予備少尉のヴィオラ、クラーゼン伍長のピアノ、ナスート(Nassuth)砲兵伍長のコントラバスであった。ブレーメン出身。(1857:丸亀→板東)
377) Classen(クラッセン),Johannes(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。[シュヴァルツコップ青島支店]。青島時代は皇太子街に住んでいた。キール出身。(384:久留米)
378) Claus(クラウス),Theodor(?-?):海軍膠州砲兵隊。2等砲兵。1915年12月、宣誓解放された。上部エルザスのビュール(Bühl)出身。(967:福岡)
379) Clausing(クラウジング),W.E.Adolf(?-?):総督府・1等信号兵。解放後は蘭領印度に渡った。プロイセンのシュトルコウ(Storkow)出身。(2163:姫路→青野原)
380) Clauss(クラウス),Kurt(1889-1956):第3海兵大隊第5中隊・軍曹。板東時代、第7棟の6室でマッサージ屋を営んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エールツ山地のオルベルンハウ(Olbernhau)出身。(2819:松山→板東)
381) Clausnitzer(クラウスニツァー),Franz(1892-1955):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[搾乳職人]。1892年7月21日、ザクセンのフライベルク市ブラントに生まれた。立派なカイゼル髭をたくわえた大男であった。丸亀時代の1916年10月16日、アルバース(Albers)、デーゼブロック(Desebrock)及びヒンツ(Hinz)の四人で相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東俘虜収容所での、大規模な健康保険組合のモデルとなった【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』109頁】。板東時代、俘虜と地元の大工30人で約5ヶ月を要して完成した牧舎の経営に参画した。日本人側の経営者は船本宇太郎と松本清一の二人であった。船本は毎日収容所までクラウスニツァーを迎えに来た。規則に反することではあるが、天候の悪い時は彼を牧舎に泊めることもあった。船本と一緒に写した写真が残っている。【『「第九の里」ドイツ村』145頁以下】。板東時代のクラウスニツァーに関しては、富田酪農場での勤務成績優良を証明する、高木大尉署名・捺印の1919年8月12日付けの証明書及び、富田久三郎、富田酪農場の松本清一場長(獣医)、船本宇太郎飼育係(獣医)の三名による1919年9月10日付けの感謝状が残されている。後者には12月25日付けの諏訪邦彦大尉の署名も記され、銀盃が感謝の印に贈られたことが明記されている。それらによると、クラウスニツァーは1917年7月から板東俘虜収容所近くの富田酪農場に牛・豚の飼育係として雇用され、搾乳に従事した。松本、船本の両名は、予備8A(3?)等獣医の肩書きが付されている。大戦終結してドイツに帰国後も、一貫して酪農・搾乳の仕事に従事した。1934年9月30日付けでベルリンの帝国農業経営組合から、クラウスニツァーのライプチヒ農業経営組合での指導的な働きに対する証明書が遺されている。それによると、1934年1月15日から9月30日まで、ライプチヒの同協会で指導等に当ったと思われる。また1938年3月18日付けで、ライプチヒの地区生産者協会と地区農業組合による、板東で発行された上記二通の証明書を一通に合わせた書類を追認する形での証明書も遺されている。1940年クラウスニツァーは、ベルリンの家畜情報誌『飼育と繁殖』の発行元に、青島及び俘虜時代の回想録を送ったことを証明する記録が現存している。第一部と第二部に分かれていて、合わせて45ページになる分量であった。しかしそれは印刷されることなく、手稿も散逸したと思われる【『富田製薬百年のあゆみ』87-91頁】。なお、『富田製薬百年のあゆみ』(90頁)には、富田久三郎、松本清一、船本宇太郎達ともに、女児を抱いているクラウスニツァー、その左で女児を見やるシュラーダー(Heinrich Schrader)等の集合写真が掲載されている【〔写真19〕参照】。ザクセンのブラント(Brand)出身。(1855:丸亀→板東)
382) Clemens(クレーメンス),Emil(1891-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ラインラントのデイーリングハウゼン(Dieringhausen)出身。(385:久留米)
383) Colbow(コルボフ),Otto(?-?):海軍砲兵中隊・2等兵曹。東京及び習志野時代、ハインリヒ・ハム(H.Hamm)の日記によると、コルボフはハムとともに台所での仕事に従事した。習志野では、将校のための台所仕事をもっぱら行った【『習志野市史研究3』所載の「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。シェーンベルク出身。(44:東京→習志野)
384) Conrad(コンラート),Max(1882-1925):第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。ザーレ(Saale)河畔のヴァイセンフェルスン(Weissenfelsn)出身。(2500:名古屋)
385) Coordes(コールデス),Hege(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。解放後は蘭領印度に渡った。ハノーファー近郊のフォルリッツ出身。(386:久留米)
386) Cordes(コルデス),August(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン出身。(3252:熊本→久留米)
387) Cordes(コルデス),Richard(1885-1968):海軍東アジア分遣隊・予備陸軍少尉。[上海・同済医療技術専門学校教師]。1914年9月26日から27日にかけての激戦前、シャウムブルク(Schaumburg)大尉とともに滄口高地で、日本軍が中国人クーリーを使って重砲を据えつける様子を偵察した。習志野時代、習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』(上演日不明)に教育長役で出演した。解放後は中国の呉淞、乃至は上海の同済専門学校に赴いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(968:福岡→習志野)
388) Cordua(コルドゥア),Bruno(1884-?):第3海兵大隊・予備陸軍少尉。〔イルチス山下部砲台指揮官〕。1906年1月27日、徒歩砲兵連隊予備少尉となり、ベルリン郊外のシュテーグリッツ(Steglitz)で商人として従事した。ベルリン出身。(964:福岡→習志野)
389) Coerper(ケルパー),Otto(1891-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍少尉。1910年4月1日海軍入り、1913年9月27日少尉、1920年1月30日中尉となり、同年7月28日に大尉で退役した。蘭領印度に渡り、2等警部としての職に就いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのクレーヴェ(Cleve)出身。(45:東京→習志野)
390) Cortum(コルトゥム),Albert(1889-1970):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[ガレルス、ベルナー商会(Garrels,Börner & Co.)漢口支店]。板東時代、かつてホッケーの選手だったことから、シュルツ(Gerhard Schultz)とともにホッケーチームを組織し、コルトゥム・チームを率いた。チームにはシェーファー(Hermann Schäfer)がいた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(2820:松山→板東)
391) Costenoble(コステノーブレ),Hermann von(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[リヒター商会(Richter & Co.)マニラ支店]。解放後はマニラに渡った。イェーナ出身。(2821:松山→板東)
392) Coupette(クーペッテ),Karl(1885-1964):総督府・海軍中尉。〔要塞通信兼信号将校〕。1914年11月7日午前4時、総督の撤去命令を受けてそれまで防備していた信号所を破壊した。全戦闘員の日本送還直前に、日本軍人の略奪行為に関する情報書類を携えて、総督府から日本軍司令部に派遣された。その抗議は日本軍司令部を激怒させ、結局正規の抗議書とはしなという形で決着した。大戦終結してドイツに帰国後、「1914年戦争における青島信号所並びに海岸無線電信設備」の報告書を書いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュパンダウ出身。(963:福岡→習志野)
393) Cravatzo(クラヴァッツォ),Peter(1893-1918):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第3棟4室で洗濯屋を営んだ。1918年1月2日、腸チフスにより板東で死亡。ケルン出身。(1856:丸亀→板東)
394) Czogalla(チョガラ),Emil(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降し俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ラティボア(Ratibor)近郊のヴェレンドルフ(Wellendorf)出身。(387:久留米)
395) Daams(ダームス),Carl(1892-1983):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日久留米へ収容所換えになった。ドイツに帰国後、後にリューベックに移り、その地で没した。ラインラントのビーネン(Bienen)出身。(980:福岡→久留米)
396) Dahle(ダーレ),Ernst(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[シュヴァルツコップ青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。板東時代の1917年5月、松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロを担当した。また板東テニス協会の会計係を務め、板東ホッケー協会ではチームのメンバーだった。解放後は蘭領印度に渡り、バタヴィアの商会に勤めた。キール出身。(1870:丸亀→板東)
397) Dahlhoff(ダールホフ),Carl(1893-1960):海軍野戦砲兵隊・2等野砲兵。ヴェストファーレンのアンリュヒテ(Anrüchte)出身。(2509:名古屋)
398) Dahlmanns(ダールマンス),Daniel(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月20日大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月に開催された、広島県物産陳列館の似島独逸俘虜技術工芸品展覧会のカタログによれば、ダールマンスはダニエル(Daniel)と共同でクリーニング屋を開いていた。「1916年開業 “迅速、ピカピカ”」等の宣伝文句が記されている。アーヘン出身。(981:福岡→大阪→似島)
399) Dahm(ダーム),Hans Wilheln(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備士官候補生。チリのプンタ・アレナス(Punta-Arenas)から応召か?板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのシングル(ハンディ付き)Aクラスで1位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。板東ホッケー協会の器具係を、板東テニス協会では競技係を務めた。解放後は蘭領印度のジャワ島中部のスマラン(Semarang)の「ヘルヴェチア(Helvetia)商会」に勤めたが、やがて日本に戻り大阪で職を得た。ハーナウ出身。(2825:松山→板東)
400) Dalles(ダレス),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。[土木監督]。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門で、画法幾何学のノート22枚のほか、一家族用の家や別荘等の計画書を多数出品した。 解放後は蘭領印度のに渡り、バタヴィア石油に勤めた。バイエルンのズルツバッハ(Sulzbach)出身。(3875:大阪→似島)
401) Dambly(ダンブリー),Franz(1892-1976):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。ブドウ農園主の子として生まれた。音楽的な才能があり、クラリネットを能くした。 1911年、海軍砲兵の志願兵として皇后ルイーゼに乗り込んで膠州へ赴いた。1916年10月20日青野原へ収容所換えになった。1922年7月22日ローザ・エーゼス(Rosa Ehses;1896-1974)と結婚し、息子一人をもうけた。当初は義父のぶどう園で働いたが、後にルクセンブルクの大手醸造所に職を得た。「ツェルティンゲン=ラッハテイヒ音楽協会」の設立者の一人。ハノーファーで没した。モーゼル河畔のツェルティンゲン(Zeltingen)出身。(982:福岡→青野原)
402) Damerius(ダメリウス),Otto(1887-1933):海軍膠州砲兵隊・1等給与係筆記。板東時代の1918年10月16日、シュトゥットガルトに住むカール・カウフマン(Carl Kaufmann)宛てに書き送った封書が、郵趣家大沼幸雄氏の所蔵で遺されている。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時32歳)、2時間29分24秒5分の3で23位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。解放されてドイツに帰国後は船舶仲買人になった。1925年、ルイーゼ(Luise Schlüter)と結婚して子供を二人もうけた。後に税官吏となったが、結核で死亡した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのブリュンスビュッテルコーク(Bruensbuettelkoog)出身。(4142:「大阪→」徳島→板東)
403) Dammenhayn(ダンメンハイン),Waldemar(1892-1955):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。ヴィッテンベルク郡のケムベルク(Kemberg)出身。(976:福岡→大分→習志野)
404) Daniels(ダニエルス),Kurt(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[山東鉱山会社(Die Schantung-Bergbau-Gesellschaft)上海支店]。松山時代、公会堂の日曜講演会で「犯罪補助科学」と題して講演した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(2826:松山→板東)
405) Daniels(ダニエルス),Matthias(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日、福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月に開催された、広島県物産陳列館の似島独逸俘虜技術工芸品展覧会のカタログによれば、ダニエルスはダールマンス(Dahlmanns)と共同でクリーニング屋を開いていた。「1916年開業 “迅速、ピカピカ”」等の宣伝文句が記されている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケルン出身。(985:福岡→大阪→似島)
406) Danielsen(ダニエルセン),Friedrich Julius(1885-?):第3海兵大隊6中隊・2等歩兵。[ジームセン香港支店]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フレンスブルク出身。(2830:松山→板東)
407) Dau(ダウ),Carl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[青島のシュミット印刷所]。青島時代は、ベルリン街に住んでいた。丸亀時代、「寺院楽団」の会計を担当した。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」団員で、当初は第2ヴァイオリン、後に第1ヴァイオリンを担当した。ホルシュタインのコルマール(Kollmar)出身。(1869:丸亀→板東)
408) Daudert(ダオデルト),Arthur(?-?):第3海兵大隊・上等歩兵。大分の遊廓「春日楼」にキュールボルン(Kühlborn)少尉及びナーゲル(Nagel)の三人で登楼し、芸者と夜を過ごした咎で、1918年2月10日禁錮30日の処罰を受けた。当時30歳だった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。【『俘虜名簿』の「Dandert」は間違い】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ボワイェ出身。(4344:「熊本→」大分→習志野)
409) Deceunink(デツォイニンク),Herbert(1890-1934):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等水兵。解放後は蘭領印度に渡った。ヴェストファーレンのビュア(Buer)出身。(4346:「熊本→」大分→習志野)
410) Decker(デッカー),Otto(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代の1917年11月2日、警邏中の川島上等兵に暴行を加えて営倉に入れられた。なお、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ヴィオラを担当した。ヴュルテンベルクのエーニンゲン・ウンターアハルム(Eningen-Unterachalm)出身。(1863:丸亀→板東)
411) Dedert(デーデルト),Heinrich(1877-?):総督府・曹長。解放後は郷里のレムゴーに戻り、19121年3月31日リッペに移った。レムゴー(Lemgo)出身。(1411:福岡→習志野)
412) Degen(デーゲン),Paul(1891-1975):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1916年10月21日名古屋へ収容所換えになった。1921年6月25日、アンナ(Anna Johanne Feyand)と結婚した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。デュッセルドルフ近郊のメットマン(Mettmann)出身。(972:福岡→名古屋)
413) Dehen(デーエン),Franz(1890-1942):第3海兵大隊工兵中隊・伍長。グレンツァウ(Grenzau)出身。(2505:名古屋)
414) Dehio(デヒオ),Gottfried E.(1885-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・副曹長。父親は著名な美術史家で、シュトでラースブルク大学の教授も務めたゲーオルク・デヒオ(Georg Dehio,1850-1932)、また兄のルートヴィヒ(Ludwig)も歴史学教授であった。大戦終結後は蘭領印度のジャワに渡り、その地の官吏になった。ハンス=ヨアヒム・シュミット氏がルートヴィヒの甥の息子から聞いた話では、第二次大戦中の1942年から1945年まで、デヒオは日本軍の捕虜となっていたとのことである。シュトラースブルク出身。(4345:「熊本→」大分→習志野)
415) Dehner(デーネル),Robert(1893-1940):海軍膠州砲兵隊2等砲兵。1916年10月21日名古屋へ収容所換えになった。ラドルフツェル(Radolfzell)出身。(986:福岡→名古屋)
416) Demartini(デマルティーニ),Peter(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。久留米時代は演劇活動で、『クラブチェアーに座って』に出演した。1918年8月6日、久留米から習志野へ収容所換えになった。セベニコ(Sebenico)出身。(3267:熊本→久留米→習志野)
417) Deneke(デーネケ),Paul(1891-1963):第3海兵大隊第4中隊・伍長。1919年6月22日に開催された「名古屋俘虜製作品展覧会」で配布されたと思われるカタログに拠れば、デーネケはベッカー(Becker)、キューン(Wilhelm Kühn)及びエングラー(Engler)とともに、名古屋収容所におけるトゥルネンの指導者であった。解放後は郷里のロスラウに戻り、1921年1月3日、水素溶液工場の職工長として働いた。1922年9月3日アンナ(Anna Krüger)と結婚した。ロスラウに没した。ロスラウ(Roßlau)出身。(2504:名古屋)
418) Dengler(デングラー),Lorenz(1892-1947):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。解放されて帰国後にマティルデ(Mathilde Pohl)と結婚したが子供はいなかった。マイン河畔のフランクフルトでパン屋を経営し、その地で没した。バーデンのオオフェンブルク近郊のグリースハイム(Griesheim)出身。(3871:大阪→似島)
419) Denta(デンタ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米に収容所換えになった。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点105⅔で初級7位になった。東プロイセンのアンハルツベルク(Anhaltsberg)出身。(995:福岡→久留米)
420) Derlien(デルリーン),Charles(1891-1963):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。〔イルチス砲台〕。習志野時代、フリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)のスケッチ・絵葉書等を印刷した。1919年10月5日、マルフケのために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』のプログラム印刷を担当した。また同年11月30日の帰国前のお別れパーティーで配布したパンフレット「送別会向けビール新聞」(Bierzeitung zur Abschiedsfeier) に、マンガ風自画像を載せた。大戦終結後はドイツに向かわず、蘭領印度ジャワの官吏になったが、その後アジアのいくつかの国を巡ってドイツに帰国した。「リューベック新報」の挿絵画家や本のイラストレーターをした。第二次大戦では再び海軍に入った。戦後はリューベック市考古学会で働いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。交通事故が原因で郷里リューベックで死去した。リューベック出身。(977:福岡→大分→習志野)
421) Desbarats(デスバラーツ),Max(?-?):国民軍・上等歩兵。[アルンホルト、カルベルク青島支店]。青島時代はビスマルク街に住んでいた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、東京の「Hosawa」商会に勤めたが、その後中国北部及び満州に滞在した。ドレスデン出身。(2169:姫路→青野原)
422) Descovich(デスコヴィッチ),Vincenz(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等甲板下士。青野原時代の1916年8月3日付け書類によると、隔離を要する俘虜とされた【『俘虜ニ関スル書類』より】。1916年10月9日、フラウジン(Frausin)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。アドリア海東岸のダルマチアのセベニコ(Sebenico)出身。(2175:姫路→青野原→丸亀→板東)
423) Desebrock(デーゼブロック),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備伍長。[カルロヴィッツ上海支店]。丸亀時代の1916年10月16日、アルバース(Albers)、クラウスニツァー(Claussnitzer)及びヒンツ(Hinz)の四人で相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東俘虜収容所での、大規模な健康保険組合のモデルとなった。1918年3月8日から19日の「展覧会」では主催者役を務めた。また、1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、ブラント(Brandt)1等水兵と組んでAクラス1位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時34歳)、2時間18分18秒5分の2で85人中の3位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。またアルバースとともに収容所保険組合に加わり、9月には「板東健康保険組合」の第2中隊代表理事に選ばれた。板東ホッケー協会のチームのメンバーでもあった。大戦終結後は再び山東省済南に戻り、カルロヴィッツ社の済南駐在代表に復帰した。しかしその時すでに山東省では、ドイツに代わって日本の影響・支配が広がっていて仕事はほとんどなかった。後にカルロヴィッツ神戸支店に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(1859:丸亀→板東)
424) Desener(デーゼナー),Friedrich(1893-1973):海軍兵站部・上等兵。解放後は蘭領印度に渡って商会に勤めた。ハノーファーのコッペンブリュッゲ(Coppenbruegge)出身。(2171:姫路→青野原)
425) Dessel(デッセル),Adolf(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第4棟3室で仕立屋を営んだ。1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』に出演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのアンネン(Annen)出身。(1865:丸亀→板東)
426) Dett(デット),Albert(1892-1969):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。ヴュルテンベルクのヌスプリンゲン(Nusplingenn)出身。(3257:熊本→久留米)
427) Dettmer(デットマー),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で文鎮(弾薬筒と弾薬の形)と額縁各1点を出品した。ヒルデスハイム出身。(3872:大阪→似島)
428) Dettmer(デットマー),Wilhelm(1876-1962):海軍膠州砲兵隊第3中隊・掌砲兵曹長。1893年11月2日海軍入り、1911年4月1日掌砲兵曹長になった。大阪時代、日本側の意向に応えて収容所内の意思疎通に努め、怠慢や不服従の俘虜を報告し、処罰すように要求したりもした【『戦役俘虜ニ関スル書類』より】。妻マリー(Marie)は大戦終結まで二人の男の子と青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーマーフェルデ(Bremervörde)出身。(3881:大阪→似島)
429) Detzen(デツェン),Peter(1892-1960):海軍膠州砲兵隊第3中隊・掌砲兵曹長。1892年1月10日、指物師の父ペーター(Peter)と母バーバラ(Barbara)の息子として、ザールブリュッケンのブーヘンシャッヘン(Buchenschachen)に生まれた。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。青野原時代の1919年6月26日、南京にいる駆逐艦S90の元乗員アードルフ・フェヒト(Adolf Fecht)1等焚火兵宛に出した絵葉書が遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。解放されて帰郷後、アンナ・カタリーナ・アルトマイアー(Anna Katharina Altmeyer)と結婚した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザールブリュッケンのブーヘンシャッヘン(Buchenschachen)出身。(984:福岡→青野原)
430) Deutschmann(ドイッチュマン),Adolf(?-?):築城部・陸軍築城少尉。1911年5月23日築城少尉になった。青島時代は皇太子街に住んでいた。板東時代の1918年5月の第2回懸賞作文に「休暇中」で3等賞を受賞した。大戦終結して解放も間じかになった頃、スペイン風邪等で死んだ9名のための墓碑、並びに収容所近くの大麻比古神社境内の小川に架けられたドイツ橋の設計をした。解放後は蘭領印度に渡って、ジョクジャカルタの「マタラン・ホテル(Hotel Mataram)」に勤めた。シュレージエンのヴュルベン(Würben)出身。(2833:松山→板東)
431) Dick(ディック),Erich Ewald Karl Robert(1893-1943):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。[煙突掃除職人]。煙突掃除職人の修業の後、1913年10月1日海軍に入った。ドイツに帰国後、煙突掃除職マイスターとなった。1925年5月30日ボンで、フランチスカ(Franziska Erna Klara Jänch)と結婚して息子四人をもうけた。1943年9月30日、西プロイセンのマリーエンブルク(Marienburg)に引っ越したが、その地で交通事故が故で没した。ラインラントのジークブルク(Siegburg)出身。(402:久留米)
432) Diebold(ディーボルト),August(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。1919年末ごろに板東から習志野へ移された。エルザスのヴァンツェナウ(Wanzenau)出身。(2823:松山→板東→習志野)
433) Dieckmann(ディークマン),Dr. Paul(?-?):総督府・獣医。妻エラ(Ella)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は青島居住を希望した。ロストック出身。(4343:「熊本→」大分→習志野)
434) Diegelmann(ディーゲルマン),Alexander(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・1等砲兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点116点⅔で初級の2位になった。解放後は蘭領印度に渡って、「ベーン・ウント・マイアー(Behn & Meyer)」商会に勤めた。マイン河畔のフランクフルト出身。(3263:熊本→久留米)
435) Diehl(ディール),Karl(1892-1952):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。仕立職マイスターの父やーコプ(Jakob)と母マリア(Maria)の五人兄弟の二番目として生まれた。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ヴィースバーデンに没した。ラインプファルツのアルバースヴァイラー(Albersweiler)出身。(973:福岡→名古屋)
436) Diers(デイールス),Reimer(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・上等掌砲兵曹。1898年6月1日海軍入り、1909年6月1日上等掌砲兵曹になった。妻と子ども達は「マンチュリア号」でドイツに帰国した。久留米から家族に宛てて出した葉書数通が現存している。1960年頃の「チンタオ戦友会」に、ディールスの妻か娘と思われるリネルダ・ディールス(Rinelda Diers)が出席した。オルデンブルク出身。(3266:熊本→久留米)
437) Diesburg(ディースブルク),Peter(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月24日に開催された「1919年スポーツ週間」の「直径2.13mからの石投げBクラス」で、9.34mを記録して1位になった。ミュールバッハ(Muehlbach)出身。(390:久留米)
438) Diesing(ディージング),Traugott(1881-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍機関少尉。1901年10月海軍に入隊し、1910年10月機関少尉、1914年8月砲艦ヤーグアルに乗組む。1914年9月中尉に昇進した。1920年1月21日海軍大尉となり、1923年1月海軍少佐で退役した【シュミット】。三度結婚して、最後はマイン河畔のフランクフルトに住んだ。ポンメルンのケルピン(Cölpin)出身。(54:東京→習志野)
439) Diestel(ディーステル),Gustav(?-?):国民軍・2等歩兵。[ディーデリヒセン(H.Diederichsen & Co.)支配人]。青島時代はディーデリヒス小路(Diederichsweg;日本の占領統治時代は赤羽町)に住んでいた。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。妻オルガ(Olga)は大戦終結まで、こども二人(ともに12歳以下)と上海で暮らした。ハンブルク出身。(4630:大阪→似島)
440) Dietrich(ディートリヒ),Carl(?-?):国民軍・卒。[ホテル経営者]。青島で「港ホテル(Hotel Hafen)」を経営していた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。解放後は青島に戻った。妻クラーラ(Klara)と子ども達は、戦争終結まで青島に留まった。オーデル河畔のフランクフルト出身。(4675:大阪→似島)
441) Dietrich(ディートリヒ),Max(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡って、バンドンのオランダ・コンクリート会社に勤めた。ドレスデン出身。(3258:熊本→久留米→板東)
442) Dietrich(ディートリヒ),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ザレヴスキー(Salewsky)作の笑劇『巨大児』等3演目に出演した。ミュンヘン出身。(403:久留米)
443) Dietz(デーツ),Alfred(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。スイスのザンクト・ガレン(St.Gallen)出身。(404:久留米)
444) Dill(ディル),Josef(1893-1973):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。精錬工の息子として生まれた。1914年8月2等歩兵として上記中隊に入隊した。1917年5月24日、情報局から各収容所への、製針業に従事していて労役希望者の照会に対して、久留米ではディル他3名を届けた。【『久留米俘虜収容所』30頁】。1973年1月13日、ザールブリュッケンで死去。ザールブリュッケン出身。(388:久留米)
445) Dinkel(ディンケル),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[指物師]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。ハイデルベルク近郊のエシェルブローン(Eschelbroon)出身。(979:福岡→久留米)
446) Disselhorst(ディッセルホルスト),Rudolf(?-?):総督府・1等機関兵曹。習志野時代の1919年10月5日、「マルフケのための謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』に主役のマルフケが演じる人物の妻の役で、また習志野劇場による「トーマの夕べ」では、トーマ作の1幕喜劇『ロットヒェンの誕生日』に主役のマルフケ演じる大学教授の妻の役で出演した。カッセル出身。(998:福岡→大分→習志野)
447) Ditjens(ディトイェンス),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1915年1月22日、マリー夫人が3歳の子を連れて面会に訪れた。監視・立ち会いには山本茂中尉が当たった。ホルシュタインのゼーシュテルミューエ(Seestermuehe)出身。(391:久留米)
448) Dittmann(ディットマン),Ludwig(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、「ドイツ兵墓碑」建設に際して石積み工事を担当した。プロイセンのヴァルルビエン(Walrubien)出身。(2832:松山→板東)
449) Dittrich(ディットリヒ),Karl Wilhelm(1893-1944):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島収容所俘虜展示会カタログの広告によると、似島収容所時代は暖房の効いた部屋で、朝8時から午後2時までマッサージ、リュウマチ治療及び足の治療を行った【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』187頁】。ツヴィッカウ県のシュネーベルク(Schneeberg)出身。(3876:大阪→似島)
450) Dobe(ドーベ),Walter(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したドーベは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られ、第3組の1位で本戦のA級に進出した。マグデブルク県のシュナルスレーベン(Schnarsleben)出身。(4140:「大阪→」徳島→板東)
451) Dobenecker(ドーベンエッカー),Theodor(1883-?):海軍東アジア分遣隊・陸軍中尉。1902年3月15日陸軍入り、同年8月19日歩兵少尉、1911年8月18日中尉、同年9月1日海軍歩兵部隊に移った。1914年11月8日大尉になった。解放されて帰国後の1920年3月10日陸軍に復帰した。福岡時代の1915年11月、5名の将校の逃亡事件で調べられ、ケンペ(Kempe)少尉のために上着を盗んだとして3ヶ月の刑に処された。ハノーファーのヴェニックゼン(Wennigsen)出身。(991:福岡→習志野)
452) Doert(ドアート),Erich(1893-1960):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。〔第4歩兵堡塁〕。1893年11月6日、ヴェストファーレン州のレックリンゲン県オスターフェルトに4人兄弟の長男として生まれた。父は下級官吏だった。ラインラントのオーバーハウゼンの実科学校に2年半学んだ。一家はルール河畔のブランケンシュタインに引越し食堂を経営、ドアートはやがて1909年、その地の役所で徒弟修業をした。両親は病気のため食堂を売却し、1910年にドルトムントに移った。やがて電気関係の技術習得を目指して、17歳の時の1910年9月にアウグスト・ヘーラー(August Hoehler)商会に入った。1913年9月、ククスハーフェンの海軍歩兵第3大隊本部に徴兵義務で応召した。4ヶ月の軍事訓練の後の1914年1月12日、パトリーツィア号で青島に赴いた。青島では反射信号士としての訓練養成を受け、イルチス兵営に勤務した。10月3日には第4歩兵堡塁に配属された。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第2ヴァイオリンを担当した。また板東時代の1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会では、潜水競技に出場し41メートルで2位になった。ドイツに帰国後の1920年4月19日、アウグスト・ヘーラー商会に約一年勤務した。1920年9月16日、マルタ・フローリアン(Martha Florian)と結婚、1921年3月から10月まで炭鉱の町ヴェルネ(Werne)に通じる鉄道の運転手及び車掌として従事し、11月21日からはヴェルネ第3竪坑で電気技師として勤務した。1922年娘のマルガレーテが、翌1923年には娘エミーが生れた。1923年から地方の音楽協会に属し、音楽隊ならびにオーケストラの指導をした。1960年3月20日、ヴェルネに没した【デルトではなく、ドアートと読む。自身によって丸亀時代(1915年4月9日)に記され、孫娘のクリステル・コアールト(Christel Koerdt)による追記を含む日記がある】。ドルトムント出身。(1862:丸亀→板東)
453) Dohmeyer(ドーマイアー),Wilhelm(1895-1981):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。解放されて帰国後、クリスティーネ(Christine Nelderhut)と結婚した。仕事は大工であった。ハノーファーのシュプリンゲ(Springe)出身。(394:久留米)
454) Dolch(ドルヒ),Karl Otto Ernst(1982-1955):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。リューデルスドルフ(Rüdersdorf)出身。(4138:「大阪→」徳島→板東)
455) Dold(ドルト),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等砲兵。[青島・競争用ボート管理所]。青島時代はオジロワシ街(Seeadlerstraße)に住んでいた。妻ベルタ(Berta)は大戦中も青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。スイスのバーデン(Baden)出身。(4136:「大阪→」徳島→板東)
456) Döll(デル),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。アルトナ出身。(3873:大阪→似島)
457) Domele(ドメレ),Mathias(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、ライザー(Leiser)と共同でなめし皮製品数点を出品した。ハンガリーのナギュエス(Nagyöss)出身。(4492:大阪→似島)
458) Domokos(ドモコス),Belak(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・水兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、長靴数足を出品した。ハンガリーのナルカニ(Narkany)出身。(4491:大阪→似島)
459) Donat(ドナート),Walter(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。解放後、蘭領印度に渡ってオランダ・セメントに勤めた。ワイマール出身。(993:福岡→久留米)
460) Dörfler(デルフラー),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、製本物数点を出品した。ニュルンベルク出身。(3880:大阪→似島)
461) Dormann(ドルマン),Henry William(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[メルヒャース漢口支店]。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ホルンを担当した。【『俘虜名簿』ではPormann(ポルマン)となっているが、板東俘虜収容所で1919年に発行された『故国住所録』(Heimatsadressen)ではDormann(ドルマン)になっている】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン出身。(2031:丸亀→板東)
462) Dorn(ドルン),Anton(1890-1972):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。腰部貫通銃創及び骨折により、当初は大阪衛戍病院に入院した。板東時代の1917年7月17日、発足した「収容所保険組合」に第2中隊代表となって組合の運営に従事した。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、オルガンを担当した。1922年1月24日、マリー(Marie Marzar)と結婚した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ボーデン湖畔のユーバーリンゲン(Ueberlingen)出身。(1861:丸亀→板東)
463) Dörr(デル),Christian(1893-1919):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1893年4月4日鉱夫ペーター・デルとその妻マルガレーテの間に、10人兄弟の9番目の子として生まれた。1914年8月上記中隊に入隊した。1919年2月7日、スペイン風邪により習志野で死亡。オットヴァイラー(Ottweile)郡のホスターホーフ(Hosterhof)出身。(50:東京→習志野)
464) Dörrenbächer(デレンベッヒャー),Nikolaus(1891-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。[大工職マイスター]。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門でミュラー(Fritz Müller;俘虜番号458)と共同で、階段の模型を出品した。【1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、デレンベッヒャーは顎部損傷により、咀嚼はもとより正常な食物摂取が著しく困難で、衰弱が激しく不眠を訴えているとのことである。参照:大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』214-215頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのザールブリュッケン出身。(4489:大阪→似島)
465) Dörrie(デリー),August(1893-1958):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1915年7月11日、収容所換えで久留米に移された。解放後は、蘭領印度に渡って巡査になった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファーのバンテルン(Banteln)出身。(994:福岡→久留米)
466) Dorsch(ドルシュ),Rudolf(1892-1973):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。解放後は蘭領印度に渡って、やすり目立工として働いた。ガンマーティンゲン(Gammertingen)出身。(4139:「大阪→」徳島→板東)
467) Dose(ドーゼ),Eggert Johannes Diedrich(1891-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[イェプセン(Jebsen & Co.)香港支店]。帰国後の1922年2月14日、ハンブルクでアンナ(Anna Madsen)と結婚して息子一人をもうけた。後に船舶組立下請会社を設立し、今日も有限会社として存在している。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのアルトナ(Altona)出身。(2828:松山→板東)
468) Dott(ドット),Jakob(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1919年3月に発行された『久留米詩文集』に「春」及び「我々はみな同じ道を行く」の二編の詩を発表した。1920年1月1日の『福岡日日新聞』には、医学博士久保井猪之吉訳になるドットの詩(題名なし)が、「無題」として掲載された。コブレンツ出身。(400:久留米)
469) Drachenthal(ドラッヘンタール),Georg Pauspertl Wladyk v.(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・海軍少佐。姫路及び青野原俘虜収容所の先任将校だった。姫路では妙行寺に収容された。1919年になって青野原の代表はドイツ人のゾイフェルト予備副曹長に替わった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。イストリアのポーラ(Pola)出身。(2172:姫路→青野原)
470) Drechsler(ドレクスラー),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放後は、蘭領印度に渡った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ホーエンロイベン(Hohenleuben)出身。(978:福岡→習志野)
471) Dreesen(ドレーゼン),Johannes H.(1886-1960):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。機械工としての修業の後海軍に入った。1914年6月3日、「パトリーツィア号」に乗り組んで青島に赴いた。6月4日から測量船第4号乗員となったが、大戦勃発で青島の海軍砲兵中隊に所属した。帰国して結婚後は郷里の役所に勤めた。シュレースヴィヒ(Schleswig)出身。(3264:熊本→久留米)
472) Dreher(ドレーアー),Fritz(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・2等砲手。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カールスルーエ出身。(996:福岡→習志野)
473) Dreifürst(ドライフュルスト),Hermann(1892-1956):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[指物師]。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。フルダ近郊のホーラス出身。(988:福岡→青野原)
474) Drescher(ドレシャー),Karl(?-?):第3海兵大隊第3中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の上級に出場して(出場者は6名)、61⅓点を獲得して第3位になった。ザーレ河畔のノイシュタット出身。(392:久留米)
475) Dreyer(ドライアー),Curt(1868-1926):機雷保管庫・海軍水雷大尉。1885年10月海軍に入隊し、1905年4月海軍水雷少尉、1907年4月中尉、1912年4月大尉に昇進した。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住んだ。1914年11月9日の青島開城交渉ではドイツ側の委員を務めた。1914年12月20日付けで、青島フリードリヒ街番地のグレーテ(Grete Dreyer)宛の葉書、また1915年1月28日付けで、済南のグレーテ宛の葉書、更に1917年5月7日付けで、ベルリンのヴィルヘルムスドルフ(Wilhelmsdorf)マインツ街14番地のグレーテ宛の葉書が現存している。大戦終結して帰国後の1920年3月退役となった。東プロイセンのラインスホーフ(Rheinshof)出身。(4347:「熊本→」大分→習志野)
476) Dreyfuss(ドライフース),Arthur(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂での収容所講習会でフランス語の講師を務め、板東では収容所内のタパタオに設けられたボーリング場の支配人を務めた。シュトラースブルクの出身であったことから、ヴェルサイユ講和条約締結後に宣誓解放された。フランス名の発音はドレフュス。シュトラースブルク出身。(2829:松山→板東→習志野)
477) Dröge(ドレーゲ),Wilhelm(1881-1971):第3海兵大隊第7中隊・伍長。1910年以来上海に住んでいた。リューベンベルゲ(Rübenberge)山麓のノイシュタット(Neustadt)出身。(1868:丸亀→板東)
478) Drögkamp(ドレークカンプ),Ernst(1877-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代、俘虜炊事係りを務めた。1915年8月12日、ヴァッサーマン(Wassermann)副曹長とともに麺麭製造見学のため、収容所納入業者の丸亀市大西商会に赴いた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。1916年(月日不明)、「不注意ノ結果火災ヲ起サントセシ科」で軽営倉10日の処罰を受けた。板東時代、収容所内酒保の所長を務めた。ツェレ出身。(1867:丸亀→板東)
479) Drolshagen(ドゥロルスハーゲン),Karl(1890-1972):第3海兵大隊第3中隊・伍長。開放されて帰国後は、郷里ブーヘンで警察に勤務した。郷里で没した。バーデンのブーヘン(Buchen)出身。(393:久留米)
480) Droste(ドロステ),Alfred(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[ハンブルク・アメリカ汽船(Hamburg-Amerika-Linie)]。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したドロステは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られたが、第4組の3位で本戦のB級進出に留まった。アーヘン出身。(4141:「大阪→」徳島→板東)
481) Drüge(ドリューゲ),Adolf(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、タパタオの13号小屋でグリューネヴェラー(Grüneweller)と家具屋を営んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ミュンスター出身。(2831:松山→板東)
482) Dübert(デューベルト),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[皮革業]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。シュトラースブルク出身。(992:福岡→名古屋)
483) Dücke(デュッケ),Johann(?-1914):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・操舵水兵。1914年11月2日ヴァルダーゼー高地で死亡、日本軍によりその地に埋葬された【但し、シュミット氏によれば、11月8日浮山所の南東に日本軍の手で葬られた、とされいる】。ウィーン出身。(4659:なし)
484) Dührkopp(デューアコップ),Ferdinand(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ディーデリヒスゼン商会青島支店]。1916年1月時点で36歳だった。妻エルゼ(Else)は息子(1919年時点で5歳)と大戦終結まで山東省の省都済南で暮らした。板東時代の1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、デューアコップは117点を挙げて古参選手の部5位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。解放後は日本に留まって、姫路市の「Sanyoken」に勤める希望をもっていた。ハンブルク出身。(1871:丸亀→板東)
485) Dukatz(ドゥカッツ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンんのモールンゲン(Mohrungen)出身。(975:福岡→名古屋)
486) Dümmler(デュムラー),Richard(1880-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊長・海軍大尉。〔ビスマルク山砲台指揮官〕。1889年4月10日海軍入り、1902年9月27日海軍少尉、1904年6月11日中尉、1909年3月27日大尉になった。青島時代は旧衙門(Altes Yamen;清国時代の官衙)に住んでいた。徳島では収容所の俘虜代表を務めた。板東時代、砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。また1919年3月26日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りデュムラーはチェロを担当した。他は、ガルスター海軍中尉のヴァイオリン、クラインシュミット予備少尉のヴィオラ、クラーゼン伍長のピアノ、ナスート砲兵伍長のコントラバスという編成であった。帰国後の1920年1月30日海軍少佐となりやがて退役した。日本軍攻城砲の効果についての詳細な記述を残した【『青島戰史』121頁以下】。エルザスのミュールハウゼン出身。(4137:「大阪→」徳島→板東)
487) Dumproff(ドゥムプロフ),Karl(1875-1952):国民軍・階級不明。[巡査]。青島時代は警察署近くの官舎に住んでいた。妻マリー(Marie)は大戦終結まで上海で暮らした。バンベルク出身。(4490:大阪→似島)
488) Dünisch(デューニッシュ),Max Luidpold(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとデューニッシュは、オブリガート・ヴァイオリンを担当した。フランケンハウゼン出身。(389:久留米)
489) Dunkel(ドゥンケル),Walter(?-1968):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。松山時代、公会堂の講習会で簿記及び証券の講義を行った。妻リアは開戦二日前に天津に逃れ、ドイツ政府から支給された月50上海ドルで暮らし、日本にきて居住するための費用を貯め、1915年1月には松山に来て、10日から1917年4月3日までほぼ定期的に面会に訪れた。松山市二番町のバルクホールン(Barghoorn)の妻ハンナの借家に、ゲプフェルト(Goepfert)の妻オルガとともに住んだ。1917年2月19日、妻リアが盲腸炎に罹ると、ゲプフェルトの妻オルガはドゥンケルとの面会を収容所管理部当局に願い出た。ユーハイム(Juchheim)の妻とも親しかったといわれる。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン出身。(2827:松山→板東)
490) Dünnebeil(デュンネバイル),Paul(1891-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。解放されて帰国後、1922年11月11日にルイーゼ(Louise Rauch)と結婚して、息子一人がいた。テューリンゲンのザールフェルト(Saalfeld)出身。(2506:名古屋)
491) Düpper(デュッパー),Matthias(?-?):海軍砲兵中隊・1等焚火兵。熊本時代は正立寺に収容された。1915年1月29日付けの『九州日日新聞』の記事「種々さまざまな珍芸当 俘虜の祝賀会」は、デュッパーについて次のように報じた。「横手正立寺では海軍火夫のヅッパーが楽長となって手製楽器の奏楽をやる。臍の緒切る前から滑稽に生れ落ちたらしいヅッパーは、予ての不精者に似ていろいろな芸当に大車輪」【『熊本の日独交流』80頁より】。久留米時代は演劇活動で、ミュラー作の茶番劇『放り出されて』等28演目に主として女役で出演して活躍した。1919年10月21日に開催された「スポーツ週間」の「サッカーボール遠距離蹴り」に出場し、38.48mで5位になった。ラインラントのデューレン(Düren)出身。(3265:熊本→久留米)
492) Düring(デューリング),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(1864:丸亀→板東)
493) Dürr(デュル),Karl(1893-1972):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1914年9月26日、李村で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。カールスルーエ近郊のリンケンハイム(Linkenheim)出身。(401:久留米)
494) Duvenbeck(ドゥーフェンベック),Theodor Leo(1891-1967):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。1913年乃至は1914年に青島へ赴いたと思われる。大戦勃発直前にマリー・ルイーゼ・ティール(Marie Luise Thiel;1889-)と婚約した。日独戦争の勃発によって、結婚の手続きをすることもなかったが、1915年4月6日に息子のヴァルター(Walter)が産まれた。ルイーゼは戦争中も青島に留まった。1919年7月27日、夫ドゥーフェンベックがまだ解放される前に日本の役所に婚姻届を提出した。1920年1月、解放されて青島に来た夫とフランツ・オスター(Franz Oster)の家で、リヒャルト・ヴィルヘルム(Richard Wilhem)の司式により福音教会で式を挙げた。ドゥーフェンベック夫妻は大戦終結後も青島に留まり、妻ルイーゼは大村町(ドイツ名:アルベルト街4;中国名安徽路)で「パーク・ペンション(Park Pension)」を開業し、ドゥーフェンベックは「シーサイド・ホテル」に勤務した。1925年に夫婦は離婚して、ドゥーフェンベックはドイツへ帰国した。ティーレ姓に戻ったルイーゼのペンション「ペンション・ティーレ」は、1932年から1946年まで南湖路57(ドイツ名:イレーネ街;日本名久留米町)で営業していた【ヴィルヘルム・マツァト(Wilhelm Matzat)教授の資料から】。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ライン河畔のヴェーゼル(Wesel)出身。(974:福岡→名古屋)
495) Duwe(ドゥーヴェ),Max(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エルベ河畔のハルブルク(Harburg)出身。(56:東京→習志野)
496) Ebeling(エーベリング),Bruno(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。日本の収容所に収容された当初について、エーべリングの次の感想が知られている。「最初の二週間の待遇は実際良かった言えるでしょう。しかし、皆が「元気にしています」との便りを故郷に出してから、実に愛想のよかった日本人たちは、徐々に陰の部分を見せ始めました」【『クッツホーフから中国、日本へ』(Von Kutzhof nach China und Japan)33頁】。ブラウンシュヴァイク出身。(2519:名古屋)
497) Ebeling(エーベリング),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、エーベリングは写真関係の部門に写真帳及び写真「青島とその周辺」を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』82-83頁】。解放後、蘭領印度に渡って機械工場会社に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク出身。(1004:福岡→青野原)
498) Eberhardt(エーベルハルト),Albert(?-?):第3海兵大隊・伍長。久留米時代の1917年12月、エームンツ(Emunds)及びクリンケ(Klinke)と収容所交付の発信用紙の売買仲介により、重営倉の処罰を受けた。兵卒1ヶ月分(封書用紙1、葉書1)が40銭で売買されていた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。解放後、蘭領印度に渡った。デュッセルドルフ出身。(3277:熊本→久留米)
499) Eberhardt(エーバーハルト),Rudolf(?-?):第3海兵大隊・伍長。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、楽器部門でピアノを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』79頁】。テューリンゲンのシュレンジンゲン出身。(2177:姫路→青野原)
500) Eberlein(エーバーライン),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト出身。(1015:福岡→久留米)
501) Eberlein(エーバーライン),Fritz(?-?):測量艦プラーネット乗員・1等機関兵曹。1914年10月7日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日宣誓解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。プロイセンのブンツァウ出身。(4668:なし)
502) Ebert(エーベルト),Julius F.Chr.(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備2等歩兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放され、メルヒャース商会青島支店に勤めた。ナーエ河畔のキルン出身。(1720:静岡→習志野)
503) Ebertz(エーベルツ),Rudolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備砲兵伍長。[青島船渠]。青島時代は皇帝街(Kaiserstraße)に住んでいた。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したエーベルツは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られ、2位で本戦のA級に進出した。同年7月上旬、徳島収容所を脱走して海岸まで行き、鳴門海峡を泳いでとある島にたどり着いた。服を干していたところ、その白い肌に気付いた漁民により通報、逮捕されて収容所に連れ戻された。8月に禁固3ヶ月に処せられた。板東時代、1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、背泳ぎに出場して44秒で1位になった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェッツラー出身。(4144:「大阪→」徳島→板東)
504) Eckerich(エッケリヒ),Philipp(1893-1960):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。解放後は郷里に戻り、1922年6月2日ヨゼフィーネ(Josefine Burg;1889-1950)と結婚した。ラインガウのエットヴィレ(Etville)出身。(59:東京→習志野)
505) Eckert(エッケルト),Walter(?-1975):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとエッケルトは、第1ヴァイオリンを受け持った。ハルバーシュタット出身。(3270:熊本→久留米)
506) Eckhardt(エックハルト),Reinhold(?-?):糧秣集荷部・後備副曹長。松山時代、大林寺の収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代は公会堂での工芸品展に食肉加工品を出品した。また桧地区の大森重蔵にトマトケチャップの製造法を伝授した。シュトゥットガルト出身。(2842:松山→板東)
507) Eckoldt(エコルト),Hermann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[広東ヴェーデキント商会(W.Wedekind & Co.)]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エアフルト出身。(1877:丸亀→板東)
508) Eder(エーダー),Paul(1893-1969):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。解放されて帰国後、1921年4月9日に結婚した。ヴリュテンベルクのエーリンゲン出身。(408:久留米)
509) Ederer(エーデラー),Alois(1886-1963):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[神戸・ジルバー・ヘークナー商会(Silber Hegner & Co.)]。1913年日本へ赴き、神戸の上記商会に勤めた。神戸から応召した。松山時代、公会堂の講習会で電気工学を講じた。解放後郷里に戻り、やがてベルリンに移った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。レーゲンスブルク出身。(2836:松山→板東)
510) Edler(エートラー),Hans Emil Peter(1889-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジーバー・ヘークナー社漢口支店]。1914年12月20日付けで、ハンブルクの親から東京の海軍省に、息子の安否を問い合わせる手紙が寄せられた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(2839:松山→板東)
511) Eggebrecht(エッゲブレヒト),Hans(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[イリス商会(C.Illies & Co.)神戸支店]。松山時代は公会堂に収容され、ベーアヴァルト(Bärwald)、シェーファー(Hermann Schäfer)及びシュタインフェルト(Steinfeld)の四人で通訳業務に当たった。ベルリン郊外のシュテークリッツ(Steglitz)出身。(2835:松山→板東)
512) Eggerss(エッガース),Herbert(1888-1974):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。準少尉ヴァルデマール・エッガース(Waldemar Eggerss)を父に生まれた。
アビトゥーア試験合格後、1906年5月1日からハンブルクの商社で修業した。1908年10月1日、1年志願兵として野砲兵第1連隊乗馬部隊に入隊した。1909 年7月伍長、04.11.1909年11月4日イェプセン商会香港支店入社、02.08.1914年8月2日青島へ応召した。久留米時代は演劇活動で、シェーンタンとガーデルベルク作の喜劇『評議員殿』で女役を演じるなど8演目に出演した。また1919年10月24日に開催された「スポーツ週間」のBクラス80mハードルに出場し、12.9秒のタイムで3位になった。【解放後の1920年、横浜のエストマン(Oestmann)商会に勤めた?】。解放後、広東の1920年イェプセン商会広東支店で勤務した。1921年6月ダルムシュタットの家族の元へ帰還、1922年2月1日からブレーメンの紡錘関係商社で勤務、1922年10月24日ベルリンの銀行家アルトゥール・シュレーダー(Arthur Schröder)の娘ルート(Ruth) と結婚して子供二人をもうけた。1922年から1930年にかけて、日本と中国へそれぞれ半年に及ぶ旅行をした。1933年からは紡錘業界の指導的な地位に就いた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。また1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルクで没した。ブロンベルク(Bromberg)出身。(3279:熊本→久留米)
513) Eggert(エッゲルト),Alexander(?-?):第3海兵大隊第3中隊・副曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ケーニヒスベルク出身。(2834:松山→板東)
514) Eggert(エッゲルト), Franz(1883-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。馬具職人の父ヴィルヘルム(Wilhelm)と母ヴィルヘルミーネ(Wilhelmine)との間に1883年に生れた。短期間、漁業に従事した。1914年7月、日本の蒸気船の船乗りとなったが、8月に応召して青島に赴いた。1915年7月11日、福岡から久留米へ収容所換えになった。解放後は、ヒマラヤ丸で帰国した。1920年3月20日海軍を除隊し、12月5日、ザスニッツ(Saßnitz)港湾鉄道に、その後シュトラールズント港湾鉄道に従事した。1912年、未亡人のアンナと結婚した。ポンメルンのミルチョウ(Miltzhow)出身。(1005:福岡→久留米)
515) Ehegötz(エーエゲッツ),Karl Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1919年1月21日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、1月26日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザクセンのランゲンザルツァ(Langensalza)出身。(3884:大阪→似島)
516) Ehlers(エーラース),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・軍曹。板東時代は収容所で、ハイスター(Heister)と共同で風呂屋(シャワー室)を営んだ。1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、エーラースは126点を挙げて古参選手の部二位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。1917年3月24日、及び1919年12月26日(神戸から)付けで妻に宛てた葉書が現存している。メクレンブルク=シュヴェーリンのマルロウ(Marlow)出身。(1872:丸亀→板東)
517) Ehlert(エーラート),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[植木職人]。丸亀時代の1916年11月6日、ヨーゼフ・ボート(Josef Both)とともに自殺を企てたが未遂に終わった。収容所内の夾竹桃の葉を煎じて服用する方法だった【『機密日誌 丸亀俘虜収容所』より】。また23日にはボートと逃亡を企て、懲役1年6ヶ月の刑を下されて高松監獄に収監された。1917年10月19日、高松監獄から郷里の姉妹に宛てて手紙を書き、スイス人のフンツィカー牧師にそれを託した。その手紙は逃亡の事実を語るものであるが、ドイツ語に英語、日本語、ローマ字を交えた判読しがたいものである【『俘虜ニ関スル書類』より】。ダンチヒ出身。(1876:丸亀→板東)
518) Ehmann(エーマン),Heinrich(1892-1962):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月18日、福岡から大分に収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハイルブロン出身。(1002:福岡→大分→習志野)
519) Ehrenreich(エーレンライヒ),Wilhelm(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。解放後は蘭領印度に渡って、商会に勤めた。ハーフェル河畔のブランデンブルク出身。(3283:熊本→久留米)
520) Ehrhardt(エーアハルト),John Theodor(1894-1950):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。【1981年当時ハンブルクに在住していた写真家藤井寛氏は、エーアハルトの妻エリーゼ(Eliese)から、エーアハルトの遺品である「写真帖」を見せられ、その貴重な写真を「新発掘 70年前の俘虜収容所」の記事の中で発表した(『毎日グラフ』昭和59年11月11日号)。以下はその記事からの情報である。写真はごく一部が似島の写真であるが、他の30枚の写真は全て大阪俘虜収容所で写されたものである。ヴァイオリンを手にするエーアハルトを始め37名が写っているものがある。他には、本国から届いたクリスマス・プレンゼントの受領、日本人理髪師による散髪、ドイツ風の雪だるま、大阪及び似島での芝居風景、収容所内の売店、似島のポンプ場風景等33枚である。写真には、大阪収容所で結成された「第2フットボール・チーム」のイレブン11名が写っている写真(裏面には、「郵便はがき」の文字がある)もある。なお、この中には、ヴァルツァー(Walzer)の遺品中の写真と同じ写真が8枚見られる。「『写真帖』と私」と題された藤井氏の文章によれば、エリーゼはドイツから収容所にいるエーアハルトに手紙を書き送り、1916年7月22日にエーアハルトに宛てて送った、エリーゼと料理学校での女友達と並んで撮ったスナップ写真の葉書が遺されている。1924年に二人は結婚し、一男五女に恵まれた。エーアハルトはハンブルクで運送業を営んでいたが、1950年12月8日に路面電車に轢かれて死亡した】。ブレーメン出身。(3885:大阪→似島)
521) Ehrich(エーリヒ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[パン職人]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。エッケルンフェルデ近郊のハルフェ出身。(1006:福岡→久留米)
522) Eich(アイヒ),Philipp(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁2点を出品した。オーストリアのビュルモース出身。(3882:大阪→似島)
523) Eichele(アイヒェレ),Fritz(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。熊本時代、1915年1月20日から5月27日まで、縫靴工として従事し労賃を得た。シュトラースブルク出身。(3271:熊本→久留米)
524) Eichmann(アイヒマン),Peter(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ギロート(Girod)出身。(1007:福岡→習志野)
525) Eidmann(アイトマン),Heinrich(1883-1956):第3海兵大隊工兵中隊・後備上等工兵。[山東鉄道鉱山部採鉱夫]。妻と息子は1914年12月25日に「コリア号」でドイツに帰国した。上部ヘッセンのメッツロース(Metzlos)出身。(4348:「熊本→」大分→習志野)
526) Eilers(アイラース),Heinrich(?-?):国民軍・階級不明。[職工長]。青島時代は小港小路(Kleiner Hafenweg;日本の占領統治時代は小港通)に住んでいた。妻メータ(Meta)は二人の子どもとともに大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。オルデンブルクのブランケ出身。(4498:大阪→似島)
527) Eise(アイゼ),Theodor(1891-1974):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。解放されて帰国後の1920年に、最初の結婚をした。1940年5月5日、二度目の妻マリー(Marie Freymann;1895-1972)と結婚したが子供はなかった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。上部ヘッセンのショッテン(Schotten)出身。(4497:大阪→似島)
528) Eisenbeiss(アイゼンバイス),Lothar(1889-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。久留米時代、1919年2月2日の「音楽の夕べ」に出演した。ニュルンベルク出身。(3280:熊本→久留米)
529) Elle(エレ),Erich(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1916年4月11日、フォーゲルフェンガー(Vogelfänger)の誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのようにフォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。デュッセルドルフ出身。(62:東京→習志野)
530) Emmerling(エッマーリング),Peter(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。板東時代、工芸品展に真鍮製のシャンデリアを出品して、俘虜仲間に往時の生活を懐かしく偲ばせた。大戦終結して解放後、蘭領印度のパレンバンに渡った。ラインプファルツのカイザースラウテルン(Kaiserslautern)出身。(1873:丸亀→板東)
531) Emoan(エーモアン),Max(1887-1915):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。熊本時代(西光寺に収容)の1914年12月14日、西光寺を脱柵して阿弥陀寺に至ったた科で、憲兵留置所で重謹慎2日の処罰を受けた。1915年7月21日の晩に久留米で死亡、23日に久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)18頁には、エモアンの墓標を写した写真が掲載されている。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された。上部バイエルンのトロスベルク(Trossberg)出身。(3268:熊本→久留米)
532) Emunds(エームンツ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年12月、エーベルハルト(Eberhardt)及びクリンケ(Klinke)と収容所交付の発信用紙の売買仲介により、重営倉の処罰を受けた。兵卒1ヶ月分(封書用紙1、葉書1)が40銭で売買されていた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。また、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとエームンツは、楽団事務係りの役割を担った。演劇活動では、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』等2演目に出演した。ケルン出身。(406:久留米)
533) Endrey(エントライ),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、模型部門で「軍艦エリーザベト皇后」及び「三本マストの帆船」を、楽器部門では2800本のマッチを使用したヴァイオリン3点とチェロ、ティンバル(ハンガリー楽器)、さらに木工部門としてビリヤードを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78-79及び81頁】。ハンガリーのニュイバトル出身。(2178:姫路→青野原)
534) Engel(エンゲル),Emil(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[商人]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通(Kaiser-Wilhelm-Ufer)に住んでいた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時32歳)、2時間33分30秒5分の2で41位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。また1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、抜き手に出場し44.1秒で3位になった。ベルリン出身。(2838:松山→板東)
535) Engel(エンゲル),Heinrich(1887-1957):第3海兵大隊第3中隊・後備曹長。1887年1月17日、鉱夫ハインリヒとその妻エリーザベトとの息子として生まれた。大阪時代の1915年4月、福岡のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は大阪城を写した絵葉書で、裏面には「上田□□」の印鑑が押されている(□□の字は判読不能)【マイレンダーの項参照】。また1915年9月9日、真田山陸軍墓地で執り行われたヘルマン・ゴル(Hermann Goll)の葬儀に参列した。。1957年7月9日、ザールブリュッケンで死去。ザールブリュッケン出身。(4493:大阪→似島)
536) Engel(エンゲル),Paul(1881-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海居留地工部局音楽隊員・ヴァイオリン奏者]。1912年10月2日、前記音楽隊に加入した【榎本泰子氏の探索による「1912年版上海工部局年次報告書(英文;上海市档案館所蔵)」より。隊長はハンス・ミリエス(Millies)であった】。1914年12月15日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス(Gareis)及びプレフェナー(Pröfener)は非戦闘員なので解放せよ、との申し入れがあるとの信書が出されたが、軍籍があることから不許可になった。丸亀時代の1915年7月8日、第1ヴァイオリンのエンゲル、第2ヴァイオリンのモルトレヒト(Moltrecht)、第3ヴァイオリンのライスト(Leist)、第1フルートのヘス(Hermann Hess)、第2フルートのヤーコプ(Jacob)及びオルガンのクラーゼン(Claasen)の6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「丸亀保養楽団」の名称で、1915年1月10日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団】が成立した。その折エンゲルはベートーヴェンの「ニ長調ヴァイオリン協奏曲」を独奏した。10月22日の「保養楽団」の第5回演奏会では、サラサーテ「ツィゴイネルヴァイゼン」を独奏した。1916年10月21日、高松師範学校他県立4学校の音楽教師の希望により、シュタインメッツ(Steinmetz)と丸亀高等女学校で試験演奏を行った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。1917年板東に移された後、松山からの俘虜を加え団員は45人になった【〔写真16〕参照】。1番札所の霊山寺等で練習し、やがて遍路宿で地元の青年達に楽器のてほどきをした。板東では17回の演奏会、3回のシンフォニー、2回の「ベートーヴェンの夕べ」で指揮を執った。松江豊寿所長の理解もあって徳島市内で出張指導をするようになり、「エンゲル音楽教室」とでも言えるものを開設した。当初場所は公会堂であったが、やがてメンバーの一人であった立木真一の自宅、立木写真家の2階に練習場を移した。エンゲルの帰国に際しては、徳島の一流料亭「越後亭」で何度も送別の宴が開かれた。『青島戦士行進曲』(Tsingtaukämpfer-Marsch)や『シュテッヒャー大尉行進曲』を作曲し、またラムゼーガー(Ramseger)【ラーン(Laan)の項を参照】作曲の『忠臣蔵』の指揮・演奏もするなど、ハンゼン軍楽曹長とともに、板東俘虜収容所での音楽活動では多大の功績を果たした。妻ベルタ(Bertha)は大戦終結まで上海で暮らした。防衛研究所図書館所蔵の史料によると、パウル・エンゲルは1920年1月23日に加答児性肺炎のために入院し、1月26日に徳島市古川(こかわ)病院で解放された、と記されている【参照:『戦役俘虜ニ関スル書類』(俘虜取扱顛末)」の付表6「俘虜患者解放者一覧表」】。また、前掲史料の付表36の「獨墺洪國俘虜引渡区分表」の備考欄に、「板東収容所蘭領印度渡航者(27日)中兵卒1名ハ病気ノタメ前日(1月26日)徳島市古川病院ニ於テ引渡シ且ツ付添として[1月26日家族船ニヨルモノニシテ日本内地ニ用弁者]中ノ兵卒1名ト同時ニ引渡セリ」との記述がある。【ジャカルタで発行された『ドイツの守り』(Deutsche Wacht)の1922年第5号には、蘭領印度におけるかつてのチンタオ戦士、及び日本の収容所俘虜の名が掲載されているが、ジャワ島中部のジョクジャカルタ在住として「P.Engel」の名が見られる【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏によれば、エンゲルはジョクジャカルタに在住し、北メルデカ(Merdeka)のデカパルク(Decapark)楽団で演奏に従事した。「蘭領印度に関する年鑑」の1925版では、住所としてジョクジャカルタの「Gevabgenislaan129」と記載さているとのことである。 なお、星昌幸氏の調査によれば、デカパルクは遊園地の名前である】。香川県丸亀市においては2001年9月8日に、赤垣洋氏を中心とした「エンゲル祭実行委員会」による「エンゲル祭」が開催され、ドイツ総領事館からの出席者も迎えて、講演会・音楽会等多彩な行事が行われた。翌2002年9月7日にも第2回「エンゲル祭」が開かれ、2003年12月14日には第3回エンゲル祭として、ドイツから贈られた菩提樹の苗木の植樹祭が執り行われた。2004年夏、ファン・デア・ラーン氏の探索によって、エンゲルの「自伝」が発見された。板東俘虜収容所内で発行された、1919年6月19日付けの「ビール新聞」(Bier-Zeitung)に掲載されたエンゲルの短文は、独特のユーモアに満ちた文章である。小阪、ラーン、フーク、瀬戸の共同による訳が「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ中のメール会報78号に掲載されている。以下がその「自伝」である。「私は1881年6月5日に生まれ、そのすぐ後にこの世の光を仰いだ。6歳のとき、木のつっかけを履いて学校へ通い始めた。私の苦手は算数で、宿題は母にやってもらっていた。ある日のこと、私は宿題でちゃんと解いて行った問題を、もう一度黒板に書かされることになった。早い話が、私はそれが出来なかった。先生は私に一発喰らわした。その時私は音楽家になりたいなどと言った。だから算数はいらないんだ。 学校を終える前に、父が将来何になりたいのか、と訊いた。そして、鍛冶屋か音楽家かのどちらかを選べ、と言った。それで私は音楽家になった。18歳で私は軍楽隊に入った。私は第101連隊で軍隊勤務をした。我々の軍楽隊長は卑劣な男だったが、しかし、これは大事なことだったのだが、演奏・指揮はきちんとしていた。私は彼の従卒だったが、ある日女中と一緒にいるところを彼のかみさんに見つかってしまった。そして、早い話が、私はお払い箱になった。そこで私の良き時代は終わりを告げ、今や下士官たちは卑劣になった。兵役を終えた後、私はヴァイオリンの勉強を続けた。それからいろんなオーケストラや楽団、例えば「いわゆるオーケストラ」、「劇場楽団」、「湯治場楽団」、「インディアン楽団」やその他の楽団などで演奏活動を行った。しかしピリットしたところがあまりに少なかったので、私は自分で店を開いて、自分がカフェのヴァイオリン弾きになった。私はいろんな国に行ったことがある。フィンランド、ロシア、オーストリア、そしてバルカン諸国。言葉を学んだりはしなかった。私はいつも思っている、「音楽家というのは、耳さえあれば、どんな馬鹿だって・・・」と。1912年に私は中国に向かい、上海楽団で音楽に携わった。戦争が勃発して、私はわが国王の要請に応じてチンタオに行った。チンタオ占領後、日本の収容所に入れられた。私はまず丸亀のオーケストラを1917年まで指揮し、そして今は私の名前のついた板東のオーケストラの指揮者である。私は彼らをすなわち、「硬いBが前についたエンゲル・オーケストラ」と名づけている」。上記「自伝」に加えて、松尾名誉教授によるドレスデン市への問い合わせから、エンゲル出生の公的資料が入手され、長いこと疑問にして不明であったエンゲルの実像の一部がようやく明らかになった。2006年9月、東京の郵趣家大沼幸雄氏所蔵のパウル・エンゲル書簡が、「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」を通じて陽の目を見た。小阪清行氏の訳・注が上記研究会ホームページで公開された。書簡は1919年10月1日に板東俘虜収容所から、ティッセン・クルップ社東京支配人ヴィルヘルム・ラントグラーフに宛てたものである。その手紙によればエンゲルは、ラントグラーフを通じて大連の南満州鉄道会社に職を得ようとしたが失敗し、新たに東京での職の斡旋を依頼する内容である。手紙の末尾には、お雇い外国人教師として当時東京音楽学校で教えていたグスタフ・クローン教授にも斡旋の依頼をしていたと思われる。ドレスデン出身。(1880:丸亀→板東)
537) Engel(エンゲル),Reinhold(1894-1942):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。解放後の1920年、蘭領印度に渡った。オランダ人農園主の娘と結婚して子供数人をもうけた。1940年5月収容所に収容された。1942年1月、他の477名の市民捕虜とともにオランダ船「ヴァン・イムホフ(van Imhoff)」で英領印度へ移送されたが、1942年1月19日スマトラ島沿岸で、日本軍戦闘機の爆撃を受けて沈没した。オランダは捕虜たちの救助を拒んだために400人以上の死者が出て。その中にラインホルト・エンゲルも含まれていた。ボルステルの両親の家は、エンゲル未亡人によって戦後売却された。ハノーファー近郊のボルステル(Borstel)出身。(3275:熊本→久留米→板東)
538) Engelhardt(エンゲルハルト),Paul(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ヴォッタース作の笑劇『燕尾服のレアンダー』の演出をするとともに女役で出演し、その他含めて37演目に出演する大活躍をした。1919年10月24日に開催された「スポーツ週間」のBクラス80mハードルに出場し、12.7秒のタイムで1位になった。マイン河畔のフランクフルト出身。(410:久留米)
539) Engelhorn(エンゲルホルン),Dr.Friedrich(?-?):第3海兵大隊第5中隊・後備副曹長。ローマン(Lohmann)の遺品中には、エンゲルホルン、ローマン、カルクブレンナー(Kalkbrenner)、ヤンゼン(Jansen)、シュテフェンス(Walter Steffens)、シュテーゲマン(Stegemann)の六人が、冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところに、思い思い居並んでいる写真【〔写真7〕を参照】、及びまた、自分の阿屋とも思われる家の窓辺から外を眺めている写真が遺されている【ローマンの項参照】。1919年(大正8年)頃、落合化学で通訳として働いていたゼンクバイル(Senkbeil)の要請を受けて、化学技術の専門家であったエンゲルホルンは、金液事業で落合兵之助と共同研究を始めた。大戦終結後も日本内地契約成立者として日本内地で解放され、落合化学に就職した。その後も金液の製作に励んだがやがて帰国を考えて、後任として久留米収容所にいたメルク(Merck)を推薦した。メルクはエンゲルホルンの大学時代からの友人で、ドイツのダルムシュタットにある医薬・工業薬品会社E.Merck社の社長の息子であった。メルクも3ヶ月ほど落合と共同研究をした後、エンゲルホルンと一緒に帰国して、メルク社の専門技術者であるペテルセンを派遣した【校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅱ」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号65-68頁】。マンハイム出身。(2513:名古屋)
540) Engels(エンゲルス),Franz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ジーメンス=シュッケルト社上海支店]。アーヘン出身。(1878:丸亀→板東)
541) Engler(エングラー),Georg(1886-?):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。[上海・同済医療技術専門学校体育及びドイツ語教師]。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。久留米時代の1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」が設立されたが、その後まもなくエングラーの指導の下で、下士官と予備役兵からなる「下士官体操クラブ(Unteroffizier-Turnverein)」設立に尽力し、1918年8月5日に久留米から名古屋に収容所換えになるまで指導者を務めた。『ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の1916年11月9日付け45号に、「日本におけるドイツ・トゥルネン」と題された記事の中で、本国の友人に宛てた手紙が紹介された【山田『俘虜生活とスポーツ』145頁】。1917年8月、ドレスデン市の弁護士から情報局へ、エングラーの祖母死亡による遺産処分の件で、在京スイス公使館から転送方の依頼があり、検閲の上8日に本人へ転送された。エングラーが名古屋へ移ってから、名古屋収容所のトゥルネン活動が活発になったことが、ハルトゥング(Harutung)の「名古屋(日本)収容所俘虜のドイツ人トゥルネンに関する報告」に記されているとのことである。また、ベッカー(Becker)、デーネケ(Denecke)及びキューン(Wilhelm Kühn)とともに、トゥルネンの指導者の一人であったことが、「名古屋俘虜製作品展覧会」のカタログに記されている。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)151頁には、エングラーがドイツの父親に宛てた葉書が紹介されている。ドレスデン出身。(3276:熊本→久留米→名古屋)
542) Ensslin(エンスリン),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等機関兵曹。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年5月24日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではハイメンダール(Heimendahl)少尉、ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)大尉【ベヒトルス(Bechtols)大尉の項を参照】及びヴィーダー(Wieder)2等歩兵でシュヴァーベン民謡の「選ばれし者」を四重唱し、メンデルスゾーンの「夕べの歌」をベヒトルスハイム大尉と二重唱した。ゲッピンゲン出身。(1003:福岡→習志野)
543) Epe(エーペ),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・伍長。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとエーペは、第2ヴァイオリンを受け持った。ヴェストファーレン出身。(3269:熊本→久留米)
544) Erb(エルプ),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュヴァルンゲン(Schwallungen)出身。(407:久留米)
545) Erbe(エルベ),Karl(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。ローマン(Lohmann)ないしはシュテーゲマン(Stegemann)の遺品の中に、エルベがねずみの尻尾を掴んでぶら下げている写真、及び囲いの中で腰を屈めて鶏に餌を与えている写真が現存している【シュテーゲマンの項参照】。マイン河畔のフランクフルト出身。(2518:名古屋)
546) Erdmann(エルトマン),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1915年9月25日、収容所替えで青野原に移された。解放後は蘭領印度に渡って、ジャワ島中部スマランのバルマー(Barmer)輸出協会に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(1008:福岡→青野原)
547) Erdniss(エルトニス),Heinrich(1882-?):総督府・上級書記官(中尉相当)。1906年5月陸軍経理部に就職した。青島時代は皇帝街(Kaiserstraße)に住んでいた。徳島時代の1916年6月、「単独逃走ノ企図セシ科」で重謹慎30日に処せられた。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、ヴェストファール(Westphal)2等歩兵と組んでBクラス2位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。リンブルク郊外のハーダマー出身。(4143:「大阪→」徳島→板東)
548) Erkens(エルケンス), Peter(1892-1959): 第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。ケルン地区のブルッフハウス(Bruchhaus)出身。(2516:名古屋)
549) Erlebach(エルレバッハ),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船(Norddeutscher Lloyd Dampfer)アイテル・フリードリヒ皇子号(Prinz Eitel Friedrich)乗員]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゲーステミュンデ出身。(2837:松山→板東)
550) Ernst(エルンスト),Adolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ビーレフェルト出身。(3278:熊本→久留米)
551) Esser(エッサー),Franz(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、上級・中級の審判を務めた。M.グラートバッハ(Gladbach)出身。(3282:熊本→久留米)
552) Esswein(エスヴァイン),August(?-?):第3海兵大隊第2中隊・予備2等歩兵。[赤十字薬局]。青島時代はハンブルク街に住み、勤務していたハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)130番地の赤十字薬局に通っていた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。また1960年頃にも、「チンタオ戦友会」に出席した。シュトラースブルク出身。(2517:名古屋)
553) Esterer(エステラー),Maximilian(1880-1956頃):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備掌砲副曹長。[技術者]。1900年過ぎ、青島のジーメンス商会に勤務した。休暇で帰国中の1904年頃、ヨハンナ(Johanna Meißner)と結婚して息子5人、娘2人をもうけた。1914年11月7日未明、銃火を潜り抜けてビスマルク山頂砲台の自爆を成功させた。大阪時代の1916年、「12月28日他俘虜ニ託シ又翌年ノ1月6日他俘虜ノ名ヲ以テ秘密通信ヲ企図シタル科」で重謹慎30日に処せられた。アルテルト(Artelt)、モーラヴェク(Morawek)、シャウムブルク(Schaumburg)の4人で大阪と似島の両収容所から脱走を企て、似島からの脱走では、アルテルトとエステラーの二人は3年、モーラヴェクとシャウムブルクは2年半の刑を受け、日独講和を受けての特赦で釈放された1920年1月15日まで、広島の吉島刑務所に服役した。エステラーは大阪時代、脱走を企てないとの誓約書への署名を拒否して、手紙の送信・受領、所内の散歩及び所外への遠足等禁止の制約を受けていた。妻ヨハンナと6人の子(うち三人は12歳以下、三人は12歳以上の息子)は大戦終結まで上海で暮らした。解放されて帰国後に予備少尉に任じられた。1927年以降はポツダムに住み、やがて再びジーメンスに勤めた。1935年、ポツダムで二度目の結婚をした。息子のライナー(Rainer)は元俘虜のカール・シュタイガー(Karl Staiger)の孫娘と結婚した。バイエルンのアルテッティング(Altötting)出身。(3886:大阪→似島)
554) Ettingshaus(エッティングハウス),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備1等砲兵。[青島膠海関]。青島税関の膠海関に勤め、ドイツ街に住んでいた。大戦終結して解放後、蘭領印度に渡って商会に勤めた。ヴィースバーデン出身。(3284:熊本→久留米)
555) Euchler(オイヒラー),Otto(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[東京ドイツ大使館]。板東時代の1917年12月、懸賞作文募集に「晩秋」で二等賞を受賞し、賞金3円を獲得した。1918年6月21日には、「農地改革 社会的困窮からの解放のための考え方」と題して講演し、板東収容所印刷所から『社会問題についての三つの講演』を出版した。1919年2月7日には、「柔道、日本の格闘技」の写真展を開いた。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時31歳)、2時間30分14秒5分の4で85人中の第26位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ゴータ出身。(2841:松山→板東)
556) Euler(オイラー),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。応召前は上海に住んでいた。解放後は蘭領印度に渡って商会に勤めた。ヘッセンのブツバッハ(Butzbach)出身。(1881:丸亀→板東)
557) Euler(オイラー),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備副曹長。[帆製造工]。青島時代は小港小路(Kleiner Hafenweg)に住んでいた。ヴェストファーレンのアルンスブルク(Arnsburg)出身。(3887:大阪→似島)
558) Eulner(オイルナー),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東では「ドイツ兵墓碑」の建設にあたって石積み工事を担当した。また工芸品展ではオルロープ(Orlob)及びルートヴィヒ(Ludwig)と共同で、ドイツ軍が西部戦線で捕獲した戦車の模造品を製作・出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインプロヴィンツのヴルフラート(Wülfrath)出身。(1875:丸亀→板東)
559) Evers(エーファース),Hans(?-?):国民軍・卒。[シュミット(F.H.Schmidt)商会]。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。解放後は満州の大連に赴き、南満州鉄道会社に勤めた。メクレンブルクのボイツェンブルク(Boizenburg)出身。(4676:大阪→似島)
560) Evers(エーファース),Richard(?-?):第3海兵大隊第2中隊・予備上等歩兵。[カルロヴィッツ漢口支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、神戸のカルロヴィッツ神戸支店に勤めた。オイティン(Eutin)出身。(2515:名古屋)
561) Ewald(エーヴァルト),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備副曹長。[徳華(独中)高等専門学校]。青島時代はベルリン街に住んでいた。ハノーファーのニーンシュタット(Nienstadt)出身。(2843:松山→板東)
562) Ewald(エーヴァルト),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゾーリンゲン出身。(1014:福岡→名古屋)
563) Ewert(エーヴェルト),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ドイツ・アジア銀行(Deutsch- Asiatische Bank)上海本店]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヒルデスハイム(Hildesheim)出身。(1879:丸亀→板東)
564) Fabel(ファーベル),Karl(1887-?):第3海兵大隊第5中隊・1等蹄鉄工長。1914年11月7日の降伏申し入れの際は、軍使カイザー(Kayser)少佐の旗手として白旗を掲げて先導した。松山時代、山越の講習会では会場を大林寺に移して蹄鉄の講習を行った。「本職ハ馬蹄鉄匠及車輌匠多年同職に従事ス1907年ニ乗馬隊ニ入リ1910年春鍛冶工ニ命セラレ1910年ヨリ1911年迄ハノーヴェルノ陸軍蹄鉄学舎ニ入学ス、後ベルリン陸軍蹄鉄学校ノ六ヶ月実地講習ノ蹄鉄試験ニ合格シ青島ニテ蹄鉄工長タリ 鍛冶、獣医薬、馬畜及農用諸機械修繕ヲ特技トス」【「北海道移住」より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセン=ナッサウのヒリュシュハウゼン(Hirschhausen)出身。(2848:松山→板東)
565) Faber(ファーバー),Leonhard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代、1918年9月16日から、つちや足袋合名会社に木綿漂白の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのジュヒテルン(Süchteln)出身。(3296:熊本→久留米)
566) Faber(ファーバー),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。大戦終結してドイツに帰国後の1920年6月6日、アンナ(Anna Kaupert)と結婚して息子一人をもうけた。ザクセン=マイニンゲンのマイニンゲン(Meiningen)出身。(1028:福岡→青野原)
567) Fabianek(ファビアネク),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(山越・浄福寺収容)の1914年12月15日、歩哨に反抗したことから、19日に重営倉10日の処罰を受けた。また1916年3月2日、夜陰に乗じて共謀脱柵し、酒楼に登った科で重営倉30日に処せられた。板東時代、松山スポーツクラブの役員を務めた。ハルブルク出身。(2847:松山→板東)
568) Fahlbusch(ファールブッシュ),Karl Friedrich(1885-1957):第3海兵大隊第3中隊・軍曹。1905年10月1日軍隊に入った。エンマ・マリーア・ゼーバッハ(Emma Maria Seebach)と結婚した。ミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(418:久留米)
569) Fahn(ファーン),Gustav(1895-1950):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後やがて料理店を経営した。ヨックグリム(Jockgrim)出身。(421:久留米→板東)
570) Faißt(ファイスト),Paul(1892-1965):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。大戦終結してドイツに帰国後の1921年月14日、郷里のフロイデンシュタットでアンナ(Anna Habisreitinger;1899-1958)と結婚して5人の子供をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴュルテンベルクのフロイデンシュタット(Freudenstadt)出身。(1883:丸亀→板東)
571) Falke(ファルケ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊・副曹長。久留米時代の1919年2月5日、収容所小使牛島重太に双眼鏡の売却を依頼し、牛島はこれを国分の時計商石田伊之助に50円で売却した。このことで石田は外敵商取引禁止令違反で取調べを受けた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。ライト(Rheydt)出身。(3319:熊本→久留米)
572) Falkenhagen(ファルケンハーゲン),Wilhelm Ernst(1887-1974):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔イルチス山下部砲台指揮官〕。1905年4月1日海軍入り、1908年9月28日少尉、1911年9月5日中尉、1916年4月24日付けで海軍大尉に昇格した。習志野時代、1919年3月5日に開催された「朗読の夕べ」で、ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)大尉とハイメンダール(Heimendahl)少尉によるメンデルスゾーンの歌曲の二重唱でピアノの伴奏をした。解放後の1920年8月23日、海軍大尉で退役した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オーデンヴァルトのミッヒェルシュタット(Michelstadt)出身。(1016:福岡→習志野)
573) Falkenhayn(ファルケンハイン),Georg(1865-?):砲兵部隊・海軍火工大尉。1880年4月海軍に入隊し、1898年4月火工少尉、1901年4月火工中尉、1907年1月火工大尉に昇進した。フランツ(Franz)砲兵監督と共同で原寸大の帆船、小船を制作して、公会堂の屋外の庭に展示した。大戦終結して帰国後の1920年4月退役となった。シュレージエンのヴァルデンブルク(Waldenburg)出身。(4150:「大阪→」徳島→板東)
574) Fammels(ファンメルス),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。出身地のオイペン(Eupen)がベルギー領になったために、1920年8月28日に解放された【今日でも同地区の住民の大多数はドイツ系で、ドイツ語を母語としている】。オイペン郡のシュトッケン(Stocken)出身。(425:久留米→板東)
575) Fangauer(ファンガウアー),Johann(?-?):第3海兵大隊第3中隊・後備2等歩兵。[朝鮮ソウル・聖ベネディクト修道院]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。バイエルンのエッゲルフィンゲン(Eggelfingen)出身。(426:久留米→板東)
576) Farr(ファル),Gustav(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[カルロヴィッツ広東支店]。リンダウ出身。(2850:松山→板東)
577) Färtsch(フェルチュ),Albert(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍見習主計。板東時代、1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、メドレーリレーに出場し、ヴィヒェルハウス(Wichelhaus)、シュタインメッツ(Steinmetz)、レーマン(Lehmann;板東には二名のレーマンがいて特定不可)と組んで1位になった。ワイマール出身。(2867:松山→板東)
578) Fassbender(ファスベンダー),Martin(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのロッベリヒ(Lobberich)(2533:名古屋)
579) Fath(ファート),Jacob(1893-1958):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。解放されて帰国後の1923年8月4日、ハイデルベルクでエリーザベト(Elisabeth Clasing)と結婚した。バーデンのヴァインハイム(Weinheim)出身。(4357:「熊本→」大分→習志野)
580) Faul(ファウル),Ernst Alfred(1887-?):築城部・要塞構築曹長。[海軍東アジア分遣隊・北京]。板東時代の1917年7月15日、「要塞の歴史的発展について」の第1回講演を行う。解放後は蘭領印度に渡った。ウルム出身。(3066:松山→板東)
581) Fehl(フェール),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、油絵、水彩画、ペン画等15点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』68-69頁】。解放後は蘭領印度に渡った。バルメン(Barmen)出身。(1031:福岡→青野原)
582) Fehr(フェール),Oswald(1876-?):総督府・海軍機関兵曹長。青島時代は皇太子街(Kronprinzenstraße)に住んでいた。板東時代、第2棟の先任准士官だった。クレーフェルト出身。(2869:松山→板東)
583) Felchnerowski(フェルヒネロフスキー),Clemens(1892-1971):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、レスリング及びボクシングのためのスポーツクラブ協会「青年の力」の理事長を務めた。1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。フェルヒネロフスキーは第1組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻183頁】。収容所内印刷所から出された活動記録に「板東における我等がスポーツ・運動」(Unser Turnen in Bando)の記事も書いた。自身はレスリングをして負傷したことがある。1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、フェルヒネロフスキーは133⅔点を挙げて上級の部一位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。劇場委員会にも属し、更には松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」のコントラバスを担当した。【松本照男「日本の器械体操生みの親はポーランド人だった」によれば、回想録を遺したそうである。しかし、記述には不正確と思われる個所もある。生没年の記載に当っては、以下のサイトに依拠した。参照:http://www.e.okayama-u.ac.jp/~taguchi/kansai/tmatsu00.htm】。西プロイセンのオーフェン(Ofen)出身。(1882:丸亀→板東)
584) Fennel(フェンネル),Heinrich(1891-1962):機雷保管庫・1等掌水雷兵曹。教師にして市の書記官ハインリヒ(Heinrich)と母カタリーネ・マルタ(Katharine Martha;旧姓Funk)との間に生まれた。1911年10月1日海軍入り、1919年に1917年10月27日付けに遡って掌水雷兵曹長に昇格し、1920年3月10日に掌水雷中尉で退役した。その後海軍に官吏として勤め、最後は海軍大佐になった。カッセル近郊のホーフガイスマル(Hofgeismar)出身。(2181:姫路→青野原)
585) Fenzel(フェンツェル),Albert(1889-1952):第3海兵大隊第6中隊・後備2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。松山時代(不退寺収容)の1915年11月1日、夕方の点呼の際にやや酩酊し、静粛の命令に従わなかった科で、11月3日に重営倉10日に処せられた。ゴータ出身。(2859:松山→板東)
586) Fesseler(フェッセラー),Archus(1892-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。バーンシュトック(Bahnstock)出身。(1019:福岡→習志野)
587) Feuerbach(フォイエルバッハ),Karl Georg(1891-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン青島支店]。松山時代、公会堂の講習会で簿記等の講師を務めた。板東時代、松山スポーツクラブの役員をつとめた。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時27歳)、2時間41 分39 秒で85人中の第69位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。フランチスカ・シュテルンエッガー(Franziska Sternegger)と結婚した。ニュルンベルク出身。(2853:松山→板東)
588) Fichtner(フィヒトナー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第3中隊・伍長。1915年9月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡って巡査になった。グーベン(Guben)出身。(1043:福岡→久留米)
589) Fick(フィック),Otto(1870-1945頃):青島船渠・2等歩兵。青島時代はドイツ街(Deutschlandstraße)に住んでいた。解放されて帰国後女教師と結婚し、ハンブルクで技術者として働いた。ホルシュタインのブラームシュテット(Bramstedt)出身。(4505:大阪→似島)
590) Fick(フィック),Wilhelm(?-?):国民軍・砲兵軍曹長。[巡査]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。シュレースヴィヒ・ホルシュタインのホルスト(Horst)出身。(4502:大阪→似島)
591) Fiederling(フィーダーリング),Friedrich(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。松山時代、山越での収容所講習会でロシア語の講師を務めた。板東では公会堂での工芸品展に砂車小屋を制作・出品して注目を集めた。解放後は蘭領印度に渡った。ハンブルク出身。(2864:松山→板東)
592) Fiedler(フィードラー),Curt(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備上等歩兵。[山東鉄道保線マイスター]。青島時代は大港地区に住んでいた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会(当時34歳)で、2時間33分3秒5分の1で49位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。グロガン(Glogan)出身。(4354:「熊本→」大分→習志野)
593) Fiedler(フィードラー),Max(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ウラジオストック税関]。大戦終結して解放後は蘭領印度に渡ったが、1922年頃にはすでに故国に帰還していたと思われる。オーデル河畔のクロッセン(Krossen)出身。(2857:松山→板東)
594) Filusch(フィルシュ),Emil(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。[山東鉄道保線マイスター候補]。山東鉄道沿線の周村から応召した。上部シュレージエンのコーゼル(Kosel)出身。(4353:「熊本→」大分→習志野)
595) Findorf(フィンドルフ),Ernst(1889-1965):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン商会香港支店]。1911年ジームセン商会香港支店に赴任した。松山時代、公会堂の収容所講習会で英語及び簿記等の講師を務めた。1920年の帰国後、ハノーファーのゴム工場に勤め、同年保母をしていたマルガレーテ・ブオインリヒ(Margarete Bräunlich)と結婚し、子尾も二人をもうけた。1930年、クンスト・ウント・アルバース(Kunst & Albers) 商会のために上海に赴き、第二次大戦後は台北に赴き、1952年ドイツに帰国してハンブルクのアイクホフ(Eickhoff & Co.)商会に勤務した。後に郷里リューネブルクに戻った。リューネブルク出身。(2851:松山→板東)
596) Fink(フィンク),Leopold(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等機関下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、模型部門で複葉機を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78頁】。ウィーン出身。(2186:姫路→青野原)
597) Fink(フィンク),Walter(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。久留米時代の1917年2月16日、神経衰弱で入院していた衛戍病院から抜け出して捕まった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点121点3分の1で中級の2位になった。シュヴァルツブルク=ゾンダーハウゼンのエルツェ(Oelze)出身。(3310:熊本→久留米)
598) Finster(フィンスター),Georg(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1915年8月10日、久留米収容所からアメリカのドイツ語夕刊紙(新聞名は不詳)に記事を投稿した。「戦争俘虜に楽譜を! 日本の久留米収容所からの熱望 ―エルンスト・ティーセンをご存知の方はいませんか」との見出しの投稿記事の内容全文は以下の通りである。「1915年8月10日、日本の久留米にて 拝啓 手元にある貴夕刊紙によって発行所の住所を知りました。貴紙は収容所内においてとても喜んで読まれています。新世界には知人友人もおりませんので、私たち一同の切なる要望をここに敢えて申し述べさせて頂きます。それは即ち楽譜の送付に関することであります。同封した写真2枚(【新聞には笑顔の楽団員による演奏風景の一点のみ掲載】)からお分かりなるように、我々は楽団を結成しておりますが、楽譜が不足しております。天津、北京等ではピアノ楽譜もなく室内楽も出来ずにいます。我々が日ごろ行っている軽音楽、例えばオペレッタ曲、ワルツ、童話等の楽譜は手に入れることが出来ずにおります。我々が行っているのは、ピアノ、ヴァイオリン、ヴィオラ各二人のサロンオーケストラの陣容です。けれども序曲等の楽譜があったならば、これらに対しても有難く立ち向かえることでしょう。ここでは軽快なアメリカ風ダンスも格別に好まれています。しかしすでに触れましたように、我々は何であれ感謝をこめて受け取ります。もしかしてオーストリアの物はあるでしょうか。というのも勇敢なる同盟者達が同じ収容所に抑留されているからです。久留米収容所の俘虜は現在1300名以上におよんでいます。貴紙がアメリカ最大のドイツ語紙であることから、私は貴紙に宛ててペンを執った次第です。そこで私はこの手紙を、また可能であれば同封の写真も貴紙に掲載して頂けることを、衷心より願うものです。最後に再度申し述べさせて頂きますが、可能であればサロンオーケストラ用の楽譜の送付を願うものです。全戦友の名において心からの感謝とドイツ風挨拶をこめて。敬具 ゲオルク・フィンスター 追伸:もしかして貴紙購読者に、ベルリンのテーゲル出身エルンスト・ティーセン(Ernst Thiessen;不詳)をご存知の方はおられないでしょうか。彼は私の従兄弟で、数年来消息が分かりません。過去の新聞を送付願えれば幸甚に存じます。改めて感謝をこめて。第3海兵大隊第1中隊上等歩兵 ゲオルク・フィンスター 日本の久留米より」。ベルリンのテーゲル(Tegel)出身。(411:久留米)
599) Finzel(フィンツェル),Alfred(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、模型部門で住宅(設計図および説明つき)を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78-79頁】。ザクセンのマッヘルン(Machern)出身。(1032:福岡→青野原)
600) Fischbach(フィッシュバッハ),Emil(1893-1966):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月25日に開催された「スポーツ週間」の「野球ボール遠投」に出場し、62.19mで4位になった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。キルヒェン近郊のバックハウス(Backhaus)出身。(412:久留米)
601) Fischer(フィッシャー),Andreas(1891-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[青島のラルツ薬行(Adalbert Larz)]。板東時代、収容所内タパタオで石鹸等を売る店を出した。解放後は蘭領印度に渡り、西スマトラ薬局に勤務した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ニュルンベルク出身。(2858:松山→板東)
602) Fischer(フィッシャー),Bruno(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・予備副曹長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。10月9日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた下士卒に対する全般の監督を、ライト(Raydt)副曹長とともに務めた【坂本「久留米俘虜収容所の一側面」(上)5頁】。久留米の演劇活動では、イプセン作の『国民の敵』等3演目に出演した。ベルリンのシャルロッテンブルク出身。(428:久留米)
603) Fischer(フィッシャー),Edmund(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フォイクトラントのプラウエン(Plauen)出身。(3291:熊本→久留米)
604) Fischer(フィッシャー),Erich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。熊本俘虜収容所では長国寺に収容された。1915年6月9日、熊本から久留米に収容所換えになったが、久留米では青島時代からの知己であるハーフェルス(Hafels)、クルーゲ(Kluge)及びトゥーハー(Tucher)と再会した。久留米時代の1919年9月、フィッシャーから横浜アメリカ総領事宛に、大戦終結後のアメリカ渡航に関する信書が出され、検閲の上情報局へ転送された。『中国と日本』と題した2巻本の日記を遺した【ウィーンのパンツァー教授(Prof.P.Pantzer)所蔵】。日記には、1915年3月10日熊本収容所において、最初のチフス患者3名が出て、やがて収容所内で広がったことが記されている。2007年3月に刊行された『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』には、フィッシャーによる久留米での俘虜生活(1915年6月9日から1919年12月31日まで)、及び日本からドイツへの帰還中の「ヒマラヤ丸」船内での克明な日記(生熊文訳)が掲載されている。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。バイエルンのシュヴァインフルト(Schweinfurt)出身。(3288:熊本→久留米)
605) Fischer(フィッシャー),Ernst Heinrich(1875-?):総督府・土地管理部秘書官。青島時代はブレーメン街に住んでいた。似島時代の1919年7月19日、青島在住のアニー・フィッシャー(Anni Fischer)から小包を受け取った。その中身は菓子パン、ラード、ジャム、パスタである【高知在住の郵趣家河添潔氏所蔵俘虜郵便より】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ケーテン(Coetehn)出身。(4658:大阪→似島)
606) Fischer(フィッシャー),Franz Paul(1879-1960):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。マインツで没した。ベルンスバッハ(Bernsbach)出身。(1038:福岡→名古屋)
607) Fischer(フィッシャー),Hermann(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918年9月16日から、日本製粉会社久留米支店に労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。バイエルンのブラットリング(Blattling)近郊シュタインキルヒェン(Steinkirchen)出身。(419:久留米)
608) Fischer(フィッシャー),Johann(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備兵。久留米時代は演劇活動で、トロイホルツ作の笑劇『ベルリンっ子』等5演目に出演した。ハンブルク出身。(3300:熊本→久留米)
609) Fischer(フィッシャー),Karl(?-?):海軍砲兵中隊・2等看護兵。[伝道師・広東]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ルール河畔のヴェッター(Wetter)出身。(71:東京→習志野)
610) Fischer(フィッシャー),Karl(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[指物師]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドレスデン出身。(1040:福岡→名古屋)
611) Fischer(フィッシャー),Karl(1881-1941):第3海兵大隊・予備副曹長。[東アジア・ロイド新聞(Ostasiatischer Lloyd)]。1881年3月21日にベルリン郊外のシュテークリッツに生まれた。1897年始め、当時16歳のギムナジウムの生徒だったカール・フィッシャーは、ベルリン大学学生ヘルマン・ホフマンが主催する速記術のサークルに入り、同時にそのサークルが行っていたベルリン郊外の遠足に参加した。その年の6月、外交官となったホフマンの推挙でフィッシャーは遠足のグループ「シュテノグラフィア」の議長に選ばれた。1901年、そのグループは会員のヴォルフ・マイエンの提案で「ワンダーフォーゲル」(Wandervogel)と名づけられた。以後カール・フィッシャーの指導の下でワンダーフォーゲルは拡大の一途を辿った。しかし独裁的な運営からグループ内に反フィッシャー派を生んだ。1904年にグループは二つに割れ、フィッシャーは「古ワンダーフォーゲル」を結成した。1906年7月、フィッシャーは「ワンダーフォーゲル」運動から身を引き、同年10月第3海兵大隊に志願した。1年間の兵役に就いた後には、ハレ大学等で習得した中国語を活かして中国に留まる意図であった。1年後には当初の予定通り上海で新聞社に勤務したが、日独戦争勃発により応召して青島に赴いた。松山時代、公会堂で行われたシュトルツェ=シュライム方式の速記術講習会の講師役を務めた。板東時代、『バラッケ』に「1919年3月29、30日のスポーツと娯楽の夕べ」の記事を寄せている(巻数、年月日は不明)。また1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては、38歳であったにも関わらず敢えて年配組ではない組に出場し、2時間38分22秒のタイムで85名中の58位でゴールインした【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。大戦終結後の1920年帰国したが最早「ワンダーフォーゲル」における地位も無く、寂しい晩年を過ごした。1941年6月13日、生地シュテークリッツで没した。ベルリン出身。(2862:松山→板東)
612) Fischer(フィッシャー),Karl(?-?):国民軍・卒。[時計・宝石商]。青島のフリードリヒ街に住んでいた。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放され、青島に戻った。ニュルンベルク出身。(4503:大阪→似島)
613) Fischer(フィッシャー),Michael(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。デコパージュ(切り貼り絵)の飾り器を残した。飾り器は半球体(直径21.5センチ、高さ8.5センチ)で、内側に当時の外国たばこの箱から切り取った赤や銀色のマークがびっしり張られ、底部には女性の姿が描かれている。納めた木箱にはドイツ語と日本語で「製作者 独逸ライン州ウォーリンゲン 海軍歩兵卒ミッヘル・フィッシャー 俘虜当時久留(米)制作」と書かれている【「西日本新聞夕刊」(平成12年5月22日付)より】。ライン河畔のヴリンゲン(Wurringen)出身。(415:久留米)
614) Fischer(フィッシャー),Paul(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ザクセンのヴィルデンフェルスに生まれ、グリューナウ村で没した【松尾「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」100頁】。久留米時代は演劇活動で、ザレヴスキー(Salewsky)の創作劇『シュタイリヒと息子』等6演目に、主として女役で出演した。グリューナウ(Gnuenau)出身。(3317:熊本→久留米)
615) Fischer(フィッシャー),Paul(1893-1948):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年10月、バール(Alwin Bahr)、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(Paul Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Max Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で、徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。1日約8時間、賃金・期間は不明。解放されて帰国後の1924年1月12日、郷里のヴェルダウ(Werdau)でリーナ(Lina Johanne Graumüller)と結婚した。ザクセンのヴェルダウ(Werdau)出身。(4147:「大阪→」徳島→板東)
616) Fischer(フィッシャー),Richard(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・伍長。「14歳にてダウビッツの小学校を卒業し、1909年10月の兵役迄父の農業に従事し農業の実際方面に精通す、入隊後乗馬隊に在りて養馬の方法を実際的及び学理的に修得せり、耕地牧草、牧場及び水道工事を特技とす」【「北海道移住」より】。パリット出身。(2525:名古屋)
617) Fischer(フィッシャー), Robert(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。解放後は蘭領印度に渡り、ジョクジャカルタ近郊のシーマンで巡査をしたと思われる。ザクセンのランゲンザルツァ(Langensalza)出身。(3890:大阪→似島)
618) Fischer(フィッシャー),Rudolph(1877-?):兵器庫・海軍掌砲中尉。1895年10月海軍に入隊し、1910年7月掌砲少尉、1912年5月掌砲中尉に昇進した。1917年10月31日発令で掌砲大尉、1920年3月8日退役した【シュミット】。1915年1月1日と1916年10月30日付けで、久留米収容所からドイツの友人に宛てた絵葉書が、『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)144頁及び150頁に紹介されている。ライプチヒ出身。(427:久留米)
619) Fischer(フィッシャー),Walter(1892-1970):第3海兵大隊野戦重砲兵隊・上等歩兵。ドイツに帰国後結婚して娘一人をもうけた。ナイチャウ(Naitschau)出身。(2527:名古屋)
620) Fischer(フィッシャー),Willy (?-?) :第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・掌砲兵曹長。1895年4月2日海軍に入った。1908年4月1日掌砲兵曹長。後、天津の海軍東アジア分遣隊に配属され、1914年8月青島の上記部隊に移籍した。ベルリン出身。(3306:熊本→久留米)
621) Fischessel(フィシェッセル),Franz(1890-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。【『俘虜名簿』では「Fischer」となっているが、シュミット氏の「俘虜リスト」に拠った】。上部エルザスのリューリスハイム(Rülisheim)出身。(414:久留米)
622) Fischinger(フィッシンガー),Adolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[アーレンス継続社神戸支店]。松山時代、日本語を少し話したので仲間達の代理でクリスマス・ツリー等の購入役を務めた。解放後蘭領印度に渡り、バタビアの「フォン・ツィンマーマン商会」に勤めた。ゼッキンゲン(Säckingen)出身。(2860:松山→板東)
623) Flender(フレンダー),Karl(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。板東時代の1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、フレンダーは117⅓点を挙げて上級の部三位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ヴェストファーレンのエンデブリュック(Endebrück)出身。(3289:熊本→久留米→板東)
624) Flentie(フレンティー),Theodor(?-?):築城部・築城曹長。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、フレンティーは模型部門で三本マストの帆船、さらにホッフェント(Hoffend)と共同で同じく模型部門に、給水塔(鉄筋コンクリート製200センチ、20分の1モデル、50分の1設計図、力学計算書、建築過程の写真付き)、楽器部門では低音ギターを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』38-39、77、78、79頁】。ハノーファー出身。(2183:姫路→青野原)
625) Fliegelskamp(フリーゲルスカンプ),Otto(1889-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍少尉。1908年4月1日海軍に入った。1911年9月27日海軍少尉となり、砲艦ヤーグアルに乗り込んだ。1914年9月19日海軍中尉に昇進した。エーリヒ・カウル(Erich Kaul)の遺稿日記によれば、カウルはフリーゲルスカンプ少尉のために箱を製作して3円を得た。ヴィースバーデン出身。(72:東京→習志野)
626) Flögel(フレーゲル),Wilhelm K.F.(1887-1918):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。1918年8月5日久留米から名古屋へ移送されたが、11月23日に死亡、陸軍墓地に埋葬された。ラーテノー(Rathenow)出身。(3313:熊本→久留米→名古屋)
627) Florian(フローリアン),Paul(1883-1921):海軍東アジア分遣隊第2中隊・陸軍中尉。1904年3月10日陸軍(歩兵隊)に入隊、1904年6月10日少尉、1911年10月1日海軍歩兵隊へ移籍、1913年6月16日中尉に昇進した。久留米時代、1916年11月15日の大正天皇即位大典の祝いに、俘虜一人につきビール一本とりんご2個が配布された。しかしフローリアンはベーゼ(Boese)中尉とともに日独両国が交戦中であることを理由に拒否すると、激怒した真崎甚三郎所長に殴打された。このことは後に大問題に発展した。ドイツ帰国後の1920年1月30日陸軍大尉となり、その後陸軍大佐で退役した。プフォルツハイム出身。(3311:熊本→久留米)
628) Fock(フォック),Peter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ザンダー・ヴィーラー商会上海支店]。松山時代、公会堂の収容所講習会で4回に亘って英語の講師を務めた。ハンブルク出身。(2854:松山→板東→名古屋)
629) Focken(フォッケン),Charly(?-1919):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1919年1月29日、スペイン風邪により習志野で死亡。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4351:「熊本→」大分→習志野)
630) Fohmann(フォーマン),Paul(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・2等砲兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1916年(月日不明)、「入倉者ニ対シ陰ニ鶏卵ヲ差入レントシタル科」で重営倉10日の処罰を受けた。テューリンゲンのゼッメルダ(Sämmerda)出身。(1046:福岡→名古屋)
631) Fokkes(フォッケス),Alfred(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備砲兵軍曹長。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ハンブルク出身。(3891:大阪→似島)
632) Foerck(フェルク),Theodor(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(416:久留米)
633) Forst(フォルスト),August(1892-1967):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1892年2月27日坑内監督の子として生れた。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。第二次大戦後郷里に戻ってから、ヴィルヘルム・シフラー(Wilhelm Schiffler)と接触をもち、1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。ビルトシュトック(Bildstock)出身。(1030:福岡→習志野)
634) Förste(フェルステ),Willy(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴァイセンフェルス(Weißenfels)出身。(2530:名古屋)
635) Fortak(フォルタク),Emil(?-?):海軍野戦砲兵隊・上等砲兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で下記ローベルト(Robert)と同船でドイツに帰国した。東プロイセンのナイデンブルク(Neidenburg)郡イットヴケン(Ittowken)出身。(3303:熊本→久留米→板東)
636) Fortak(フォルタク),Robert(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で上記エーミール(Emil)と同船でドイツに帰国した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンのナイデンブルク(Neidenburg)郡イットヴケン(Ittowken)出身。(2532:名古屋)
637) Frank(フランク),Gustav(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。ハイデルベルク近郊のロールバハ出身。(2855:松山→板東)
638) Frank(フランク),Karl August Eduard(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日久留米へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度ジャワのヴェルトヴェルデンに渡った。バーデン・バーデン出身。(1042:福岡→久留米)
639) Frank(フランク),Paul Friedrich(1892-?): 第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。ロストックで生まれた。解放後は蘭領印度に渡り、ジャワ近郊のブイテンツォルク(Buitenzorg)動物園の管理人をしたと思われる。フリーデル・シュヴァルツ(Friedel Schwarz)と結婚した。出身地不明【『俘虜名簿』では出身地として中国の漢口と記載されているが、シュミット氏の調査によればフォークトラント(Vogtland)のプラウエン(Plauen)】。(2521:名古屋)
640) Franke(フランケ),Alfred(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918年9月20日、明星山への郊外散歩中に逃亡し、上広川村水原付近で捕まった。精神に異常を来たしていたことから休養室に収容された【『ドイツ軍兵士と久留米』12頁】。ボヘミアのクランメル/アオスッヒ(Krammel/Aussig)出身。(424:久留米)
641) Fransin(フランズィン),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916年10月9日、マダレンチッチ(Madalencic)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。【『俘虜名簿』では「Frausin」】。トリエステ郊外のムッギア(Muggia)出身。(2189:姫路→青野原→丸亀→板東)
642) Franz(フランツ),Friedrich(?-?):兵監及び兵站部・砲兵監督。青島時代は虎街(Tigerstraße)に住んでいた。板東時代、ファルケンハイン大尉と共同で原寸大の帆船、小船を制作して、公会堂の屋外の庭に展示した。ブラウンシュヴァイクのキッセンブリュック(Kissenbrück)出身。(2868:松山→板東)
643) Franz(フランツ),Oskar(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[レオポルト・カッセラ商会]。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第Ⅱヴァイオリン、後に第1ヴァイオリンを担当した。1918年12月28日付けの板東収容所記録によると、東京市入谷町の大橋製釦会社に染色技師として招聘されるために習志野収容所に移送決定との文書が残っている。当時37歳だった。1919年9月22日、板東に再び移された。解放後は、東京の合名会社「Urokago商店」に就職した。バイエルンのホーフ(Hof)出身。(1884:丸亀→板東→習志野→板東)
644) Franz(フランツ),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。右大腿部榴散弾弾子盲銃創により、大阪陸軍衛戍病院に入院した。ベルリン郊外のシュプレー河畔フュルステンヴァルデ(Fürstenwalde)出身。(4631:大阪→似島)
645) Freese(フレーゼ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[シュヴァルツコプフ香港支店]。松山時代(公会堂収容)の1915年5月26日、23日にビールを買うために脱柵したことで重営倉20日に処せられた。板東時代の1918年8月11日、「収容所体操クラブ」の「ヤーン祭」で、収容所仲間による体操を詠んだ詩を朗読した【『バラッケ』第2巻411頁】。板東時代、松山スポーツ協会の役員を務めた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時30歳)、2時間24分49秒で12位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。解放後は蘭領印度へ渡ったが、1922年上海へ赴いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。キール出身。(2849:松山→板東)
646) Freisewinkel(フライゼヴィンケル),Karl Julius(1890-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。応召前は神戸で働いていた。松山時代、公会堂の講習会で製図の講師を務めた。板東時代、公会堂での絵画と工芸品展覧会に、「大麻神社の並木道」と題するペン画を、また玩具コーナーには城・木の兵隊・ノアの箱舟を出品した。解放後は蘭領印度へ渡って、バタビアの水力発電所に勤めた。結婚して子供一人をもうけた。エアフルト出身。(2856:松山→板東)
647) Freitag(フライターク,Hermann(?-?):第3海兵大隊野戦重砲兵隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラーン河畔のシュテーデン(Steeden)出身。(3305:熊本→久留米)
648) Fress(フレス),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(1024:福岡→習志野)
649) Freundlieb(フロイントリープ),Heinrich(1884-1955):第3海兵大隊第6中隊・補充予備2等歩兵。[パン職人]。1902年から1912年まで海軍で勤務し、1912年青島でパン屋を開業した。1915年(月日不明)、「日直将校ノ問ニ対シ事虚偽ニ渉リ且ツ日本ノ待遇ヲ侮辱セシ科」で重営倉7日の処罰を受けた。大戦終結して解放後、愛知県半田町の「敷島製パン」に技師長として招聘され、高木ヨンと結婚し、1924年神戸北野に自分の店を開いた。ヴォルビス郡のユッツェンバッハ(Jützenbach)出身。(2520:名古屋)
650) Frevert(フレーフェルト),August(1880-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[青島郵便局]。板東時代、中国漢口に住む友人のヘルマン・ノイバウアー(Hermann Neubauer:不詳)から、フレーフェルトに宛てて出された葉書二通が、郵趣家三木充氏所蔵で現存している。その内の一通は1918年6月12日漢口消印で、文面は次の通り。「前略 今日、君宛に煙草入り小包を発送した。僕の住所は今日からフリーデリヒ街のディーデリヒセン気付だ。それ以外ここではまだ、まあまあなんとかってところだ。やはり一人また一人とまいり始めている。7月7日付けの小包をまだ受け取っていない、と書いてあったけれど。それは煙草入りの小包かい、それともかみそりの刃を入れた方かい?ともかく今日はこれで失礼」。もう一通は1918年6月15日漢口消印で、文面は次の通り。「前略 今日君宛に煙草を入れた小包を発送した。その後元気ですか? 近いうち僕たちはちょっとした旅行に出る。君にそのことをすでに知らせただろうか? 旅行に出る前にもう一度書いた次第です。今日はこれで。草々」【郵趣家三木充氏所蔵品より。なお、ヘルムート・レーマン(Hellmuth Lehmann)の項を参照】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リッペのアイケルミューエ出身。(2861:松山→板東)
651) Frey(フライ),Jakob(1892-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。解放後は蘭領印度へ渡り巡査になった。ザールブリュッケンのフェルクリンゲン(Völklingen)出身。(4145:「大阪→」徳島→板東)
652) Frey(フライ),Walther(?-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。応召前は北京にいた。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。シュトゥットガルト出身。(1885:丸亀→板東)
653) Freyenhagen(フライエンハーゲン),Johann(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等機関兵曹。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時33歳)、2時間30分56秒5分の4で85人中の第28位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。また、1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、フライエンハーゲンは130点を挙げて古参選手の部一位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。フレンスブルク出身。(2866:松山→板東)
654) Freymuth(フライムート),Karl(?-?):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。熊本時代の1914年12月31日、「酒歩ヨリノ帰途脱走シ、人力車ニ乗シ、古町遊廓ニ到リ遊興ノ後午後九時、人力車ヲ駆リテ横手村ニ帰リ、車賃ヲ仕払ハズシテ寺内ニ遁入シタ」科で重営倉10日の処罰を受けた。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」(当時35歳)で、2時間50分13秒で16人中の14位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ミュンヘン郊外のライト(Rheidt)出身。(3312:熊本→久留米→板東)
655) Fricke(フリッケ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイクのシャンデラー(Schandelah)出身。(3893:大阪→似島)
656) Fricke(フリッケ),Wilhelm(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等按針兵曹。日独戦争前、ヤーグアル乗員として度々日本を訪れた事があり、日本近海の情報に通じていた。熊本時代の1915年1月24日、阿弥陀寺に収容されていたフリッケは、ブッシュ(Johannes Busch)、ラッペンエッカー(Rappenecker)及びツァイス(Zeiss)の四人で収容所から脱走した。夜の内に海岸へ20キロの地点まで進んだ。翌朝早くに同罪となることを恐れたシューマン(Paul Schumann)の報告で脱走が分かり、四人はボートで海に漕ぎ出す寸前で警察官に逮捕された。荒縄で繋がって縛られて収容所に連れ戻され、やがて軍法会議で禁錮10月に処せられた。拘禁中は赤茶色の囚人服を着せられた。解放後は蘭領印度に渡り、ジャワ島中部ヴェルテヴレーデンの皮革工場で働いた。ノイハウス(Neuhaus)出身。(3320:熊本→久留米)
657) Friebel(フリーベル),Franz(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。1916年9月30日、久留米収容所より情報局へ、フリーベルの処罰について通報があった。オールドゥルフ(Ohrdruff)近郊のヴェルフィス(Wölfis)出身。(3290:久留米)
658) Friedel(フリーデル),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。[山東鉄道・車両長(マイスター)]。済南から応召した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセン=ナッサウのディレンブルク(Dillenburg)出身。(3299:熊本→久留米)
659) Friedmann(フリートマン),Wilhelm(1891-1963):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。解放後、テレージア・ザイラー(Theresia Seiler)と結婚した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ツェル(Zell)出身。(2351:名古屋)
660) Friedrich(フリードリヒ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フランクフルト(Frankfurt am Main)出身。(1025:福岡→習志野)
661) Friedrich(フリードリヒ),August Wilhelm(1891-1959):第3海兵大隊野戦砲兵隊・伍長。解放後は蘭領印度に渡って巡査になり、後にジャワ島西部ケリボン(Cheribon)の警察部長になった。アンナ・ビュルク(Anna Bürck)と結婚して子供二人をもうけた。1940年、第二次大戦勃発で収容所に収容され、1947年ドイツへ戻った。ゴータ(Gotha)出身。(2526:名古屋)
662) Friedrichsen(フリードリヒゼン),Jacob(?-?):海軍砲兵中隊・後備2等掌砲兵曹。1916年1月11日、習志野で脱走未遂事件を起こした。出身地不明【ただし『俘虜名簿』では天津】。(70:東京→習志野)
663) Frieling(フリーリング),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。レーリングハウゼン(Röhlinghausen)出身。(417:久留米)
664) Friese(フリーゼ),Hans(1888-1966):国民軍・上等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。メクレンブルク=シュヴェーリンのテテロウ(Teterow)出身。(2185:姫路→青野原)
665) Friese(フリーゼ),Willi(1890-1981):総督府・1等電信兵曹。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。メクレンブルク=シュヴェーリンのテテロー(Teterow)出身。(2180:姫路→青野原)
666) Frings(フリングス),Leopold(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等焚火兵。プリュショー中尉付き下士卒で、8月3日飛行機の翼の再組み立てに従事した。ラインラントのケルンミュールハイム(Kölnmühlheim)出身。(3889:大阪→似島)
667) Frisch(フリッシュ),Franz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船]。板東時代の1918年4月21日、クラーゼン(Claasen)及びヴェーゲナー(Wegener)と共同で「歌の夕べ」を開催して仲間達に感動を与えた。フリッシュは「バラの香の中で」及び「もしかすると」を独唱した。また1918年6月1日、軍楽曹長ハンゼン(Hansen)によって、ベートーヴェンの「第九交響曲」が板東俘虜収容所内で本邦初演された。その折り、フリッシュ、ヴェーゲナー(Wegener)2等歩兵、シュテッパン(Steppan)2等歩兵、コッホ(Koch)伍長の四人は第4楽章の「合唱」でソロを受け持った。リューベック出身。(2852:松山→板東)
668) Frithoff(フリートホフ),Wilhelm(?-?):所属部隊不明・後備2等筆記。[商人]。妻アンナ(Anna)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ブランケゼー近郊のドッケンフーデン(Dockenhuden)出身。(4507:大阪→似島)
669) Fritsche(フリッチェ),Julius(?-?):国民軍・砲兵軍曹長。妻と娘二人は大戦終結まで上海で暮らした。ザクセン県のヴァイセンゼー出身。(4501:大阪→似島)
670) Fritz(フリッツ),Georg(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1919年4月20日に行われた「久留米体操クラブ」の5種競技(投擲用ボール投げ、石投げ(15kg)、幅跳び、棒高跳び、100m競争)では、得点80点で初級の3位になった。シュトゥットガルト出身。(783:久留米)
671) Fritzsche(フリッチェ),Arthur(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備伍長。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、東京京橋の「カフェ・パウリスタ」に洋菓子の指導に出かけた。ハンブルク出身。(1022:福岡→習志野)
672) Fröbel(フレーベル),Karl(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代は収容所の音楽活動で、「山のあなた」の詩で知られる詩人カール・ブッセの「二つの喜び」等の詩に作曲したり、自ら歌曲を歌ったりもした。シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとフレーベルは、第2ヴァイオリンを受け持った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケルン出身。(3295:熊本→久留米)
673) Fröhlich(フレーリヒ),Christian(1880-1952):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。[フレーリヒ建築事務所]。1900年、一兵士として中国に赴いた。1903年総督府上部建築部に勤務した。1909年、青島のヴィルヘルム皇帝海岸通で建築事務所を経営した。同年9月14日、パオリーネ・パプスト(Pauline Pabst)と結婚し、娘三人をもうけた。妻と娘たちは大戦終結まで青島で暮らした。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時39歳)、2時間46 分11 秒で「シニアの部」の16人中の第10位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放されたが【『俘虜ニ関スル書類』より】、1920年家族とともにドイツに帰国した。帰国後更に4人の子をもうけた。1922年末か1923年の始めに単身青島に赴き、建築事務所を開設したが、1928年郷里に戻り、農地を相続した。ラーン河畔のランゲンデルンバハ(Langendernbach)出身。(2863:松山→板東)
674) Fröhlich(フレーリヒ),Franz(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。熊本時代、1915年1月20日から5月27日まで、靴工として従事した。ヴェストファーレンのシュトレームベルク(Strohmberg)出身。(3293:熊本→久留米)
675) Fröhlich(フレーリヒ),Georg(1879-1952):国民軍・階級不明。[ベルニック・ウント・ペッター建築事務所(Bernick & Pötter,Baugeschäft)]。1906年(乃至は1907年)から青島で暮らした。青島時代はフリードリヒ街413番地に住んだ。1913年8月30日アンナ・クヴェルンハイム(Anna Quernheim)と結婚し、息子一人をもうけた。妻と息子は大戦中も青島に留まった。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。1920年家族と共にドイツへ帰国し、やがて娘一人をもうけた。メンヒェングラートバハ(Mönchengladbach)出身。(4504:大阪→似島)
676) Froehlich(フレーリヒ),Karl(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、工芸品展に自動噴水の仕掛けによる見事な仕上がりの水槽を製作・出品し、収容所賞第2位に輝いて賞金5円を獲得した。シュレージエンのシラースドルフ(Schillersdorf)出身。(2865:松山→板東)
677) Froehlich(フレーリヒ),Oskar(1891-1969):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・海軍中尉。日本軍による包囲後、歩兵堡塁中間地区の左翼側でクーネンフェルス(Kuhnenfels)中尉とともに、カイゼリン・エリーザベト乗員の揚陸部隊指揮に当たった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。グラーツのシュタイアーマルク(Steiermark)出身。(2179:姫路→青野原)
678) Frohnwieser(フローンヴィーザー),Fritz(?-?):巡洋艦皇后リーザベト乗員・3等水兵。解放後は蘭領印度へ渡って、ジャワ島頭部スラバヤのアントシュ(Antosch)・ホテルに職を得た。ケルンテン(Kärnten)のヴィラッハ(Villach)出身。(3322:熊本→久留米)
679) Frymark(フリーマルク),Franz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・軍曹。熊本時代、法則を遵守しなかった科で重営倉2日の処罰を受けた。ミルデ河畔のカルベ(Calbe)出身。(3301:熊本→久留米)
680) Fuhrmann(フーアマン), Wilhelm H.(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのヴァイスドルフ(Weißdorf)出身。(3309:熊本→久留米)
681) Fürl(フュルル),Max(1890-1973):第3海兵大隊第5中隊・軍曹。ベルリンのシュテークリッツ(Steglitz)で没した。ブランデンブルクのフィンスターヴァルデ(Finsterwalde)出身。(2524:名古屋)
682) Fütterer(フュッテラー),Ernst(1893-1954):海軍野戦砲兵隊・上等砲兵。1915年6月久留米へ収容所換えになった。1918年6月、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の会長を務めた。1920年ドイツに帰国した。やがて第二次大戦で応召したがソ連軍の捕虜となり、1954年3月19日、東シベリアのチュナ(Tschuna)で没した。キルラッハ(Kirrlach)出身。(3304:熊本→久留米)
683) Fydrich(フィードリヒ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵軍曹長。〔第8a砲台指揮官〕。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンのライン(Rhein)出身。(4149:「大阪→」徳島→板東)
684) Gabel(ガーベル),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[菓子職人]。ハルピンから応召した。板東時代、収容所内の製菓・製パン所(ゲー・バー)の製菓の中心的役割を果たした。また、製菓・製パンを市民に伝授した。教えを受けた一人藤田只之助(後、徳島市の繁華街富田橋北詰にパン屋「ドイツ軒」を、紺屋町にはパンと喫茶の「ドイツ軒出張所」を開業した)に対する、松江所長が証明した修業証明書が今日残っている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(1895:丸亀→板東)
685) Gabriel(ガブリエル),Leo(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[商社員]。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。妻と二人の子は大戦終結まで青島に留まった。コーニッツ(Konitz)郡のデリングスドルフ(Doeringsdorf)出身。(444:久留米)
686) Gackstätter(ガクシュテッター),Georg(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[中国ジーメンス(Siemens China Co.)香港支店]。板東時代の1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。ガクシュテッターは第5組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻183頁】。ローテンブルク出身。(1899:丸亀→板東)
687) Gadebusch(ガーデブッシュ),Richard(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。久留米の演劇活動では、シュニッツラー作『アナトール』の一部分からの脚色になる『アナトールの婚礼の朝』等3演目の演出を担当し、また21演目に出演した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(430:久留米)
688) Gadow(ガドウ),Karl(1888-1952):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。1913年8月、タウマイアー・ヘトラー商会勤務で中国へ赴いた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、上海へ渡った。1924年結婚して娘一人をもうけた。1926年上海国際協議会の会員になり、1940年には上海ドイツ人連盟の議長になったが、1945年以後、ドイツへ送還された。ヴィースバーデン郡のビーブリヒ(Biebrich)出身。(431:久留米)
689) Galbourdin(ガルブルディン),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。宣誓解放された。ウイス(Wuisse)出身。(1057:福岡→習志野)
690) Galliant(ガリアント),Hans(1892-1976):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1914年8月上記中隊に入隊した。大戦終結して帰国後は巡査となり、マクダ・カロリーネ・ジークムント(Magda Karoline Siegmund)と結婚した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。キール出身。(434:久留米)
691) Galster(ガルスター),Max(1885-?):海軍砲兵中隊・海軍中尉。久留米時代、ベートーヴェンやメンデルスゾーンのピアノ演奏等の音楽活動で活躍した。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年3月26日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りガルスターはヴァイオリンを担当した。他は、デュムラー(Duemmler)海軍大尉のチェロ、クラインシュミット(Kleinschmidt)予備少尉のヴィオラ、クラーゼン(Claasen)伍長のピアノ、ナスート(Nassuth)砲兵伍長のコントラバスという編成であった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。キール出身。(3343:熊本→久留米→板東)
692) Gardy(ガルディー),Karl(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)156頁には、ガルディーがドイツの知人に宛てた手紙の封筒が掲載されている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(449:久留米)
693) Gareis(ガーライス),Max(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海居留地工部音楽隊員]。1909年9月5日、前記音楽隊に加入した【「1912年版上海工部局年次報告書」より】。1914年12月15日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス及びプレフェナーは非戦闘員なので解放せよとの申し入れがあったが、軍籍があることから不許可になった。板東時代、ガーライスは「エンゲル・オーケストラ」の一員として第2ヴァイオリンを担当していたが、1917年6月頃ゼッゲルン(Seggern)とともに楽団から退いた。テューリンゲンのカーラ(Kahla)出身。(2874:松山→板東)
694) Garken(ガルケン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。似島時代の1919年3月に開催された、広島県物産陳列館の似島独逸俘虜技術工芸品展覧会のカタログによれば、ガルケンはシェルコプ(Schöllkopf)と共同で理髪店を営業していた。キール出身。(4508:大阪→似島)
695) Gärtner(ゲルトナー),Paul H.(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・上等兵。応召前、ハンブルクのオルトナー商会(Ortner & Co.)に勤務していた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リューベック出身。(4364:「熊本→」大分→習志野)
696) Gauerke(ガウエルケ),Gustav(?-?):測量艦プラーネット乗員・2等兵曹。1914年10月10日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日宣誓解放された。ヴュルテンベルク出身。(4669:なし)
697) Gaul(ガウル),Emil (August Friedrich;1890-1959):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ラウシェンドルフ(Rauschendorf)出身。(440:久留米)
698) Gaul(ガウル),Karl(?-?):第3海兵大隊・陸軍歩兵中尉。1914年9月26日の決戦では、機関銃隊、野戦砲兵隊を率いて滄口高原に布陣した。元来は歩兵第35連隊附歩兵中尉。ドイツ陸軍大学卒で、参謀本部附となり日本に留学した。奈良の歩兵第53連隊附の時に日独国交断絶となり、日本の情勢偵察のため大阪、奈良、神戸を転々として青島に赴き青島ドイツ軍に加わった。1914年11月15日、福寿丸で門司港に着いた。奈良連隊見学時の連隊長岡澤慶三郎大佐は少将に昇進して、熊本の歩兵第11連隊長となり再会を楽しみにしている、との談話が新聞に掲載された。熊本時代の1915年1月11日、妻シャルロッテ(Charlotte;当時26歳)が陸軍大臣の許可を得て面会に訪れた。以後は松木直亮所長の計らいで、毎週月曜午前9時に面会出来ることになった。5月31日、第五高等学校傭ドイツ人教師ビュットナー嬢が、ガウル、コップ(Kopp)中尉、マイアーマン(Meyermann)中尉、モール(Mohr)少尉、プラシュマ(Praschma)退役少尉の将校5名と、ベッカー3等兵曹(不詳)の面会に来て、約1時間半面談した。ビュットナーは将校夫人達の熊本到着から、家屋の借り入れ、日用品の購入等の手助けをしていたが、近々帰国となることから面会に訪れたのであった【参照:『熊本俘虜収容所日誌』】。久留米時代、妻は国分村刈原に住んだ。1918年8月5日コップ、マイアーマン等とともに板東収容所に移送された。帰国後、陸軍少佐で退役した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(3323:熊本→久留米→板東)
699) Gebhard(ゲープハルト),Fritz(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのジンナータール(Sinnerthal)出身。(2545:名古屋)
700) Gebhardt(ゲープハルト),Otto(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米俘虜収容所では歌曲を作曲し、演奏でも活躍した。また演劇活動では、シェーンヘル作の悲劇『信仰と故郷』に出演した。シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとゲープハルトは、トランペットを受け持った。ハレ近郊のタイヒャ(Teicha)出身。(438:久留米)
701) Geffers(ゲフェルス),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備砲兵伍長。1915年9月15日、他の94名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。リューネブルク出身。(1070:福岡→習志野)
702) Geier(ガイアー),Emil(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。板東時代の1918年10月16日、ダメリウス(Damerius)がシュトゥットガルトに住むカール・カウフマン(Carl Kaufmann)宛てに書き送った手紙に添え書きで署名した。バーデンのプフォルツハイム(Pforzheim)出身。(1894:丸亀→板東)
703) Geiger(ガイガー),Theodor(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等兵。フォーゲルフェンガーの1916年8月29日の日記には、午前1時に大きな地震があり、またその直後に助けを求めるするどい叫び声があったと記されている。それは、顔の上をねずみが走ったためにあげたガイガーの叫び声であった【『ドイツ兵士の見たニッポン』161頁】。コールマル近郊のハウゼン出身。(75:東京→習志野)
704) Geisel(ガイゼル),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハーナウ県のベルゲン(Bergen)出身。(1053:福岡→習志野)
705) Geldmacher(ゲルトマッハー),Willy(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。久留米の演劇活動では、リンダウ作の『もう一人の男』に出演した。宣誓解放された。ヴェストファーレンのヴァイトマル(Weitmar)出身。(432:久留米)
706) Gelpke(ゲルプケ),Albert(1893-?):第3海兵大隊野戦砲兵隊・2等砲兵。ハールツ山麓オステローデ郡のヴォラースハウゼン(Wollershausen)出身。(439:久留米)
707) Gendarme(ジャンダルム),Julius(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。フランス大使館を通して、フランス語の新聞購読希望申請が出された。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1915年12月、宣誓解放された。メッツ近郊のクルツェル(Kurzel)出身。(1064:福岡→久留米)
708) George(ゲオルゲ),Heinrich(?-?):海軍第2工機団・副曹長。大戦終結後、第4次送還船で下記マックス(Max)と同船でドイツに帰国した。ヴェストファーレンのヴィッテンブルク(Wittenburg)出身。(2891:松山→板東)
709) George(ゲオルゲ),Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ツヴィッカウ近郊のカインスオルフ(Kainsdorf)出身。(1065:福岡→習志野)
710) George(ゲオルゲ),Max(?-?):総督府・2等筆記。妻は1915年1月1日、「シベリア号」で帰国した。大戦終結後、第4次送還船で上記ハインリヒ(Heinrich)と同船でドイツに帰国した。ヴィッテンブルク出身。(2195:姫路→青野原)
711) Georgi(ゲオルギ),Franz(1877-1935):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。エアフルトに没した。キンデルブリュック(Kindelbrück)出身。(4362:「熊本→」大分→習志野)
712) Georgi(ゲオルギ),Paul(1892-1918):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。1918年11月26日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ヴィルカウ出身。(2542:名古屋)
713) Gerbig(ゲルビヒ),Ernst(?-?):第3海兵大隊・武器工長。松山時代(大林寺収容)の1916年9月19日、ヴンダーリヒ(Wunderlich)から上海に居住するツィンマーマン(Otto Zimmermann)の妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し、ゲルビヒは重謹慎10日の処罰を受けた。他の4名は(Gerbig)、イェシュケ(Jeschke)、マイアー(Otto Meyer)、シャイダー(Scheider)、ツィンマーマン(Otto Zimmermann)である。妻ヘレーネ(Helene)は二人の子ども(いずれも12歳以下)と、大戦終結まで上海で暮らした。アルテンブルク近郊のアイゼンベルク出身。(2887:松山→板東)
714) Gericke(ゲリッケ),Otto(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲隊・後備伍長。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとゲリッケは、チェロを受け持った。ハノーファー出身。(3336:熊本→久留米)
715) Gerlach(ゲルラッハ),Julius(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・後備2等焚火兵。1919年1月21日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、1月26日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ラインラントのカル(Call)出身。(4510:大阪→似島)
716) Gerlach(ゲルラッハ),Max(?-?):国民軍・階級不明。[総督府法務局秘書官・裁判所書記]。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ブレスラウ地区のブリーク(Brieg)出身。(4514:大阪→似島)
717) Gerstadt(ゲルシュタット),Joseph(?-?):第3海兵大隊第3中隊・伍長。1915年10月頃に設立された「下士官体操クラブ(Unteroffizier-Turnverein)」の指導者エングラーが名古屋へ移送されてからは、その後任に就いた。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の上級に出場して(出場者は6名)、72⅓点を獲得して第2位になった。ラインガウのヨハニスベルク出身。(445:久留米)
718) Gerstner(ゲルストナー),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。[指物師]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。マンハイム出身。(1052:福岡→習志野)
719) Gerweck(ゲルヴェック),Johannes(?-?):第3海兵大隊第4中隊・軍曹。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。カールスルーエ県のナイプスハイム(Neibsheim)出身。(3326:熊本→久留米)
720) Geschke(ゲシュケ),Carl(1895-1981):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ゲシュケ輸出入商会]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。ハンス・ゲシュケ(Hans Geschke)と郷里の住所【参照『板東収容所俘虜故国住所録』15頁】、かつ勤務先が同じであることから身内と思われる。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放されたが、やがて蘭領印度のバタヴィアに渡った。1928年には再び青島に戻った。ハンブルク出身。(2879:松山→板東)
721) Geschke(ゲシュケ),Hans(1894-1978):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ゲシュケ輸出入商会経営]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。板東時代、収容所内のタパタオで写真屋を営んだ。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時25歳)、2時間43分55秒5分の1で85人中の第73位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。大戦終結後は蘭領印度のジョクジャカルタに渡ったが、1928年頃に再び青島に戻った。青島で息子が三人いるタマラ(Tamara Machaloff)と二度目の結婚をした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(1901:丸亀→板東)
722) Gessner(ゲスナー),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、鉛筆画(戦闘機、マイアー=ヴァルデック海軍大佐等)5点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』70頁】。ゲーラ郡のランゲンヴェンツェンドルフ(Langenwentzendorf)出身。(1069:福岡→青野原)
723) Gianone(ジアノーネ),Julius(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等下士。解放後は蘭領印度に渡り、セマラン(Semarang)の郵便局に勤務した。イストリア出身。(2197:姫路→青野原)
724) Gies(ギース),Christian(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。デュッセルドルフ出身。(2540:名古屋)
725) Gieser(ギーザー),Christian(1893-1970):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。応召前は上海で船乗りをしていた。ベーディヒハイム(Bödigheim)出身。(1897:丸亀→板東)
726) Gilberg(ギルベルク),Johann(1892-1968):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。モーゼルのコーベルン(Kobern)出身の女性と結婚したが子供はいなかった。ディープリヒ(Dieblich)出身。(4366:「熊本→」大分→習志野)
727) Gillmann(ギルマン),Walter(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。トリア近郊のヴィーベルスキルヒェン(Wiebelskirchen)出身。(3340:熊本→久留米)
728) Gillsch(ギルシュ),Walther(?-?):第3海兵大隊3中隊・予備2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ゲーラ出身。(1086:福岡→名古屋)
729) Gimborn(ギムボルン),Bodo von(1883-1972):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ガルレス、ベルナー上海支店]。その日記(第一次大戦勃発直後から、応召して青島へ到着後数日までの記述)が、甥のハンス=ジークムント・フォン・ギムボルン氏によって清書され、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページに掲載されている。以下はその大要である。上海の上記会社では、ハッハマイスター(Hachmeister)、レッチュ(Laetzsch)及びヴァイツ(Weitz)と同僚であった。ギムボルンは気管支炎により10日間入院して、1914年7月30日に退院したばかりであった。8月5日の夜10時半に友人のティース(Thies)と一緒に青島に向けて上海を出発した。8月6日朝7時南京着、8月7日朝6時に青島に到着した。出発前に北京、天津から上海に来ていたパウルゼン(Paulsen)、ミュラー(Dr.Müller;特定不可)及びゲルケ(Gercke?)の三人に会ったが、列車でも一緒だった。青島での最初の晩は、プリンツ・ハインリヒ・ホテルで食事を取った。その折り、妻とともに青島で休暇を過ごしていたシェルホス(Schellhoss)大尉に会った。板東時代の1917年5月、松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」のチェロを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのジグマリンゲン(Sigmaringen)出身。(1896:丸亀→板東)
730) Glaser(グラーザー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。熊本時代(禅定寺に収容)の1915年3月15日、少し以前から高熱で入院していたが、この日ベッヒャー(Böcher)及びシュトラウス(Paul Strauss)とともに腸チフスと診断された。ハレ近郊のヘーンシュテート(Höhnstedt)出身。(3351:熊本→久留米)
731) Glaser(グラーザー),Karl F.(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年1月26日、広島高等師範学校の運動場で、俘虜チームと高等師範学校、県師範学校、付属中、一中のチームとのサッカー交歓試合が行われた。この際グラーザーはキャプテンとして出場したと思われる。それは、その後高等師範の主将だった田中敬孝が日曜ごとに小船で似島俘虜収容所に赴き、俘虜チームに入って指導を仰いだが、その折の俘虜側1軍キャプテンがグラーザーだったからである。なお先の交歓試合は、5対0で俘虜側の勝利であった【『広島スポーツ100年』61頁】。また3月には、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で木彫りの箱1点を出品した。カールスルーエ出身。(3900:大阪→似島)
732) Glasmacher(グラースマッハー),Hans(?-1919):第3海兵大隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日、ノッペナイ(Noppeney)等68名とともに、福岡から大分に移送された。1919年2月4日、スペイン風邪により習志野で死亡。グレーフェンブロイヒ(Grevenbroich)県のカペレン(Capellen)出身。(1059:福岡→大分→習志野)
733) Glathe(グラーテ),Alfred(?-?):所属部隊不明・階級不明。[ジータス-プラムベック(Sietas,Plambeck & Co.)青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。【1918年9月付けのF.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によればグラーテは、似島時代に共同で提出した嘆願書の中で自分が健在である事を、スイスのアンデルマットに住む妻に連絡を請うべく依頼したとのことである。参照:大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』218頁】。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。ドレスデン出身。(4519:大阪→似島)
734) Glatt(グラットゥ),Julius(1892-1962):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。ヒルツィンゲン(Hilzingen)出身。(3906大阪→似島)
735) Glatzel(グラッツェル),Alfred(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」団員で、トランペット及び第2ヴァイオリンを担当した。シュテティン郊外のフィンケンヴァルデ(Finkenwalde)出身。(2872:松山→板東)
736) Gleichmann(グライヒマン),Friedrich Hermann(1885-?):第3海兵大隊第2中隊・軍曹。解放後は蘭領印度に渡り、当初はオランダの蒸気船に乗り込んだが、後にジャワ・セマラン(Semarang)で農園を経営した。ザクセンのコーブルク出身。(2537:名古屋)
737) Gleixner(グライクスナー),Ludwig(1894-1971):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1976年4月15日にウーレンフート(Uhlenhuth)に手紙を送っている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。上部プファルツのヒャム(Cham)出身。(1060:福岡→大分→習志野)
738) Glier(グリーア),Bernhard(1891-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[中国ジーメンス上海支店・簿記]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。エルベ河畔のハルブルク(Harburg)出身。(1900:丸亀→板東)
739) Glöckler(グレックラー),August(?-1920):国民軍・階級不明。[職工長]。青島時代はヘルタ街(Herthastraße)に住んでいた。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた。1920年1月4日、送還直前に日本で死亡。バーデン・バーデン出身。(4517:大阪→似島)
740) Glöckner(グレックナー),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・後備砲兵軍曹長。徳島時代の1916年10月、バール(Alwin Bahr)、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(Paul Fischer)、ヘフト(Max Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で徳島市の円藤鉄工所にダライバン(=旋盤)の労役で派遣された。1日約8時間、賃金・期間は不明。ハンブルク出身。(4165:「大阪→」徳島→板東)
741) Glückselig(グリュックゼーリヒ),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵軍曹長。1916年10月22日、他の68名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。妻マルタ(Marta)は大戦終結まで青島に留まった。コンシュタット(Konstadt)出身。(1049:福岡→習志野)
742) Gnuschke(グヌシュケ),Arthur(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。板東時代の1918年5月2日、東久邇稔彦王が四国旅行で徳島に立ち寄った際、急遽鳴門の撫養(むや)で俘虜による作品展示会が特別に開催された。その折グヌシュケはボーンとともにパイプを制作出品し、それが買い上げられた。他にヘフト、クヴィンテンの作品も買い上げられた。また、タパタオの30号小屋でベーム(Böhm)と配管及び機械工の仕事を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。オステローデ(Osterode)出身。(2870:松山→板東)
743) Göbel(ゲーベル),Carl(1887-1954):第3海兵大隊第5中隊・軍曹。「14歳にしてヘルスドルフの小学校を卒業し1907年10月の兵役まで父の農業を補助し農業の実際方面を修得す、農職に特別の趣味を有するを以て入隊後乗馬隊に入り養馬の方法を実際的及学理的に修得す、14歳より17歳迄ヘルスドルフの工業補修学校に通学せり耕作を以て特技とす」【「北海道移住」より】。解放後は蘭領印度に渡った。1924年郷里のヘルスフェルトに戻った。ヘッセン=ナッサウのヘルスフェルト(Hersfeld)出身。(2538:名古屋)
744) Göbel(ゲーベル),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、シュニッツラー作『アナトール』の一部分を脚色した『別れの晩餐』等2演目に出演した。上部ヘッセンのラウターバッハ河畔ブリッツェンロート(Blitzenrod)出身。(446:久留米)
745) Goebel(ゲーベル),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。板東時代、板東町萩原の黒田庫之助の家できゅうりの西洋式漬物(ピクルス)の方法を伝授した。また、隣町坂西の尾崎秋太郎にもピクルス及びトマトの栽培法を伝授した。ほぼ毎日通い、やがて婚礼にも招かれて軍服の正装で出席した。シュレージエンのレヒリッツ(Roechlitz)出身。(4162:「大阪→」徳島→板東)
746) Gödecke(ゲーデッケ),Hermann(?-?):海軍砲兵中隊・海軍中尉。〔青島市要塞火工長〕。青島時代はビスマルク街に住んでいた。エッセン出身。(3905:大阪→似島)
747) Goldschmidt(ゴルトシュミット),Richard(?-?):第3海兵大隊第5中隊・予備副曹長。松山時代の1915年12月、所持金検査で預金額5000円の松山市52銀行の通帳所持が判明した。故国の親から6000円の送金を受け、内1000円は既に使い果たしていた。マルティーン(Martin)中尉及びゾルガー(Solger)予備少尉とともに『陣営の火』の編集に当たった。板東では『バラッケ』編集部員となるが後に退任した。「板東保険組合」の幹事役をアルバース(Albers)と共に務め、1918年9月には新たに第5中隊代表理事に選ばれた。1919年6月28日には、イプセン作『社会の柱石』上演に際しては演出を担当した。マイン河畔のフランクフルト出身。(2871:松山→板東)
748) Goll(ゴル),Hermann(1885-1915):第3海兵大隊第1中隊・曹長。[巡査]。1915年9月7日大阪衛戍病院で急性盲腸炎により死亡した。所属将校1名と友人1名の立会いの下に解剖されて上記病名が確認された。9月9日、大阪の福音教会牧師青木律彦の司式のもとに葬儀が執り行われた。喪主を務めた准士官アントショヴィッツ(Antoschowitz)及びエンゲル(Heinrich Engel)以下大阪の俘虜27名が参列する中、真田山陸軍墓地に土葬された。葬儀の模様は、『大阪朝日新聞』の大正4年9月10日付けで写真入りで報じられた。墓碑銘の冒頭部「獨逸俘虜…」の内、「俘虜」の二文字は昭和6年5月8日以降に第四師団阿部師団長の決断によって、名誉のために削り取られたと考えられる【参照:『大阪毎日新聞』昭和6年5月7日朝刊(大阪版)】。カールスルーエ近郊のゲルスハウゼン出身。(4509:大阪)
749) Golz(ゴルツ),Albert(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日が開催された21キロの競歩大会において、ゴルツ(25歳)は2時間34分38秒5分の2で85人中の第47位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(2878:松山→板東)
750) Golz(ゴルツ),Kuno(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザールブリュッケン出身。(76:東京→習志野)
751) Gomille(ゴミレ),Paul(1889-1917):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第2棟5室で洗濯屋を営んだ。1917年12月9日、板東で死亡。ポーゼン出身。(1890:丸亀→板東)
752) Gomolka(ゴモルカ),Theophill(?-1916):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916年6月17日青野原で死亡、姫路陸軍墓地に埋葬された。大戦終結後、遺骨の引き取り手がなかったために、名古山霊園内の旧陸軍墓地に、イェロヴチッチ(Jellovcic)およびヴィータ(Vita)とともに葬られている。ガリシアのピールヒャウ(Pierchau)出身。(2204:姫路→青野原)
753) Gomoll(ゴモル),Carl(?-1932):国民軍・後備上等歩兵。[ベルリーナ ヴァイスビーア、黒ビール醸造所(Berliner Weißbier-und Porter-Brauerei)経営者]。1903年に中国へ赴き、上海で醸造所兼レストランを開業した。1906年に青島へ移住し、「ゲルマニア醸造所」では「ヴァイスビーア(Weißbier)」を製造していなかったことからヴァイスビーア醸造所を屠獣所街(Schlachtenstrasse)で開業した。1908年6月6日、妻のクララ(Clara;1867-1908)が青島で亡くなった。ゴモルは1912年ごろ再婚し、三人の子供をもうけた。大戦が勃発して1914年8月1日、妻のマルガレーテ(Margarete)は子供たちと青島を離れた。解放後は家族とともに青島に戻り、舞鶴町(ドイツ時代名:Kaiser-Wihelm-Ufer、後の太平路)でカール・ゴーモル醸造所(Carl Gomoll Brauerei)を営んだ。事業がうまく行かなかったことから、1928年に家族とともにドイツに帰国した。ハンブルクで没した。ポンメルンのシュトルプ(Stolp)出身。(4512:大阪→似島)
754) Goepfert(ゲプフェルト),Arthur(1879-1937):第3海兵大隊工兵中隊・予備陸軍少尉。アナベルクの実科高等学校教師であるエルンスト・エードアルト・ゲプフェルト(Dr.Ernst Eduard Goepfert)の長男として生まれた。ゲプフェルトは妻オルガ(Olga;1876-1974)とともに、日独戦争の1年余前から東京市麻布区新竜土町に住んでいた。松山時代は來迎寺の将校収容所に収容され、収容所の講習会で代数と力学を講義した。1915年1月2日、妻は5歳になる娘ゲルトルートを連れて面会に訪れた。松山時代、冷蔵庫を造り、モーターボートまで製作した。1917年2月19日、妻のオルガは同居していたドゥンケル(Dunkel)の妻リアが盲腸炎に罹ると、ドゥンケルへの面会を収容所管理部当局に願い出た。板東時代の1917年4月から、妻はバルクホールン(Barghoorn)の妻ハンナとともに徳島市内に住んで、収容所へ度々面会に訪れた。1937年2月、中国で没した。なお、妻のオルガは夫の死後奉天に移り、1939年からは横浜に住んだ。エールツ山地のアナベルク(Annaberg)出身。(2880:松山→板東)
755) Goppelt(ゴッペルト),Friedrich(1889-1988):海軍野戦砲兵隊・予備上等兵。先行文献の中には、前記ゲプフェルトと混同しているものも見られるが、松尾展成氏によって両者の違いが明瞭にされた【松尾「4人の板東収容青島捕虜」87-94頁を参照】。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1987年2月27日、ミュンヘン郊外の日本レストラン「SAKURA(さくら)」で開催されたバイエルン独日協会主催の夕食会に出席し、筆者(瀬戸武彦)と日独戦争で捕虜になったことなどについて会話した。眼光鋭い小柄な人物であったが、高齢の為にステッキを使用していた。翌年ミュンヘンで没した。バイエルンのヴァイセンブルク(Weissenburg)出身。(3337:熊本→久留米→板東)
756) Goerke(ゲルケ),Ewald(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンのヨナイテン(Joneiten)出身。(4152:「大阪→」徳島→板東)
757) Görres(ゲレス),Johann(1892-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ラインラントのハイスターバッハーロット(Heisterbacherrott)出身。(82:東京→習志野)
758) Gosewisch(ゴーゼヴィッシュ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン青島支店]。1903年以来、ジームセン商会済南支店で働き、後に青島支店に移った。解放後は青島に戻った。ハンブルク出身。(2873:松山→板東)
759) Goette(ゲッテ),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1919年5月7日に開催されたテニス大会では、新テニス協会(N.T.V)チームのダブルスでハルクス(Harcks)と組んで出場し、テニス協会(T.V.)のマイアー(Gerhardt Meyer)及びトレンデルブルク(Trendelburg)中尉組と熱戦を繰り広げたが、第3セットで敗北した【『バラッケ』第4巻170頁】。ブレーメン出身。(2876:松山→板東)
760) Gottlieber(ゴットリーバー),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門で、ミュラー(Fritz Müller 629)と共同で、図案付き東屋の模型とヴォーゼラウ(Woserau)の意匠になる別荘の模型(20分の1)を出品した。ハンガリーのプレスブルク出身。(4515:大阪→似島)
761) Gottschalk(ゴットシャルク),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。松山時代(大林寺収容)の1915年11月1日、同じ第2班のカツォレク(Katzorek)に睾丸部を蹴られて負傷し、松山衛戍病院に入院した(11月14日退院)。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会では(当時28歳)、2時間39分08秒で65位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。メルツェニヒ出身。(2883:松山→板東)
762) Götz(ゲッツ),Paul(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。フォークトラントのアウエルバッハ(Auerbach)出身。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。(84:東京→習志野)
763) Götz(ゲッツ),Peter(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセンのツヴィンゲンベルク(Zwingenberg)出身。(77:東京→習志野)
764) Götze(ゲッツェ),Friedrich(1894-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセンのデーベルン(Döbeln)出身。(4156:「大阪→」徳島→板東)
765) Goyert(ゴイェルト),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ディールホルツ(Diehholz)出身。(448:久留米)
766) Grabow(グラーボウ),Hans(?-?):海軍野戦砲兵中隊・陸軍中尉。〔山東頭歩哨長〕。1904年1月28日野戦砲兵少尉、1913年1月27日中尉となり日本へ派遣された。 1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となった。同日俘虜となったのは他にベスラー少尉、下士・兵卒等60名であった。【『日獨戰史』403頁】パオリー軍曹は11名の兵とともに逃れた。その折り俘虜の尋問に当たったのは山田耕三大尉であった。10月9日、日本への護送可能なベスラー少尉等55名とともに俘虜第一陣として門司に到着し、久留米俘虜収容所に送られた。1914年11月11日、梅林寺から日吉町に向かう途中衛兵とトラブルを起こし、重謹慎の処罰を受けた。妻アンネリーゼ(Anneliese)は国分村刈原にガウル中尉の妻シャルロッテと一緒に住んだ。ベルリン出身。(456:久留米)
767) Gradinger(グラーディンガー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[オットー・ライマース商会(Otto Reimers & Co.)東京支店]。板東時代の1918年5月、第2回懸賞作文に「わが腕白時代より」で応募して佳作になった。1962年に日本語ローマ字とドイツ語なまりの日本語の混じった手紙を松山に送った。フェッセンバッハ(Fessenbach)出身。(2875:松山→板東)
768) Gradl(グラードゥル),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、収容所内の「タパタオ」で煙草屋を営んだ。ミュンヘン出身。(4155:「大阪→」徳島→板東)
769) Graf(グラーフ),Emil(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エメンディンゲン(Emmendingen)出身。(1082:福岡→名古屋)
770) Graf(グラーフ),Jacob(?-?):第3海兵大隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の農民笑劇『一等車』等2演目に出演した。上部バイエルンのヴァルペルツキルヒェン出身。(3335:熊本→久留米)
771) Graf(グラーフ),Jakob(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[広東地区ライン伝道会(Rheinische Mission)]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。ヴォルムス県のグンダースハイム出身。(3334:熊本→久留米→板東)
772) Graef(グレーフ),Walter(?-?):総督府港湾局・2等水兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのエルバーフェルト(Elberfeld)出身。(4371:「熊本→」大分→習志野)
773) Grallert(グララート),Hans(1882-1918):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。青島時代はドイツ街に住んでいた。1918年8月12日似島で死亡。シュレージエンのリンダウ出身。(4518:大阪→似島)
774) Grandidier(グランディディア),Ernst(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。宣誓解放された。ベッツドルフ(Betzdorf)出身。(1054:福岡→習志野)
775) Grantz(グランツ),Hermann(1880-1965):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ディーデリヒスゼン商会青島支店]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ホルシュタインのプレーン(Plön)出身。(1902:丸亀→板東)
776) Graenzer(グレンツァー),Walther(1885-?):海軍野戦砲兵隊・陸軍野砲兵中尉。1904年7月5日バイエルン陸軍(野砲兵部隊)入隊、1904年9月8日少尉、1911年9月1日海軍歩兵隊へ移籍した。1913年10月1日 中尉になった。日独戦争の初期には予備野戦砲兵隊を率いて、シュテッヒャー(Stecher)大尉とともに外方陣地の前線に配置された。戦闘末期には測候所に移された射撃観測所で、卓越した射撃指揮を執った【『青島戰史』52頁】。解放されて帰国後は陸軍に移籍して大尉となったが少佐で退役した。レーゲンスブルク出身。(2535:名古屋)
777) Grappendorf(グラッペンドルフ),von Alex(?-?):第3海兵大隊第1中隊・後備軍曹。[青島膠海関]。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。ビーレフェルト出身。(4359:「熊本→」大分→習志野)
778) Graul(グラウル),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、工芸品展に銅製の「ワーグナーの顔」を出品して,Cグループの一等賞を受賞した。ライプチヒ出身。(4151:「大阪→」徳島→板東)
779) Graumann(グラウマン),Ernst(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等按針長。青島時代はカイザー街(Kaiserstraße)に住んでいた。ゲーステミュンデ出身。(3352:熊本→久留米)
780) Graus(グラウス),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。バーデンバーデン近郊のガレンバッハ(Gallenbach)出身。(1056:「熊本→」大分→習志野)
781) Grefen(グレーフェン),Hermann(1886-1956):国民軍・後備上等歩兵。[屠畜マイスター;ジータス、プラムベック青島支店]。青島時代はイレーネ街(Irenestraße)に住んでいた。妻ヨハンナ(Johanna)と子ども達は、短期間天津にいたが、1915年1月1日、「シベリア号」で帰国した。解放後は青島に戻り、ベーコン、腸詰を扱う商会を興し、カール・ヴィルデ(Carl Wilde)が一時期そのドイツでの代理人を勤めた。ラインラントのゲーステミュンデ(Geestemünde)出身。(4516:大阪→似島)
782) Gregor(グレーゴル),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で1点を出品し、また技術部門の機械建設及び電気技術の部では、ザウアーブライ(Sauerbrei)と共同で固定蒸気機関の模型を出品した。【『俘虜名簿』では「Greger」となっているが、「Gregor」の誤りと思われる】。東プロイセンのレッツェン出身。(3899 :大阪→似島)
783) Gregorczyk(グレーゴルチック),Johann(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・伍長。板東時代、無料水泳教室の教官を務めた。【その手になる『青島戦争日記』が、郵趣家イェキッシュ(Walter Jäckisch)氏の所蔵で遺されている】。ヴェストファーレンのオスターフェルト(Osterfeld)出身。(2881:松山→板東)
784) Greiss(グライス),Heinrich(1891-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・砲兵伍長。板東時代、兵站倉庫の兵站係を務めた。1920年帰国後カロリーナ(Karolina)と結婚して息子一人をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ライン=ヘッセンのプフェッダースハイム(Pfeddersheim)出身。(4153:「大阪→」徳島→板東)
785) Greve(グレーフェ),Klaus Peter(1887-1947):第3海兵大隊第1中隊・予備2等歩兵。[天津・徳華学校教師]。1912年頃から中国に滞在、天津の徳華学校の教師をした。解放後の1920年中国に戻り、1924年4月28日新たに開設された青島のドイツ人学校の教師になった。同じ学校の教師カタリーナ(Katharina)と結婚して子供二人(クラウス=デトレフ、-1978;ギーゼラ、-2003)をもうけた。1935年ドイツへ帰国した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのホルツブンゲ(Holzbunge)出身。(436:久留米)
786) Grevsmühl(グレーフスミュール),Hans(1888-?):国民軍・予備1等砲兵。[発電所機械技手]。1912年から青島発電所に勤務していた。青島時代はダンチヒ街(Danzigerstraße)に住んでいた。1915年1月4日の一斉捜索で検挙・逮捕され、青島俘虜収容所に収容された。同月30日に神尾光臣司令官宛に、軍籍に就いていなかったことを理由に解放するようにとの抗議書を提出した。大阪俘虜収容所に送られてからも1915年8月30日に、解放するようにとの抗議書を提出した。リューベック出身。(4633:青島→大阪→似島)
787) Griebel(グリーベル),Gottfried(1890-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・海軍中尉。〔第1a砲台指揮官〕。1907年4月3日海軍に入り、1910年9月28日海軍少尉、1913年9月27日海軍中尉、河用砲艦オッターに乗り込んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(3894:大阪→似島)
788) Griesser(グリーサー),Johann(1889-?):築城部・陸軍築城少尉。青島時代は旧衙門(Altes Yamen;清国時代の官衙)に住んでいた。妻エリーザベト(Elisabeth)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として、日本国内で解放された。コンスタンツ出身。(457:久留米)
789) Griessmeyer(グリースマイヤー),Albert(1879-1967):総督府・海軍3等経理監督(少佐相当)。1907年7月15日エリーザベト(Elisabetha Adele Hering ;1882- 1915 )と結婚したが、エリーザベトは1915年10月10日上海で死去した。大分時代の1917年7月、その論文《Die seekriegsrechtliche Bedeutung von Flottenstützpunkten》が俘虜情報局によって『海戰法規上ニ於ケル海軍根拠地ノ價値』の題名で翻訳された。習志野時代は、1919年3月5日に開催された「朗読の夕べ」でルートヴィヒ・トーマ作の「あるヨーゼフ・フィッシャーの手紙」を朗読し、また同年7月3日の文化・体育祭では、第4部の演劇で上演の指揮を執った。またトーマの茶番劇『一等旅客』の上演に際しては、営農家フィルザー役を生粋のバイエルン方言で演じて喝采を博した。その粗野な言い回しは収容所内に根付いて、あらゆる地方の出身者の間でも長く使われた。大戦終結してドイツに帰国後、ベルリンの帝国被雇用者保険協会の会長を務めた。遺品中には、大分俘虜収容所時代に便所の前に立っている写真、兵士の埋葬の場面、集合写真、市内を行進して歩いている写真、音楽の練習風景、テニス場の造成作業、芝居の上演後と思しき記念写真、1915年のクリスマスの折の写真、収容所内かその外側の雪景色、習志野時代のトゥルネンの写真、習志野の演劇活動で活躍したハンス・マルフケ(Marfuke)監督による芝居の一こま、高級将校達の歓談風景の写真等多くが遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。解放されて帰国後の1920年12月21日再婚した。レーゲンスブルク出身。(4369:「熊本→」大分→習志野)
790) Grill(グリル),Max(?-?):第3海兵大隊参謀本部・上等歩兵。[商店経営]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。1919年8月頃、板東の収容所で1円の玩弄紙幣1000枚を作製し、所内で流通させた。小額紙幣不足がその理由で、5枚ないしは10枚で正規の紙幣と交換した。俘虜達から大いに重宝され、また本人は何の儲けも得なかったことから、善意によるものされて不問に付された。数枚が現存している。印刷、色彩、意匠の点で日本の紙幣より抜群に優れていた。表の上方に「ラーガーゲルト(収容所貨幣)」の文字、左方に鷲と鉄十字、右方に1円とあり、下方にローマ字と日本文字で板東と書かれてある。収容所内でのみ通用し、いつでも兌換と記され、マックス・グリルのサインとハンコが捺してある。裏面は透かし風に大きな二羽の鷲が描かれ、臨時紙幣とあり、下に小銭不足を補うための発行と記されている。【棟田『日本人とドイツ人』268-269頁】。妻ヨハンナ(Johanna)は息子一人、娘二人(三人とも12歳以下)と青島に留まった。ベルリン出身。(2888:松山→板東)
791) Grille(グリレ),Paul(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に、ハイル(Heil)と共同でドイツの古楽器リュートを制作・出品した。また第3棟5室で家具屋を営んだ。ザクセンのニュンヒリッツ(Nünchritz)出身。(1887:丸亀→板東)
792) Grimmeiss(グリマイス),Georg(1892-1967):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ネルトリンゲン近郊のショップローエ(Schopflohe)出身。(450:久留米)
793) Grobe(グローベ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をヴェント(Wendt)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷において懲役1月に処せられた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー出身。(3350:熊本→久留米)
794) Grober(グローバー),Josef(?-?):総督府・1等筆生。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、油絵、水彩画、ペン画等25点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』71-72頁】。カトヴィッツ郡のツァレンツェ(Zalenze)出身。(2196:姫路→青野原)
795) Grocholl(グロッホル),Albert(?-?):海軍野戦砲兵隊・兵器工長。青島時代は虎街(Tigerstraße)に住んでいた。妻マリー(Marie)は娘と大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュパンダウ出身。(2885:松山→板東)
796) Groner(グローナー),Ernst(?-?):国民軍・上等歩兵。[グローナー既製靴店経営]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術部門の絵画で吹きつけ 画1点を出品した。ケーニヒスベルク出身。(4511:大阪→似島)
797) Gröning(グレーニング),Heinrich(1884-1980):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オルデンブルクのダンガスト(Dangast)出身。(4164:「大阪→」徳島→板東)
798) Gröning(グレーニング),Richard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。[山東鉄道・保線監督]。ハーフェル河畔のプリッツェルベ(Pritzerbe)出身。(4360:「熊本→」大分→習志野)
799) Gröninng(グレーニング),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン近郊のグローテンフェゲザック(Grotenfegesack)出身。(451:久留米)
800) Gröninger(グレーニンガー),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ベーム石鹸製造(Gustav Boehms Seifenwerke)上海支店]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。アウグスブルク出身。(2877:松山→板東)
801) Grönitz(グレーニッツ),Alfred(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1916年4月11日、フォーゲルフェンガー(Vogelfänger)の誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのようにフォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。シュレージエンのオッペルン郡スラヴィッツ(Slawitz)出身。(86:東京→習志野)
802) Gross(グロス),Friedrich Wilhelm(1888-1958):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ヴァルテ商会(A.Walte & Co.)天津支店]。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。コルナウ(Kollnau)出身。(1898:丸亀→板東)
803) Grosse(グロッセ),Friedrich(1892-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。板東時代、収容所内のタパタオで写真屋を営んだ。ザクセン=アンハルトのハルツゲローデ(Harzgerode)出身。(4161:「大阪→」徳島→板東)
804) Grosse(グロッセ),Robert T.(1895-1989):海軍砲兵中隊・1等水兵。1910年海軍の見習い水夫となり、やがて帆船の水兵、後に河用砲艦オッターの1等水兵になった。1914年8月海軍砲兵中隊に配属された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。トリーア出身。(3341:熊本→久留米)
805) Grossmann(グロスマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ神戸支店]。神戸北野のドイツ貿易商館イリス商会に10年勤務し、西山リョウという内縁の妻がいて、日本語に堪能であったが、関西弁だった。丸亀時代は、ティッテル(Tittel)と共同で日本の新聞記事を独訳して大型の洋紙で掲示した(『大阪朝日新聞』大正5年12月25日付け)。板東時代、ヴェルナー(Werner)副曹長とともに『日刊電報通信』及び『バラッケ』に戦況等ニュースの記事執筆を担当した【『バラッケ』第2巻82頁】。リョウは1918年7月13日、板東に最初の面会に訪れた。板東時代は管理棟本部事務室の通訳を務め、またティッテル(Tittel)と共著で板東俘虜収容所印刷所から、『日本の小学校読本解説(12巻)』を出した。1918年9月には、「板東健康保険組合」の第2中隊代表理事に選ばれた。解放まじかのある時、知友のユーハイム(Juchheim)から手紙を受け取る。その手紙には、大戦終結後にアジアに残るために似島では日本語、中国語学習が盛んであること、また習志野俘虜収容所の俘虜は、大戦終結後に北海道移住を希望するものが多いといったことが記してあった。出身地不明(『俘虜名簿』では神戸)。(1889:丸亀→板東)
806) Großmann(グロスマン),Karl Otto Max(1892-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。イルメナウ(Ilmenau)出身。(4361:「熊本→」大分→習志野)
807) Gröteke(グレーテケ),Friedrich Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵軍曹長。妻アンナ(Anna)は息子と大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(1725:静岡→習志野)
808) Grube(グルーベ),Max(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。ハンブルク出身。(3328:熊本→久留米)
809) Gruber(グルーバー),(Adolf) Bernhard(1892-1975):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ドイツへ帰国後の1920年11月26日ルイーゼ(Luise August Eißler)と結婚して娘一人をもうけた。シュネルキンゲン(Schnerkingen)出身。(441:久留米)
810) Grunewald(グルーネヴァルト),Erwin(1891-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。ハインリヒ・ハム(Hamm)の1918年12月27日付け日記には、グルーネヴァルトが新聞の鉄条網病の記事を読んでいることが記され、ここの収容所にも当てはまることである、とのハムの感想が述べられている【板東収容所俘虜カール・ベーア(Karl Baehr)の演劇シナリオ『第6中隊の過去の影絵もしくは不滅なる鉄条網病患者のひらめき』に関わるものであろうか】。ザクセンのザイフヘンナースドルフ(Seifhennersdorf)出身。(78:東京→習志野)
811) Grüneweller(グリューネヴェラー),Bernhard(1892頃-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。家具職人の子として生れた。下記ゲルハルトの兄。戦闘で負傷した。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。ドイツに帰国後グレーテ(Grete)と結婚して子供二人をもうけた第二次大戦前後、ミュンスター大学病院で働いた。ミュンスター出身。(1050:福岡→習志野)
812) Grüneweller(グリューネヴェラー),Gerhard(1894-1970):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。上記ベルンハルトの弟。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、ヴィオラ及び第2ヴァイオリンを担当した。タパタオの13号小屋でドリューゲ(Druege)と家具屋を営んだ。1919年6月の帰国準備時には、楽器修理をした。ドイツに帰国後の1924年11月10日アグネス(Agnes Kellmann)と結婚して息子一人をもうけた。カール・ボルヒャルト商会(Karl Borchard)で修業して、後に自分の店を持った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ミュンスター出身。(4158:「大阪→」徳島→板東)
813) Gudenoge(グーデノーゲ),Heinrich(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。熊本時代1915年3月1日、収容先の定禅寺の禁止室に入り、自己の娯楽室を設けるために建物を壊した科で、歩兵第13連隊の営倉で重営倉2日の処罰を受けた。デュッセルドルフ出身。(3347:熊本→久留米)
814) Günschmann(ギュンシュマン),Edmund(1893-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、タパタオの12号小屋でケスラーと家具屋及び大工を営んだ。大戦終結してドイツに帰国後の1920年10月25日、鉄十字2等勲章を授与された。2003年6月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、息子の妻ユッタ・ギュンシュマンから、写真アルバム2冊が鳴門市ドイツ館に寄贈された。アルバムには、南洋群島の原住民や青島要塞の様子、徳島カトリック伝道教会や板東収容内の「下の池」での釣り風景などの写真が収められている。また、「MAK(海軍膠州砲兵隊)」の文字が記されている水兵帽のリボンも寄贈された。テューリンゲン地方のシュメルフェルト(Schmerfeld)出身。(4159:「大阪→」徳島→板東)
815) Günther(ギュンター),Otto(1870-1942):枢密参事官・総督府民政長官。父親は園丁師だった。モルトケ山の北西地区(日本統治時代の軽藻町23番地)の自宅は2479㎡(約700坪)の広大な敷地にあった。年俸は植民地加俸を含めて約1万3000マルクで、これは総督を別格として除くと、総督府官吏の中でクルーゼン高等判事に次ぐ高額であった。1914年4月末、北京で開催された独中鉄道会社の細部協議委員会に、済南駐在領事及び独亜銀行天津支店長とともに青島代表として参加した。これは済寧・開封間の開兗鉄道と芝罘(チーフー)・濰縣間の煙濰鉄道の新たな鉄道建設の協議で、4月24日に合意に達したが、大戦勃発で烏有に帰した。1914年11月7日のモルトケ兵営での青島開城交渉にはドイツ側の一員として加わった。当時44歳だった。1915年11月13日、青島警察監房の独居房に収監された。青島での尋問調書が残されている。【参照:『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂 第11巻』】慢性気管支炎と疝通を患い、精神的にも痛手を受けていた。1918年5月20日西京丸で青島出発、24日神戸着、25日徳島着、26日板東収容所に到着した。1918年11月13日から数回、歯痛のため徳島市中通町の宮井歯科医院に看護卒同道で通院した。院長の宮井義也医師は東京歯科医専を出たばかりの25歳の若い医師であったが、ドイツ語が堪能で、俘虜達は通院を楽しみにした。1919年12月6日、青島司令部からの召還命令で青島に移送された。別れに際してギュンターは、愛用の銀飾りのほどこしてあるステッキを松江所長に贈った。なおギュンターの妻ゲルトルート(Gertrud)は青島に残留した婦人達を指導して、傷病兵看護や炊事等に当たった。また青島陥落時には、衛戍病院となっていた水兵館の扉の前に立って建物の中の人々を日本兵から守った。日本軍による包囲の間、気丈な夫人はあらゆる不安を背負い込んだ人々の母親の役を務め、日本軍によって包囲された町で、ドイツ人達の要求を果敢にかつ粘り強く勝ち取ったと言われる。夫人と二人の娘は大戦終結まで青島に留まった。ベルリン近郊のフリードリヒスフェルデ出身。(4715:板東)
816) Guenther(ギュンター),Paul(?-?):第3海兵大隊第1中隊・軍曹。久留米時代は演劇活動で、エルンスト作の喜劇『教育者フラックスマン』に出演した。ザール郡のヴェルムリッツ(Woermlitz)出身。(429:久留米)
817) Günther(ギュンター),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ブレーメン出身。(3327:熊本→久留米)
818) Guse(グーゼ),Karl A.(?-?):海軍膠州砲兵隊・掌砲兵曹長。青島時代はアウグステ・ヴィクトリア海岸通(日本による占領・統治時代は旅順町)に住んでいた。敷設船ラウチング(Lauting)乗員。英駆逐艦ケンネット敷設の機雷に触れたラウチングの自力入港で目覚しい功績を果たし、ククス(Kux)艦長より讃辞を受けた。妻カロリーネ(Karoline)は息子と娘の三人で、大戦終結まで青島に留まった。プレシェン(Pleschen)出身。(3353:熊本→久留米)
819) Guski(グスキ),Arthur(?-?):第3海兵大隊野戦砲兵隊・軍曹。解放後は蘭領印度に渡り、スラン(Serang)で巡査をした。西プロイセンのルートヴィヒルスト(Ludwigslust)出身。(2539:名古屋)
820) Guskow(グスコー),Willi(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。東京時代の1915年6月、仲間宛の少女の手紙を盗み、その少女にラヴレターを書いたことから中隊内で殴られ、死んだように地面に倒れた【「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。シュテッティン出身。(80:東京→習志野)
821) Gutschlich(グッチリッヒ),Paul(1893-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。ザクセンのシェックタール(Schecktal)出身。(1087:福岡→大分→習志野)
822) Gutmann(グートマン),Ernst(?-?):海軍東アジア分遣隊・予備陸軍少尉。1914年10月27日、東京市京橋区築地の岸夫人(ドイツ人)から俘虜情報局に、口頭による安否の問い合わせがあった。1917年2月、横浜正金銀行より俘虜情報局へ、グートマン宛の銀行小切手による657円86銭の交付願いがあった。バーデンのドーナウエッシンゲン(Donaieschingen)出身。(3342:熊本→久留米)
823) Haack(ハーク),Carl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[青島のリヒャルト(Richard)運送会社]。青島時代はアルベルト街(Albertstraße;日本の占領統治時代は大村町)に住んでいた。板東時代の1918年6月25日、収容所内タパタオの村長選挙が行われ、東地区と西地区での予備選挙の後、決戦投票の結果ハークが44票を獲得して新市長に選出された。ホンブルク(Homburg)近郊のオーバーシュテッテン(Oberstedten)出身。(1914:丸亀→板東)
824) Haag(ハーク),Karl(1883-1959):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。カールスルーエ郡のビューヒング(Büching)出身。(1117:姫路→青野原)
825) Haas(ハース),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、毛皮を詰めた靴を出品した。低地バイエルンのフライジング出(Freising)身。(3920:大阪→似島)
826) Haas(ハース),Michael(1893-1972):第3海兵大隊隊重野戦榴弾砲隊・2等砲手。[指物師]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。アメリカへ移住した。ホッケンハイム(Hockenheim)出身。(1153:福岡→名古屋)
827) Haase(ハーゼ),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1917年2月19日、似島へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡り、ヴェルトヴェルデン(Weltverden)の郵便局に勤めた。上部シュレージエンのシュネレヴァルデ(Schnellewarde)出身。(1091:福岡→似島)
828) Haase(ハーゼ),Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1915年9月15日、習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ドレスデン出身。(1119:福岡→習志野)
829) Haberecht(ハーベレヒト),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2、後第1ヴァイオリンを担当した。収容所の第4棟7室でヘッカー(Höcker)及びブロードニツキー(Brodnitzki)とゴミ処理業を営んだ。シュレージエンのペーテルスヴァルダウ出身。(1911:丸亀→板東)
830) Habersang(ハーバーザング),Friedrich(1882-1934):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[広東郊外東莞のライン伝道会宣教師]。松山時代、公会堂での収容所講習会で中国語の講師を務めた。アイゼナッハ近郊のマルクール(Markuhl)出身。(2916:松山→板東)
831) Häbler(ヘーブラー),Peter(1893-1978):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ラインラントのニーダーメンディヒ(Niedermendig)出身。(1731:静岡→習志野)
832) Habrichs(ハープリヒス), Christian(1893-1965):陸正面砲兵隊・上等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。ハープリヒスの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真10〕参照】。なお裏は、「郵便はかき」となっていることから、この写真は絵葉書用に作製されたものと思われる。ドイツに帰国後1922年に結婚し、息子(1925-)が一人いる。ラインラント出身。(3932:大阪→似島)
833) Hachenberg(ハッヘンベルク),Philipp(1881-1936):第3海兵大隊。[巡査]。青島時代は警察署近くの官舎に住んでいた。ダウフェンバハ(Daufenbach)出身。(2929:松山→板東)
834) Hachmeister(ハッハマイスター),Alfred(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[シュナーベル・ガウベル商会(Schnabel Gaumer & Co.)上海支店]。板東時代「エンゲル・オーケストラ」団員で、第2ヴァイオリンを担当した。ベルリン出身。(1928:丸亀→板東)
835) Hachmeister(ハッハマイスター),Paul(?-?):国民軍・卒。[上海のガルレス・ベルナー商会]。青島時代は皇太子街に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。1950年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(4677:大阪→似島)
836) Hack(ハック),Dr. Friedrich(1887-1949):総督府参謀本部通訳・予備陸軍中尉。法学博士。[満鉄社員]。1887年10月7日、三人兄弟の末っ子として南西ドイツのフライブルクに生まれた。父ハインリヒは医学の大学教授で、母ヘンリエッテは児童文学者であったと言われる。1912年から大戦勃発まで、南満州鉄道東京支社の調査部に勤務し、総裁の後藤新平の秘書を勤めていた。福岡俘虜収容所では通訳を務めた。1916年1月8日の軍事法廷で、ケンペ(Kempe)、ザクセ(Sachsse)、シュトレーラー(Straehler)、モッデ(Modde)の4名の逃亡を助けたかどで懲役18ヶ月の判決を受けたが、後に13ヶ月に減刑された。日本の地理、習慣、民族性に通じていたことが、逃亡手助けに威力を発揮した。大戦終結して解放後は一時日本に残留したが、やがてドイツに帰国して、クルップ社の駐日代表だったアードルフ・シンチンガーと「シンチンガー・ハック社」を設立し、軍需品ブローカーとして日本海軍ベルリン事務所と密接な関係を持ち、1936年の日独防共協定締結に際しては重要な役割を果たした。1937年2月5日に封切られた原節子主演の日独合作映画『新しき土』の製作に関わった。1949年スイスに没した。フライブルク出身。(1154:福岡→習志野)
837) Hack(ハック),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。1950年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセンのグリースハイム(Griesheim)出身。(1908:丸亀→板東)
838) Hafels(ハーフェルス),Ernst(?-?):第3海兵大隊第2中隊・1年志願上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。ライン河畔のクレーフェルト出身。(478:久留米→名古屋)
839) Hafner(ハフナー),Karl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・1年志願兵。[ヴィンクラー商会青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。ハンブルク出身。(1733:静岡→習志野)
840) Hagemann(ハーゲマン),Harald(?-1919):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1915年12月24日と1916年3月7日付けの、ハンブルクの恋人に宛てた2通の手紙が知られている。1919年1月2日スペイン風邪により習志野で死亡。キール出身。(1105:福岡→習志野)
841) Hagemann(ハーゲマン),Wilhelm(1891-?):第3海兵大隊工兵中隊・伍長。松山時代(山越・不退寺収容)の1915年4月27日、山越地区から大林寺の収容所本部へ行く途中、禁止されていた喫煙をしたことから重営倉20日に処せられた。板東時代の1917年12月、懸賞作文募集に「コルドルフへの僕の初めての旅」で三等賞を受賞し、賞金2円を獲得した。また松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。メクレンブルク=シュトレリッツのノイシュトレリッツ(Neistrelitz)出身。(2918:松山→板東)
842) Hagemeyer(ハーゲマイアー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース漢口支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時28歳)、2時間29分16秒5分の3で85人中の第21位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ブレーメン近郊のフェーゲザック(Vagesack)出身。(2908:松山→板東)
843) Hagen(ハーゲン),Ernst(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。習志野時代の1916年4月11日、戦友であるフォーゲルフェンガー(Vogelfänger)の誕生日に特別料理で祝い、他の戦友達ブレスラ出身のグレーニッツ(Grönitz)、デュッセルドルフ出身のエレ(Elle)、ケーニヒスベルク出身のペッヒブレンナー(Pechbrenner)、ゾーリンゲン出身のクライナービュッシュカンプ(Kleinerbüschkamp)を焼肉に招いた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのようにフォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。ハンブルク出身。(102:東京→習志野)
844) Hägerich(ヘーゲリヒ),Martin(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセン=ナッサウのマーデン(Maden)出身。(1735:静岡→習志野)
845) Hahn(ハーン),Mathias(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降し俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。久留米の演劇活動では、喜劇『娘との結婚』等8演目に出演した。マルクブライト出身。(480:久留米)
846) Haink(ハインク),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において、ハインク(31歳)は2時間28分23秒で18位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ザクセンのカーメンツ(Kamentz)出身。(2906:松山→板東)
847) Hake(ハーケ),Gustav(1892-?):海軍膠州砲兵隊・予備火工副曹長。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『ビーバーの毛皮』等12演目に主として女役で出演した。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとハーケは、チェロを受け持った。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデン出身。(1109:福岡→久留米)
848) Hake(ハーケ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第6中隊・副曹長。[カルロヴィッツ漢口支店]。1914年8月15日、前日青島に着いたばかりのラーン(Laan)が志願兵受付所で手続きをした際の係官だった。互いに東フリースラント出身の同郷人であることが判り、親交を深めた。松山時代、公会堂における収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代はエンゲル・オーケストラの団員で、第2ヴァイオリンのレッスンを受けてやがてオーケストラに加わり、1919年にはベートーヴェンの「交響曲第6番〈田園〉」演奏の一員になった。収容所の印刷所から出版された『エンゲル・オーケストラその生成と発展 1914-1919』の扉には、ハーケによる「ラムゼーガー夫妻様 俘虜生活の思い出に感謝をこめて捧げます」の献辞が添えられている。大戦終結後の1919年12月28日、帰国船豊福丸で下記ハインリヒ(Heinrich)と同船でドイツに帰国した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。息子のブルーノー・ハーケ氏は、徳島俘虜収容所新聞『徳島新報』をドイツのオークションで入手し、板東のドイツ館に寄贈した。氏は更に、父ハーケが収容所から故国の妻に宛てた100通近い手紙も寄贈し、妻を伴って二度板東を訪問している。東フリースラントのレーア(Leer)出身。(2900:松山→板東)
849) Hake(ハーケ),Ludwig Friedrich Heinrich(1881-?):第3海兵大隊第6中隊・予備陸軍少尉。静岡時代、収容所当局によって禁じられていた英語教室が、数年にわたってこっそり開かれていたが、その主宰者であった。受講者は11名だった【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。大戦終結後の1919年12月28日、帰国船豊福丸で上記へルマン(Hermann)と同船でドイツに帰国した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東フリースラントのレーア出身。(1732:静岡→習志野)
850) Halbritter(ハルプリッター),Robert(?-1920):国民軍・階級不明。[ディーデリヒセン青島支店]。青島時代は衛戍病院小路(Lazarettweg;日本の占領統治時代は病院通)に住んでいた。妻リーナ(Lina)は大戦終結まで、三人の子ども(いずれも12歳以下)と上海で暮らした。1920年1月21日、似島で死亡。ケルン出身。(4527:大阪→似島)
851) Hallier(ハリーア),Kurt(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備副曹長。香港から応召して青島に赴いた。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で2演目に出演したが、シェーンヘル作の悲劇『信仰と故郷』等11演目の演出で活躍した。久留米時代の1919年4月12日、久留米俘虜収容所劇団団長として、久留米俘虜収容所楽団指揮者レーマン(Lehmann)に対して感謝状を認めた。その感謝状の文面は、「久留米俘虜収容所楽団オットー・レーマン殿 久留米俘虜収容所劇団第50回上演に際して示された心遣いに対して、我々は貴殿と楽団員に深甚の謝意を表すものである。恐惶謹言 久留米俘虜収容所劇団団長 ハリーア」である。ビーレフェルト出身。(1142:福岡→久留米)
852) Hallmann(ハルマン),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、得点121⅓で初級3位になった。ツェトリンゲン(Zethlingen)出身。(1112:福岡→久留米)
853) Hamacher(ハーマッハー),Johann(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。久留米時代、1918年9月16日から、つちや足袋合名会社に木綿漂白の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。アーヘン出身。(1145:福岡→久留米)
854) Hamann(ハーマン),Karl Rudolf(1892-1964):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。ドイツ帰国後の1921年10月14日ベルタ(Berta Frey)と結婚して子供二人をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ガイスリンゲン(Geislingen)出身。(1149:福岡→久留米)
855) Hamann(ハーマン),Kurt(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備副曹長。[ディーデリヒス商会青島支店]。1914年11月4日、監視長として防備していた海岸堡塁北方の海泊河右岸の小堡塁を攻撃されて、23名の部下とともに俘虜となった【『青島戦記』142頁】。青島時代は皇帝街(Kaiserstrasse)に住んでいた。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。キール出身。(1147:福岡→久留米)
856) Hamm(ハム),Heinrich(1883-1954):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等砲手。[ワイン醸造マイスター]。1912年駐独公使青木周蔵からの依頼もあって、ワイン醸造技師として山梨県北巨摩郡登美村に招聘された。習志野時代の1919年5月24日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではマルフケ、エリヒ(Oellig)及びシェーファー(Schäfer)の4人でクローマー作の「森の泉のほとりで」を四重唱した。大戦終結後、帰国した郷里で1913年に自分が製造して送ったワインに出会ったという。【『ドイツ兵士の見たNARASHINO』102頁】ワイン醸造を営む実家で5年間ワイン醸造及び樽製造の技術を学んだ後、1年間葡萄栽培学校で修業し、さらに2年間ケルンの「ヴォルムス」でワイン醸造並びに樽製造のマイスターとして従事した。1912年(大正元年)に駐独公使青木周蔵からの要請で、山梨県甲府市登美村葡萄園で栽培と醸造を指導した。月俸300円を得ていた【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の「俘虜特殊技能調」より】。ハムは1912年の来日以来、毎日の天候・気候を初め、日常生活の細かい点に至るまで克明な日記を付けた。1914年11月20日からの日記は、A5版ほどの分厚い帳面に、1919年12月28日に帰国船喜福丸で出発するまで、ほぼ毎日続けられた。1916年1月から9月7日までは欠けている。没収から免れるために時に日記帳を秘密のケースに隠し、また冊数を節約するためか、細かい字で記入し、最後の頁にたどり着くと帳面を逆さまにして行間に記した。その分量はA4版で261枚に及ぶという。『習志野市史研究3』に生熊文氏によって訳出されたものは、ハインリヒ・ハムの甥に当たるカール・ハム氏によって抜粋され、時には要約されたものである。分量はA4版30数枚で、全体の8分の一程度である。ハムの日記はこれまで知られている俘虜による日記等と比較すると、類書の見当たらないほどに詳細である。言及している人名は、相当の数に上るものと思われる。全容が明らかになれば、東京及び習志野収容所での俘虜の生活の実態が細部に至るまで判明するものと思われる。東京時代の12月16日から、台所での通訳の仕事に就いた。後に台所の業務をコルボフ(Colbow)とともに行うことになる。1915年9月7日に習志野収容所に移された後も、コルボフとともに台所班に割り振られた。ハムの元にはかなり頻繁にワインが届けられ、また山梨のワイン醸造業者小山氏等がハムを訪問している。1918年1月15日の日記によれば、屠畜のためにハムはヤーン(Karl Jahn)と主計官及び見張りの兵とともに東京に出かけている。主計官は途中でワインを酒屋で調達して列車に乗り込む二人に渡した。しかしそれはワインではなく酒で、結局酒臭いままで食料事務所まで出かけた話が記述されている。その年の5月1日、ハムは鳩舎を完成させ、ノイナート(Neunert)から若い鳩のつがいをもらって飼い始めた。1918年9月21日、ハム、ホルヒ(Holch)、ハスラッハー(Hasslacher)及びリーガー(Rieger)の四人の四阿が完成すると、ハムとホルヒは籤で北側の部屋になった。ホルヒとは親しく、隠している日記帳を時にホルヒに頼んで出してもらった。1919年1月になってから、習志野俘虜収容所でもスペイン風邪が襲い始めた。1月23日、ハムが阿屋から戻ると、第3中隊舎は立ち入り禁止になっていて、9人を除いた全員が罹患し、その9人が看護に当たっていた。ハムもたちまち罹患して39度6分の熱を出し、衛戍病院に運ばれた。【『『習志野市史研究3』所載の「ハインリヒ・ハムの日記から」(カール・ハム編/生熊文訳)より】。大戦終結して帰国後、許婚と直ちに結婚したが、5年の別離はお互いの心に大きな溝が生じ、子供にも恵まれず、寂しい晩年を過ごしたとのことである。故郷エルスハイムの男声合唱団団長を務め、「ヤパーナー」(日本人の意)のニックネームを付けられた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1997年、エルスハイムに記念碑が建立された。エルスハイムの生家には、習志野収容所で製作した手製のギターが遺品として遺されている【『『習志野市史研究3』所載の生熊文氏による「解題」より】。2003年8月27日、ハムの生誕120年を記念してハムの故郷エルスハイムで記念行事が開かれ、習志野市のアマチュア混声合唱団「習志野第九合唱団」が招待された。現存する収容所演奏会のプルグラムから、かつての俘虜によって歌われたことが確認されているドイツ歌曲や日本の四季の歌が合唱団によって披露された【『毎日新聞』2003年6月29日付け「国産ワインを育てたハム氏生誕120年」の記事より】。ビンゲン郊外のエルスハイム(Elsheim)出身。(93:東京→習志野)
857) Hampe(ハンペ),Alexander(?-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[アルンホルト‐カルベルク商会上海支店]。丸亀時代の1916年8月2日、郷里コーブルク(Coburg)の商業顧問官ジーモン(Simon)夫人宛に絵葉書を出した。図柄は、収容所である御坊さんの門前通りを、日本人将兵に引率されて歩くドイツ人俘虜を写した写真である。文面はごく簡単な挨拶状【郵趣家三木充氏所蔵品より】。コーブルク(Coburg)出身。(1920:丸亀→板東)
858) Häneke(ヘネケ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、ヒュープナー(Hübner)及びルフ(Ruff)とともに印刷技術の面で協力した。アシャースレーベン(Aschersleben)出身。(4169:「大阪→」徳島→板東)
859) Hangstein(ハンクシュタイン),Heinrich(1887-?):総督府・2等電信兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、写真関係部門で写真帳(収容所とその周辺)を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』83頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファーのダイスター(Deister)河畔アルテンハーゲン(Altenhagen)出身。(2210:姫路→青野原)
860) Hanisch(ハニッシュ),Willy(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。大戦終結後は、青島就職既定者として日本国内で解放された。ゲルリッツ出身。(465:久留米)
861) Hannasky(ハンナスキー),Otto(1889-1949):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備2等砲兵。[青島のR.ヴェーバー(R. Weber)商会]。ハンナスキーは1914年に膠州砲兵隊に召集されるまで、グーベン(Guben)のナイセ川東岸地区で肉屋を営んでいた。運送業を営んでいた父親は第一次大戦で戦死、ハンナスキーは結婚をしていたが、大戦中に離婚したもようである。徳島時代、徳島収容所新聞『徳島新報』(Tokushima Anzeiger)第2巻第7号(1915年11月7日)に肉屋の広告を絵入りで載せた【川上三郎氏(徳島大教授)の解読・翻訳により、以下に広告の内容を一分紹介する】。「開店 以前から多くの方々が、収容所内で出来たてのソーセージを食べたいと願っておられました。このご要望にお応えすべく、ソーセージの製造を引き受ける決心をいたしました。11月12日の金曜日についてのおすすめは次の通りです。ウインナー 1対7銭 豚足塩漬け 1個15銭 等 注文は月曜日夜までにお願い致します。おそらくこれほど少ない資本で開店した店は、いまだかつて無いでありましょう。数多くの注文によって支援いただけますよう、お願いいたします。炊事部から出されていたソーセージは、私の製造になるものでありました。もしこのソーセージについて何かお気に召さない点があるようでしたら、喜んでお得意様のお好みに合わせる所存でございます。どうぞよろしくお願い申し上げます。オットー・ハナスキー」。以後、第2巻第8号(1915年11月14日)、第2巻第9号(1915年11月21日)、第2巻第10号(1915年11月28日)、第2巻第11号(1915年12月5日)、第2巻第16号(1916年1月16日)、第2巻第20号(1916年2月16日)にも広告を載せている。極上サラミ50銭との記述もある。なお、第3巻第15号(1916年8月20日)には、「…収容所の肉屋は、いまや私企業から公益施設へと生まれ変わった。もちろん誰しも期待しているのは、より少ないお金でソーセージがもっと買えることである」との記述もある。板東時代は収容所内の屠畜係を務めた。また、富田久三郎の経営になる牧舎に雇用され、ドイツ式の屠畜や酪農の技術指導をした。1918年3月に徳島公会堂での工芸品展には、食肉加工品を出品した。クラウスニツァー(Clausnitzer)及び船本宇太郎の三人で写した写真が遺されている【参照:林啓介『第九の里 ドイツ村』147頁】。大戦終結して解放後はドイツに帰国した。1922年からベルリンに住み、1923年に再婚した。ベルリンの中心地のアレクサンダー広場にあるヘルティ百貨店で肉屋を開いていた。第二次大戦後は、ベルリンのマールスドルフ(Mahlsdorf)の自宅で花や野菜を栽培していた。1949年6月に没した【参照:松尾「板東収容・畜産関係者ハナスキー略歴」;所載:『チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会』ホームページのメール会報0176号】。ナイセ河畔東岸のグーベン(Guben)出身【なお、今日はポーランド領のグービンである】。(4173:「大阪→」徳島→板東)
862) Hanns(ハンス),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。マイレンダー(Mailänder)がレヒナー(Lechner)を通じて会った頃のハンスは、ドイツ海軍時代のことは一切思い出したくなく、フランス人愛国者としてもはやドイツとはなんの関わりもない、との姿勢であった。しかし、マイレンダー、レヒナーとの三人を結び付ける中国、日本での体験は、町長をしていたハンスの政治性をやがて上回り、三人の友情は生涯続いた【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。ハンスの郷里の家でマイレンダーと肩を組んで写っているカラー写真が現存している【参照:ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のインターネット】。シュトラースブルクのエッテンドルフ(Ettendorf)出身。(1098:福岡→習志野)
863) Hänsch,(ヘンシュ),Otto(?-1955):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。2006年1月8日、孫のカール=ハインツ・ヘンシュ(Karl-Heinz Hänsch)が、シュミット氏のホームページの「訪問者欄」にヘンシュの事で書き込みをしている。それによると、書き込みをしたヘンシュ氏は、父親が第二次大戦で消息不明となり、祖父ヘンシュ夫婦のもとで10年間育てられたとのことである。シュミット氏のインターネット情報は、娘から知らされたとのことで、自宅にはヘンシュが遺した日記や資料があるとのこと。フォークトラント(Vogtland)のプラウエン(Plauen)出身。(1094:福岡→名古屋)
864) Hansen(ハンゼン),Albert(?-?):国民軍・階級不明。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門で、一家族用の家の計画書2枚、住居兼店舗の計画書1枚を出品した。アルトナ出身。(4528:大阪→似島)
865) Hansen(ハンゼン),Clemens(1887-1930):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。ハノーファー郊外のパイネ(Peine)出身。(1916:丸亀→板東)
866) Hansen(ハンゼン),Franz(1893-1954):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月22日、習志野へ収容所換えになった。ハンブルク出身。(1113:福岡→習志野)
867) Hansen(ハンゼン),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時23歳)、2時間32分08秒で85人中の第32位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒのフーズム(Husum)出身。(2911:松山→板東)
868) Hansen(ハンゼン),Hans(1894-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1894年9月11日、下記ヘルマン・リヒャルト(Hermann Richard)の弟としてフレンスブルクに生まれた。兄へルマン同様に音楽学校に通い、1913年フレンスブルクに戻った。その年の4月1日、フレンスブルクの歩兵第86連隊に2年志願兵として入隊した。兄同様に軍楽隊所属と思われる。日本で収容される際に何故かハンスは、郷里としてゾンダーブルク(Sonderburg)と申告している。1915 年7月11日福岡から久留米へ、更に久留米から板東へ収容所換えになった。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、兄へルマン・ハンゼン、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen)の7名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。大戦終結して帰国後、ハンスは音楽家になったと思われる。20年代の半ばに故郷を出て、1927年には夫婦でサンフランシスコに住んだ。1939年以降及び第二次大戦後には再び郷里フレンスブルクに戻った【下記ハンス・ハンゼンの項を参照】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フレンスブルク出身。(1103:福岡→久留米→板東)
869) Hansen(ハンゼン),Hermann R.(1886-1927):海軍膠州砲兵隊第3中隊・軍楽曹長(砲兵隊軍楽隊長)。1886年11月26日、デンマークとの国境に近い、シュレースヴィヒのグリュックスブルクに生まれた。父ハンスは造船所工員、母はレギーナという名であった。兄弟には兄、妹そして弟(上記ハンス)がいた。一家がフレンスブルクに移ってから音楽家を目指し、オーデル川河口の港湾都市シュテッティンで音楽教育を受け、1904年3月1日にフレンスブルクの両親の元に戻った。1904年5月26日海軍に入隊、1907年7月31日予備役となり、一時帰宅した後9月30日再入隊した。1909年10月1日負傷して帰宅。12月10日原隊に復帰した。【フレンスブルクのシュレースヴィヒ-ホルシュタイン新報編集部の、コンスタンツェ・カイザー=マイスナー氏より、鳴門市ドイツ館田村一郎館長の元に送られた歴史家ディーター・プスト(Dieter Pust)氏の調査資料による。プスト氏によって9代に遡るハンゼン家の系図が作成されている】。徳島時代、「徳島オーケストラ」を結成した【〔写真18〕参照】。徳島時代の1915年4月25日、「講演の夕べ」でハンゼン四重奏団を指揮して「戦闘前のドイツ人戦士の夢」を演奏した【『徳島新報』1915年4月25日第4号より】。板東時代の1918年6月1日、板東収容所における徳島オーケストラ第2回コンサートで、日本におけるベートーヴェンの「第九交響曲」が初演されたが、その時の指揮を執った。その折りに第4楽章の「合唱」でソロを受け持ったのは、ヴェーゲナー(Wegener)2等歩兵、シュテッパン(Steppan)2等歩兵、フリッシュ(Frisch)2等歩兵及びコッホ(Koch)伍長の四人であった。弦楽オーケストラと吹奏楽団の二つの楽団を率いて、休みない活動を続け、パウル・エンゲルとともに板東収容所での音楽活動で多大の功績を果たした。月刊『バラッケ』の1919年8月号には、筆名「M」による「シュレースヴィヒ人の出発」という記事が載せられた。その中で筆者は、特にハンゼンについて、「収容所の中でもっとも功績があり、またもっとも皆に好かれた人物の一人である」と記している。【冨田『板東俘虜収容所』164-167頁】ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票参加のために宣誓解放され、ブロイニンゲル(Braeuninger)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ヤスペルセン(Jaspersen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールセン(Nielsen)、弟ハンス・ハンゼンの7名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。大戦終結してドイツに帰国後の1920年3月から、フレンスブルク市の広報係りなどを担当し、6月からは秘書官、参事を務めた。その年の5月14日、クラーラ・エンマ・マリーア・ペーテルセン(Klara Emma Maria Petersen;1897-1966)と結婚、休日には音楽活動として合唱クラブ「フェニックス」に参加し、1925年からはその指揮者を務めた。1927年3月27日に亡くなり、フレンスブルクのミューレン墓地に葬られた。2001年になって、フレンスブルクのミュールヴィック海軍学校に、徳島収容所新聞『徳島新報』の1年半分が保存されていることが判明したが、新聞の隅に「ハンゼン」と書かれていることから、ヘルマン・ハンゼンが寄贈したものと思われる。【2001年秋、フレンスブルクを訪問してハンゼンの調査を依頼した田村館長等の活動は、地元に大きな反響を呼んだ。その後の2002年以降、地元の新聞に何度かにわたってハンゼンと板東収容所との関わりが報じられ、これまで知られていなかった写真(板東収容所でのハンゼンを囲む大勢の俘虜達)も掲載されている】。グリュックスブルク(Glücksburg)出身。(4185:「大阪→」徳島→板東)
870) Hansen(ハンゼン),Wilhelm(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。解放後は蘭領印度に渡り、スマラン(Semarang)のケリボン蒸気船会社に勤めた。シュレースヴィヒ出身。(95:東京→習志野)
871) Harasim(ハラジム),Karl(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代の1919年12月8日、ハラジムから在京チェコスロヴァキア代理公使宛信書(内容は中国渡航の件)が送付され、検閲の上久留米から情報局へ転送された。シュレージエンのラティボル(Ratibor)郡シェパンコヴィッツ(Schepankowitz)出身。(3360:熊本→久留米)
872) Harcks(ハルクス),Franz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船上海支店]。板東時代の1919年5月7日に開催されたテニス大会では、新テニス協会(N.T.V)チームのダブルスでゲッテ(Goette)と組んで出場し、テニス協会(T.V.)のマイアー(Gerhardt Meyer)及びトレンデルブルク(Trendelburg)中尉組と熱戦を繰り広げたが、第3セットで敗北した【『バラッケ』第4巻5月号170頁】。ハンブルク出身。(1927:丸亀→板東)
873) Hardel(ハルデル),Hans Otto(1881-1967):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[青島のベルニック&ペッター建築会社(H. Bernick & Pötter)簿記係]。丸亀時代の1915年3月27日、検閲で所持していた青島戦争絵葉書12枚を没収された【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。大戦終結後は青島に戻り、貸自動車の中央車庫(Central Garage)を経営した。ペンション経営者のマリア(Maria Dodel)と結婚したが、妻は1935年8月11日青島で死去した。ドイツに帰国後の1946年9月9日、ホーエンアスペルク(Hohenasperg)抑留者収容所施設からルートヴィヒスブルク(Ludwigsburg)へ移った。ベルリン出身。(1923:丸亀→板東)
874) Häring(ヘリング),Franz(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、クラリネットを担当した。また、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にビアンカ役で出演した。シュトゥットガルト出身。(1913:丸亀→板東)
875) Harms(ハルムス),Heinrich(?-?):第3海兵大隊・後備伍長。[指物師]。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門の責任者をクヌスト(Knust)とともに務め、自身額縁4点を出品した。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4523:大阪→似島)
876) Harotte(ハロッテ),Johannes M.(1893-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1917年10月17日から19日にかけて開催された「レスリング」に出場し、Ⅲクラス(軽量級)の2位になった。ヴェーゼル(Wesel)出身。(3363:熊本→久留米)
877) Härter(ヘルター),Robert(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、シュミッツ(Schmitz;【同姓が2名いて、特定は不可】)とビールとタバコの販売をした。【なお『俘虜名簿』では、ヘルターの綴りが〈Herter〉と誤って記載されている】。バーデンのイスプリンゲン(Ispringen)出身。(2919:松山→板東)
878) Haertle(ヘルトレ),Thaddaeus(1888-1968):第3海兵大隊第3中隊・1年志願2等歩兵。西プロイセンのポーゼン州に生まれた。父親はポーランド人で、村四つ分の地所を所有する大農場主であった。母親はイギリス人。フランスとドイツの大学で農学を学んだ。1916年10月9日、ヴァルシェフスキー(Waluschewski)とともに、久留米から丸亀に移送された。久留米時代、ドイツ人将校に反抗して3ヶ月の重傷を負った。連合国寄りであったため孤立し、迫害も受けた。丸亀時代には日本人憲兵に反抗して、営倉に閉じ込められた。板東に移される際、ドイツ人と同じ列車に乗せられることに抵抗し、縛られて荷車で運ばれた。板東では連合国寄りのコッホ(Lambert Koch)、トロイケ(Treuke)、ヴァルシェフスキー、ツィンマーマン(Max Zimmermann)と共に、収容所から1キロ離れた成就院分置所に隔離収容された。1919年8月15日、ポーランドのミラル陸軍大尉の通訳として名古屋俘虜収容所に赴いた。用向きは、ポーランド人俘虜4名と上部シュレージエン人6名の解放の件であった。大戦終結後はいったんポーランドに帰ったが、やがて日本に戻り日本人女性と結婚して高松に住んだ。晩年は大学で英会話の教師を務めた。1968年、兵庫県西宮市の自身が建てた家で癌により死去。ポーゼン州ボムスト(Bomst)郡のピリーメントドルフ(Primentdorf)出身。(491:久留米→丸亀→板東)
879) Hartmann(ハルトマン),Hans(1868-?):青島船渠・上級造船技師(海軍後備少尉)。[青島船渠工厰長]。1894年7月海軍に入隊し、1913年1月から1914年11月まで青島船渠技師、同年6月には上級造船となった。その指揮の下で、砲艦ルックス(Luchs)、イルチス、コルモラン(Cormoran)及び駆逐艦タークー(Taku←太沽)、敷設艦ラウチングが9月28日夜から29日朝にかけて膠州湾に沈められた。更に10月29日には砲艦ティーガー、11月1日には巡洋艦皇后エリーザベトを自沈させた。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenroheweg;日本の占領統治時代は治徳通)に住んでいた。妻ヘルタ(Hertha)は息子と娘(いずれも12歳以上)と三人で大戦終結まで上海で暮らした。ベルリン出身。(1155:福岡→習志野)
880) Hartmann(ハルトマン),Max Arthur Wilhelm(1896-1968):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。デルメンホルスト(Delmenhorst)出身。(1106:福岡→習志野)
881) Hartung(ハルトゥング),Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備2等歩兵。[教師]。応召前は山東省の省都済南で教師をしていた。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。「名古屋俘虜製作品展覧会」で配布されたと思われるカタログに拠れば、ハルトゥングは名古屋収容所におけるトゥルネンとスポーツの指導者であった。シュミット氏のホームページに、フォイクトレンダー(Voigtländer)の遺稿に由来するハルトゥングの「名古屋(日本)収容所俘虜のドイツ人トゥルネンに関する報告」(Bericht über deutsche Turnen der Kriegsgefangenen in Nagoya(Japan))が掲載されている。1919年12月18日付けの上記報告によれば、収容所が名古屋郊外に移転後、東京の援助団体から必要な器械・器具類が届けられたとのことである。「トゥルネン協会」には約20名が参加した。また、岐阜県の中学校で器械体操を参観する機会があったこと、この中学校ではドイツ式器械体操が取り入れられていたことが記されている。アイゼナッハ出身。(1141:福岡→名古屋)
882) Hartwig(ハルトヴィヒ),Rhinhold(?-?):測量艦プラーネット乗員・2等焚火兵。1914年10月7日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日宣誓解放された。ベルリン出身。(4671:なし)
883) Hartzenbusch(ハルツェンブッシュ),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等機関兵曹。[自動車運転手]。身長190センチの大男だった。1915年9月15日、他の94名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野弦楽四重奏団の一員で、ヴィオラを担当した。他の三人はミリエス(第一ヴァイオリン)、ヴォストマン(第二ヴァイオリン)及びテーン(チェロ)である。また、日本人将校の一人にドイツ語を個人教授した【『ポツダムから青島へ』211頁】。妻エリーザベト(Elisabeth)は子ども二人(いずれも12歳以下)と三人で大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結後、日本内地での契約成立のため内地解放を希望した。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(1099:福岡→習志野)
884) Hartzheim(ハルツハイム),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部で水槽を、また技術部門の機械製作・電気技術ではフリングス(Frings)及びシーヴェック(Schieweck)と共同でガスモーターを出品した。ケルン出身。(3922:大阪→似島)
885) Harzen(ハルツェン),August Georg(1888-?):第3海兵大隊機関銃隊・軍曹。解放後は蘭領印度に渡り、ジョクジャカルタで巡査をしたが、後にジャワのバンジェルネガラ(Bandjernegara)に住んだ。ラインラントのエルベンフェルト(Elberfeld)出身。(3374:熊本→久留米)
886) Hasche(ハシェ),Johannes(1886-1983):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ武漢支店]。ライプチヒ地区のオシャッツ(Oschatz)出身。(2912:松山→板東)
887) Hascher(ハッシャー),Paul(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。シュトゥトガルト郊外のメーリンゲン(Möhringen)出身。(2892:松山→板東)
888) Hasenbein(ハーゼンバイン),Otto(?-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。解放後は蘭領印度に渡って巡査をした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンのアルメンハウゼン(Almenhausen)出身。(4520:大阪→似島)
889) Hashagen(ハスハーゲン),Hans(1887-?):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔会前岬砲台指揮官〕。その砲撃によって英艦トライアンフは損傷を受け、修理のため長崎、さらには横浜に向かった。この艦は結局1915年春、ダーダネルス沖でドイツの潜水艇によって撃沈された。青島時代はハンブルク街に住んでいた。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4377:「熊本→」大分→習志野)
890) Hass(ハス),Gustav(1872-1932):海軍膠州砲兵隊長・海軍中佐。〔海正面堡塁指揮官〕。1913年、巡洋艦シャルンホルストで家族とともに青島に赴いた。青島時代はキリスト小路に住んでいた。ハス中佐は1915年1月27日の正午頃に寧静丸で大阪築港に到着した。将校9名、下士卒150名の総勢159名であった【『大阪朝日新聞』(大正4年1月27日付け)による】。また翌日付けの同紙によれば、ハス中佐は青島陥落の際にビスマルク砲台に白旗を掲げた、その後平服に着替えて自宅に帰り、日本軍が青島市内へ突入するのを眺めていたとのことである。左頬に刀痕のある温厚らしい男と報じられている。大阪時代の1917年1月31日、上海滞在中のクルーゼン元青島高等判事に宛てて大阪収容所から手紙を出した。その内容は、収容所での給与に関する事であった。将校は日本の将校と同額の給与、つまり少尉は40円、中尉は54円75銭を受けているが、少なくとも75円は必要というのがハスの見解であった。その内訳としては、食事代に35円、下士卒手当てに3円、肌着5円、暖房及び入浴設備代3円、靴修繕費5円、衣服10円、医療衛生費3円、新聞書籍費6円。ただ比較のために挙げると、東京の兵器廠に務める役人は1日10時間勤務で月額40円から44円である、との報告をしている【バウアー『1914年から1931年のチンタオ』(Bauer,Wolfgang:Tsingtau 1914 bis 1931)50頁】。『大阪毎日新聞』(大正6年2月7日付け)によれば、ハス中佐の二代痛恨事は、1914年11月7日の降伏の際に、マイアー=ヴァルデック(Meyer-Waldeck)総督の命でモルトケ砲台に白旗を掲げる役目を務めたことと、攻め寄せた日本兵に胸のシュテルンクロイツェル勲章を剥ぎ取られたことだったのことである。大阪時代の1917年2月17日、似島俘虜収容所へ移るに際して、翌日の『大阪朝日新聞』に大阪市に対する感謝の辞を菅沼収容所長に差し出した。本人手書きのドイツ語と次の日本語訳が掲載された。日本語訳は「明日大阪の宿舎を立ち去るに就き予は俘虜一同を代表し我々に示されタル厚き友誼に對して大阪市の役所に深く感謝の意を表す 二月十七日 ハッス海軍中佐」(『大阪朝日新聞』大正6年2月18日)。同紙によれば、「妻ノロジーだといわれてゐるハッス中佐は天津にゐる妻女に情熱綿々たる手紙を送る外滅多に手紙は出さぬ…」と記されている。大戦終結してドイツに帰国後、『青島攻防戦における海正面堡塁の活動』の報告書を書いた。2006年11月21日、孫のクラウス・ハス(Klaus Hass)氏がシュミット氏のホームページの「ゲストブック」に書き込みをした。それによれば、ハスは帰国時には病気であったらしい。2006年12月上旬、シュミット氏を通じてクラウス・ハス氏から、その息子、つまりグスタフ・ハスの曾孫の来日意向が筆者(瀬戸武彦)の元に届いた。大阪・似島の俘虜収容所跡訪問の希望が寄せられ、瀬戸及び似島の宮崎佳都夫氏が連携して似島受け入れの対応をした。曾孫のニコ・ハス(Nico Hass)氏は年末年始に来日したが、他の事情から似島訪問は断念した。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4525:大阪→似島)
891) Hasse(ハッセ),名前は不明(?-?):測量艦プラーネット乗員・2等水兵。1914年10月10日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日宣誓解放された。ニーダー=ザルツブルン(Nieder-Salzbrun)出身。(4670:なし)
892) Hasselbach(ハッセルバッハ),Johann Georg(1891-1968):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。「14歳にしてシュインスベルヒ小学校を卒業し三ヶ年煉瓦職を学ぶ、1912年10月1日入隊迄父の農業に従事し凡ての方面を実地に修得せり、土木業(煉瓦業、建築業、パンストーブ、煉瓦製造業等)耕地羊豚畜業を特技とす」【「北海道移住」より】。カルクブレンナー(Kalkbrenner)をリーダーとする7名、ハッセルバッハ、ホフマン(Hoffmann)、エートマン(Oetmann)、シュヴァルツ(Schwarz)、ザイフェルト(Seifert)、ゾンマーラット(Sommerlatt)は、愛知県下の大地主数十名が創設した愛知産業株式会社と契約して、朝鮮蘭谷面(蘭谷村)で「機械農場」と称するドイツ式大農場(約千町歩)の経営を始めると、大正8年12月25日付け「名古屋新聞」で報じられた。翌年春の出発までハッセルバッハはシュヴァルツとともに、当時建築中の敷島パンの工場に出かけて生活費に充てた。ほどなく7 名は朝鮮蘭谷で営農した。なお、蘭谷には上記ドイツ式機械農場の他に、愛知産業の日本人による「蘭谷農場」(約千町歩)が隣接していた。やがて他のドイツ人が朝鮮を離れた後もハッセルバッハは機械農場に留まった。白系ロシア人の妻との間にもうけた息子、及び義父は蘭谷で死亡し、農場の隅に埋葬された【志雲生 野村新七郎『朝鮮往来』、及び『朝鮮半島に夢を求めて』より】。昭和7年3月31日、契約期間満了となってハッセルバッハが農場を去ったことで、ドイツ人営農者はいなくなった。シュヴァインスベルク(Schweinsberg)出身。(1132:福岡→名古屋)
893) Hasslacher(ハスラッハー),Karl(1877-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・後備伍長。1918年9月21日、ハム(Hamm)、ホルヒ(Holch)、ハスラッハー及びリーガー(Rieger)の四人の四阿が完成すると、ハスラッハーとリーガーは籤で南側の部屋を得た【ハインリヒ・ハムの項参照】。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本で解放された。ヴュルテンベルクのブレンツ河畔ハイデンハイム(Heidenheim)出身。(89:東京→習志野)
894) Hastedt(ハシュテット),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エルベ河畔のフライブルク出身。(4521:大阪→似島)
895) Hauer(ハウアー),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。久留米収容所の音楽活動では、1919年11月19日の「メンデルスゾーンの夕べ」で、ペーベル(Poebel)と「渡り鳥の別れの歌」等を二重唱した。アンハルトのベルンブルク(Bernburg)出身。(462:久留米)
896) Hauger(ハウガー),Wilhelm(1892-1971):第3海兵大隊第6中隊・上等歩兵。松山時代(公会堂収容)の1915年5月26日、23日にビールを買うために脱柵したことで重営倉20日に処せられた。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。ドーナウエッシンゲン近郊のズントハウゼン(Sunthhausen)出身。(2902:松山→板東)
897) Haun(ハウン),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したハウンは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られたが4位に終わり、本戦のB級進出に留まった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセンのゼーハイム(Seeheim)出身。(4183:「大阪→」徳島→板東)
898) Haupt(ハウプト),Adolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[青島のアードルフ・ハウプト印刷所経営者]。青島のドイツ人社会で広く読まれたブンゲ(Bunge)の『膠州の1898年から1901年。一兵卒の回想録―第3海兵大隊の平時と戦時』等の印刷・出版をした。青島時代はイレーネ街に住んでいた。妻カタリーナ(Katharina)は大戦終結まで、四人の子どもと上海で暮らした。アーヘン出身。(1921:丸亀→板東)
899) Haupt(ハウプト),Wilhelm(?-?):所属部隊・階級不明。[青島のアードルフ・ハウプト印刷所]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。似島時代、収容所内に2ヶ所あった石版印刷所の内の1ヶ所はハウプト指導の下で、特に収容所展覧会のカタログの表紙と挿入の絵を、実に粋で見事な出来栄えで印刷した【前記アードルフ・ハウプトの身内と思われる】。解放後は青島に戻った。アーヘン出身。(4532:大阪→似島)
900) Haus(ハウス),Hermann(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。習志野時代の1919年8月12日、習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』に召使役で出演した。ボッフム出身。(94:東京→習志野)
901) Hauser(ハウザー),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。[デイデリヒセン商会青島支店]。青島時代は皇帝街に住んだ。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放後は青島へ戻った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。クレーフェルト(Krefeld)出身。(1100:福岡→習志野)
902) Häusser(ホイサー),Philipp(1891-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。ニーダー=ラムシュタット(Nieder-Ramstadt)出身。福岡時代の1915年(月日不明)、「衛兵司令ニ反抗シタル科」で禁錮8ヶ月の処罰を受けた。1916年10月8日福岡から大分へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ニーダー=ラムシュタット(Nider-Ramstadt)(1139:福岡→大分→習志野)
903) Hauten(ホーテン),Josef van(1879-1963):第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[屠畜職人]。青島時代からユーハイム(Juchheim)と知り合いだった。1879年6月4日、7人兄弟の末っ子としてドゥイスブルクに生れた。小学校を出た後、屠畜職を仕事として選んだ。1898年(もしくは1899年)、恋の悩みから家を飛び出て、アフリカへの旅に赴いたと思われる。海軍歩兵大隊に志願したヴァン・ホーテンは、1900年9月25日に上海に赴いた。ジブラルタルやポート・サイドからの葉書が遺されている。1901年6月12日付けで北京から出された葉書は、手書きの竜を描いたものである。1901年9月7日付けのナポリからの葉書等は、ヴァン・ホーテンがドイツへ帰還したことを示す。1904年11月11日付けで青島から出された葉書は灯台を、また12月3日付けのものは青島桟橋をあしらったもので、この時期には青島にいたことを示す。1905年には都合14通の葉書を中国からドゥイスブルクに出している。1906年にはドイツへ再び戻っている。1907年から1914年にかけて青島周辺の写真絵葉書をドイツに送っている。1917年2月と1918年4月5日には千葉(習志野?)から出された葉書が現存している。第一次大戦が終結して解放後、ヴァン・ホーテンは明治屋に月給200円で迎えられた。1919年のクリスマスに書かれた兄弟宛の手紙には、東京の銀座にある上記明治屋への就職のことがつづられている。やがて菓子職人ユーハイムを製菓主任、ヴォルシュケ(Wollschke)をソーセージ製造主任、ヴァン・ホーテンを喫茶部主任兼支配人とする「カフェー・ユーロップ」が銀座の尾張新町17番地に開店した。なお、同店は横浜に本店を持つ明治屋の経営になるものであった。1920年5月中旬頃、後に結婚することになるハンブルク出身のトーニ・ヘッパー(Toni Höpper)が、ドイツ(推定)から日本へやって来る。1923年9月1日に起こった関東大震災でトーニは死亡した。1924年6月21日、山東省の省都済南で二度目の妻マリアンネ・ピュッツフール(Marianne Pützhuhl)と結婚。1925年、娘のギーゼラ(Gisela)誕生。1927年2月、ハワイ、アムステルダムを経由してドイツへ旅した。ドイツから中国に戻ると芝罘(チーフー)に家族で赴いた。1928年12月19日、芝罘で次女イルムガルト(Irmgard)誕生。1930年代、ヴァン・ホーテンは飛行船ツェッペリン号でヨーロッパからアメリカに向かったとも推測されている。1949年(あるいは1950年)、中国共産党によってある宣教師とともに牢獄に入れられて、水責めにもあったと言われる。1950年代には中国産品の貿易に携わった。ロストックに土地を所有していたが、東ドイツ政府によって恐らく没収された。1963年8月11日、ヴェストファーレンのハーゲン郊外アムブロック(Ambrock)に84歳で没した。ドゥイスブルク出身。(4372:「熊本→」大分→習志野)
904) Hayn(ハイン),Max(?-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[海軍東アジア分遣隊北京公館衛兵]。板東時代、公会堂での工芸品展に、パンジング(Pansing)と寄木細工の床と電気の灯る居心地のよさそうな人形部屋を製作・出品した。シュパンダウ出身。(1919:丸亀→板東)
905) Hebting(ヘープティング),Georg(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。松山時代、山越の収容所講習会で英語、フランス語の講師を務めた。エルザスのグンステット(Gunstett)出身。(2925:松山→板東)
906) Hecht(ヘヒト),Joachim(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[シュヴァルツコップ青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。ブロンベルク地方のグサワ(Gousawa)出身。(1926:丸亀→板東)
907) Heck(ヘック),August(1892-1977):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヘックはオブリガート・ヴァイオリン担当した。ドイツへ帰国後の1921年2月15日ベルタ・ギムブルクス(Bertha Gimburgs)と結婚した。トリーア郡のミュールフェルト(Mühlfeld)出身。(3379:熊本→久留米)
908) Heckmann(ヘックマン),Johann(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、第4棟5室でビール販売をした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フライエンオール(Freienohl)出身。(1128:福岡→久留米→板東)
909) Heckscher(ヘックシャー),Robert(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クルーゼ商会(Kruse & Co.)香港支店]。ハンブルク出身。(2907:松山→板東)
910) Hegele(ヘーゲレ),Anton(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。[パン職人]。フェーリンゲンシュタット(Vehringenstadt)出身。(1134:福岡→名古屋)
911) Hegerich(ヘーゲリヒ), (Friedrich) Wilhelm(1891-1962):第3海兵大隊野戦砲兵隊・2等砲兵。ビショフスハイム(Bischofsheim)出身。(2567:名古屋)
912) Heggblom(ヘックブローム),Heinrich(?-?):第3海兵大隊・上等歩兵。[径井鉱山・天津支店]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。ハンブルク出身。(3369:熊本→久留米→板東)
913) Heide(ハイデ),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵軍曹長。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会の喫茶室で、屠畜・ソーセージ製造部門の営業責任者を務めた。また上記展覧会のカタログには、収容所肉屋の広告が掲載されている。広告には、「毎日、朝7時45分から8時45分、昼3時半から5時半まで営業。あらゆる種類の肉、ソーセージ、焙った豚肉販売」等の文字が記されている。アシャースレーベン(Aschersleben)出身。(1092:福岡→大阪→似島)
914) Heidenreich(ハイデンライヒ),Julius(1887-1977):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセン=ナッサウのハルムートザクセン(Harmuthsachsen)出身。(1095:福岡→大分→習志野)
915) Heiermann(ハイアーマン),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのボンメルン(Bommern)出身。(4172:「大阪→」徳島→板東)
916) Heil(ハイル),Albrecht(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海のフェルケル&シュレーダー(Voelkel & Schroeder)商会]。板東時代、収容所内のタパタオで薬局を営んだ。また公会堂での工芸品展に、グリレ(Grille)と共同でドイツの古楽器リュートを制作・出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゲッティンゲン出身。(1930:丸亀→板東)
917) Heimann(ハイマン),Paul(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。マニラから応召した。松山時代、公会堂での収容所講習会でスペイン語の講師を務め、また板東では1918年4月8日の「中国の夕べ」では、「トンキン(東京)とユンナン(雲南)」の討論会を主宰した。ベルリン出身。(2915:松山→板東)
918) Heimendahl(ハイメンダール),Hans(1890-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍少尉。1909年4月海軍に入隊し、1912年9月少尉、河用砲艦ファーターラント(Vaterland;祖国)1等将校を経て、1914年8月青島勤務となり砲艦ヤーグアル艦長の副官となった。習志野時代、収容所内に自作の四阿を建てた。また1915年12月25日のクリスマスコンサートでは、シューベルトの「ロザムンデ間奏曲」をベーロウ(Below)予備少尉のチェロと一緒に、またヴェーバーの「舞踏への勧誘」及び「ジョスランの子守唄」はゼーバッハ(Seebach)少尉とピアノ演奏した。更に1919年5月24日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではエンスリン(Ensslin)、ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)大尉及びヴィーダー(Wieder)でシュヴァーベン民謡の「選ばれし者」を四重唱した。大戦終結して帰国後1920年1月30日海軍中尉(【1915年5月2日付け発令】)にして海軍大尉相当となり、同年6月退役した。1940年11月12日から1945年3月25日まで、海軍少佐として軍隊に復帰し、ノルウェー海軍参謀部司令官(1941年からはオスロ海軍補充部隊)となった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのクレーフェルト(Krefeld)出身。(96:東京→習志野)
919) Heimig(ハイミヒ),(Franz) Josef(1893-1956):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。アルフター(Alfter)出身。(502:久留米→板東)
920) Heims(ハイムス),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・予備伍長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。10月9日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた内の第4班の班長を務めた。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとハイムスは、オブリガート・ヴァイオリンを担当した。オスナブリュック出身。(479:久留米)
921) Heinemann(ハイネマン), Martin(1892-1979):海軍膠州砲兵隊第2中隊・上等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。ハイネマンの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真10〕参照】。ドイツに帰国後の1922年9月19日、アンナ・ヴェルリッツ(Anna Werlitz;1973年3月26日死去)と結婚し、娘一人(1925-1981) をもうけた。ザクセン=アンハルトのニーンブルク(Nienburg)出身。(3911:大阪→似島)
922) Heinrich(ハインリヒ),Paul Hermann(?-?):国民軍・上等歩兵。[洋服屋]。青島のフリードリヒ街213番地で紳士服・軍服を扱う洋服店を営んでいた【Behme and Krieger:Guide to Tsingtau and its Surroundings.190頁】。大戦終結後、再び青島に戻り紳士用品店を開いた。シュレージエンのサガン出身。(2216:姫路→青野原)
923) Heinrich(ハインリヒ),Xaver(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。[麦酒醸造職人]。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。メンスベルク(Mensberg)出身。(1148:福岡→久留米)
924) Heintze(ハインツェ),Lothar(?-?):海軍野戦砲兵隊・後備陸軍中尉。[哈爾濱(ハルビン)領事館領事]。〔タオベンクッペ(Taubenkuppe)砲台指揮官〕。1899年10月17日 野戦砲兵第5連隊予備少尉、1909年12月21日予備中尉。シュレージエンのレーベンベルク(Löwenberg)出身。(3370:熊本→久留米)
925) Heinzel(ハインツェル),Arthur Walfried(?-?):国民軍・補充予備兵。[A.W.Heinzel運送会社]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。キール出身。(4678:大阪→似島)
926) Heinzel(ハインツェル),Otto J.(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等兵曹。[工場管理人]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通51番地に住んでいた。徳島時代の1916年1月27日、ルフ(Ruff)作の3幕劇『戦争花嫁』に、主役の老水先案内隊長ラルゼンを演じた【『徳島新報』第19号(1916年1月30日発行)より】。板東時代の1918年3月6日、エンゲル2等歩兵と共に「演芸会」の指導をした。キール出身。(4184:「大阪→」徳島→板東)
927) Heise(ハイゼ),Ernst(1895-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。解放後は蘭領印度に渡って巡査(長)になった。ポンメルンのゴルトベック(Goldbeck)出身。(2897:松山→板東)
928) Heise(ハイゼ),Johannes(1882-1969):海軍膠州砲兵隊第1中隊・副曹長。[金属製建具等組み立て職人]。1902年、12年の予定で海軍に応召した。1913年、休暇で郷里に戻った折、1年後には結婚を約束した後の妻とは結局7年離れ離れとなった。ハイゼの多量の遺品は、娘のエルゼ・ハイゼ(Else Heise)によってヴュルツブルクのシーボルト博物館に寄贈された。大戦終結して帰国後、ハイゼは直ちに結婚し、また郡役所に勤務したが、従軍期間が長いことから、倍の勤務と換算され、ほどなく年金生活に入った。ハイゼは収容中、日本語も中国語も習得しようとは全く考えなかったが、苗字ハイゼを漢字で当てた指輪の印を持ち帰った。それはハイゼ(Heise)の音に近い「Hai-zi」から当てた「海子」で、海軍兵士にちょうどぴったりだと考えたものと思われる。娘のエルゼの記憶では、似島の俘虜達は時に口にするものがろくになかったことがあったが、それでもハイゼは決して日本人の悪口を言うことはなかった、とのことである。1954年ハンブルクで、かつての青島戦士の集まりがあり、ハイゼもそれに出席した。エルゼはやがて父の足跡を辿るべく、青島を旅行した【メッテンライター『極東で俘虜となる』82-83頁 】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カッセルののノイキルヒェン(Neikirchen)出身。(3927:大阪→似島)
929) Heister(ハイスター),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。板東時代、収容所でエーラース(Ehlers)と共同で風呂屋(シャワー室)を営業した。解放後は蘭領印度に渡った。ボン出身。(1903:丸亀→板東)
930) Heitmann(ハイトマン),Gustav(1894-1971):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドイツに帰国後アルヴィーネ(Alwine Habighorst)と結婚、後にクラーラ・ハイデマン(Klara Heidemann;?-1997)と再婚した。1940年2月5日から1945年7月9日まで軍務に就いた。ヴェストファーレンのブラックヴェーデ(Brackwede)出身。(1135:福岡→名古屋)
931) Heizmann(ハイツマン),Ernst(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(浄福寺収容)の1916年5月13日、暴行事件の被告として、第5師管軍法会議で禁固一ヶ月に処せられて広島監獄に入れられた。板東時代、第7棟の5室で理髪業を営んだ。シュトゥットガルト出身。(2899:松山→板東)
932) Helbig(ヘルビヒ),Karl(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1919年12月のクリスマスは、クルーゲ(Kluge)、マル(Marr)及びヴルフ(Wulff)の四人で過ごした。ヴォルムス出身。(494:久留米)
933) Helgen(ヘルゲン),Wilhelm(1895-1961):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。東カロリン群島のポナペ島原住民。労働者としてポナペ島から青島の造船所に送られた。日独戦争勃発とともに砲艦ヤーグアルに乗り組んだが、海戦で海に転落した際、味方のドイツ軍が逃げ出す中、日本の軍艦に救助され俘虜になったとのことである。1919年10月25日付けの「習志野俘虜収容所ニ収容中ナル南洋人俘虜ニ関スル件照会」によれば、第2代習志野俘虜収容所長山崎友造からの要請で、他のドイツ人俘虜より早めに解放されたと思われる。大戦終結後、ポナペ島で実業家として成功し、第二次大戦では日本軍に多額の献金をした【『ドイツ兵士の見たNARASHINO』91頁及び『ドイツ兵士の見たニッポン』124頁】。2005年夏、ヘルゲンの息子から大使館を通じて、かつて救助してくれた日本軍艦の艦長や習志野俘虜収容所長への感謝を表すべく墓参の意向が習志野市教育委員会へもたらされた。習志野市教育委員会の星昌幸氏の仲介等により、その年に山崎友造の孫娘川村千鶴子氏がポナペ島を訪問して、ヘルゲンの息子と対面した。なお、川村氏のその後の調査によって、浅草本願寺での東京収容所の俘虜たちの集合写真(習志野市教育委員会所蔵)におさまっているヘルゲンの特定がなされた【川村千鶴子「習志野俘虜収容所とポーンペイ(旧称ポナペ)人捕虜の帰還―オーラル・ヒストリーの可能性」所載:『日本島嶼学会(JSIS)島嶼研究第6号、131頁』】。2006年末にシュミット氏によって、「アジア歴史資料センター」にヘルゲン等ポナペ島出身者三名が解放の際に書き記した経歴書が発掘された。それによればヘルゲンは農場主「Eslei」の息子となっているので、「ヘルゲン」は名前でエスライ「Eslei」が苗字とも受け取られる。東カロリン群島のポナペ島出身。(305:東京→習志野)
934) Heller(ヘラー),Max(1892-1973):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。マイセン郡のジーベンレーン(Siebenlehn)出身。(1905:丸亀→板東)
935) Hellmann(ヘルマン),Eduard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・上等歩兵。1916年(月日不明)、「入倉中営倉内羽目板ニ諸種ノ絵ヲ画キ戯画ノ下ニ日本将校ノ名ヲ記シ不穏当ナル科」で重営倉14日の処罰を受けた。大戦終結して解放後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(2550:名古屋)
936) Hellmuth(ヘルムート),Jean(1895-1917):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したヘルムートは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られ、3位で本戦B級進出に留まった。また7月に行われたサッカーの試合では脚を骨折した。1917年9月7日、肺結核により徳島陸軍衛戍病院で死亡した【『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一は、ドイツ人戦没者及びその墓地等に関する資料集成でもある。1920年(大正11年)12月21日付けの陸軍省副官松木直亮【元熊本俘虜収容所長で、後に陸軍大将になった】からの照会に対し、翌1921年1月31日付けの第11師団参謀長浅田良逸の回答は、リーデル(Riedel)と並んで設けられたヘルムートの墓碑には、次のドイツ文が刻まれているとの報告をしている。「Hier ruht in Gott Matrosenartillerist Jean Hellmuth geb.11.3.1895 in Mayen b/Coblenz gest.7.9.1917 in Kriegsgefangenschaft in Tokushima」。今日は白い標識に墓碑銘が一緒に記されて、次の訳文が掲げられている。「海軍砲兵ジュアン・ヘルムート 一、八九五年三月十一日コーブレンツ近郊マイエンにて出生 一、九一七年九月七日徳島戦争捕虜収容中に死亡 安らかに眠りたまえ」。【なお、墓地所在地として記されている徳島県名東郡加茂名町の陸軍墓地は、眉山中腹にあり、今は西部公園と呼ばれている。公園は1989年から三次にわたって整備され、今日では二人の墓碑のほかに「ドイツ兵の墓」、日独両語による「墓碑」及び、ニュルンベルク近郊在住の彫刻家ペーター・クシェル(Peter Kuschel)氏寄贈の「悲しみを超えて」の記念碑がある。参照:石川栄作「二人のドイツ兵墓地」】。今日、眉山中腹の旧徳島陸軍衛戍病院跡にリーデルの墓と並んでその墓がある。コーブレンツ近郊のマイエン(Mayen)出身。(4182:「大阪→」徳島→板東)
937) Helm(ヘルム),Wilhelm(1891-1951):第3海兵大隊・予備伍長。1891年10月8日横浜に生まれ神戸で育った。母親は日本人で、12歳の時死別した。父ユリウス・ヘルムは1869年に来日し、和歌山藩の兵学指南を務めた。廃藩置県後、神戸でヘルム兄弟商会を興し、東京、大阪、京都にも支店を置き、日本人を100人ほど雇用していた。1914年8月、神戸から青島に応召した。11月6日の戦闘で腕部を負傷して捕虜となった。日本語の方がドイツ語よりも達者で、収容所では通訳を務めるなど重要な役割を担った。ヘルムには青柳久子という名の日本女性から頻繁に、それも「水茎の跡麗しい」英文の手紙が届いた。熊本時代の1915年1月14日、父ユリウスが細工町の西光寺収容所に収容されていた息子ヴィルヘルムの面会に訪れた。その折り、炊事場の改良費として50円を寄贈した。久留米時代の1916年7月19日、タウディエン(Taudien)とともに逃亡したが、国分の日吉神社付近で捕まって二人は重営倉30日に処せられた。この事件は真崎甚三郎所長と警察側との対立を引き起こして大問題となった。同年9月新設の青野原収容所へ収容所替えになった。青野原には兄のジェームス・ヘルムが時々面会に訪れたようである。解放後は横浜に住んだが、第二次大戦後の1947年、家族とともにドイツへ送還された。1951年、ヴィースバーデンに没し、翌年本人の遺志に添って遺骨は横浜の外人墓地にへ移された【参照:『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787‐789頁及び『ドイツ軍兵士と久留米』152頁】。神戸出身。(3368:熊本→久留米→青野原)
938) Helmers(ヘルマース),Johann(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備伍長。久留米の演劇活動では、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等10演目に出演した。ハンブルク出身。(485:久留米)
939) Hendrich(ヘントリヒ),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門に、ゼーボルト(Seebold)及びヴァーゲマン(Wagemann)と共同で、縮尺20分の1の家の模型を出品した。ザクセンのアルバーシュテッテ(Alberstett)出身。(3913:大阪→似島)
940) Henke(ヘンケ),Paul(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのヴァルシュタイン(Waestein)出身。(497:久留米)
941) Henkel(ヘンケル),Friedrich(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1919年10月23日に開催された「1919年スポーツ週間」の「三種競技」(参加者5名)で、砲丸投げは7.92mで1位、幅跳び直立では2位、100m競争では14.9秒で4位、総合ではカイザー(Kaiser)とともに1位になった。ドルトムント出身。(3383:熊本→久留米)
942) Hennefeld(ヘンネフェルト),Louis(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。デュッセルドルフ郡ラウペンダール(Laupendahl)村のケットヴィヒ(Kettwig vor der Bruecke)出身。(464:久留米)
943) Hennig(ヘニッヒ),Friedrich(?-?):砲兵兵站部・掌砲兵曹長。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住んだ。ケーニヒスベルク出身。(2214:姫路→青野原)
944) Henningsen(ヘニングセン),Kurt(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、第4棟5室においてヒンツ(Hinz)とブロートニツキ(Brodnitzki)の代理でミネラルウオーターを販売した。ハンブルク出身。(2909:松山→板東)
945) Hensel(ヘンゼル),Wilhelm(1892-1974):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。ドイツに帰国後結婚して息子一人をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハーナウ郡のラヴォルツハウゼン(Ravolzhausen)出身。(1104:福岡→習志野)
946) Henssler(ヘンスラー),Hermann(1883-?):国民軍・卒。[青島ゲルマニア・ビール会社醸造職人]。父ヴィルヘルム・ヘンスラーはテュービンゲンでビール醸造所の共同経営者だった。息子のヘルマンもその後を継ぐところであったが、何故か青島へ赴いた。1906年には青島のゲルマニア・ビール会社の酒蔵主任となり、1909年以降は醸造主任になって、会社では醸造マイスターと醸造支配人に次ぐ三番目の職人であった【テュービンゲン市立文書館主任ウード・ラオッホ(Udo Rauch)氏による「中国及び日本における三人のテュービンゲン出身者―フーゴー・クライバー、ヘルマン・ヘスラー及びフリッツ・リーケルト」(Drei Tübinger in China und Japan Hugo Klaiber,Hermann Henssler und Fritz Riekert)による】。1915年9月20日青島から大阪俘虜収容所に移送された。解放されて帰国後に結婚して娘一人をもうけた。その後再び中国に渡ったがすぐに帰国した。後にアルゼンチンに渡り、1950年代にはブエノスアイレスに住んだが、その後消息は途絶えた。テュービンゲン出身。(4679:大阪→似島)
947) Hentschel(ヘンチェル),Hermann(?-?):海軍野戦砲兵隊・副衛兵長。青島時代は総督官邸内に住んでいた。板東時代、ドイツ式ハンドボール協会「壮年」のコーチを務めた。習志野時代の1919年1月8日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に娘役で出演した。エルスター河畔のヘルツベルク(Herzberg)出身。(2923:松山→板東→習志野)
948) Henze(ヘンツェ),Arthur(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。[ジータス-プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したヘンツェは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られたが、5位に終わり本戦のB級進出に留まった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1972年(昭和47年)7月31日、ドイツ館に1万円を寄付した【西田素康「現代によみがえる板東俘虜収容所」109頁(所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』―「板東俘虜収容所」を中心として―】。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時30歳)、2時間25分15秒で85人中の第14位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのヴァンツベック(Wandsbeck)出身。(4186:「大阪→」徳島→板東)
949) Henze(ヘンツェ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備伍長。[青島のベンク・ウント・クレッチュマー商会]。松山時代、山越の収容所講習会でフランス語の講師を務めた。板東時代は公会堂での絵画と工芸品展覧会に、「踊り子」等の水彩画を出品した。ヴェッツラー(Wetzler)出身。(2926:松山→板東)
950) Heppner(ヘップナー),Otto(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918年6月、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の体操指導者を務めた。ブレスラウ出身。(501:久留米)
951) Herborth(ヘルボルト),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、ホルトカンプ(Holkamp)とタパタオの10号小屋で写真屋を営んだ。ブレーメン出身。(1910:丸亀→板東)
952) Herbst(ヘルプスト),Friedrich Wilhelm Otto(1889-1945):第3海兵大隊野戦砲兵隊・伍長。1908年10月1日3年志願兵として第3海兵大隊に入った。ザクセン=アンハルトのケーテン(Köthen)出身。(3371:熊本→久留米)
953) Hering(ヘリング),August(?-?):国民軍・曹長。妻アッディー(Addi)は大戦終結まで、子ども四人と青島に留まった。。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として、日本国内で解放された。ブレーメン出身。(3390:熊本→久留米)
954) Herke(ヘルケ),Richard(1893-?):海軍兵站部・2等筆記。1912年に前記の職に就いた。1915年6月28日付けでオーデル河畔のフーゴー・ヘルケから出された、姫路のヘルケ宛の葉書が遺されている。また、1916年12月17日には久留米のヴィースト(Richard Wiest)から、青野原のヘルケ宛の絵葉書(久留米名所としての歩兵第56連隊の正門前を写した写真)が出された。さらに1917年3月28日、福岡のシュミット(Fritz Schmidt)から青野原のヘルケに宛てた絵葉書(箱崎八幡宮)が出された。また、1919年11月に写されたアルヴィン・プロイス(Alwin Preuss)の写真、及び青野原俘虜収容所の全景写真がヘルケの遺品中に遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オーデル河畔のフュルステンベルク(Fürstenberg)出身。(2212:姫路→青野原)
955) Herling(ヘルリング),Heinrich(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等焚火兵。習志野時代の1919年10月7日、習志野演芸会の第2部で上演されたケルン風茶番劇「むちゃくちゃな夜」に、召使シェールの役で出演した。ケルン出身。(105:東京→習志野)
956) Herm(ヘルム),Otto(1889-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。解放後は蘭領印度に渡った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。バーデンのダインバッハ(Dainbach)出身。(1904:丸亀→板東)
957) Hermann(ヘルマン),Fritz(1868-?):海軍衛戍司令部・1等衛戍監督。1903年4月兵営及び衛戍監督、1909年8月衛戍司令部1等監督となった。青島時代はブレーメン街に住んでいた。妻アデーレ(Adele)は大戦終結まで子ども三人と青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として、日本国内で解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(508:久留米)
958) Hermann(ヘルマン),Johann(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1919年12月31日、別れに来る人全員にコーヒーを振舞った。クルーゲ(Kluge)も7時半にヘルマンの元へ出かけて、図書室で二人20分ほどを過ごした。ヘルマンは帰還する人たちが収容所を出ると、トランペットで故郷行進曲を吹いた。大戦終結後の1921年1月13日、蘭領印度のロア・ブレア(Loa Breah)から、故郷のクッツホーフ(Kutzhof)に戻ったマイレンダー(Mailänder)に宛てて便箋3枚の手紙を出した【マイレンダーの項参照】。エルザス・ロートリンゲンのズルツバハ(Sulzbach)出身。(495:久留米)
959) Hermann(ヘルマン),Walter(1893-1981):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。ドイツに帰国後テオドーラ(Theodora;1900-1987)と結婚した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュトゥットガルト出身。(4174:「大阪→」徳島→板東)
960) Hermey(ヘルマイ),Johann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代の1916年2月12日、ゼーガー(Seeger)と脱走を企てたが14日に辻村で発見され逮捕、禁錮1年の刑を受け高松刑務所に収監された【『丸亀俘虜収容所記事』より】。ルール河畔のミュールハイム(Mühlheim)出身。(1907:丸亀→板東)
961) Herms(ヘルムス),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代の1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ヘルムスは115点を挙げて初級の部4位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ハノーファー出身。(2898:松山→板東)
962) Herr(ヘル),Otto(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1919年6月22日に開催された「名古屋収容所俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、ヴァルター・シェンク(Walter Schenk)及びクルト・ウンガー(Kurt Unger)とともに収容所図書室の管理係りを務めた。ニーダー・バルニム郡のゾフィーエンシュテート(Sophienstaedt)出身。(2566:名古屋)
963) Hertling(ヘルトリング),Georg Freih.von(1888-1957):第3海兵大隊第1中隊・陸軍少尉(男爵)。1915年(月日不明)、日直下士を侮辱する言動を弄しただけに留まらず、反抗的な態度を示した事で重謹慎30日の処罰を受けた。久留米の音楽活動としては、1915年夏から1916年夏まで収容所内の「交響楽団」の指揮を執り、またフォークト(Vogt)やツァイス(Zeiss)とともに収容所の音楽教育にも携わった。交響曲や室内楽曲を作曲し、1919年2月20日には自分の作品で構成したコンサートを企画した。なお1918年12月5日、収容所最後のシンフォニー・コンサートが開かれベートーヴェンの「第九」が全曲演奏されたが、その折りの指揮者ではないかとの推測もされている。【インターネットによる「『第九』事始め(中)」より】演劇活動では、ガーデベルク作の笑劇『シメク家』の演出を担当した。シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヘルトリングは、第1ヴァイオリンを受け持った。久留米収容所の音楽活動においてヘルトリングは、フォーク及びレーマンに継ぐ存在であった。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、ヘルトリングは1919年6月2日に開催されたサッカーの試合に出場した。大戦終結して帰国間近の1919年12月15日、久留米での最後のシンフォニー・コンサートが開催された。その時収容所でベートーヴェンの『第九』全曲が演奏されたが、その演奏の指揮者と推測されている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴュルツブルク出身。(459:久留米)
964) Hess(ヘス),Hermann(1868-1944):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。丸亀時代の1915年7月8日、第1ヴァイオリンのエンゲル(Paul Engel)、第2ヴァイオリンのモルトレヒト(Moltrecht)、第3ヴァイオリンのライスト(Leist)、第1フルートのヘス、第2フルートのヤーコプ(Jacob)及びオルガンのクラーゼン(Claasen)の6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「保養楽団」の名称で、1915年1月10日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団であった。なお、ヘスはこの寺院楽団の団長を務めた】が成立した。その折ヘスはオッフェンバックの「ホフマンの舟歌」等を独奏した。板東時代の1917年5月、松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、フルート及びピッコロを担当した。1919年、収容所内印刷所から『俘虜生活の真面目歌と戯れ歌』(Ernste und heitere Gedichte aus der Kriegsgefangenschaft)を出した。ゲッピンゲン(Göppingen)出身。(1917:丸亀→板東)
965) Heutzenröder(ホイツェンレーダー),Wilhelm(1893-1960):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ドイツへ帰国後リーゼル・クリツァー(Liesel Keutzer)と結婚して娘一人をもうけた。1933年から1945年まで、中断した期間があるが警察に勤務し、1945年から1953年まで警察署長、後に警視になった。上部ヘッセンのライトヘッケン(Leidhecken)出身。(470:久留米)
966) Heyer(ハイアー),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等兵曹。1916年8月20日付けの『徳島新報』第3巻第15号によれば、徳島時代ハイアーは徳島管弦楽団の一員で、第1ヴァイオリン担当しコンサートマスターだった。解放後は蘭領印度に渡った。ベルリン出身。(4167:「大阪→」徳島→板東)
967) Heyn(ハイン),Alfred(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。[神戸のヴァインベルガー商会]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(1144:福岡→名古屋)
968) Hildebrand(ヒルデブラント),Willi(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。福岡時代の1916年1月10日、「土ヲ以テ火鉢ヲ自製シアルヲ陰ニ居室ニ於テ使用セシ科」で重営倉30日の処罰を受けた。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。エアフルト出身。(1120:福岡→青野原)
969) Hildebrandt(ヒルデブラント),Alfred(1887-1970):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。〔第2歩兵堡塁(湛山北堡塁)〕。[宣教師]。1906年から1907年の一年間兵役義務を果たした後にベルリン福音会に入った。1913年 10月に中国北部へ派遣された。その後膠州地区へ移った。第一次大戦争勃発とともに青島守備軍に志願した。解放後の1921年7月13日、宣教師としての活動から離れて牧師の仕事に就いた。 1924年2月3日に司祭に叙任され、 1926年4月20日 ルイーゼ・ザットラー(Luise Sattler)と結婚した。1970年4月28日に没した。.シュレージエンのラウテン(Raudten)出身。(1929:丸亀→板東)
970) Hildebrandt(ヒルデブラント),Reinhold(1881-1920):第3海兵大隊第6中隊・1等機関兵曹。1920年1月5日板東で死亡。西プロイセンのブロンベルク(Bromberg)出身。(2901:松山→板東)
971) Hildenbrabdt(ヒルデンブラント),Johann(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴォルムス(Worms)出身。(475:久留米)
972) Hiller(ヒラー),Kurt(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。マイセン市の郷土史家によれば1914年に19歳で俘虜となり、大戦終結して解放後は中国、日本で働き、1938年にマイセンに帰郷した【松尾「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」99頁】。マイセン郊外のニーダーヤナ(Niederjana)出身。(1734:静岡→習志野)
973) Hillingmeier(ヒリングマイアー),Richard(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。[機械工マイスター]。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門の機械建設及び電気技術の部で、汽罐の設計図を出品した。ドゥイスブルク出身。(4524:大阪→似島)
974) Hinnenkamp(ヒンネンカンプ),Heinrich(1890-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。ハノーファーのフェルデン(Voerden)出身。(2896:松山→板東)
975) Hinner(ヒンナー),Robert(1882-1964):巡洋艦皇后エリ-ザベト乗員・海軍機関中尉。姫路時代、他の将校7名及び従卒5名とともに、妙行寺に収容された。大正4年(1915年)9月9日付けの『神戸又新日報』に次の記事が掲載された。「ヒンナー中尉は、6月中戦功により大尉に昇進した趣、本国友人よりの通信に接したから大尉の給料を支払へと請求したが、敵国に俘虜の身でありながら馬鹿な事を云え日本政府は之を認めて居らぬと一喝されて引き下がったが、早速裁縫師を呼んで大尉の軍服を新調させ大威張」。【藤原龍雄「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」、『文化財だより』第50号5頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ウィーン出身。(2217:姫路→青野原)
976) Hinney(ヒンナイ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。[A.W.Heinzel運送会社]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通に住んでいた。大阪時代、アントショヴィッツ(Antoschowitz)と共に『大阪俘虜収容所新聞』(Die Osakaer Lager-Zeitung)の編集人を務め、似島時代は『似島収容所新聞』の編集長を務めた。ヴェストファーレンのブラックヴェーデ=ブーレフェルト(Brackwede Bulefeld)出身。(4522:大阪→似島)
977) Hinz(ヒンツ),Carl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ジータス-プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。丸亀時代の1916年10月16日、アルバース(Albers)、クラウスニツァー(Claussnitzer)及びデーゼブロック(Desebrock)の四人で相互扶助を目的とする収容所保険組合を結成した。これが後に松山、徳島の俘虜達と合流した板東収容所での、大規模な健康保険組合のモデルとなった。板東時代、工芸品展にノルウェー風を模したリュックサックを制作・出品した。ホルシュタインのブリースドルフ(Bliesdorf)出身。(1915:丸亀→板東)
978) Hirche(ヒルヒェ),Hugo(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等砲兵。[青島のパウル・フリードリヒ・リヒター(Paul Friedr Richter)商会]。青島時代はハンブルク街に住んでいた。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ブランデンブルクのトリーベル(Triebel)出身。(3918:大阪→似島)
979) Hirsch(ヒルシュ),Albin(?-?):第3海兵大隊第5中隊・伍長。松山時代に山越の講習会で、シュトルツェ=シュライム方式の速記の講師を務めた。「オーベルンドルフノ小学校卒業後、三ヶ年車匠業ヲ学ヒ1909年10月乗馬隊ニ入隊スル迄車匠及車輌製作者トシテ従業セリ、車匠(農具、農作車等ノ製造)ヲ特技トス」【「北海道移住」より】。ザクセン=アンハルトのオーベルンドルフ(Oberndorf)出身。(2895:松山→板東)
980) Hirsch(ヒルシュ),Karl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。マグデブルク出身。(2914:松山→板東)
981) Hirsch(ヒルシュ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。芝罘から応召した。丸亀時代の1915年8月9日、飼い犬が補助将校木原少尉に乱打されたと、書面で訴え出た。しかし、収容所所員に対して吠え立て、巡邏業務を妨害したもので当然の仕打ちであり、飼い主は今後の飼い方に相当の注意をしなければならない、と戒められた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時30歳)、2時間25分34秒5分の1で85人中の第15位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リューベック出身。(1918:丸亀→板東)
982) Hirschberger(ヒルシュベルガー),Paul(1888-1964):第3海兵大隊第1中隊・軍曹。日本語が上手だった。久留米の演劇活動では、笑劇『彼は夢遊病』等14演目に出演した。1919年8月、東京市麹町の有楽町聯合商会貿易部から情報局へ、オーバーシューズ調製の技術を持つ者の問い合わせが各収容所にあり、久留米ではヒルシュベルガーを出願人として通知した。大戦終結後「大阪角一護謨」に勤めたが、1923年にゼールバッハ(Selbach)が帰国すると、その日本ゴム株式会社に後任として移った。当時は「日本ゴム」と「日華ゴム」が競い合っていた。彼は地下足袋の底を二重ゴムにする技術を考案し、これで日本ゴムは業績を伸ばした。1932年10月、日本足袋(株)を退社した。ハノーファー州のミュンデン(Münden)出身。(460:久留米)
983) Hirth(ヒルト),Wendelin(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、ヒルトのグループは玩具部門に操り人形(徒手体操)と鍛冶屋を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』83頁】。バーデンのヴィンターバック(Winterback)出身。(1116:福岡→青野原)
984) Hitzemann(ヒッツェマン),Karl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時25歳)、2時間38分48秒で60位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン出身。(2913:松山→板東)
985) Hlavica(フラヴィツァ),Adolf(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等檣帆下士。熊本時代の1915年2月28日、それまで妙永寺に収容されていたが、同寺の水兵・古参下士との間で軋轢があり、アスペック(Aspeck)及びラーツェンベルガー(Razenberger)とともに、細工町阿弥陀寺に移された。久留米時代には演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』に出演した。1918年8月4日久留米から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会の運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』67頁】。メーレン(Mähren;チェコのモラヴィア)のブリュン(Brünn)出身。(3391:熊本→久留米→青野原)
986) Hobiera(ホビーラ),Max(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・伍長。1915年9月20日、名古屋へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡った。シュパンダウ出身。(1151:福岡→名古屋)
987) Hobt(ホープト),Johannes(1893-1979):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。時計職人の子として生まれた。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。解放後はペルーに赴き、1928年12月16日、ハンブルク出身の女教師エルナ・オルトマン(Erna Orthmann)と結婚して四人の子をもうけた。ペルーのリマで没した。シュヴェンニンゲン(Schwenningen)出身。(1129:福岡→名古屋)
988) Hoch(ホッホ),Josef(1891-1960):第3海兵大隊第5中隊・2等砲兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オッペナウ出身。(3366:熊本→久留米→板東)
989) Hoeck(ヘック),Johann(1892-?):青島海軍兵站部・1等水雷兵曹。1910年10月1日海軍に入った。ハンブルク出身。(2211:姫路→青野原)
990) Hoeck(ヘック),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。姫路時代の1915年3月19日、祖国の祝祭を祝うために買ったビール三本が紛失し、同輩のメッスチル(不詳)に嫌疑をかけたことがきっかけで、ザルナ(Sarna)と喧嘩を始めた。そこにヘックに味方したスリツフェル(不詳)がナイフでザルナに切りかかった。この事件でスリツフェルとヘックは処罰された【藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」13頁】。インスブルック出身。(2231:姫路→青野原)
991) Höcker(ヘッカー),Wilhelm Hermann(1892-1964):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第4棟7室でハーベレヒト(Haberecht)及びブロードニツキー(Brodnitzki)とゴミ処理業を営んだ。ハノーファー近郊のフラウブリュンネ(Flaublünne)出身。(1912:丸亀→板東)
992) Hodapp(ホーダップ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。[青島膠海関]。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。カールスルーエ出身。(4379:「熊本→」大分→習志野)
993) Hofe(ホーフェ),Paul v.(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1914年10月2日、四房山で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。カッセル出身。(506:久留米)
994) Hofenfels(ホーフェンフェルス男爵),Hermann Freih.von(1883-1965):第3海兵大隊参謀本部・陸軍中尉。〔参謀本部〕。1883年7月9日、ハールト(Haardt)河畔のデュルクハイム(Dürckheim)に生まれた。1902年7月陸軍歩兵部隊に入隊し、同年8月海軍歩兵少尉、1911年8月上記大隊中尉、1914年8月同大隊参謀本部付になった。1914年11月8日大尉【青島ドイツ軍降伏の翌日付け】となった。1914年12月31日、妻が面会のため久留米を訪れ、翌年1月9日に面会が許可された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)125頁には、ホーフェンフェルスがドイツのメルセン(ベルギーに近い所)在住のエンマ・フォン・エポルフ嬢に出した葉書(1917年5月4日久留米消印)が、また157頁には、上海のドイツアジア銀行に宛てて出した手紙の封筒が掲載されている。大戦終結して帰国後の1920年3月10日陸軍に入り、最後は陸軍少佐であった。バーデン=バーデン出身。(458:久留米)
995) Hoff(ホフ),Otto(1892-1950):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。ドゥートヴァイラー(Dudweiler)出身。(4373:「熊本→」大分→習志野)
996) Hoffend(ホッフェント),Johann(?-1945):築城部・築城曹長。青島時代は台東鎮の建築出張所(Baupostengebäude)に住んでいた。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めるとともに、またホッフェントはフレンティー(Flentie)と共同で模型部門に、給水塔(鉄筋コンクリート製200センチ、20分の1モデル、50分の1設計図、力学計算書、建築過程の写真付き)を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』66及び78頁】。第二次大戦では工兵将校としてフランス、ノルウェー、ヘルゴラント島に出征し、ピンネベルクで没した。最終の階級は少佐だった【シュミット】。ベルリン出身。(2215:姫路→青野原)
997) Hoffmann(ホフマン),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。[乾酪製造業]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。カルクブレンナー(Kalkbrenner)をリーダーとする7名、ハッセルバッハ(Hasselbach)、ホフマン、エートマン(Oetmann)、シュヴァルツ(Schwarz)、ザイフェルト(Seifert)、ゾンマーラット(Sommerlatt)は、愛知県下の大地主数十名が創設した愛知産業株式会社と契約して、朝鮮蘭谷面(蘭谷村)で「機械農場」と称するドイツ式大農場の経営を始めることが、大正8年12月25日付け「名古屋新聞」で報じられた。翌年春の出発までシュホフマンは徳川邸の乳牛舎に出かけて生活費に充てた。ほどなく7名は朝鮮蘭谷で営農した。ザクセンの低地クロビカウ(Nieder-Klobikau)出身。(1089:福岡→名古屋)
998) Hoffmann(ホフマン),Paul(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点112で初級5位になった。レース(Rees)郡のメーアホーグ(Mehrhoog)出身。(3367:熊本→久留米)
999) Hoffmeyer(ホフマイヤー),Karl(?-?):第3海兵大隊第5中隊・軍曹。板東時代、収容所の製菓・製パン所(ゲー・バー)では製パンの中心的役割を果たした。解放後は蘭領印度に渡った。ポンメルンのシュラーヴェ(Schlawe)出身。(2894:松山→板東)
1000) Hofmann(ホーフマン),Jakob(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。〔山東鉄道四方工場・機械組立工〕。バンベルク郡のブライテンギュースバッハ(Breitengüssbach)出身。(2563:名古屋)
1001) Hoeft(ヘフト),Emil(?-?):所属部隊なし・階級なし。[ジームセン商会社長]。大阪時代の1915年3月25日、ベンク・ウント・クレッチュマー商会社長のベンク(Benk)とともに陸軍省に宛てて請願書を提出した。それはディーデリヒセン商会社長等青島の大商人6名が、俘虜として送還される前の2ヵ月間ほど用務整理の期間を与えられたことから、自分たちにもその機会を与えるべく2,3ヶ月の青島帰還の許可を願うものであった【『欧受大日記』大正十一年一月より】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュテッティン出身。(4531:大阪→似島)
1002) Hoeft(ヘフト),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代の1916年10月、バール(Alwin Bahr)、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(Paul Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Max Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で徳島市の円藤鉄工所に鋳物等の労役で派遣された。1日8時間、賃金・期間は不明。板東時代の1918年5月2日、東久邇稔彦王が四国旅行で徳島に立ち寄った際、急遽撫養で俘虜による作品展示会が特別に開催された。その折ヘフトは錨のモデルを制作出品し、それが買い上げられた。他に、ボーン、グヌシュケ、クヴィンテン(Quinten)の作品も買い上げられた。また、タパタオの14号小屋でシュトリーツェルと鍛冶屋、金属加工を営んだ。エルザスのカイザースベルク(Kaysersberg)出身。(4170:「大阪→」徳島→板東)
1003) Hohn(ホーン),Eduard(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。板東時代、工芸品展に計算尺およびラケート(Raket)と共同による写真の引き延ばし機を製作・出品した。またミュラー(Mueller)少尉の企画によるルンプ(Rumpf)少尉とホーンの住宅モデルが、収容所賞第3位に輝いて賞金3円を獲得した。オルデンブルクのリュストリンゲン(Ruestringen)出身。(4178:「大阪→」徳島→板東)
1004) Höhne(ヘーネ),Kurt(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。板東時代、第5棟7室でビール販売を営んだ。解放後は蘭領印度に渡った。ライプチヒ出身。(2910:松山→板東)
1005) Holch(ホルヒ),Heinrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備上等歩兵。1919年4月、東京石鹸株式会社で石鹸製造の指導を行った。ハインリヒ・ハム(Hamm)と親しかった。習志野時代、ハムが没収を警戒して秘密の箱に隠しておいたその日記を、ハムに頼まれて時折取り出してはハムに渡していた。1918年9月21日、ハム、ホルヒ、ハスラッハー(Hasslacher)及びリーガー(Rieger)の四人の四阿が完成すると、ホルヒとハムは籤で北側の部屋になった【「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。シュヴェービッシュ・ハル出身。(92:東京→習志野)
1006) Holeczy(ホレチ),Istvan(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ホレチのグループは金属加工部門で、墓石、煙草道具、燭台、裁縫箱等14点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』74-75頁】。ハンガリーのユソルナ(Ujzsolna)出身。(2234:姫路→青野原)
1007) Holona(ホロナ),Alois(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。似島時代の1918年の聖霊降臨祭の記念絵葉書を作画した【高橋スタンプ商会のHP「第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 98」を参照:http://www.takahashistamp.com/2note98.htm】。また1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会に際して、美術部門の絵画に油絵模写の風景画2点を出品した。また、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。ホロナの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真10〕参照】。なお、ホロナの足元にはサッカーボールが置かれている。鮮やかな白い文字で、「D.Mannschaft OSAKA -1916-」(大阪チーム、1916年)と記されている。シュレージエンのリュブニク(Rybnik)出身。(3917:大阪→似島)
1008) Holstein(ホルシュタイン),Franz(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備上等兵。『久留米収容所俘虜文集』(Dichtungen von Kriegsgefangenen des Lagers Kurume-Japan)の印刷を担当した。エッセン出身。(490:久留米)
1009) Holstein(ホルシュタイン),Walter von(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオで写真屋を営んだ。また1918年3月8日から19日の「展覧会」では主催者役を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(2903:松山→板東)
1010) Holtkamp(ホルトカンプ),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代に「徳島演劇協会」を結成し、板東では演芸会開催時にリースマン(Liessmann)と共に裏方で活躍した。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時27歳)、2時間26分19秒5分の3で85人中の第16位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ゲーステミュンデ(Geestemuende)出身。(4168:「大阪→」徳島→板東)
1011) Holtkamp(ホルトカンプ),Johannes(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その右から二人目にホルトカンプが写っている】。ゲルゼンキルヒェンのゼーフィングハウゼン(Sevinghausen)出身。(461:久留米)
1012) Holzwart(ホルツヴァルト),Friedrich(1888-1968):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備2等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。バーデン=ヴュルテンベルクのバックナング(Backnang)出身。(4375:「熊本→」大分→習志野)
1013) Homann(ホーマン),Hugo(1889-1978):第3海兵大隊参謀本部・補充予備兵。松山時代、山越の日曜講演会で「マーガリン製造」と題して講演した。ドイツに帰国後結婚して、息子と娘それぞれ二人ずつをもうけた。郷里ディッセン(Dissen)で食料品店有限会社フリッツ・ホーマン(Fritz Homann AG)の共同経営者となり、やがてディッセン市名誉市民、グアテマラ共和国領事、ドイツ連邦共和国第十字勲章を授章し、1935年及び1939年の「チンタオ戦友会」開催スポンサーとなり、1960年頃の「チンタオ戦友会」にも出席した。トイトーブルクのディッセン(Dissen)出身。(2928:松山→板東)
1014) Hoenemann(ヘーネマン),Richard(?-?):海軍野戦砲兵隊・副衛兵長。1914年11月7日、降伏申し入れに向かう軍使カイザー(Kayser)少佐のラッパ手として、日本軍本部陣地のある台東鎮に赴いた。松山時代は大林寺に収容された。大林寺でやがて合唱団が結成されたが、唯一の音楽家としてのヘーネマンが団長となり、指導に当たった。この合唱団は1915年夏に解散したが、折に触れて集合した。板東時代、誘いのあったエンゲル(Paul Engel)の楽団への合流を当初は頑なに拒んだ。しかし、1917年10月21日、ラムゼーガー夫妻の俘虜収容所訪問に際して演奏されたラムゼーガー作曲のオペラ『忠臣蔵』では、「エンゲル・オーケストラ」でラッパを高らかに吹いた。ザーレ河畔ハレのシュケナ(Schkoena)出身。(2922:松山→板東)
1015) Höner(ヘーナー),Peter(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1915年10月22日、習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのニーダー=メンディヒ(Nieder-Mendig)出身。(1114:福岡→習志野)
1016) Hopp(ホップ),Alfred(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・予備陸軍工兵少尉。[中国ジーメンス北京支店・技師]。1903年10月18日第7鉄道大隊予備少尉。1914年11月9日の青島開城交渉ではドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。熊本時代の1914年12月15日、中川ワカ(22歳)が訪れて面会を希望したが、衛戍司令官からの許可が下りなかった。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年6月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、57⅓点を獲得して第10勝者になった。ドルトムント出身。(3377:熊本→久留米)
1017) Hoppe(ホッペ),Max(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1914年9月28日、ヴァルダーゼー高地で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、ホッペはこの時点で片足を失っていて、木製義足を使用していると記されている。ゲーラ出身。(469:久留米)
1018) Hörmann(ヘールマン),Heinrich(1876-?):国民軍・上等歩兵。[港湾管理局]。オルデンブルク近郊のアーペン(Apen)出身。(2930:松山→板東)
1019) Hornung(ホルヌング),Ernst Rudolf(1893-1967): 海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1913年10月ククスハーフェンの第3海兵大隊本部に入った。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。カールスルーエ郡のブルッフザール(Bruchsal)出身。(1140:福岡→名古屋)
1020) Höss(ヘス),Gottlob(1892-1975):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。マイレンダー(Mailänder)が第二次大戦後に接触した人物【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ネッカルテンツリンゲン(Neckartenzlingen)出身。(1096:福岡→大分→習志野)
1021) Hövel(ヘーヴェル),Bernhard(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点121で初級2位になった。ヴェストファーレン出身。(472:久留米)
1022) Hoyer(ホイアー),Christian(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[アーレンス継続社神戸支店]。大戦終結して解放後は、蘭領印度のバタヴィアに渡った。ブレーメン出身(『俘虜名簿』では神戸)。(2927:松山→板東)
1023) Hubbe(フッベ),Fritz(1887-1918):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等水兵。1918年6月21日、板東収容所北東約4キロにある樋殿谷(ひどのだに)の溜池で、遊泳中に心臓麻痺を起こして死亡した。樋殿谷伐採場で材木運搬に従事し、汗を流すために溜池に入って遊泳、池の中央付近で突然水の中に沈んでしまったのであった。二日後に池の底から引き揚げられた遺体は、日本当局の規定により火葬に付された。フッベ追悼の記事が『バラッケ』第2巻第14号(1918年6月30日号)に掲載された。それによるとフッベは、郷里マグデブルクでケーキ職人として徒弟時代を過ごした後に船舶業務に就き、北ドイツ・ロイド汽船の船に乗り込み、やがてロンドンに滞在し、戦争直前に天津に来て応召したとのことである。マグデブルク出身。(4179:「大阪→」徳島→板東)
1024) Huber(フーバー),Adolf(1893-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術部門の写真で、大阪俘虜収容所の写真10点を出品した。解放後は蘭領印度のバタビアに渡り商人として働いた。1923年7月1日、ヴェルテヴェルデン(Weltevreden)でシャルロッテ・ヴェステカンプ(Charlotte Westerkamp) と結婚して子供二人をもうけた。1924年と1928年、短期間郷里に戻った。1946年12月21日の国外追放後、再び郷里に帰った。1963年11月21日バート・ヘルスフェルト(Bad Hersfeld)へ移った。ヘッセンのフリートベルク(Friedberg)出身。(3916:大阪→似島)
1025) Huber(フーバー),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵伍長。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の写真部門で、兵営・肖像・スポーツ等の写真20点を、また工芸部門で大阪収容所のモデルや青島戦没者のための記念碑等4点、金工部門で火箸付火鉢を出品した。バーデンのボールスバッハ(Bohlsbach)出身。(3909:大阪→似島)
1026) Huber(フーバー),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[フーアマイスター(Fuhrmeister & Co.)上海支店]。小学校を終えた後、一年間職業補習学校で鞣革の学習をして、ミュンヘンの皮革製造会社に就職した。その後上海のフーアマイスター商会に勤めた。ミュンヘン出身。(1924:丸亀→板東)
1027) Huber(フーバー),Joseph(1893-1974):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。煉瓦積職人の子として生まれた。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。ドイツに帰国後の1924年11月18日アンナ・シュリントヴァイン(Anna Schlindwein)と結婚し、錠前師として働いた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カールスドルフ(Karlsdorf)で没した。ブルッフザールのカールスドルフ出身。(492:久留米→板東)
1028) Hubig(フービッヒ),Ludwig(1878-1945):海軍膠州砲兵隊第1中隊・上等掌砲兵曹。1878年に辻馬車の御者の子として、ザールブリュッケンに生れた。1897年11月4日、軍隊勤務に就いた。1902年6月24日、ヘルゴラント島出身のアンナ・オルセン(Anna Olsen)と結婚し、エーミール(Emil)、ハンス(Hans)、ヘルムート(Helmut)の息子三人が生れた。1909年3月1日、上等掌砲兵曹として青島に赴き、ブレーメン街(Bremerstraße)に住み、四男のヘルベルト(Herbert)はそこで生れた。1915年1月22日、妻子五人は「マンチュリア号」で青島を離れて故国に向かった。大戦終結して帰国後、会社員を経て、1935年から1945年まで、今日はザールブリュッケンに属す町の町長を務めた。66歳で軍務に志願し、1945年3月20日プファルツ地方のハーゲンバッハ(Hagenbach)で戦死した。シュミット氏のホームページには、青島の高橋写真館でのスナップ写真を始め、久留米時代の遠足、大戦終結後のスナップ写真等が紹介されている【シュミット氏】。ザールブリュッケン出身。(3386:熊本→久留米)
1029) Huebner(ヒュープナー),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、ヘンケ(Häncke)及びルフ(Ruff)とともに印刷技術の面で協力した。板東時代、大麻地区周辺の植物採集を行い、また板東小学校の下村一衛教諭に採集法も指導した。ベルリン出身。(4181:「大阪→」徳島→板東)
1030) Hügenell(ヒューゲネル),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊。2等砲兵。1915年12月、宣誓解放された。エルザスのラウヴァイラー(Rauweiler)出身。(1121:福岡)
1031) Hühn(ヒューン),Karl Gustav(1893-1963):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヒューンは、クラリネットを受け持った。ドイツに帰国後の1922年、エリーザベト・ヴァイス(Elisabetha Weiß;1899-1965)と結婚して子供二人をもうけた。バーデンのクーバハ(Kuhbach)出身。(481:久留米)
1032) Hulesch(フレッシュ),Stefan(1893-?):オーストリア巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等按針下士。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ウィーン出身。(2223:姫路→青野原)
1033) Hülsenitz(ヒュルゼニッツ),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[東アジア・ロイド新聞社]。板東時代、ムッテルゼー(Muttersee)と共同で『1920年用故郷カレンダー』(Heimatkalender 1920)を石版印刷し、また『板東俘虜収容所案内記 1917/8』(Adressbuch für das Lager Bando 1917/8)を収容所内印刷所から出版した。ベルリン出身。(1925:丸亀→板東)
1034) Hummel(フンメル),Alfred(1893-1973):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハイルボルン出身。(2917:松山→板東)
1035) Hümmer(ヒュンメル),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。解放後は蘭領印度に渡った。上部フランケンのドンドルフ(Donndorf)出身。(3910:大阪→似島)
1036) Humpich(フムピヒ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・砲兵軍曹長。徳島時代、収容所の調理長を務めたが、1916年8月始めからクランツ(Kranz)と交代した。板東時代、収容所炊事部2の下士官を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オルデンブルクのリュストリンゲン出身。(4166:「大阪→」徳島→板東)
1037) Hunckler(フンクラー),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門で、解析幾何学の教科書を出品した。上部エルザスのアンマーシュヴァイアー(Ammerschweier)出身。(3915:大阪→似島)
1038) Hundertmark(フンデルトマルク),Carl(?-?):国民軍・卒。[プリンツ・ハインリヒ・ホテル支配人]。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に送られた。妻フリーダ(Frida)は息子二人、娘二人(内一人は12歳以下)と大戦終結まで青島に留まった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(4680:大阪→似島)
1039) Hünecke(ヒューンエッケ),Carl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ上海支店]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(2904:松山→板東)
1040) Hunte(フンテ),Karl(?-?):第3海兵大隊第3中隊・副曹長。妻リーナ(Lina)は二人の子(ともに12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。ヴェストファーレンのリュベッケ(Luebbecke)出身。(482:久留米)
1041) Hunzelmann(フンツェルマン),Albert(1887-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・軍曹。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。「14歳ニシテノルトハイムノ小学校ヲ卒業シ後三ヶ年乳精教習所ニ於テ乳精乾酪製法ヲ学ヒ1907年10月ノ兵役迄乳精技手トシテ従事シ後独立乳精場ヲ経営ス、精乳製法チーズ製法、牛畜、豚畜ヲ特技トス」【「北海道移住」より】。ハノーファーのノルトハイム郡ヘーケルハイム出身。(1143:福岡→名古屋)
1042) Huppertz(フッペルツ),Max(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、リスト(List)とタパタオの3号小屋で菓子店を営んだ。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において、フッペルツ(28歳)2時間36分41秒5分の3で52位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。クレーフェルト(Crefeld)出身。(1906:丸亀→板東)
1043) Huse(フーゼ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第3中隊・軍曹。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。10月9日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた内の第1班の班長を務めた。テューリンゲンのミュールハウゼン近郊出身。(483:久留米)
1044) Huth(フート),Louis von(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日、青野原へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡った。ライン河畔のクリップ(Kripp)出身。(1122:福岡→青野原)
1045) Ibler(イブラー),Franz(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、習志野劇場による「トーマの夕べ」で、トーマ作の1幕物田舎茶番劇『一等車』に運転手役で出演した。ミュンヘン出身。(106:東京→習志野)
1046) Ide(イーデ),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。イーデの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真10〕参照】。解放後は蘭領印度に渡ったが、1922年にはドイツに戻った。ブランデンブルクのハーゼルホルスト(Haselhorst)出身。(3934:大阪→似島)
1047) Iffli(イフリ),August(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等工兵。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた。宣誓解放された。ロートリンゲンのアルトリス(Altris)出身。(4533:大阪→似島)
1048) Ihrig(イーリヒ),Adam(1891-1974):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。解放後は蘭領印度に渡った。結婚して子供が一人いた。1968年(?)の「チンタオ戦友会」に出席した。ダルムシュタット出身。(4187:「大阪→」徳島→板東)
1049) Ilgner(イルクナー),Richard(1892-1954):砲艦ヤーグアル乗員・2等焚火兵。ザクセンのガルデレーゲン(Gardelegen)出身。(107:東京→習志野)
1050) Imberg(イムベルク),Richard(?-?):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、イプセン作の『国民の敵』に出演した。ミュンヘン出身。(1160:福岡→久留米)
1051) Immerheiser(イムマーハイザー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、第6棟3室でビールとタバコの販売店を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ビンゲン出身。(1931:丸亀→板東)
1052) Irmer(イルマー),Fritz(?-?):砲兵兵站部・2等掌砲兵曹。妻エルナ(Erna)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(2237:姫路→青野原)
1053) Iserlohe(イーゼルローエ),Paul(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。郵趣家イェキッシュ氏所蔵になるイーゼルローエの日記が、生熊文氏の抄訳で『ドイツ軍兵士と久留米』(137-141頁)に紹介されている。紹介されている部分は、1914年10月9日から1915年3月3日までである。到着早々の10月15日の記述には、日本の僧侶等の団体が定期的にお土産を持参して面会に来たこと、また婦人会が訪れてプレゼントを直に手渡したことが記されている。リュートゲン=ドルトムント(Lütgen-Dortmund)出身。(513:久留米)
1054) Isolap,(イソラプ)Georg(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。東カロリン群島のポナペ島原住民。1911年8月1日、ポナペ島から青島の造船所で鍛治職として修業し働いていた。日独戦争勃発とともに砲艦ヤーグアルに乗り組んだが最終的に俘虜となった【『ドイツ兵士の見たNARASHINO』91頁】。1919年10月25日付けの「習志野俘虜収容所ニ収容中ナル南洋人俘虜ニ関スル件照会」によれば、第2代習志野俘虜収容所長山崎友造からの要請で、他のドイツ人俘虜より早めに解放されたと思われる。2006年末にシュミット氏によって、「アジア歴史資料センター」にイソラプ等ポナペ島出身者三名が解放の際に書き記した経歴書が発掘された。それによればイソラプは農場主「Piter Isolap」の息子となっているので、『俘虜名簿』の「ゲオルク」は名前で、イソラップ「Isolap」が苗字と受け取られる。東カロリン群島のポナペ島出身。(85:東京→習志野)
1055) Israel (イスラエル;後に Jürgensen),Robert(?-1940):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ドイツに帰国後は妻エンマ(Emma)と革製品の店を営んだ。娘一人と息子二人がいた。1933年、政治的な圧迫から苗字をユルゲンセン(Jürgensen)に変えた。しかし、ユダヤ系ではなく、ユグノー派の出であった。収容所生活の後遺症で死亡したと思われる。ハンブルク出身。(1158:福岡→習志野)
1056) Ivanoff(イヴァノフ),Valentin D.(1891-?):国民軍・卒。『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』(外務省外交史料館所蔵)によれば、1916年5月4日、ウラヂスラフ・コフラー(Wladislaw Koffler)という名のオーストリア人と称して青島に流れてきた。ロシア語以外ほとんど理解しなかった、と記されている。しかし、『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』(防衛研究所図書館所蔵)中の「獨逸及墺洪国俘虜捕獲及内地後送對照表」の「第三、其ノ他ノ俘虜」によれば、大正5年5月3日、長崎に着いた汽船山城丸の乗客に言動の怪しい人物がいることが判明し、5日に門司に入港した時点で取調べを行った。大阪収容所に収容後の取調べでは、時々刻々申し立てを変更した。やがて移された似島収容所における供述では、東普戦線で負傷し、ウラジオストックに戻って義勇艦隊ペンザ号に乗り組んだがやがて脱走した。日本に収容されることを意図してのことであった、と記されている。『俘虜名簿』で唯一「釈放」と記載されている人物である。ロシアのオムスク(Omsk)出身。(4713:大阪→似島)
1057) Jäckel(イェッケル),Heinrich Christian Wilhelm(1893-1968):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1912年青島へ赴いた。日独戦争では頭と腹に傷を負った。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ドイツに帰国後の1922年1月26日シャルロッテ・ワーグナー(Charlotte Wagner)と結婚して、息子三人をもうけた。妻の里のリンデヴェラ(Lindewerra)で料理屋「葡萄亭」を営んだ。ヘッセン=ナッサウのオーバーリーデン(Oberrieden)出身。(1168:福岡→習志野)
1058) Jacob(ヤーコプ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[天津のカール・ヴォルフ(Carl Wolff)]。丸亀時代の1915年7月8日、第1ヴァイオリンのエンゲル(Engel Engel)、第2ヴァイオリンのモルトレヒト(Moltrecht)、第3ヴァイオリンのライスト(Leist)、第1フルートのヘス(Hess)、第2フルートのヤーコプ及びオルガンのクラーゼン(Claasen)の6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「保養楽団」の名称で、1915年1月10日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団】が成立した。板東時代はエンゲル・オーケストラの団員で、フルートを担当した。また収容所の印刷所から『エンゲル・オーケストラその生成と発展 1914-1919』の本を出版した。その「まえがき」には、ヘルマン・ハーケ(Hermann Hake)の勧めによって執筆に至ったことが記されている。ベルリン出身。(1936:丸亀→板東)
1059) Jacob(ヤーコプ),Wilhelm(1890-1956):国民軍・卒。ゲッティンゲンで没した。リッペ=デトモルトのエルダー(Erder)出身。【『俘虜名簿』では「Jakob」となっているがシュミット氏の表記に倣った】。(4536:大阪→似島)
1060) Jacobi(ヤコービ),Jacob(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。大阪収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた。宣誓解放された。下部エルザスのオーバーモデルン出身。(4535:大阪→似島)
1061) Jacobi(ヤコービ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備伍長。1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。ローマン(Lohmann)の遺品と思われる写真中に、ヤコービ、ブルベルク(Burberg)、及びローマン(Lohmann)の三人が、寺の山門を通り抜けて手歩いて来る様子を写した写真が現存している【ローマンの項参照】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハイデルベルク出身。(3401:熊本→久留米→名古屋)
1062) Jäger(イェーガー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、収容所正門の外のすぐ近くにあった「小松ジャム製造所」の所長を務めた。販売はシュタール(Stahl)が担当した。バルト海沿いのミゼトゥロイ出身。(2939:松山→板東)
1063) Jahn(ヤーン),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等按針下士。姫路時代の1915年2月23日、景福寺の収容所からリップスキー(Lippsky)、レッシュ(Resch)の三名で脱走を企て、禁錮9ヶ月の処罰を受けた。当時22歳だった。オーストリアのメーリッシュ=ロートヴァッサー出身。(2247:姫路→青野原)
1064) Jahn(ヤーン),Karl(1890-1959):海軍砲兵中隊・1等水兵。[屠畜職人]。習志野時代、1918年2月18日から他の4名のソーセージ職人と、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の飯田吉英技師の求めに応じて、ソーセージ造りの秘伝を教えた。この技術は農商務省の講習会を通じて全国の食肉加工業者に伝わり、習志野は日本におけるソーセージ製造の発祥地となった。当初彼は伝授を躊躇ったが、西郷寅太郎所長の熱心な要請に応じて公開した。「俘虜労役ニ関スル件」(欧受大日記大正8年9月)によれば、東京市芝区三田二丁目七番地の合名会社木村屋商店に雇用されたものと思われる。この文書には、「労役俘虜 海軍一等水兵カール・ヤーン 同二等水兵トーマス・ペーテルゼン。労役ノ種類 腸詰製造作業。場所 千葉県東葛飾郡船橋町堵殺場構内。時間 自午前八時 至午後四時(日曜日祭日ヲ除ク)。賃金 日給壱円」と記述されている。大戦終結後は、日本内地での契約が成立していたため日本で解放された。なお、同じ「欧受大日記」(大正8年11月)によれば、東京市神田区三崎町一丁目の東京牛乳株式会社に腸詰製造作業で雇用された。やがてドイツに帰国後ローザ・パプスト(Rosa Pabst)と結婚して息子一人をもうけた。1959年12月31日、ザールフェルトで没した。ザールフェルト(Saalfeld)出身。(313:東京→習志野)
1065) Jahn(ヤーン),Walter(1891-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備砲兵伍長。[上海総領事館]。板東時代、砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。解放後は蘭領印度に渡った。ベルリン郊外のテルトウ出身。(4188:「大阪→」徳島→板東)
1066) Jaehne(イェーネ),Paul(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(長建寺収容)の1916年10月7日の夜、垣根を越えて他の収容所行こうとしたとして、重営倉10日に処せられた。ドレスデン出身。(2936:松山→板東)
1067) Jaehnert(イェーネルト),Fritz(1888-?):第3海兵大隊第1中隊・予備副曹長。久留米時代は演劇活動で、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等6演目に出演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザーレ河畔のナウエンブルク出身。(3394:熊本→久留米)
1068) Jakob(ヤーコプ),Ferdinand(?-?):所属部隊不明・階級不明。[巡査]。トイピッツ近郊のトルノウ出身。(2948:松山→板東)
1069) Jakob(ヤーコプ),Johann(1892-1918):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1918年11月14日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。メルズンゲン郡のヴァイデバッハ出身。(2574:名古屋)
1070) Jakobi(ヤコービ),Heinz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ドイツ・アジア銀行神戸支店]。ポツダム出身。(2942:松山→板東)
1071) Jakoby(ヤコービ),Johann(?-?):国民軍・上等歩兵。[徴税台帳記録係]。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)に住んでいた。板東時代、板東俘虜収容所の詳細な地図(625分の1)を作成・印刷した(1919年4月1日付け)。今日1葉(Blatt 1)のみが残されている。その地図によれば、タパタオ区域は正門を入って左手の塀沿いにあった。妻ベルタ(Berta)は息子二人娘一人と、大戦終結まで青島に留まった。トリーア近郊のノイマーゲン出身。(2946:松山→板東)
1072) Jandeleit(ヤンデライト),Joseph(1892-1979):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。アーヘンのシュトルベルク(Stollberg)出身。(509:久留米)
1073) Janell(ヤネル),Paul(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・1等機関兵曹。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ノイブランデンブルク出身。(3410:熊本→久留米)
1074) Jann(ヤン), Fritz Ferdinand(1891-?):第3海兵大隊機関銃隊・伍長。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。後にジャワ島バタビアの警察学校に勤務した。ケーニヒスベルク出身。(2571:名古屋)
1075) Jaensch(イェンシュ),Albert(1893-?):海軍砲兵中隊・2等木工。キール郡のガールデン(Gaarden)出身。(1737:静岡→習志野)
1076) Jansen(ヤンゼン),Gustav Adolf(1888-1915):海軍野戦砲兵隊・予備副曹長。ローマン(Lohmann)の遺品中には、ヤンゼン、ローマン、エンゲルホルン(Engelhorn)、カルクブレンナー(Kalkbrenner)、シュテフェンス(Walter Steffens)、シュテーゲマン(Stegemann)の六人が、冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところに、思い思い居並んで座っている写真が遺されている【ローマンの項、及び〔写真7〕を参照】。また、雪が積もった日(1915年1月15日と思われる)に、「名古屋俘虜収容所□□所」の表札が下がった門の外で、雪の上に立っている写真も遺されている。1915年2月13日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ビアリュストク近郊のスプラスル出身。(2576:名古屋)
1077) Janson(ヤンゾン),Ludolf(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本国内で解放された。東京の松方家に執事ないしは書生として就職した。ブレーメン出身。(1173:福岡→名古屋)
1078) Janssen(ヤンセン),Bernhard(1891-1927):海軍東アジア分遣隊第1中隊・伍長。1914年10月2日、四房山で俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。当時24歳。12日、久留米に到着した時の新聞記者との談話によれば、陸軍に入る前に海軍で勤務し、長崎を訪れたことがあり、日本の風俗等にも多少通じている。俘虜虐待などないことを確信していると語った。【『大正ニュース事典』第1巻437頁】。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。心臓麻痺によりジャワで没した。シュターデ河畔のビュッツフレート出身。(517:久留米)
1079) Janssen(ヤンセン),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハノーファー近郊のヴェスターフーゼン出身。(3938:大阪→似島)
1080) Janssen(ヤンセン),Peter(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備伍長。広東から応召した。板東時代、収容所合唱団の指揮者を務めた。また板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時30歳)、2時間32分10秒で33位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。東フリースラントのノルデン(Norden)出身。(1935:丸亀→板東)
1081) Jarling(ヤールリング),Hans(?-?):総督府・2等電信生。ヤールリングの手になるものと思われる「日記」の断片が遺されている。【従来、いくつかのドイツの文献で「Hans Farling」の「日記」とされていたものは、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏の丹念な『俘虜名簿』精査によって、ハンス・ヤールリングの誤記ではないかとの疑義がだされた。詳細に検討したところ、(1)1914年11月16日に門司からさらに船に乗っていること(2)翌朝広島港に着いたこと(3)11月19日には約300名のグループとなり、更に列車で向かうこと(4)午後1時に姫路に着いたこと。以上の記述(39頁)から、当初は姫路収容所に収容された俘虜であることが明白である。ケルステン(Hermann Kersten)かと目されたが、ケルステンは福岡俘虜収容所から青野原俘虜収容所に収容された俘虜で、姫路とは関わりが無い】。ベルリン郊外のヴァイセンゼー出身。(2242:姫路→青野原)
1082) Jarmuske(ヤルムスケ),Volkmar B.(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、笑劇『チャーリーの叔母』に女役で出演した。上部シュレージエンのクロイツブルク出身。(3402:熊本→久留米)
1083) Jaschok(ヤショク),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた。ヴェストファーレンのレックリングハウゼン出身。(3940:大阪→似島)
1084) Jaspersen(ヤスペルゼン),Julius(1875-?):第3海兵大隊第6中隊・後備陸軍少尉。〔湛山堡塁〕。満州の牛荘(ウンチャン)から応召した。松山時代の1915年7月26日、陸軍大臣の通達を伝達する際、命令を信奉しなかった科により、29日に重謹慎5日に処せられた。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ブロイニンゲル(Braeuninger)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)、カルステンス(Carstens)、ニールゼン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。ドイツ北部シュレースヴィヒ・ホルシュタインのハーデルスレーベン(後にデンマーク領ハーデルスレーフ)出身。『中国におけるあるドイツ人商人の仕事と冒険』(Do Mau.Arbeit und Abenteuer eines deutschen Chinakaufmanns,Leipzig,Verlag E.A.Seemann,1936)の著書がある。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒのハデルスレーベン(Hadersleben)出身。(2937:松山→板東)
1085) Jasse(ヤッセ),Carl:第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン香港支店]。エッセン出身。(2941:松山→板東)
1086) Jauch(ヤオッホ),Joh.G.(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュヴェニンゲン(Schwenningen)出身。(4634:大阪→似島)
1087) Jauch(ヤオッホ),Otto(1893-1981):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。[電気技術者]。ドイツに帰国後の1921年、イーダ・リューディガー(Ida Rüdiger)と結婚して子供6人をもうけた。レンプテンドルフ(Remptendorf)出身。(109:東京→習志野)
1088) Jebram(イェブラム),Karl(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点135⅓で中級3位になった。ミュンヘン行政区フントハム(Hundham)村のウスダウ(Usdau)出身。(1177:福岡→久留米)
1089) Jebsen(イェプセン),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[ディーデリヒセン漢口支店]。松山時代(公会堂収容)の1916年9月12日、収容所職員の命令に従順でないことから、重謹慎20日に処せられた。なお松山時代の後半、ドイツが負けたら故郷がデンマーク領になることを見込んで、デンマーク語を勉強し直すことを決意したが、一人ではやる気が起こらないと、ヴィーティング(Wieting)を誘って一緒に勉強した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのイツェホエ(Itzehoe)出身。(2938:松山→板東)
1090) Jeg(イェーク),Wilhelm(?-?):第1水兵師団第9中隊・2等測量兵。松山時代の1915年10月26日、夕食の際に寝具に煙草とマッチを縫い付けて、入倉中の同僚に贈ろうとした科で、翌27日に重営倉6日に処せられた。ミュールハイム出身。(2947:松山→板東)
1091) Jellovcic(イェロヴチッチ),Anton(?-?):巡洋艦皇后エリ―ザベト乗員・1等水兵。1919年9月9日青野原で死亡、姫路陸軍墓地に埋葬された。大戦終結後、遺骨の引き取り手がなかったために、名古山霊園内の旧陸軍墓地に、ゴモルカ(Gomolka)およびヴィータ(Vita)とともに葬られている。オーストリアのスブルド(Sbrdo)出身。(2254:姫路→青野原)
1092) Jennewein(イェンネヴァイン),Oscar(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・上等砲兵。1904年頃から満州で働き、1909年頃から中国の福州の英米煙草会社に勤めた。1909年12月10日、福州から従兄弟に宛てて書いた手紙が遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。トリーア近郊のノインキルヒェン出身。(1738:静岡→習志野)
1093) Jensen(イェンゼン),Hans A.(1880-1979):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備副曹長。[天津ドイツ中学校]。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第2ヴァイオリンを担当した。また1917年7月17日に発足した「収容所保険組合」に第6中隊代表となり、かつ「保険組合」の会長を務めた。また収容所合唱団でテノールを担当した。妻子は大戦中も天津で過ごした。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのカイトム(Keitum)出身。(2945:松山→板東)
1094) Jeppel(イェペル),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、イェペルのグループは34種類の焼き菓子等を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』83-84頁】。ドゥイスブルク出身。(1169:福岡→青野原)
1095) Jepsen(イェプセン),Hans H.(?-?):第3海兵大隊第7中隊・第2後備伍長。〔シュヴァルツコプフ商会青島支店〕。ハンブルク出身。(4380:「熊本→」大分→習志野)
1096) Jepsen(イェプセン),Julius(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルセン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、カルステンス(Carstens)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、ニールセン(Nielsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。フレンスブルク出身。(3939:大阪→似島)
1097) Jeschke(イェシュケ),Oswald(?-?):第3海兵大隊第2中隊・副曹長。松山時代(大林寺収容)の1916年9月19日、ヴンダーリヒ(Wunderlich)から上海に居住するツィンマーマン(Otto Zimmermann)の妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し、イェシュケは重謹慎10日の処罰を受けた。他の4名はゲルビヒ(Gerbig)、マイアー(Otto Meyer)、シャイダー(Scheider)、ツィンマーマン(Otto Zimmermann)である。キール出身。(2933:松山→板東)
1098) Joch(ヨッホ),Reinhold Wilhelm(1893-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。解放後は蘭領印度に渡り、農園主になった。リーゼ・コンユング(Luise Konyung)と結婚して子供二人をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゾーリンゲン出身。(4289:「大阪→」徳島→板東)
1099) Jocher(ヨッヘル),Anton(1890-1961):第3海兵大隊第2中隊・伍長。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」団員で、クラリネットⅠ、後にⅡを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。バーデンのビシュヴァイアー(Bischweier)出身。(1932:丸亀→板東)
1100) Jock(ヨック),Adolf(1892-1962):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。バーデンのブレッテン(Bretten)出身。(518:久留米)
1101) Johannes(ヨハネス),Hugo(?-1919):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1919年1月31日、スペイン風邪により習志野で死亡。テューリンゲンのシュマルカルデン(Schmalkalden)出身。(1164:福岡→習志野)
1102) Johannsen(ヨハンセン),Jakob(?-?):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。1885年5月から1888年までフレンスブルクに居住、1888年から1910年までリンゲン(Lingen)に居住、1910年4月から1914年4月までフレンスブルクに居住【『俘虜ニ関スル書類』より】。フレンスブルク出身。(2943:松山→板東)
1103) Johannsen(ヨハンセン),Martin(?-?):国民軍・卒。〔ミネラルウオーター製造会社「健康泉」経営〕。青島時代はブレーメン街264番地に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。解放後は青島に戻った。シュレースヴィッヒ=ホルシュタインのブルンスビュッテラー(Brunsbütteler)出身。(4681:大阪→似島)
1104) Johannsen(ヨハンセン),Peter(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代の1919年8月、在京スイス公使宛に解放に関する信書を出した。1919年6月28日に締結されたヴェルサイユ条約により、ドイツ領からデンマーク領に編入されたアーベンラー(独名アーペンラーデ;Apenrade)出身。(3408:熊本→久留米)
1105) John(ヨーン),Hermann(?-?):国民軍・卒。青島時代はテティス街(Thetisstraße)に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。ケーニヒスベルク出身。(4682:大阪→似島)
1106) John(ヨーン),Victor(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ボルネマン商会(F.Bornemann & Co.)香港支店]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(2940:松山→板東)
1107) Johnson(ヨーンゾン),Rolf(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。バールト(Barth)の中国時代からの知り合いで、アスレチックの体操家だった。父親はデンマーク人であったがドイツの軍隊で働いていた。あるイギリス人娘と結婚することになって初めて自分がドイツ国籍を持たないことを知る。いずれの国籍を選ぶか悩み、最終的にはドイツ国籍を選んだ。結婚して二、三ヶ月後に大戦勃発し、青島に赴き、ドイツ軍部隊で働く。第一次大戦終了後、再び中国に出かけ、まもなくその地で没した。収容所時代から酒を飲みすぎたのが原因と言われた。【ヨハネス・バールト『極東のドイツ人商人』(Barth,Johannes:Als deutscher Kaufmann in Fernost)40頁】。ザクセン=マイニンゲンのゾンネベルク出身。(1174:福岡→名古屋→板東)
1108) Jordan(ヨルダン;-Gamino), Johannes(1889-1973):第3海兵大隊野戦砲兵隊・伍長。ヴェッツラー(Wetzlar)等で教職のための勉強をしたが1909年海軍砲兵隊に入隊した。解放後は蘭領印度に渡り巡査になったが、後にジャワのスカブミ(Sukabumi)で警察学校の指導者となり、最終的には警察部中将になった。1973年9月24日スカブミで没した。マイン河畔のオーバーリーダーバッハ(Oberliederbach)出身。(3399:熊本→久留米)
1109) Jorra(ヨラ),Julius(1893-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。ドルトムント出身。(512:久留米)
1110) Juchheim(ユーハイム),Carl(1889-1945):国民軍・卒。1889年12月25日、ライン河畔の町カウプに13人兄弟の10番目として生まれた。父はビール醸造職人のマイスターだった。シュトラールズントの菓子店で修業し、1908年職業学校を卒業して菓子職人になると、その年青島で菓子店と喫茶店を営むドイツ人に招かれて赴任した。バウムクーヘンを得意とし、ここで菓子職マイスターの資格を得て青島のビスマルク街で菓子店を営んだ。1914年7月28日にニッケル(Nickel)副曹長を証人の一人として結婚式を挙げた。妻の名はエリーゼ(Elise)と言った。青島陥落時はニッケル夫人が二人の幼子を連れてユーハイム家に身を寄せていた。そこへ日本軍兵士三人が家に入り込んできた。しかし危害を加えることはなく、ニッケル夫人の二歳の子供に、角のある色とりどりの可愛らしい小さなお菓子を差し出した。エリーゼは機雷を連想して、毒かと思って立ちはだかると、兵士は自ら食べてみせた。兵士が去ったあとで口にするととても甘くておいしいお菓子で、それは「金平糖」であったという。1915年9月、非戦闘員であったユーハイムに召喚状が届き、俘虜として日本に送られることになり、9月20日大阪収容所に収容された。やがて11月4日に息子カール・フランツが青島の病院で生まれたことをユーハイムは収容所で知った。1917年2月18日、大阪俘虜収容所から似島俘虜収容所に移送された。1919年3月4日から広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催された俘虜作品展示即売会には、ヴォルシュケ(Wollschke)及びオトマー(Othmer)の勧め・励ましを受けてバウムクーヘンを出品し、市民の好評を博した。「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の30頁には、ユーハイムのバウムクーヘンのスケッチが掲載された【〔図2〕参照】。戦争終結まじかに、板東収容所の知友グロースマン(Grossmann)に似島や習志野収容所の動静を記した手紙を送った。青島に留まったエリーゼ夫人は困り果てた時幾度となく山田耕三大尉に訴え、その都度親切にしてもらった。大戦が終結しての1920年1月25日、エリーゼは息子カール・フランツを連れて青島から神戸に着いた。ユーハイムはやがて明治屋に就職し、銀座「カフェー・ユーロップ」の製菓主任になった。月給は350円で、当時としては破格の報酬であった。やがて独立して横浜山下町に菓子店「ユーハイム」を開業した。関東大震災で店は倒壊し、1923年神戸三宮に移って再出発した。一時健康を害してドイツに帰国したが再び来日し、第二次大戦中も日本に留まった。1945年6月5日の空襲で店は瓦解し、失意の内に8月14日六甲ホテルで死去した。息子のカール・フランツは第二次大戦に応召し、5月6日ウィーンで戦死した。戦後店は再建され、妻エリーゼ(1892-1971)の奮闘によって発展し、現在もドイツ菓子の店として広く知られている。【頴田島『カール・ユーハイム物語』等より】。芦屋市朝日丘の芦屋霊園に夫妻の墓がある。ポンメルンのリューゲン郡ガルツ(Garz)出身。(4683:大阪→似島)
1111) Jung(ユング),Julius(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月21日、名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カイザースラウテルン(Kaiserslautern)出身。(1171:福岡→名古屋)
1112) Jung(ユング),Julius Peter(1892-1957):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ドゥートヴァイラー(Dudweiler)出身。(3398:熊本→久留米)
1113) Jung(ユング),Wilhelm(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1916年9月16日、久留米収容所より情報局へ、ユング処罰の件について通報があった。ライン河畔のヴィンデスハイム(Windesheim)出身。(3406:熊本→久留米)
1114) Jungkurth(ユングクルト),Johannes(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。1916年10月21日、名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カッセル出身。(1166:福岡→名古屋)
1115) Junker(ユンカー),Adam(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代の1918年5月4日、『ヴァレンシュタインの陣営』上演に際して、甲騎兵を華やかに演じた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フランクフルト近郊のグリースハイム(Griesheim)出身。(2944:松山→板東)
1116) Juergens(ユルゲンス),Willi(?-?):国民軍・上等歩兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(2243:姫路→青野原)
1117) Kaden(カーデン),Willy Oswald(1892-1966):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。ザクセンのデンシュテン(Dönschten)出身。(4540:大阪→似島)
1118) Kahle(カーレ),Georg(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[マックス・ネスラー書店(Max Noeßler & Co. G.m.b.H.)上海支店]。板東時代の1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、クラリネットを担当した。また収容所内のタパタオでレストラン「クリスタル・パラスト」(水晶宮)をシューベルト(Schubert)と共同で経営した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー出身。(2963:松山→板東)
1119) Kahler(カーラー),Franz(1886-?):海軍砲兵中隊・海軍中尉。〔第4中間地掃射砲台並びに高角砲指揮官〕。鉄道線路上の移動中間掃射砲で、湾堤防上から日本軍に対して榴弾射撃を行った。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。デトモルト出身。(116:東京→習志野)
1120) Kaie(カイエ),Richard(?-1942):砲艦ヤーグアル乗員・2等電信兵曹。解放後は蘭領印度に渡ってオランダ・ガス商会に勤めた。1940年5月収容所に抑留され、1942年1月19日、他の市民捕虜477名とともにオランダ船「ヴァン・イムホフ(van Imhoff)」で英領印度へ送られたが、スマトラ海岸沖で日本の戦闘機の爆撃を受けて船は沈没した。その際400名以上が死亡したと思われ、その中にカイエも含まれていた。なお、オランダ側は如何なる救助の手も差し伸べなかった。ハンブルク出身。(144:東京→習志野)
1121) Kaiser(カイザー),Friedrich(1894-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、カイザーは1919年6月8日に開催されたサッカーの試合で活躍した。また、1919年10月22日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅跳び踏み切り台なし」では4.95mで1位になるなど、久留米のスポーツ大会で活躍した。キルヒハイム(Kirchheim)出身。(527:久留米)
1122) Kaiser(カイザー),Friedrich(1893-):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後、やがて1924年9月26日に蒸気船シュトゥットガルト号でアメリカに渡り、その地で没した。ミンデン郡のデーレン(Döhren)出身。(1945:丸亀→板東)
1123) Kalb(カルプ),Gottfried(1893-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ヘッセン=ナッサウのオーバーハイト(Oberhaid)出身。(549:久留米)
1124) Kalbe(カルベ),Friedrich(1892-1965):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等水兵。ドイツに帰国後の1926年10月16日エルザ・ヘルヒャー(Elsa Hercher)と結婚して娘一人をもうけた。郷里で没した。ザールフェルト(Saalfeld)出身。(4389:「熊本→」大分→習志野)
1125) Kalbrunner(カルブルンナー),Ludwig(1893-1971):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。ドイツに帰国後は石切り場で働き、その後森林監視官に就いた。1920年9月26日クリスチーネ・ヘーガー(Christine Heger、1895-1974)と結婚して息子二人をもうけた。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)99-100頁には、息子のルディ・カルブルンナー氏による父親カルブルンナーの姿が伝えられている。日本時代の記念品は全て戦災で焼失したとのことであるが、友人宛てに送った写真三枚が上記文献に掲載されている。それによれば、カルブルンナーは収容所時代に海軍サッカーチームとバーラウフ競技(陣取りゲーム)チームに属した。バーラウフ競技チームの写真には、アダムツェク(Adamzek)とともに写っている。ハイデルベルク近郊のライメン(Leimen)出身。(3445:熊本→久留米)
1126) Kalkbrenner(カルクブレンナー),Paul(1876-?):海軍野戦砲兵隊・予備副曹長。[商社員]。ハンブルクの貿易商社カール・ローデ商会の日本代表を務めていた。1902年12月に来日した。趣意書提出時点では、既に在日17年であった。妻は日本人女性で名前はミキ子といい、その間に三人の子があり、開戦前は横浜市海岸通り43のaに住んでいた。名古屋俘虜収容所を通じて、『獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書』(大正8年8月23日付け)を北海道帝国大学へ提出した。日本人に科学的な欧州農業経営を実地に示すために、北海道にドイツ人俘虜よりなる農場を開設する提案であった。「9歳迄家庭教師ニ就キ学ヒ後、ブロヒベツ市ノプロシヤ王国立実業科高等学校ニ入学シ大学入学資格ヲ得タリ、長男トシテ父ノ家業ヲ相続スルノ必要上三ヶ年父ノ農場ニ就キ実地農業ヲ修得セリ、後一年志願兵トシテポムメルン第二砲兵隊ニ入リ試験後、予備将校昇進資格ヲ得タリ、父ノ事業継承迄世界ヲ見ム為メハムブルヒ輸出入業会社ニ二ヶ年半就職ノ後1902年、カール・ローテ会社員トシテ神戸ニ来リ代表委任権ヲ得タリ、1908年カール・ローテ商会ニ属スル東京銀座サスガ商会ノ支配人トナリ世界大戦ニ至ル、戦争中父死シテ遺産悉ク義妹ノ夫ニ帰ス 然ルニ生涯商人タルノ志望ニ非ラス父ノ農業ヲ継承スルノ素志ナリシヲ以テ五ヶ年間ノ俘虜生活中外国移住ノ目的ニテ農業ニ関スル諸種ノ専門ヲ研究セシ、北海道農業企業ノ計画組織者タルト共ニ主催者タル者ナリ 肥料、耕作、及農業、工業ヲ特技トス」【「北海道移住」より】。ローマン(Lohmann)の遺品中には、カルクブレンナー、ローマン、エンゲルホルン(Engelhorn)、ヤンゼン(Jansen)、シュテフェンス(Walter Steffens)、シュテーゲマン(Stegemann)の六人が、冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところに思い思い居並んでいる写真が遺されている【ローマンの項、及び〔写真7〕を参照】。カルクブレンナー他、ハッセルバッハ(Hasselbach)、ホフマン(Hoffmann)、シュヴァルツ(Schwarz)、ザイフェルト(Seifert)、ゾンマーラット(Sommerlatt)の6名は、愛知県下の大地主数十名が創設した愛知産業株式会社と契約して、朝鮮蘭谷面で「機械農場」と称するドイツ式大農場の経営を始めることが、大正8年12月25日付け「名古屋新聞」で報じられた。そうした朝鮮行きの準備としてカルクブレンナーは、他の5名の計6名で愛知県農業技師だった野村新七郎の自宅庭に立てられた仮設住宅にゾンマーラット、ホフマン、シュヴァルツ、ハッセルバッハ、及びエートマンの6人で約3ヶ月住んだ。蘭谷での機械農場が本格的に起動する前に、カルクブレンナーはザイフェルトに続いて農場を去った。旧ドイツ人俘虜指導による朝鮮蘭谷(38度線から北に約100キロ、現在は北朝鮮の洗浦(セポ)郡)のドイツ式大農場(約40平方キロ)は、昭和7年3月31日で打ち切られ、その後は日本人中心の農場に変わった。その間の大正15年秋、シュヴァルツが病で没した。更にはウルバンスキー(ドイツ本国から招聘された技師)、ハッセルバッハの子供及び白系ロシア人の義父が死亡した【校條善夫「「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅱ」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号70-77頁」】。ホーエンザルツァー近郊のオーポク(Opok)出身。(2607:名古屋)
1127) Kalkof(カルコフ),Heinrich(?-?):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1919年10月22日に開催された「1919年スポーツ週間」の「5km競歩」(参加者9名)で、31分4秒を記録して4位になった。ラインラントのクレーヴェ(Cleve)出身。(3456:熊本→久留米)
1128) Kallhammer(カルハンマー),Bernhardt(1892-?):機雷弾薬庫・2等掌水雷兵曹。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、楽器部門でチェロを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』79頁】。解放後は蘭領印度に渡った。アンナ・ツェーベル(Anna Zeberl)と結婚して子供三人をもうけた。ランツフート出身。(2264:姫路→青野原)
1129) Kaltenhäuser(カルテンホイザー),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等水兵。大戦終結後は、青島における就職既定者として日本国内で解放された。ゾーリンゲン出身。(4548:大阪→似島)
1130) Kalthoff(カルトホフ),Wilhelm(?-1973):第3海兵大隊機関銃隊・軍曹。久留米の演劇活動では、喜劇『お似合いの燕尾服』に出演した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。エッセン出身。(520:久留米)
1131) Kammer(カンマー),Johann(1895-1970): 海軍東アジア分遣隊第3中隊・当歩兵。ドイツに帰国後の1922年エリーザベト・ティーレン(Elisabeth Thielen) と結婚して子供7人をもうけた。税関所で働き、後に鉄道の運輸業務主任となった。ラインラントのウロートドルフ(Brotdorf)出身。(130:東京→習志野)
1132) Kammerer(カンメラー),Ernst(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等無線電信技手。久留米時代の1919年8月、東京府豊多摩郡渋谷町の合資会社日本無線電信機製造所から情報局へ、無線電信技術を習得していて、解放後雇用を望む者の有無問い合わせに、久留米ではカンメラーを紹介・連絡した。バーデンのオッフェンブルク出身。(1211:福岡→久留米)
1133) Kampczyk(カンプツィク),Rudolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年(月日不明)、「妄リニ日本人ト文通セシ科」で重営倉5日の処罰を受けた。1916年1月16日、ヤコボフスキー作の一幕物『労働』で、息子ビング役をを演じ、男役も見事に演じることを示した【『徳島新報』第18号(1916年1月23日発行)より】。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において、カンプツィク(25歳)は2時間15分41秒5分の2で85人中の第1位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのカトヴィッツ(Kattowitz)出身。(4206:「大阪→」徳島→板東)
1134) Kampmann(カンプマン),Ludwig(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゲルゼンキルヒェン郡のヴァンネ(Wanne)近郊の炭鉱「我らがフリッツ("Unser Fritz")」出身。(131:東京→習志野)
1135) Kandulski(カンデゥルスキー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵(戦時志願)1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4207:「大阪→」徳島→板東)
1136) Kappel(カッペル),Willy(?-?):海軍砲兵中隊・給与掛2等筆記。松山時代、大林寺の講習会で算数の講師を務めた。シュレージエンのサガン出身。(2987:松山→板東)
1137) Kappler(カップラー),Karl(1890-1945):国民軍・卒。[カップラー製造(R.Kappler & Sohn)]。父ローベルト(Robert)・カップラーは1898年乃至1899年に青島へ赴き、レンガ製造会社を設立した。1905年ごろ、ローベルトは青島を去って、息子のヨーハン・フリードリヒ(Johann Friedrich)に会社を委ねた。そのフリードリヒは後にウラジオストックに赴き、レンガ会社を弟のカール(Karl)に任せた。カール・カップラーは会社経営に卓越していた。日本軍による占領後も青島に留まった【マツァトゥ(Wilhelm Matzat)教授の資料から】。1916年4月10日青島からただ一人、憲兵に付き添われて大阪俘虜収容所に移送された【参照:『大阪毎日新聞』大正5年4月11日付け】。解放後の1920年初頭に青島に戻り、マルタ・ヴァルター(Martha Walter;1897-?)と結婚した。1900年から1920年までの少女・娘時代をずっと青島で過ごしていた。マルタの父フーゴー・ヴァルター(Hugo Walter)、兄のフーゴー・ヴァルター(Hugo Walter)はともに俘虜として日本の収容所に収容されていた。婚姻届は1920年3月29日に青島の日本の役所に提出され、1920年5月15日にフランツ・オスター(Franz Oster)の家で新教によって結婚式が執り行われた。やがて山東省の省都済南に済南貿易商社を興して輸入業を営み、カッセラ社の代理店ともなって染料の輸入を手がけた。19145年、ドイツの東部で戦死した【マツァトゥ(Wilhelm Matzat)教授の資料から】。バイエルンのゴッホスハイム(Gochsheim)出身。(4684:青島→大阪→似島)
1138) Kardinal(カルディナール),Hermann(1892-1918):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1918年12月1日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ラヴィッチュ(Rawitsch)郡のコルングート(Korngut)出身。(2593:名古屋)
1139) Karius(カーリウス),Friedrich(?-?):築城部・築城曹長。松山時代(山越・長建寺収容)の1915年10月26日、婦女に戯れる目的で脱柵して浄福寺東側民家の門戸を叩いた科で重謹慎14日の処分を受けた。なお、松山時代は『陣営の火』編集に加わり、数多くの見事な地図や表を作成した。デッサウ出身。(2986:松山→板東)
1140) Karolczak(カロルチャク),Joseph(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代の1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をシュルツェ(Schulze)等仲間18人で袋叩きにして、傷害罪により1月の懲役刑に処せられた。シュレージエンのザリッシュ(Salisch)出身。(3463:熊本→久留米)
1141) Kaschull(カシュル),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。名古屋俘虜収容所所員を務めた堀山主計の息子堀山久夫氏の元に、カシュル作製のボトルシップが所蔵されている。ボトルの首のところには、「E.Kaschull,Matr.Artl.Nagoya,den 27.11.1916」と製作者の名札が付けてある。ボトルの中には、背景として汽車がトンネルから出てくる様子が描かれている。インスターブルク出身。(1185:福岡→名古屋)
1142) Kaesemann(ケーゼマン),Friedrich(?-?):国民軍・上等歩兵。[リヒャルト(Richard)運送会社]。青島時代は天津街(Tietsinstraße)に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪収容所に送られた。1918年11月9日付けで、東京のスイス公使館からスイスの内田公使に宛てた文書が遺されている。それによれば、ロシアのチタ近傍のプジェチャンカ(Pjietschanka)にいる義理の兄弟クライゼル(Ernst Kreisel)に、ケーゼマンは50円の送金願いを申請した。妻マリー(Marie)は娘(12歳以下)と二人大戦終結まで青島に留まった。解放後は青島に戻った。ヴェストファーレンのシュペンゲ(Spenge)出身。(4685:大阪→似島)
1143) Kast(カスト),Karl(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。[皮革工]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ロイステン(Reusten)出身。(1244:福岡→名古屋)
1144) Katzenstein(カッツェンシュタイン),Hermann(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[神戸シュトラウス商会(G.Strauß & Co.)]。板東時代の1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ピアノを担当した。ケルン出身。(2970:松山→板東)
1145) Katzorek(カツォレク),Alfred(?-?):装甲巡洋艦グナイゼナウ乗員・2等焚火兵。松山時代(大林寺収容)の1915年11月1日、同じ第2班のショッペ(Schoppe)と喧嘩をし、かつ同じ班のヴィルヘルム・ゴットシャルク(Wilhelm Gottschalk)の睾丸部を蹴って負傷させたことから仮営倉に入れられた。1916年3月2日、夜陰に乗じて共謀脱柵し、酒楼に登った科で重営倉30日に処せられた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)、2時間32分46秒で35位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。マグデブルク近郊のエルメンザルツェ(Elmensalze)出身。(3086:松山→板東)
1146) Kauffeldt(カウフェルト),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡り、ヴェルテフレーデン(Weltevreden)の郵便局に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブランデンブルクのシャルロッテンブルク(Charlottenburg)出身。(1224:福岡→習志野)
1147) Kaul(カウル),Erich(1891-1941):砲艦ヤーグアル乗員・2等焚火兵。1914年4月22日、ヴィルヘルムスハーフェンを出発して青島へ向かった。なお、カウルの遺稿日記『青島の海軍兵士、日本での捕虜1914年から1920年』(Marinesoldat in Tsingtau,Kriegsgefangener in Japan 1914 bis 1920)が、小阪清行氏の訳で「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページに、また抄訳が大河内朋子氏の訳で『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第3号に掲載されている。フュルステンヴァルデ(Fürstenwalde)出身。(148:東京→習志野)
1148) Kaul(カウル),Hans(?-?):海軍砲兵中隊・2等機関兵曹。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で錨の形の文鎮1点を、また全般の部の木製品部門に手提げ鞄及び写図器を、また展覧会カタログの補遺によれば、郵便箱を出品した。東プロイセンのパッベルン(Pabbeln)出身。(4541:大阪→似島)
1149) Kaumanns(カウマンス),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのユッヒェン(Jüchen)出身。(4205:「大阪→」徳島→板東)
1150) Kayser(カイザー),Georg von(1870-1937):総督府参謀本部・陸軍少佐。〔総督副官〕。1870年7月6日、陸軍中将ローベルト・フォン・カイザー(Robert von Kayser)の息子として、ナイセ(Neisse)に生まれた。1890年1月野砲兵少尉、1898年1月中尉、1905年7月海軍歩兵大尉、1914年6月には少佐に昇進した。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住んだ。1914年10月13日午前10時に東呉家村において行われた、非戦闘員及び中立国民避難のための休戦会談に独軍の軍使として臨んだ。その折り、胸に日本の瑞宝章を付けていた。通訳としてユーバシャール(Ueberschaar)予備中尉が同道したが、日本語を少し話した。協議の折、山田耕三大尉からシュテッヒャー(Stecher)大尉宛ての葉書を託された。また11月7日の降伏申し入れの際は、ヘーネマン(Hoenemann)副衛兵長をラッパ手に、ファーベル(Fabel)1等蹄鉄工長を白旗を掲げる旗手に、ウルリヒ軍曹を馬丁に、日本軍本部陣地のある台東鎮に総督の降伏文書を携えて軍使として赴いた。その折り、ウルリヒ軍曹は流弾を受けて死亡した。さらに11月7日午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉でも、ドイツ側委員の一員になった。大戦終結して帰国後の1920年3月陸軍に入ったが、健康上の問題から除隊した。最終階級は陸軍中佐であった。1923年10月、エレン・アブラモファ(Ellen Abramova)と結婚したが子供はいなかった。1930年頃、「フランクフルター新聞(Frankfurter Zeitung)」に入ってジャーナリストになった。1937年5月10日、マイン河畔のフランクフルトで没した。ダルムシュタット出身。(1181:福岡→習志野)
1151) Keetmann(ケートマン),Friedrich(?-?):海軍砲兵中隊・後備2等見習機関兵曹。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。キール出身。(3464:熊本→久留米)
1152) Keim(カイム),Eugen(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年1月27日、ルフ(Ruff)作の3幕劇『戦争花嫁』に、主役の老水先案内隊長ラルゼンの娘役イルゼを演じた【『徳島新報』第19号(1916年1月30日発行)より】。板東時代の1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、オーボエを担当した。またタパタオの19号小屋で、時計修理を営んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュヴァーベンのグミュント(Gmünd)出身。(4194:「大阪→」徳島→板東)
1153) Keining(カイニング),Ernst(?-?):国民軍・曹長。[ホテル経営者]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。元第3海兵大隊第6中隊の曹長だった。青島開城の際家族と天津に逃れた。1916年8月、所有家屋の課税問題で天津から青島に入り、その結果俘虜となって9月1日大阪収容所に送られた【『戦役俘虜ニ関スル書類』より】。青島でホテル「カイニング」を経営していた。妻の名はマリー(Marie)。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのゾエスト(Soest)出身。(4712:大阪→似島)
1154) Keiper(カイパー),Georg(1877-1951):第3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。[徳華高等学堂講師]。ベルリンで鉱山学を学び、1905年始めに学業を終えた。1905年8月1日、ドイツ博物館の前身である「自然科学・技術傑作博物館」の共同研究者になったが、11月30日に北京大学講師として招聘され、1906年始めに北京に赴き、教授として遇された。1909年10月、青島に設立された徳華高等学堂の講師として赴任した。青島ではフリードリヒ街213番地に住んだ。1909年10月と1914年8月に長期休暇でドイツに帰国した。1914年1月10日、シュトラースブルクでパオリーネ・シュレーダー(Pauline Schröder)と結婚した。大戦が勃発すると妻はドイツへ帰国した。戦闘で負傷したカイパーは臨時の衛戍病院となった学校に収容された。1915年初めに青島から大阪俘虜収容所へ移送された。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、満州の遼寧省鞍山にあった南満州鉄道系列の鞍山鉄鋼所に勤めた。1923年11月、ドイツに帰国してミュンヘンに赴いたが、1924年10月に満州の奉天に戻り、北東大学の講師になった。1925年10月にごく短期間ミュンヘンに出掛けたが、1927年まで奉天の大学の教授を勤めた。1927年にドイツに帰国したが、定職に就くことは出来なかった。1928年にスペインや北アフリカに赴いたが、南京で国民党政府が樹立されると、学術・技術顧問となって中国に赴いた。1929年から1932年まで南京で暮らし、1932年から1935年までは上海福州路1に住んだ。1935年、ミュンヘンに戻り、晩年の16年をそこで暮らしてその地で没した。上部バイエルンのインゴルシュタット(Ingolstadt)出身。(4537:大阪→似島)
1155) Keith(カイト),August(?-?):海軍膠州砲兵隊。1等砲兵。1915年12月、宣誓解放された。シュトラースブルク出身。(1222:福岡)
1156) Keller(ケラー),Florian(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1916年1月1日付けの『徳島新報』第2巻第15号によれば、ケラーはルートヴィヒ・トーマ作のクリスマス劇で、バイエルン出身の後備兵役役を演じて喝采を博した。また徳島時代の1916年1月30日、ルフ(Ruff)指導による寄席「ミモザ」の第2回上演会が開催された。その折りケラーはブロンナー(Bronner)、シルト(Schild)及びローレンツ(Lorentz)とともにチロルのダンスと歌を披露した。彼らの即興歌と靴底を叩くダンスは喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916年1月30日発行)より】。上部バイエルンのツィーゲルハウス出身。(4195:「大阪→」徳島→板東)
1157) Keller(ケラー),Richard(1892-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。1916年1月1日付けの『徳島新報』第2巻第15号によれば、ケラーはルートヴィヒ・トーマ作のクリスマス劇で、少尉役を演じて喝采を博した。解放後は蘭領印度に渡り、ヴェルテフレデン(Weltervreden)のホテルに勤めた。ザクセン=アルテンブルクのカーラー(Kahler)出身。(4193:「大阪→」徳島→板東)
1158) Kellner(ケルナー),Paul(1893-1946):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドイツに帰国してやがて製靴職マイスターになった。1921年ヘルミーネ・メルシュテット(Hermine Mörstedt)と結婚して、子供二人をもうけた。やがてナチス党の地区委員会出納係になった。そのために1945年9月ソ連軍によってブーヘンヴァルト強制収容所に容れられ、1946年7月頃そこで死亡した。死亡宣告がなされたのは、1957年7月13日になってからである。ミュルフェルシュテット(Mülverstedt)出身。(1239:福岡→名古屋)
1159) Kelter(ケルター),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵大隊第4中隊・後備1等砲兵。[ディーデリヒセン青島支店]。青島時代はカイザー街(Kaiserstraße)に住んでいた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ホルシュタインのハイデ出身。(福岡→大分→習志野)
1160) Kempe(ケンペ;後von Gahlen-Kempe),Paul(1884-?):総督府参謀本部・陸軍中尉。〔暗号将校〕。1901年3月22日陸軍に入った。1902年8月18日野砲兵少尉、 18.08.1911年8月18日中尉、1912年9月5日海軍歩兵隊に移り、後に第3海兵大隊暗号将校になった。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。1914年11月10日にモルトケ兵営で行われた神尾司令官とマイアー=ヴァルデック総督の会見では、総督の秘書官として列席した。1915年11月12日、大正天皇即位大典の日に逃亡したが、その際通訳のハック(Hack)が助力した。ハックは事前に「神戸新聞」により連絡船の発着等の日程日時を調べ上げていた。逃走5時間後に門司に到着。フェリーで下関に着き、「三条ホテル」にスウェーデン人を装って投宿した。翌13日午後老朽船「八幡丸」に乗りこんだ。この船を選んだのは、無線設備が無いからであった。18日上海に到着し、逃亡した4名は上海の地で落ち合った。またケンペは上海でシベリアの収容所を脱走してきた将校とも接触し、やがてシベリア鉄道でドイツに行くルートを選択し、上海を出て18日後に晴れてドイツの地にたどり着いた【Burdick/Moessner:The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920,26-29頁】。東フリースラントのグロートフーゼン(Groothusen)出身。(1182:福岡)
1161) Kempf(ケンプ),Conrad(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[ハンブルク・アメリカ汽船]。板東時代、1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、書記のリヒト役を小気味よく演じた。【『バラッケ』第2巻33頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ベルリン出身。(4212:「大阪→」徳島→板東)
1162) Kendzorra(ケンツォラ),Franz(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代の1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ケンツォラは112点の得点で初級の部5位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時24歳)、2時間33分14秒5分の3で38位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。ダンチヒ出身。(1940:丸亀→板東)
1163) Kerkhof(ケルクホーフ),Hermann(?-?):海軍砲兵中隊・後備2等兵曹。「両名ハ頗ル傲慢不遜ノ態度ニシテ写真撮影セラレ敵国ノ新聞雑誌等ン掲載セラルルガ如キ事アラバ軍人ノ体面上恥辱ナリト主張シ如何ニ訓諭スルモ之ニ服従セズ遂ニ同人等ノ撮影ヲ中止スルノ已ムナキニ至レリ「ケルクホーフ」ハ常ニ粗暴不謹慎ノ言動アルモノ」とされて、ヴェーアハーン(Wehrhahn)とともに重営倉25日に処せられた。【『日独戦書』】。オスナブリュック出身。(1744:静岡→習志野)
1164) Kerl(ケルル),Stefan(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[中国輸出入銀行会社(China Import-Export & Bank Co.)横浜支店]。板東時代の1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、オーボエを担当した。ハンブルク出身。(2961:松山→板東)
1165) Kern(ケルン),Arthur(1891-1961):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドイツに帰国後パオラ・シェーファー(Paula Schäfer)と結婚して娘一人をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセン=ナッサウのゼッセンハウゼン(Sessenhausen)出身。(1255:福岡→名古屋)
1166) Kern(ケルン),Ludwig(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。大阪時代の1915年12月31日の大晦日にシュトルフ(Storf)とともに脱走したが、翌元旦に堤防の上を歩いているところを発見され逮捕、大阪監獄に収監された。この事件のため、1月27日に予定されたドイツ皇帝誕生日を祝う祝賀会及び音楽会が許可されなかった。似島時代、屠畜職人だったケルン(Kern)、ヴォルシュケ(Wolschke)の三人で、当時の広島市広瀬町上水入町のハム製造会社酒井商会でハム製造の技術指導をした。三人の写真が『広島中国新聞』(大正8年12月25日付け)に掲載されている。バイエルンのアマーゼー湖畔の出身。(3955:大阪→似島)
1167) Kersten(ケルステン),Otto Hermann(1892-1974):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1912年10月1日海軍砲兵隊に入隊した。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1920年2月28日に喜福丸でヴィルヘルムスハーフェン港に帰国した光景を記した。それによると、「岸壁に集まった子供達はパンを欲しさに叫び声を上げていた。そこで腕いっぱいに抱えたパンを放ると、周囲にいた大人の船員達が子供を押しのけて拾い、がつがつと食べ始めた。その光景を見て愕然となり、甲板の隅に隠れて激しく泣いた」とのことである。【《The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920》108-109頁】その「ケルステン日記」は『小野市史』第6巻に訳出されているが、それによるとケルステンは、1913年10月1日に新兵として召集され、輸送船で青島に送られて第3中隊に配属されたとのことである。これまで余り知られていなかった青野原俘虜収容所の様子や俘虜生活が活写されている。神戸の「ドイツ・クラブ」での歓迎会には、トルトゼン(Thordsen)と同じ車に乗り込んで出かけた。その折、家族のいるトルトゼンとは別行動をとり、受け入れ家族に心からのもてなしを受けたと記している。1919年の帰国時には収容所で豚の飼育係りを務めていた。帰国前後から帰国船の中、途中立ち寄る蘭領印度での出来事なども記されている。1919年12月27日の日本出発から63日目にヴィルヘルムスハーフェン港に到着し、その三日後に除隊となった。なお、ヴィルヘルム・テッゲ(Wilhelm Tegge)が描いた挿絵から、平成14年5月末、青野原収容所の施設が農家の納屋として現存していることが判明した【『小野市史』第6巻第4章「青野ヶ原俘虜収容所と小野」及びインターネット:http://osaka.yomiuri.co.jp/kobe/past/020531.htmyoより】。1960年頃と1968年に「チンタオ戦友会」に出席した。ケーテン出身。(1241:福岡→青野原)
1168) Kessinger(ケッシンガー),Friedrich von(1866-1946):第3海兵大隊長・陸軍歩兵中佐。〔守備隊の陸上戦隊指揮官〕。1866年2月24日、ザクセン王国陸軍少将クルト・フォン・ケッシンガー(Curt von Kessinger)の長男として生まれた。妻エルフリーデ・フォン・ネッカー(Elfride von Neckar;1874-1954)との間に娘二人がいた。厳しい態度・姿勢のため、部下達からはあまり好かれてはいなかった。11月10日午後2時、青島残留のドイツ兵を引き連れて台東鎮に引き揚げ、日本送還までそこで露営した。名古屋俘虜収容所の先任将校だった。パウル・エンゲル(Paul Engel)が丸亀俘虜収容所にいたころ、『青島行進曲』を捧げられた。妻エルフリーデは二人の娘(いずれも12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結してドイツに帰国後、日独戦争前から日本の収容所の様子などを記した『出来事』(Geschichte)を残した。2006年になって、孫のフリードリヒ=クリスチアン・フォン・ケッシンガー氏(Friedrich-Christian von Kessinger)の校條善夫宛ての私信から、氏の叔父が板東俘虜収容所にいたことが判明したが、氏名等は不明である【校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅲ」、『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号81頁】。ワイマールに没した。ドレスデン出身。(2577:名古屋)
1169) Kessler(ケスラー),Johann(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、第2棟7室で洗濯屋を営んだ。解放後は蘭領印度に渡った。ケルン出身。(2955:松山→板東)
1170) Kessler(ケスラー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、タパタオの12号小屋でギュンシュマン(Günschmann)と家具屋及び大工を営んだ。1919年6月の帰国準備時には、船舶輸送及び故郷送付用の荷箱仕上げの業務をした。ザクセン=アンハルトのバデボルン(Badeborn)出身。(4197:「大阪→」徳島→板東)
1171) Kessler(ケスラー),Kurt(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・副曹長。久留米時代の1917年3月13日、ケスラーから日本赤十字社に「コパイザルサム」薬の送付方の依頼があった、との照会が日赤から俘虜情報局にあった。同薬品は軍医によって差し支えないと判断され、収容所医務室で配剤されることになった。イェーナ出身。(3441:熊本→久留米)
1172) Ketel(ケーテル),Hellmuth(1893-1961):海軍砲兵中隊・2等信号兵。[2等巡洋艦エムデン乗員]。ハンブルク郊外に生まれた。大戦終結後、習志野の仲間といくつか事業を起こすが失敗する。その後会津の女性と結婚し、1927年銀座・並木通りに「バー・ラインゴールド(Bar Rheingold)」を開業し、1930年にはその隣にレストラン「ケテル(Ketel)」を開業した。1956年製作の瑞穂春海監督東宝映画『ある女の場合』に、キャロル神父役で出演した。日独防共協定締結後は、ドイツから来日するドイツ人はきまって「ケテル」を訪れた。元エムデン乗員20数名が一度に店を訪れた事もあった。1961年死去。【銀座並木通りの「ケテル」入り口脇の記念板には、「1916年(大正5年)来日」となっているが、俘虜情報局による大正4年10月調の『俘虜名簿』には、既にその名が収容所名とともに記載されている】。ホルシュタインのヴェーデル(Wedel)出身。(140:東京→習志野)
1173) Ketelsen(ケーテルゼン),Johannes F.(?-?):国民軍・後備伍長。[裁判所書記官]。青島時代はハンブルク街に住んでいた。妻の名はイーダ(Ida)であった。シュレースヴィヒ出身。(4543:大阪→似島)
1174) Kettgen(ケットゲン),Johann(?-1919):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。1919年3月2日、久留米で死亡、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された。ラインラントのホムベルク(Homberg)出身。(3443:熊本→久留米)
1175) Keyssner(カイスナー),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カッセラ商会神戸支店]。板東時代の1919年、バルクホールン、ラーン(Laan)、ルードルフ(Rudolf)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』(Das Jahr im Erleben des Volkes)の出版に関わった。また、板東ホッケー協会のチームのメンバーだった。ザールフェルト郡のリヒテンタンネン(Lichtentanne)出身。(2967:松山→板東)
1176) Kibilka(キビルカ),August(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」団員で、ピアノを担当した。ヴェストファーレンのビュア(Buer)出身。(1951:丸亀→板東)
1177) Kienningers(キーニンガース),Josef(?-?):海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。〔要塞車厰第2次指揮官〕。妻パウラ(Paula)は子ども(12歳以下)と二人で大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結後、日本内地での契約が成立して内地解放者となった。1920年上海へ渡り、1920年から1926年まで上海の同済大学の講師として勤務した。バイエルンのイレライヒェン(Illereichen)出身。(4385:「熊本→」大分→習志野)
1178) Kierchner(キールヒナー),Albert(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備2等歩兵。[山東鉄道鉱山部]。青島時代はキロワット街(Kilowattstraße)に住んでいた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク出身。(4384:「熊本→」大分→習志野)
1179) Kierdorf(キーアドルフ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。板東時代、スポーツクラブ「青年の力」でレスリングをした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゾーリンゲン近郊のヴァルト(Wald)出身。(4208:「大阪→」徳島→板東)
1180) Kiesewetter(キーゼヴェッター),J.Paul(?-1917):第3海兵大隊第6中隊・後備2等歩兵。1917年5月9日大分で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ブレスラウ近郊のシェビッツ出身。(4382:「熊本→」大分)
1181) Kiessling(キースリング),Gustav Gotthard Friedrich(1892-1975):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。ドイツに帰国後ルツィー・グロス(Luzie Gross)と結婚して子供二人をもうけた。当初は製紙工場のボイラーマンとして働いたが、後にマイニンゲンで国有鉄道に勤務した。マイニンゲン郡のシュヴァルンゲン(Schwallungen)出身。(3961:大阪→似島)
1182) Kiessling(キースリング),Otto K.(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の農民笑劇『一等車』等14演目に主として女役で出演した。解放後は蘭領印度に渡って、バタビア新市街のヴェルテフレーデン(Weltevreden)の郵便局で働いた。ドレスデン出身。(3435:熊本→久留米)
1183) Kirchner(キルヒナー),Friedrich(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等機関下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、テンペラ画2点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』69頁】。【なお、301頁に及ぶ手書きの未発表日記『中国と日本、1913-20』が、1991年1月にウィーン大学へ提出されたトーマス・クリヴダ(Thomas Krivda)氏の博士論文『1908-1914年並びに俘虜時代における東アジアにおけるオーストリア=ハンガリー帝国巡洋艦皇后エリーザベト及びその乗員』に紹介されている。2部構成の手記は、第1部が1913年8月から1914年10月9日まで、第2部は1914年10月31日から1915年の姫路俘虜収容所から青野原俘虜収容所への移送までである】。グラーツのシュタイアーマルク(Steiermark)出身。(2267:姫路→青野原)
1184) Kirchner(キルヒナー),Reinhold(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ブレスラウ近郊のツバイブロート(Zweibrodt)出身。(535:久留米)
1185) Kirschner(キルシュナー),Wilhelm(1892-1966):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。ドイツに帰国後1930年までパン屋を営んだが、後に農業に従事した。なお、1922年2月22日マリー・マルガレーテ・ヴァッカー(Marie Margarete Wacker)と結婚して息子4人をもうけた。ヘッセン=ナッサウのランゲンゼルボルト(Langenselbold)出身。(3960:大阪→似島)
1186) Kirsinger(キルジンガー),Anton(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年11月10日に開催された「1919年スポーツ週間」の「森林競歩50km」(参加者10名)で、6時間2分22秒を記録して3位になった。ヴュルテンベルクのラーヴェンスブルク(Ravensburg)出身。(525:久留米)
1187) Kistenbrugger(キステンブルッガー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の応援で、小太鼓を担当した。ハンブルク出身。(4200:「大阪→」徳島→板東)
1188) Klaiber(クライバー), Hugo(1894-1976):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。クライバーの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる。2005年になって、クライバーはイレブンの写真中左から3人目の人物である事が判明した【〔写真10〕参照】。ドイツに帰国後タンクローリーの運転手をした。1921年5月16日、パオリーネ・ケッサー(Pauline Kässer,1896-1936)とヴァンヴァイル(Wannweil)で結婚した。連れ子の息子リヒャルト(Richard Ewald,1919-1942)はロシアで戦死した。またこの年、テュービンゲン近郊のヴァンバイルでサッカーチームを結成したが、そのチームは今日なお存続し、会員数は700名に及んでいる。息子のエーヴァルト(Ewald)は第二次大戦に出征し、23歳でソ連との戦闘で戦死した。最初の妻が亡くなって、やがて再婚後に生まれた次男クラウス(Klaus)は、テュービンゲン近郊のジップリンゲンに住んでいる。テュービンゲン出身。(3954:大阪→似島)
1189) Klautke(クラウトケ),Paul(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[青島屠場検査官]。松山時代、公会堂の講習会で物理学の講師を務めた。また1916年9月、収容所新聞『陣営の火』第1巻33号に、「松山の動物と植物」の記事を寄稿した【安藤/森「陣営の火」178頁】。板東俘虜収容所では食肉の検査をした。また、工芸品展には付属品付きの養蜂箱を制作・出品した。さらに坂西農養蚕学校に出張して、植物標本の作製方法を指導した。1917年11月26日、「中国の夕べ」で講演を行う。1919年1月24日には、「米と茶の栽培及び養蚕」の写真展を開いた。帰国に際して板東小学校に植物標本を寄贈した。帰国後、ドイツ・ハノーファーの書肆から、『中国の有用植物と有用動物』を出版した【米澤義彦「ドイツ兵俘虜の見た日本の自然―板東収容所及び松山収容所新聞の記事の分析から―」49頁、所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』】。解放後は上海に渡り、1922年まで上海の同済大学に勤務した。東プロイセンのニコライケン(Nikolaiken)近郊のカールスホーフ出身。(2971:松山→板東)
1190) Kleemann(クレーマン),Eduard(1870-?):第3海兵大隊第5中隊長・陸軍騎兵少佐。〔外方陣地左翼陣地指揮官・第3・第4歩兵堡塁中間地区〕。1890年4月ザクセン陸軍に入隊し、同年8月陸軍歩兵少尉、1899年3月中尉、1905年4月海軍歩兵大尉、1914年4月には少佐に昇進した。1914年9月16日、20名の騎兵と12名のオートバイ隊を率いて李村に赴いたが、すでに日本軍によって李村は占領されていた。その後はその率いる140の兵で、第2歩兵堡塁から第4歩兵堡塁の間の守備に当たった。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)に住んでいた。松山に到着後、収容所まで徒歩で行進させられると、騎兵将校であるからと頑なに馬を要求して実現させた。板東では「板東保険組合」の監査役を務めた。松山及び板東俘虜収容所の俘虜代表を務めた。大戦終結後の1919年12月30日、クレーマンを輸送指揮官とする帰還船「豊福丸」は、板東604名、習志野71名、似島39名、名古屋230名の計944名が乗船して神戸の第4埠頭を出発し、1920年2月24日ヴィルヘルムスハーフェン港に到着した。船内では、『帰国航』が第6号まで、絵葉書は2種印刷・発行された。帰国後の1920年3月10日、陸軍に入った。グロッセン=エーリヒ(Grossen-Ehrich)出身。(2949:松山→板東)
1191) Kleemann(クレーマン),Robert(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。松山時代(公会堂・収容)の1915年2月2日、ハレ県のツァイツ(Zeitz)から差し出されたエルゼ・シュスゲン(Else Schüssgen)のクレーマン宛の長文の俘虜郵便が、高知在住の郵趣家河添潔氏の所蔵により遺されている。手紙の裏には封緘票「Siegelmarke Kriegsgefangenenlager MATSUYAMA」の貼付された珍しいものである。1915年9月22日、誕生日祝いに招待したヴォルフ(Wolff)が前後の思慮なく酩酊して脱柵し、民家に立ち入った科で、23日に重営倉10日に処せられた。ベルリン出身。(2959:松山→板東)
1192) Klees(クレース),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備兵。[カッセラ大阪支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本国内で解放された。ハーナウ近郊のビショフスハイム(Bischofsheim)出身。(3434:熊本→久留米→板東)
1193) Kleffel(クレッフェル),Julius(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海・ザンダー・ヴィーラー商会]。板東時代、本部事務室で金銭授受係りを務めた。出身不明(『俘虜名簿』では上海)。(1961:丸亀→板東)
1194) Klein(クライン),Emil Carl Ulrich(1877-1965):総督府・海軍造機技師。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。妻と子供は大戦中北京近郊で暮らした。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(3473:熊本→久留米)
1195) Klein(クライン),Richard(?-1916):第3海兵大隊第7中隊・後備2等歩兵。1916年4月6日大分で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ドレスデン出身。(4383:「熊本→」大分)
1196) Klein(クライン),Wilhelm(1891-1944):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1891年5月19日、指物師職人の子としてザールブリュッケンに生れた。1914年8月上記中隊に入隊した。大戦終結して解放後、蘭領印度に渡った。1941年結婚、1944年11月26日、ソ連のヴォルガ河畔のヴォルクスで死去【シュミット】。ザールブリュッケン出身。(1197:福岡→大分→習志野)
1197) Kleinbeck(クラインベック) ,Ernst(1893-1944?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。クラインベックの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真10〕参照】。マンハイム出身。(3944:大阪→似島)
1198) Kleinerbüschkamp(クライナービュシュカンプ),Karl(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916年4月11日、フォーゲルフェンガーの誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのようにフォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。ゾーリンゲン出身。(128:東京→習志野)
1199) Kleingünther(クラインギュンター),Otto(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門で、ヴァイス(A.Weiss)と共同で、ゴットリーバー(Gottlieber)及びミュラー(Fritz Müller 629)製作の東屋及び別荘の模型用㍮家具と金属製品を出品した。ルードルシュタット出身。(4538:大阪→似島)
1200) Kleinhans(クラインハンス),Wilhelm(1893-1962):第3海兵大隊野戦砲兵隊・2等砲兵。カールスルーエ郡のゲルスハウゼン(Gölshausen)出身。(2599:名古屋)
1201) Kleinschmidt(クラインシュミット),Erich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備陸軍少尉。松山時代の1915年7月26日、陸軍大臣の通達を伝達する際、命令を信奉しなかった咎により、29日に軽謹慎2日に処せられた。板東時代、講習会で中国語の新聞を読むコースを開き、中国語辞典を編んで収容所印刷所から出版ㅗた。スポーツの関連では、板東ホッケー協会の理事長を務めた。また1919年3月26日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りクラインシュミットはヴィオラを担当した。他は、ガルスター海軍中尉のヴァイオリン、デュムラー海軍大崉のチェロ、クラーゼン伍長のピアノ、ナスート砲兵伍長のコントラバスという編成であった。ヴェザー河畔のシュトルツェナウ(Stolzenau)出身。(2958:松山→板東)
1202) Klemann(クレーマン),Wilhelm(1883-?):総督府・海軍造船大尉。1903年3月海軍入隊、1911年4月海軍造船大尉。青島時代はドイツ街(日本による占領・統治時代は大和町)に住んでいた。バルケンフェルデ(Barkenfelde)出身。(3472:熊本→久留米)
1203) Kley(クライ),Paul(1894-1992):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。〔ビスマルク砲台〕。1911年植民地勤務の海軍歩兵大隊に志願し、1913年青島に赴いた。降伏前日に右腕を負傷、丸亀では軽傷者のための病院でしばらく過ごした。また丸亀時代、演劇に必要なかつらを調達した。板東時代の1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、アルト・ホルンを担当した。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時25歳)、2時間36分27秒で85人中の第51位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。大戦終結後は警察官となったが、第2次大戦でソ連の捕虜となり9年間シベリアの収容所で過ごした。ライポルト(Leipold)等と「バンドー会」(当初は80名余の会員があった)を結成しフランクフルトで例会を開いた。大阪万博の折りライポルトと来日し、板東を再訪した。ドイツ軍青島戦士の最後の生き残りとも言われたクライは、1956年以来ヴェストファーレのリューデンシャイト(Lüdenscheid)で暮らした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1970年9月26日付けの『リューデンシャイト報知』(Lüdenscheider Nachrichten)には、クライが50年ぶりでライポルト(Leipold)と一緒に板東俘虜収容所跡を訪問し、慰뜊碑に花輪を捧げる様子を『徳島新聞』の記事を転載して報じた。また1972年3月18日付けの『リューデンシャイト報知』には、鳴門市睿東のドイツ館(旧ドイツ館)建設の模様が、同じく『徳島新聞』の記事を転載して報じられているが、クライの思い出話も言及されている。1983年9月には日本から撮影チームが訪れ、ベートーヴェンの「第九」日本初演の地である、板東の思い出等のインタヴューが行われた。地元の『ヴェストファーレン展望』及び『リューデンシャイト報知』は、その後も毎年クライの誕生日や海軍戦友会の特別表彰の模様を報道した。青島ドイツ人俘虜の最後の生存者とも言われたが、1992年5月97歳で死去した。テューリンゲンのヴァルタースハウゼン(Waltershausen)出身。(1949:丸亀→板東)
1204) Klimant(クリーマント),Gustav(?-?):国民軍・曹長。[青島山林局・山林監視官]。板東時代、第8棟(縋士官棟)の先任下士官を務めた。また「板東収容所営林所長」とも言える役割を担った。自給自足の賄い、製パンに必要な薪を調達するためであった。1918年2月4日に初めて近隣の山に入り、伐採の手本を示した。妻ペトロネラ(Petronella)は息子と娘の三人で、大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。西プロイセンのセルスク(Czersk)出身。(2984:松山→板東)
1205) Klingebiel(クリンゲビール),Wilhelm(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代、1918年9月16日から、つちや足袋合名会社に刃物鉄工の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。アルフェルト近郊のフェールステ(Föhrste)出身。(3465:熊本→久留米)
1206) Klingmüller(クリングミュラー),Adalbert(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。[アルンホルト‐カルベルク天津支店]。ベルリン出身。(1939:丸亀→板東)
1207) Klingner(クリングナー),Eugen(1884-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備砲兵軍曹長。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会では、アーペル(Apel)、オットー(Otto)、シュピーロ(Spiro)及びヴォーゼラウ(Wosearu)とともに技術部門の責任者を務めた。ライプチヒ近郊のツェリヒカ(Zöligka)出身。(3950:大阪→似島)
1208) Klingst(クリングスト),Paul(?-?):第3海兵大隊・予備上等歩兵。[上海ドイツ総領事館]。板東時代の1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロを担当した。またシミング(Schimming)とタパタオの6号小屋で鋳型製作所を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度のバタヴィアに渡った。ザクセンのゲーダ(Goeda)出身。(2983:松山→板東)
1209) Klinke(クリンケ),Georg(?-?):国民軍・伍長。[弁護士]。青島に来る前は天津にいた。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住んだ。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュテーゲマン(Steegemann)の依頼で、青野原収容所についての私記を寄せた、それはシュテーゲマンの報告書に反映されている。プロイセンのフォルスト(Forst)出身。(2263:姫路→青野原)
1210) Klinke(クリンケ),Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。久留米時代の1917年12月、エーベルハルト(Eberhardt)及びエームンツ(Emunds)と収容所交付の発信用紙の売買仲介により、重営倉の処罰を受けた。兵卒1ヶ月分(封書用紙1、葉書1)が40銭で売買されていた【『ドイツ軍兵士と久留米』17頁】。ブランデンブルクのツィーレンツィッヒ(Zielenzig)出身。(1209:福岡→久留米)
1211) Klobucar(クロブツァー),Viktor v.(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・海軍大尉。元オーストリア軍飛行将校。青島を脱出したプリュショー中尉の友人であった。プリュショー中尉等数名で、複葉飛行機の製作にあたったが完成に至らず、降伏前に機体を破壊した。負傷したバイエルレ(Baierle)少尉に代わって、第15砲台指揮官になった。1918年8月4日久留米から青野原へ移送された。青野原近隣の住民に寄贈した、田園風景を描いた油絵が遺されている【参照:『青野原俘虜収容所の世界』109頁。「クロイツァーの署名が見える」と記されているが、署名は「Klobucar 1919」で、正しくは「クロブツァー」である】。ハンガリーのフィウメ(Fiume)近郊のスサク(Susak)出身。(3474:熊本→久留米→青野原)
1212) Klöckner(クレックナー),Fritz(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。ハンブルク出身。(4686:大阪→似島)
1213) Klopp(クロップ),Johann Dietrich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備伍長。2003年6月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、娘のルイーゼ・ヴァルネッケ=ハルトゥングとエンネ・ヘセから、クロップのアルバム2冊が鳴門市ドイツ館に寄贈された。アルバムには、別府の温泉見学の様子や習志野の雪景色などの珍しい写真が含まれている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東フリースラントのレーア(Leer)出身。(4381:「熊本→」大分→習志野)
1214) Klose(クローゼ),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。板東時代、第6棟2室で理髪業を営んだ。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのアルトナ出身。(4204:「大阪→」徳島→板東)
1215) Klose(クローゼ),Paul(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1915年6月久留米へ収容所換えになった。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点104で中級8位になった。上部シュレージエンのノイ・ラツィオンカオ(Neu Radzionkau)出身。(3429:熊本→久留米)
1216) Kluge(クルーゲ),Alfred(1879-?):総督府・海軍上級経理秘書官。青島時代は旧衙門(Altes Yamen;清国時代の官衙)に住んでいた。ライプチヒ出身。(4392:「熊本→」大分→習志野)
1217) Kluge(クルーゲ),Ernst(1892-1979):第3海兵大隊第2中隊・1年志願上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとクルーゲは、オブリガート・ヴァイオリン担当した。2002年12月、息子のクリスチアンは父親エルンストの遺品を寄贈した。それは1919年12月3日、久留米高等女学校(今日の明善高校)で演奏されたベートーヴェンの「第九」の様子など撮影した写真である。着物姿の女学生を前にして楽器を手にするオーケストラの面々も写っている【2002年12月29日付け『高知新聞』より】。2003年3月15日に、久留米市教育委員会から発行された『ドイツ軍兵士と久留米』には、クルーゲの日記(ノート三冊に記された、厳密にはドイツに帰還後の「回想記」である)の抄訳が生熊文氏の訳で紹介されている。以下はそれによったクルーゲの足跡等である。日独戦争後、沙子口から貨物船日東丸で門司港に着き、所持金の約450マルクを没収された。久留米への車中では25銭で三段重ねの駅弁を買って食べたとのことである。久留米駅には、立派なドイツ語を話す山本茂中尉が出迎えていた。兵卒用の宿舎では、ハーフェルス(Ernst Hafels)と同室になり、朝から晩まで紙でこしらえた駒でチェスをした。11月15日、歓迎のために蓄音機を回してかけた「旧友」の調べが奏でられる中を、顔見知りのシュリーター(Robert Schlieter)軍曹が第1中隊を率いて久留米に現れ、そこにはリヒター(Rudolf Richter)予備伍長もいた。クルーゲは9月上旬に下士官に推奨されていたが、昇進の知らせが来たのは10月4日、その時には既に捕虜になっていたのである。宿舎では一応下士官並みに処遇された。やがてシュラム(Richard Schramm)海軍士官と同室になった。クリスマスが近づくと、収容所では各グループが工夫を凝らした作品の制作に励んだ。クルーゲのグループでは、ツェッペリン号LZ101 の模型を制作した。やがて大晦日になると、山本中尉は俘虜達としこたま酒を飲んで酔っ払った。赤司大尉の11時には就寝することになっているとの命令に、山本中尉は千鳥足で外にいる大尉のもとへ行き、声高な論争を始めた。自力では自室に戻れず、俘虜たちに抱えられて部屋に運ばれた。このことは悪い結果になるのでは、とクルーゲは予感した。久留米収容所での待遇が悪かった原因の一つにクルーゲは、ドイツ人将校たちの無作法で馬鹿な行為を挙げている。最初に帰還する隊が出発した後、将校部屋はめちゃめちゃに壊され、日本人にとって嬉しくない落書きでいっぱいだったとのことである。このことはなお収容所に残っている者達に不快な結果となることも将校連中にはどうでもよかったのだ、との言葉をクルーゲは吐き捨てている。青島に1年滞在し、ヨーロッパ文化をよく理解する山本茂中尉のことは、限りなく好意を寄せて記している。1919年12月3日、久留米女学校に招かれて行ったコンサートについては、その折の様々な様子が詳しく記されている。ドイツには第何次にどの帰還船に乗れるか、また全員が同時期に乗船できずに残留者がある等のことには、解放者達に種々の不安を引き起こしていたこともありありと述べられている。12月の20日から22日には、久留米恵比寿座でオーケストラの客演を要請され、23日にはそのお礼として日本の演劇公演に収容所全体が招待された。1919年12月のクリスマスは、ヘルビヒ(Helbig)、マル(Marr)及びヴルフ(Wulff)の四人で過ごした。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリンのディヒターフェルデ出身。(533:久留米)
1218) Klumpp(クルムプ),Adolf(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代、1919年4月から佐賀県鳥栖町の中村石鹸製造工場に就労し、収容所から自転車で通勤した【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ヴェストファーレンのリップシュタット(Lippstadt)出身。(3415:熊本→久留米)
1219) Knaack(クナーク),John(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船]。板東時代、公会堂での工芸品展に2階建てのメリーゴーランドを制作・出品して注目された。ハンブルク出身。(2965:松山→板東)
1220) Knappe(クナッペ),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備砲兵伍長。[山東鉄道事務助手]。習志野時代の1919年8月12日、習志野演劇協会によるベネディックス作の喜劇『親戚の情愛』では、娘役で、また同年10月5日の「マルフケのための謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』に代理商の役で出演した。解放後は蘭領印度に渡った。東プロイセンのティルズット(Tilsit)出身。(4390:「熊本→」大分→習志野)
1221) Knecht(クネヒト),Peter(1892-1941):第3海兵大隊第4中隊・伍長。1892年5月27日、ザールブリュッケンのハイリゲンヴァルト(Heiligenwald)に生れた。1914年8月上記中隊に入隊した【シュミット】。熊本時代、法則を遵奉せず、官給品を毀損した咎で禁錮1ヶ月の処罰を受けた。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1919年10月21日に開催された「50m競走」に出場し、6.6秒で2位になった。ザールブリュッケン出身。(3414:熊本→久留米)
1222) Kneifl(クナイフル),Wenzel(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水雷水兵。青野原時代の1916年(月日不明)、ヒメルチェク(Chmelicek)とメドヴィドヴィッチ(Medvidovich)の三人で共謀して逃走をした科で重営倉30日に処せられた。、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、クナイフルのグループは金属加工部門に機雷、煙草道具、灰皿、宝石箱、トイレ用鏡等26点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』75-76頁】。ボヘミアのノイ=ビショフ(Neu-Bischov)出身。(2290:姫路→青野原)
1223) Knell(クネル),Friedrich(?-1919):海軍砲兵中隊・後備2等機関候補生。1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。1919年12月18日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ルートヴィヒスハーフェン(Ludwigshafen)出身。(3458:熊本→久留米→名古屋)
1224) Kneupelt(クノイペルト),Johann(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[シャム王国鉄路局]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。レーゲンスブルク出身。(2969:松山→板東)
1225) Knibbe(クニッベ),Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等歩兵。[電気技師]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ランゲンザルツァ(Langensalza)出身。(1245:福岡→名古屋)
1226) Knobel(クノーベル),Gustav(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、クノーベル商会の名で洗濯屋を営んだ。ヴュルテンブルクのオーバーシュターディオン出身。(2976:松山→板東)
1227) Knoll(クノル),Ernst(1882-1930):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、フルート及びオーボエを担当した。また板東時代には、徳島県下各地で農業講演を行った。解放後は蘭領印度に渡ったが、1922年以前上海に赴き、やがて奉天のヤリ輸出入商会(Yali Import & Export Co)に勤務した。北京で没した。リューベックのアーレンスベク(Ahrensbök)出身。(1953:丸亀→板東)
1228) Knoop(クノープ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代の1917年12月、懸賞作文募集に「故郷」で佳作とされ、『バラッケ』に掲載された。また1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、ループレヒト役を演じた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレースヴィヒのバルゲン(Bargen)出身。(4196:「大阪→」徳島→板東)
1229) Knopf(クノップ),Kurt(?-?):第3海兵大隊第2中隊・予備伍長。[ジーメンス青島支店]。青島時代はミュンヘン街(Münchenerstraße;日本の占領統治時代は英町)に住んでいた。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降し俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。久留米の演劇活動では、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等に出演した。ヴァイクセル河畔のシュヴィッツ(Schwitz)出身。(534:久留米)
1230) Knubben(クヌッベン),Peter(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。クヌッベンの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真10〕参照】。ラインラントのヴュルゼルン(Würseln)出身。(3946:大阪→似島)
1231) Knüpfel(クニュップフェル),Erich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。[卵紛製造工場]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。美食家だった。そのせいか常に選り抜きの缶詰を所持し、またそれを売ったりもしていた。エルベ河畔のシャンダウ(Schandau)出身。(1202:福岡→習志野)
1232) Knüppel(クニュッペル),Karl Dr.(1875-?):総督府参謀本部・海軍1等経理監督(大佐相当)。〔総督府財政長〕。1906年7月海軍に入る。1913年5月1等経理監督に就任した。高等判事、民政長官に次ぐ高額年俸を造船所長とともに受けていた。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。1914年11月14日の全戦闘員の日本送還後も、青島にしばらく留まって残務処理に当った。妻オリー(Olli)は子ども(12歳以下)と二人で大戦終結まで上海で暮らした。シュテッティン出身。(4391:「熊本→」大分→習志野)
1233) Knust(クヌスト),Heinrich A.W.(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備船匠伍長。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門の責任者をハルムス(Harms)とともに務め、また学校部門では地図を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。キール出身。(1205:福岡→大阪→似島)
1234) Kober(コーバー),Erwin(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。[ベディカー商会(Boediker & Co.)]。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)に住んでいた。ザクセンのエレフェルト(Ellefeld)出身。(524:久留米)
1235) Koeberlein(ケーバライン),Wilhelm(1890-1952):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。23歳の時、当時有名だった上記商社の社員として採用されたケーバラインは、1914年5月にシベリア鉄道でウラジオストックへ赴いた。13日ウラジオストックに着任したが、3ヶ月も経たない8月1日にドイツがロシアに宣戦布告すると、翌2日には24時間以内の退去を命じられた。8月3日、「ホウザン丸」で敦賀に向けて出航し、6日に敦賀港に着いた。ウラジオストックとは雲泥の差の町の清潔さに、ケーバラインは郷里を思い出した。大阪、神戸に少し滞在した後上海経由で青島に志願兵として応召した。なお、神戸滞在時、料亭で芸者がドイツの民謡「ムシデン」(Muß i denn)を歌ったことに驚いたとのことである。8月14日青島に到着し、他の10名のクンスト・ウント・アルバース商会員とともに、第3海兵大隊の兵営で最初の夜を過ごした。青島では一時総督邸の警備に当たっていた。その折、日本軍の複葉機の襲撃に遭った。1914年12月6日、松山収容所(公会堂)から郷里へ葉書を出した。それが青島包囲後数ヶ月、音信不通のため生死を心配していた両親の元への、日本からの最初の便りである。1915年1月16日、松山城から見た松山市を写した絵葉書(「松山城より兵営を望む」の文字あり)を出した。歩兵第22連隊の兵営と収容所になった公会堂が見られる。ケーバラインは所持していたコニカで、松山及び板東で多くの写真を写し、また板東ではグロッセ(Grosse)と共同で収容所内のタパタオで写真屋を営んだ。メッテンライター『極東で俘虜となる』によれば、ヴィルヘルムスハーフェン到着後はコールヘップ(Kohlhepp)、クロイツァー(Kreutzer)、ロッケンマイアー(Rockenmeyer)の四人で郷里のビュルツブルクに向かった。1920年4月、マインツで一時的に仕事に就き、後に結婚することになるゾフィー(Sophie)を知る。1923年郷里に戻り、娘二人が生まれた。1929年に鉄製品の販売代理店を、1935年には消火器販売代理店を営んだ。第二次大戦時には再び応召したが、防空警察に就いたのは、消火器販売による知識のせいであった。ケーバラインの遺品には、日記、葉書、および数多くの写真がある。1972年に鳴門市板東にドイツ館が落成すると、一部が青島戦友会を通じて寄贈されたが、他の資料は後年ヴュルツブルクのシーボルト博物館に収蔵された。俘虜送還船内で写真の注文を受けたことが、遺品の中の領収書から窺える【この項は、メッテンライター『極東で俘虜となる』による。なお、遺品中には力士とともに写っている俘虜の姿があり、ケーバライン撮影になるとされている。撮影場所についてはいま一つ判然とはしないが、松山収容所時代と思われる。ティッテル(Tittel)の項参照】。2001年7月、出身地ヴュルツブルクのシーボルト博物館で、ケーバラインが板東収容所等で写した写真等で構成された「極東で俘虜となって―日本の収容所におけるドイツ人」と題した展示会が開催された。ヴュルツブルク出身。(2972:松山→板東)
1236) Koch(コッホ),Erwin von(1883-1945):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[ハンブルク・アメリカ汽船香港支店]。1883年9月28日銀行員の子としてハンブルクに生まれた。神奈川県茅ヶ崎で商人として従事、1914年1月29日、ゲルトルート・ライマース(Gertrud Reimers)と結婚した。丸亀時代、横浜市山下町198番地に住む妻のゲルトルートは、1915年1月29日から1917年2月6日までに23回面会に訪れて来た。丸亀北平山町39に住居を構えたと思われる。1917年9月13日、アメリカ経由でドイツに帰国するため最後の面会に訪れた【『丸亀俘虜収容所記事』及び『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第1ヴァイオリンを担当した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。1945年2月、ブダペストで没した。ハンブルク出身。(1955:丸亀→板東)
1237) Koch(コッホ),Heinrich(?-1914):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。[鍛冶職人]。1914年9月28日ヴァルダーゼー高地で俘虜となったが、負傷していたため久留米衛戍病院に送られた。10月25日コッホが重病に陥ると、樫村弘道所長と山本茂中尉は久留米衛戍病院に赴き、コッホから遺言を聞いたが、それは故国の母親によろしく伝えて欲しいとの一言だった。グラーボウ(Grabow)中尉、ベスラー(Boesler)少尉及び下士2名が病院に駆けつけた【『東京朝日新聞』大正3年10月27日付け記事】。10月25日同病院で死亡、軍人墓地に埋葬された。ハンブルク出身。(562:久留米)
1238) Koch(コッホ),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。また、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第1ヴァイオリンを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ギーセン出身。(1941:丸亀→板東)
1239) Koch(コッホ),Johann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。[シュトラウス商会上海支店]。板東時代、収容所内の商業区域タパタオの村長を務めた。また1917年7月17日に発足した「収容所保険組合」に第7中隊代表となって運営に従事した。1918年6月1日、軍楽曹長ハンゼン(Hansen)によってベートーヴェンの「第九交響曲」が板東俘虜収容所内で本邦初演された。その折り、コッホ、ヴェーゲナー(Wegener)2等歩兵、シュテッパン(Steppan)2等歩兵、フリッシュ(Frisch)2等歩兵の四人は第4楽章の「合唱」でソロを受け持った。さらに「ドイツ兵墓碑」の建設を提唱した。バイエルンのブルカースドルフ(Burkersdorf)出身。(1957:丸亀→板東)
1240) Koch(コッホ),Lambert(1888-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。ルクセンブルク王国人。アルジェーの外人部隊、モロッコの外人部隊と渡り歩いたが、素行不良で仏領印度に送られた。老開の国境守備軍に配属されたが脱走し、上海等転々としてドイツ軍に義勇兵として雇われた。日本に送られると、フランス大使館に欧州戦争への従軍を願い出るが却下された。松山時代の1916年3月2日、夜陰に乗じて共謀脱柵し、酒楼に登った科で重営倉30日に処せられた。また同年4月8日、「歩哨ノ制止ニ対シ速ニ服従セサリシ科」で重営倉20日に処せられた。板東ではヘルトレ(Haertle)、トロイケ(Treuke)、ヴァルシェフスキー(Waluschewski)、ツィンマーマン(Max Zimmermann)等の反ドイツ感情の強いポーランド人、ロシア系ユダヤ人と一緒に分置所に隔離収容された。【『日本人とドイツ人』94頁等】。1918年10月19日、分置所内の争いから、ヘルトレに対してヴァルシェフスキーとともに飲酒の上暴行して、営倉30日の処罰を受けた。後に宣誓解放された。ヴァツェラート(Watzerath)出身。(2968:松山→板東→習志野)
1241) Koch(コッホ), Robert Otto Rudolf(1891-1945):海軍膠州砲兵隊・予備上等掌砲副兵曹。[アイヒヴェンデ・ウント・シュレーダー(Eichwende & Schröder Co.)青島支店]。1935年6月13日マルガレーテ(Margaret Elisabeth Therese Freiin von Halkett)と結婚した。エアフルト郡のノルトハウゼン(Nordhausen)出身。(4216:「大阪→」徳島→板東)
1242) Koch(コッホ),Walter(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、オール(Ohl)とタパタオの13号A小屋で靴屋を営んだ。ザクセンのライスニヒ(Leisnig)出身。(4202:「大阪→」徳島→板東)
1243) Koch(コッホ),Wilhelm(1892-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1913年に中国へ渡り、北京に滞在したと思われる。1914年6月19日付けで北京から故国へ絵葉書を出している。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1919年4月20日に行われた「久留米体操クラブ」の5種競技(投擲用ボール投げ、石投げ(15kg)、幅跳び、棒高跳び、100m競争)では、得点82点で初級の2位になった。2007年、息子のヘルムート・コッホ氏から、総数155点に及ぶ絵葉書、漆塗りのアルバムに収められた彩色絵葉書、写真、印刷物が久留米市へ寄贈された。コッホが出した葉書8点が生熊 文氏の訳で、また収容所内の写した貴重な写真を含む54点が『ドイツ兵捕虜と収容生活』(久留米市文化財調査報告書第251集)に掲載されている。ザクセン・コーブルクのリーベンシュタイン(Liebenstein)出身。(1257:福岡→久留米)
1244) Köhler(ケーラー),Hans(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。板東時代の1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ケーラーは初級の部で132点の得点をあげて一位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。上部フランケンのハラーシュタイン(Hallerstein)出身。(3440:熊本→久留米→板東)
1245) Köhler(ケーラー),Heinrich(1890-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結後、蘭領印度に渡って官吏になった。解放後は蘭領印度のバタビアに渡った。ドゥイスブルク出身。(1216:福岡→習志野)
1246) Köhler(ケーラー),Wilhelm O.(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。1919年10月、習志野俘虜収容所で上演されたイプセンの『崩壊する社会』で、造船技師役で出演した。ハノーファー出身。(4387:「熊本→」大分→習志野)
1247) Kohlhepp(コールヘップ),Josef(?-?):第3海兵大隊・上等歩兵。[皮革工]。メッテンライター『極東で俘虜となる』によれば、ヴィルヘルムスハーフェン港に到着後クロイツァーは、ケーバーライン(Köberlein)、クロイツァー(Kreutzer)、ロッケンマイアー(Rockenmeyer)の四人で郷里のビュルツブルクに向かった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴュルツブルク出身。(1264:福岡→名古屋)
1248) Kohlunt(コールント),Wolfgang(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。[化学工]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。ハイデルベルク出身。(1201:福岡→習志野)
1249) Kolb(コルプ),Joseph(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、大太鼓を担当した。ミュンヘン出身。(1942:丸亀→板東)
1250) Koll(コル),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代、公会堂の日曜講演会で「新旧神学の違い」と題して講演した。バルメン出身。(2964:松山→板東)
1251) Kollmeier(コルマイアー),Wilhelm(1894-1971):河用砲艦チンタオ乗員・1等焚火兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ミンデン郡のベールホルスト(Bölhorst)出身。(1273:福岡→習志野)
1252) Koellner(ケルナー),Karl(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。シャウムブルク伯爵領のローデン(Rohden)出身。(521:久留米)
1253) Kolster(コルスター),Hans(?-?):第3海兵大隊・予備陸軍少尉。遺品中に、1915年11月に高良内での日本軍将校達との写った写真、高良山麓の庭園での写真、1917年久留米寺院前での写真(遠足か?)、1918年秋の収容所脇の畑で野菜を植えている作業風景の写真、1919年6月18日久留米市黒木の矢部川での沐浴風景、音楽の練習風景の写真等が遺されている【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。ビーレフェルト出身。(3411:久留米)
1254) Kombuechen(コンビューヒェン),Johann(1893-1959):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』に用務員役で出演した。ドイツに帰国後の19.05.1921年5月19日、アンナ(Anna Wallmann,-1894)と結婚して子供三人をもうけた。ケルン近郊のパフラート(Paffrath)出身。(120:東京→習志野)
1255) König(ケーニヒ),Ernst(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。大戦終結後、第4次送還船で下記エーヴァルト(Ewald)と同船でドイツに帰国した。ポーゼン州ポツォリッツ(Podstolitz)出身。(3952:大阪→似島)
1256) König(ケーニヒ),Ewald(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ケーニヒは模型部門でボトルシップ6点、また楽器部門ではチター2点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78-79頁】。大戦終結後、第4次送還船で上記エルンスト(Ernst)と同船でドイツに帰国した。ポツォリッツ(Podstolitz)出身。(1220:福岡→青野原)
1257) König(ケーニヒ),Ewald(1882-1930):海軍膠州砲兵隊・後備1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会で飾り箱と駒付きのチェス盤を出品した。ザクセン=アンハルトのケーテン出身。(4636:大阪→似島)
1258) König(ケーニヒ),Hermann(?-?):国民軍・卒。[総督府・造船所職工長]。青島時代は小港小路(Kleiner Hafenweg)に住んでいた。1915年9月下旬に青島俘虜収容所に収容され、大戦終結後の1919年12月27日、同収容所から解放された。家族6人が青島に住んでいた。【『俘虜名簿』中ただ一人、収容所が青島となっている人物】。カイロ出身。(4687:青島)
1259) König(ケーニヒ),Jakob(1892-1964):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。[電気工]。1892年7月25日、鉱夫の子としてザールブリュッケンのハイリゲンヴァルト(Heiligenwald)に生まれた。1914年8月上記中隊に入隊した。久留米時代の1919年11月10日、習志野のマイレンダーに宛てて葉書を出した。葉書は(久留米名所)高山彦九郎先生之墓と肖像と記され、墓地と肖像を配した絵葉書である。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」の会合に参加した。1964年5月27日、ノイキルヒェンで死去。ザールブリュッケンのハイリゲンヴァルト(heiligenwald)出身。(1258:福岡→久留米)
1260) König(ケーニヒ),Leo(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備上等歩兵。[売薬業]。収容まもない1914年11月25日、名古屋衛戍司令官仙波第3師団長による収容所巡視前に、新聞記者との会見にカルクブレンナー(Kalkbrenner)とともに臨んだ。応召前まで横浜に11年居住し、名古屋にも何度か来た事があり、その度ごとに名古屋ホテルに投宿したと語った。会見終了に際してケーニヒは記者に、日本の新聞の貸し出しを頼み、立会いの中尉から寄贈の許可を得た。名古屋俘虜収容所ではライマース(Reimers)少尉及びカルクブレンナーとともに日本語を解する俘虜だった【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、762-763頁】。1914年(大正大三年)12月10日付けの新聞『新愛知』には、アーラース(Leonhard Ahlers)、ケーニヒ、ライマース(Otto Reimers)及び少年兵ビーン(Ludwig Bien)の四人の写真が掲載された。ビーンを除く三人は日本語通とされている。ローマン(Lohmann)もしくはシュテーゲマン(Steegemann)の遺品と思われる写真中に、雪の日(1915年1月15日と思われる)に、収容所の外の垣根の脇で、手袋をはめた右手を平を向けている写真、ヤンゼン(Jansen)、カルクブレンナー、シュテッフェンス(Steffens)の四人が雪の上に並んで立っている写真、更には、エンゲルホルン(Engelhorn)、ミールク(Mielck)等五人で藪の草むらに座っている写真が現存している。1919年に開催された名古屋収容所俘虜製作展覧会のカタログには、名古屋俘虜収容所で「電報通信」という、日本の新聞からの最新ニュースを翻訳して俘虜に知らせる情報誌があったことが記されている。それによると、日本の新聞記事の翻訳に当たったのは、ケーニヒ、シェーラー(Scheerer)及びシャル(Schall)の三人だった【校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅱ」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号83頁】。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。シュテッティン出身。(2578:名古屋)
1261) König(ケーニヒ),Paul Hermann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。俘虜番号1960の同姓同名のケーニヒと区別するため、ケーニヒⅡと称された。板東時代、収容所内印刷所から『板東俘虜収容所漫筆』(Plauderei aus dem Kriegsgefangenenlager Bando in Japan)の本を出した。1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ケーニヒは107½点を挙げて古参選手の部7位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ワイマール出身。(1959:丸亀→板東)
1262) König(ケーニヒ),Paul(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[東アジア・ロイド新聞]。俘虜番号1959の同姓同名のケーニヒと区別するため、ケーニヒIと称された。ワイマール出身。(1960:丸亀→板東)
1263) Konitzky(コニツキー),Ferdinand A.(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン広東支店]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日が開催された21キロの競歩大会においては(当時29歳)、2時間30分17秒5分の2で27位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。ブレーメン出身。(3433:熊本→久留米→板東)
1264) Konopacki(コノパキー),Günther(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1907年11月から1913年8月までフレンスブルクに居住した。両親はすでになく、兄弟が同地に住んでいた【【俘虜ニ関スル書類】より】。フレンスブルク出身。(1207:福岡→久留米)
1265) Koonen(コーネン),Alois(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。板東時代の1918年9月、「板東健康保険組合」の砲兵大隊代表理事に選ばれた。オイペン出身。(4211:「大阪→」徳島→板東)
1266) Koopmann(コープマン),Georg H.(1891-?): 総督府・2等信号兵曹。[蘭領印度官吏]。解放後は蘭領印度に渡って、バタビアのドイツ総領事館に勤務した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのエルムスホルン(Elmshorn)出身。(2260:姫路→青野原)
1267) Kopietz(コピーツ),Franz(?-?):第3海兵大隊・後備上等歩兵。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenroheweg)に住んでいた。上部シュレージエンのコーゼル(Cosel)郡ポボルシャウ(Poborschau)出身。(4635:大阪→似島)
1268) Kopka(コプカ),Georg(?-?):第3海兵大隊重野戦砲兵隊・2等砲兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゲルゼンキルヒェン郡のレーリングハウゼン(Röhlinghausen)出身。(1270:福岡→名古屋)
1269) Koepke(ケプケ),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジータス-プラムベック青島支店]。メクレンブルク=シュヴェーリンのミロウ(Mirow)近郊クヴァルツォウ(Qualzow)出身。(2966:松山→板東)
1270) Kopp(コップ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊・海軍大尉。〔会前岬砲台指揮官〕。青島時代はキリスト小路(Christweg;日本による占領・統治時代は逢坂通)に住んでいた。俘虜として日本に向かう折り、沙子口で輸送船薩摩丸に二匹のダックスフントを連れて乗船した。熊本時代の1914年12月19日、ヘレーネ夫人から同棲願いが出されたが不許可になった。1915年1月3日、妻が陸軍大臣の許可を得て面会に訪れた。以後は所長の計らいで、毎週火曜午前9時から面会出来ることになった。久留米時代、夫人は国分村浦川原の森新別荘に住んだ。1918年3月スイス公使宛に、ドイツアジア銀行清算に伴い送金された625円は元来妻子宛のものが誤送されたとして、12日転送された。同年8月5日、ガウル中尉、マイアーマン中尉等90名と板東収容所に配置替えになった。3名の夫人達は久留米を引揚げて、しばらく箱根で静養した。その後も皇帝から拝領したと称する犬と一緒で、板東まで連れていった。その犬は板東を描いたスケッチにも登場する。内一匹は収容所長松江大佐の息子にプレゼントされ、「太郎」の名が付けられた【『日本人とドイツ人』64頁等】。1915年6月熊本から久留米へ、また1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時37歳)、2時間46 分29 秒で「シニアの部」で16人中の第11位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ドレスデン出身。(3467:熊本→久留米→板東)
1271) Koralewski(コラレフスキー),Josef(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・予備伍長。[カッセラ商会の日本支店・染料製造業]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ポーゼンのグネーゼン(Gnesen)出身。(1266:福岡→名古屋)
1272) Korch(コルヒ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、ヴィオラを担当した。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)は2時間25分00秒で13位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ベルリン出身。(1962:丸亀→板東)
1273) Körner(ケルナー),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。[靴職人]。板東時代の1918年3月11日、板東町の玉川料理店に女物小紋模様の袷の着物を着て、裏口から押し入りビールを飲ませるよう強要したことで重営倉5日に処せられた。また後に、収容所から800メートル離れた農家の戸をポケットナイフで開けて入り込んだところを住民に発見され、住居侵入と脅迫を伴う逃走で3年の懲役に処せられた。【『日本人とドイツ人』159-160頁】。ブラウンシュヴァイク出身。(4209:「大阪→」徳島→板東)
1274) Körner(ケルナー),Peter(1880-1919):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等焚火兵。1880年5月2日、日雇い労働者の子として生まれた。1914年8月上記中隊に入隊した。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の1916年12月20日、大分のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は、日本髪の女性が、茶托に載せた蓋付きの茶碗を持っている図柄の写真の絵葉書である。裏面の文面は次の通り。「最良のクリスマスと良き新年を」【マイレンダーの項参照】。習志野時代の1919年1月8日、9日に収容所で演じられた、ハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に年金生活者役で出演した。その月の1月31日習志野でスペイン風邪で死亡。ザールブリュッケン出身。(1187:福岡→習志野)
1275) Kort(コルト),Rudolf(1891-1955):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ドイツに帰国後ルイーゼ(Luise Ida Marie Schiedt,-1896)と結婚し、国有鉄道に勤務した。マイレンダー(Mailänder)が第二次大戦後にコンタクトを取った人物【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。メクレンブルク出身。(4393:「熊本→」大分→習志野)
1276) Koslowski(コスロヴスキー),Hans von(?-?):消防隊本部・電話士。[青島のクリーネ商会(Kliene & Co.)]。青島時代はフリードリヒ街47番地に住んだ。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ダンチヒ出身。(4547:大阪→似島)
1277) Kothe(コーテ),Ernst(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[パン職人]。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン出身。(1228:福岡→青野原)
1278) Kothe(コーテ),Willy(1889-1970):海軍砲兵中隊・1等水兵。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。解放後蘭領印度に渡ったが、その後上海に赴いた。1925年7月24日結婚して、1927年4月21日に息子が生まれたが5月14日に妻は死んだ。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。デーレンブルク(Derenburg)出身。(3460:熊本→久留米)
1279) Kotter(コッター),Maximilian(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代、習志野劇場による「トーマの夕べ」で、トーマ作の1幕物田舎茶番劇『一等車』に車掌役で出演した。アスバッハ出身。(121:東京→習志野)
1280) Kotzold(コツォルト),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。シュレージエンのカトヴィッツ(Kattowitz)出身。(536:久留米)
1281) Kozer(コーツァー),Erich(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとコーツァーは、第1ヴァイオリンを受け持った。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。リューベック出身。(3455:熊本→久留米)
1282) Krabbel(クラッベル),Heinrich(1886-1982):第3海兵大隊第3中隊・予備副曹長。久留米時代は演劇活動で、レッシング作の喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』等6演目に出演した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのイーゼルローン(Iserlohn)出身。(3413:熊本→久留米)
1283) Kraft(クラフト),Diederich(?-1917):海軍膠州砲兵隊・2等焚火兵。1917年3月1日大阪衛戍病院で死亡、真田山陸軍墓地に埋葬された。当時35歳だった。【クラフトの死亡時点では、大阪俘虜収容所はすでに閉鎖され、書類上ではクラフトは似島俘虜収容所に移送されていることになっていた】。墓碑銘の冒頭部「獨逸俘虜…」の内、「俘虜」の二文字は昭和6年5月8日以降に第四師団阿部師団長の決断によって、名誉のために削り取られたと考えられる【参照:『大阪毎日新聞』昭和6年5月7日朝刊(大阪版)】。『俘虜名簿』の「日本軍埋葬戦病死者」の「遺族住所」欄には、妻の連絡先としてブレーメンのヴィルヘルムスハーフェン街22番地とされている。ハノーファー州のヘヒトハウゼン(hechthausen)出身。(4542:大阪→[似島])
1284) Krämer(クレーマー),August(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのティールゲ(Tielge)出身。(1230:福岡→青野原)
1285) Kraemer(クレーマー),Ernst(1890-1963):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。1890年4月4日、工場労働者の子としてザンクト・ヨーハン(今日のザールブリュッケン)に生れた。1914年8月上記中隊に入隊した。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザールブリュッケン出身。(3416:熊本→久留米→板東)
1286) Krämer(クレーマー),Hermann(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1919年2月11日スペイン風邪により習志野で死亡。ブレーメン近郊のシュマーレンベック(Schmalenbeck)出身。(1194:福岡→大分→習志野)
1287) Krampe(クランペ),Adolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・曹長。[青島山林局]。丸亀時代、感冒で倒れたマックス・ブンゲ(Max Bunge)に代って第7中隊班長を務めた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、名東郡教育会代表及び同郡小学校教員に、鳥類剥製の技術指導をした。1918年8月、板東収容所の山外れに完成した「ドイツ兵墓碑」のある墓地の造園を担当した。ポンメルンのシュメンツィン(Schmenzin)出身。(1954:丸亀→板東)
1288) Kranz(クランツ),Julius(1888-1961):海軍膠州砲兵隊第3中隊・兵曹。徳島時代の1916年8月初め、それまでの調理長フムピヒ(Humpich)からその役目を引き継いだ【「『トクシマ・アンツァイガー(徳島新報)』紹介」37頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、「Kuriyama」の「Shinohara商会」に勤めた。エリーザベト(Elisabeth)と結婚して子供二人をもうけ【二人は1926年と1928年生まれ】、ドイツに帰国後更に二人の子供をもうけた【1941年と1945年生まれ】。1956年、エルベ河畔のダンネンベルク(Dannenberg)からハンブルクに移り住んだ。「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。『鳴門市ドイツ館館報第16号』には、「ピウカに住んだドイツ人」としてクランツの紹介とお願いの文章が掲載されている。それによれば、クランツは北海道の旭川の北100キロの「美深」という町に若いドイツ人の妻と住んでいた。1923年から4年間、松浦周太郎の経営する製材工場と協力したとのことである。しかしクランツ夫人が火事を出して小樽に転勤し、やがてドイツに帰国したとされている。大正11年12月25日に、松浦周太郎と一緒に写した写真が掲載されている。なお、クランツはドイツ人女性と結婚する前に、日本人女性と付き合って男の子をもうけたことが記されている。ヘッセンのハイガー(Haiger)出身。(4191:「大阪→」徳島→板東)
1289) Kraschinski(クラシンスキー),Eduard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。東プロイセンのアレンシュタイン(Allenstein)行政区のグロスコシュラウ(Grosskoschlau)出身。(2950:松山→板東)
1290) Krase(クラーゼ),Hans Albert Carl Martin(1892-1938):第3海兵大隊第2 中隊・2等歩兵。メクレンブルク=シュヴェーリンのテテロウ(Teterow)出身。(1741:静岡→習志野)
1291) Krätzig(クレッツィヒ),Curt(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[貸家業]。青島時代はフリードリヒ街125番地に住んだ。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。妻マルガレーテ(Margarete)は大戦終結まで青島に留まった。シュレージエンのヘーニゲルン(Hönigern)出身。(1956:丸亀→板東)
1292) Kraus(クラウス),Simon(?-1919):海軍砲兵中隊・後備2等焚火兵。ヴィルヘルム・ベーマー(Böhmer)と喧嘩事件を起こした。1919年1月26日習志野で死亡。ハンブルク出身。(139:東京→習志野)
1293) Krause(クラウゼ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ランガーハウゼン(Langerhausen)郡のオーバースドルフ(Obersdorf)出身。(537:久留米)
1294) Krauss(クラウス),Adolf(?-?):国民軍・卒。[ベディカー商会(Boediker & Co.)]。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。ブレーメン出身。(4688:大阪→似島)
1295) Krauss(クラウス),Jakob(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、タパタオで薬局を営んだ。1918年9月には、「板東健康保険組合」の第5中隊代表理事に選ばれた。ヘッセンのツヴィンゲンベルク出身。(2951:松山→板東)
1296) Krautwurst(クラウトヴルスト),Fritz(1889-1969):第3海兵大隊第6中隊・予備上等歩兵。ロシアのウラジオストックから青島に馳せ参じた。プファルツのピルマゼンス(Pirmasens)出身。(2579:名古屋)
1297) Kreike(クライケ),Carl-Friedrich(1884-1946):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・後備伍長。熊本時代の1914年12月14日、収容されていた西光寺を脱柵しようとした科で、歩兵23連隊の営倉で重営倉1日の処罰を受けた。久留米時代は演劇活動で、マイアー=フェルスター作の『アルト・ハイデルベルク』等3演目に出演した。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)102頁には、娘のウテマリー・リースナー氏から久留米市に寄贈された写真二点が掲載されている。一点は1916年の久留米収容所時代のスナップ写真で、もう一点は13名が食卓を囲んでいる写真である。上記文献に拠れば、解放後クライケは1926年までエッセンのドイツ銀行に勤め、その後ハノーファーの広告会社に勤務、1935年から1945年までベルリン本社の外国部部長を務めた。しかし、第二次大戦後にソ連の捕虜となり、1946年冬にワイマール近郊のザクセンハウゼンの収容所で死亡したといわれる。ミュンデン(Münden)出身。(3437:熊本→久留米)
1298) Kremer(クレーマー),Christian(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1917年5月24日、情報局から各俘虜収容所へ伝えられた、製針業に従事したことがあってかつ労役を希望する者の照会に対して、久留米俘虜収容所ではクレーマー他3名を届けた。アーヘン出身。(1262:福岡→久留米)
1299) Kremer(クレーマー),Joseph(?-?):第3海兵大隊第5中隊・1等歩兵。松山時代、収容所新聞『陣営の火』の印刷に従事し、板東でも『日刊電報通信』及び『バラッケ』の印刷に携わった。アーヘン出身。(2953:松山→板東)
1300) Kretschau(クレチャウ),Karl(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1917年11月10日に開催された「1917年スポーツ週間」の「森林競歩50km」(参加者10名)で、5時間53分16秒を記録して2位に、また1919年10月25日の「15km競歩」にも出場して3位になった。ザクセンのゲヒュフテ(Gehuefte)出身。(550:久留米)
1301) Kretschmer(クレッチュマー),Alfred(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等信号兵。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(3471:熊本→久留米)
1302) Kretzschmar(クレッチュマー),Ernst(?-?):所属部隊不明・1等水兵。[青島税関所]。1919年2月26日、スイス公使を通じて天津在住の妻を看護したいとの請願書を出した。シュテッティン出身。(4546:大阪→似島)
1303) Kretzschmar(クレッチュマー),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。大阪時代の1915年(月日不明)、「蚊帳内ニ於イテ蝋燭ニ点火シタルノ行動ハ予テ之ヲ禁止シタル日本官憲ノ命ヲ遵守セサル科」で重営倉5日の処罰を受けた。1919年1月21日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、1月26日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザクセン=アルテンブルクのロンネブルク(Ronneburg)出身。(3959:大阪→似島)
1304) Kretzschmar(クレッチュマー),Hugo(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[製陶職人]。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。ベンネヴィッツ(Bennewitz)出身。(1249:福岡→青野原)
1305) Kretzschmar(クレッチュマー),Otto(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に編み靴下を出品した。ライプチヒ出身。(1946:丸亀→板東)
1306) Kretzschmar(クレッチュマー),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。規定の物品購入法を遵守しなかった科で軽営倉1日の処罰を受けた。エルベ河畔のピルナ(Pirna)出身。(2590:名古屋)
1307) Kreutz(クロイツ),Franz(1879-?):青島砲兵兵器庫・海軍火工少尉。1898年3月海軍に入った。1912年1月13日ククスハーフェンの砲兵兵器庫火工少尉。1915年8月31日付けで火工中尉。1920年3月8日海軍大尉で退役した。ベルリン出身。(2257:姫路→青野原)
1308) Kreutz(クロイツ),Johann(1892-1942):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1892年4月1日、精錬工の子として今日のザールブリュッケンに生れた。1914年8月上記中隊に入隊した。ザールブリュッケン出身。(1195:福岡→大分→習志野)
1309) Kreuzer(クロイツァー),Johann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、スポーツクラブではレスリングをした。クロイツァーが遺した日記が、第三者によってタイプ打ちされたものが、連邦軍事公文書館に保存されている。その内の一部、青島から丸亀俘虜収容所に送られ、やがて板東俘虜収容所での生活、ドイツへの帰国の様子が高橋輝和氏によって「ヨーハン・クロイツァー「日本における私の俘虜生活」」と題されて翻訳された【参照『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号111~128頁】。それによると、クロイツァーは板東時代、拘禁生活からの精神錯乱に陥った俘虜を、その腕力の強さから看護人の任務を果たした。なお、メッテンライター『極東で俘虜となる』によれば、ヴィルヘルムスハーフェン港に到着後は、ケーバーライン(Köberlein)、コールヘップ(Kohlhepp)、ロッケンマイアー(Rockenmeyer)の四人でビュルツブルクに向かった。ビュルツブルク到着後クロイツァーは、ケーバーラインとともにその家に一緒に赴き、夕方自分の郷里の家に向かった。ヴュルツブルク近郊のアルベルツハウゼン(Albertshausen)出身。(1950:丸亀→板東)
1310) Krewerth(クレーヴェルト),Leonhardt(?-?):所属部隊・階級不明。[巡査]。青島時代はハンブルク街に住んでいた。松山時代に山越の日曜講演会で、「刑事警察の鑑識」と題して講演した。デュッセルドルフ出身。(2988:松山→板東)
1311) Krichau(クリーヒャウ),Jens(?-?):総督府・2等筆記。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』66頁】。フレンスブルク出身。(2261姫路→青野原)
1312) Krieger(クリーガー),Karl(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。板東時代、松山ホッケー協会の役員を務め、また無料水泳教室の教官も務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フランクフルト近郊のグリースハイム出身。(2974:松山→板東)
1313) Krogh(クロー),Martin(?-?):国民軍・階級不明。[商人]。青島時代は妻アンナ(Anna)とフリードリヒ街に住んだ。1919年10月28日、スゥエーデン大使に宛てて、中国には家族、財産、仕事もあることから、ドイツへの帰還船に乗せられることなく、自費で青島に出発したい旨の請願書を出した【『俘虜ニ関スル書類』より】。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのゾンダーブルク出身。(4544:大阪→似島)
1314) Kroll(クロル),Otto(1890-1980):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ドイツ帰国後も独身で通した。ミトゥルム(Midlum)出身。(137:東京→習志野)
1315) Kropatschek(クロパチェク),Hans W.(1878-1935):海軍東アジア分遣隊参謀本部・陸軍少尉。[青島ロシア副領事館副領事]。帝国議会議員へルマン・クロパチェク(Hermann Kropatschek)の息子として、ブランデンブルクに生まれた。母親はロシア人であった。19歳でロストック歩兵第90連隊少尉になった。しかしその後、父へルマンの希望でロシアに赴いて通訳学校に通った。学校生活を終えると再び軍隊に入った。1900年から1901年にかけて起こった義和団事件の際には派遣軍の一員となり、ペッツェル(Petzel)陸軍少将の副官を務めた。その際には大沽要塞の監視任務にも就いた。1904年ドイツ参謀本部附きとなったその年、ペッツェル少将の長女マルガレーテ(Margarete Petzel;1880-)と婚約し、翌年結婚した。ペッツェル少将が清国駐屯軍司令官神尾光臣少将と知己だったことから、神尾少将から仙台箪笥を贈られた。結婚を機に軍隊生活を離れて、短期間ハンブルクのハンブルク汽船会社で業務を習い、1905年青島のハンブルク汽船会社で従事することになった。傍らロシア副領事館の副領事を務めた。1914年8月3日に総督府から動員令が発せられると、副領事の職を放棄して青島独軍に参加した【〔写真20〕参照】。10月7日の晩、ベルリン福音教会の教区監督フォスカンプの家を訪問していた時、山東省の省都済南が日本軍によって占領されたとの知らせが届いた。山東鉄道並びにその沿線は既に日本軍の支配下にあったことから、その情報は伝書鳩によるものと居合わせたクロパチェクは推測した。兄が神学者だったことでフォスカンプとは親しかった【Voskamp《Aus dem belagerten Tsingtau》45-46頁】。青島時代はビスマルク街(Bismarckstraße)に住んでいた。日独戦争により、ビスマルク街の家が砲弾で壊されて住めなくなると、一家はギュンター民政長官の家に移った。外交官としての身分の主張、神尾青島守備軍司令官との縁故を模索したが、不首尾に終わって日本へ移送された。『大阪時事新報』(大正4年3月24日付け)のよれば、クロパチェクは23日早朝に薩摩丸で神戸に着き、午後4時に大阪港へ向かった。総勢は19名であった。前日23日付けの『大阪時事新報』では、クロパチェクが北清事変では福島安正大佐の指揮下にあり、日露戦争時にはステッセル将軍麾下にあったとされている。妻マルガレーテ(Margarete)は、娘のイルムガルト(Irmgard;1906-)と息子ハンス(Hans;1908-1982)の三人で大戦終結まで青島に留まった。大戦終結して解放後の1920年3月、妻子を日本に呼び寄せた。三人は大阪商船の台北丸で神戸に着き、神戸からは鉄道で横浜に向かった。一家は横浜山手の「ブラフ」126番の家に住んだが、それは休暇中のドイツ人の家であった。クロパチェクは当初イリス商会の倉庫清掃係りとしての職を得たが、神戸のHapag-Lloyd 汽船就職を願っていた。そこで一家は神戸の郊外へ移った。しかし、Hapag-Lloyd への就職は不首尾に終わり、再び横浜の根岸へ引っ越した。子ども達をドイツで教育させるために、1922年9月3日、日本商船の熱田丸で横浜を出港してドイツに帰国した。その後郷里に戻り、1935年9月23日イルフェルト(Ilfeld)に没した。息子ハンスによって記されたクロパチェク一家の歴史(Aus dem Leben der Familie Hans Kropatschek)が、シュミット氏のホームページに掲載されている。ブランデンブルク出身。(4637:大阪→似島)
1316) Krueck(クリュック),Hermann(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。板東時代の1918年9月、「板東健康保険組合」の第6中隊代表理事に選ばれた。ゲッティンゲン出身。(2960:松山→板東)
1317) Krug(クルーク),Albert(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野砲兵。1919年10月4日、名古屋市内の明倫中学校校庭で行われた「日独混合蹴球戦」で、白軍のRH守備の選手として出場した。試合の結果は白軍が2対1で黒軍を破った。この試合の模様は、10月6日付けの新聞『新愛知』で詳細に報じられた。なお、バイアー(Beyer)、ビーン(Ludwig Bien)、クルーク、クドラ(Kudla)及びシュテーゲマン(Stegemann)以外の6名の名古屋の俘虜は、同姓が二名以上いる等から特定することが不可能である。ザンクト・ガレン(St.Gallen)出身。(2597:名古屋)
1318) Krug(クルーク),Bertram(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。[青島山林局]。板東時代、「ドイツ兵墓碑」の建設に際して造園を担当した。また、工芸品展には実に1000点にも及ぶ植物並びに種子の標本採集を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(1952:丸亀→板東)
1319) Krüger(クリューガー),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等砲兵。[山東鉄道鉱山部・簿記係]。応召前は済南に住んでいた。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。下部エルザスのアンドラウ出身。(1740:静岡→習志野)
1320) Krüger(クリューガー), Karl(1892-1980):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。〔イルチス砲台〕。西プロイセンのトルン(Thorn)近郊のペンザウ(Pensau)村に生まれた。父は指物師の親方であったが、長患いの後若くして亡くなった。9人兄弟の長男だったクリューガーは12歳の時、ポツダムの陸軍孤児院に預けられた。金釦の付いた美しい軍服が着られて、兵士になれることを喜んだ彼は、厳しい訓練をものともしなかった。15歳の時、多くの仲間とは違って職人となることより、軍学校に入ることを選んだ。18歳の時、陸軍と海軍との選択では海外への憧れから後者を選んだ。ククスハーフェン(Cuxhaven)で数ヶ月特別訓練を受けた後、青島に派遣されることになり、1911年1月12日北ドイツ・ロイド汽船ネッカー(Nekar)号でドイツを出発して、3月1日に青島港に到着した。2年間の勤務の後休養休暇も兼ねていったん帰国し、ククスハーフェンで新兵訓練の任務に就いた。1914年2月末、ハンブルク・アメリカ汽船パトリーツィア(Patricia)号で再び青島勤務へと赴いた。青島からは俘虜として印度丸で門司港に入った。福岡時代は、北地域の第2棟(2階建て)に住み、ミリエス(Millies)と同室だった。その2階からは、斜め向かいにある料亭に出入りする芸者を見ることが出来た。それは禁じられていたことではあるが、俘虜の最大の楽しみであった。福岡時代は退屈が俘虜達をなによりも困らせた。時に九州帝国大学や福岡高等工業専門学校の学生・生徒達が料亭で宴会を開き、やがて表の通りに出て、俘虜達に聞こえるように、ドイツ民謡をドイツ語で歌ったりした。福岡時代に知り合いになったオストマン(Ostmann)は、やがて演劇グループを結成し、レッシングの喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』を上演した。舞台は第2棟で中庭が観客席だった。その後シラーの『群盗』も上演され、幕間には音楽の演奏もあった。ミリエスはその後毎日のようにヴァイオリンを演奏し、時に音楽に関する講義も行った。福岡時代には、かつてのイルチス砲台守備に当った第4中隊の集合記念写真が残されている。クリューガーも写っているが、マイレンダー(Mailänder)の遺品にもあったことから【マイレンダーの項を参照】、二人は同じ中隊に属したと推測できる。1915年9月15日、レムケ(Lemke)、ルドルフ(Rudolff)等の94名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して解放後の1919年12月25日、習志野を出発し、翌26日神戸に着き、28日喜福丸でドイツに向かった。1920年ドイツに帰国後は、エルビングの保安警察に3年勤務した。1923年2月1日から裁判所に移った。1923年1月に結婚し、一男一女をもうけた。1945年には後備衛生副曹長として従軍した。1957年、34年間に及ぶ裁判所を上席検査官で退職して年金生活に入った。年金生活の3年後に妻を亡くして男やもめとなった父親に、軍隊生活の回想記執筆を促したのは息子のユルゲン(Jürgen)で、1970年のことであった。息子のユルゲン・クリューガー氏によって編纂されたその回想記『ポツダムから青島へ』(Von Potsdam nach Tsingtau)は、青島(チンタオ)でのドイツ兵士の生活の様子が生き生きと描写されている。1919年の夏には、習志野収容所で映画上映があったこと、主としてアメリカ映画ではあったが、日本映画やドイツによる第一次大戦記録映画の上映もあり、「チャップリン映画」を初めて見たとも記している。また、福岡及び習志野の収容所での出来事や、大戦終結して帰国する船上・船外の光景も描かれている。日記ではなく、俘虜生活を終えてから50年後の回想記はであるが、貴重な文献となっている。俘虜に対する日本人の好意的な姿勢が読者の目を引く。懲罰のこともごく僅かに触れられているが、それは俘虜達のいたずらや逃亡の企てに起因するものとされている。俘虜にとっての最大の敵は退屈であり、そこで活発な学習、講演、演劇,音楽、体操等の活動が生まれた、と解説のクレープス教授は記している。【フランクフルトの「戦友会」に出席したとの記述がある。「バンドー会」のことと思われる。参照:『ポツダムから青島へ』175頁】。1980年11月9日、ブレーマーハーフェン・ゲーステミュンデのキリスト教系老人福祉施設で死亡した。西プロイセンのトルン(Thorn)近郊出身。(1215:福岡→習志野)
1321) Krüger(クリューガー),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備砲兵伍長。[商船機関士]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、カール・クリューガー(Karl Krüger)と同じ部屋に住んだ。カール・クリューガーの仲間達の中では最年長で、結婚していた。ポンメルンのカーゼブルク(Caseburg)出身。(1203:福岡→習志野)
1322) Krueger(クリューガー),Willy(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点106で初級6位になった。解放後は蘭領印度に渡った。ポンメルンのドレンチヒ(Drenzig)出身。(538:久留米)
1323) Krull(クルル),Carl(1887-?):海軍砲兵中隊・海軍中尉。〔台西鎮並びに衙門砲台守備隊指揮官・日本軍による包囲後は歩兵堡塁中間防備〕。青島時代は旧衙門(Altes Yamen;清国時代の官衙)に住んでいた。1914年11月6日夕刻、第2歩兵堡塁攻防の戦闘によるシャリエール中尉の戦死後、第3海兵大隊自動短銃隊指揮官を兼務し、大港埠頭付近の地雷敷設も担当した。11月9日の青島開城交渉ではドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。11月13日、日本側の開城委員である堀内少将に、日ごろ丹精していた鉢植え一鉢を贈り、翌14日堀内少将から送別に絵葉書を贈られた。ブレスラウ管区のフリートラント(Friedland)出身。(1183:福岡→習志野)
1324) Kruschinski(クルシンスキー),Karl(?-?):海軍野戦砲兵隊・後備上等兵。[山東鉄道・四方倉庫係助手]。大戦終結後、青島で中国人資本による輸出入会社の支配人として勤めた。シュレージエンのピチェン(Pitschen)出身。(4386:「熊本→」大分→習志野)
1325) Kruse(クルーゼ),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオで洋服屋を営んだ。ハノーファーのエックシュトゥム出身。(2957:松山→板東)
1326) Krusewitz(クルーゼヴィッツ),Georg(?-?):砲兵兵站部・1等砲工技手。1901年10月1日海軍に入った。青島時代はダンチヒ街(Danzigerstraße)に住んでいた。姫路時代の1915年2月20日付けで、妻マルガレーテ(Margarete)宛てに出した絵葉書が遺されている。横浜公園(山下公園?)での家族連れの光景の絵葉書である。葉書のは中身は以下のように子供宛である。「可愛いフークちゃんへ!ママからの便りでは、葉書が届いて嬉しかったそうなので、今日も一通送ります。いつもおりこうさんにしているんでしょう?ママとテオ宛にも送ります。心をこめて、パパより」【〔図7〕参照。高知在住の郵趣家河添潔氏所蔵俘虜郵便より】。妻は子ども三人(いずれも12歳以下)と、大戦終結まで上海(当初は青島)で暮らした。プロイセンのオステ(Oste)河畔ノイハウス(Neuhaus)出身。(2258:姫路→青野原)
1327) Kubernat(クーベルナート),Max(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月5日に上演開催された「習志野劇団主宰者マルフケ(Marufke)のための謝恩の夕べ」で、第2部の1幕物の茶番劇「当り籤と空籤」に、マルフケ演じる主役の娘マリー役で出演した。西プロイセンのコモルスク(Komorsk)出身。(122:東京→習志野)
1328) Kuch(クーフ),Emil(1894-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で駒付きチェス版を出品した。バーデンのエッピンゲン(Eppingen)出身。(3957:大阪→似島)
1329) Kudla(クドラ),Karl(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野砲兵。1919年10月4日、名古屋市内の明倫中学校校庭で行われた「日独混合蹴球戦」で、白軍のRH守備の選手として出場した。試合の結果は白軍が2対1で黒軍を破った。この試合の模様は、10月6日付けの新聞『新愛知』で詳細に報じられた。なお、バイアー(Beyer)、ビーン(Ludwig Bien)、クドラとクルーク(Krug)及びシュテーゲマン(Stegemann)以外の5名の名古屋の俘虜は、同姓が二名以上いる等から特定することが不可能である。ヴェレンドルフ(Wellendorf)出身。(2596:名古屋)
1330) Kügeler(キューゲラー),Peter(1893-1977):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。ドイツに帰国後の1922年5月アグネテ(Agnete Leister)と結婚して娘二人をもうけた。長年デューレンの警察に勤務した。ラインラントのデューレン(Düren)出身。(1743:静岡→習志野)
1331) Kugler(クーグラー),Leopold(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。松山時代の1915年6月15日、ヴィルヘルム・ジームセン(Wilhelm Siemssen)とともに婦女に戯れることが目的で、6月12日に夜陰に乗じて脱柵して民家に至った(目的は果たさず)した咎で重営倉20日に処せられた。バイエルンのバイセンベルク(Beissenberg)出身。(2954:松山→板東)
1332) Kühlborn(キュールボルン),Georg(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備陸軍少尉。[北京大使館通訳官]。当時29歳。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。キュールボルン少尉は、前列向かって右から二人目である【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1〕参照】。1916年10月4日、ランセル大尉、ラミーン中尉、シュリーカー中尉、フェッター中尉、シェーンベルク少尉、アダムチェフスキー少尉とともに丸亀から大分に移送された。1918年2月9日、大分の遊廓「春日楼」に従卒ナーゲル(Nagel)及びダオデルト(Daudert)の三人で登楼して夜を過ごした咎で、20日に禁錮30日の処罰を受けた。見事な筆跡で「高松市本町長野正」等の日本人名で記帳した。大戦終結して解放後は北京に戻り、北京大使館秘書官に就いた。やがて結婚して息子一人をもうけた。1930年奉天領事になったが1945年以後、ソ連軍によってシベリアに送られて死亡したと推測されている。カッセル出身。(1938:丸亀→大分→習志野)
1333) Kuhlhoff(クールホフ),Hugo(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。父親はルール地方のヴィッテンヘーヴェンでホテルを経営していた。「フォーゲルフェンガーの日記」の1916年12月31日の記述には、クールホフが75名の将校ための厨房第1コックを務めていたことが記されている【「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページの「論文・記事等」中の、「資料」に掲載されている「フォーゲルフェンガー日記」(ファン・デア・ラーン/小阪清行共訳)より】。ヴェストファーレンのヘーヴェン(Heven)出身。(1250:福岡→習志野)
1334) Kuhlmann(クールマン),Hermann Ferdinand(1892-1938):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。ドイツに帰国後ラウラ・トロースト(Laura Troost)と結婚して息子一人をもうけたが、1931年再婚した。オスナブリュック近郊のベルゼンブリュック(Bersenbrück)出身。(522:久留米)
1335) Kuhlo(クーロ),Paul(1866-1943):海軍東アジア分遣隊長・陸軍歩兵中佐。〔外方陣地部隊左翼陣地指揮官〕。[北京・天津守備隊司令官]。1884年3月陸軍に入隊し、1886年2月歩兵少尉、1893年9月中尉、1900年8月に大尉、1908年8月少佐、1912年から上記分遣隊長、1914年4月には中佐に昇進し、同年8月青島に派遣された【〔写真21〕参照】。1914年11月22日、鉄道(4両を使用)で品川八つ山ステーションに到着。一帯は数万の人の山であった。クーロ中佐は正服に身を包み、白銀造りの長剣を佩び列車外に出て下車を命じた。プラットホームでは日本婦人達が黄菊、白菊を手渡した。クーロ中佐は写真を撮ろうとすると、背を向けた。6時10分前に7台のボギー電車に分乗して、銀座・上野経由で浅草東本願寺門跡前に着いた。折りしもどしゃ降りの雨の中で日は落ちていた。午前中から弁当持ちで見物に来ていた群集で周辺はごったがえしていた。人員点呼に約30分、西郷寅太郎所長は「戦争は政治的関係で、人民其の者に対しては何等の敵意がない…」等の訓示をした。夕飯は平河町の寶亭の調理で、クーロ中佐には「コドレッドデボルク」という牛肉、馬鈴薯、人参の蓋物が一皿、スープ一皿、パンと紅茶が出された。東京俘虜収容所の先任将校だった。クーロ中佐は1907年に来日して東京に来たことがあった。また、光緒32年(1906年)6月20日付けで清国政府が発行した「執照」、及び明治42年(1909年)8月19日付けになる勲四等瑞宝章授与の勲記がクリスチアン・ボルマン(Christian Bormann)氏の元に所蔵されている。ボルマン氏はクーロ中佐の甥や曾孫とコンタクトをとり、クーロ中佐の油絵肖像画を譲り受けた。1914年12月中旬、浅草の東京俘虜収容所に収容されていたクーロ中佐宛てに、大日本仏教青年会から慰問の書簡が届いた。それに対するクーロ中佐の返書が12月29日付けの東京朝日新聞に掲載された。それによると、クーロ中佐は久しく仏教研究に携わり、またドイツに留学して今は著名の士となっている日本人と20年来交友を結んでいるとのことであった。浅草本願寺経営私立徳風幼稚園長稲垣実秀からクーロ中佐宛てた、大正4年(1915年)1月8日付けの候文書簡がボルマン氏の元に所蔵されている。稲垣実秀が運動用の曳綱を差し入れ、それに対するクーロ中佐の感謝状への返書である。幼稚園児の遊戯を撮影し、幼児手製の絵葉書を贈呈し、近々には園児の唱歌と遊戯を見せたいとする内容の書簡である。1915年2月21日付の朝日新聞に、クーロ中佐の手紙が某師団の語学教師によって印刷され、模範的ドイツ語として教材に使われている、との記事が掲載された。在アメリカ婦人義捐団体会長ベルタ・ゲッチュマン(Berta Getzschmann)女史は、日本の習志野収容所のクーロ中佐から再び興味深い手紙を受け取り、その抜粋が「日本からの手紙」と題されて『トリビューン(Tribüne)紙』に掲載された(掲載年月日は不明)。以下はその概要である。「大量の義捐物資再度到着いたしました。一同に成り代わって感謝申し上げます。特に沢山の『ガルテンラウベン(Gartenlauben)』のバックナンバーには一同とても喜び、早速図書室に配架されました。ところでご安心ください、大量の楽譜がきちんと私の手元に届きました。(これらの楽譜は指揮者T.R.レーゼ(Reese)とオマハのドイツ人音楽家達並びにブラフ委員会によって集められたもので、届くのに8ヶ月以上かかりました。)もしこの習志野に相応しい楽器と人員があれば、一部を我々自身のためにここに留めて置いたことでしょう。しかし私どもにはいくつかの弦楽器しか操れないので、本来の目的地である久留米へ送りました。そこではずっと大きなオーケストラが結成されています。彼の地の喜びは大きいことでしょう。(中略)貴女様からも、またアメリカ各地のからも新聞がたくさん届きました。シカゴのドイツ人同胞からは楽器が届けられましたが、恐らくそれは貴女様の呼びかけによるものと思われます。当地では暑い夏が訪れました。残念ながら私どもの緑地には期待していたほどの草花が茂りません。土地は肥沃ではありません。日本は想像されているほどには花芳しき国ではありません。独特の魅力はあります。しかし、3年ほど中国、日本、インド等を旅して1908年にドイツに戻ったとき、我が祖国の広葉樹林と山々の美しさに勝るものはないことが、私にははっきりと分かりました。神よ、じきに再びそれらを眼にすることが出来ますように!しかし私どもはなお耐え忍ばねばなりません」。【上記の新聞記事が掲載された時期は1915年ないしは1916年の夏と考えられる。即ち、習志野収容所の音楽活動で活躍したミリエス(Millies)が、福岡収容所から習志野へ移送された1916年10月22日以前と考えられるからである。しかし、『ドイツ兵士の見た日本』(63頁)には、1916年8月12日の「フランクフター・ツァイトゥング紙」に掲載された習志野の兵士の手紙によると、ドイツ系アメリカ人からの楽器・楽譜等の慰問品のことが触れられているとのことである。クーロ中佐の手紙とも考えられる】。また、ハインリヒ・ハム(Hamm)の日記には、クーロ中佐の名が頻繁に見出されるとのことである【「ハインリヒ・ハムの日記から」所載:『習志野市史研究3』参照】。習志野時代の1915年12月25日、収容所のクリスマスコンサートでは「クリスマスの鐘」をピアノ演奏し、またメンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第一番」からのアレグロとアンダンテを、ベーロウ予備少尉のチェロ、ヴォストマン軍楽兵曹のヴァイオリンに合わせてピアノ演奏した。1919年(大正8年)5月19日付けの東京朝日新聞第五面には、習志野収容所内の東屋の前に立つクーロ中佐の写真が掲げられている。講和条約調印も間近なって習志野収容所を訪れた記者に、花壇で土いじりをしていたクーロ中佐が語る面談記も同紙面に掲載されている。講和条約の内容について、「あれでは獨逸の國家が亡びてしまふ、國民は死ぬよりほかはない、聨合國がどうしても修正に肯じなければ獨逸は再び干戈を執って起つ迄のことである」と説いた。「俘虜生活は勿論不快だが然し日本に収容されて此優遇を受けてゐることは感謝の外ない」とも述べた。大戦終結して帰国後の1920年1月30日大佐に昇進(1917年1月27日発令)した。同年3月9日陸軍に入り、やがて『1914年7月31日及び8月1日の海軍東アジア分遣隊の天津並びに北京からの出動報告』と、『1914年青島包囲中の海軍東アジア分遣隊活動報告』(Kurze Beschreibung der Tätigkeit des Ostasiatisches Marine-Detachements während der Belagerung von Tsingtau 1914.)を提出した。1943年4月24日ビーレフェルトで没した。ビーレフェルト出身。(115:東京→習志野)
1336) Kuhn(クーン),Hermann(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・工兵少尉。エーリヒ・フィッシャー(Erich Fischer)の日記には、収容所仲間の人物評が記されている。クーン少尉についての人物評は次ぎの通りである。「現役少尉。プファルツ出身。上品な人で、気持ちの良い家庭出身。よくブリッジをしたが、ヒマラヤ丸に乗らないのが残念に思われる唯一の人物だ。」【『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(60頁-61頁)】。ラインプファルツのライマースハイム(Leimersheim)出身。(3448:熊本→久留米)
1337) Kühne(キューネ),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備1等焚火兵。久留米時代の1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)が設立されたが、その初代会長を務めた。1919年6月から日本製粉株式会社久留米支店に、蒸気機関火夫の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。アポルダ(Apolda)出身。(3468:熊本→久留米)
1338) Kühne(キューネ),Karl(1892-1918):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。早くに親元から離れ、ライプチヒの海軍歩兵隊に応募した。1912年10月2日キールの第1海兵大隊に入隊し、その後第3海兵大隊参謀本部に志願して、青島に向かった。1913年2月18日第3海兵大隊第4中隊に配属され、野戦工兵の特別教育を受けた後長く厨房本部入りし、戦争勃発時も厨房任務に就いていた。やがて銃を手にして、青島陥落の日の朝は塹壕の中にいた。自立と克己心の強い人間で、俘虜生活最初期の頃まだ多くの者が途方に暮れている時に、ヴァイオリンを習うためにヴァイオリン造りを始めた。製作費は義捐金を節約して充てた。一日の時間割はどんな事があっても変更しなかった。午前は英語、スポーツ、ヴァイオリン演奏、午後は速記か数学等で、それから再びスポーツ、徒手体操、そしてヴァイオリンであった【『バラッケ』第3巻第10号147-148頁より】。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1918年12月4日、スペイン風邪により板東で死亡。ライプチヒ近郊のゲリヒスハイン(Gerichshain)出身。(3424:熊本→久留米→板東)
1339) Kühnel(キューネル),Carl(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等砲工。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で金庫の模型1点を出品した。アーヘン近郊のアイラードルフ(Eilerdorf)出身。(3968:大阪→似島)
1340) Kuhnenfels(クーネンフェルス),Adalbert Freih. Kuhn von(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・海軍中尉(男爵)。日本軍による包囲後、歩兵堡塁中間地区の左翼側でフレーリヒ(Froehlich)中尉とともに、エリーザベト乗員の揚陸部隊指揮に当たった。『敵の手の中で』(In Feindeshand)の第22章「日本」の項には、クーネンフェルスの「日本における戦争俘虜―“わが俘虜時代の真面目なことと愉快なこと”」(Ernstes und Heiteres aus meiner „Furionenzeit“)が掲載されている。その時点でクーネンフェルスは退役海軍大尉で、ブダペスト在住となっている。ウィーン出身。(2265:姫路→青野原)
1341) Kühnert(キューネルト),Willy(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等歩兵。1914年10月2日、四房山で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。ザクセンのオーバーフローナ(Oberfrohna)出身。(563:久留米)
1342) Kuhr(クーア),Egon(1884-?):第3海兵大隊第1中隊・陸軍歩兵中尉。「アンデルス支隊」に属する「クーア小隊」を率いた。1914年9月27日のヴァルダーゼー高地攻防では、最前線の最右翼を防備した。妻スザンネ(Susanne)は子ども(12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。シュレージエンのオーバーランゲンビーラウ(Oberlangenbielau)出身。(519:久留米)
1343) Kunkel(クンケル),Heinrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、クンケルは布製品・革製品部門にハギレで仕上げたテーブルクロスを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』81頁】。ドルトムント出身。(1251:福岡→青野原)
1344) Kuentzel(キュンツェル),Otto(?-?):国民軍・後備副曹長。[総督府立ギムナジウム教師]。松山時代、大林寺の収容所講習会でフランス語及び算数の講師を務めた。妻シャルロッテ(Charlotte)は大戦終結まで青島に留まった。シュレージエンのブリーク(Brieg)出身。(2985:松山→板東)
1345) Kuon(クオン),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等歩兵(?)。[電気工マイスター]。ホーエンツォレルンのデッティンゲン(Dettingen)出身。(3948:大阪→似島)
1346) Küper(キューパー),Fritz(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備副曹長。1915年6月熊本から久留米へ、また1916年9月16日久留米から青野原へ収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。トリーア郡のノイエンキルヒェン出身。(3412:熊本→久留米→青野原)
1347) Küpker(キュプカー),Ewald(1893-1976):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、クルーゼ(G.Kruse)とタパタオの7号小屋で洋服仕立てを営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡って警察に勤務した。一時期ドイツに滞在した1929年、フリーダ・ルンゲ(Frieda Runge)と結婚して子供二人をもうけた。1940年5月、オランダの収容所に容れられ、英領印度のデラ・ドゥン(Dehra Dun)収容所へ送られたが、家族は蘭領印度に留まった。1945年頃ドイツに送還されて、当初は妻の兄弟の元に落ち着き、1947年に妻子と再会した。後に妻の父親の仕事を手伝い、やがて商店を経営した。その後、オランダでの勤務期間が認められて年金生活に入った。「チンタオ戦友会」に出席した。東フリースラントのネッセ(Nesse)出身。(4192:「大阪→」徳島→板東)
1348) Kuepper(キュッパー),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備掌砲副曹長。[上海のブーフハイスター(Buchheister & Co.)商会]。板東時代、砲兵隊スポーツ協会の役員を務めた。ヴェルメルスキルヒェン(Wermelskirchen)出身。(4217:「大阪→」徳島→板東)
1349) Kurz(クルツ),Johann(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・戦時志願兵。[麦酒醸造職人]。ヴュルテンベルク郡のビューラータン(Bühlertann)出身。(1210:福岡→久留米)
1350) Kurzke(クルツケ),Alfred H.(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。[北ドイツ・ロイド汽船アイテル・フリードリヒ皇子乗員]。徳島時代の1915年8月2日(神戸局の消印は1915年8月13日)、ハンブルクの書籍印刷協会宛に葉書を出した。文面は不明【郵趣家三木充氏所蔵品より】。また 1916年1月27日、ホルトカンプ(Holtkamp)及びシルト(Schild)の三人で演じた『壊れた鏡』が喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916年1月30日発行)より1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(4210:「大阪→」徳島→板東)
1351) Kuss(クス),Johann(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、毛皮を詰めた靴を出品した。上部シュレージエンのプレス(Pless)出身。(1190:福岡→大阪→似島)
1352) Kuster(クスター),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。宣誓解放された。上部エルザスのサン=アマラン(St.Amarin)出身。(1236:福岡→習志野)
1353) Kutt(クット),Paul(?-?):国民軍・上等兵。[ヴィンクラー商会(Winkler & Co.G.m.b.H.)支配人]。青島時代はハンブルク街に住んでいた。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)とトスパン(Tospann)が共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳したが、時にクットも参加した。複雑な文章の時はオートマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。宣誓解放された。シュトラースブルク出身。(4638:大阪→似島)
1354) Kux(ククス),Herbert(1881-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊長・海軍大尉。敷設船ラウチング艦長。機雷将校。〔台西鎮砲台指揮官〕。1900年4月海軍に入った。1903年9月27日海軍少尉、 1905年9月29日海軍中尉、1910年6月14日海軍大尉になった。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenroheweg)に住んでいた。ブレスラウ出身。(3949:大阪→似島)
1355) Laan(ラーン),Heinrich van der(1894-1964):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[神戸・ラムゼーガー商会]。東フリースラントのヴェーア(Weer)に生まれた。銀行業を学んだ後の1913年、神戸で商会を経営していた叔父のラムゼーガー(Hans Ramseger)の誘いで日本に来た。1914年8月8日応召して日本を離れ、青島には日本の最後通牒が発せられた前日の14日に着いた。志願兵受付所で手続きをした際の係官ハーケ(Hake)とは、互いに東フリースラント出身の同郷人であることが判り、親交を深めた。ゾルガー(Solger)予備少尉指揮の第3小隊に属した。戦争の当初はツィンマー(Zimmer)とともにビスマルク兵営で、本部警備隊に食事やコーヒーを運ぶ任務に就いたが、その後湛山堡塁に移った。11月2日の未明4時10分前に第6中隊の湛山兵営から電話で、第2小堡塁の電信状態についての調査依頼が湛山堡塁に来ると、ラーンは進んでその任務に赴いた。松山時代、『陣営の火』編集に際して、公会堂での厄介な雑事を引き受けて貢献した【〔写真13〕参照】。板東時代は、収容所倉庫での物品の受け付けに際しての通訳を務めた。また1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、平泳ぎに出場し45秒で2位になった。大戦終結後は一時期ドイツに帰国して、横浜正金銀行ハンブルク支店に勤務したが、やがて1921年に日本に戻り、松山、板東時代に一緒だったマイスナー(Meißner)が経営するライボルト(Leybold)商会に入って貿易の仕事に従事した。1923年OAGの書記に就任したが、関東大震災の後関西に移住し、1964年4月3日に死去するまで関西で暮らした。1945年までライボルト商会と密接なシュミッツ(Schmitz)商会で、ドイツからの機械輸入に従事した。第二次大戦後、神戸と和歌山のアメリカ進駐軍石油施設で5年間働いた後、1951年から再び機械輸入の仕事に戻った。1952年に神戸総領事館が新設されるまで、一時的に差し押さえられていた神戸ドイツ人学校の資産管理に当たった。ラムゼーガー夫妻やボーナー(Bohner)の墓もある神戸・再度山の外国人墓地に埋葬された。『チンタオの思い出』(Erinnerungen an Tsingtau)の回想記を残したが、それは叔父ラムゼーガーの50歳の誕生日をきっかけに、1917年12月に板東で執筆され、自身の手で装丁されたものである。1919年、バルクホールン、カイスナー、ルードルフ(Rudolf)及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』(Das Jahr im Erleben des Volkes)の出版に関わった。東フリースラントのエムス河畔のヴェーナー(Weener)出身。(2996:松山→板東)
1356) Lacher(ラッヘル),Johann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ジーメンス=シュッケルト社大阪支店]。丸亀時代の1915年1月14日、神戸の芦屋に住む妻がこども三人を連れて面会に来た。近々アメリカを経由して帰国するための暇乞いとのことであった【『丸亀俘虜収容所記事』より】。ニュルンベルク出身。(1977:丸亀→板東)
1357) Lambrecht(ラムブレヒト),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カッセラ大阪支店]。ハーナウ近郊のビショフスハイム出身。(2997:松山→板東)
1358) Lammers(ランマース),Hermann(?-?):国民軍・上等歩兵。[ジータス-プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街(Hohenzollernstraße)に住んでいた。ホルシュタインのハイデ出身。(2296:姫路→青野原)
1359) Lampe(ラムペ),Eugen(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1918年1月28日、偶発的逃亡癖から鉄条網の下を潜って出たが、精神病との診断から処罰されなかった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン郊外のランクヴィッツ(Lankwitz)出身。(3001:松山→板東)
1360) Lampe(ラムペ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵大隊第3中隊・後備1等信号兵。[レストラン・シュタット=ハンブルク経営]。青島時代はカイザー街(Kaiserstraße)に住んでいた。ハンブルク出身。(4218:「大阪→」徳島→板東)
1361) Lancelle(ランセル),Waldemar(1871-?):第3海兵大隊第2中隊長・陸軍歩兵大尉。〔第4歩兵堡塁(台東鎮東堡塁)指揮官〕。1890年3月陸軍に入り、1891年8月歩兵少尉、1899年12月中尉、1907年5月大尉に昇進し、やがて海軍歩兵部隊に移籍した。なお、前記指揮官は後にゾーダン(Sodan)大尉に代わった。1914年11月28日付けで海軍歩兵少佐に昇進した。丸亀時代は収容所の俘虜代表を務めた。丸亀俘虜収容所に収容されてまもない1914年11月18日、ブンゲ(Bunge)曹長とともに収容所当局に4項目の要求を申し入れた。それは、1)食事ノ量ヲ増スコト 2)麦酒(ビール)ヲ飲マシムルコト 3)酒保ヲ開クコト 4)将校ニハ散歩ノ自由ヲ許スコトの4項目であった。1915年12月29日、丸亀衛戍司令官東正彦大佐の命令に対して、不満の宣言をしたことにより、重謹慎2ヶ月の処罰を受けた。大尉としての月俸も2ヶ月減額された【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。ランセル大尉は、向かって前列石井所長の右となりである【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1〕を参照】。1916年10月4日、ラミーン中尉、シュリーカー中尉、フェッター中尉、シェーンベルク少尉、アダムチェフスキー少尉、キュールボルン少尉とともに丸亀から大分に移送された。大戦終結して帰国後の1920年3月陸軍に移った。ベルリン出身。(1963:丸亀→大分→習志野)
1362) Land(ラント),Lorenz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海中央車庫(Central Garage)]。ハンブルク出身(『俘虜名簿』では上海)。(1981:丸亀→板東)
1363) Lange(ランゲ),August(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク出身。(572:久留米)
1364) Lange(ランゲ),Hermann(1877-1950):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。左大腿部銃創及び骨折、右大腿部中央砲弾破片盲貫銃創により左脚を切断していた。日本移送当初は大阪陸軍病院に入院した。大阪収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点でも大阪衛戍病院に入院していた。1916年9月12日に義肢を下賜された。1919年1月21日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、1月26日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。テューリンゲンのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(4639:大阪→似島)
1365) Lange(ランゲ),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。天津から応召した。解放後は中国に赴いた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時25歳)、2時間30分13秒で28位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ロストック出身。(1974:丸亀→板東)
1366) Langenbach(ランゲンバハ),Wilhelm(1888-?):総督府・海軍建築官(少佐相当)。1902年7月海軍に入り、1905年10月建築官になる【シュミット】。青島時代はドイツ街(Deutschlandstraße;日本による占領・統治時代は大和町)に住んでいた。ヴェストファーレンのハスペ(Haspe)出身。(3503:熊本→久留米)
1367) Langheim(ラングハイム),Joseph(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代の1918年5月7日、大分のシュペーラー(Spöler)に宛てて葉書を出した。葉書は聖霊降臨祭の挨拶を極彩色で印刷した、見事な図柄の絵葉書である。図柄の文言は次の通り。「徳島近郊板東俘虜収容所より、謹んで聖霊降臨祭のご挨拶を申し上げます。J.ラングハイム至って壮健」(Die herzlichsten Pfingstgrüße aus dem Kriegsgefangenenlager in Bando bei Tokushima sendet bei bester Gesundheit J.Langheim.)。なお、差出人の部分は印刷ではなく、手書きの署名であることから、数多く刷られて、多くの俘虜も同様の絵葉書を、板東から差し出されたものと思われる。下部に「大日本」の漢字が盛り込まれている。裏面の文面欄には通信文はない。板東俘虜収容所俘虜郵便の大きな検閲済み印が押されている。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。ヴェストファーレンのボルケン(Borcken)出身。(4224:「大阪→」徳島→板東)
1368) Langhein(ラングハイン),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会に出場し、横泳ぎでは41.2秒で2位に、主競泳では1分39.2秒で3位になった。ハンブルク出身。(4220:「大阪→」徳島→板東)
1369) Langjahr(ラングヤール),Karl(1888-1947):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。ハイルブロン出身。(582:久留米)
1370) Laengner(レングナー),Martin(?-1917):国民軍・上等歩兵。1917年8月12日、青野原で死亡。トルン(Thorn)出身。(2297:姫路→青野原)
1371) Langrock(ラングロック),Karl E.(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、ピータック(Pietack)、アウアー(Auer)及びケラー(Keller)と筆耕係で協力した。板東時代には収容所内のタパタオで、G.シュルツ(Schulz)と共同で錠前屋を営んだ。また工芸品展には、二人共同で鉄製のシャンデリアを出品した。ライプチヒ出身。(4227:「大阪→」徳島→板東)
1372) Lassotta(ラッソタ),Theofil(1876-1944):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。大戦終結後、日本が経営することになった山東鉄道沿線の坊子鉱山に指導者として雇われた。解放後は青島に戻ったが、後に北京に赴きその地で没した。上部シュレージエンのアイヒェナウ(Eichenau)出身。(4399:「熊本→」大分→習志野)
1373) Latussek(ラトゥッセク),Paul(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にルセンチオ役で出演した。シュレージエンのロッセン(Lossen)出身。(1973:丸亀→板東)
1374) Laetzsch(レッチュ),Curt(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。上海から応召した。板東時代、公会堂の絵画と工芸品展覧会に「バンドーの山々」を出品して油絵部門の二等賞に、水彩画では鉄条網も描き込んだ「風景」で一等賞になった。1918年4月22日から25日かけて上演された「板東人形劇」の指導をした。また1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。レッチュは第6組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻、183頁】。ライプチヒ出身。(2999:松山→板東)
1375) Lau(ラウ),Franz(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1915年10月20日、衛兵に煉瓦を投げて負傷させた。その罪で11月8日懲役5年の刑を受け、福岡監獄に収監された。ゲルゼンキルヒェン出身。(580:久留米)
1376) Lau(ラウ),Paul(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等工兵。左臀部榴弾破片創により大阪陸軍衛戍病院に入院した。ヴェストファーレンのホルスト=エムシャー(Horst-Emscher)出身。(4550:大阪→似島)
1377) Lautenbach(ラウテンバッハ),Hans(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[漢口・ラウテンバッハ商会(Lautenbach & Co.)]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フォークトラントのトロイエン(Treuen)出身。(3000:松山→板東)
1378) Lauenstein(ラウエンシュタイン),Arthur(1888-1916):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[貿易商]。召集前は朝鮮の仁川で貿易業を営んでいた。松山では、格魯布性気管支炎兼慢性中耳炎のために松山衛戍病院に入院していたが、1916年11月4日に危篤状態となり、日本人3名とドイツ人2名の立会いの上で遺言状の聞き取りが行われた。クナーク(Knaack)が書きとめ、本人が自署した後、クナークとピーツカー(Pietzcker)が承認として署名した。二日後の6日の午前11時55分に死亡した。翌7日、松山衛戍病院で納棺され、市外の弥八馬場火葬場でハーバーザング(Habersang)の祈祷の後荼毘にふされ、8日10時山越陸軍墓地(現在はロシア人墓地と呼ばれている)に埋葬され、木製の十字架が立てられた。なお、長兄は英領地中海マック島に、次兄は西南アフリカに英国の俘虜として収容された。ハンブルク出身。(2995:松山)
1379) Lauzening(ラウツェニング),Johann F.(?-?):河用砲艦オッター(Otter)乗員・2等水雷水兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部で漁船の模型を出品した。メーメルのシュヴァルツオルト(Schwarzort)出身。(4557:大阪→似島)
1380) Lechner(レヒナー),Michael(1892-1969):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1952年、マイレンダー(Mailänder)はザールブリュッケンで偶然レヒナーに出会った。フランスの警察官になっていたレヒナーは、初めはマイレンダーと知り合いであることを快しとしない素振りであった。しかし、少し人目からそれて話をする内に、昔の思い出話が交わされた。やがてマイレンダーはレヒナーを通して、エルザス出身の戦友であるエーミール・ハンス(Emil Hanns)を知った【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。エルザスのミネルスハイム(Minoersheim)出身。(1291:福岡→習志野)
1381) Leffler(レッフラー),Richard(1888-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍中尉。習志野時代の1915年9月、ハム(Hamm)の元に届いた「登美村ワイン」一箱が運ばれて開けられた。バーケ(Baacke)大尉やクーロ(Kuhlo)中佐も試飲したと思われる【「ハインリヒ・ハムの日記」より】。1916年1月27日、ヤーグアル乗員が全員一室に集まって、ドイツ皇帝の誕生日を祝った際に祝辞を述べた。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。ブラウンシュヴァイク出身。(154:東京→習志野)
1382) Lehde(レーデ),Max(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に収容された。久留米の演劇活動では、笑劇『燕尾服のレアンダー』等2演目に女役で出演した。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年6月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、67⅓点を獲得して第3位になった。オーデル河畔のフランクフルト近郊ビーゲンブリュック(Biegenbrück)出身。(573:久留米)
1383) Lehmann(レーマン),Ewald(?-?):国民軍・中尉補。〔第2国民軍小隊長〕。ポンメルンのケスリン(Köslin)出身。(4554:大阪→似島)
1384) Lehmann(レーマン),Hellmuth(1889-1943):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ商会広東支店]。丸亀時代の1915年12月23日、ニューヨーク在住のアメリカ人女性「エル・ベンチング」が面会に訪れた。その女性はレーマンの許婚で、お互いの無事・健康を喜び合い、ニューヨークから神戸までの船旅や俘虜生活についてドイツ語で話し合った。女性はレーマンに西洋剃刀一つと指輪を手渡した【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。1916年12月2日、上海に住むアイスナー(H.Eissner)嬢に葉書を出した。文面は次の通り。「貴女からの手紙、新聞及び小包を受け取りました。どうも有り難うございます。以前通知を受けた品物は届いておりません。フュンステラー(Fünsterer:不詳)を通じてクレームをつけることを勧めます。弟さんがまた病気との事、お気の毒です。良くなりますよう祈っています。無事の旅行と楽しい休暇を。近い再会を願って。」【郵趣家三木充氏の所蔵品より】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴュルテンベルクのシュヴェンニゲン(Schwennigen)出身。(1975:丸亀→板東)
1385) Lehmann(レーマン),Hugo K.A.(?-1919):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。[商船船長]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。低地ドイツ語を話す商船船長のツィンマーマン(Julius Zimmermann)と親しかったが、レーマンは時にドイツ語とフランス語をごちゃ混ぜにして話した【『ポツダムから青島へ』208頁】。1919年7月8日習志野で死亡。エルザスのゼーハウゼン(Seehausen)出身。(1282:福岡→習志野)
1386) Lehmann(レーマン),Otto(1892-1971):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。第3海兵大隊の軍楽隊所属だった。1892年9月22日、指物師(椅子作り職人)の子としてザクセンのゲリングスヴァルデ(Geringswalde)に生まれた。翌年父親が亡くなると、母は指物師の親方と再婚し、一家はヴァルトハイムに移り住んだ。学校に通っている時代にすでに種々の音楽教育を受け、将来は音楽家になることを決意した。1907年4月、町の音楽監督の下で音楽修業をし、1910年からはその後任の下で同じ楽団に修業団員として月40マルクを手にする地位を得た。1910年4月1日からはドレスデン王立音楽院の給費生となってドレスデンに移り、1913年3月末まで同学院でヴァイオリン、指揮法、室内楽、合唱法を学んだ。やがて軍楽隊に入ることを考え、1913年10月1日、ククスハーフェンの海軍歩兵隊に入隊し、翌年の1914年1月12日軍艦パトリツィアで青島に赴き、2月27日に青島に着いた。その年の5月5日、「1913/1914年度第11回チンタオ・コンサート会」がプリンツ・ハインリヒ・ホテルで開催され、レーマンはヴァイオリンソロを担当した。それは海軍歩兵第3大隊の軍楽隊による演奏で、指揮者は軍楽隊長のヴィレ(O.K.Wille)、ピアノソロは上海のマクダ・フォン・デア・ライテン(Magda von der Leithen)嬢だった。曲目はフンパーディンクの《メルヒェンオペラのための前奏曲;王の子供達》、グリークの《ピアノ協奏曲》、サンサーンスの《交響詩 死の舞踏》、及びハイドンの《交響曲第13番》であった。これは第15回予約制コンサートで、しかも最後の交響曲の夕べと銘打たれている。非予約者の場合の入場料は、ホールで2ドル、バルコンで1ドルであった。夕方9時に開演、10時半終演となっている。なおプログラムには、次回5月19日は最後の予約制コンサートで、演目はポピュラーと記されている。日独開戦とともに軍楽隊は解散され、レーマンは80名で構成された第1歩兵堡塁に配属された。久留米時代、「久留米収容所楽団」(Die Lager-Kapelle des Kriegsgefangenenlagers Kurume-Japan)を率いて数多くのコンサートを開いた。1915年6月29日付けで、東京銀座の十字屋楽器店からレーマンに宛てたヴィオラとチェロの弦の発送と請求額を示したはがきが現存している。1915年6月13日、自らが主宰する「レーマン楽団」による第一回プロムナード・コンサートが開催された。曲目は軽快で大衆的なものが多かった。『久留米行進曲』等の作曲もした。また上記楽団は収容所の「交響楽団」の常連メンバーでもあった。フォークト(Vogt)と並んで久留米の音楽活動では特に指揮で大活躍した。また1916年6月26日付けの独亜銀行神戸支店からレーマン宛の63円送金の書類及び送金票及びさらに、同年10月6日付けの杉野歯科医院(久留米市両替町25番地)からのレーマン宛3円20銭の領収書が遺されている。「久留米カレンダー」にスケッチを寄せたヴィルヘルム・シュタイツ(Wilhelm Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、「久留米収容所楽団」のレーマン以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサインも記されているが、レーマンのサインのみがない【レーマンへの寄せ書きと思われる。〔写真6〕を参照】。1918年の第3回久留米美術・工芸品展覧会のポスターは、趣に溢れたデザインであるが、その中央にはオットー・レーマンの展覧会に対する多大な寄与への感謝の言葉が記されている。1918年9月8日には、レーマン指揮による「久留米収容所管弦楽団」(Die Sonntagskonzerte des Kriegsgefangenen-Orchesters Kurume-Japan)の第100回日曜コンサートが開かれた。大戦終結して帰国後、郷里ヴァルトハイムで休養した後、その町の楽団のコンサートマスターを1927年2月28日まで務めた。その後も郷里で音楽監督等に就き、1930年リンダ・シュレーゲル(Linda Schlegel)と結婚した。以後の音楽家としての生活は必ずしも順調であったわけではなく、妻と子のために安定した生活をすべく音楽家としての職業を断念した。1971年5月24日、郷里ヴァルトハイムで遺書を遺すことなく自死した。ザクセンのゲリングスヴァルデ(Geringswalde)出身。(571:久留米)
1387) Leidig(ライディヒ),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(山越・弘願寺収容)の1916年7月22日、命令を速やかに遵奉しなかったことから、重営倉5日に処せられた。板東時代の1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ライデイヒは104½点を挙げて初級の部7位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ヘンスキシュケン(Henskischken)出身。(2991:松山→板東)
1388) Leimbacher(ライムバッハー),Josef(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。宣誓解放された。上部エルザスのズルツ(Sulz)出身。(2615:名古屋)
1389) Leipold(ライポルト),Eduard(1892-1978):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。日本への移送当時カメラを所持していて、後に板東俘虜収容所の様子などを数多くフィルムに納め、そのアルバム帖を鳴門市ドイツ館に寄贈した。徳島時代の1916年10月、徳島市の円藤鉄工所に鋳造・ダライバンの労役に、バール(Alwin Bahr)、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(Paul Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Max Hoeft)、ライポルト(Leipold)、マイエ(Maye)の7名で派遣された。1日約8時間、賃金・期間不明。大戦終結後は郷里ザクセンのコーブルクの機械工場に勤めた。1934年、郷里出身の戦友15人に呼びかけて、「バンドーを偲ぶ会」を結成した。この呼びかけには、バイエルン州やヘッセン州在住の元俘虜も参加し、80人を超える会に発展した。やがてパウル・クライ(Kley)やヘルマン・ヴァルター(Walter)を幹事とする「バンドー会」として、フランクフルトで毎年定期的に会合を開くまでに至った。1970年に開催された大阪万博の折り来日し、パウル・クライ氏と一緒に板東を再訪した。1972年鳴門市にドイツ館が完成するとアルバム帖を寄贈した。当時、西ドイツのコーブルク市(出身地)に住んだ。インタヴューに応じて、俘虜時代に関する多くの談話を残した。コーブルク出身。(4226:「大阪→」徳島→板東)
1390) Leiser(ライザー),Ludwig(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、ドメーレ(Domele)と共同でなめし皮製品数点を出品した。バーデンのツォイテルン(Zeutern)出身。(3976:大阪→似島)
1391) Leist(ライスト),Benedikt(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代の1915年7月8日、第1ヴァイオリンのエンゲル(Engel Engel)、第2ヴァイオリンのモルトレヒト(Moltrecht)、第3ヴァイオリンのライスト、第1フルートのヘス(Hess)、第2フルートのヤーコプ(Jacob)及びオルガンのクラーゼン(Claasen)の6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「保養楽団」の名称で、1915年1月10日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団】が成立した。その折ライストは「魔王」等を独奏した。しかし、楽団による演奏依頼があった9月19日の第2中隊体操祭の日に、ライストは楽団を脱退した。『丸亀日報』で欠員補充の公募が行われたが、課題曲が多くの人を怖気づかせて応募者は一人もいなかった。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員となり、第2ヴァイオリンを担当した。収容所内のタパタオではアイスクリーム屋を営んだ。ラインプファルツのエンケンバッハ(Enkenbach)出身。(1976:丸亀→板東)
1392) Leist(ライスト),Stephan(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備陸軍少尉。1918年から翌年にかけてエングラー(Engler)によって、体操指導員と体操選手にたいする冬の練習と講習が行われたが、ライストはアンデルス少佐、ラッペンエッカー(Rappenecker)、エングラーとで構成された委員会で、筆記試験や面接試験の委員を務めた。ラインプファルツのエイケンバッハ(Enkenbach)出身。(564:久留米)
1393) Leitz(ライツ),Josef(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、ライツは1919年6月8日に開催されたサッカーの試合で活躍した。シュトゥットガルト出身。(567:久留米)
1394) Lemke(レムケ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵軍曹長。1915年9月15日、カール・クリューガー(Karl Krüger)、ルードルフ(Rudolff)等93名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、クリューガー及びオストマン(Ostmann)とは浴室で同じ時刻によく出会わした。兵営ではクリューガーの隣に枕を置いていた。またクリューガーと一緒に英語、フランス語の勉強会に出席し、ユーバシャール(Ueberschaar)博士の授業には一人出席して、難しい課題を課せられても、見事に解いていた。自分の四阿(あずまや)の前に立つレムケの写真が現存し、資料に紹介されている【参照:『特別資料展「ドイツ兵の見たNARASHINO ―1915-1920 習志野俘虜収容所」展示品図録』87頁】。シュパンダウ(Spandau)出身。(1288:福岡→習志野)
1395) Lemmen(レンメン),Johann(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、レンメンは1919年6月8日に開催されたサッカーの試合で活躍した。クレーフェルト出身。(565:久留米)
1396) Lendrich(レントリヒ),Eduard(1889-?):海軍東アジア分遣隊参謀本部・海軍少主計(少尉相当)候補。習志野時代の1919年1月8日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に財産家役で出演した。また同年3月5日に開催された「朗読の夕べ」では、ガイベル作「吟遊詩人の歌」及び古い説話の「天のベット」を朗読した。さらに同年8月に上演されたイプセン作の『幽霊』の演出を担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ポツダム出身。(149:東京→習志野)
1397) Lennartz(レンナルツ),Mathias(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、レンナルツは1919年6月8日に開催されたサッカーの試合で活躍した。ラインラントのリッケルラート(Rickelrath)出身。(569:久留米)
1398) Leonhardt(レオンハルト),Karl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カッセラ商会]。松山時代、公会堂の日曜講演会で「お茶の色について」と題して講演した。マイン河畔のフランクフルト出身。(2998:松山→板東)
1399) Leopold(レオポルト),Viktor(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において(当時26歳)、2時間32分58秒で36位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。ロートリンゲンのアジョンクール(Ajoncourt)出身。(1970:丸亀→板東)
1400) Letsche(レッチェ),Emil(1893-1971):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1914年10月20日、ディール(Diehl)伍長の指揮の下9名で第1歩兵堡塁から浮山所へパトロールに出た。さらにディールとリーゼナー(Riesener)の三人で浮山所岬に出て、日本軍の船舶が目印にしているブイ(浮標)を沖合250メートルのところに発見した。レッチェはディールとともに、リーゼナーが服を脱いでブイを岸に運ぶまで身を伏せて警護に当った。【ハインツ・ファン・デア・ラーン『青島回想』(van der Laan,Heinz:Erinnerungen an Tsingtau)75頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。プフォルツハイム近郊のフーヘンフェルト(Huchenfeld)出身。(568:久留米)
1401) Letschert(レッチェルト),Alfons(1885-?):守備隊本部・曹長。1906年、兵役義務で青島の海軍歩兵第3大隊に配属された。1912年10月、青島で結婚した。娘が生まれたが、誕生後まもなく死に、青島欧人墓地に埋葬された。青島陥落後、妻は1916年まで青島に留まったが、その後実家のバンベルクに帰還した。1920年にドイツ帰国後はしばらくヴィルヘルムスハーフェンに暮らし、その地で1923年娘ウルズラ(Ursula)が出生した。1930年一家はキールに移った。2003年6月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、娘のウルズラ・ウルリヒから、レッチェルトの著作『俘虜生活からのまじめで陽気な詩』の原本、及び日本側が発行した青島への「渡航許可証」の現物が鳴門市ドイツ館に寄贈された。ヴェスターヴァルト(Westerwald)のバウムバッハ出身。(3007:松山→板東)
1402) Lewerenz(レーヴェレンツ),Friedrich(?-?):砲兵兵站部・掌砲兵曹長。妻ベティー(Baetty)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ロストック出身。(2291:姫路→青野原)
1403) Lieber(リーバー),Fritz(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁4点、裁縫箱1点、郵便物収集箱1点を出品した。テューリンゲンのブランケンハイン(Blankenhein)出身。(4640:大阪→似島)
1404) Liebmann(リープマン),Ludwig(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。大阪時代の1915年6月初旬、ポルシュケ(Porschke)及びポスピヒ(Pospich)と脱走したが逮捕され、禁錮2年の刑を受け大阪監獄に収監されたが、11月12日の大正天皇即位の大典の恩赦で1年6ヶ月に減刑された。同年9月仮出所したが12月に取り消された。アウグスブルク出身。(3975:大阪→似島)
1405) Liedtke(リートケ),Fritz(?-?):国民軍・後備1等木工。[スタンダード石油]。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。エルベ河畔のアルトナ出身。(4641:大阪→似島)
1406) Liersch(リールシュ),Richard(?-?):測量艦プラーネット乗員・2等水兵。1914年10月7日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日宣誓解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(4672:なし)
1407) Liesenfeld(リーゼンフェルト),Eugen(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等水兵。似島時代の1918年、聖霊降臨祭の記念絵葉書を作画した【高橋スタンプ商会のHP「第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 98」に掲載されている。図柄は、兵士が「“平和になる”、“平和は来ない”(“Friede”、“kein Friede”と花占いをしている図)」参照:http://www.takahashistamp.com/2note98.htm】。また1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、運営本部の一員として出納係りを務め、美術部門の絵画で鉛筆画5点を出品した。マインツ出身。(3970:大阪→似島)
1408) Liessfeldt(リースフェルト),Alfred(1891-1968):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備副曹長。『大阪時事新報』(大正4年1月28日付け)のよれば、1915年1月27日に寧静丸で大阪港に到着した。新検挙社86名、傷病兵44名、全快者29名の総勢159名であった。なお、リースフェルトは横浜の220番地に一年居住していたと記されている。似島時代、トスパン(Tospann)と共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加し、複雑な文章の時はオートマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(4551:大阪→似島)
1409) Liessmann(リースマン),Rudolf(?-?):海軍砲兵中隊・後備上等兵。板東時代、劇場委員会に所属した。ヒルデスハイム出身。(3003:松山→板東)
1410) Ligeti(リゲティ),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、リゲティのグループは金属加工部門に大砲、軍用車、花瓶、筆記用具、文鎮等44点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』72-73頁】。ハンガリーのエルゼクワル(Ersekujwar)出身。(2303:姫路→青野原)
1411) Lindemann(リンデマン),Erich(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1915年の久留米時代、クレッチュマー(A.Kretschmer)とともにボクシングの講習会を開いた。ケーニヒスベルク出身。(3496:熊本→久留米)
1412) Lindenberg(リンデンベルク),Reinhold(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジーメンス‐シュッケルト門司支店]。板東時代、タパタオの80号小屋でシュミットと家具屋を営んだ。ベルリン出身。(2994:松山→板東)
1413) Lindner(リントナー),Anton(?-?):第3海兵大隊第2中隊・軍曹。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、工芸技術の金工部門で火鉢用の金網1点を出品した。また上記展覧会のカタログの30頁には、リントナー経営のストーブ、セントラルヒーティング等の工作場の広告が掲載されている。上部プファルツのナッブルク(Nabburg)出身。(4549:大阪→似島)
1414) Lindner(リントナー),Felix(1884-?):国民軍・階級不明。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放されたが、やがて蘭領印度のメダンに渡った。ライプチヒ近郊のケチャウ(Kötschau)出身。(4556:大阪→似島)
1415) Lindner(リントナー),Paul(1885-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[商人]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。丸亀時代の1915年3月27日、検閲で所持していた青島地図25枚、同風景画帖10冊を没収された【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。大戦終結後は青島に戻り、輸入会社「パウル・リントナー」を経営した。ピッセン(Pissen)出身。(1978:丸亀→板東)
1416) Linel(リーネル),Leo(?-1919):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1919年2月4日スペイン風邪により習志野で死亡。メッツ(Metz)出身。(152:東京→習志野)
1417) Link(リンク),Alfred(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」団員で小太鼓を担当した。ベルリン出身。(1966:丸亀→板東)
1418) Linke(リンケ),Otto(?-?):国民軍・予備少尉。[鷲屋薬局経営者]。青島時代は皇太子街(Kronprinzenstrasse)で薬局を経営していた。大阪時代の1915年(月日不明)、「俘虜日直勤務中高級所員ヨリ下達セル所長ノ命令ヲ俘虜将校全般ニ伝達セヘキヲ怠リタル科」で重謹慎5日の処罰を受けた。ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の1921年10月20日付け42号に、「日本の似島俘虜収容所」と題してドイツ・トゥルネン連盟に宛てた、青島に所有する施設・預金の問題を訴えたリンケの手紙が載った【山田『俘虜生活とスポーツ』145頁】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】が、青島に戻り、再び医薬品輸入会社「オットー・リンケ」を経営した。東プロイセンのポーゼン出身。(4553:大阪→似島)
1419) Linke(リンケ),Robert(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・軍曹。松山時代(山越・長建寺収容)の1915年5月4日、天津に冬軍服を輸送する際に、表地と裏地の間に信書1通を縫い付けて秘密通信を企てたことから重営倉7日に処せられた。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ヴィオラを担当した。また収容所の炊事部1の下士官を務めた。ブレスラウ出身。(3002:松山→板東)
1420) Linne(リンネ),Ernst(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・戦時志願兵。久留米時代は演劇活動で、喜劇『教育者フラックスマン』等7演目に出演した。ブレーメン出身。(1287:福岡→久留米)
1421) Lipinski(リピンスキー),Hans(1888-1969):海軍膠州砲兵隊第2中隊・海軍中尉。〔游内山特殊砲台指揮官〕。1907年4月海軍に入り、1910年9月少尉、1913年9月中尉に昇進し、1914年8月から青島膠州湾湾口の游内山特殊砲台指揮官になった。1920年6月退役した。その後、エーゲ海のヴォロス(Volos)港司令官として現役に復帰したが、実際任務には就かなかったと思われる。1941年7月から1943年8月まで、ガスコーニュ(Gascogne)海防部隊司令官となり、海軍大尉に昇進した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレスラウ出身。(3969:大阪→似島)
1422) Lipkau(リープカウ),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[アルンホルト・カルベルク社北京支店]。松山時代、大林寺の収容所講習会で英語及びフランス語の講師を務めた。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ヴィオラを担当した。ハーフェル河畔のラーテノウ(Rathenow)出身。(2993:松山→板東)
1423) Lippsky(リップスキー),Franz(?-?):巡洋艦皇后エリ-ザベト乗員・3等下士。姫路時代の1915年2月23日、ヤーン(Josef Jahn)、レッシュ(Resch)の三人で景福寺の収容所から脱走を企て、禁錮9ヶ月の処罰を受けた。当時22歳だった。宣誓解放された。メーレン(Maehren;モラヴィア)のロツアウ(Rozuau)出身。(2300:姫路→青野原)
1424) Lis(リス),Joseph(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代、1916年10月1日から開催された丸亀生産品展覧会に武具細工品を出品した【『大阪朝日新聞 四国版』大正5年11月12日付け】。ポーゼンのオストロヴォ(Ostrowo)出身。(1967:丸亀→板東)
1425) List(リスト),Georg(1892-1941):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、収容所内のタパタオでマイヤー(Meyer)と共同で卵、キャンデー、きゅうり、果物を売る店を営んだ。ヴェーザー河畔のリンテルン(Rinteln)出身。(3005:松山→板東)
1426) Litterst(リッテルスト),Theodor(1889-?):所属部隊不明・階級不明。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。当初は日本に滞在したが、やがてドイツに帰国して1921年4月12日、クラーラ・フォルナー(Klara Forner)と結婚した。その後天津に赴きその地で息子が生れた。バイエルンのフューリンゲン(Vühringen)出身。(4558:大阪→似島)
1427) Löffler(レッフラー),Hermann(?-?):国民軍・卒。青島時代は小港小路(Kleiner Hafenweg)に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。エアフルト出身。(4689:大阪→似島)
1428) Lohmann(ローマン),Max(?-?):第3海兵大隊第5中隊・予備副曹長。2006年12月15日、ドイツ-日本研究所のウルズラ・フラッヘさんから、アルフォンス・シュテーゲマン(Alfons Stegemann)の孫オスヴァルト・ハッセルマン(Oswald Hasselmann)氏の編集になるCDが日本の複数の研究者に届けられた。そのCDは、シュテーゲマンとその友人ローマンの遺品を集成したものである。いくつかの写真の下には短い説明文や俘虜の氏名が記されている、貴重な資料である。ローマンの遺品と思われる写真には、ローマンと他の俘虜と一緒のスナップ写真が五点ある。いずれの写真にも、「Ego」(「私」の意)と記されている人物がローマンと思われる。一人で写っているものが二点ある。そのうちの一点は、ローマンの阿屋と思われる建物の脇で立っている写真である。もう一点は、窓辺でパイプをくわえ、右側にはカナリヤか或いは文鳥が一羽入った鳥篭、左側には花瓶に挿した花がある。この写真は極めて鮮明で、ローマンの顔立ちがはっきり見て取れる。他の写真は、アーラース(Ahlers)大尉及びシュテーゲマン(Stegemann)の三人が屋外でトランプする風景、一枚はアルトマン(Altmann)とツィンク(Zinck)の三人で、もう一枚は、エンゲルホルン(Engelhorn)、ヤンゼン(Jansen)、カルクブレンナー(Kalkbrenner)、シュテフェンス(Walter Steffens)、シュテーゲマンの六人が冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところで思い思いに居並んでいる、実に味わい深いスナップ写真【〔写真7〕を参照】である。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(2609:名古屋)
1429) Lohmeyer(ローマイヤー),August(1892-1962):海軍膠州砲兵隊・1等水兵。[屠畜職マイスター]。大戦終結して解放後、帝国ホテルに採用されたが、一年後には出資者を得て、山手線大崎駅の南に「ローマイヤー・ソーセージ製造所」を創設して成功を収めた。やがて銀座にレストラン「ローマイヤー」を開いた。日本人女性と結婚して、息子二人と娘一人をもうけた。やがて長男のヴィルヘルムはレストランを継ぎ、次男オットーはソーセージ職人となって製造会社を継いだ。「ロースハム」という言葉の考案者と言われる。横浜の外人墓地に墓碑がある。ブレーメン出身。(3502:熊本→久留米)
1430) Lorbach(ロールバッハ),Hubert(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。板東時代、1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、初心者競技に出場し53秒で2位になった。ラインラントのシュヴェルフェン(Schwerfen)出身。(2989:松山→板東)
1431) Lorenz(ローレンツ),Alois(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、ローレンツのグループは金属加工部門に燭台(銅製)、煙草道具、花瓶等21点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』73-74頁】。上部シュレージエンのゴルドゥラ=ヒュッテ(Godulla-Hütte)出身。(1296:福岡→青野原)
1432) Lorenz(ローレンツ),Fritz(1893-1977):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、収容所内のタパタオで靴修繕屋を営んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインプファルツのガウアースハイム(Gauersheim)出身。(4219:「大阪→」徳島→板東)
1433) Loeven(レーヴェン), Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・上等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。レーヴェンの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真10〕参照】。2005年に、イレブンの写真中の左端がレーヴェンではないかとされたが、息子のフランツから確証は得られなかった。アーヘン出身。(3971:大阪→似島)
1434) Löwenig(レーヴェニヒ),Karl(?-?):国民軍・上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ケルン出身。(4555:大阪→似島)
1435) Lübke(リュプケ),Kunibert(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、第2棟5室でビール販売を営んだ。ポンメルンのヴルヒョウ(Wurchow)出身。(1965:丸亀→板東)
1436) Luczeck(ルセック),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵軍曹長。1918年5月27日、福岡衛戍病院で膿胸のために死亡したが、書類上は習志野に移送となっている。東プロイセンのフリーデリヒスハイデ(Friedrichsheide)出身。(1277:福岡→[習志野])
1437) Ludwig(ルートヴィヒ),Georg(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。熊本時代、1915年1月27日から4月30日まで、縫靴工として従事し労賃を得た。エルザスのドゥンツェンハイン(Dunzenhein)出身。(3495:熊本→久留米→習志野)
1438) Ludwig(ルートヴィヒ),Max(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、工芸品展にオイルナー(Eulner)及びオルロープ(Orlob)と共同で、ドイツ軍が西部戦線で捕獲した戦車の模造品を制作・出品した。ザクセンのアルンスドルフ出身。(2990:松山→板東)
1439) Luft(ルフト),Alwin(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。熊本時代、1915年1月20日から5月27日まで、靴工として従事した。シュレージエンのティーフェンフールト(Tiefenfuhrt)出身。(3486:熊本→久留米)
1440) Luft(ルフト),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で装蹄用の模型1点を出品した。ゲーラ(Gera)出身。(3973:大阪→似島)
1441) Lührs(リュールス),Julius(1892-1975):装甲巡洋艦グナイゼナウ(Gneisenau)乗員・2等水兵。病気のために残留していた東カロリン群島のポナペ島で俘虜となった。1914年11月29日横須賀に上陸後、ツァッハ(Zach)とともに海軍により護送されて東京俘虜収容所に送られた。アッセル(Assel)出身。(114:東京→習志野)
1442) Lukas(ルーカス),Adolf(1892-1958):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。ドイツに帰国後の1920年8月14日結婚して息子一人をもうけた。ラインヘッセンのヴォルムス郡ギムプスハイム(Gimbsheim)出身。(1279:福岡→大分→習志野)
1443) Lund(ルント),Peter E.(?-?):第3海兵大隊・2等歩兵。久留米時代の1915年10月2日、ツェルナー、アール、ジン4名で脱走したが3名は同日捕まり、ズィンも5日に捕まった。宣誓解放された。アーペンラーデ(Apenrade)出身。(3490:熊本→久留米)
1444) Lunz(ルンツ),Johann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。下部フランケン地方のブリュッケナウ(Brückenau)出身。(1980:丸亀→板東)
1445) Lütgens(リュトゲンス),Dr. Alfred(?-?):海軍東アジア分遣隊・予備少尉。[上海領事館副領事]。習志野時代、1919年8月に上演されたイプセン作の『幽霊』にアルヴィング夫人役で出演した。ハンブルク出身。(1301:福岡→習志野)
1446) Luthardt(ルートハルト),Eugen(?-?):海軍砲兵中隊・1等筆生。板東時代の1919年4月17日が開催された21キロの競歩大会において、ルートハルト(25歳)は2時間37分45秒で53位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。ザクセン=マイニンゲンのシュタイバッハ(Steinbach)出身。(3006:松山→板東)
1447) Luthmann(ルートマン),Hans(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[中国輸出入銀行]。板東時代、1917年12月の懸賞作文に「平和な時代の戦争」を応募して佳作になった。また絵画と工芸品展覧会には写真による風景部門に「両親の家」を出品して二等賞を受賞した。また1918年5月、第2回懸賞作文で「羊飼いアスト」と「最初の通学」の2篇で一等賞を受賞した。ペンネームはアスト・ウント・シャハトで、「羊飼いアスト」は『バラッケ』第2巻第9号(1918年5月26日号)に掲載された。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。エルベ河畔のハルブルク(Harburg)出身(『俘虜名簿』では上海)。(2992:松山→板東)
1448) Maass(マース),Gustav(?-?):所属部隊・階級不明。[巡査]。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住んだ。ベルリン出身。(3042:松山→板東)
1449) Mache(マッヘ),Joseph(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で裁縫箱1点を出品した。上部シュレージエンのコーゼル(Kosel)出身。(3991:大阪→似島)
1450) Madalencic(マダレンチッチ),Edmondo(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916年10月9日、マラチッチ(Maracic)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのブジェ(Buje)出身。(2317:姫路→青野原→丸亀→板東)
1451) Magener(マーゲナー),Louis(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において、マーゲナー(24歳)は2時間24分15秒5分の3で10位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ハンブルク出身。(4235:「大阪→」徳島→板東)
1452) Mahnfeldt(マーンフェルト),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。丸亀時代、『丸亀日報』の編集長を務めた。板東時代の1917年7月1日、「Uボート戦について」の講演を行った。また「ドイツ近代史」の連続講義を31回に亘って行うなど多種多彩な数多くの講演を行った。『バラッケ』編集部員を務めた。グフィエン(Guvien)出身。(1993:丸亀→板東)
1453) Mahnke(マーンケ),Hermann(?-?):国民軍・卒。[土木建築監督]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通(Kaiser-Wilhelm-Ufer)に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。妻は四人の娘と大戦終結まで青島に留まった。ポンメルンのシュトラールズント(Stralsund)出身。(4690:大阪→似島)
1454) Mailänder(マイレンダー),Andreas(1892-1980):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。〔イルチス砲台〕。ザールブリュッケン近郊クッツホーフ在住のハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏はインターネット上で、マイレンダーに関する興味深い大量の情報を記している。1985年末、夫妻が前年に購入した家の建替えを行うために、家の整理、片付けをしていたところ、屋根裏部屋から数多くの古い葉書、書類、パンフレット、ポスター、写真の入った長持を見つけた。それらは以前の所有者マイレンダーの遺品であった【〔写真12〕参照】。シュミット氏はそれら青島及び日本の収容所関連の遺品を、インターネット上で以下の6種に大別している。1)手書きの絵葉書(38点)。これらはマイレンダーが両親及び弟に宛てたもの、弟及び友人・知人から本人に宛てたもの、また日本各地の収容所に収容されていた俘虜から本人宛てのものに区別される。弟のアロイス(Alois)が1914年8月21消印でLandonvillersから差し立てた葉書は、日本軍により陥落した後に青島に届き、1915年始めになってマイレンダーの手元に渡ったと見られる。また特に、1914年11月18日にマイレンダーが両親に宛てた絵葉書は、確認されている俘虜郵便の中でも最初期に属するものである。その内容は次の通りである。「お父さん、お母さん、僕は元気でここ福岡に着きました。お父さん、お母さんもお変わりないことと思います。青島で起こったことについては、新聞で読まれたことでしょう。では、またそのうちに。僕達はこの日本が気に入っています。日本の福岡俘虜収容所にて、2等砲兵マイレンダー」。また知人からの葉書には、スウェーデン等の「Globus」(地球連盟)会員からのものが数通ある。このことからマイレンダーはこの「Globus」の会員であったと推測される。他の収容所俘虜からのものを記すと、ハインリヒ・プリルヴィッツ(Heinrich Prillwitz;徳島俘虜収容所)から本人(福岡俘虜収容所)宛て、ハインリヒ・エンゲル(Heinrich Engel;大阪俘虜収容所)から本人(福岡俘虜収容所)宛て、ヨーハン・ベーレン(Johann Behren;大分俘虜収容所)から本人(福岡俘虜収容所)宛て、ペーター・ケルナー(Peter Körner;習志野収容所)から本人(大分俘虜収容所)宛て、ヨーゼフ・ラングハイム(Joseph Langheim;板東俘虜収容所)からハインリヒ・シュペーラー(Heinrich Spöler;大分俘虜収容所)宛て、ルートヴィヒ・ビューヒ(Ludwig Büch;板東俘虜収容所)から本人(習志野俘虜収容所)宛て、ヴィルヘルム・マルティーン(Wilhelm Martin;青野原収容所)から本人(習志野俘虜収容所)宛て、ヤーコプ・ケーニヒ(Jakob König;久留米俘虜収容所)から本人(習志野収容所)宛て、ヴィルヘルム・シュロッターベック(Wilhelm Schlotterbeck;青野原俘虜収容所)から本人(習志野俘虜収容所)宛てである。2)他の手書き文書(4点)。これは収容所時代の支払い領収書等の他、1918年5月21日に、クッツホーフの父親から東京のジーメンス・シュッケルト社東京支社を通じて、25マルクの送金があり、300マルク=100円の当時の為替レートから、8円33銭が渡されたことを示す珍しい領収書も遺されている。また、ヨーハン・ヘルマン(Johann Hermann:久留米俘虜収容所から解放後に蘭領印度)からクッツホーフの本人宛ての手紙がある。3)写真(11点)。1912年当時の本人の写真。1914年福岡収容所における、イルチス山守備隊だった海軍膠州砲兵隊第4中隊の集合写真(この中には、クリューガー(K.Krüger)も写っている)。収容所時代の遠足の写真(福岡時代か?)。大戦終結後帰国してからの婚礼の写真(1921年、エンマ・ギール:Emma Gihrと結婚)。1960年当時の自宅の写真等である。4)絵葉書(12点)。青島の破壊された砲台や耶馬溪(大分)の滝と断崖の写真等。5)グラフィック(5点)としては、1918年の習志野でのクリスマス、鉄条網に止まるすずめ、1919年末の喜福丸乗員からの幸運を祈るカードがある。6)催し物のプログラムは24点あり、大分時代の1916年のクリスマス、習志野収容所楽団コンサート、男性合唱団の民謡の夕べ、演劇、体操の夕べ等に関するものである。マイレンダーのこれらの資料は、『クッツホーフから中国、日本へ アンドレーアス・マイレンダーの1912~1920年にわたるオデッセイの旅』(Von Kutzhof nach China und Japan.Die Odyssee des Andreas Mailänder 1912-1920,von Hans-Joachim Schmidt und Karl Heinz Janson)として2001年に本となった。1916年10月18日、ビアルハ(Bialucha)等68名とともに、福岡から大分に移送され、1918年8月8日には習志野へ移送された。また、上掲書によるとマイレンダーは第二次大戦後、エーベリング(Ebeling)、ハンス(Hanns)、ヘス(Höss)、コルト(Kort)、レヒナー(Lechner)及びハンス・フォン・マルティーン(Hans von Martin)中尉とコンタクトを取った。なお、マイレンダーは妻に先立たれ、息子を洪水で亡くすなど、晩年は孤独の内に過ごした。70歳を過ぎた昭和40年代、名古屋に住む日本の女子高生と文通をしたことが、遺された手紙の束から判明した。その女子高生は、習志野市教育委員会の星昌幸氏の調査によって特定された。マイレンダーは習志野時代をしきりに懐かしがっていたとのことである。ザールブリュッケン近郊のクッツホーフ(Kutzhof)出身。(1332:福岡→大分→習志野)
1455) Majunke(マーユンケ),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、「ドイツ兵墓碑」の建設に際して石積み工事を担当した。ライプチヒ出身。(1989:丸亀→板東)
1456) Makowiz(マコヴィッツ),Richard(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト艦長・海軍大佐。1919年12月28日喜福丸で横浜を出航して帰国の途に着いた。ドイツのヴィルヘルムスハーフェン到着からオーストリアへの帰国風景を報告書として残した。それによると、ドイツでは大歓迎であったにもかかわらず、オーストリアでは帝国が瓦解して見向きもされなかったといわれる。トリエステ出身。(1315:福岡→習志野)
1457) Mallon(マロン),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等焚火兵。[青島港湾局]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において(当時27歳)、2時間38 分54 秒5分の3で62位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。シュヴェッツ(Schwetz)出身。(3034:松山→板東)
1458) Maltzahn(マルツァーン),Adolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備上等歩兵。1916年(月日不明)、「組長ヨリ馬鈴薯ノ皮剥ヲ命セラレ他人ヲシテ自己ノ任務ヲ代理セシメタル科」で重営倉3日の処罰を受け、また「入倉中不謹慎ナル態度ニ出デタル科」により更に加罰15日を受けた。オルデンシュタット(Oldenstadt)出身。(2634:名古屋)
1459) Mändler(メントラー),Arnold(?-?):所属部隊不明・階級不明。1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された、似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のために発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の26頁には、メントラー経営の薬局のイラストが掲載された。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ミュンヘン出身。(4564:大阪→似島)
1460) Mangold(マンゴルト),Martin(?-?):海軍膠州砲兵隊。1等砲兵。1915年12月、宣誓解放された。ラッポルツヴァイラーのアンマーシュヴァイラー(Ammerschweiler)出身。(1325:福岡)
1461) Manitz(マーニッツ),Richard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。久留米時代の1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)が設立されたが、その第2代並びに第6代会長を務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として、日本内地で解放された。ザクセンのレーバウ(Löbau)出身。(3512:熊本→久留米)
1462) Maracic(マラチッチ),Petar(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916年10月9日、ピンスキー(Pinski)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのポンテ(Ponte)出身。(2318:姫路→青野原→丸亀→板東)
1463) Markl(マルクル),Georg(1888-1950):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[ゲルマニア・ビール醸造所]。ヴュルツブルクに住む姪のロッツェン夫人(Coletta Lotzen)から、マルクルの情報が寄せられた。資料としては、写真6点と葉書数点が遺されている【メッテンライター『極東で俘虜となる』81-82頁 】。マイン河畔のクニッツカウ出身。(4412:「熊本→」大分→習志野)
1464) Marr(マル),Walther(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備伍長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。収容所ではクルーゲ(Kluge)と親しかった。1919年12月のクリスマスは、ヘルビヒ(Helbig)、クルーゲ及びヴルフ(Wulff)の四人で過ごした。12月29日のクルーゲの出発前夜、マルはクルーゲと二人で別れを惜しんだ。解放後は日本に残留した。ハンブルク出身。(597:久留米)
1465) Martin(マルティーン),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ香港支店]。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハノーファー出身。(3028:松山→板東)
1466) Martin(マルティーン),Hans von(1885-1973):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔衙門砲台指揮官〕。青島時代はビスマルク街(Bismarckstraße;日本の占領統治時代は万年通)に住んでいた。1917年2月18日、大阪から似島に収容所替えで移る際、鳥篭を提げながら梅田駅まで歩いて異彩を放った。1920年1月30日【1915年10月17日発令】海軍大尉に昇進し、同年3月8日に退役した。第二次大戦を期に現役に復帰し、1940年12月31日から1941年11月22日まで、シェルブール(Cherbourg)のノルマンディー海防部隊司令部で、海軍少佐として参謀将校の任に当たり、1941年11月23日から1944年8月まで、ル・ハーヴル(Le Havre)の海軍砲兵第266部隊司令官であった。マイレンダー(Mailänder)が第二次大戦後にコンタクトを取った人物【『クッツホーフから中国、日本へ』55頁】。シュレージエンのローテンブルク出身。(3979:大阪→似島)
1467) Martin(マルティーン),Robert(1888-?):海軍野戦砲兵隊・陸軍少尉。1907年7月バイエルン陸軍に入隊した。1914年8月、第3海兵大隊の海軍野戦砲兵隊に属す。1914年12月24日付けで陸軍中尉となった。松山時代、ゾルガー(Solger)予備少尉及びゴルトシュミット(Goldschnidt)予備副曹長とともに『陣営の火』の編集に当り、また板東でも『バラッケ』の編集に当たった。1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時30歳)、2時間43 分11 秒5分の2で85人中の第71位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。1920年1月30日【1916年10月5日発令】陸軍大尉に昇進し、同月10日、陸軍に入った。ミュンヘン近郊のアマーゼー湖畔ディーセン(Diessen)出身。(3014:松山→板東)
1468) Martin(マルティーン),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年9月25日、トルトゼン(Thordsen)等90名とともに福岡から青野原へ収容所換えになった。青野原時代の1919年6月16日、習志野のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は上海の中国相互生命保険のビルディングを撮った絵葉書である。【マイレンダーの項参照】。ザールブリュッケン近郊のクヴィルシート(Quirschiet)出身。(1350:福岡→青野原)
1469) Martinovic(マルチノヴィッチ),Rudolf(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916年10月9日、マラチッチ(Maracic)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。ダルマチア(今日はクロアチア)のツァラ(Zara)出身。(2331:姫路→青野原→丸亀→板東)
1470) Martwig(マルトヴィヒ),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・後備1等水兵。似島時代の1919年3月に開催された広島県物産陳列館の似島独逸俘虜技術工芸品展覧会カタログによれば、マルトヴィヒは「水兵館」を経営していた。「ビール、各種アルコール、自慢料理:ハンブルク・砕氷船、営業夕方9時半まで」等の文字のほか、オーナーのマルトヴィヒと思われる人物等の、味わいあるイラストが描かれている。ポンメルンのシュテティン出身。(3980:大阪→似島)
1471) Marufke(マルフケ),Hans R.M.(?-1933):総督府・予備伍長。[フォークト継続社(Fr.Vogt Nachflg.)]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。習志野時代、習志野演劇協会監督を務めた。1919年1月8日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』等の演出を担当した。同年3月5日に開催された「朗読の夕べ」では、ミュンヒハウゼン作の「スヴェンダラントの漁師」を朗読した。8月12日の習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』及びエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』(上演年月日不明)の演出をするなど、習志野における演劇活動では最も活躍した。1919年10月5日には、「ハンス・マルフケのための謝恩の夕べ」が開催された。二部構成になる音楽と演劇の夕べで、第二部の演劇では、自身がハラーシュタイン作の1幕の茶番劇『射撃手と空クジ』の演出をするとともに主役を演じた。【シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に寄せられたマルフケという名の女性によれば、マルフケには二人の息子がいて、1933年にフランクフルトで没したとのことである】。ポーゼンのブロンベルク(Bromberg)出身。(1762:静岡→習志野)
1472) Matheis(Mathais?;マタイス),Gustav(1895-1915):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1915年4月13日静岡で死亡、軍人墓地に埋葬された。静岡県安倍郡千代田村沓谷(当時)の陸軍埋葬地に埋葬された。この埋葬地には、日独戦争における戦病死下士卒の慰霊碑「大正三、四年戦役戦没戦病死下士卒碑」が建立されている。題字は青島攻囲軍指令官神尾光臣中将の書になる。埋葬地(約2200坪)は、現在も旧陸軍墓地として護られている。『欧受大日記』(大正13年)の「獨逸人戦没者墓地名簿」によれば、墓石は大正7年頃建設され、建設費等は不明とのことである。高さ二尺六寸、幅二尺四寸五分、奥行き九寸の馬蹄型の墓碑には、「Hier ruht der Matrose-Artillerist Gust.Mathais (geb.10.1.95. gest.13.4.15.) in Gott. Er starb den Heldentod fürs Vaterland」(1等砲兵グスタフ・マタイスここに眠る。祖国の英雄として没す)の銘文が刻まれている。階級・氏名・生没年は、馬蹄型の碑の中央に縁取られた十字架内に刻まれている。【1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、マタイスの死因は頭部に受けた銃創により引き起こされた急性化膿性髄膜炎とのことである。参照:大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』209頁】。バーデンのエットリンゲン(Ettlingen)出身。(1753:静岡)
1473) Mathiesen(マティーゼン),Eduard(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。福岡時代の1916年(月日不明)、逃亡未遂を起こしたモッデ(Modde)少尉付き卒であった。取り調べを受けたが、本人はリュウマチに苦しんでいて、モッデのためにレインコートを買った事実のみ認め、逃亡の事は知らなかったと述べた。またモッデも単独による行動であったと陳述したが、「俘虜ノ逃走ヲ幇助シタル科」で懲役2ヶ月に処せられた。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのアーペンラーデ近郊ローテンクルーク(Rotenkrug)出身。(1338:福岡→青野原)
1474) Mathieu(マテュー),Karl(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野戦砲兵。宣誓解放された。上部エルザスのサン=クルス(St.Kreuz)出身。(2628:名古屋)
1475) Matthias(マティーアス),Fritz(?-?):砲艦ヤーグアル艦長・海軍大尉。1914年7月31日の夕刻、ヤーグアル艦長に任命されたばかりのマティーアス大尉は、上海から英仏露の艦船を避けながら翌8月1日朝青島に辿りついた。11月7日未明の2時半に、青島独軍最後の軍艦ヤーグアルを自沈させた。静岡俘虜収容所の俘虜代表を務めた。【1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、マティーアスは強度の神経衰弱を病み、絶えず物音を立てては周囲に迷惑をかけていたとのことである。特に、夜間にその症状が顕著とのことだった。参照:大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』216頁】。習志野時代、誕生日に元ヤーグアル乗員から砲艦ヤーグアルの模型を贈られた。ベルリン出身。(1764:静岡→習志野)
1476) Matthiesen(マティーゼン),Hans(?-?):国民軍・水先案内人。妻マティルデ(Mathilde)は大戦終結まで上海で暮らした。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのデュッペル(Düppel)出身。(4562:大阪→似島)
1477) Matutat(マトゥタート),Paul(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等砲兵。久留米時代は演劇活動で、クリーク作の笑劇『困惑の花嫁』等8演目に出演した。ヴィッテンベルゲ(Wittenberge)出身。(1351:福岡→久留米)
1478) Matz(マッツ),Erich(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲隊・後備伍長。青島時代はハンブルク街のベルリン街側角に住んでいた。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(2617:名古屋)
1479) Matzen(マッツェン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。久留米の演劇活動では、リンダウ作『もう一人の男』に女役で出演した。宣誓解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(586:久留米)
1480) Mätzold(メツォルト),Gustav(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。年号は不明であるが、5月24日付けで天津在住のE.Kirnに宛てた俘虜郵便が遺されている。葉書の内容は以下であるが、ベールマン(L.Beermann)が最後に寄せ書きしている。「親愛なるキルン様! 今日、再び貴方に宛てて筆を執っております。数日前、比較的大きな地震がありましたが、私たちには何事も起こりませんでした。健康の面でも元気にしています。多分貴方様も同様と思います。聖霊降臨祭のお祝いを申し上げます。グスタフ・メツォルト 私からも聖霊降臨祭のお祝いを申し上げます。L. ベールマン」【高知在住の郵趣家河添潔氏所蔵の俘虜郵便より】。ザクセンのエツォルツハイン(Etzoldshain)出身。(1754:静岡→習志野)
1481) Mau(マウ),Konrad(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船上海支店]。ホルシュタインのカルテンキルヒェン出身。(3031:松山→板東)
1482) Mau(マウ),Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。[鷲屋薬局]。青島時代はフリードリヒ街に住み、オットー・リンケ(Otto Linke)経営の鷲屋薬局に勤めていた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(3993:大阪→似島)
1483) Maurer(マウラー),Werner(1882-?):海軍野戦砲兵隊・海軍中尉。〔要塞車厰第1次指揮官〕。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。松山時代の1915年12月、製菓所を設立する際に中心的役割を果たし、これが後の板東での製菓・製パン所(ゲー・バー)に繋がった。また山越の講習会では軍事学を講じた。ベルリン出身。(3012:松山→板東)
1484) Maus(マウス),Karl(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代の1917年1月28日、W.アンドレーアを仲間18人で殴打し、傷害罪により1月の懲役刑を受けた。ホルシュタインのメルドルフ出身。(3535:熊本→久留米)
1485) May(マイ),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、マイは模型部門で外洋漁船を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78頁】。ハンブルク出身。(1354:福岡→青野原)
1486) May(マイ),Oskar(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[商社員]。開戦前、広東近くの英仏共同租界沙面島でバールト(Barth)と一時期一緒であったが、バールトとは別の商社に勤めていた。板東俘虜収容所でもバールトとは一緒になった。板東近くの坂西農業学校で、フェルヒネロフスキー(Felchnerowski)およびルードルフ【Karl Rudorffか、あるいは Walter Rudolphか?】の三人で体操の実地指導をした。第2次大戦中にベルリンで偶然バールトに出会ったという。その兄は中国人女性と結婚して二人の娘があったが、その内の一人ヘレーネ・マイ(Helene May)は東京のドイツ人の間で有名だった【『極東のドイツ人商人』41頁】。1989年2月、娘のエリカ・ヴルコップは夫と25歳になる息子を伴って板東俘虜収容所跡を訪問した【横田『板東俘虜収容所長 松江豊寿』134頁】。2003年6月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、娘のエリカ・ヴルコップから、マイの著作『板東におけるわれわれの体操』の原本が鳴門市ドイツ館に寄贈された。2005年11月17日、孫のテース・ヴルコップがシュミット氏のホームページの「訪問者欄」に、祖父が資料や写真を遺してくれた旨の書き込みをした。キール出身。(3030:松山→板東)
1487) Maye(マイエ),Erich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代の1916年10月、バール(Alwin Bahr)、ベーマー(Boehmer)、フィッシャー(Paul Fischer)、グレックナー(Glöckner)、ヘフト(Max Hoeft)、ライポルト(Leipold)の7名で徳島市の円藤鉄工所に鋳造等の労役で派遣された。1日8時間、賃金・期間は不明。ライプチヒ出身。(4229:「大阪→」徳島→板東)
1488) Mayer(マイアー),Paul(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[青島郵便局]。ロートリンゲン出身。(3036:松山→板東)
1489) Mayer(マイアー),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したマイアーは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られ、2位で本戦A級に進出した【『徳島新報』1915年4月25日第4号より】。ケルン出身。(4231:「大阪→」徳島→板東)
1490) Mechelke(メヒェルケ),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、収容所内の数学の学習グループでの最強のチェスの打ち手だった。ケーニヒスベルク出身。(1317:福岡→習志野)
1491) Mechtersheimer(メヒテルスハイマー),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。生家はヴュルテンベルクの牧師館であった。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)と同じ部屋に住んだ。牧羊犬ほどの大きさの黒い犬を飼っていた。ハイデルベルク出身。(1333:福岡→習志野)
1492) Meckel(メッケル),Heinrich(?-1942):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。「ドイツ兵墓碑」の建設に際して石積み工事を担当した。ヘッセン=ナッサウのアウル(Aull)出身。(2001:丸亀→板東)
1493) Medvidovici(メドヴィドヴィッチ),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等下士。1916年(月日不明)、ヒメルチェク(Chmelicek)とクナイフル(Kneifl)の三人で共謀して逃走をした科で重営倉30日に処せられた。青野原時代の1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、メドヴィドヴィッチのグループは編み物・レース編み部門で、ハンモック、絨毯、ベッド用マット、テニスボール入れ等8点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』82頁】。ダルマチアのカステルノヴァ(Castelnova)出身。(2312:姫路→青野原)
1494) Mehlis(メーリス),Peter(?-1919):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1919年1月31日習志野で死亡。アンデルナッハ(Andernach)近郊のプライト(Plaidt)出身。(157:東京→習志野)
1495) Meie(マイエ),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。その会で写されたと思われる、パヴェルツィヒ(Pawelzig)と氏名不詳の三人で撮った写真がシュミット氏のホームページで紹介されている。アルトナ出身。(3538:熊本→久留米)
1496) Meier(マイアー),Otto(?-?):海軍砲兵中隊・1等主計候補生。青島時代はティルピッツ街(Tirpitzstraße;日本の占領統治時代は忠海町)に住んでいた。キール出身。(3037:松山→板東)
1497) Meier(マイアー),Richard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北京電灯会社(Pkg Electr.Light Co.)]。ハノーファー出身。(3024:松山→板東)
1498) Meiners(マイナース),Ewald(?-?):海軍砲兵中隊・1等水兵。熊本時代1915年3月1日、収容先の定禅寺の禁止室に入り、自己の娯楽室を設けるために建物を壊した科で、歩兵第13連隊の営倉で重営倉2日の処罰を受けた。ブラウンシュヴァイク出身。(3533:熊本→久留米)
1499) Meinsen(マインゼン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、コントラバス、後にテノール・ホルンを担当した。また1917年7月17日に発足した「収容所保険組合」に、第5中隊代表となって運営に従事した。第7棟5室では、ザウアー(Sauer)及びフェッター(Vetter)とともに洗濯屋を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ヴェストファーレンのペテルスハーゲン出身。(3019:松山→板東)
1500) Meiser(マイザー),Martin(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。[ドイツ・アジア銀行青島支店]。丸亀時代の1915年12月8日、官憲の求めにより護送員の歩兵第12連隊斉藤弥平太中尉と共に青島に赴き、12月26日に丸亀に戻った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。【青島に赴いた理由は不明。ギュンター(Günther)元民政長官の例を除くと、収容中の俘虜が青島に赴いた例を他には見ない。極めて稀有なケースと思われる。ドイツ・アジア銀行の資産・帳簿に関することかと推測される】。ライプチヒ出身(『俘虜名簿』では青島)。(1983:丸亀→板東)
1501) Meissner(マイスナー),Josef(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等機関下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、鉛筆画6点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』69頁】。ボヘミアのオッテンドルフ(Ottendorf)出身。(2313:姫路→青野原)
1502) Meißner(マイスナー),Kurt(1885-1976):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔イルチス砲台〕。[レイボルト機械商会(L.Leibold & Co.)東京支店]。父親はハンブルクの出版社主で、カール・マルクスの著書を初めて出版したことで知られるオットー・マイスナーであった。1905年12月末、日露戦争終結により俘虜となっていた日本軍将兵が解放され、メドヴェージ村(サンクトペテルブルクの南180キロ)の収容所からドイツ経由で帰国した。その際、日本人たちのハンブルク市内見物の案内役を務めた【吹浦忠正『捕虜たちの日露戦争』、120頁】。ハンブルク大学で学んだ後1906年、ジーモン・エーヴェルト商会の日本駐在員として来日、20歳だった。1907年、レイポルトが死去すると、商会の第二代社長に就いた。滞日8年余の時点で応召し、日本の最後通牒が発せられた8月15日に青島に到着した。日本語は堪能で、当初は松山の大林寺に収容され、そこの収容所講習会で日本語の講師を務めた。板東では本部主計事務室で松江所長の通訳をした。板東収容所内印刷所から『日本語日常語教科書』、『日本地理』、『日本日常語授業』を出した。大戦終結後も日本に滞在し、神田伯竜の講談で知られた『阿波狸合戦』等を独訳し、他に『日本におけるドイツ人の歴史』の著作もある。『バラッケ』1919年6月号には、マイスナーによる「狸の歴史」という文章が掲載されている。1920年から1945年まで25年間、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)の指導的な地位に就き、会長も務めた。1963年秋、郷里ハンブルクに帰り、自宅を「七夕荘」と称した。ハンブルク出身。(3025:松山→板東)
1503) Meller(メラー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海・テルゲ・ウント・シュレーター商会(Telge & Schroeter)]。【メラーの以下の足跡は、息子のアードルフ・メラー(Adolf Meller)氏の後記文献に依拠した】。大戦勃発後の1914年8月6日、上海から鉄道で南京、済南と乗り継ぎ、青島に向かった。上海からの列車には、「マルコ・ポーロ号」乗員のイタリア人8人が乗り込んでいた。内一人はフランス語を話し、彼の言によれば北京に赴き、そこから青島に向かって「プリンツ・アイテル・フリードリヒ号(Prinz Eitel Friedrich)」に乗り組むとのことであった。メラーは8月8日正午過ぎ青島に着き、翌日身体検査を受けた。軍医からは極度の近視で、かつ右目の瞳孔が右上部にずれているとの診断を下された。当初は第6中隊に配属されたが、戦闘後に第7中隊へ配属換えになった。9月下旬のある夜、小さな穴に落ちて足を怪我したが、それでも3週間あまり戦闘勤務に就いた。やがて足が膨れ上がり、10月20日総督府衛戍病院に運ばれたが、日本軍の攻撃のため衛戍病院は閉鎖されていて、補助病院となっていたプリンツ・ハインリヒ・ホテルにすぐに移された。11月1日の午後遅く、一時日本軍の砲撃が止むと、新鮮な空気を吸うために、上海からの知り合いであるシュレーゲル(Schlögel)予備伍長とともに衛戍病院裏の丘に登った。二人はオーストリアの巡洋艦皇后エリーザベトが自沈するのを目撃した。11月12日に沙子口から貨物船「福洋丸」で日本に向かった。朝日ビール2本に船内では1ドル支払った。多度津から丸亀までは二列になって行進させられたが、メラーはシュナイダー(Eugen Schneider)伍長と並んで歩いた。丸亀俘虜収容所では中国語のグループ授業に参加した。その折の授業風景と本を積み重ねた机の前に座るメラーの写真が遺されている【〔写真2〕を参照】。板東俘虜収容所に移ってからも中国語の勉強を続けたが、ある時軍医から眼をいたわらないと失明する恐れがあると言われ、以後中国語の勉強をあきらめて、出来るだけ屋外の緑に眼を向けるようにした。そんなことから伐採の仕事には積極的に参加した。メラーの1919年12月24日のクリスマスイヴの日の日記には、「今夜は部屋の静かな片隅で、ハリー・メラー(Harry Möller)とグスタフ・アルスレーベン(Gustav Alsleben)の三人で、メラー(Möller)のウサギを食べる」との記述がある。メラーは板東俘虜収容所で発行された新聞『バラッケ』や、送還船「豊福丸」内で発行された新聞『帰国航』を保存して遺した【メラー『青島守備軍の運命』より】。ボルンシュテート(Bornstedt)出身。(1998:丸亀→板東)
1504) Mengeringhausen(メンゲリングハウゼン),Heinrich(?-1915):第3海兵大隊第2中隊・伍長。1915年2月7日青島で死亡、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。ブレスラウ近郊のラートベルク(Radberg)出身。(4664:青島)
1505) Menke(メンケ),Eduard(?-?):総督府・海軍2等筆記。板東時代、板東クリケット協会「壮年」の主将を務めた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時25歳)、2時間33分00秒で37位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。オルデンブルクのボックホルン(Bockhorn)出身。(3040:松山→板東)
1506) Menn(メン),Gustav(?-?):海軍東アジア分遣隊・上等歩兵。[指物師]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドルトムント出身。(1364:福岡→名古屋)
1507) Merchel(メルヒェル),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に木製のダックスフント及び農場を制作・出品した。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において(当時26歳)、2時間38 分14 秒5分の2で55位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。レックリングハウゼン(Recklinghausen)出身。(1988:丸亀→板東)
1508) Merck(メルク),Dr.Karl(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・予備陸軍少尉。戦闘の初期にはシュリック(Schlick)中尉とともに、外方の前線陣地を守った。熊本時代の1914年12月14日、薬学博士田中秀介(東京市本郷区5丁目7番)が衛戍司令官の許可を得て面会に訪れ、煙草、茶、新聞を差し入れた(これが熊本収容所における最初の俘虜面会だった)。また、1915年2月24日、大賀寿吉(大阪市東区島町1丁目8)がメルク及びウルフ(不詳)の面会に訪れ、菓子1箱を差し入れた。3月10日には田中秀介が再度訪問し、1時間30分面談した。久留米時代の1917年8月、ニューヨーク市のメルク商会から、メルク宛に200円の金券交付方の依頼があった。メルクには頻繁に送金があった。久留米時代は演劇活動で、イプセン作『国民の敵』等3演目全てに女役で出演した。大正8年頃、名古屋の落合化学で落合兵之助と金液の共同研究をしていたエンゲルホルン(Engelhorn)の推薦で、その後任として久留米収容所から招かれた。メルクはエンゲルホルンの大学時代からの友人で、ドイツのダルムシュタットにある医薬・工業薬品会社E.Merck社の社長の息子であった。3ヶ月ほど落合と共同研究をした後、エンゲルホルンと一緒に帰国して、メルク社の専門技術者であるペテルセンを派遣した【校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅱ」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号65-68頁】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ダルムシュタット出身。(3526:熊本→久留米)
1509) Mersiovsky(メルジオフスキー),Alfred(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ザクセンのバウツェン(Bautzen)出身。(3511:熊本→久留米)
1510) Merta(メルタ),Gustav(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。松山時代の1916年3月2日、夜陰に乗じて共謀脱柵し、酒楼に登った科で重営倉30日に処せられた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時25歳)、2時間21分2秒5分の1で85人中の第5位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。クロイツブルク(Kreuzburg)出身。(3009:松山→板東)
1511) Merten(メルテン),Ernst(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[アルンホルト・カルベルク漢口支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。イルメナウ(Ilmenau)出身。(1992:丸亀→板東)
1512) Metz(メッツ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1919年11月29日付けの妹宛の絵葉書が現存している。それには「愛する妹へ 戦争が終わって、自由になれる日が近づいてきました。帰還前にもう一度美しい日本の絵葉書をおくりたい。…」等のことが書かれている。【『ドイツ兵士が見たNARASHINO』37頁】。バーデンのブルッフザール出身。(4414:「熊本→」大分→習志野)
1513) Metzger(メツガー),Franz(1984-1960):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備1等砲兵。以下の記述は、息子のオットー・メツガー(Otto Metzger)氏からの教示による【1884年9月25日、アルテンドルフに生まれた。1905年、海軍に入隊した【〔写真15〕参照】。1906年初頭、レーエ(Rehe)からボルシア(Borussia)号に乗り組んで青島へ赴き、1908年まで青島に滞在、その年の8月海軍膠州砲兵隊第3中隊の兵曹になった。1909年に一時期ドイツに帰国したが、その年にシュプレーヴァルト(Spreewald)号で青島に戻った。1912年から1913年にかけて兵営監督を務め、1914年9月上等兵曹になった。】。1916年10月20日、福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部の作業道具の部門に旋盤を出品した。先のオットー・メツガー氏作成の資料によれば、解放後は東京のカメラ製造会社「小西六」にレーザー技師として勤務し、1910年11月30日にエリーザベト・テレジア・レヴェリング(Elisabeth Theresia Levering)と結婚した。1926年、OAG(ドイツ東洋文化研究協会)のマネージャーとして勤務し、横浜市大神宮山に住んだ。1929年ごろ、横浜の山下町でフランス料理店「クレサン・クラブ」を経営したが、1931年に世界的大恐慌のあおりを受けて閉鎖した。1929年ごろに妻のエリーザベトと離婚したと思われる。1930年、宮崎県出身の丸山タツ(1907-2006)と結婚して長男カール(Karl;1930-2000)が出生した。1931年から翌年にかけては、メツガーにとって種々困難な時期であった。1932年、ヘルマン・ヴォルシュケ(Hermann Wolschke)からソーセージ造りを学びつつ独学もして、やがて横浜の元町でソーセージ製造・販売の店「デリカテッセン」を1945年まで経営した。二人の間さらに、次男ハンス(Hans;1933-2006)、三男フランツ(Franz;1935-)、四男オットー(Otto;1938-)、長女マルガレーテ(Margarete;1942-)、次女ルイーゼ(Luise;1944-)が生れた。1945年の米軍B29による空襲で店は焼失し、1945年から1949年まで、米軍キャンプでコックの仕事をした。1949年から1952年にかけて、東京・丸の内で貿易商会を開設した。1952年、横浜の本牧で食品店「Metzger’s Delicatessen」を経営した。1960年2月9日鎌倉で没し、鎌倉雪ノ下教会(カトリック)墓地に埋葬された。今日は妻タツも一緒に埋葬されている。2006年10月、息子のオットー・メツガー氏から「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」に父親フランツの足跡探しの依頼が舞い込んだ。ルール河畔西エッセンのアルテンドルフ(Altendorf)出身。(1323:福岡→大阪→似島)
1514) Metzger(メッツガー),Peter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[横浜・ホフマン‐ラ・ロッシュ商会(F.Hoffmann-La Roche & Co.)]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。マンハイム出身。(3026:松山→板東)
1515) Metzner(メッツナー),Paul(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン上海支店]。当初ジームセン社の上海支店から、毎月400円の仕送りを受けていた。松山時代の1915年11月3日、逃亡を企てた。小船で瀬戸内海を渡って広島に逃れるつもりであったが失敗した。やはり逃亡を企てて重禁錮2年の刑に処されたローデ(Rode)とともに、天長節の恩赦で解放された。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時30歳)、2時間38分19秒5分の1で56位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。ベルリン出身。(3027:松山→板東)
1516) Meutzner(モイツナー),Walther(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。習志野時代、1919年3月5日に開催された「朗読の夕べ」でロイターとタルノーの詩を朗読した。メクレンブルクのヴィスマール(Wismar)出身。(4406:「熊本→」大分→習志野)
1517) Meyer(マイアー),Christoph(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東俘虜収容所内のタパタオではリスト(List)と共同で卵、キャンデー、果物、野菜などを売る店を営んだ。ケルン出身。(3021:松山→板東)
1518) Meyer(マイヤー),Constantin(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。[ディーデリヒセン上海支店]。1915年6月熊本から久留米へ、1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。久留米時代の1915年8月22日、オーストリアのフランツ・ヨーゼフ皇帝の誕生日の祝いが行われたが、それは皇帝のためではなくて、誕生日が同じコニー・マイヤーのためであった【『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』21頁より】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(3522:熊本→久留米→板東)
1519) Meyer(マイアー),Eduard(?-?):海軍野戦砲兵隊・予備中尉。松山時代、山越の収容所講習会で中国語の講師を務めた。ハンブルク出身。(3013:松山→板東)
1520) Meyer(マイアー), Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備伍長。[商社員]。「ハインリヒ・ハムの日記」によると、マイアーは大戦前ロシアのリバウ(Libau)で、ある商社に勤めていた。習志野時代の1918年5月18日、ハムと一緒に散歩をするの中で、リバウ、キエフ、リガ、オデッサなどでいいワインの店が作れるだろうと話して、ハムに戦争終結後の仕事への思いを抱かせた。バイエルンのヴィンツハイム出身。(158:東京→習志野)
1521) Meyer(マイアー),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第5中隊・予備副曹長。板東時代、シュテッヒャー大尉、ベルリーナー、パウル・エンゲルとともに、エンゲル主宰の「管弦楽団」の理事を務めた。また、1919年5月7日に開催されたテニス大会では、テニス協会(T.V)チームのダブルスでトレンデルブルク(Trendelburg)中尉と組んで出場し、新テニス協会(N.T.V.)のゲッテ(Goette)及びハルクス(Harcks)組と熱戦を繰り広げ、第3セットで勝利した【『バラッケ』第4巻170頁】。ハンブルク出身。(3018:松山→板東)
1522) Meyer(マイアー), Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。リューネブルク出身。(4642:大阪→似島)
1523) Meyer(マイアー),Otto(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(大林寺収容)の1916年9月19日、ヴンダーリヒ(Wunderlich)から上海に居住するツィンマーマン(Otto Zimmermann)の妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し、マイアーは重謹慎10日の処罰を受けた。他の4名はゲルビヒ(Gerbig)、イェシュケ(Jeschke)、シャイダー(Scheider)、ツィンマーマン(Otto Zimmermann)である。テューリンゲンのブッテルシュテート(Buttelstedt)出身。(3020:松山→板東)
1524) Meyer(マイアー), Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ブラウンシュヴァイク出身。(1362:福岡→名古屋)
1525) Meyer-Waldeck(マイアー=ヴァルデック),Alfred Wilhelm Moritz (1864-1928):膠州総督・海軍大佐。(中国名表記:麦維徳)。1864年11月27日、ロシアのサンクトペテルブルクに生まれた。父クレーメンス・フリードリヒ・マイアー(Clemens Friedrich Meyer)はサンクトペテルブルク大学のドイツ文学教授であった。10歳の時父親は退職し、一家はハイデルベルクに移り住んだ。父親はやがてマイアー・フォン・ヴァルデック(Meyer von Waldeck)の筆名を用いたが、それが息子によって後に「マイアー=ヴァルデック」と称されることになった。大学で1年間歴史学を学んだ後海軍に入った。1908年に青島に赴任して1911年まで総督府参謀長を務めた。1898年にはヨハンナ・ナイ(Johanna Ney;1880-1964)と結婚し、1男2女をもうけた。1911年8月19日、トゥルッペル総督の後任として第4代膠州総督に就任、植民地加俸、交際費等を含めた年俸は5万マルクであった。身長190センチの長躯で胸幅厚く、白髪まじりの山羊髭をたくわえた風貌はロシアの将軍を思わせた【〔写真22〕参照】。水泳と馬術がめっぽう好きであった。【《The Japanese Siege of Tsingtau》18頁より】1914年11月10日、モルトケ兵営において青島攻囲軍司令官神尾光臣中将と会見した。その折り神尾中将は、日本陸軍がドイツ陸軍からこれまでに受けた指導に感謝の意を表し、日本の政策上不本意ながら青島を攻撃したこと、また日本軍に多大の損失が出るほどドイツ軍の防備の優れたことを語った。これに対してヴァルデック総督は、日本軍の武勇を称えたと言われる。妻子は開戦後に北京に逃れた。11月14日、俘虜となるべく日本に向かった。それは奇しくも17年前に、ドイツ東洋艦隊が青島を占領した日と同じ日付であった。11月17日午前9時20分、御用船薩摩丸で門司港に到着した。服装は、黒の海軍帽、紺地にダブルの金釦を付け、四線の太い金線のある正服を着用。黒のネクタイを結び、同じ紺地のズボンに茶褐色の革の脚袢を着け、長靴を穿いていた。出迎えに来た旧知の山本茂中尉と面談した。今回で来日4度目、3年前の3度目の来日の際奈良で雷雨にあったと語った。【参照:総督の談話『東京朝日新聞』1914年11月18日付】福岡での収容宿舎は、福岡赤十字社支部であった。この建物は旧福岡藩時代の台場跡のあった洲崎海岸に在り、瀟洒にして広壮、眺望絶佳で玄海灘を望み、眼下に西公園、向かいは物産館、市塵を離れた所に在った。日本の大佐の月給に相当する280円を月俸として支給された。1915年1月29日、支給された給与から150円を大分俘虜収容所の俘虜のために寄付した。1915年6月1日、妻のヨハンナは息子のハンス(Hans;1902-1965)及び長女ヘルタ(Hertha;1906-1919)、次女ダクマル(Dagmar;1908-2005)とともにドイツに帰国するため上海を発ち、長崎に寄航した。上陸は許可されなかった。翌日横浜を経由してアメリカに向かうべく長崎を発った。なお、ドイツ人医師4名と看護人55名も乗船していた【『新聞集成 大正編年史』大正4年上800頁】。1918年3月25日、習志野に移送された。1920年1月26日朝10時、収容所長山崎友造少将の別辞・万歳三唱を受けて、副官のカイザー少佐等40名とともに習志野収容所を後にした。3月25日、帰還船南海丸で神戸を出発し、残留していた最後の家族(約150人)を乗せるため青島に寄港、5月23日(24日?)にハンブルクに到着した。収容中に少将に昇任した。『青島の武装と包囲』(Bericht über die Armierung und Belagerung)の報告書を残した。1928年夏、バート・キッシンゲン(Bad Kissingen)に療養に行き、その地で没し、ハイデルベルクの一家の墓地に埋葬された。サンクトペテルブク出身。(1635:福岡→習志野)
1526) Meyermann(マイアーマン),Bruno(1876-1963):第3海兵大隊・予備陸軍中尉。[青島測候所長]。1901年10月予備少尉(歩兵第173連隊)、1910年10月予備中尉。1908年から1914年11月まで青島測候所長兼独中・高等学校講師。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenroheweg)に住んでいた。熊本時代の1914年12月26日、中央気象台長理学博士中村精男、及び熊本測候所長栗山茂太郎が面会に訪れた。1915年3月、天津から妻と家族の入国申請があり許可された。久留米時代、妻マティルデ(Mathilde)は国分村浦川原の森新別荘にリーデルシュタイン夫人と一緒に住んだ。子供が二人いた。1918年8月7日、マイアーマンはコップ中尉、ガウル中尉等71名とともに板東へ収容所換えになった。その際夫人はコップ夫人、ガウル夫人とともに避暑のため箱根で過ごした。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ゲッティンゲン出身。(3507:熊本→久留米→板東)
1527) Michalkowski(ミヒャルコフスキー),Karl von(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。[メルヒャース上海支店]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン出身。(587:久留米→板東)
1528) Michelmann(ミッヒェルマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。久留米時代は演劇活動で、モーザー及びミンク作の笑劇『第六感』等11演目に、主として女役で出演した。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時24歳)、2時間38分51秒5分の3で61位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。ハノーファー近郊のパッテンゼン(Pattensen)出身。(3527:熊本→久留米→板東)
1529) Miedtank(ミートタンク),Max(1892-1980):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。ロッセン村に生まれ、ロマッチュ市で没した【松尾「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」100頁】。ザクセンのロッセン(Lossen)出身。(1360:福岡→久留米)
1530) Mierswa(ミールスヴァ),Hans(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン上海支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時30歳)、2時間29分19秒5分の3で22位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ザールブリュッケンのフェルクリンゲン(Völklingen)出身。(2002:丸亀→板東)
1531) Mielck(ミールク),Bernhard(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。ローマン(Lohmann)あるいはシュテーゲマン(Steegemann)の遺品と思われる写真中に、エンゲルホルン(Engelhorn)、ケーニヒ(Leo König)等五人で写った写真が現存している【ローマン及びシュテーゲマンの項参照】。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ハンブルク出身。(2618:名古屋)
1532) Millies(ミリエス),Hans(1883-1957):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等軍楽手。[上海居留地工部局管弦楽団副指揮者]。ベルリンでヴァイオリンをヨーゼフ・ヨアヒムに学んだ後、1910年10月20日、前記管弦楽団に加入し、上海共同租界オーケストラのコンサートマスター兼副指揮者に就いた【「1912年版上海工部局年次報告書」より】。パウル・エンゲル(Paul Engel)はその楽団員であった。1914年12月15日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス及びプレフェナーは非戦闘員なので解放せよとの申し入れがあったが、軍籍があることから不許可になった。福岡時代、収容所北部地区の第2棟に居住した。クリューガー(Karl Krüger)と同室であった。オストマン(Ostmann)の指導により、やがて演劇グループが結成され、レッシングの喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』、シラーの『群盗』が上演され、幕間にはミリエス指導による音楽の演奏もあった。収容所ではやがて毎日のようにヴァイオリンを弾き、時に音楽に関する講義も行った。1916年10月22日、オストマン(Ostmann)、シュペルリング(Sperling)等の68名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代の1917年10月31日、ユーバーシャール(Ueberschaar)との共同で「宗教改革400年記念の夕べ」を主催した。二部構成の音楽会と言えるもであるが、合間に「1517年から1917年のドイツ人」の題のユーバーシャールによる講演もあった。「ミリエス楽団」を結成し、1919年3月9日には「ハンス・ミリエス・コンサート」を開いた。演奏曲目は、ベートーヴェン『ヴァイオリン協奏曲』(ピアノ伴奏:ハイメンダール少尉)、サン・サーンス『序奏とロンド・カプリチオーソ』(ピアノ伴奏:アルフォンス・ヴェルダー2等歩兵)、シューマン『トロイメライ』、シューベルト『アヴェ・マリア』、サラサーテ『チゴイネルヴァイゼン』(以上のピアノ伴奏:ヴェーデル(Wedel)少佐)であった。また習志野弦楽四重奏団の一員で、第一ヴァイオリンを担当した。他の三人はヴォストマン(第二ヴァイオリン)、ハルツェンブッシュ(ヴィオラ)、テーン(チェロ)である。宣誓解放されての帰国後、キールやリューベックの交響楽団でコンサートマスターを務めたが、リューベックでは若き日のフルトヴェングラーの下でも活動した。1925年音楽学校を設立し、1933年には州立音楽学校の校長となった。リューベックに没した。【なお、ミリエスが習志野俘虜収容所時代に書き残した「閉じておくれ僕の眼を」の楽譜が、子孫の手で2002年に習志野市に届けられ、市の依頼でソプラノ歌手鮫島有美子氏による再演が実現した。リサイタルで歌われた後に、CD『祈り~アメイジング・グレイス』に収められている】。キール出身。(1335:福岡→習志野)
1533) Milz(ミルツ),Josef(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。丸亀時代、香川県麦稈真田同業組合長中西孫太郎が面会に訪れた。中西氏の語るところによれば、ミルツは青島で5万マルクを投じて麦稈真田業を営み、職工200人(但し、麦稈真田編を含む)を使用して、一日に約1000個の帽子を造り、一個18銭から3円で、上海及び印度に輸出していた、とのことである【『大阪朝日新聞 四国版』大正5年11月20日付け】。板東時代、収容所で俘虜相手の風呂屋を開業した。収容所の東北隅の空き地で、間口三間、奥行四間の平屋建て。休息所、脱衣場、浴場、釜焚場に区画し、建築費は諸器具を含めて約1200円であった。シャワー一回6銭6厘で、アルザス出身の二人をマッサージ師として雇っていた。1919年5月22日、火災で全焼した。損害は約2000円に及んだといわれる【『日本人とドイツ人』209頁】。バイエルンのリンデンベルク(Lindenberg)出身。(1996:丸亀→板東)
1534) Misslin(ミスリーン),Ernst(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において、ミスリーン(25歳)は2時間17分41秒で85人中の第2位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。エルザスのレーギスハイム(Regisheim)出身。(3010:松山→板東)
1535) Mittag(ミッターク),Ernst(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1914年9月28日、李村で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、徒手体操1種目、陸上競技2種目)では、得点119⅓で初級4位になり、1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点140で中級1位になった。エアフルト出身。(612:久留米)
1536) Mladeck(ムラデク),Kurt(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[クンスト・ウント・アルバース商会]。ウラジオストックから応召した。板東時代の1918年6月14日、「シベリア」と題して講演した。リューベック出身。(3023:松山→板東)
1537) Möbius(メービウス),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。大阪時代の1916年11月14日、厭世観から収容所内の便所で、ナイフによって頚部と左腕を刺して自殺未遂を企て、衛戍病院に送られた。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた。ザクセンのメルゼブルク(Merseburg)・ザンダースドルフ(Sandersdorf)出身。(3998:大阪→似島)
1538) Modde(モッデ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備海軍砲兵少尉。〔第11及び第11a砲台指揮官〕。当時年齢は40代前半であった。福岡時代の1915年11月20日に収容所から逃亡した。自称米国人フランク・ダヴュルミラーを装ったが、関釜連絡船上で嫌疑をかけられ拘束、22日に福岡俘虜収容所に護送され、やがて禁錮3年の処罰を受けた。エアフルト出身。(1316:福岡→習志野)
1539) Mohr(モーア),Bernhard(?-?):第3海兵大隊・予備陸軍少尉。松山時代、その所持するタイプライターは『陣営の火』の原稿打ち込みに終日活動した。ミュラー少尉と共同でビール、サイダーの空き箱、空き瓶や竹で木製ポンプを組み立てて、來迎寺収容所前の松田池から配水して噴水をこしらえた。また新案の体操18種を考案した。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」(当時38歳)で、2時間48分19秒5分の2で16人中の13位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ビーレフェルト出身。(3008:松山→板東)
1540) Mohr(モーア),Dr. jur. Friedrich Wilhelm(1881-?):第3海兵大隊・予備陸軍歩兵少尉。ライン河畔のエンゲルス(Engers)に生まれた。1895年からノイヴィートのギムナジウムに通い、1903年から7学期間ボン、ベルリン、マールブルク大学で法律を勉強した。ベルリンでは2年間中国語を学び、修得した。1906年9月、カッセルの地方上級裁判所の1審判事補試験に合格し、その年の10月1日、ケルンのライン第5師団第65歩兵連隊に1年志願兵として応召した。1907年4月1日、ヴィルヘルムスハーフェンの海軍歩兵第3大隊本部に配属された。さらに同年4月26日膠州へ派遣され兵役義務終了後、膠州総督府の司法官試補兼通訳官となる。1911年に『膠州保護地便覧』(Handbuch für das Schutzgebiet Kiautschou,Tsingtau 1911)を編纂・出版した。1912年3月予備歩兵少尉に編入され、1913年6月4日財政通訳官に任じられた。同年6月6日、マールブルク大学での博士取得口述試問に合格。学位論文は『中国における諸租借地』(Die Pachtgebiete in China, Leipzig 1913)であった。その後総督府勤務を離れて、省都済南所在の中国山東省製塩公司監督官となった。熊本時代の1915年2月12日、妻が娘を伴って面会に訪れた。久留米時代、夫人は国分村浦川原の森新別荘に住んだ。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。大戦終結して帰国後、1920年から1921年まで法務省のベルリン移住局に勤務し、1922年からはハンブルク=ブレーメン東アジア協会の事務局長を務めた。ライン河畔のエンゲルス(Engers)出身。(3508:熊本→久留米→習志野)
1541) Moelders(メルダース),Bernhard(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1917年10月14日に開催された「1917年スポーツ週間」(参加者15名)の「高跳び踏み切り台なし」では、1.60m接触で2位、10月19日の「三段跳び」(踏み切り台有)では12.36mで2位になるなど、久留米のスポーツ大会で活躍した。 ヴェストファーレンのオスターフェルト(Osterfeld)出身。(617:久留米)
1542) Moll(モル),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部でぶどう栽培地のぶどう圧搾機を出品した。上部エルザスのコールマル出身。(3994:大阪→似島)
1543) Moll(モル),Karl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月25日、山嘉商店からの紡績、織物、鉱山、開墾、山林等に関する技術を持つ俘虜の照会にあたって、久留米収容所ではカール・モルを紹介した。ハルブルク(Harburg)出身。(593:久留米)
1544) Möller(メラー),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ウラジオストック支店]。板東時代、第3棟6室でビール販売を営んだ。ラウエンブルクのザンデスネーベン(Sandesneben)出身。(3032:松山→板東)
1545) Moeller(メラー),Friedrich(?-?):総督府経理課・2等給与係筆生。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2フルートを担当した。フーズム出身。(3041:松山→板東)
1546) Moeller(メラー),Gustav(?-?):第3海兵大隊・予備副曹長。〔湛山堡塁〕。[カルロヴィッツ漢口支店]。板東時代、ゴルトシュミットに代わって『バラッケ』編集部員になった。また公会堂で開催された絵画と工芸品展覧会のポスターとパンフレット部門では、縦横無尽の活躍をした。またE.ベーアの『三つの童話』(Drei Märchen)の装丁をし、ケーニヒの『板東俘虜収容所漫筆』の挿絵を描いた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ロストック出身。(3035:松山→板東)
1547) Möller(メラー),Harry(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ドイツ・アジア銀行青島支店]。ヴィルヘルム・メラー(Wilhelm Meller)の1919年12月24日のクリスマスイヴの日の日記には、「今夜は部屋の静かな片隅で、ハリー・メラー(Harry Möller)とグスタフ・アルスレーベン(Gustav Alsleben)の三人で、メラー(Möller)のウサギを食べる」との記述がある【メラー『青島守備軍の運命』67頁】。ハンブルク出身。(3029:松山→板東)
1548) Möller(メラー),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展に楽器のツィターを制作・出品した。マイニンゲンのロスドルフ(Rossdorf)出身。(1994:丸亀→板東)
1549) Möller(メラー),Paul(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。ハンブルク出身。(4691:大阪→似島)
1550) Möller(メラー),Wilhelm(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。久留米時代、1918年10月から日本足袋株式会社に、織物機械修理の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。メービスブルク(Möbisburg)出身。(1361:福岡→久留米)
1551) Möllers(メラース),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。久留米の演劇活動では、喜劇『クラブチェアーに座って』に出演した。ヴェストファーレンのアーメルスビューレン(Amelsbüren)出身。(599:久留米)
1552) Moltrecht(モルトレヒト),Paul(?-?):第3海兵大隊第2中隊・軍曹。丸亀時代の1915年7月8日、第1ヴァイオリンのエンゲル(Engel Engel)、第2ヴァイオリンのモルトレヒト、第3ヴァイオリンのライスト(Leist)、第1フルートのヘス(Hess)、第2フルートのヤーコプ(Jacob)及びオルガンのクラーゼン(Claasen)の6人によって「エンゲル・オーケストラ」【当初は「保養楽団」の名称で、1915年1月10日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の後継楽団】が成立した。板東時代、収容所内に「モルトレヒト合唱団」(60名)を結成して指揮者を務めた。1917年5月26日、マンドリン合奏団第1回コンサートを開催した。1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員でもあって、第2ヴァイオリン、後にヴィオラを担当した。トレンメン(Tremmen)出身。(1982:丸亀→板東)
1553) Moog(モーク),Fritz(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点123で中級4位になった。カッセル近郊のグクスハーゲン(Guxhagen)出身。(598:久留米)
1554) Moos(モース),Nikolaus(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ビットブルク郡のニーダーヴァイラー出身。(600:久留米)
1555) Morawek(モーラヴェク),Rudolf Edler v.(1882-?):オーストリア野砲兵第17連隊・陸軍砲兵大尉(卿)。シベリアの収容所から脱走して、中国、アメリカを経由して本国に帰ったが、やがて満州のハルピン市内を流れる松花江の鉄橋爆破の任務に就いた。資金の10万円は上海のオーストリア領事館に預けられ、横浜港に入ったところで逮捕された。1915年2月23日に行われた第2回目の尋問調書が残されている。大阪時代の1916年、「12月28日他俘虜ニ託シ秘密通信ヲ企図シタル科」で重謹慎30日に処せられた。また似島時代の1917年、「2月24日所長ノ命令ニ不服従ナリシ科」で重謹慎30日に処せられた。アルテルト(Artelt)、エステラー(Esterer)、シャウムブルク(Schaumburg)の4人で大阪と似島の両収容所から二度にわたって脱走を企て、アルテルトとエステラーの二人は3年、モーラヴェクとシャウムブルクの二人は2年半の刑を受け、日独講和を受けての特赦で釈放された1920年1月15日まで、広島の吉島刑務所に服役した。ハンガリーのセケリー(Szekely)出身。(4711:大阪→似島)
1556) Morgenroth(モルゲンロート),Louis(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その一番右にモルゲンロートが写っている。イルメナウ出身。(588:久留米)
1557) Moslener(モスレナー),Friedrich(?-?):築城部・陸軍築城大尉。青島時代はイレーネ街(Irenestraße)に住んでいた。【1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、モスレナーは肝臓に起因する腹水症を病み、穿刺治療を20回にわたって受けていた。診察をした上記博士は、快復ははかばかしくなく、所外の良好な環境に置くこと、看護を希望する妻の入国・看護の実現が望ましい、との診断・所見を下した。参照:大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』213頁】。妻エラ(Ella)は子供(12歳以下)と二人、大戦終結まで上海で暮らした。ハンブルク出身。(614:久留米)
1558) Mostler(モストラー),Alois(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等下士。姫路時代の1915年(月日不明)、ヴォルチク(Wolczik)と共謀して脱柵した科で禁錮8ヶ月の処罰を受けた。オーストリアのグラーツ(Graz)出身。(2315 :姫路→青野原)
1559) Mros(ムロス),Heinrich(?-?):国民軍・卒。[ホテル経営]。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に送られた。妻ヨハンナ(Johanna)は子ども(12歳以下)と二人で大戦終結まで上海で暮らした。ドレスデン出身。(4692:大阪→似島)
1560) Mucks(ムクス),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[天津フォーゲルスベルク(A.Vogelsberg)]。板東時代の1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。ムクスは第4組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻183頁】。また1919年6月1日(日)に開催された12種目から成る体操大会では、111⅔点を挙げて上級の部4位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。更に1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時28歳)、2時間31分11秒で第31位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ゲーラ出身。(3033:松山→板東)
1561) Mühlich(ミューリヒ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。[上海独中医療技術専門学校・舎監]。応召の数年前まで、膠州砲兵隊に配属されていた。兵役終了後上海の上記学校に勤務した。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。ヴァイオリンとピアノをこなし、習志野楽団ではコントラバスを担当した。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)とは親しく付き合った。朝は上等なコーヒーを入れて飲み、クリューガーはその相伴に与った。東プロイセンのインスターベルク(Insterburg)出身。(1334:福岡→習志野)
1562) Müldner(ミュルトナー),Heinrich(?-?):第3海兵大隊・予備陸軍少尉。静岡時代、ゼッケンドルフ(Seckendorf)退役少尉と日本の新聞をドイツ語に訳した。それは収容所内で回覧された。カッセル郡のニーダーツヴェーレン(Niederzwehren)出身。(1758:静岡→習志野)
1563) Mülleneisen(ミュレンアイゼン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。1919年3月に発行された『久留米詩文集』に、ミュレンアイゼンの「榴弾磨きの女工」の小詩が掲載され、『バラッケ』に紹介された【『バラッケ』第3巻第26号407頁】。1920年1月2日の『福岡日日新聞』には、医学博士久保井猪之吉訳になるミュレンアイゼンの詩「爆弾工女」が掲載された。ヴェストファーレンのボッホルト(Bochholt)出身。(613:久留米)
1564) Müller(ミュラー),Barthoromäus(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備上等工兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ニュルンベルク出身。(4643:大阪→似島)
1565) Müller(ミュラー),Carl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備副曹長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ユプツェン(Uebzen)出身。(4409:「熊本→」大分→習志野)
1566) Müller(ミュラー),F.M.Eugen(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。ヴュルテンベルクのブレンツ河畔ハイデンハイム出身。(4693:大阪→似島)
1567) Müller(ミュラー),Hermann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[テルゲ・シュレーター商会天津支店]。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。ライプチヒ出身。(1991:丸亀→板東)
1568) Müller(ミュラー),Johannes(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備1等砲兵。青島時代はイレーネ街に住んでいた。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(3981:大阪→似島)
1569) Müller(ミュラー),John(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン上海支店]。ハンブルク出身。(1995:丸亀→板東)
1570) Müller(ミュラー),Leopold(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。収容中に、久留米俘虜収容所の日常生活を、24種のカリカチュアでスケッチした『久留米のぞき箱』(Kurumer Guckkasten)を著した。出版年は不明。アイゼナハ出身。(590:久留米)
1571) Müller(ミュラー),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[天津・ブーフマイスター商会(Buchmeister & Co.)]。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロ及びトランペットを担当した。オッフェンバハ出身。(2003:丸亀→板東)
1572) Müller(ミュラー),Otto(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ガイベル作の『アンドレーア親方』他1演目に出演した。テューリンゲンのジークムンツブルク出身。(604:久留米)
1573) Müller(ミュラー),Otto Friedrich(?-1914):第3海兵大隊第4中隊・後備上等兵。1914年12月27日青島で死亡、青島欧人墓地に埋葬された。ライプチヒ近郊のリンデントハルプ出身。(4661:青島)
1574) Müller(ミュラー),Paul(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[床屋]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。ウゼドム(Usedom)のグネヴェンティン(Gneventhin)出身。(2000:丸亀→板東)
1575) Müller(ミュラー),Wilhelm(?-?):総督府・2等筆生。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ミュラーのグループは編み物・レース編み部門に「ひざ掛け」7点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』82頁】シュテーゲマン(Steegemann)の依頼で、青野原収容所についての私記を寄せた、それはシュテーゲマンの報告書に反映されている。オルデンブルク出身。(2306:姫路→青野原)
1576) Mueller(ミュラー),Wilhelm(?-?):海軍野戦砲兵隊・予備少尉。〔第3a中間地掃射砲台指揮官〕。松山時代(來迎寺収容)の1916年12月5日、許可なき場所で飲酒喧騒し、かつ衛兵の制止に対して粗暴の振る舞いをしたことから、重謹慎25日に処せられた。なお松山ではシュテッヒャー(Stecher)大尉から日本語を習った。またB.モーア(Mohr)予備少尉とともにビール、サイダーの空き箱、空き瓶や竹で木製ポンプを組み立てて、來迎寺収容所前の松田池から配水して噴水をこしらえた。板東では、公会堂での絵画と工芸品展覧会にモノクローム画部門に「日本の風景」、その模写の部に「ヒンデンブルクの顔」等を出品した。また同少尉の企画によるルンプ(Rumpf)少尉とホーン(Hohn)2等砲兵の住宅モデルは、収容所賞第3位に輝いて賞金3円を獲得した。1918年8月に完成した「ドイツ兵墓碑」の設計を担当した。ハノーファー出身。(3015:松山→板東)
1577) Müller(ミュラー),Willy(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等坑道工兵。ユーハイム(Juchheim)が去った後の「カフェー・ユーロップ」を引き受け、「ジャーマン・ベーカリー」として再出発させた【『ドイツ兵士の見たニッポン』118頁】。ゾーリンゲン郡のオーリグス(Ohrigs)出身。(1763:静岡→習志野)
1578) Müllerskowski(ミュラースコフスキー),Friedrich(1886-?):第3海兵大隊飛行部隊・海軍少尉。1907年3月陸軍に入隊し、1906年9月少尉、1914年8月第3海兵大隊飛行部隊所属となる。1914年11月28日陸軍中尉に昇進した。青島独軍保有の飛行機二機の内、「E第1号(旧式ル式)」を操縦したが、1914年8月2日、墜落して重傷を負い、青島陥落まで総督府衛戍病院に入院していた。『大阪時事新報』(大正3年11月16日付け)は、ミュラースコフスキーは飛行服を身につけて門司港に着いて異彩を放った、と報じている。1920年1月30日【1916年4月18日発令】陸軍大尉となった。1920年3月9日、陸軍に入った。ダルムシュタット出身。(3520:熊本→久留米)
1579) Münch(ミュンヒ),Wilhelm J.(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・軍曹。久留米時代の1916年11月7日から1919年3月末まで、第18師団は俘虜を雇用して、山砲兵第3大隊の拡張敷地の盛り土及び土塁用土の採取・運搬、並びに同敷地用砂利敷の地均し作業を行った。総監督は軍曹のファルケ(Falke)であったが、ミュンヒは土木技師として参加した。また1918年9月16日から、日本製粉株式会社久留米支店で製粉の労役に出た。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』23-24頁】。ドレスデン出身。(1356:福岡→久留米)
1580) Muendel(ミュンデル),Harry(?-?):海軍膠州砲兵隊・海軍少佐。ボーデカー少佐の後を受けて、砲艦ヤーグアル艦長となる。『大阪時事新報』(大正3年11月22日夕刊)によれば、ミュンデル少佐は1914年11月21日、大阪俘虜収容所に収容される俘虜の第一陣(将校22名、下士卒445名)の先任将校として大東丸で大阪築港に到着した。大東丸から埋立地に向かうランチでは、大阪俘虜収容所長菅沼來中佐と柿原少尉の通訳で会話をした。四十前後の顎鬚を美しく刈り込んだ、堂々たる偉丈夫である、と報じられている。シュテッティン出身。(3978:大阪→似島)
1581) Musfeld(ムスフェルト),Hans(?-?):第3海兵大隊第1中隊・後備2等歩兵。大分時代、大阪新聞と朝日新聞から記事をドイツ語に訳して、収容所の廊下に貼り出した。1918年4月までは、ヨーロッパの新聞の購読等は禁じられていなかったが、政治的状況が先鋭化すると、それが禁じられたからであった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(4404:「熊本→」大分→習志野)
1582) Mussmann(ムスマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、公会堂での工芸品展にマンドリンを制作・出品した。また、「エンゲル・オーケストラ」の応援で、第2トランペットを担当した。ヴェストファーレンのアイケル(Eickel Ⅱ.)出身。(1986:丸亀→板東)
1583) Musterer(ムステラー),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等歩兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月に開催された広島県物産陳列館の似島独逸俘虜技術工芸品展覧会カタログの補遺によれば、ムステラーは庭園のスケッチを出品した。ベルリン出身。(1321:福岡→大阪→似島)
1584) Muttelsee(ムッテルゼー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1918年8月7日板東に移送された。詩画集『鉄条網の中の四年半』のスケッチを担当し、またヒュルゼニッツ(Hülsenitz)と共同で『1920年用故郷カレンダー』を制作した。ウルム出身。(611:久留米→板東)
1585) Nack(ナック),Kurt(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米時代に収容所のコンサートでは、メンデルスゾーンの四重奏曲等の演奏で活躍した。また演劇活動では、『二つの条件』を創作して自ら演出した。久留米に移って2ヶ月後の1915年8月22日付けによる、大阪市東区の三木楽器店からの領収書がオットー・レーマン(Otto Lehmann)の遺品に残されている。内容は、チェロの弦他代金3円60銭となっている。シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のレーマン以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとナックは、第1ヴァイオリンを受け持った【〔写真6〕参照】。1919年3月に発行された『久留米詩文集』にナックの抒情詩が掲載され、抒情詩部門の二等賞に輝いた。1920年1月1日の『福岡日日新聞』には、医学博士久保井猪之吉訳になるナックの詩「懐郷」等が掲載された。シュテッティン出身。(3542:熊本→久留米)
1586) Nagel(ナーゲル),Georg(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。久留米時代は演劇活動で、ガーデベルク作の笑劇『シメク家』等4演目に女役で出演した。また『久留米収容所俘虜文集』の印刷に際しては、シュルツ(W.Schulz)と共に協力した。宣誓解放された。アルトナ出身。(3552:熊本→久留米)
1587) Nagel(ナーゲル),Richard(?-?):第3海兵大隊・上等歩兵。大分時代の1918年2月10日、キュールボルン少尉及びダオデルトと大分の遊廓「春日楼」に登楼して、芸者と夜を過ごした科で禁固30日に処せられた。当時26歳だった。テューリンゲンのヴァルタースハウゼン(Waltershausen)出身。(4416:「熊本→」大分→習志野)
1588) Nahr(ナール),Leo(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等機関兵曹。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』、67頁】。カールスバート近郊のエルブンゲン(Elbungen)出身。(2341:姫路→青野原)
1589) Naroska(ナロスカ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。東プロイセンのルミー(Rummy)出身。(628:久留米)
1590) Nassuth(ナスート),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・砲兵伍長。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、コントラバスを担当した。1919年3月26日、「室内楽の夕べ」が開かれてシューベルトの五重奏「鱒」が演奏された。その折りナスートはコントラバスを担当した。他は、ガルスター海軍中尉のヴァイオリン、デュムラー海軍大尉のチェロ、クラインシュミット予備少尉のヴィオラ、クラーゼン伍長のピアノという編成であった。東プロイセンのフクスベルク(Fuchsberg)出身。(4239:「大阪→」徳島→板東)
1591) Naumann(ナウマン),Walter(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。リューネブルク出身。(2636:名古屋)
1592) Neidhöfer(ナイトヘファー),Michel(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。[染料製造業]。トリーア近郊のルエル(Ruoer)出身。(1371:福岡→久留米→習志野)
1593) Neitzert(ナイツェルト),Christian(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1916年8月20日付けの『徳島新報』第3巻第15号によれば、徳島時代ナイツェルトは徳島管弦楽団の一員で、第2ヴァイオリンを担当していた。ヴェストファーレンのケルテン(Kerten)出身。(4242:「大阪→」徳島→板東)
1594) Neudenberger(ノイデンベルガー),Josef(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月22日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅跳び踏み切り台なし」(参加者4名)では4.35mで惜しくも4位だった。東プロイセンのブラウンスベルク(Braunsberg)出身。(622:久留米)
1595) Neuherz(ノイヘルツ),Franz(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ノイヘルツは金属加工部門に筆記用具、煙草道具、マッチ箱の3点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』75頁】。ハンガリーのクロボテク(Krobotek)出身。(2344:姫路→青野原)
1596) Neumaier(ノイマイアー),Jacob(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。〔イルチス砲台〕。1914年8月27日早朝、日本艦隊の出現を最初に目撃して報告した。1919年12月、ドイツへ帰国するために乗船した喜福丸は、青島在住の俘虜家族を乗せるために青島に寄港した。ノイマイアーは万年山と名を変えたかつてのビスマルク山や欧人墓地等変貌した青島の街を五年振りに歩き、その折りに昔からあった高橋写真館に立ち寄った。ドイツ人と親しかったことから、日本軍にあらぬ嫌疑を掛けられたりしたのではとノイマイアーは気遣った。しかし店主はばつの悪そうな顔をした。その背後に何か不誠実なものを感じ取ったノイマイアーは急ぎ店を出たという。【《The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920》107頁】。上部バイエルンのクライドルフ(Kleidorf)出身。(1368:福岡→大分→習志野)
1597) Neumann(ノイマン),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[ヴァインベルガー商会(C.Weinberger & Co.)神戸支店]。メクレンブルク‐シュヴェーリンのパルヒム(Parchim)出身。(3046:松山→板東)
1598) Neumann(ノイマン),Max(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[指物師]。丸亀時代の1915年11月15日、手工芸品制作心得者として他の5名とともに、香川県立工芸学校備付器械見学のために同校に赴いた。1916年10月1日から開催された丸亀生産品展覧会に、大装見鏡(姿見)を装置したサーベル掛け兼帽子掛けを、見事な出来栄えで制作した【『大阪朝日新聞 四国版』大正5年10月6日付け】。1917年1月9日から3月27日まで、建築技師のアードラー(Augusut Adler)とともに前記工芸学校に通勤することになった。労役賃金は一日30銭で、内2割の6銭は軍資金歳入に納付し、手取り24銭を得た【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。これは丸亀収容所における唯一の労役事例である。板東時代、第4棟7室で家具屋を営んだ。ザクセンのノイゲルスドルフ(Neugersdorf)出身。(2006:丸亀→板東)
1599) Neumüller(ノイミュラー),Johann(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。熊本収容所時代は妙立寺に収容された。熊本時代、ドイツの母親からノイミュラーに宛てた、1915年5月29日付けの葉書、同じく母親からの1915年9月15日付けの久留米収容所のノイミュラー宛、更にニューヨーク等在住の友人からの葉書が『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)145-150頁に紹介されている。バイエルンのランツフート(Landshut)出身。(3544:熊本→久留米)
1600) Neuneier(ノイナイアー),Peter(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・予備伍長。[漢口ドイツ郵便局]。コーブレンツ近郊のクロイツナッハ(Kreuznach)出身。(3049:松山→板東)
1601) Neunert(ノイナート),Fritz(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・軍曹。習志野時代の1918年5月1日、ハム(Hamm)に若い鳩のつがいをあげた【ハインリヒ・ハムの項参照】。コトブス郡のシュプレンベルク(Spremberg)出身。(167:東京→習志野)
1602) Neven(ネーフェン),Nikolaus(?-1964):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。ラインラントのゲルリングスハイム出身。(4243:「大阪→」徳島→板東)
1603) Newiger(ネーヴィガー),Walter(?-?):国民軍・上等兵。姫路時代、ドイツ人下士卒が収容された船場本徳寺本堂裏には、ライン河畔の古城を模した噴水が俘虜たちによって製作された。永らく人々の記憶から忘れられていたが、ディルク・ファン・デア・ラーン(Dirk van der Laan)氏による調査の模様が新聞で報じられて(平成14年4月25日付け『朝日新聞』)、日の目をみるようになった。モニュメントは、高さ1.3メートル、円錐形をしていて、基礎部分は2メートル四方の花崗岩の延石で固められられいる。姫路市史編集室の調査で、大正4年(1915年)9月9日付けの『神戸又新日報』には、「景福寺収容中のワルタピーがコンクリートと鉄線で作り上げたライン河畔の古城塞は、実に精巧を極めたもので、これは記念の為景福寺に残していくそうだ」との記述があることが判明した。モニュメントの背部には「W.N.」のイニシャルが刻まれている。藤原龍雄氏等の調査により、「W.N.」のイニシャルを持つ俘虜は2名いたが、ネーヴィガーであるとほぼ断定するに至った。噴水の階段状の滝ノ下には金魚が泳いでいたとのことである【藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」より】。ローゼンベルク出身。(2340:姫路→青野原)
1604) Nickchen(ニクヒェン),Wilhelm(?-?):総督府・1等電信兵曹。その「日記」がイェキッシュ氏所蔵で遺されている。ベルリンのノイケルン(Neukölln)出身。(2338:姫路→青野原)
1605) Nickel(ニッケル),Otto(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・副曹長。青島でカール・ユーハイムの結婚式の証人をつとめた。当時30歳で子どもが二人いた。青島陥落後、ニッケル夫人はユーハイム家に身を寄せた。日本人兵士三人がどかどかと家に入り込んできたが、危害は加えずニッケルの2歳の子供に、角のある可愛らしい、色とりどりのきれいな見知らぬお菓子を差し出した。ユーハイム夫人は機雷を連想して、毒でも入っているかもしれないと立ちはだかって拒んだ。兵士は幾つか口に入れて食べて見せ、にっこり笑ってそのお菓子を残して立ち去った。後で夫人達が食べてみると、甘いおいしいお菓子で、それは「金平糖」であった。ニッケルは久留米の演劇活動で、スコヴァネク作『山番小屋で』等21演目に出演し、またビヨルソン作『新婚の二人』等6演目の演出もするなどの活躍をした。マグデブルク出身。(636:久留米)
1606) Nicolai(ニコライ),Friedrich(?-?):国民軍・伍長。[ハンブルク・アメリカ汽船青島支社長(?)]。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。妻の名はエンマ(Emma)。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。メクレンブルク=シュヴェーリンのグレーフェスミューレン(Grevesmühlen)出身。(4645:大阪→似島)
1607) Niederau(ニーデラウ),Peter(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ケルン出身。(627:久留米)
1608) Nielsen(ニールセン),Erich(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備2等副按針長。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、鉛筆画3点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』69頁】。カリフォルニア(米国)のウエスト=バークリー(West-Berkeley)出身。(1371:福岡→青野原)
1609) Nielsen(ニールゼン),Hans(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。ヴェルサイユ講和条約締結後の1919年8月26日、出身地の帰属を問う州民投票に参加の為、ヤスペルゼン(Jaspersen)、ブロイニンガー(Braeuninger)、カルステンス(Carstens)、フライエンハーゲン(Freyenhagen)、ハンゼン(Hansen)、イェプセン(Jepsen)の6名のシュレースヴィヒ出身者とともに一足先に帰国した。ゾンダーブルク(Sonderburg)出身。(2008:丸亀→板東)
1610) Niemeier(ニーマイアー),August(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。松山時代(弘願寺収容)の1916年8月8日午前10時過ぎ、所長巡視の際に浴室北側から柵を抜け出した形跡があることから取調べを受けたが、その都度曖昧な陳述をして虚偽の申し立てをしたとされて、重営倉5日に処せられた。ヴェストファーレンのパーペンヘーフェン(Papenhöfen)出身。(3043:松山→板東)
1611) Niemyer(ニーマイアー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのハレ近郊のヘッセルン(Hesseln)出身。(619:久留米)
1612) Niesen(ニーゼン),Peter(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。[電気工]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ケルン出身。(1376:福岡→名古屋)
1613) Nilsson(ニルソン),Lorenz(?-?):砲兵需品部・監視掛。青島時代はディーデリヒス小路(Diederichsweg;日本の占領統治時代は赤羽町)に住んでいた。ペルヴォルム(Pellworm)島出身。(2339:姫路→青野原)
1614) Nistor(ニストル),Dimitru(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ニストルは水彩画25点(オーストリア海軍、台風の中のエリーザベト号、日本の女性、半裸像等)を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』71頁】。ハンガリーのナサド(Nasad)出身。(2342:姫路→青野原)
1615) Nitschke(ニーチュケ),Richard(?-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。収容所の音楽活動では、主として室内楽の演奏で活躍した。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとニーチュケは、トロンボーンを受け持った。ブレスラウ出身。(618:久留米)
1616) Nitze(ニーツェ),Carl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[神戸・レッカー商会(P.Recker & Co.)]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(3048:松山→板東)
1617) Noecker(ネッカー),Franz(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備2等工兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのグローナウ(Gronau)出身。(3011:松山→板東)
1618) Nöckler(ネックラー),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』に出演した。アポルダ近郊のカペレンドルフ(Kapellendorf)出身。(1372:福岡→久留米)
1619) Nohl(ノール),Heinrich(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。郷里ゾーリンゲンのグライフラートに住む妹に宛てた、富士山をあしらった絵葉書による1917年8月30日付けの誕生祝いの便りが残っている。ゾーリンゲンのグライフラート(Greifrath)出身。(172:東京→習志野)
1620) Nöllner(ネルナー),Karl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジータス‐プラムベック天津支店]。ハンブルク出身。(3047:松山→板東)
1621) Noltemeyer(ノルテマイヤー),Erich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[ランゲリューチェ商会ウラジオストック支店]。板東時代、精神を病んでいたクヴェーデンバウム(H.Quedenbaum)の看護に従事した。また、俘虜工芸品展に出品したヨット製作では、その労作が評価された。ハノーファー出身(『俘虜名簿』ではウラジオストック)。(2005:丸亀→板東)
1622) Nolten(ノルテン),Josef(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代の1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)が設立されたが、その第4代会長を務めた。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点107⅓で上級5位になった。クレーフェルト=リンデン(Krefeld-Linden)出身。(625:久留米)
1623) Nommensen(ノメンセン),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等機関兵曹。[商船機関士]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。クリューガー(K.Krüger)によれば、ノメンセンは習志野時代、何もしないし、何も学ぼうとしなかった唯一の人物だった。食事等で起き上がらざるを得ない時以外は、ベッドの上で常に寝ていた。ハンブルクのペトラウ(Pötrau)出身。(1375:福岡→習志野)
1624) Noppeney(ノッペナイ),Philipp(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年10月18日、ジーベル(Siebel)等68名とともに、福岡から大分に移送された。1919年1月28日、スペイン風邪により習志野で死亡。アーヘン出身。(1369:福岡→大分→習志野)
1625) Nordmann(ノルトマン),Franz(?-?):総督府経理部・2等筆記。青島時代は衙門(Yamen)内に住んでいた。松山時代、大林寺の講習会でシュトルツェ=シュライ方式の速記を講じた。ブレーメン出身。(3051:松山→板東)
1626) Noss(ノス),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等機関兵曹。[上海・同済医療・技術専門学校]。1915年9月15日、習志野へ収容所換えになった。解放後再び上海へ戻り、1926年まで同済大学に勤務したが、後に中国の機械工場の上級技師になった。ザンクト・ヴェンデル(St.Wendel)出身。(1370:福岡→習志野)
1627) Nottbusch(ノットブッシュ),Willy(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。[パン職人マイスター]。青島時代は直隷街(Tschilistraße)に住んでいた。オスナブリュック出身。(4567:大阪→似島)
1628) Nowak(ノーヴァク),Karl(?-1917):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1917年2月10日習志野で死亡。ファルケンベルク近郊のプシネ(Puschine)出身。(168:東京→習志野)
1629) Nuss(ヌス),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、第3棟1室で床屋を営んだ。マインツ出身。(4241:「大阪→」徳島→板東)
1630) Oberhauser(オーバーハウザー),Max(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。シュレージエンのトスト=グレヴィッツ(Tost-glewitz)郡ラヴァント(Laband)出身。(640:久留米)
1631) Oechsler(エクスラー),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[馬具職マイスター]。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenloheweg)に住んでいた。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で木彫り箱1点、裁縫箱1点、チェス版1点、木彫り時計入れ1点、額縁3点を出品した。フレンスブルク出身。(4568:大阪→似島)
1632) Odermann(オーダーマン),Albert(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・予備陸軍工兵少尉。[山東鉱山会社技師長]。青島開城後の実務協議にドイツ側委員として加わった。久留米時代の1915年10月31日、消灯後に蝋燭を灯して衛兵及び宿直将校ともめる。翌11月1日重禁錮30日の処罰を受けた。ラインラントのハイリゲンヴァルト(Heiligenwald)出身。(3561:熊本→久留米)
1633) Offergeld(オッファーゲルト),Johann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代の1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、オッファーゲルトは111点の得点で初級の部6位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ラインラントのヘンゲン(Höngen)出身。(2013:丸亀→板東)
1634) Offermann(オッファーマン),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備1等砲兵。青島時代は小港小路(Kleiner Hafenweg)に住んでいた。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。オッファーマンは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られ、1位で本戦A級に進出した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー近郊のノイランダーモーア(Neulandermoor)出身。(4246:「大阪→」徳島→板東)
1635) Offermanns(オッファーマンス),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。熊本時代、法則に違反して構外より物品を購入し、取調べに際して欺瞞着した科で重営倉30日の処罰を受けた。アーヘン県のヴリュゼルン(Würseln)出身。(3557:熊本→久留米)
1636) Ohl(オール),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1916年1月1日付けの『徳島新報』第2巻第15号によれば、アウアーは徳島時代にルートヴィヒ・トーマ作のクリスマス劇で、大尉役を演じた。板東時代の1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、司法顧問官ヴァルター役を演じた【『バラッケ』第2巻33頁】。また、タパタオの13号A小屋でコッホ(Walter Koch)と靴屋を営んだ。2003年5月11日付けの『エッケルンフェルデ新聞』(Eckernförde Zeitung)は、オールの板東収容所時代の手記や写真、『バラッケ』等の遺品に触れて、板東収容所が比類ない人道的な待遇でドイツ人を処遇したことを伝えている。それらの遺品は遺族にあたるハインリヒ・ロズィーア(Heinrich Rosier)氏の目に留まったことから発したものである。オールの手記には、演劇、コンサート、スポーツ等や、ベートーヴェンの『第九』の演奏、指揮者へルマン・ハンゼンやパウル・エンゲル等へ数多くの言及がされているとのことである。ローズィア氏はこれらの遺品を当地のリーゼビー(Rieseby)博物館に寄贈するとのことである【このオールに関しての情報は、四国学院大非常勤講師の小阪清行氏が「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」のメール会報18号に寄せた記事から得たものである】。シュレースヴィヒのアルヌム(Arnum)出身。(4247:「大阪→」徳島→板東)
1637) Ohlen(オーレン),Ernst(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。板東時代、1918年5月の第2回懸賞作文に、「ボーケンブレン」を応募して佳作になった。また、第2棟6室で蜂蜜販売を営んだ。メルドルフ出身。(3052:松山→板東)
1638) Öhler(エーラー),Walther(?-?):海軍砲兵中隊・海軍少尉。〔モルトケ山8・8糎速射砲指揮官〕。8・8糎速射砲は日本軍に長いこと探知されずにいたが、1914年11月7日未明についに発見され、集中砲火を浴びて破壊された。ベルリン出身。(177:東京→習志野)
1639) Oldhaber(オルトハーバー),Gustav(?-?):海軍第2工機団第4中隊・1等需品兵曹。板東時代、1917年7月17日に発足した「収容所保険組合」に、旧松山収容所の大林寺収容所代表となり、かつ「保険組合」の会計を務めた。【『板東収容所俘虜故国住所録』によれば、駆逐艦S90の乗組員とされている】。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(3058:松山→板東)
1640) Olf(オルフ), Wilhelm(1892-1952):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1914年8月に応召した。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。解放されて帰国後の1922年結婚、冶金工として働いた。後に郷里ハッティンゲンの役所に勤務した。ルール地方のハッティンゲン(Hattingen)出身。(1380:福岡→青野原)
1641) Olff(オルフ), Heinrich(1891-1969):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。エッセンハイム(Essenheim)出身。(4245:「大阪→」徳島→板東)
1642) Oellig(エリッヒ),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。習志野時代の1919年5月24日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではマルフケ、ハム及びシェーファーの四人でクローマー作の「森の泉のほとりで」を四重唱した。ライン河畔のリンツ(Linz)出身。(176:東京→習志野)
1643) Oelsner(エルスナー),Bruno(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[北ドイツ・ロイド汽船]。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ダルムシュタット出身。(3054:松山→板東)
1644) Oelweiner(エールヴァイナー),Ludwig(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。久留米時代は演劇活動で、コツェブー作の喜劇『ドイツの小都市市民』等3演目に出演した。オーストリアのヘルト=ケルンテン(Hert-Kärnten)出身。(3564:熊本→久留米→習志野)
1645) Onken(オンケン),Johann(?-?):海軍第2工機団・後備木工。[税関吏]。妻の名はヘレーネ(Helene)。ブレーマーハーフェン出身。(4420:「熊本→」大分→習志野)
1646) Onodi(オノディ),Michael(1891-1919):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。ハンガリー人。1919年9月10日に流行性感冒(スペイン風邪)に罹り、19日青野原俘虜収容所で死亡、姫路陸軍墓地に埋葬された。ハンガリーのモクサ(Mocsa)出身。(2138:姫路→青野原)
1647) Ontrupp(オントルップ),Bernhardt(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部の作業道具の部門にケルン(J.Kern)と共同で簗2点を出品した。ミュンスター出身。(3834:大阪→似島)
1648) Opfer(オプファー),August(?-?):海軍砲兵中隊・1等焚火兵。1917年1月28日、アンドレーアをカロルチャク等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ハルブルク(Harburg)出身。(3562:熊本→久留米)
1649) Oppel(オッペル),Wilhelm(?-1918):第3海兵大隊第2中隊・後備2等歩兵。[屠畜職マイスター]。応召時は妻と青島に住んでいた。1918年1月28日、名古屋で死亡、軍人墓地に埋葬された。エルバーフェルト(Elberfeld)出身。(2641:名古屋)
1650) Orlob(オルロープ),Philipp(1880-?):第3海兵大隊第2中隊・副曹長。[青島・独中大学]。妻の名はミルトレート(Mildred)。板東時代、工芸品展にオイルナー(Eulner)及びルートヴィヒ(Ludwig)と共同で、ドイツ軍が西部戦線で捕獲した戦車の模造品を制作・出品した。ザクセンのボイレン/アイヒスフェルト(Beuren/ Eichsfeldt)出身(『俘虜名簿』では青島)。(2010:丸亀→板東)
1651) Orlowski(オルロウスキー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。エッセン近郊のロットハウゼン(Rotthausen)出身。(638:久留米)
1652) Oertel(エルテル),Adolf(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。[理髪師]。【青島のハインリヒ皇子街にあった「P.Oertel理髪店」の関係者と思われる】。アルトナ出身。(178:東京→習志野)
1653) Oertel(エルテル),Ferdinand(?-?):国民軍・卒。[理髪師]。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)129番地に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。大阪収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた。シュレージエンのコスバハ(Kossbach)出身。(4694:大阪→似島)
1654) Ortlepp(オルトレップ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。1918年6月、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の体操指導者を務めた。フリードリヒローダ(Friedrichroda)出身。(642:久留米)
1655) Ortlepp(オルトレップ),Theodor(1882-1975):要塞構築部・築城曹長。1900年頃、アビトゥーア修了後に陸軍に入り築城学を学んだ。その後青島へ派遣された。青島時代は台東鎮の建築出張所(Baupostengebäude)に住んでいた。久留米時代にの演劇活動で、ケルナー作の悲劇『トーニー』等3演目の演出を担当し、また14演目に出演した。1921年クラーラ・ガルテニヒト(Klara Garternicht)と結婚して子供一人をもうけた。1926年、セメント工場の主任となった。1939年陸軍少佐として出征、1940年フランス侵攻に参加、1941年、モスクワの手前の前線で負傷した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席し、70年代の初めまで参加した。シュトラースブルク出身。(3563:熊本→久留米)
1656) Oster(オスター),Franz(1869-1933):第3海兵大隊飛行部隊・飛行士。[元工作機械工場、造船所経営・民間飛行家]。父親は農業経営者で、オスターは17人兄弟だった。小学校時代二人の兄が移住したアメリカへの逃亡を企てた。学校卒業後、機械工になるために親方の元で修業し、機械学校にも通った。様々な実務習得の思い止み難く、その後5年間ドイツ、スイス各地とウィーンに遍歴修業に出た。やがて軍隊勤務の時期が訪れて、海軍に入り軍艦ヴェルト(Wörth)の乗員になった。1895年4月末からは巡洋艦プリンツェス・ヴィルヘルム(Prinzeß Wilhelm)に乗り組んだが、その艦長はハインリヒ皇子であった。オスターの勤勉さがハインリヒ皇子の目に留まった。1898年の香港寄航中に、ハインリヒ皇子はオスターにドイツの租借地膠州湾で力を発揮するように勧め、当時のローゼンダール膠州総督に宛てた推薦状を認めて渡した。その頃オスターは、香港での勤めを辞めていて、上海のアルノルト、カルベルク商会の紡績工場のマイスターとなっていた。こうして1899年3月11日、オスターは青島の建設に寄与する為に青島にやって来た。某資産家の援助を受け、また青島ではスタイル派伝道会の資金援助も受け、工作所や造船所を建てた。1900年6月17日、エリーゼ(Elise Bergmann;1863-1937)と結婚した。式は青島のプリンツ・ハインリヒ・ホテルで、福音派の牧師ヨハネス・フォスカンプの司式で執り行われた。オスターはカトリックだったが、妻エリーゼは福音派であった。やがて息子のハンス(Hans;1902-1966)が生れた。1901年には小港沿いに地所を購入し、工作所を建設した。260名に及ぶ中国人労働者は、香港、上海時代にオスターの下で働いていた者たちだった。1909年頃には、官立の青島船渠が軌道に乗り始めたこともあって、オスターは地所を除く全ての工作所や機械類を9万8233マルクで売却した。1911年、一時期ドイツに戻り、6月には飛行機操縦の免許を取得して飛行機を購入した。1911年11月、青島へ戻る際にコロンボで、遊覧飛行を行って墜落し、負傷したとの情報もある。1912年8月11日付けの『膠州郵便』には、オスターが青島へ飛行機を持ち込み、既に格納庫にあると、報じている。1913年7月9日、青島での初飛行を行った。青島の小港南西で発電所の隣、屠獣所の北に飛行機工場及び格納庫を所有していて、その脇の別荘風の家に住んでいた。所有する「70馬力メルツェデス旧式ル式」は、日独戦争直前に総督府に買上げられた。1914年8月27日、故障していた飛行機を修理して自ら操縦するが機体は墜落して、破損したが本人は無事であった。大分時代、命令違反・反抗で禁錮20日間に処せられた(年月日は不明)。妻と息子の二人は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後、青島に戻り工作機械会社を再興した。1927年以降は、信号山沿いの労山街に家を建てた。1933年7月19日青島で没した。墓石には錨とプロペラがレリーフされた。妻エリーゼは1937年10月11日に青島で亡くなったが、息子ハンスは引き続いて青島に留まり、1946年6月ドイツへ帰国させられた。1976年6月5日付けの地方紙『バート・ホンネンフ展望』(Bad Honnefer Rundschau)に、リンダ・ヨルク(Linda York)女史による「中国へ飛行の奇蹟をもたらした男」(Das Wunder des Fliegens brachte er nach China)と題した4頁のオスター紹介記事が掲載された。ヴィルヘルム・マツァト(Wilheln Matzat)ボン大学教授による、「青島初の飛行家フランツ・オスター略伝」がシュミット氏のホームページに掲載されている。ホンネフ(Honnef)近郊のエギディーンベルク(Ägidienberg)出身。(但し、『俘虜名簿』では青島)。(4421:「熊本→」大分→習志野)
1657) Ostermann(オスターマン),Hans(?-1935):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ランゲリューチェ商会ウラジオストック支店]。ホルシュタインのピンネベルク(Pinneberg)出身。(3055:松山→板東)
1658) Ostmann(オストマン),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。1916年10月22日、ミリエス(Millies)、シュペルリング(Sperling)等の68名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代にクリューガー(Karl Krüger)と一緒に写した写真がクリューガーの『ポツダムから青島へ』に紹介されている。上述の書によると、オストマンは福岡時代、演劇のグループを結成して、レッシングの喜劇『ミンナ・フォン・バルンヘルム』やシラーの『群盗』の上演を行っている。習志野時代、クリューガー及びレムケ(Lemke)とは浴室で同じ時刻によく出会ったとのことである。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。オルデンブルク出身。(1383:福岡→習志野)
1659) Östmann(エストマン),Walter(1883-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ヴィンクラー商会神戸支店]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケオスリン(Keoslin)出身。(3056:松山→板東)
1660) Othmer(オトマー),Prof.Dr. Heinrich Friedrich Wilhelm(1882-1934):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備陸軍少尉。[徳華高等学堂上級教師・中国語学者;中国名:欧特曼]。1882年12月16日、ニーダーザクセンのアウリヒ郡ウトゥヴェルデン(Uthwerden)で生まれた。1892年から1900まで ノルデン(Norden)のギムナージウムに通い、グライスヴァルト及びベルリンで古代史、地理学、ギリシャ語を学んだ。地理学者リヒトホーフェンの講義に出席し、中国語を学ぶように勧められたとも言われる。1904年に学位を取得し、1906年までに兵役義務を済ませた。1907年末北京に赴き、中国人のためのドイツ語学校で教えた。1909年に天津の独支中等学校へ移ったがその数ヶ月後、1909年10月25日に青島に設立された徳華高等学堂へ招聘され、その翻訳部局で活動した。なお、1908年5月18日付けで歩兵第78連隊予備少尉となった。青島時代はホーエンローエ小路(Hohenroheweg)に住んでいた。1911年5月17日、看護婦をしていたエリーザベト・ブリ(Elisabeth Buri;1874-1920)と結婚し、ゲルハルト(Gerhard ;1912-1996)とヴィルヘルム(Wilhelm;1914-1986)の二人の息子をもうけた。1912年、徳華高等学堂の同僚レッシング(Ferdinand Diederich Lessing)と協同で『北方漢語口語課程』(Lehrgang der nordchinesichen Umgangssprache)を発表した。これは独語圏における漢語のローマ字表記法の一方式である。1914年8月、第3海兵大隊予備少尉、大阪収容所に俘虜第一陣として収容されるや、多くの俘虜がまだ途方に暮れている最中、ただちに中国語の研究を続行した。このことは多くの俘虜達に刺激を与え、やがて次々に講習会が開催されるようになり、大阪収容所はさながら「学校収容所」になった、と収容所で一緒だったベルゲマン(Bergemann)中尉は書き記している【《Du verstehst unsere Herzen gut》63頁】。オトマーは講習会で教えるだけではなく、自らも学習の手本を示すべく日本語の勉強に打ちこんだ。小学校の国語読本から初めて、平仮名・片仮名を覚え、中国語の素養を生かして『漢字林』から漢字を習得し、『万葉集』にまで及んだ。大阪収容所、やがて移った似島収容所は、青島を中心とした中国での商売を営んでいた俘虜が多かったが、そうした商人達は折に触れオトマーの部屋に種々の相談に訪れた。似島時代のユーハイムもその一人で、広島県物産陳列館での俘虜作品展示即売会にバウムクーヘンを出品するよう勧められ、かつ励まされた。オトマー自身は講演、研究及び勉学以外では、似島でもっぱら野菜作りに励んだ。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)とトスパン(Tospann)が共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加したが、複雑な文章の時はオトマーが手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。大戦中も家族は青島で暮らした。なお、青島に残ったオトマー夫人を始め総督府の高級官吏及び知識階級者の夫人達の動静は、中国学者にして宣教師リヒャルト・ヴィルヘルムの妻ザロメの日記で僅かながら窺い知ることが出来る【これに関しては、新田義之『リヒャルト・ヴィルヘルム伝』の第12章「世界大戦と青島」を参照】。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。解放されて1920年初頭、青島に戻ってみると妻のエリーザベトは救いがたい病にあり、1920年8月6日に死去した。1920年から1933年まで、上海の同済大学教授となった。なお1922年、エリーザベトの妹マリア(Maria Buri;1892-1971)と再婚して、息子カルステン(Carsten;1923-?)と娘グードルン(Gudrun;1926-?)をもうけた。1933年10月、オトマーは重い病いに罹ってドイツに帰国した。1914年1月7日、ゲッティンゲンで没した。ウトゥヴェルデン(Uthwerden)出身【『俘虜名簿』ではハノーファー】。(4005:大阪→似島)
1661) Otho(オトー),Armin(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[菓子屋]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。妻マリー(Marie)は息子(1919年時点で14歳)と大戦終結まで済南で暮らした。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。ドレスデン出身。(2012:丸亀→板東)
1662) Oetmann(エートマン),Arthur(1889-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備上等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。「15歳迄バルメンノ実業学校ニアリテ一年志願兵資格試験ニ合格シテ後三年間商業ヲ学ヒタリ、然レ共幼少ヨリ兵役ニ来ル迄親戚ノ農場ニ在リテ農業ニ精通シテ農業ニ趣味深ク俘虜生活中学理的ニ農業ノ各方面ニ就キ研究シタリ、1912年10月1日ヨリ1913年9月30日迄チルニニ一年志願兵タリ、羊牧ト養蜂ヲ特技トス」【「北海道移住」より】。バルメン出身。(1387:福岡→名古屋)
1663) Otte(オッテ),Heinrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・伍長。[指物師]。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスラバヤに渡った。ボーデンフェルデ近郊のヴァームベック(Wahmbeck)出身。(1385:福岡→久留米)
1664) Otten(オッテン),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1916年(月日不明)、「入倉者ニ対シ陰ニ「トラプ(トランプ?)ヲ差入レタル科」で重営倉15日の処罰を受けた。ライト(Rheydt)出身。(2012:名古屋)
1665) Otten(オッテン),Nikolaus(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、第2棟8室でタバコ販売を営んだ。オイペン出身。(3053:松山→板東)
1666) Ottens(オッテンス),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ディーデリヒセン上海支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においてオッテンス(当時25歳)は、2時間31分6秒5分の4で第29位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。キール出身。(3057:松山→板東)
1667) Otto(オットー),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会では、アーペル(Apel)、クリングナー(Klingner)、シュピーロ(Spiro)及びヴォーゼラウ(Wosearu)とともに技術部門の責任者を務め、また学校部門では微分積分計算の教科書を出品した。ワイマール出身。(4007:大阪→似島)
1668) Pabst(パプスト),August(1880-1954):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。職人の父親ゴットフリートと母ドロテーアとの間の5人兄弟の長男として生まれた。父は1911年4月青島で没した。パプストは指物師として修業の後、1900年に兵士として青島に赴いた。後に青島で指物師のマイスターとなり、大沽街に住んだ。1906 年、ヴィルヘルム皇帝海岸通りのセントラル・ホテルを獲得して経営した。1909年、姉の結婚を機に両親は青島に来た。1913年4月2日、マリー・フィリップセンと結婚した。 大戦勃発により1914年8月上記大隊の後備上等歩兵として応召した。帰国後の1925年8月10日、 二度目の結婚をしてミュールハウゼンで手芸品店を経営した。テューリンゲンのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(2026:丸亀→板東)
1669) Pabst(パプスト),Fritz(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1919年10月21日に開催された「スポーツ週間」の「サッカーボール遠距離蹴り」に出場し、45.80mで2位になった。マグデブルク出身。(3593:熊本→久留米)
1670) Pallasch(パラッシュ),August(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。熊本時代、1914年12月19日から翌年の5月15日まで、靴工として従事した。リピーネ(Lipine)出身。(3584:熊本→久留米)
1671) Pansing(パンジング),Paul(?-1947):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[メルヒャース香港支店]。板東時代、公会堂での工芸品展に、ハイン(Hayn)副曹長と寄木細工の床と電気の灯る居心地のよさそうな人形部屋を製作・出品した。ブレーメン出身。(2023:丸亀→板東)
1672) Pape(パーペ),Otto(1885-1918):所属部隊不明・後備2等機関兵曹。[鉄道機関士]。1918年3月18日似島で死亡し、広島市内の比治山陸軍墓地に埋葬され、その墓碑は今日なお遺されている。ブラウンシュヴァイク出身。(4647:大阪→似島)
1673) Papenroth(パーペンロート), Ernst(1891-1974): 第3海兵大隊第1中隊・伍長。ブランデンブルクのロイツ(Roitz)出身。(644:久留米→名古屋)
1674) Paproth(パップロート),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日、福岡から久留米へ収容所換えになり、また1918年8月7日には板東へ収容所換えになった。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時27歳)、2時間52分56秒5分の2で第80位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。フォルスト(Forst)出身。(1391:福岡→久留米→板東)
1675) Parenzan(パレンツァン),Marko(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916年10月9日、ロッスト(Rossut)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのピラノ(Pirano)出身。(2366:姫路→青野原→丸亀→板東)
1676) Paschke(パシュケ), Stephan(?-?):第3海兵大隊野戦重砲兵隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのシャーダーヴィッツ(Schaderwitz)出身。(2651:名古屋)
1677) Pasemann(パーゼマン), Henry(1893-1959):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵軍曹長。ハノーファー県のライネ河畔のパッテンゼン(Pattensen)(4426:「熊本→」大分→習志野)
1678) Patitz(パーティツ),Richard(?-?):国民軍・伍長。[巡査]。日独戦争中は、元巡査や兵士の中国人スパイに日本軍の偵察をさせた。その際、情報の信憑性を確保するため、常に二人を1日ないしは2日違いでほぼ同じルートを探らせた。二人が出会って相談し、偽の報告をしないようなルートを考えた。二人の情報がほぼ合致すると、報酬として一人1ドルが与えられた。時にはプリューショウ中尉による空からの偵察も、その際の参考にされた。妻オルガ(Olga)は息子(12歳以下)と大戦終結まで青島に留まった。ザクセンのムルデ河畔トゥレローゼン(Trelosen)出身。(4574:大阪→似島)
1679) Paetow(ペトウ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊・2等歩兵。[アルンホルト・カルベルク青島支店]。青島時代はハンブルク街に住んでいた。解放後は青島に赴いた。ハンブルク出身。(3580:熊本→久留米)
1680) Patt(パット),Theodor(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』に未亡人役で出演した。ボン出身。(2025:丸亀→板東)
1681) Pätzold(ペツォルト), Richard(1895-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1913年4月1日海軍第1水兵団に入隊、8月7日巡洋艦マグデブルク乗船して、9月19日から1914年11月7日まで東アジアへ航海、その後河用砲艦オッターの水兵となり、1914年8月青島へ赴いき海軍砲兵中隊に配属された。1920年のドイツ帰国後、鉄十字2等勲章を授与された。後に更にシュレージエン鷲勲章も授与された。シュレージエンのバウムガウテン(Baumgarten)出身。(3590:熊本→久留米)
1682) Patzig(パッツィヒ),Conrad(1885-1975):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔第12砲台指揮官〕。青島では、イルチス地区の空き別荘にプリュショー中尉と一緒に住んだ。コック等の中国人使用人を三人雇っていた。西プロイセンのツォッポト(Zoppot)出身。(4008:大阪→似島)
1683) Paul(パウル),Alfred(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、収容所のサッカー場の脇に60㎡の耕作地を所有して、野菜を栽培した。多くの者達がスポーツの出来ない雨天を嘆くとき、パウルは喜々としてサッカー場を横切って肥やしを運んだ。肥料はクラウスニッツァー(Claussnitzer)の酪農場から調達した【『バラッケ』第2巻67-71頁】。コーブレンツ出身。(3060:松山→板東)
1684) Paulsen(パウルゼン),Arthur(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、茶番劇『放り出されて』に出演した。また『久留米収容所俘虜文集』の印刷に携わった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(653:久留米)
1685) Paulsen(パウルゼン),Lorenz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・第Ⅱ後備2等歩兵。北京から青島へ応召した。丸亀時代の1915年8月24日、歯痛が激しいために受診願いを出し、丸亀市富屋町岡歯科医院へ出かけた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。ヴァンツベック(Wandsbeck)出身。(2030:丸亀→板東)
1686) Pauly(パオリー),Karl(1886-1918):第3海兵大隊第2中隊・軍曹。1886年3月9日、商人の子としてザールブリュッケンに生まれた。1914年9月28日、浮山周辺で日本軍に包囲され、グラーボウ中尉等60名が俘虜となったが、その折りパオリー軍曹は、11名の部下とともに逃れた。1918年3月26日久留米で死亡。ザールブリュッケン出身。(3567:熊本→久留米)
1687) Pawelzig(パヴェルツィヒ),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。その折の撮ったと思われるマイエ(Meie)と氏名不詳の三人で写った写真がハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページに掲載されている。ダンツィヒ出身。(3597:熊本→久留米)
1688) Paysen(パイゼン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備伍長。1893年3月から1900年4月1日までシュレースヴィヒのグリュックスブルク(Glücksburg)近郊のノイキルヒェン(Neukirchen)に居住し、フレンスブルク高等実業学校に1903年4月1日から1906年4月1日まで通学した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ランゲンフェルデ(Langenfelde)出身。(4450:「熊本→」大分→習志野)
1689) Pech(ペヒ),Paul(?-?):第3海兵大隊第4中隊・伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された「下士官体操クラブ(Unteroffizier-Turnverein)」の6種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の上級に出場して(出場者は6名)、73⅓点を獲得して第1位になった。上部シュレージエンのレオプスシュッツ(Leopsschütz)出身。(3571:熊本→久留米)
1690) Pechbrenner(ペヒブレンナー),Max(1895-1974頃):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1916年4月11日、フォーゲルフェンガーの誕生祝に招かれた。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのようにフォーゲルフェンガーの日記に記述されている【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。ケーニヒスベルク出身。(197:東京→習志野)
1691) Peger(ペーガー),Robert(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等兵曹。1916年11月22日横浜米国領事館より情報局へ,ペーガー宛て40円(金券)と信書1通交付方の願い出があり、転送するとともに同領事館へその旨回答された。ゴータ出身。(3595:熊本→久留米)
1692) Pellny(ペルニー),Johann(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ヴィオラを担当した。東プロイセンのアリス(Arys)出身。(4252:「大阪→」徳島→板東)
1693) Peppel(ペッペル),Johannes(1892-1966):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。上部ヘッセンのオーバーゼーメン(Oberseemen)出身。(664:久留米)
1694) Pepperhoff(ペッパーホフ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等兵曹。久留米時代の1917年11月、ペッパーホフから広東のオランダ領事館宛の信書(私物の被服取り寄せに関する内容)があり、検閲の上久留米から情報局へ転送された。1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。ヴェストファーレンのドルステン(Dorsten)出身。(3596:熊本→久留米→名古屋)
1695) Perl(ペルル), Hermann Wilmar(1892-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。父親ラインホルトは炭夫で、母の名はヴィルヘルミーネだった。ブランケンハイム(Blankenheim)出身。(2650:名古屋)
1696) Perle(ペルレ),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、タパタオの19号小屋で家具屋を営んだ。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東プロイセンヴィスボリーネン(Wisborinen)出身。(4250:「大阪→」徳島→板東)
1697) Perschmann(ペルシュマン),Erich(1871-?):第3海兵大隊第4中隊長・陸軍大尉。〔外方陣地部隊右翼陣地〕。1890年10月陸軍(歩兵)に入隊し、1892年1月少尉、1900年7月中尉、1907年5月大尉に昇進した。青島時代はイレーネ街に住んでいた。1920年1月30日【1915年1月27日発令】に陸軍少佐に任ぜられ、同年3月9日陸軍に入った。日本軍による青島包囲以前は、李村街道の守備を任ぜられ、李村河沿いの下流一帯の守備に当たった。熊本俘虜収容所の先任将校だった。マグデブルク出身。(3569:熊本→久留米)
1698) Peschel(ペシェル), Fritz(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オッフェンバッハ出身。(2645:名古屋)
1699) Pestel(ペステル),Willy(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとペステルは、第2ヴィオラを受け持った。グライツ(Greiz)出身。(1404:福岡→久留米)
1700) Peters(ペーテルス),Adolf(1874-?):第3海兵大隊第2中隊・2等麺麭工。青島時代はイレーネ街に住んでいた。1917年1月28日、アンドレーアをグローベ(Grobe)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。ヴィルヘルムスハーフェン近郊のアルデンブルク(Aldenburg)出身。(3568:熊本→久留米→習志野)
1701) Petersen(ペーテルゼン),Thomas(?-?):海軍砲兵中隊・予備2等水兵。「俘虜労役ニ関スル件」(欧受大日記大正8年9月)によれば、東京市芝区三田二丁目七番地の合名会社木村屋商店に雇用されたものと思われる。この文書には、「労役俘虜 海軍一等水兵カール・ヤーン 同二等水兵トーマス・ペーテルゼン。労役ノ種類 腸詰製造作業。場所 千葉県東葛飾郡船橋町堵殺場構内。時間 自午前八時 至午後四時(日曜日祭日ヲ除ク)。賃金 日給壱円」との記述がある。フレンスブルク出身。(193:東京→習志野)
1702) Petke(ペトケ), Georg(1893-1957):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。ドイツに帰国後の1920年、オルガ・ギュンター(Olga Günther)と結婚した。ブランデンブルクのミュルローゼ(Müllrose)出身。(4014:大阪→似島)
1703) Petko(ペトコ),Andreas(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵砲手。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』67頁】。ハンガリーのオルソヴァ(Orsova)出身。(2361:姫路→青野原)
1704) Peus(ポイス),Julius(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米収容所に送られた。ルール河畔のエッセン出身。(659:久留米)
1705) Pfäffle(プフェフレ),Ludwig(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1915年6月久留米へ収容所換えになった。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点122で初級1位になった。バイエルンのオッフィンゲン(Offingen)出身。(1409:福岡→久留米)
1706) Pfeiffer(プファイファー),Dr. Heinrich Moritz F.(1875-?):第3海兵大隊参謀本部獣医長・1等獣医。1914年8月1日に青島を訪問した福島安正大将の騎馬(蒙古馬)がカーキー色に彩色されていると、騎兵中隊の兵士の間にその真似をすることが流行った。プファイファーは獣医の立場から、彩色は馬にとって良くないと警告したが、誰一人その言に耳を傾ける者はいなかった【《The Japanese Siege of Tsingtau》205頁】。トリーアのビートブルク(Bitburg)出身。(3566:熊本→久留米)
1707) Pfennig(プフェニッヒ),Georg(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海税関]。宣誓解放された。エルザスのアルテッケンドルフ(Alteckendorf)出身。(3062:松山→板東)
1708) Pfister(プフィスター),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵伍長。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁3点を出品した。ヴュルテンベルクのヒルトカルツハウゼン(Hiltkarzhausen)出身。(4013:大阪→似島)
1709) Pfluger(プフルーガー),Otto(1887-?):第3海兵大隊第4中隊・麺麭夫。[菓子職人]。青島時代は直隷街(Tschilistraße;日本の占領統治時代は直隷町)に住んでいた。解放されてドイツに帰国後の1920年7月3日、ヨーゼファ・ヴェーバー(Josefa Weber)と結婚して子供二人をもうけた。上部バイエルンのブルクハウゼン(Burghausen)出身。(2654:名古屋)
1710) Philippi(フィリッピ),Albert(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1914年10月2日、四房山で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米陸軍衛戍病院に収容された。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点115点3分の1で上級の2位になった。ルール河畔のミュールハイム出身。(667:久留米)
1711) Philippski(フィリッピスキ), Franz(1895-1979):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ダンチヒ近郊のランゲナウ(Langenau)出身。(188:東京→習志野)
1712) Philipps(フィリップス),Lorenz(1892-1918):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。1918年11月25日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。オーバーレーデルン(Oberredern)出身。(2653:名古屋)
1713) Piastowski(ピアストウスキー),Franz(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪陸軍衛戍病院に入院していた。似島への移送時点では義肢を付けていた。西プロイセンのラングフーア近郊ブレンタン(Brentan)出身。(4573:大阪→似島)
1714) Pieck(ピーク),Werner(?-?):海軍砲兵中隊・予備2等兵曹。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』他1演目に出演した。ブレスラウ出身。(3586:熊本→久留米)
1715) Pielke(ピールケ),Hans(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(3570:熊本→久留米)
1716) Pietack(ピータック),Anton(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、アウアー(Auer)、ラングロック(Langrock)及びケラー(Keller)と筆耕係で協力した。ポーゼンのアーデルナウ(Adelnau)出身。(4253:「大阪→」徳島→板東)
1717) Pietsch(ピーチュ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等水兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したピーチュは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られたが、5位に終わり本戦のB級進出に留まった。ブレスラウ出身。(4254:「大阪→」徳島→板東)
1718) Pietzcker(ピーツカー),Hans(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山(公会堂収容)で死亡したラウエンシュタイン(Lauennstein)の看護に当たり、その遺言を書きとめた。なお、松山時代には公会堂の日曜講演会で、「造船について」及び「魚雷と潜水艦」と題して講演した。板東ではバルクホールン(Barghoorn)と演劇グループを結成し、1917年7月10日にシラーの戯曲『群盗』を上演し、1919年2月18日にはゲーテの『エグモント』上演の演出を担当した。ハンブルク出身。(3064:松山→板東)
1719) Piezcker(ピーツカー),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備伍長。1918年8月7日久留米から板東に収容所換えになった。板東では、上記のハンス・ピーツカーと区別するために「ピーツカーⅡ」と称された。1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)、2時間22分11秒で85人中の7位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(660:久留米→板東)
1720) Pinski(ピンスキー),Bruno(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916年10月9日、ロッスト(Rossut)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのトリエステ出身。(2368:姫路→青野原→丸亀→板東)
1721) Planert(プラーネルト), Willi(1894-1951):海軍野戦砲兵隊・2等歩兵。ザクセンのアポルダ郡のベルクズルツァ(Bergsulza)出身。(3583:熊本→久留米)
1722) Plätschke(プレチュケ),Guido(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備伍長。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通(Kaiser-Wilhelm-Ufer)に住んでいた。大戦終結後、済南で輸出入等の仕事に従事した【ヴォルフガング・バウアー『青島(チンタオ)1914年から1931年』(Wolfgang Bauer:Tsingtau 1914 bis 1931)230頁】。ブレスラウ出身。(4423:「熊本→」大分→習志野)
1723) Platte(プラッテ),Hermann(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[指物師]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。コスヴィヒ(Koswig)出身。(1405:福岡→名古屋)
1724) Pless(プレス), Max(1892-1977):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。靴職マイスターの父ヴィルヘルムと母カロリーネの間に6人兄弟で生まれた。1906年リックマー汽船会社に入り、1914年6月末に香港に赴き、無線電信員として領事館で無線通信業務に従事し、やがて青島へ赴いた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時27歳)、2時間49分39秒5分の4で第78位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。解放されてドイツに帰国後は商業船の3等航海士となり、1922年エルザ・ラム(Elsa Ramm)と結婚、息子二人をもうけた。1938年、ハンブルク州立銀行に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(3063:松山→板東)
1725) Pluemmen(プリュンメン),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ラインラントのカペレン(Capellen)出身。(658:久留米)
1726) Poebel(ペーベル),Fritz(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米時代は演劇活動で、フルダ作の喜劇『二人きりで』等11演目に主として女役で出演した。1919年10月17日の「収容所楽団と四重唱クラブの共演コンサート」で、『さまよえるオランダ人』より「舵取りの歌」等をテノール独唱した。宣誓解放された。ボッフム出身。(665:久留米→板東)
1727) Pohle (ポーレ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、トランペットを担当した。シュトラースブルク出身。(2015:丸亀→板東)
1728) Pönitz(ペーニッツ),Erich(?-1919):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1919年8月2日肺結核により久留米で死亡、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された。西プロイセンのプロイスィッシュ=シュタルガルト(Proissisch-Stargard)出身。(3578:熊本→久留米)
1729) Ponsel(ポンゼル),Hugo(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。その「日記」がイェキッシュ氏所蔵で遺されている。ブラント河畔のノイゼス(Neusess)出身。(2647:名古屋)
1730) Poppeck(ポッペク),Gustav(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第3棟5室で「ハリー」靴店を営み、公会堂での工芸品展には編み靴下を出品した。ヴェストファーレンのビューア(Buer)出身。(2017:丸亀→板東)
1731) Porsch(ポルシュ),Hermann(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代の1919年1月8日と9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に年金生活者の妻役で出演した。また同年10月5日、マルフケのために開催された「謝恩の夕べ」では、二部構成の第二部の演劇でハラーシュタイン作の1幕物茶番劇『射撃手と空クジ』で、料理女の役で出演した。ライン河畔のハムボルン(Hamborn)出身。(186:東京→習志野)
1732) Poerschke(ペルシュケ),Hermann(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野砲兵。大阪時代の1915年6月初旬、リープマン(Liebmann)及びポスピヒ(Pospich)と脱走したが逮捕され、禁錮2年の刑を受け大阪監獄に収監されたが、11月12日の大正天皇即位の大典の恩赦で1年6ヶ月に減刑された。同年9月に仮出所した。ポーランド人であったことから後に宣誓解放された。オステローデ郡のタンネンベルク(Tannenberg)出身。(4571:大阪→似島)
1733) Pospich(ポスピッヒ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。大阪所時代の1915年6月初旬、リープマン(Liebmann)及びペルシュケ(Poerschke)と共謀して脱走を企てた。1915年7月5日に禁錮2年6月に処せられて大阪監獄に収監されたが、11月12日の大正天皇即位の大典の恩赦で1年10ヶ月に減刑された。シュパンダウ出身。(4016:大阪→似島)
1734) Possardt(ポッサート), Alfred(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。ポッサートの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真10〕参照】。ブランデンブルクのフォルスト(Forst)出身。(4012:大阪→似島)
1735) Pötter(ペッター),Karl(?-1919):国民軍・卒。[ベルニック・ウント・ペッター商会(H.Bernick & Pötter Co.)共同経営者]。1900年にグスタフ・ベルニック(Gustav Bernick)の兄ヘルマンの誘いを受けて青島に来た。各種の技術を習得していた。やがてヘルマン・ベルニックと共同で、建築業を営む会社を設立した。妻のエリーザベト(Elisabeth)は一年ほど後の1901年ないし1902年に青島に着いた。青島時代はハンブルク街(日本の占領統治時代は深山町)に住んでいたが、夫婦には子供はいなかった。1915年9月下旬、青島俘虜収容所に収容された。10月11日付けの俘虜情報局による追加名簿では、収容所先がまだ青島となっている。1916年2月初旬(あるいは1月31日)に青島から大阪収容所に送られた。1919年7月3日似島俘虜収容所で病死、享年45歳だった。妻のエリーザベトは大戦終結まで青島に留まった。1920年12月25日、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。墓標番号は552番。ナッヘル(Nachel)出身。(4695:青島→大阪→似島)
1736) Pozar(ポーツァル),Isidor(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916年10月9日、ツリアーニ(Zulliani)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのフイウミツェロ(Fuimicello)出身。(2367:姫路→青野原→丸亀→板東)
1737) Prädel(プレーデル),Gustav(?-?):海軍野戦砲兵隊・上等兵。静岡時代の1915年(月日不明)、未知の婦人にハンカチを振って手招きする行為をして、日本婦人に対して侮辱したことを厳に戒められたにも拘らず、再度前記の行為をした科で、懲役3ヶ月の処罰を受けた。エールゼー(Oelsee)出身。(1771:静岡→習志野)
1738) Prahl(プラール),Alfred(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ケルナー作の喜劇『夜番』等6演目に出演した。1919年3月に発行された『久留米詩文集』に、プラールの抒情詩「クライストの墓にて」等7編と、叙事詩「ハンス・フンデルトゲズィヒトの生活からの夜景」等2編が掲載され、前記2編はそれぞれが抒情詩部門と叙事詩部門の一等賞に輝いた。1919年にカール・フォークト(Karl Vogt)作曲の『四つの歌』の内の「夕べのヴァイオリン」を歌った。ベルリン出身。(662:久留米)
1739) Prahm(プラーム),Jelleus(?-?):海軍砲兵中隊・2等信号兵曹。[商船船長]。習志野時代、クリューガー(K.Krüger)と同室だった。クリューガーによれば、プラームは大柄でブロンドの髪をし、落ち着いた知的な人物だった。東フリースラントのレーア(Leer)出身。(192:東京→習志野)
1740) Prange(プランゲ),Wilhelm(?-?):砲兵弾薬庫・2等掌砲兵曹。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』67頁】。ダンチヒ出身。(2349:姫路→青野原)
1741) Praschma(プラシュマ伯爵),Cajus Graf(1874-1948):海軍野戦砲兵隊・退役陸軍少尉。〔要塞車厰第3次指揮官〕。[税官吏]。父フリードリヒ・グラーフ・プラシュマ・フォン・ビルカウ伯爵(Friedrich Graf Praschma,Freiherr von Bilkau)と、母エリーザベト・グレーフィン・ツー・シュトルベルク=シュトルベルク(Elisabeth Gräfin zu Stolberg-Stolberg)との間に、上部シュレージエンのファルケンベルクに生まれた。1899年末に中国に赴き、中国の軍学校及び税関に勤務した。1909年、ロンドンで英国女性アイリス・キングスコートゥ(Iris Kingscote)と結婚して中国に戻った。青島時代はアウグステ・ヴィクトリア湾(Auguste Victoria Bucht;日本時代は忠ノ海)地区に住んでいた。大戦前に息子二人が生まれた。熊本時代の1915年1月29日、妻が陸軍大臣の許可を得て面会に訪れた。以後は所長の計らいで、毎週水曜午前9時から面会出来ることになった。久留米時代、夫人は国分村浦川原の森新別荘に子供二人と住んだ。1918年3月スイス公使宛に、ドイツアジア銀行清算に伴い送金された625円は元来妻子宛のものが誤送されたとして、12日転送された。同年8月6日習志野へ収容所換えになった。大戦終結して帰国後、退役大尉となり、その後娘一人と息子一人が生まれた。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)によれば、プラシュマは第二次大戦前にシュトゥットガルトに移住した。戦後は病気で耳が不自由になり、一家の生計は大尉としての恩給とイリス(アイリス)夫人の翻訳の仕事(英語-ドイツ語)による収入に拠った。1948年6月1日死去し、テューリンゲンの墓地に埋葬された。なお、前記『ドイツ兵捕虜と収容生活』には、当時の『九州日日新聞』及び『福岡日日新聞』に度々掲載された、プラシュマ並びにプラシュマ夫人に関する記事や、『プラシュマ一族新聞』にも『九州日日新聞』の「俘虜伯爵」に関する記事が紹介されたことなど、プラシュマ関連記事が7頁に亘って掲載・紹介されている。プラシュマは第二次大戦前にシュトゥットガルトに移住した。上部シュレージエンのファルケンベルク(Falkenberg)出身。(3581:熊本→久留米→習志野)
1742) Precht(プレヒト),Karl(1893-1985):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。[パン職人]。息子のヴィリー・プレヒト(Willi Precht)氏によれば、プレヒトはパン職人の家庭に生まれた。ヴュッルツブルクのフランクフルト街にあったパン屋テレーゼで徒弟修業した。その後フランクフルト、ケルン、ヴィースバーデン、ハノーファーで職人として働いた。1913年10月ククスハーフェンで海軍兵士として訓練を受けて、1914年1月青島に赴いた。プレヒトが収容所から祖国ドイツに送った手紙が今日いくつか遺されている。プレヒトは父親の遺品から、1918年末に似島収容所から姉妹に宛てた自分の手紙を発見したが、その内容は以下である。「僕はその後も変わりありません。今はサッカー、ファウストバル、テニスで時間をつぶしています。以前はさらに畑仕事もしていましたが、それは戦略的理由から再び禁じられています。…僕たちも直に故郷へ戻れるでしょう。というのもたった今平和条約が締結されたことを知ったからです」。大戦終結して帰国後、プレヒトはパン職人から方向転換して、煉瓦職人になった。第二次大戦中はニュルンベルクで煉瓦職として働いたが、1945年3月16日の大空襲で家が完全に破壊された。プレヒトの海軍時代の思い出の品は、時に道具箱に、時にジャガイモ入れとなっても空襲でも焼けずに残った海軍箱だけであるという。日本に対する熱い思いを終生抱き、息子によれば、ヴュルツブルクで日本人旅行客を見かけると、おぼつかない日本語で話しかけたという。もし飛行機恐怖症でなかったならば、必ずや日本にまた一度でかけたであろうとも息子のヴィリー氏は語っている。「日本人は世界で一番清潔好きだ。なにしろ毎日風呂に入る」との言葉を家族はよく耳にしたとも語っている。1972年、ヴュルツブルクでの最後の青島戦友会には、友人にして同じく戦友のヴィリッヒ(Willig)と出席した【メッテンライター『極東で俘虜となる』84-86頁 】。下部フランケンのマイン河畔ハイディングスフェルト(Heidingsfeld)出身。(4011:大阪→似島)
1743) Prediger(プレーディガー),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。[青島山林局]。青島時代はアウグステ・ヴィクトリア湾地区の電信部官舎に住んでいた。丸亀時代の1915年4月17日、神戸在住の知人が犬一匹を連れて収容所を訪れ、プレーディガーへのその犬の交付を願い出た。その犬はそもそもプレーディガーの飼い犬で、病気のために神戸の知人に預けてあったものだった。規定の手続き後に交付された【『丸亀俘虜収容所日誌』より。なお、丸亀俘虜収容所では、犬の交付願いが数件あり、一時期犬を飼うことが流行ったが、8月29日をもって犬の飼育は一切認められなくなった】。板東時代、収容所周辺の山林における伐採作業では、午前のクリーマント(Klimant)の後を受けて午後の指揮を執った。1918年6月25日、収容所内タパタオの市長選挙が行われ際には開票役に選ばれた。ハンブルク出身。(2022:丸亀→板東)
1744) Preiss(プライス),Walter(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。習志野時代の1919年1月8日、9日に収容所で演じられた、ハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に女中役で出演した。ハンブルク出身。(194:東京→習志野)
1745) Preissel(プライセル),Johann(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[中国ジーメンス漢口支店]。ニュルンベルク出身。(3061:松山→板東)
1746) Preissler(プライスラー),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[指物師]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。マイセン出身。(1398:福岡→習志野)
1747) Pretzsch(プレッチュ),Wilhelm(?-?):海軍野戦砲兵隊・軍楽軍曹。1919年6月22日に開催された「名古屋収容所俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、プレッチュはシェッフェル(Scheffel)とともに名古屋俘虜収容所楽団(Lagerkapelle)の指揮者を務めた。デリッチュ(Delitzsch)出身。(2642:名古屋)
1748) Preu(プロイ),Johann(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1919年10月の第2回スポーツ週間開催に当たって、ブロイは陸上競技の試合規則制定や、審判を選ぶための技術委員会の一員にマーニッツ(Manitz)、H.オルトレップ(Ortlepp)、ペッヒ(Pech)、E.ヴェーバー(Weber)、ブロック(Block)とともに選ばれた。自身も1917年10月17日に開催された「幅跳び踏み切台有」(参加者14名)で、6.4mで第1位に、10月19日の「三段跳び(踏み切り台有)」では12.92mで第1位になるなど、久留米のスポーツ大会では大活躍した。ツヴィッカウ出身。(646:久留米)
1749) Preuss(プロイス),Alwin(1892-?):海軍砲兵中隊・2等掌水雷兵曹。久留米時代の1919年11月に撮られたプロイスのスナップ写真がシュミット氏のホームページに掲載されている。ブレスラウ出身。(3587:熊本→久留米)
1750) Preusse(プロイセ),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等機関兵曹。『ドイツ・トゥルネン新聞(Deutsche Turn-Zeitung)』の1917年4月19日付け16号に、「大阪(日本)からの手紙」と題して、プロイセからの同新聞編集部への感謝と催し物について述べた手紙と、また同年8月16日付けの33号には、似島への移転とそこでの活動状況を知らせる友人宛ての手紙が掲載された【山田『俘虜生活とスポーツ』145頁】。ザクセンのピルナ出身。(4009:大阪→似島)
1751) Prillwitz(プリルヴィッツ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。徳島時代の1914年12月26日、福岡のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。葉書は徳島新町橋の眉山を背景とした風景写真の絵葉書で、3センチ四方角の「徳島俘虜収容所之印」、「検閲済」の印、福岡俘虜収容所の検閲印、さらにはカタカナの「クリス」印が押されている【収容所員の栗栖中尉の印と思われる】。文面は次の通り。「君からの葉書受け取った。有難う。葉書からは元気そうだが、僕も元気だ。残念なことに大阪ではなくて、徳島にいる。ではさようなら」【マイレンダーの項参照】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザーレ河畔のベルンブルク(Bernburg)出身。(4249:「大阪→」徳島→板東)
1752) Prinz(プリンツ),Walter(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・砲兵軍曹長。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したプリンツは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り当てられたが、5位に終わり本戦のB級進出に留まった。板東時代の1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。その折り、壮年組の徒手体操とゲームを指導して、大会を活気づけた。砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのメンヒェングラートバハ(M.-Gladbach)出身。(4248:「大阪→」徳島→板東)
1753) Prinzenzing(プリンツェンツィング),Josef(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その左から四人目に写っている。ヴェストファーレンのリップシュタット(Lippstadt)出身。(649:久留米)
1754) Probst(プロープスト),Heinrich(1874-?):総督府・海軍衛戍司令部兵監。青島時代はテティス街(Thetisstraße)に住んでいた。ハノーヴァーのホーエンシュテット出身。(668:久留米→習志野)
1755) Probst(プロープスト),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになり、名古屋で宣誓解放された。ズルツマット(Sulzmatt)出身。(1406:福岡→名古屋)
1756) Pröfener(プレフェナー),Johannes(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備2等歩兵。[上海居留地工部音楽隊員]。1906年11月7日、前記音楽隊に加入した【「1912年版上海工部局年次報告書」より】。1914年12月15日、在上海総領事から外務大臣宛に、上海租界の代表から、指揮者ミリエスとその楽団員であるエンゲル、ガーライス及びプレフェナーは非戦闘員なので解放せよとの申し入れがあったが、軍籍があることから不許可になった。ハンブルク出身。(4017:大阪→似島)
1757) Protze(プロッツェ),Arthur Richard(1888-1978):総督府・1等砲工。1914年7月31日から1914年11月10日までの青島での戦闘経過を記した日記と、1919年12月から1920年2月までのドイツへの帰国航を記した日記の断片が残されていて、娘のローゼマリー・オクセンドルフ(Rosemarie Ochsendorf)から鳴門市ドイツ館に寄贈された。テューリンゲンのツェラ(Zella)出身。(1412:福岡→大分→習志野)
1758) Puchert(プッヘルト),Wilhelm(1892-1918):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1918年11月26日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ノイ=ヴァルダウ(Neu-Waldau)出身。(1407:福岡→名古屋)
1759) Püchot(ピュヒョ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊。2等砲兵。1915年12月、宣誓解放された。ロートリンゲンのヴァネクール(Vannecouert)出身。(1402:福岡)
1760) Pügner(ピュークナー),Robert(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備伍長。[広東・イェプセン商会]。板東時代、収容所の合唱団でバスを担当した。ドレスデン出身。(2024:丸亀→板東)
1761) Pupke(プープケ),Friedrich(1883-1944):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[時計職人]。父グスタフ(Gustav)は馬具職人、母の名はルイーゼ(Luise)。1904 年にモンテヴィデオへの旅をし、そこから南京、上海へ赴いた。板東時代、工芸品展に自動表示装置付きの雨量測定器を製作・出品した。解放後は蘭領印度へ赴き、ペダン(Padang)の商会に入り、後に時計職人として独立した。1922年3月18日、カタリーナ・ナーケ(Katharina Naacke)と結婚し、4人の子をもうけた。1930年ドイツへ帰国して時計職を営んだ。ベルリン出身。(2029:丸亀→板東)
1762) Quaas(クヴァース),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1919年1月21日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、1月26日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザクセンのランベルツヴァルト=グローゼンハイム(Lamberzwald-Grosenheim)出身。(4018:大阪→似島)
1763) Quedenbaum(クヴェーデンバウム),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ウラジオストック・ランゲリューチェ商会]。松山時代の1918年8月、精神を病んで松山衛戍病院に1年9ヶ月入院していた。しばしば拘束服を着用させられもした。板東収容所に移って少し快方に向かったが、看護を担当していたノルテマイヤー(Noltemeyer)の見解では、正常人の精神状態からは程遠いとされた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(3067:松山→板東)
1764) Quinten(クヴィンテン),Rudolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備1等砲兵。青島時代はドイツ街に住んでいた。板東時代の1918年5月2日、東久邇稔彦王が四国旅行で徳島に立ち寄った際、急遽撫養で俘虜による作品展示会が特別に開催された。その折クヴィンテンが制作出品した皇帝とヒンデンブルクの焼絵肖像2枚が買い上げられた。東京の家のホールに飾るためと言われた。他に、ボーン、グヌシュケ、ヘフトの作品も買い上げられた。コーブレンツ近郊のマイエン出身。(4255:「大阪→」徳島→板東)
1765) Raake(ラーケ),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。[製靴工マイスター]。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。アイゼナッハ近郊ベルカ(Berka)出身。(1416:福岡→大阪→似島)
1766) Radau(ラーダウ),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊・後備2等砲兵。青島時代は旧衙門(Altes Yamen;清国時代の官衙)に住んでいた。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、運営係りを務めた【『AONOGAHARA捕虜の世界』67頁】。妻テレーゼ(Therese)は大戦終結まで、家族七人で青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(1443:福岡→青野原)
1767) Rademacher(ラーデマッハー),Adolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代、1915年12月30日付けの葉書が神戸からラーデマッハーに届いた。差出人は不明(判読不可)、文面は新年の挨拶状。収容所員の市川元治中尉を示す「いちかわ」の文字入り三角印が押されている【郵趣家三木充氏の所蔵品より】。丸亀時代には、神戸市に住む妻の名倉小松が28回面会に訪れた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。ヴェストファーレンのレトマーテ(Letmathe)出身。(2043:丸亀→板東)
1768) Rademacher(ラーデマッハー),Gustav(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代、神戸市に住む義姉の名倉小松が面会に訪れた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。このことから、グスタフ(Gustav)は前記アードルフ(Adolf)の弟と考えられる。ヴェストファーレンのレトマーテ(Letmathe)出身。(2044:丸亀→板東)
1769) Radseck(ラートゼック),Otto(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[青島警察署事務官]。青島時代はホーエンローエ小路に住んでいた。ポンメルンのトレープリン(Treblin)出身。(3085:松山→板東)
1770) Radtke(ラトケ),Eberhard(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備陸軍少尉。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ベルリン出身。(3620:熊本→久留米)
1771) Radtke(ラトケ),Heinrich(?-?):所属部隊不明・1等焚火兵。[錠前工]。青島時代は小港小路に住んでいた。妻クラーラ(Klara)は五人の子(内二人は12歳以下、一人は12歳以上の息子、二人は12歳以上の娘)と大戦終結まで上海で暮らした。オルデンブルクのリュストリンゲン(Rüstringen)出身。(4582:大阪→似島)
1772) Radzuweit(ラートツーヴァイト),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備軍曹。[兵営監守]。青島時代は衙門兵営(Yamenlager)に住んでいた。妻ジドニー(Sidonie)は娘二人(ともに12歳以下)と大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ヴァルテ河畔のランツベルク(Landsberg)出身。(3084:松山→板東)
1773) Rahaus(ラーハオス),Hermann(1890-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・予備火工副曹長。[カルロヴィッツ商会青島支店]。徳島俘虜収容所内で発行された新聞『徳島新報』編集の中心的人物だったと推測されている。板東時代は『バラッケ』編集部員を務めた。大戦終結して帰国の際、帰国船豊福丸船内でも板東俘虜収容所から持参してきた印刷機で、船内新聞『帰国航』(Die Heimfahrt)の編集・発行に励んだ。ハンブルク出身。(4271:「大阪→」徳島→板東)
1774) Raket(ラーケット),Reinhold(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・掌罐兵曹長。板東時代、工芸品展にホーン(Hohn)と共同で写真の引き延ばし機を製作・出品した。シュレージエンのゲルリッツ(Görlitz)出身。(4269:「大阪→」徳島→板東)
1775) Ramin(ラミーン),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。右上膊部榴散弾弾子盲貫銃創により、大阪陸軍衛戍病院に入院した。ザクセンのアイレンブルク(Eilenburg)出身。(4649:大阪→似島)
1776) Ramin(ラミーン),Paul Otto(1883-?):第3海兵大隊第7中隊・陸軍中尉。〔第3歩兵堡塁指揮官〕。青島時代はビスマルク街に住んでいた。1914年11月5日、守備に就いていた堡塁が日本軍の猛攻を受けて崩壊した。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。ラミーン中尉は、中列の中央、石井所長の後ろである【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1〕を参照】。1916年10月4日、ランセル大尉、シュリーカー中尉、フェッター中尉、シェーンベルク少尉、アダムチェフスキー少尉、キュールボルン少尉とともに丸亀から大分に移送された。ウッカーマルク(Uckermark)のミルデンベルク(Mildenberg)出身。(2033:丸亀→大分→習志野)
1777) Ramming(ラミング),Adam(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。[麦酒醸造職人]。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。バイエルンのウンターシュタイナッハ(Untersteinach)出身。(1415:福岡→青野原)
1778) Räpp(レップ),Max(?-?):海軍野戦榴弾砲兵隊・2等砲手。熊本時代、法則に違反し、濫りに構外にの小川で水浴をした科で重営倉7日の処罰を受けた。アイゼナッハ出身。(3625:熊本→久留米)
1779) Rappenecker(ラッペンエッカー),Dr.Karl(?-1920):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。[上海・同済医療・技術専門医学校教師]。フライブルク大学で学位を取得した。熊本時代の1915年1月24日、阿弥陀寺に収容されていたラッペンエッカーは、ブッシュ(Johannes Busch)、フリッケ(Fricke)及びツァイス(Zeiss)四人で収容所から脱走し、禁固1年に処せられた。なお、ラッペンエッカーが逃亡時に所持していたものは、日用品・衣類等の他にりんご、蜜柑、チョコレート32個、腸詰・ハム、双眼鏡で、更に日本紙幣25円、日本銀貨2円22銭であった。『旧保護地及び海外部隊伝統連盟会報第56号』(1977年4/5月)に、「日本の監獄から」と題した文章を寄せた。その中で、熊本俘虜収容所で4人の俘虜が脱走を試みて失敗し、数ヶ月の懲役を受けたことを記している【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』216頁】。1918年8月6日久留米から名古屋へ収容所換えになった。解放後は上海へ渡り、再び同済専門学校で教えたが、1920年5月18日に上海で没した。フライブルク出身。(3607:熊本→久留米→名古屋)
1780) Rasch(ラッシュ),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、背広1点及びジャケツとチョッキの試作品を出品した。上記展覧会のカタログの32頁には、ラッシュ経営の洋服店の広告がイラスト入りで描かれている。ゲッティンゲン出身。(4578:大阪→似島)
1781) Raschdorf(ラッシュドルフ),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等給与掛筆生。青島時代はテティス街(Thetisstraße)に住んでいた。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。シュレージエンのフランケンシュタイン出身。(1456:福岡→青野原)
1782) Rasenack(ラーゼナック),Friedrich W.(?-1920):第3海兵大隊・予備副曹長。[ザンダー・ヴィーラー商会]。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。公会堂での絵画と工芸品展覧会の肖像画部門に、「水兵Zの肖像」を出品して一等賞を受賞し、また「ドイツ騎士団員」等の水彩画も多く出品した。俘虜送還船「豊福丸」船内で発行された新聞『帰国航』第2号は、ラーゼナックの追悼記事を冒頭に掲げた。それによるとラーゼナックは、神戸で乗船した時に既に重い風邪に罹っていた。シンガポールに着く直前の夜、1920年1月11日午後2時5分に肺炎のため船内で死亡し、水葬に付された。第3海兵大隊第6中隊長ブッターザック中尉の、愛惜をこめた詩が『帰国航』第2・3号に掲載された。オーデル河畔のフランクフルト出身。(3083:松山→板東)
1783) Rasmussen(ラスムッセン),Peter(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・上等兵曹。習志野時代の1916年1月27日、ヤーグアル乗員が全員一室に集まってドイツ皇帝の誕生日を祝った際に、木製のヤーグアルとその乗員の鉄の水兵について講談を行った。宣誓解放された。キール出身。(216:東京→習志野)
1784) Rasor(ラーゾル),Otto(1891-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[カルロヴィッツ漢口支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においてラーゾル(28歳)は、2時間34分30秒5分の1で46位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。マイン河畔のフランクフルト出身。(3071:松山→板東)
1785) Rau(ラウ),Peter(1892-1973):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。1892年8月31日、坑夫の子としてマルシュタット=ブルバハ(今日のザールブリュッケン)に生れた【シュミット】。ザールブリュッケン出身。(689:久留米)
1786) Rauh(ラオ),Hans(?-1914):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1914年12月8日青島で死亡、青島欧人墓地に埋葬された。バイエルンのホーフ(Hof)出身。(4660:青島)
1787) Rausche(ラウシェ),Otto(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備2等砲兵。青島時代はハンブルク街に住んでいた。カンシュタット(Cannstatt)出身。(1778:静岡→習志野)
1788) Rawengel(ラーヴェンゲル),Bruno(?-?):第3海兵大隊・海軍中主計(中尉相当)。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。シュテッティン出身。(671:久留米)
1789) Raydt(ライト),Ernst(1887-?):海軍東アジア分遣隊参謀本部・予備副曹長。[ベンク、クレッチュマー商会]。青島時代はダンチヒ街に住んでいた。習志野時代の1918年5月、ハム(Hamm)と一緒にシュレーダー(Schröder)【習志野収容所には同姓が三人いて特定不可】にロシア語を週3回習った。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された。また1919年8月12日、習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』に子ども役で出演した。ハノーファー出身。(201:東京→習志野)
1790) Raydt(ライト),Felix(?-?):第3海兵大隊第2中隊・副曹長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。10月9日、俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた下士卒に対する全般の監督を、フィッシャー(Fischer)副曹長とともに務めた。久留米の演劇活動では、喜劇『クラブチェアーに座って』に出演した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのラッツェブルク(Ratzeburg)出身。(683:久留米)
1791) Razenberger(ラーツェンベルガー),Karl(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等檣帆下士。熊本時代の1915年2月28日、それまで妙永寺に収容されていたが、同寺の水兵・古参下士との間で軋轢があり、フラヴィツァ(Hlavica)及びラーツェンベルガー(Razenberger)とともに、細工町阿弥陀寺に移された。1918年8月4日久留米から青野原へ収容所換えになった。上部オーストリアのザンクト/エギティ(St.Aegiti)出身。(3641:熊本→久留米→青野原)
1792) Redecker(レーデカー),Wilhelm(?-?):国民軍・階級不明。[教師]。妻ベルタ(Berta)は大戦終結まで青島に留まった。ビーレフェルト出身。(4581:大阪→似島)
1793) Reieke(ライエケ),Willy(1881-1930):測量艦プラーネット乗員・海軍中主計(中尉相当)。1914年10月9日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日宣誓解放された。シュパンダウ出身。(4665:なし)
1794) Reiher(ライアー),Engelbert(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年1月16日、居室の床板を切って私物の倉庫としたために、軍法会議で懲役3ヶ月の刑を受け、福岡監獄に収監された。下部フランケンのメルカースハウゼン(Merkershausen)出身。(682:久留米)
1795) Reimer(ライマー),Balthasar(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。デューレン(Düren)出身。(685:久留米)
1796) Reimers(ライマース),Otto(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備陸軍少尉。[オットー・ライマース商会社長]。名古屋収容所ではケーニヒ(Leo König)及びカルクブレンナー(Kalkbrenner)とともに日本語を解する俘虜だった。1914年(大正大三年)12月10日付けの新聞『新愛知』には、アーラース(Leonhard Ahlers)、ケーニヒ(Leo König)、ライマース及び少年兵ビーン(Ludwig Bien)の四人の写真が掲載された。ビーンを除く三人は日本語通とされている。ローマン(Lohmann)あるいはシュテーゲマン(Steegemann)の遺品と思われる写真中に、シュリック(Schlick)中尉とテニスコートのネットを挟んで、にこやかに握手している写真が現存している【ローマン及びシュテーゲマンの項、及び〔写真8〕を参照】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。横浜在住のドイツ人ヴェルナー・ライマースは実弟で、丸亀及び板東に収容されたエルヴィン・フォン・コッホ(Erwin von Koch)はヴェルナーの義兄に当たる。ハンブルク出身。(2658:名古屋)
1797) Reimers(ライマース),Stephan(?-?):国民軍・卒。[メルヒャース商会社長]。青島時代は皇帝街(Kaiserstraße)に住んでいた。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。ヴェーザー河畔のニーンブルク出身。(4650:大阪→似島)
1798) Reiminger(ライミンガー),Karl(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野戦砲兵。宣誓解放された。オストヴァルト(Ostwald)出身。(2671:名古屋)
1799) Reinhardt(ラインハルト),Josef(?-?):国民軍・卒。青島時代はイレーネ街に住んでいた。1915年9月下旬に青島俘虜収容所に収容され、1916年1月31日青島から大阪俘虜収容所に移送された。バイエルン出身。(4696:青島→大阪→似島)
1800) Reinhardt(ラインハルト),Kurt(1880-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。板東時代、1918年4月9日、16日及び30日の3回に分けて、「東ヨーロッパの歴史」と題して講演した。ワイマールのドイシュテット(Deustedt)出身。(2042:丸亀→板東)
1801) Reining(ライニング),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊第2 中隊・1 等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で模型の大砲1点を出品した。ボートマン・アム・ゼー(Bodmann am See)出身。(1417:福岡→大阪→似島)
1802) Reinking(ラインキング),Hans(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオで製本屋を営んだ。公会堂での工芸品展には、部分的に水彩画による装飾をほどこしたアルバムを出品した。ミンデン(Minden)出身。(2039:丸亀→板東)
1803) Reise(ライゼ),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点110点⅓で中級の3位になった。マールブルク出身。(3614:熊本→久留米)
1804) Reisener(ライゼナー),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・後備2等水兵。青島時代はテティス街(Thetisstraße)に住んでいた。アルトマルク/アーレントゼー(Arendsee)出身。(3637:熊本→久留米)
1805) Reiser(ライザー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備上等歩兵。1907年ローベルト・ボッシュ(Robert Bosch)機械に機械工として入った。ロンドンの販売店を経て、1912年横浜に設けられたカナダ資本との合弁会社へ、ボッシュ社初の出向者として日本に派遣された。1914年8月、青島へ応召した。大戦終結して解放後、神戸のボッシュ代理店のイリス商会で働いた【シュミット】。シュトゥットガルト出身。(2659:名古屋)
1806) Renkel(レンケル),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・砲兵軍曹長。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したレンケルは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り振られ、1位で本戦のA級に進出した。板東時代は砲兵大隊スポーツ協会の役員を務めた。ドルトムント出身。(4267:「大阪→」徳島→板東)
1807) Rensing(レンジング),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代、板東ホッケー協会のチームのメンバーだった。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」(当時36歳)で、2時間41分16秒5分の4で6位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ボッフム出身。(3077:松山→板東)
1808) Resch(レッシュ),Nikolaus(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等水兵。姫路時代の1915年2月23日、景福寺の収容所からヤーン(Josef Jahn)、リップスキー(Lippsky)の三名で脱走を企て、禁錮9ヶ月の処罰を受けた【なお、従来この人物は諸文献で「アレッシ」と記されていて、『俘虜名簿』で確定が出来なかった人物である】。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、レッシュは絵画部門にテンペラ画と水彩画各1点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』72頁】。オーストリアのリンツ出身。(2384:姫路→青野原)
1809) Rettberg(レットベルク),Georg O.(?-?):第3海兵大隊・予備陸軍中尉。妻パオラ(Paula)は大戦終結まで、子ども二人と(ともに12歳以下)上海で暮らした。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(4428:「熊本→」大分→習志野)
1810) Rettermeyer(レッターマイアー),Sebastian(1892-1991):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年8月上記中隊に入隊した。板東時代、スポーツクラブでレスリングをした。大戦終結して帰国後、ビール醸造及び家畜取引の仕事に就いた。第二次大戦後、「チンタオ戦友会」の会合に参加した。バイエルンのフォーブルク(Vohburg)出身。(2038:丸亀→板東)
1811) Rettig(レッティヒ),Hans(?-?):第3海兵大隊・副曹長。久留米時代は演劇活動で、F.及びシェーンタン作の笑劇『ザビニ人の娘のたちの誘拐』等13演目に出演し、内1回は女役で出た。ヴァルテ河畔のランツベルク(Landsberg)出身。(3621:熊本→久留米)
1812) Rex(レクス),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、第3棟2室で床屋を営んだ。シュレージエンのローラント(Rohland)出身。(4259:「大阪→」徳島→板東)
1813) Ribbe(リッベ),Carl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジーメンス・シュッケルト社アルベンガ(Albenga)支店]。ボイスハウゼン(Beushausen)の日記によれば、ビスマルク兵営ではリッベと同室だったと記されている。ハンブルク出身。(3079:松山→板東)
1814) Richardt(リヒャルト),Julius(?-?):国民軍・2等兵曹。[運送業]。青島では運送業を営業し、青島郊外の名所である労山(標高1130m)やプリンツ・ハインリヒ山等近郊へのタクシー、ハイヤーによる観光業も行っていた。ブランデンブル県のノイダム(Neudamm)出身。(4579:大阪→似島)
1815) Richter(リヒター),Bruno(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備2等機関兵曹。[商人]。モスクワ生まれで、学校時代もモスクワだったことから、ロシア語を流暢に話した。また、パリで生活したこともあってフランス語も習得していた。満州のハルピンから応召した。習志野時代、収容所でフランス語の授業を開き、クリューガー(Karl Krüger)もそこで学んだ。1915年9月15日、他の94名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、一時期クリューガー(K.Krüger)と一緒だった。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。モスクワ出身。(1424:福岡→習志野)
1816) Richter(リヒター),Otto(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[上海アスター・ハウス・ホテル(Astor House Hotel)]。ザクセン・アンハルトのベルンブルク(Bernburg)出身。(2045:丸亀→板東)
1817) Richter(リヒター),Paul(?-?):国民軍・後備上等歩兵。[建築家]。青島時代は、イレーネ街のハンブルク街側の角に住んでいた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(4651:大阪→似島)
1818) Richter(リヒター),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。1914年11月15日、久留米俘虜収容所に収容された。その折、既に収容されていた俘虜たちが蓄音機で「旧友」をかけていた。シュリーター曹長の指揮で行進するリヒターがクルーゲ(Kluge)にはすぐに分かった【クルーゲの項参照】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴァンツベック出身。(672:久留米)
1819) Richter(リヒター),Walter(?-?):国民軍・上等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(2371:姫路→青野原)
1820) Rickenberg(リッケンベルク),Carl:海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。[電気工]。ハノーファー出身。(1426:福岡→久留米)
1821) Ricking(リッキング),Ferdinand(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。習志野時代の1918年9月、ハム、ホルヒ、ハスラッハー、リーガーの四阿を建てる際、屋根葺きの仕事をした【ハインリヒ・ハム(Hamm)の項参照】。ノルトライン=ヴェストファーレンのラインベルク(Rheinberg)出身。(208:東京→習志野)
1822) Riedel(リーデル),Georg Erich(1895-1917):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[北ドイツ・ロイド汽船プリンツ・アイテル・フリードリヒ号乗員]。郷里のプラウエンでコックの修業をした後、1912年から船のコックとして世界中を回った。ロイド汽船会社の客船プリンツ・アイテル・フリードリヒのコックとして乗り込んでいた時、大戦が勃発して船は軍に徴用され、青島で志願兵として応召した。ビスマルク兵営でコックの任に就き、やがてイルチス兵営に移った。更に10月中旬から湛山堡塁の第6中隊の厨炊所に移った。松山時代は収容所の士官食堂で仕えた。【『バラッケ』第1巻152頁より】1917年12月6日徳島衛戍病院で死去。『バラッケ』12号は彼の追悼記事を載せた。【板東関連文献では、Kurt Erich Riedelとなっている】。【なお『欧受大日記』大正十三年三冊之内其一は、ドイツ人戦没者及びその墓地等に関する資料集成でもある。1920年(大正11年)12月21日付けの陸軍省副官松木直亮【元熊本俘虜収容所長で、後に陸軍大将になった】からの照会に対し、翌1921年1月31日付けの第11師団参謀長浅田良逸の回答は、ヘルムート(Hellmuth)と並んで設けられたリーデルの墓碑には、次のドイツ文が刻まれているとの報告をしている。「Hier ruht in Gott Seesoldat Erich Riedel geb.21.4.1895 in Plauen gest.6.12.1917 in Kriegsgefangenschaft in Tokushima」。今日は白い標識に墓碑銘が一緒に記されて、次の訳文が掲げられている。「海軍水兵エーリヒ・リーデル 一、八九五年四月二十一日プラウエン-ロイザー、フォークラントにて出生 一、九一七年十二月六日徳島戦争捕虜収容中に死亡 安らかに眠りたまえ」。【墓地所在地として記されている徳島県名東郡加茂名町の陸軍墓地は、眉山中腹にあり、今は西部公園と呼ばれている。公園は1989年から三次にわたって整備され、今日では二人の墓碑のほかに「ドイツ兵の墓」、日独両語による「墓碑」及び、ニュルンベルク近郊在住の彫刻家ペーター・クシェル(Peter Kuschel)氏寄贈の「悲しみを超えて」の記念碑がある。参照:石川栄作「二人のドイツ兵墓地」】。2002年4月、リーデルの甥エバハート・リーデル(Eberhard Riedel)氏が徳島を訪問して、徳島で死亡したドイツ兵俘虜の慰霊祭に出席した【エバハート・リーデル/石川晶子訳「私の日本旅行2002年」、所載:『菩提樹』(徳島日独協会会報)第10号、12頁】。フォークトラントのプラウエン= ロイザ(Plauen-Reusa)出身。(3072:松山→板東)
1823) Riedelstein(リーデルシュタイン),Herbert von(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・退役陸軍中尉。熊本時代の1915年2月26日、妻が陸軍大臣の許可を得て面会に訪れた。以後は所長の計らいで、毎週金曜午前9時から面会出来ることになった。1916年2月27日、鬱病で久留米衛戍病院に入院した。1917年1月20日、東京で開催された文部省主催の教育展覧会に、画家でもあるリーデルシュタインの絵が他の60点余とともに出品された。久留米時代、夫人は国分村浦川原の森新別荘に住み、1917年8月の夏はプラシュマ夫人と軽井沢で過ごした。なお、10月にプラシュマ夫人とともに家財の保険契約をしたことが対敵取引禁止令違反となり、告発されたが起訴猶予となった。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。ハンガリーのテムスファー(Temesvar)出身。(3640:熊本→久留米→習志野)
1824) Riedinger(リーディンガー),Günther(1881-?):第3海兵大隊第5中隊・陸軍中尉。中間陣地守備にあたっていたが、第2歩兵堡塁攻防の戦闘にも参加した。上部シュレージエンのラチボア(Ratibor)出身。(4029:大阪→似島)
1825) Rieger(リーガー),Waldemar(?-?):海軍砲兵中隊・後備1等焚火兵。ハインリヒ・ハム(Hamm)と親しかった。ハムからロシア語を教えてほしいと頼まれたが、忙しいことからその役はシェーファー(Schäfer)が果たした。1918年9月21日、ハム、ホルヒ(Holch)、ハスラッハー(Hasslacher)及びリーガーの四人の四阿が完成すると、リーガーとハスラッハーは籤で南側の部屋になった【「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した。ツィッタウ出身。(211:東京→習志野)
1826) Riegow(リーゴフ),Franz(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備2等歩兵。習志野時代の1917年10月、ハム(Hamm)と日本語の勉強を続けた【「ハインリヒ・ハムの日記から」より】。ハンブルク出身。(210:東京→習志野)
1827) Riehle(リーレ),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ジームセン香港支店]。松山時代(公会堂収容)の1916年8月11日、ハンドボール競技中に転倒して親指を脱臼して松山衛戍病院で治療を受けた。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロを担当した。デュッセルドルフ出身。(3073:松山→板東)
1828) Riekert(リーケルト),Fritz(1876-1957):総督府参謀本部幕僚。[総督府築港土木部長]。裕福な家庭に生まれた。テュービンゲンのギムナジウムを修了後、シュトゥットガルト高等工業で建築学を学んだ。1904年に海軍築港技師となった。1911年2月、リーケルトは青島の総督府築港土木部長に就任した。1914年秋、更に4年青島での仕事を継続するために一時帰国する予定であったが、大戦の勃発で帰国は叶わなかった。1918年、福岡から習志野へ収容所換えになった。1915年10月26日撮影の、福岡俘虜収容所内の部屋で写した写真、及び1916年4月12日に写したリーケルトの居室を写した写真が遺されている。リーケルトが収容されている間、妻ジークリット(Siegrid)と二人の娘ヘルガ(Helga)とイルゼ(Ilse)の三人は天津で一年を過ごし、その後ドイツ本国に帰還した。解放されてドイツに帰国後の1924年、リーケルトはシュトゥットガルトのローベルト・ボッシュ(Robert Bosch)会社に就職した。80歳でシュトゥットガルトに没した【テュービンゲン市立文書館主任ウード・ラオッホ(Udo Rauch)氏による「中国及び日本における三人のテュービンゲン出身者―フーゴー・クライバー、ヘルマン・ヘスラー及びフリッツ・リーケルト」(Drei Tübinger in China und Japan Hugo Klaiber,Hermann Henssler und Fritz Riekert)による】。【『俘虜名簿』では「Rieckert」となっているが、正しくは「Riekert」である】。テュービンゲン近郊のルストナウ(Lustnau)出身。(1413:福岡→習志野)
1829) Riesener(リーゼナー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1914年10月20日、ディール(Diehl)伍長の指揮の下9名で第1歩兵堡塁から浮山所へパトロールに出た。さらにディールとレッチェ(Letsche)の三人で浮山所岬に出て、日本軍の船舶が目印にしているブイ(浮標)を沖合250メートルのところに発見した。リーゼナーは服を脱いでブイまで泳ぎ、決死の覚悟でブイを岸に運び上げた。久留米の演劇活動では、リンダウ作『もう一人の男』に出演した。宣誓解放された。ドゥイスブルク出身。(673:久留米)
1830) Rikowsky(リコフスキー),Aloisius(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。西プロイセン出身のポーランド人。父親は製材所を経営していた。リコフスキーには毎月相当の金額の仕送りがあったが、仲間と飲んだウイスキー代でほとんど消えた。収容所内を散歩するリコフスキーに対して、歩哨たちが銃剣を手にして建物内に追い込もうとすると、屈強なリコフスキーは銃剣を取り上げて溝に放り込んだ。騒ぎで駆けつけた歩哨将校は、サンダル履きの肌着姿で、軍帽の被ぶらずに剣を振りかざしていた。リコフスキーはベッドから独房に連れてゆかれた。【『チンタオ俘虜郵便案内』(H.Rüfer u.W.Rungas:Handbuch der Kriegsgefangenenpost Tsingtau)19頁】。東プロイセンのディートリヒスヴァルデ(Dietrichswalde)出身。(4264:「大阪→」徳島→板東)
1831) Rink(リンク),Valentin(1892-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1914年8月上記中隊に入隊した。1915年6月久留米へ収容所換えになった。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、徒手体操1種目、陸上競技2種目)では、得点102⅓で上級4位になった。また1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点100で上級6位になった。ザールブリュッケン出身。(3618:熊本→久留米)
1832) Ringenbach(リンゲンバッハ),Ferdinad(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。宣誓解放された。上部エルザスのズルツ(Sulz)出身。(1772:静岡)
1833) Risch(リッシュ),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にグレミオ役で出演した。また同年9月、「板東健康保険組合」の代表理事に選ばれた。ブレスラウ出身。(2048:丸亀→板東)
1834) Ritsert(リツェルト),Eduard(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。シュトゥットガルト出身。(1448:福岡→久留米)
1835) Ritter(リッター),Johannes(?-?):国民軍・上等歩兵。[ジータス、プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。ザクセンのミットヴァイダ(Mittweida)出身。(2370:姫路→青野原)
1836) Ritthausen(リットハウゼン),Otto(1871-1923):所属部隊・階級不明。[ジームセン商会青島支店;不動産鑑定士・損害保険査定士]。青島時代は皇太子街(Kronprinzenstraße;日本の占領統治時代は浜松通)に住んでいた。大戦終結して解放後は青島に戻り、不動産売買及び火災保険を扱う事務所を経営した。生涯独身だった。ドレスデン近郊のヴィルスドゥルフ(Wilsdruff)出身。(4583:大阪→似島)
1837) Rittmüller(リットミュラー),Fritz(?-?):国民軍・卒。[ドイツ・アジア銀行青島支店支配人]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通に住んでいた。1916年2月4日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。大戦終結して解放後は青島に戻りドイツ・アジア銀行に復帰した。シュトラースブルク出身。(4697:大阪→似島)
1838) Rizzi(リッチ),Giovani(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。1916年10月9日、ビアンチ(Bianchi)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。ダルマチアのルッシンピッコロ(Lussinpiccolo)出身。(2377:姫路→青野原→丸亀→板東)
1839) Robens(ローベンス),Johann(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等歩兵。習志野時代、将校用厨房で炊事係を務めた。フォーゲルフェンガー(Vogelfänger)と共に写った写真が残されている。【『ドイツ兵士の見たNARASHINO』47頁】。ラインラントのフリンマースドルフ(Frimmersdorf)出身。(203:東京→習志野)
1840) Rockenmeyer(ロッケンマイアー),Ignatz(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。メッテンライター『極東で俘虜となる』によれば、ヴィルヘルムスハーフェン港に到着後は、ケーバーライン(Köberlein)、クロイツァー(Kreutzer)、コールヘップ(Kohlhepp)の四人で郷里のビュルツブルクに向かった。ビュルツブルク近郊のリンパー(Rimpar)出身。(1450:福岡→習志野)
1841) Röcker(レッカー),Eugen(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部で兵営用の2段式ベッドと庭用家具の模型を出品した。ヴュルテンベルクのヴィンターバッハ(Winterbach)出身。(4021:大阪→似島)
1842) Rockser(ロックザー),Alexander(?-1918):国民軍・後備伍長。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。1918年7月31日、似島で死亡。イェーナ出身。(4580:大阪→似島)
1843) Rode(ローデ),Fritz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[薬剤師]。松山時代(公会堂収容)の1916年7月12日のやる8時35分から9時の間に、炊事場北側垣根から逃走した。松山署の刑事、巡査の捜索により、13日午前7時頃福角より権現を経て大栗に通じる山中で逮捕された。ケーバライン(Köberlein)の遺品中には、松山時代にローデが脱走したことが記された紙片が含まれている。その紙片には、6月12日付けで次のように書かれている。「夕方9時、軍曹による二度目の点呼。ローデが脱走を企てたのだ。…軍曹がやって来て衛兵達が周辺の田んぼと畑に飛び出ていった時には、ローデはとっくに激しい雨の降る中夜の闇に乗じて姿をくらませていた。10時に再度点呼。他のもの達へすぐさま尋問があり、大がかりな調査。夜は外出禁止。翌午後4時、ローデが宝林寺脇の森の中で捕まった知らせが届く。彼はどうやら泳いで小船にたどり着いたが、錨を揚げることが出来なかったのだ。」【メッテンライター『極東で俘虜となる』45-46頁】。また、1916年8月19日には、軍用物損壊、横領の咎で第5師管軍法会議において、懲役3月に処せられて広島監獄に入れられた。なお公会堂の日曜講演会で「キニーネとコカイン」と題して講演した。板東時代は収容所内のタパタオで、ヴンダーリヒ(Wunderlich)と共同で薬局・薬品店を営んだ。やがて、ヴェーバー(J.Weber)とともに大阪の野村彦太郎からウイスキー、ブランデーの製造指導に請われた。1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時28歳)、2時間32分16秒で85人中の第34位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。ハノーファー出身。(3076:松山→板東)
1844) Rodenberg(ローデンベルク),Hans(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等砲兵。板東時代の1919年4月17日が開催された21キロの競歩大会において、ローデンベルク(26歳)は2時間34分51秒5分の2で48位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。ドルトムント出身。(2037:丸亀→板東)
1845) Rödenwald(レーデンヴァルト),Emil(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、得点114⅔で初級6位になった。シュテッティン出身。(688:久留米)
1846) Rogalla(ロガラ),Hans(1885-?):第3海兵大隊機関銃隊・陸軍中尉。1903 年10月18日陸軍(歩兵部隊)に入隊、 27.01.1905年1月27日少尉、1911年9月1日付けで海軍歩兵部隊に移籍、27.01.1914年1月27日中尉、08.1914年8月第3海兵大隊に移籍した。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。東プロイセンのオステローデ郡ガンスホルン(Ganshorn)出身。(2656:名古屋)
1847) Rohde(ローデ),Carl(?-?):所属部隊不明・階級不明。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。ブレーメン出身。(4586:大阪→似島)
1848) Rohde(ローデ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ヴェストファーレンのヘルデ(Hoerde)出身。(4261:「大阪→」徳島→板東)
1849) Rohde(ローデ),Walter(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備1等測量兵。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴァルネミュンデ(Warnemünde)出身。(3639:熊本→久留米)
1850) Röhreke(レーレケ),Ernst(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備上等歩兵。[カルロヴィッツ商会上海支店]。板東時代の1918年7月7日、長らくシュラークバルの審判をしていたレーレケは、この日初めて高い審判席に座って大きな拍手を受けた。オシャースレーベン(Oschasleben)出身。(2046:丸亀→板東)
1851) Röhreke(レーレケ),Otto(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備上等歩兵。[ディーデリヒセン徐州支店]。【上記エルンスト・レーレケ(Ernst Röhreke)とは出身地が同じであることから、身内と思われる】。丸亀俘虜収容所時代の所内の様子をまとめて編集したアルバムに、更に板東俘虜収容所や青島時代の写真を加えた写真帳が、鳴門市ドイツ館に寄贈された【中野正司「画像資料から見た板東俘虜収容所の施設と生活」93頁、所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1969年4月9日、レーレケの息子H.G.レーレケ氏がかつての板東俘虜収容所跡を訪問した。氏の「訪問記」が、シュミット氏のホームページに掲載されている。オシャースレーベン出身。(2047:丸亀→板東)
1852) Röllgen(レルゲン),Karl(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、第7棟5室で生卵とゆで卵を販売した。ケルン近郊のヴェッセリング(Wesselingen)出身。(3081:松山→板東)
1853) Rollhausen(ロルハウゼン),Walter(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・陸軍少尉。1914年11月2日未明の日本軍の攻撃に際しては、第8塹壕で機関銃が運び込まれるまでのいっとき、たった一人で日本軍の攻撃に耐えた。マイン河畔のフランクフルト出身。(4575:大阪→似島)
1854) Rommelmann(ロンメルマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。松山時代の1916年10月、来迎寺収容のロンメルマン以下4名と弘願寺収容の6名の計10名は、収容所の掃除に来た女に金を与えて淫行をした咎で、重営倉7日に処せられた【『大阪朝日新聞 四国版』大正5年10月21日付け】。シュレージエンのビュッケブルク(Bückeburg)出身。(3068:松山→板東)
1855) Röper(レーパー),Albert(?-?):国民軍・卒。[ペンキ職マイスター;A・レーパー・ペンキ店経営]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。解放後は青島へ戻った。ベルリン出身。(4698:大阪→似島)
1856) Röper(レーパー),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・予備1等水兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、その他部門で、マウ(Mau)と共同で種々のリキュール、薬品の調合剤及び洗面用品を出品した。上記展覧会のカタログには、マウと共同で経営していた薬局の広告が掲載されている。西プロイセンのマリーエンヴェルダー(Marienwerder)出身。(4019:大阪→似島)
1857) Roeper(レーパー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第2中隊・予備2等歩兵。[画家]。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)(686:久留米)
1858) Rösch(レッシュ),Oskar(1889-1957):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。1914年8月上記中隊に入隊した。大戦終結して帰国後、椅子、クッションの張替え職人マイスターになった【シュミット】。ヴィッテンベルク出身。(2036:丸亀→板東)
1859) Rose(ローゼ),Otto(?-?):国民軍・卒。[書籍・文具・玩具商]。1905年、威海衛でローザ(Rosa)と結婚した。やがて青島に居住し、ハンブルク街のベルリン街側の角に住んでいた。ヴェルニゲローデ(Wernigerode)出身。(4585:大阪→似島)
1860) Rosengerger(ローゼンベルガー),Ernst Heinrich Dr.jur.(1873-1956):総督府・後備陸軍少尉。法学博士の学位取得後の1995年10月、バイエルン歩兵第17連隊に1年志願兵として入隊した。その後海軍法務官を経験した後1904年から1907年まで膠州総督府法務官を務め、1913年4月から青島の徳華高等専門学校講師となり、ハインリヒ皇子ホテルを住まいとした。1914年8月に総督府後備陸軍少尉となった。大戦終結して解放後の1920年6月30日に、上席法務官として再び海軍に入隊した。プファルツ県のツヴァイビュッケン(Zweibücken)出身。(4028:大阪→似島)
1861) Rosenberger(ローゼンベルガー),Heinz (?-1919):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備上等兵。1919年1月31日スペイン風邪により習志野で死亡。ボヘミアのルムブルク(Rumburg)出身。(1776:静岡→習志野)
1862) Rosenstein(ローゼンシュタイン),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年7月27日に上演された習志野寄席(Variete Theater Narashino)の「陽気な未亡人」で、下僕のクニュル役で出演した。オーバーラール(Oberlahr)出身。(1436:福岡→習志野)
1863) Rossow(ロッソウ),Carl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース上海支店]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において(当時29歳)、2時間52 分56 秒5分の3で81位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ブレーメン出身。(3074:松山→板東)
1864) Rossut(ロッスト),Karlo(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。イタリア人。1916年10月9日、他の12人のイタリア系等の俘虜とともに、青野原から丸亀に写された。板東時代の1917年5月13日縊死未遂事件を起こした。その後まもなくの6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。1919年6月28日のヴェルサイユ講和条約で、イタリア領に編入されたイストリアのチッタノーヴァ(Cittanova)出身【同地は第二次大戦後のユーゴースラヴィアを経て、今日はクロアチア共和国に属し、ノヴィグラード(Novigrad)となっている】。(2379:姫路→青野原→丸亀→板東)
1865) Roth(ロート),Diederich(?-1978):第3海兵大隊第4中隊・伍長。熊本時代は長国寺に収容された。熊本時代、1915年1月29日付けの『九州日日新聞』の記事「種々さまざまな珍芸当 俘虜の祝賀会」は、ロートについて次のように報じた。「…其内、赤毛布の幕が引かゝると、伍長ロートがウルリヒ、ウイロバの二人を率ゐて出場、吊環体操をやる。之は独逸では寄席でもやる相なり。最後に、ロートとウルリヒとが裸体になり、非常に発達した筋肉に更に金粉を塗って光線を按排した処、実に立派なもの」【『熊本の日独交流』81頁より】。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。1917年10月21日に開催された「100m競走」に出場し、11.8秒で4位になった。また久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の上級に出場して(出場者は6名)、60⅓点を獲得して第4位になった。なおロートは、砲丸投げで9.96メートルという飛びぬけた距離を出すなど、目覚しい活躍であったことが特筆された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ブライテンダイヒ(Breitendeich)出身。(3609:熊本→久留米)
1866) Roth(ロート),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、笑劇『第六感』等の演出を担当するとともに、26演目に出演した。マイン河畔のフランクフルト出身。(3604:熊本→久留米)
1867) Roth(ロート),Paul(1892-1938):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。ラインラントのハットゲンシュタイン(Hattgenstein)出身。(690:久留米)
1868) Rothkegel(ロートケーゲル),Curt(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備陸軍少尉。[建築家]。青島建設期から建築家として活動した。ビスマルク通り東の丘に建てられた福音派教会堂(工期:1908-1910)の設計者。北京から応召か?1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。『バラッケ』1919年6月号に、大麻神社境内の祠のスケッチが掲載されている。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。低地シュレージエンのザガン(Sagan)出身(『板東収容所俘虜故国住所録』38頁参照)。【但し、『俘虜名簿』では北京】。(3628:熊本→久留米→板東)
1869) Röttgen(レットゲン),Paul(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備曹長。[陰島駐在巡査]。妻ローザ(Rosa)は大戦終結まで青島に留まった。【1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によれば、レットゲンは極東に14年間続けて滞在して、神経衰弱を病み、健忘症を訴えているとのことである。参照:大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』217頁】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ゲーラ郡のグライツ(Greiz)出身。(1775:静岡→習志野)
1870) Ruch(ルッフ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等水兵。1915年6月久留米へ収容所換えになった。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点116⅓で上級4位になった。アイゼナッハ出身。(3606:熊本→久留米)
1871) Rudloff(ルートロフ),Franz(1891-1980):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵伍長。1915年9月15日、他の94名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野ではクリューガー(Karl Krüger)と同室で、ホッケーチームに属した。大戦終結後は、青島での就職が確定したため日本で解放された。ブレーメン出身。(1425:福岡→習志野)
1872) Rudolf(ルードルフ),Gustav(?-1974):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1919年に、バルクホールン、カイスナー、ラーン及びジーモンス(Simons)と共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』の出版に関わった。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、当初はトランペットを、後にホルンを担当した。ハンブルク出身。(3078:松山→板東)
1873) Rudolph(ルードルフ),Karl(?-?):守備隊本部・後備曹長。青島時代は旧衙門(Altes Yamen;清国時代の官衙)に住んでいた。大戦終結して解放後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ヴェーザー川支流のアラー(Aller)河畔のフェルデン(Verden)出身。(4432:「熊本→」大分→習志野)
1874) Rudolph(ルードルフ),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ青島支店]。ハノーファー近郊のリンデン(Linden)出身。(3075:松山→板東)
1875) Ruff(ルフ),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等水兵。徳島時代、収容所で発行された『徳島新報』には、ヒュープナー(Hübner)及びヘンケ(Häncke)とともに印刷技術の面で協力した。また徳島時代の1916年1月27日、ルフ作の3幕劇『戦争花嫁』が上演された。また、1月30日にはルフ指導による寄席「ミモザ」の第2回上演会が開催された【『徳島新報』第19号(1916年1月30日発行)より】。大戦終結して解放後は、蘭領印度のジャワ島東部のスラバヤに渡った。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(4270:「大阪→」徳島→板東)
1876) Ruffing(ルフィング),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会の技術部門で、自らの設計になる単葉と複葉の戦闘機を出品した。バイエルンのツヴァイブリュッケン(Zweibrücken)出身。(4022:大阪→似島)
1877) Ruge(ルーゲ),Otto(1874-?):砲兵兵站部・海軍火工中尉。1889年4月海軍に入隊し、1907年9月火工少尉、1910年4月火工中尉、1915年10月18日火工大尉に昇進した。妻フリーダ(Frieda)は大戦終結まで青島に留まった。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。フレンスブルク出身。(4030:大阪→似島)
1878) Rühe(リューエ),Ernst(?-?):海軍野戦砲兵隊・後備副曹長。[徳華高等専門学校講師]。解放後は上海へ渡り、同済大学に1927年まで講師として勤務した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席したと思われる。ランツベルク出身。(3623:熊本→久留米)
1879) Rumpel(ルムペル),Albert(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備伍長。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、64点を獲得して第5位になった。ドレスデン出身。(687:久留米)
1880) Rumpf(ルンプ),Dr.Fritz(?-?):海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。〔第3中間地掃射砲台指揮官〕。[弁護士]。松山時代、山越の講習会で民法の講座を受け持った。また、ルンプ少尉の小屋は収容所新聞『陣営の火』の編集室になった。板東時代、公会堂での工芸品展では、ミュラー(Mueller)少尉の企画によるルンプ少尉とホーン(Hohn)2等砲兵の住宅モデルが、収容所賞第3位に輝いて賞金3円を獲得した。1918年3月16日消印で、名古屋収容所のシュテーゲマン(A.Steegemann)に宛てて出した葉書が、スイス在住のシュテーゲマンの孫オスヴァルト・ハッセルマン(Oswald Hasselmann)氏の手元に遺されている。葉書の表には、「板東俘虜作品展覧会」(Deutsche Ausstellung Bando 1918)等の記念印が押されている。なお、ルンプは同年5月8日消印でもシュテーゲマン宛てに葉書を出している。大戦終結して解放後、青島で法律事務所を開業した。ハーナウ出身。(3082:松山→板東)
1881) Rumpf(ルンプ),Fritz(1888-1949):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・予備伍長。1888年(明治21年)1月5日ベルリン郊外のシャルロッテンブルクに生れた。本名はフリードリヒ・カール・ゲオルク・ルンプ(Friedrich Karl Georg Rumpf)で、父フリードリヒ・ハインリヒ・ルンプは、当時ドイツで有名な画家だった。1903年の15歳頃、ルンプ邸に集まる芸術家達からジャポニズムの影響を受ける。またこの頃、ポツダムの陸軍士官学校に留学していた山本茂中尉から日本語を教わった。1908年(明治40年)10月1日、青島で1年の兵役(野戦砲兵隊予備役下士官)を終えて、16日に憧れの日本に到着した。日本で最初に投宿した先は、東京市麹町区平河町5丁目にあったスクリバ(Scriba)邸であった。その後、1年の東京滞在のために、神田区猿楽町3丁目にあった、洋画家安田稔が経営する旅館安田屋に移り住んだ。1909年の始めに木版彫刻師伊上凡骨に弟子入りした。1909年2月13日、初めて出会った木下杢太郎から「パンの会」に誘われる。【参照:森鴎外『日記』、木下杢太郎『パンの会の回想』、北原白秋『フリッツ・ルムプのこと』、富士川英郎『西東詩話』】。「パンの会」で、北原白秋、石井伯亭、吉井勇等を知り、交友を結ぶ。この年の『スバル』第5号(石川啄木編集)の裏表紙にルンプが描いた「海辺の漂泊」が載る。同年7月15日に森鴎外邸に赴き、29日にも再訪する。10月23日、「パンの会」主催のルンプ送別会が日比谷の松本楼で開かれる。1910年9月、吉井勇の歌集『酒ほがひ』に、「この歌をFritz Rumpfに寄す」と付記して、短歌30首が掲載される。1911年、ベルリン工芸美術館付属学校に入学して、来日したこもある画家エーミール・オルリクに学ぶ。9月、弟アンドレーアスとパリで生活する。1912年1月、パリに来ていた与謝野鉄幹、石井伯亭らと会う。同じその月、ベルリンに来た石井伯亭をポツダムの自宅に招く。1913年3月中国上海に渡り、やがて再来日する。長崎、奈良、京都、日光を旅行する。この年、歌集『兵たちが町を行進する』(Wenn die Soldaten durch die Stadt marschieren---)がベルリンの出版社から出される。1914年4月15日、「東アジア自然学及民俗学のためのドイツ協会」主催の講演会で、鴎外と再会する。「…そこへFritz Rumpf君が来た。相變可哀らしい、圓い顔をしている。」等の記述が『ハアゲマン』にある。また上記歌集のことを鴎外は話題にする。大戦が始まる前に婚約者アリス・ヘラー(Alice Heller)が来日し、スクリバ邸で会うが、戦雲急を告げる情勢になりアリスは一週間で帰国する。11月24日、「明日、俘虜として日本に行く」との手紙を青島からドイツのアリスに書き送る。同年12月12日、一時的に収容された熊本俘虜収容所から大分俘虜収容所に移った。ルンプは大分、習志野時代に多くの手紙をアリスに書き送った。大分時代、「大分黄表紙」(Das Oita-Gelb-Buch)と題する収容所スケッチを書いた。そのスケッチは後に習志野時代の1919年にデルリーン(Derlien)によって印刷された。1918年2月1日、収容所替えで大分から習志野に移され、旧知のスクリバ(Scriba)及びヴェークマン(Weegmann)と一緒になった。1919年(大正8年)5月19日付けの東京朝日新聞第五面には、壁に掛かった浮世絵の前で三人がヴェークマンが拡げる画集とおぼしき本を眺める写真が掲載された【〔写真3〕を参照】。習志野ではさらに、「東京湾稲毛の漁師の娘」等数多くの情緒ある絵葉書を制作した。それらは故国に便りをだす仲間のために制作されたものであった。山本茂は習志野にルンプの面会に訪れているが、その背景には鴎外からの要請もあった。1920年2月2日、上海で乗り込んだハドソン丸でドイツに帰国し、アリス・ヘラーと結婚した。1922年9月17日、ドイツ旅行中の杢太郎とベルリンで再会する。1926年、ベルリンの「日本研究所」の所員となる。1930年、『日本の演劇』(Japanisches Theater.)を発表する。1931年、学位を取得して日本研究所助手Cのポストに就き、学生に日本文化史を講義する。1932年10月21日、ドイツ旅行中の竹久夢二と会い会食をする。1934年夏、東山魁夷がルンプの「日本演劇史」の講義を受ける。1937年4月25日、ベルリンを旅行中の高浜虚子と日本学会で会い、翌26日には日本人会の俳句会に出席する。1938年『日本の民話』(Japanische Volksmärchen,Eugen Diederichs Verlag,1938.)を刊行する。1945年、ドイツの降伏直前にポツダムの自宅が砲撃で破損する。やがて自宅はソ連軍の宿舎に充てられる。1949年5月、肺疾患により61歳でポツダムにて死去。妻アリスとの間にマリアンネとバーバラの二人の娘がいた。近松門左衛門、河竹黙阿弥、井原西鶴の作品を研究し、また収容所内で約1500余の日本の民話を読み、やがて「日本民謡集」の翻訳を行って、鴎外に序文を求めた。、『日本の民話』の著作を遺した。1989年11月9日、ベルリンの日独センター(現在の日本大使館の建物)で、「Du verstehst unsere Herzen gut」と題された、大規模なフリッツ・ルンプ展が開かれた。2005年(平成17年)3月15日から5月8日にかけて伊東市立木下杢太郎記念館において、「杢太郎と異国情緒―二人のドイツ人との交流を通して」と題する特別展が開催された。目を引く展示物としては、東大医学部皮膚科助手時代の杢太郎がドイツのルンプに宛てた手紙(1912年9月15日、東京発信)である。小阪清行氏の訳になるもので、参観者の反響を呼んだその手紙の抜粋は以下である【「パンの会ももう随分長い間開いておりません。(…)僕は当地の大学で皮膚科学教室の助手として研究を続けておりますが、二ヶ月の勤務でもうすっかり疲れ果ててしまいました。(…)僕はヴァン・ゴッホ、マチス、ピカソをもっと深く知りたいと思っています。それらの芸術家に関する良い著書があれば送ってください。僕の方からも日本の劇芸術についての優れた本をプレゼントするつもりです。(…)もし可能ならば、また以前のごとく一緒に杯を交わしたいものです。また日本に来てください。(…)」】。また、ルンプが習志野俘虜収容所時代に訳して、ドイツで出版した上記『日本の民話』や、習志野時代に製作した絵葉書等の資料が、習志野市教育委員会の星昌幸氏の協力の下に陳列され、ベルリンでの大規模な「フリッツ・ルンプ展」の資料も展示された。【ルンプの生涯については、日本文学研究家盛厚三(小谷厚三)氏の「フリッツ・ルンプ 日本美術文化研究家・波乱の生涯」(『北方人』及び「フリッツ・ルンプ物語 日本美術文化研究家・波乱の生涯(2-3)、『○板 SAN PAN』、第Ⅲ期第10号及び第11号」に負うところが多い)】。ポツダム出身。(4430:「熊本→」大分→習志野)
1882) Runge(ルンゲ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代、1918年9月16日から日本製粉会社久留米支店に労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。トレープニッツのシュロッタウ(Schlottau)出身。(3617:熊本→久留米)
1883) Runtemund(ルンテムント),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。久留米時代は演劇活動で、シュトルム作の一幕喜劇『神童フリドリン』等3演目に出演した。ルール河畔のフレンデンベルク(Fröndenberg)出身。(1427:福岡→久留米)
1884) Runtzler(ルンツラー),Johannes(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。久留米時代は演劇活動で、リンダウ作の『もう一人の男』に出演した。アイダーシュテット(Eiderstedt)郡のノルトゼーバート(Nordseebad)出身。(1431:福岡→久留米)
1885) Rüsch(リュッシュ),Hermann(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にペトクルキオ役で出演した。また1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、平泳ぎに出場し46.2秒で3位になった。メクレンブルク=シュヴェーリンのパルヒム(Parchim)出身。(2035:丸亀→板東)
1886) Rüter(リューター),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ドルトムント郡のアルテンデルネ(Altenderne)出身。(678:久留米)
1887) Saalwächter(ザールヴェヒター),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインヘッセンのオーバーインゲルハイム(Ober-Ingelheim)出身。(1534:福岡→名古屋)
1888) Sachsse(ザクセ),Fritz(1875-1954):総督府・海軍少佐。[砲艦イルチス艦長]。1915年11月16日、300円の所持金を懐にして福岡俘虜収容所から逃亡した。逃走ルートは下関まではケンペと同じであったが、以後は釜山→京城→瀋陽→北京→上海のルートを採った。世界漫遊旅行中のフランス人、リヨン大学政治学教授ルイ・ガラールを装った。上海で4人が落ち合った後、ザクセは上海のドイツ領事館から2通のパスポートを受け取る。ともにかつて青島のドイツ人学校の教師をしていたがとっくにドイツに帰国していた人物である。シュトレーラー(Straelher)と二人太平洋を渡ってアメリカに行き、更にノルウェー人を装ってヨーロッパに向かった。しかし、スコットランド沖でイギリス軍艦の臨検を受けて発覚して逮捕され、大戦終結までマン島の俘虜収容所に収容された。シュトレーラーと共同執筆した「我等が逃亡記」という記事が、『シュトゥラールズント日報』の付録娯楽版(Stralsunder Tageblatt,Unterhaltungs-Beilage,Nr.54ff,März~Juli,1938)に掲載された。ハレ近郊のホーエントゥルム出身。(1459:福岡)
1889) Sack(ザック),Bernhard(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。久留米時代の1916年1月3日に逃亡したが、翌4日に日吉町で捕まり、7日重営倉30日の処罰を受けた。ハンブルク出身。(3734:熊本→久留米)
1890) Sachs(ザックス),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ上海支店]。マーレヒン(Malehin)出身。(3106:松山→板東)
1891) Saefkow(ゼフコウ),Emil(1891-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。解放後は蘭領印度に渡って、バタビアのカール・シュリーパー(Carl Schlieper)商会に勤めた。メクレンブルク=シュトレリッツの旧シュトレリッツ(Strelitz)出身。(699:久留米)
1892) Saldern(ザルデルン),Siegfried von(1881-1917):海軍砲兵中隊長・海軍大尉。〔封鎖指揮官・繋留気球隊長〕。1914年8月6日、軍艦エムデンが露艦リャザン(Rjasan)を捕獲して青島に入港する際、砲艦ヤーグアル搭載の汽艇で出迎えて無事入港させた。10月初旬、繋留気球に数回乗り込んで、日本軍の偵察を試みたが、周囲の山に遮られて目的を果たせなかった。1915年12月15日、妻のイルマ(Irma)は子供二人を伴い上海を発って門司に上陸し、シーメンス=シュッケルト社の門司支店長宅に約半年身を寄せ、月に三回夫の面会に訪れた。1916年6月、門司から福岡市外住吉字蓑島の元愛知県知事深野一三邸を借り受けて移り住んだ。神奈川県出身のコック北条歌三郎とその妻テル、及び家庭教師アンナ・ボックが共に住んでいた。1917年2月25日の夜、強盗が侵入して夫人を刺殺した。それを知ったザルデルンは悲痛のあまりに、3月1日収容所で自殺した。この事件は当時の新聞で大々的に報じられた。イルマ夫人は時のドイツの海軍大臣カペレ(Eduard von Capelle)の娘であった。埋葬地不明。デッサウ出身。(1461:福岡)
1893) Salewsky(ザレヴスキー),Gustav(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、13演目に出演するとともに、笑劇『巨大児』や『あゝ、何て女達!』等3演目を創作して、それを含む4演目の演出を担当した。ケーニヒスベルク出身。(761:久留米)
1894) Samuel(ザムエル),Nanpon Joseph(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。[青島造船所]。東カロリン群島のポナペ島原住民で、本名はサムエル・ナンポン(Samuel Nanpon)。労働者としてポナペ島から青島の造船所に送られた。日独戦争勃発とともに砲艦ヤーグアルに乗り組んだが最終的に俘虜となった。【『ドイツ兵士の見たNARASHINO』91頁】。1919年10月25日付けの「習志野俘虜収容所ニ収容中ナル南洋人俘虜ニ関スル件照会」によれば、第2代習志野俘虜収容所長山崎友造からの要請で、他のドイツ人俘虜より早めに解放されたと思われる。2006年末にシュミット氏によって、「アジア歴史資料センター」にザムエル等ポナペ島出身者三名が解放の際に書き記した経歴書が発掘された。それによればザムエルは農場主「Josoph」の息子となっているので、「ザムエル」は名前でヨーゾフ「Josoph」が苗字とも受け取られる。東カロリン群島のポナペ島出身。(265:東京→習志野)
1895) Sandbiller(ザントビラー),Richard(1896-1926):海軍膠州砲兵隊・2等水兵。[電気工]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。シュトゥットガルト出身。(1552:福岡→習志野)
1896) Sander(ザンダー),Hermann(1884-?):第3海兵大隊第1中隊・予備副曹長。[徳華高等専門学校教師]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。妻ベルタ(Bertha)は娘(12歳以下)と二人大戦終結まで青島に留まった。解放後は上海に渡って、同済大学に勤めたが、1925年にドイツに帰国した。ハールツ地方のシュトルベルク(Stolberg)出身(4068:大阪→似島)
1897) Sanders(ザンダース),Johannes(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等野砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。オルデンブルク出身。(2732:名古屋)
1898) Sandhövel(ザントヘーフェル),Franz(?-?):海軍膠州砲兵大隊第5中隊・2等水兵。久留米時代は演劇活動で、笑劇『ベルリンっ子』に出演した。ロッテルダム出身。(1522:福岡→久留米)
1899) Sandrock(ザントロック),Johann(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カッセル出身。(3093:松山→板東)
1900) Sandru(ザンドル),Paul(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等船渠職工長。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ザンドルは楽器部門にチターを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』79頁】。ハンガリーのキスミハルド(Kismihald)出身。(2405:姫路→青野原)
1901) Sanitz(ザニッツ),Hans(?-?):国民軍・後備伍長。[薬剤師]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。ブランデンブルクのシュマゴライ(Schmagorei)出身。(4598:大阪→似島)
1902) Sanz(ザンツ),Josef(?-1916):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916年4月21日久留米で死亡、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)117頁には、ザンツの葬儀の様子や墓標を写した写真3点が掲載されている。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された。ボヘミアのニームブルク(Niemburg)出身。(3742:熊本→久留米)
1903) Sarna(ザルナ),Emil(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。姫路時代の1915年3月19日、ヘック(Hoeck)が祖国の祝祭を祝うために買ったビール三本が紛失し、同輩のメッスチル(不詳)に嫌疑をかけたことがきっかけで、ザルナ(Sarna)はヘックと喧嘩を始めた。そこにヘックに味方したスリツフェル(不詳)がナイフでザルナに切りかかった。この事件でスニツフェルとヘックは処罰された【藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」13頁】。ガリチアのクラカウ近郊出身。(2408:姫路→青野原)
1904) Sarnow(ザルノフ),Georg(1891-?):海軍膠州砲兵隊・予備海軍見習士官。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。久留米の演劇活動では、ガイベル作の喜劇『アンドレーア親方』等11演目に主として女役で出演した。キール出身。(768:久留米)
1905) Sartori(ザルトリ),Hans(?-?):海軍東アジア分遣隊・上等兵。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の農民喜劇『一等車』等3演目に出演した。エーリヒ・フィッシャー(Erich Fischer)の1918年9月26日日記によれば(『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(45頁)、ザルトリは山岳ガイドや狩猟を仕事としていた、山育ちの男とのことであったが、捕虜生活がひどく堪えていて、フィッシャーとツァイス(Zeiss)に面倒を看てもらっていた。強いホームシックにかかっていて、「故郷」の言葉を耳にしただけで、ドイツ・アルプス最高峰のツークシュピッツの話が出たとのことである【このことから、『青島から来た兵士たち』(瀬戸武彦)の斎藤茂吉をめぐるエピソードの人物は、ザルトリ本人とほぼ断定できる】。また、1919年12月21日の久留米恵美須座での幕間演芸で、ザルトリはシュタインバッハー(Steinbacher)と一緒に南ドイツの靴踊りを披露して大喝采を博した(『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(55頁)。宣誓解放された。ガルミッシュ=パルテンキルヒェン出身。(3706:熊本→久留米)
1906) Sasse(ザッセ),Wilhelm(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シャウムブルク=リッペ(Schaumburg-Lippe)のシュタインベルゲン(Steinbergen)出身。(253:東京→習志野)
1907) Sassin(ザッシン),August(?-?):国民軍・卒。[錠前工場経営]。青島時代は太沽路(Takustraße)に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。解放後は青島に戻った。シュレージエンのブラニッツ(Branitz)出身。(4699:大阪→似島)
1908) Saternus(ザテルヌス),Stanislaus(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備2等歩兵。1917年4月17日傷害罪で懲役3ヶ月に処せられ、福岡監獄に収監された。上部シュレージエンのボイテン(Beuthen)出身。(752:久留米)
1909) Sauer(ザウアー),Johann(1892-1960):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。板東時代、第7棟5室でマインゼン(Meinsen)及びフェッター(Vetter)とともに洗濯屋を営んだ。ドイツに帰国後マリア(Maria Ottilie)と結婚して息子一人をもうけた。1960年以前、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセン出身。(4294:「大阪→」徳島→板東)
1910) Sauerbrei(ザウアーブライ),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門の機械建設及び電気技術の部では、グレーゴル(H.Gregor)と共同で固定蒸気機関の模型を出品した。テューリンゲンのズール(Suhl)出身。(4060:大阪→似島)
1911) Sauerland(ザウアーラント),Walter(1890-?):国民軍・卒。[ジータス-プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。1915年9月下旬に青島収容所に収容され、1916年1月31日青島から移送されて2月4日大阪俘虜収容所に着いた。解放後は蘭領印度に渡って、ジャワのセマランに住んだ。アドリエンネ(Adrienne E. S. Mehlbaum)と結婚して子供一人をもうけた。ブラウンシュヴァイクのシュタットオルデンドルフ(Stadtoldendorf)出身。(4700:青島→大阪→似島)
1912) Saurbier(ザウルビーア),Hubert(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米の演劇活動では、笑劇『巨大児』等11演目に出演した。ザールブリュッケン出身。(747:久留米)
1913) Saxen(ザクセン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・2等歩兵。[職工長]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。シュレースヴィヒのオステンフェルト(Ostenfeld)出身。(3134:松山→板東)
1914) Saxer(ザクサー),Ludwig(1869-1957):総督府参謀長・海軍大佐。1914年11月7日、午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉におけるドイツ側の全権委員であった。青島時代はディーデリヒス小路の幕僚官舎に住んでいた。福岡時代、収容所の俘虜代表を務めた。習志野では最年長の俘虜だった。妻ケーテ(Käthe)は息子と娘の二人の子(いずれも12歳以上)と大戦終結まで上海で暮らした。ブランデンブルクのカールスブルク(Carlsburg)出身。(1457:福岡→習志野)
1915) Schaadt(シャート),August(1891-1965):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1914年8月上記中隊に入隊した。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。トリーア管区のロシュベルク(Roschberg)出身。(1519:福岡→習志野)
1916) Schad(シャート),Emil(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備2等歩兵。[ホテル経営]。大戦終結後、シュタイン(Stein)と青島で経営していた「ホテル・シュタイン・ウント・シャート」の営業を再開した。大戦中はある日本人女性に形式上譲渡してあった。バーデンのズルツフェルト(Sulzfeld)出身。(4437:「熊本→」大分→習志野)
1917) Schaefauer(シェーファウアー),Friedrich(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備伍長。[シュヴァルツコップ青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。松山時代、山越の収容所講習会で簿記等の講師を務めた。フライブルク出身。(3133:松山→板東)
1918) Schäfer(シェーファー),Adolf(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等砲手。習志野時代の1919年5月24日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではマルフケ(Marufke)、ハム(Hamm)及びエリッヒ(Oellig)の4人でクローマー作の「森の泉のほとりで」を四重唱した。【ハム(Hamm)の日記には、シェーファーの名が随所に出てくる。ハムとは気が合って親しかったと思われる】。ズィーゲン近郊のノイキルヒェン出身。(241:東京→習志野)
1919) Schaefer(シェーファー),Benedikt(?-?):第3海兵大隊第5中隊・曹長。松山時代(不退寺収容)の1916年8月19日、収容所寺院の庫裏で婦人と懇親を結んだ科で重謹慎10日に処せられた。バーデン・バーデンのザントヴァイアー(Sandweier)出身。(3088:松山→板東)
1920) Schäfer(シェーファー),Hermann(1887-1979):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[横浜・ベルクマン商会(Bergmann & Co.)]。松山時代は公会堂に収容され、マイスナー(Meißner)、ベーアヴァルト(Bärwald)、エッゲブレヒト(Eggebrecht)及びシュタインフェルト(Steinfeld)の五人で通訳業務に当たった。板東時代はマイスナー及びシュタインフェルトと同室だった。また、コルトゥム(Cortum)が率いるホッケーチームの一員だった。チームのゴールキーパーは若いブラント(Friedrich Brandt)だった。スペイン風邪の流行時には風邪に罹り、ピーツカー(Pietzcker)の手厚い看護を受けた。大戦終結後は、再度横浜での就職を希望した。それが適わなかったために、1920年1月27日に神戸で解放されて、「ハドソン丸」で一旦帰国し、ブレーマーハーフェン港に着いたのは1920年3月31日だった。港の波止場には、最初の帰国船豊福丸で既に帰国していたブラント(Brandt)が出迎えていた。その後再度日本へ戻り、1921年以来神戸のデラカンプ・ピーパー商会(Delakamp Piper & Co.)に勤務し、やがて1931年ドイツへ戻った。ドーラ(Dora Kniese;1891-1977)と結婚して子ども三人をもうけた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。娘のレナーテ・ベルガー(Renate Berger)氏の手による、シェーファーの「自伝風報告」の抜粋が、シュミット氏のホームページに掲載されている。それによると、シェーファーは横浜から先ずは天津まで、神戸、門司、奉天と鉄道を使って一週間かけて辿り着いて、ドイツの兵営で宿泊した。そして翌日、船で青島に赴いた。マールブルク出身。(3108:松山→板東)
1921) Schäfer(シェーファー),Karl(?-?):国民軍・卒。1915年9月下旬に青島俘虜収容所に収容され、1916年1月31日青島から大阪に移送された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ルーディヒスドルフ(Rudigsdorf)出身。(4701:青島→大阪→似島)
1922) Schäfer(シェーファー),Kurt(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1918年6月11日、「ロシアのシベリア進出」と題して講演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ゲルリッツ出身。(3110:松山→板東)
1923) Schäfer(シェーファー),Willy(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、1918年5月の第2回懸賞作文に「アラーフ・コロニア」を応募して、佳作になった。また同年春のテニス・トーナメントのシングルスでは、Bクラス2位になった。更に1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会に出場し、横泳ぎでは41.1秒で1位に、主競泳では1分38.1秒で2位に、抜き手では40秒で1位になった。ケルン出身。(2054:丸亀→板東)
1924) Schaffrath(シャフラート),Heinz(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・後備2等砲兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。ヘルマン・ケルステンの日記によれば、青野原時代の1918年、ドイツ兵俘虜とスラヴ系(チェコ人、ポーランド人、クロアチア人)俘虜との間で、軋轢が生じた。その際のドイツ兵俘虜の集会で、シャフラートは発言を求め、スラヴ系俘虜と接した棟にいることから、仲直りに対しての不満を述べた【『AONOGAHARA捕虜の世界』29-31頁】。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。アーヘン出身。(1582:福岡→青野原)
1925) Schall(シャル),Hans(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備兵。1919年に開催された名古屋収容所俘虜製作展覧会のカタログには、名古屋俘虜収容所で「電報通信」という、日本の新聞からの最新ニュースを翻訳して俘虜に知らせる情報誌があったことが記されている。それによると、日本の新聞記事の翻訳に当たったのは、ケーニヒ、シェーラー(Scheerer)及びシャル(Schall)の三人だった【校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅱ」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号83頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、名古屋の豊田紡績会社に就職した。ウルム出身。(2681:名古屋)
1926) Schaller(シャラー),Leonhard(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年10月、徳島工業学校での塗装労役に派遣された。1日約4時間、賃金1日30銭内外。板東時代、タパタオの5号小屋でヴェーバー(Weber)と家具の仕事を営んだ。ロイス(Reuss)のキルシュカウ(Kirschkau)出身。(4293:「大阪→」徳島→板東)
1927) Scharf(シャルフ),Karl(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等水兵。板東時代、ドイツ式ハンドボール協会「壮年」の器具係を務めた。エアフルト出身。(3095:松山→板東)
1928) Scharlemann(シャルレマン),Gerhard(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備砲兵伍長。[商社員]。上海から応召した。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)と同じ部屋に住んだ。年長者グループに属する年齢で、冬季にはリューマチに苦しんだ。妻は大戦終結まで上海で暮らした。大戦終結して解放後は、蘭領印度のスマトラ島西部のペダンに渡った。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(1491:福岡→習志野)
1929) Scharschou(シャルショウ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1917年10月17日から19日にかけて開催された「レスリング」に出場し、Ⅲクラス(軽量級)の1位になった。エルザスのミュールハウゼン(Mühlhausen)出身。(750:久留米)
1930) Schätzle(シェッツレ),Karl(1892-1939):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。生涯独身だった。オッフェンブルク県のベルクハウプテン(Berghaupten)出身。(231:東京→習志野)
1931) Schattschneider(シャットシュナイダー),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等筆生。[天津ドイツ領事館]。ポンメルンのパーゼヴァルク(Pasewalk)出身。(4301:「大阪→」徳島→板東)
1932) Schauerte(シャウエルテ),August(1888-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。ヴェストファーレンのオーバーフンデム(Oberhundem)出身。(1474:福岡→大阪→似島)
1933) Schaum(シャウム),Johann(1893-1966):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1914年8月上記中隊に入隊した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。トリーア県のトライ(Toley)出身。(3702:熊本→久留米)
1934) Schaumburg(シャウムブルク),Otto(1877-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊長・陸軍歩兵大尉。〔外方陣地左翼陣地指揮官〕。1914年9月18日の李村郊外の戦闘で壮絶な死を遂げたリーデゼル少尉の屍から、勇敢な兵卒に砲火をくぐってその武器を取り戻させて、その夜少尉を埋葬した。大阪時代の1916年、「12月28日秘密通信ヲ企テタル科」で重謹慎30日に処せられた。大阪俘虜収容所及びその次に収容された似島俘虜収容所から、アルテルト(Artelt)、モーラヴェク(Morawek)、エステラー(Esterer)の4人で脱走を企て、アルテルトとエステラーは3年、モーラヴェクとシャウムブルクは2年半の刑を受け、日独講和を受けての特赦で釈放された1920年1月15日まで、広島の吉島刑務所に服役した。コーブレンツ出身。(4069:大阪→似島)
1935) Scheck(シェック),Franz(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代の1916年2月26日、レッターマイアー(Rettermeyer)に切りつけて軽傷を負わせ、懲役3ヶ月に処せられた【『俘虜ニ関スル書類』より】。板東時代、第2棟5室で洗濯屋を営んだ。上部バイエルンのベルナウ(Bernau)出身。(2066:丸亀→板東)
1936) Scheel(シェール),Wilhelm(?-?):国民軍・階級不明。[ジータス、プラムベック商会青島支店]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。妻の名はアウグステ(Auguste)。ハンブルク出身。(4601:大阪→似島)
1937) Scheerer(シェーラー),Robert(1883-1963):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[福音派伝道師]。1919年6月22日に開催された名古屋収容所俘虜製作展覧会のカタログには、名古屋俘虜収容所で「電報通信」という、日本の新聞からの最新ニュースを翻訳して俘虜に知らせる情報誌があったことが記されている。それによると、日本の新聞記事の翻訳に当たったのは、シェーラー、ケーニヒ(König)及びシャル(Schall)の三人だった【校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅱ」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号、83頁】。プファルツのゲルスバッハ(Gersbach)出身。(2677:名古屋)
1938) Scheffel(シェッフェル),Georg(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・後備伍長。1919年6月22日に開催された「名古屋収容所俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、シェッフェルは1915年に40人編成で設立された、名古屋俘虜収容所合唱団の指導者であった。マイン河畔のフランクフルト郊外のノイ=イーゼンブルク(Neu-Isenburg)出身。(2695:名古屋)
1939) Scheibe(シャイベ),Alfred(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。久留米の演劇活動では、ビーガー(Bieger)演出になる1幕物『インディアン達』他1演目に出演した。ブレスラウ出身。(742:久留米)
1940) Scheider(シャイダー),Kurt(1888-?):総督府経理局・海軍少主計(少尉相当)。松山時代(大林寺収容)の1916年9月19日、ヴンダーリヒ(Wunderlich)から上海に居住するツィンマーマン(Otto Zimmermann)の妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し,シャイダーは重謹慎10日の処罰を受けた。他の4名はゲルビヒ(Gerbig)、イェシュケ(Jeschke)、マイアー(Otto Meyer)、ツィンマーマン(Otto Zimmermann)である。板東時代、新板東テニス協会の理事長を務めた。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(3139:松山→板東)
1941) Scheithauer(シャイトハウアー),Alois(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。上部シュレージエンのブラチェ(Bratsch)出身。(3694:熊本→久留米)
1942) Scheithauer(シャイトハウアー),Josef(?-?):所属部隊不明・予備伍長。[錠前マイスター]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。妻ヘレーネ(Helene)は娘(12歳以下)と二人大戦終結まで青島に留まった。上部シュレージエンのブラッチュ出身。(4607:大阪→似島)
1943) Schellhase(シェルハーゼ),Fritz(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。『熊本俘虜収容所記事』中の附表第21「負傷證明書附與者一覧表」には、シェルハーゼについて「右鎖骨中央下部ヨリ右肩甲骨翼中央部通スル骨傷銃創」と記述されている。ベルリン出身。(3647:熊本→久留米)
1944) Schellhoss(シェルホス),Hans(?-?):築城部・陸軍大尉。1914年8月7日の夕方、プリンツ・ハインリヒ・ホテルで妻フランツィスカ(Franziska)と食事を取っていた際、ギムボルン(Gimborn)と出会った。シェルホス大尉は、妻とともに青島で休暇を過ごしていたのであった。習志野時代の1918年6月9日、シェルホス大尉が3人の子供連れ夫婦の訪問を受け、その光景には胸に迫るものがあった、とハインリヒ・ハムの日記に記されている。妻フランツィスカは大戦終結まで息子と上海で暮らした。ブラウンシュヴァイク出身。(1584:福岡→習志野)
1945) Schenk(シェンク),Jean(1893-1960):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後の1922年12月23日、フリデリーカ(Friederika Dudenhofen)と結婚して子供二人をもうけた。コーブレンツ郡のファレンダール(Vallendar)出身。 (2709:名古屋)
1946) Schenk(シェンク),Walter(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備副曹長。1919年6月22日に開催された「名古屋収容所俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、クルト・ウンガー(Kurut Unger)及びオットー・ヘル(Otto Herr)とともに収容所図書室の管理係りを務めた。ベルリン出身。(2686:名古屋)
1947) Scherer(シェーラー),Ernst(1876-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備上等掌砲副兵曹。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。大連の南満州鉄道会社に勤務、1920年1月21日に退役し、同年2月21日付けで予備少尉になった。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(4065:大阪→似島)
1948) Schiefer(シーファー),Peter(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、公会堂の工芸品展に編み物のテーブルセンターを出品した。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)、2時間21分59秒5分の3で85人中の6位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。アーヘン近郊のエシュヴァイラー(Eschweiler)出身。(3126:松山→板東)
1949) Schiegat(シーガット),Otto(1889-1945):海軍膠州砲兵隊第3中隊・砲兵伍長。東プロイセンのダルケーメン(Darkehmen)出身。(4276:「大阪→」徳島→板東)
1950) Schierwagen(シーアヴァーゲン),Max:海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲工技手。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。ハインリヒスヴァルデ(Heinrichswalde)出身。(3728:熊本→久留米)
1951) Schiess(シース),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会では、油絵、水彩画、ペン画等26点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』67-68頁】。コンスタンツ出身。(1536:福岡→青野原)
1952) Schieweck(シーヴェック),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会技術部門の機械製作・電気技術で、ハルツハイム(Hartzheim)及びフリングス(Frings)と共同でガスモーターを出品した。エッセン出身。(4045:大阪→似島)
1953) Schiffler(シフラー),Wilhelm(1892-1956):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。ザールブリュッケン郊外のエアクルシェーエ(Erkurschöhe)出身。(751:久留米)
1954) Schild(シルト),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年1月27日、ホルトカンプ(Holtkamp)及びクルツケ(Kurzke)の三人で演じた『壊れた鏡』が喝采を博した【『徳島新報』第19号(1916年1月30日発行)より】。低地バイエルンのオスターホーフェン(Osterhofen)出身。(4284:「大阪→」徳島→板東)
1955) Schilk(シルク),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ天津支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、東京の磯部商会に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのナムスラウ(Namslau)出身。(2091:丸亀→板東)
1956) Schilling(シリング),Adolf(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、第5棟3室でビールとタバコの販売をした。ブラウンシュヴァイク出身。(2090:丸亀→板東)
1957) Schilling(シリング),Karl(?-1915):海軍膠州砲兵隊・1等水兵。1915年4月15日、胃がんのために熊本衛戍病院で死亡し、河原火葬場にて荼毘に付された。翌16日に熊本市手取本町の天主公教教会堂で、収容所長、師団副官、病院長、各収容所先からのドイツ兵代表10人が参列して、荘重・盛大に葬儀が執り行われ、その後黒髪村小峰官軍墓地に埋葬された。1915年4月17日付けの『九州日日新聞』は、「俘虜水兵シルリングの葬儀―小峰墓地に埋葬す」との次の記事を掲載した。「熊本市細工町俘虜収容所の一等水兵カールシルリングの葬儀は十六日午前九時三十分熊本市手取本町天主公教会教会堂にておこなわれたり収容所にては十五日午後三時上河原火葬場にて屍体を荼毘に付し遺骨は十六日早朝同教会堂に送られ松木収容所長渡邊大尉以下所員一同、師団よりは牧副官、衛戍病院よりは肥田病院長会葬し俘虜将校全部及細工町収容所よりは各寺院より十名宛の代表会葬し深堀宣教師聖堂に棺を迎へ入堂の式あり、聖人来り彼を助け天使は出でて彼を迎へ云々の□□にて棺は聖堂に安置され六本の燭は悲しき光を放ちて収容所職員、俘虜将校等の献じたる十個の花輪を照し煙の如く春雨降り続く屋外まで立つ九セル会葬者粛として控える内に深堀氏の祈祷あり細工町俘虜は「未来の安住」なる哀悼歌唱へ赦祷式に移りオルガンに合唱する悲哀の曲、堂内に起これば燭光瞬いて死者生前の罪科は赦され 司祭者は更に祷文を黙祷しつつ聖水を瀧きて死体を清め香を薫じてキリストとの芳しき香を湛え死者の罪科は悉く清められて式を終り午前十時より棺は会葬者に囲まれて市外黒髪村小峰官軍墓地へと送られ埋棺の式あり聖水、浄土は松木所長以下によりて投ぜられ花輪に掩はれし土饅頭に木の香高き十字架の墓標建てられたるが会葬者中青島(チンタオ)以来の朋友パウレルは俘虜将校より贈れる花輪を両手に確かと握りて放しも得せず朋友永遠の別れに涙を流して立去りかねたるは憐れを極めり」。今日カール・シリングの墓碑は、熊本市立田山自然公園にある市営墓地にあるが、長らくその存在は不明であった。墓石の発見に至った背景には、近藤文子氏(徳島市)による調査・研究があった。なお、何時、誰によって石碑が建立されたのかは不明であるとのことである【以上、シリングに関する記述は、窪田隆穂「熊本に眠るドイツ人たち」(熊本日独協会会報No.14、2002年11月)より】。墓石には、「Hier ruht Karl Schilling Obermatrose gest.15.4.1915」と刻まれている。なお『俘虜名簿』の「日本軍埋葬戦病死者」の「遺族住所」欄には、妻の連絡先として中国漢口の「ドイツ・クラブ」が記されている。出身地不明(『俘虜名簿』では漢口)(3733:熊本)
1958) Schillo(シロ),Peter(1894-1984):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したシロは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られ、2位で本戦のA級に進出した。同年7月に行われたサッカーの試合では脚を骨折した。1984年8月3日、ラインラントのヴァーデルン(Wadern)で死去。ヴァーデルン出身。(4306:「大阪→」徳島→板東)
1959) Schimmel(シンメル),Peter(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・第2後備1等砲兵。応召前は、東アジアを航海していた蒸汽船「聖テオドーレ号」に乗り組んでいた。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したシンメルは4組(出場者総数21名)の内の第3組に割り振られたが、4位で本戦のB級進出に留まった。板東時代、1917年7月17日に発足した「収容所保険組合」に砲兵大隊代表となって運営に従事した。ヴォルムス出身。(4307:「大阪→」徳島→板東)
1960) Schimming(シミング),Fritz(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。[天津ドイツ郵便局]。板東時代、クリングスト(Klingst)とタパタオの6号小屋で鋳型製作所を営んだ。また「エンゲル・オーケストラ」の団員で、チェロを担当した。レバ(Leba)郡のレチン(Letschin)出身。(3087:松山→板東)
1961) Schindler(シントラー),Otto(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。[パン職人]。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセンのオシャッツ近郊ヴェルムスドルフ(Wermsdorf)出身。(1577:福岡→久留米)
1962) Schindler(シントラー),Rudolf(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。ウィーン出身。(4702:大阪→似島)
1963) Schlachtbauer(シュラッハトバウアー),Karl(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備上等兵。[馬具職;カール・シュラッハトバウアー馬具店経営]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。バイエルンのメニングスロート(Möningsroth)出身。(2707:名古屋)
1964) Schleisner(シュライスナー),Fritz(1876-?):兵器庫・海軍火工少尉。1894年10月海軍に入隊し、1912年7月火工少尉に昇進した。1915年6月30日海軍火工大尉に昇進。1920年3月退役した。1920年4月12日付けで海軍火工大尉になった【シュミット】。ノイブリュック(Neubrück)出身。(2390:姫路→青野原)
1965) Schlemper(シュレムパー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、ゾーリンゲンのヘルダー商会(R. A. Herder)横浜支店に勤務した。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(2679:名古屋)
1966) Schlichtiger(シュリヒティガー),Hermann(?-1965):総督府・上等機関兵曹。[ジーメンス=シュッケルト技師]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通に住んでいた。板東時代は劇場委員会に所属した。ベルリン出身。(3137:松山→板東)
1967) Schlick(シュリック),Friedrich F.von(1881-?):第3海兵大隊機関銃隊・陸軍中尉。戦闘の初期にはメルク(Merck)予備少尉とともに、外方の前線陣地を守った。11月7日戦闘終了後、ビスマルク兵営の占領・処理のために訪れた歩兵第56連隊第3大隊長中島少佐とマイアー=ヴァルデック総督の身上について語り合った。ローマン(Lohmann)あるいはシュテーゲマン(Stegemann)の遺品と思われる写真中に、オットー・ライマース(Otto Reimers)テニスコートのネットを挟んで、にこやかに握手している写真が現存している【ローマン及びシュテーゲマンの項、及び〔写真8〕参照】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。なお、ドイツに帰国後、「日本軍の状況について」(Etwas über Verhältnisse der japanischen Armee)の報告書を提出した。今日その報告書はフライブルクの連邦公文書館に保存されているが、その内容が校條善夫氏によって紹介されている【「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅲ」、所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号62頁及び66頁】。ヴァンツベック出身。(2675:名古屋)
1968) Schliecker(シュリーカー),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・陸軍中尉。〔第2歩兵堡塁指揮官〕。シュルツ(Schulz)大尉に代わって前記の指揮官になった。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。シュリーカー中尉は、前列向かって石井所長の右となりである【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1〕を参照】。1916年10月4日、ランセル大尉、ラミーン中尉、フェッター中尉、シェーンベルク少尉、アダムチェフスキー少尉、キュールボルン少尉とともに丸亀から大分に移送された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では漢口)。(2050:丸亀→大分→習志野)
1969) Schlierbach(シュリーアバッハ),Rudolf(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[パン職人]。ビーバー(Bieber)河畔のロートハイネ(Rodheine)出身。(1537:福岡→久留米)
1970) Schlieter(シュリーター),Robert(1883-?):第3海兵大隊第1中隊・曹長。1914年11月15日、久留米俘虜収容所に収容された。その折、既に収容されていた俘虜たちが蓄音機で「旧友」をかけていた。中隊を指揮して行進させるその顔は髭面だったが、クルーゲ(Kluge)にはすぐに分かった【クルーゲ(Kluge)の項参照】。西プロイセンのヴァイクセルブルク(Weichselburg)出身。(698:久留米)
1971) Schlitter(シュリッター),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備上等歩兵。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。下記フリードリヒの兄。弟の名古屋収容所への収容所替えを申請したが許可されなかった。大戦終結後の1919年12月28日、帰国船ヒマラヤ丸で下記弟フリードリヒ(Friedirch)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。フォークトラントのエルスニッツ近郊ウンターヘルムスグリューン(Unterhermsgrün)出身。(2683:名古屋)
1972) Schlitter(シュリッター),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[指物師]。上記ベルンハルトの弟。名古屋への収容所替えを申請したが許可されなかった。大戦終結後の1919年12月28日、帰国船ヒマラヤ丸で上記兄ベルンハルト(Bernhard)と同船でドイツに帰国した【「親子兄弟同船者人名及配船表」より】。ウンターヘルムスグリューン出身。(1517:福岡→久留米)
1973) Schlögel(シュレーゲル),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[中国輸出入銀行上海支店]。1914年11月1日午後遅く、日本軍の攻撃が一時止むと、上海時代からの知り合いであるメラー(Meller)とともに衛戍病院の裏手の丘に登り、オーストリアの軍艦カイゼリン・エリーザベトが自沈するのを目撃した【メラー『青島守備軍の運命』25頁】。板東時代、新板東テニス協会の会計係を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フライブルク出身。(3100:松山→板東)
1974) Schloemerkaemper(シュレーマーケンペル),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、コントラバスを担当した。デトモルト(Detmold)出身。(2055:丸亀→板東)
1975) Schlosser(シュロッサー),Karl(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で人形芝居用の人形5体を出品した。ツヴィッカウ出身。(4589:大阪→似島)
1976) Schlotfeldt(シュロートフェルト),Hans(1893-1918):総督府・1等筆生。1918年7月29日、青野原俘虜収用所内の第19号井戸に身を投げて死亡。キール近郊のザックスドルフ(Sachsdorf)出身。(2389:姫路→青野原)
1977) Schlotterbeck(シュロッターベック),Wilhelm(1892-1965):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1919年12月18日、習志野のマイレンダー(Mailänder)に宛てて葉書を出した。それは川べりに大きな柳の木があり、そのたもとに小船二艘、ぼんやり月が浮かんでいる風情のある絵葉書である。【マイレンダーの項参照】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。1965年1月1日、ザールブリュッケンで死去。ザールブリュッケン出身。(1557:福岡→青野原)
1978) Schlund(シュルント),Alfred(?-1918):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等機関兵曹。1918年3月13日久留米で死亡、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)118頁には、シュルントの葬儀の様子を写した写真が掲載されている。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された。ツヴィッカウ郡のシュタインプライス(Steinpleis)出身。(1489:福岡→久留米)
1979) Schlüter(シュリーター),Hubert(?-?):国民軍・上等兵。[山東鉄道運行検査官]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのリューテン(Rüthen)出身。(4446:「熊本→」大分→習志野)
1980) Schmalenbach(シュマーレンバッハ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等水兵。[河用砲艦チンタオ乗員]。板東時代の1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、産婆のマルテ・ルル役を、得意の声色のレパートリー全てを駆使して演じた。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(4302:「大阪→」徳島→板東)
1981) Schmalz(シュマルツ),Siegfried(1882-1943):第3海兵大隊参謀本部・陸軍中尉。〔参謀本部幕僚・伝令処罰将校、後に自動車廠指揮官〕。ドイツに帰国後の10.03.1920年3月10日、陸軍に移り、最後は少佐になった。ハンブルク空襲で死亡した。ザクセンのオシャッツ(Oschatz)出身。(2674:名古屋)
1982) Schmid(シュミート),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、公会堂の絵画と工芸品展覧会に、芸術家らしい味わいを示した油絵「徳島収容所のホールの隅」を、また色鉛筆・チョークの部門に「裸体画」を出品した。シュトゥットガルト近郊のウンタートュルクハイム(Untertürkheim)出身。(4283:「大阪→」徳島→板東)
1983) Schmidt(シュミット),Ambrosius(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門でヴトカ(Wuttka)と共同で、鳥籠1点を出品した。マールブルク近郊のシュロック(Schrock)出身。(1475:福岡→大阪→似島)
1984) Schmidt(シュミット),Daniel(1891-?):海軍野戦砲兵隊・上等兵。「14歳にしてグーデンベルヒの小学校を卒業し17歳迄食肉加工職を学び同時にカッセルの補修学校に通学す、農家に生長し通学期を通じて農業の実際を学びたり、特に17歳より19歳迄農作牧畜を修得し1912年10月2日入隊して乗馬隊に入り養馬を実地及び学理的に修得す、牛畜、肉製品、腸詰、缶詰を特技とす」【「北海道移住」より】。グーデンスベルク(Gudensberg)出身。(2701:名古屋)
1985) Schmidt(シュミット),Daniel(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等砲兵。[山東鉄道駅長]。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー近郊のシュターデ(Stade)出身。(4443:「熊本→」大分→習志野)
1986) Schmidt(シュミット),Felix(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備砲兵伍長。[ジーメンス東京支店]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、クリューガー(Karl Krüger)と同室だった。またユーバシャール(Ueberschaar)博士の下で日本語を学び、スポーツとしてはホッケーをした。テューリンゲンのシュタイナッハ(Steinach)出身。(1492:福岡→習志野)
1987) Schmidt(シュミット),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備上等歩兵。熊本時代の1915年1月13日、散歩中に落とした「青島紙幣10円」を郵便局員の息子が拾い、その父親が届け出て無事に手元に届いた。シュミットはその息子に1円謝礼として渡した。ダブリングハウゼン(Dabringhausen)出身。(3703:熊本→久留米)
1988) Schmidt(シュミット),Fritz(1894-1976):総督府・1等筆生。福岡時代の1917年3月28日、青野原のヘルケ(Herke)に絵葉書(箱崎八幡宮)を出した【シュミット】。1918 年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザーレ河畔のゴルビッツ(Golbitz)出身。(1586:福岡→習志野)
1989) Schmidt(シュミット),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[庭師]。北京から応召した。妻の名はTsune(ツネ?:日本女性と思われる)。丸亀時代の1915年2月9日、東京市芝区松本町の会社員の妻辻川英が知人として面会に訪れ、ドイツ語でシュミットの妻や友人のことなどについて30分ほど談話して、みかん、鶏卵、菓子を差し入れた。また、同年3月21日には、観音寺女学校職員織田シカが菓子二箱を差し入れに来た。織田シカなる人は北京に居るシュミットの妻の知人で、その住所を尋ねに来たのであった【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。また1916年2月11日には、愛媛県の織田仁太郎が尋ねてきて日本語で会話した。二人は8年から9年にかけて北京で花卉商として従事した当時の思い出、数年前に別れてからの双方の身の上や家族に関して話しあった【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。農学を修めたことから板東時代、郡農会・板野郡立農蚕学校等に招かれ講演した。シュミットによる試作地での蔬菜の品目は10種に及ぶ。赤なす(トマト)、火焔菜(赤ビート)、甘藍(キャベツ)、玉葱はそれまでこの地方にはなかった。【『日本人とドイツ人』89頁】。ゴータ出身。(2086:丸亀→板東)
1990) Schmidt(シュミット),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。熊本時代(長国寺に収容)の1915年3月30日、6日から急性喉頭炎の疑いで入院していたところ、腸チフスと診断され、4月8日に退院した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト出身。(3665:熊本→久留米)
1991) Schmidt(シュミット),Jakob Ludwig(1892-1938):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。ドイツに帰国後の1923年10月27日、カロリーネ(Karolina Fessler)と結婚した。子供はいなかった。カールスルーエ県のゴンデルスハイム(Gondelsheim)出身。(3726:熊本→久留米)
1992) Schmidt(シュミット),Karl(1893-1952):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1917年5月24日、情報局から各収容所への製針業に従事していて、労役希望者の照会に対して、久留米ではシュミット他3名を届けた。ライン河畔のエトワレ(Etoille)出身。(748:久留米)
1993) Schmidt(シュミット),Karl Friedrich(1898-1916):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1916年5月31日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。グラウデンツ(Graudenz)郡のピーントケン(Pientken)出身。(2713:名古屋)
1994) Schmidt(シュミット),Otto(1891-1971):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1891年12月28日、錠前工の子としてマルシュタット=ブルバハ(今日はザールブリュッケン)に生れた。1914年8月上記中隊に入隊した。第二次大戦後「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。ザールブリュッケン出身。(4587:大阪→似島)
1995) Schmidt(シュミット),Richard(?-?):第3海兵大隊第3中隊・予備伍長。久留米の演劇活動では、トーマ作の喜劇『放蕩娘』に出演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)(746:久留米)
1996) Schmidt(シュミット),Rudolph(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。1918年1月24日、ニューヨーク市ゴールド街C.O.フレックスなる人物から情報局へ、シュミット宛て金50円交付方の出願があったので転送し、その旨出願人へ通牒された。カッセル出身。(708:久留米)
1997) Schmidt(シュミット),Sylvester(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等兵。板東時代、無料水泳教室の教官を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。アンハルトのベルンブルク(Bernburg)出身。(3124:松山→板東)
1998) Schmidt(シュミット),Wilhelm(1894-1972):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。ドイツに帰国後の1921年7月8日、マリア(Maria Bungarts)と結婚して子供を四人もうけた。1922年以来帝国鉄道に勤務、第二次大戦に志願兵として応召した。「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのノイス(Neuß)出身。(764:久留米→板東)
1999) Schmidt(シュミット),Willy(1891-1916):第3海兵大隊工兵中隊・伍長。1915年(月日不明)、「病気ノ為メ衛戍病院ニ入院中ニモ拘ラス収容所ヘ面会ニ来リシ途中飲酒シタル科」で重営倉1日に処せられた。1916年6月18日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ライプチヒのリンデナウ(Lindenau)出身。(2691:名古屋)
2000) Schmiedel(シュミーデル),August(1893-1919):海軍野戦砲兵隊・野砲兵兵曹。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1919年3月6日板東(徳島)で死亡。シェーンフェルト(Schönfeld)出身。(3686:熊本→久留米→板東)
2001) Schmieder(シュミーダー),Hugo(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[マックス・ネスラー書店。マイセン出身。(3113:松山→板東)
2002) Schmitt(シュミット),Georg(1892-1966):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインヘッセンのアルツァイ(Alzey)出身。(4278:「大阪→」徳島→板東)
2003) Schmolke(シュモルケ),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1916年9月26日横浜米国領事館より情報局へ、シカゴ市「ピーター・ファルネー」父子商会の依頼でシュモルケ宛てに薬品入小包2個交付方の照会があり、検閲の上用法を付して転送し、その旨領事館に回答された。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その右から五人目にシュモルケが写っている。東プロイセンのインスターブルク(Insterburg)出身。(729:久留米)
2004) Schnack(シュナック),Otto(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代の1918年9月頃、187名が他の収容所に移って16号棟が空き、シュナックはエーリヒ・フィッシャー(Erich Fischer)及びツァイス(Zeiss)とともに町でピアノを借りて練習した【『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』37頁】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。キール出身。(3654:熊本→久留米)
2005) Schneeweiss(シュネーヴァイス),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1917年10月19日に開催された「1917年スポーツ週間」の「三段跳び」(踏み切り台有)では12.26mで3位に、10月22日の「100mハードル」では13.6秒で4位になるなど、久留米のスポーツ大会で活躍した。ドレスデン郡のミューゲルン(Mügeln)出身。(1495:福岡→久留米)
2006) Schneider(シュナイダー),Eugen(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[元軍楽隊鼓手]。多度津から丸亀まで二列になって行進したとき、メラー(Meller)と並んで歩いた。その折シュナイダーは、見物に集まった群衆から感嘆の声を上げられた。軍楽隊員を示す金色の半月形の肩章が、将軍を思わせたからであった【メラー『青島守備軍の運命』36頁】。ヴュルテンベルクのシュラムベルク(Schramberg)出身。(2081:丸亀→板東)
2007) Schneider(シュナイダー),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等掌砲兵曹。[青島警察署]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。上部シュレージエンのノイシュタット(Neustadt)出身。(3725:熊本→久留米→板東)
2008) Schnell(シュネル),Rudolf(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・海軍少主計(少尉相当)候補。習志野時代、習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』に教師役で出演した。ポンメルンのコルベルク(Kolberg)出身。(1555:福岡→習志野)
2009) Schnirpel(シュニルペル),Paul(?-?):第3海兵大隊第1中隊・伍長。1918年8月7日久留米から板東に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ケーテン出身。(701:久留米)
2010) Schober(ショーバー),Max(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。妻イーダ(Ida)は大戦終結まで、娘(12歳以下)と青島に留まった。低地シュレージエンのラウバン郡オーバーシュライバースドルフ(Oberschreibersdorf)出身。(3669:熊本→久留米)
2011) Schober(ショーバー),Reinhold(?-?):海軍第2工機団・技術秘書官。青島時代はドイツ街に住んでいた。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュテッティン出身。(4653:大阪→似島)
2012) Scholl(ショル),Lorenz(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[腸詰製造職人]。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。バイエルンのグラーフェンラインフェルト(Grafenreinfeld)出身。(1561:福岡→青野原)
2013) Scholl(ショル),Maximilian(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等焚火兵。プリューショウ中尉付き下士卒で、8月3日飛行機の翼の再組み立てに従事した。ミュンヘン出身。(4032:大阪→似島)
2014) Schöllkopf(シェルコプ),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[床屋マイスター]。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月に開催された広島県物産陳列館の似島独逸俘虜技術工芸品展覧会カタログによれば、シェルコプはガルケン(Garken)と共同で理髪店を営業していた。キール出身。(1478:福岡→大阪→似島)
2015) Scholz(ショルツ),Arthur L.(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1917年1月28日、アンドレーアをペーテルス(Peters)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ベルリン出身。(3718:熊本→久留米)
2016) Scholz(ショルツ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、第3棟3室で家具屋を営んだ。シュレージエンのペツェルスドルフ(Petzelsdorf)出身。(2068:丸亀→板東)
2017) Scholz(ショルツ),Rudolf Georg(?-?):国民軍・卒。[建築技師]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された、似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のために発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の26頁には、ショルツの石版印刷のスケッチが掲載された。ケルン出身。(4703:大阪→似島)
2018) Schon(ショーン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[上海花卉(Shanghai-Flora)]。ヴィーティング(Wieting)の回想録によれば、ショーンは花卉の分野では名を知られた、心優しい人物だった。ベルリンではヴィルヘルム皇帝やその他お偉方の食卓を花で飾る際、ショーンが勤めていた会社に注文があると、盛り付けを担当するのはショーンであった【「ルートヴィヒ・ヴィーティングの回想」から;所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号26頁】。ダンチヒ出身。(2075:丸亀→板東)
2019) Schönberg(シェーンベルク),Rudolf v.(1884-1936):第3海兵大隊第2中隊・陸軍少尉。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。シェーンベルク少尉は、中列向かって右端である【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1〕を参照】。1916年10月4日、ランセル(Lancelle)大尉、ラミーン(Ramin)中尉、シュリーカー(Schliecker)中尉、フェッター(Vetter)中尉、アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。ザクセンのプルシェンシュタイン(Purschenstein)出身。(2051:丸亀→大分→習志野)
2020) Schönberger(シェーンベルガー),Jakob(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にヴィンセンチオ1の役で出演した。ラインプファルツのヴァイセンハイム(Weissenheim)出身。(2061:丸亀→板東)
2021) Schönborn(シェーンボルン),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点113点⅔で初級の3位になった。ヘッセンのニーデルンハウゼン(Niedernhausen)出身。(3699:熊本→久留米)
2022) Schöning(シェーニング),Hugo(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1919年10月21日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅高跳び Bクラス」(参加者5名)で、高さ1.30m、幅2.40m クリアで5位だった。ヴェストファーレンのバーロプ(Barop)出身。(1560:福岡→久留米)
2023) Schortz(ショルツ),Franz(?-?):ヤップ島住民部隊指揮官・予備2等兵曹。1914年10月7日、西カロリン群島のヤップ島で俘虜となったが11月1日宣誓解放された。ハンブルク近郊のザムデ(Samde)出身。(4673:なし)
2024) Schöttel(シェッテル),Carl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。大分時代の1916年、「11月8日夜飲酒シテ消灯後直チニ就寝セサルノミナラス喧騒シテ他人ノ安眠ヲ妨害シタル科」で重営倉7日の処罰を受けた。シュトラースブルクのノイホーフ(Neuhof)出身。(4433:「熊本→」大分→習志野)
2025) Schöttler(シェットラー),Leopold(?-?):海軍砲兵中隊・後備1等水兵。妻(名は不詳であるが、日本人と推測される)は大戦終結まで、セウ、タケシの二人の子(ともに12歳以下)と上海で暮らした。ハノーファーのブルッフハウゼン(Bruchhauen)出身。(3714:熊本→久留米)
2026) Schrader(シュラーダー),Ernst Klaus Heinrich(1887-?):第3海兵大隊工兵中隊・上等工兵。[四川鉄道漢口支店]。板東時代の1918年9月、「板東健康保険組合」の工兵中隊代表理事に選ばれた。公会堂での絵画と工芸品展覧会には、入念な細密画の作品『橋』及び『管理棟』を、水彩画では三等賞を受賞した「カルヴェンデル鉄道」を、さらには編んだ敷物を出品した。シュラーダーは富田久三郎経営の冨田製薬による「ドイツ牧舎」建設に当って設計を担当したと考えられる。なお、『富田製薬百年のあゆみ』(90頁)には、富田久三郎、松本清一、船本宇太郎達ともに、女児を抱いているクラウスニツァー、その左で女児を見やるシュラーダー等の集合写真が掲載されている【〔写真19〕参照】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放されたが、やがて蘭領印度のジャワ島西部のバンドンに渡った。ノイミュンスター出身。(3122:松山→板東)
2027) Schrader(シュラーダー),Walter(?-?):国民軍・卒。[ディーデリヒセン青島支店]。青島時代は皇帝街(Kaiserstraße)に住んでいた。プロイセンのカルテンキルヒェン(Kaltenkirchen)出身。(2395:姫路→青野原)
2028) Schrage(シュラーゲ),Carl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。久留米時代は演劇活動で、笑劇『ベルリンっ子』に出演した。ライプチヒ出身。(1509:福岡→久留米)
2029) Schramm(シュラム),Richard(1898-1969):海軍第2工機団測量船第3号・2等機関兵曹。1914年10月19日、東カロリン群島のトラック島で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られた。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年5月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、63⅓点を獲得して第7位になった。2006年11月3日、孫娘のエルケ・セペス(Elke Szepes)氏はベースコウ(Beeskow)において、祖父が遺した二冊の日記を基に、久留米収容所での生活等について、多くの写真スライドを用いて講演した。ザクセンのラースベルク(Rasberg)出身。(765:久留米)
2030) Schrey(シュライ), Johann(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている。シュライの名が記されていることから、メンバーの一員だったと思われる【〔写真10〕参照】。ラインラントのライト(Rhydt)出身。(4035:大阪→似島)
2031) Schröder(シュレーダー),Arend(?-?):国民軍・階級不明。青島時代は大港地区に住んでいた。ブレーメン出身。(4602:大阪→似島)
2032) Schröder(シュレーダー),Hugo August Robert(1882-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等兵曹。[商船高級船員]。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、シュレーダーは自分を常にフルネームで名乗った。よく笑うので、クリューガー(Karl Krüger)等の仲間から「笑い鳩」のあだ名がつけられていた。クリューガーとは同じ12月18日生まれだが、ちょうど10歳年長だった【『ポツダムから青島へ』208頁】。ヴェストファーレンのハム(Hamm)出身。(1490:福岡→習志野)
2033) Schröder(シュレーダー),Johann(?-?):砲艦イルチス乗員・2等水兵。福岡時代の1916年(月日不明)、「俘虜ノ逃走ヲ幇助シタル科」で懲役2ヶ月に処せられた。ブレーメン出身。(1587:福岡→習志野)
2034) Schröder(シュレーダー),Reinhold(?-?):第3海兵大隊第2中隊・副曹長。妻カタリーナ(Katharina)は子供二人(いずれも12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。ポンメルンのコルベルク(Kolberg)出身。(2052:丸亀→板東)
2035) Schroer(シュレーアー),August(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代、工芸品展に収容所の全景を描いた象眼細工のアルバム帳を出品して特別賞を受賞し、更には収容所賞第1位に輝いて賞金10円を獲得した。また子供用のヴァイオリンも制作・出品した。ヴェストファーレンのゼッペンラーデ(Seppenrade)出身。(3125:松山→板東)
2036) Schroeter(シュレーター),Ernst(1882-?):機雷保管庫・海軍水雷少尉。青島時代はハンブルク街(日本の占領統治時代は深山町)に住んでいた。1914年11月20日姫路に到着早々の光景で、『姫路又新日報』は特に目を引いた事柄として、シュレーター少尉が引き連れた国民兵20人余一行のことを報道した。50歳に達しようかとおぼしき古老兵もいたとのことであった【藤原「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」7頁】。マグデブルク出身。(2393:姫路→青野原)
2037) Schrott(シュロット),Emil(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・4等操舵下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、シュロットは模型部門で蒸気機関、写真関係部門に三脚付き写真機を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』78及び82頁】。第二次大戦後、ライポルト(Leipold)とともに「チンタオ戦友会」の幹事を務めた【『チンタオ俘虜郵便案内』1頁】。モラヴィアのレーマーシュタット近郊ニーダー=モーラウ(Nieder-Morau)出身。(2404:姫路→青野原)
2038) Schrötter(シュレッター),Konrad(?-?):海軍野戦砲兵隊・後備上等兵。[朝鮮京城・聖ベネディクト修道院]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1918年9月、「板東健康保険組合」の野砲兵隊代表理事に選ばれた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。バイエルンのエンスフェルト(Ensfeld)出身。(3684:熊本→久留米→板東)
2039) Schubert(シューベルト),Karl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点116⅔で中級5位になった。フライブルク近郊のブラント(Brand)出身。(722:久留米)
2040) Schubert(シューベルト),Paul(?-?):所属部隊不明・補充予備兵。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4608:大阪→似島)
2041) Schubert(シューベルト),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[クンスト・ウント・アルバース商会ブラゴヴェシチェンスク支店]。板東時代、収容所内のタパタオでカーレ(Kahle)と共同でレストラン「クリスタル・パラスト」(水晶宮)を経営した。オーバープラニッツ(Oberplanitz)出身。(3120:松山→板東)
2042) Schubert(シューベルト),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。静岡時代の1915年1月10日、脱柵して逃亡した科で重営倉5日の処罰を受けた。また4月15日には収容所を脱走し、昼間は山野に潜み、夜間東海道線の線路沿を歩いて横浜を目指した。富士川駅に近いところで取り押さえられ、重営倉30日の処罰を受けた。習志野時代は収容所運動会で「棒高跳び」に出場した。キューンドルフ(Kühndorf)出身。(1782:静岡→習志野)
2043) Schulte(シュルテ),Friedrich L.(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門では、ボルマッハー(Bormacher)と共同で昆虫標本3箱(蛾、甲虫、蝶)を出品した。ヴェストファーレンのリースボルン(Liesborn)出身。(4059:大阪→似島)
2044) Schultz(シュルツ),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[アルンホルト・カルベルク商会広東支店]。バールト(Barth)が中国時代に勤めたアルンホルト・カルベルク社の直属上司であった。板東時代、収容所内のタパタオでラングロック(Langrock)と錠前屋を営んだ。また、かつてホッケーの選手だったことから、コルトゥム(Cortum)とともにホッケーチームを組織し、シュルツ・チームを率いた。第2次大戦後、東京・荻窪にバールトを訪ねて来たが、やがて南米チリに居を定めて貿易会社を経営した。ハンブルク出身。(3103:松山→板東)
2045) Schultz(シュルツ),Hugo(?-?):海軍砲兵中隊・上等兵曹。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。バルト海のヴォリン(Wollin)島出身。(243:東京→習志野)
2046) Schultz(シュルツ),Walter(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。[カッセラ商会大阪支店・染料製造職人]。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、尾西市(現一宮市)の染色繊維業「艶金」で技術指導して、この業種の発展に貢献した。ラーデボイル(Radebeul)出身。(1572:福岡→名古屋)
2047) Schulz(シュルツ),Adolf(?-?):第3海兵大隊第5中隊・伍長。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、クラリネット、後にオーボエを担当した。また公会堂での工芸品展に、ブラント(Brandt)と共同で楽器のチェロを制作・出品した。ハノーファーのヴァルタースドルフ(Waltersdorf)出身。(3091:松山→板東)
2048) Schulz(シュルツ),Fritz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代(公会堂収容)の1915年10月30日、夕食の際に密かにパンの中に卵を入れ、入倉中の同僚に贈ろうとした科で重営倉3日に処せられた。ハンブルク出身。(3104:松山→板東)
2049) Schulz(シュルツ),Hans(1881-?):第3海兵大隊第7中隊長・陸軍歩兵大尉。〔第2歩兵堡塁指揮官〕。前記指揮官は後日シュリーカー中尉に替わった。ポーゼン出身。(2682:名古屋)
2050) Schulz(シュルツ),Johannes(1887-?):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔連絡将校・第6砲台指揮官〕。青島時代はビスマルク街に住んでいた。コットブス(Cottbus)出身。(4274:「大阪→」徳島→板東)
2051) Schulz(シュルツ),Josef(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降し俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。ダンチヒ=ラングフーア(Danzig-Langfuhr)近郊のエックホーフ/ザスペ(Eckhof/Saspe)出身。(763:久留米→板東)
2052) Schulz(シュルツ),Otto(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等機関兵曹。[河用砲艦チンタオ乗員]。板東時代、1918年4月18日に開かれた「中国の夕べ」で、「帝国軍艦チンタオの航海」と題して講演した。西プロイセンのグラウデンツ(Graudenz)出身。(4299:「大阪→」徳島→板東)
2053) Schulz(シュルツ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備2等歩兵。久留米時代は演劇活動で、ハウプトマン作の喜劇『同僚クランプトン』に出演し、また『久留米収容所俘虜文集』の制作に協力した。ベルリン出身。(3675:熊本→久留米)
2054) Schulze(シュルツェ),Erich(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備伍長。熊本時代の1915年1月7日、妻が面会に訪れて来た。ベルリン郊外のノイケルン(Neuköln)出身。(3661:熊本→久留米)
2055) Schulze(シュルツェ),Gustav(?-1918):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。ノイマイアー(Neumaier)の日記によると、1912年、東アジアへの出発の際、ククスハーフェン駅に花嫁が見送りに来ていて、白いバラを手渡して涙を流したとのことである。1916年10月22日、他の68名とともに福岡から習志野に移送された。1918年12月5日、結核性腹膜炎により習志野で死亡。ベルリン出身。(1465:福岡→習志野)
2056) Schulze(シュルツェ),Harry(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。1915年6月熊本から久留米に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(3655:熊本→久留米)
2057) Schulze(シュルツェ),Helmut(?-?):第3海兵大隊第6中隊・1年志願兵。右上膊部銃創及び骨折、右大腿部銃創により大阪陸軍病院に入院した。出身地不明(『俘虜名簿』では天津)(4590:大阪→似島)
2058) Schulze(シュルツェ),Robert(?-1918):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。1918年11月17日名古屋で死亡、陸軍墓地に埋葬された。マグデブルク郡のブルク(Burg)出身。(2712:名古屋)
2059) Schulze(シュルツェ),Wilhelm(?-?):海軍砲兵中隊・1等水兵。久留米時代の1917年1月28日、アンドレーア(Andrea)をカロルチャク(Karolczak)等仲間18人で袋叩きにして、傷害罪により1月の懲役刑に処せられた。演劇活動では、トーマ作の『放蕩娘』に出演した。ハンブルク出身。(3713:熊本→久留米)
2060) Schurgens(シュルゲンス),Hubert(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。[河用砲艦チンタオ乗員]。ラインラントのファールス(Vaals)出身。(4305:「大阪→」徳島→板東)
2061) Schürholz(シュルホルツ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備上等歩兵。久留米俘虜収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、1919年6月10日に開催された6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級に出場して(出場者は13名で、55点以上獲得者11名が勝者)、77点を獲得して第1位になった。ブランケンバハ(Blankenbach)出身。(709:久留米)
2062) Schürmann, (シュルマン) Fritz(?-1919):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。似島時代、俘虜サッカーチームと広島高等師範のチームがサッカーの試合を行ったことがあった。高等師範の主将だった田中敬孝の子息の手元には、俘虜チームの写真が遺されている。体操服を着て肩を組んで並んでいる11名の写真の裏には、メンバーの名前と思われる人名が記されている【〔写真10〕参照】。その後2005年になって、シュルマンはイレブンの写真中の右端の人物であると、甥や姪によって確認された。1919年4月6日似島で死亡。死亡して一年後に郷里の両親の元に、遺灰と埋葬時の写真が送られてきた。遺灰はホルテンの両親が眠る墓に埋葬された。デュッセルドルフ近郊のホルテン(Holten)出身。(4038:大阪→似島)
2063) Schuster(シュースター),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1916年8月20日付けの『徳島新報』第3巻第15号によれば、徳島時代シュースターは徳島管弦楽団の一員で、第1フルートを担当していた。ゲッティンゲン出身。(4279:「大阪→」徳島→板東)
2064) Schütte(シュッテ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。ドイツ本国と青島との無線電信を確保すべく、兗州府に無線電信所設備の設営に尽力した。ブラウンシュヴァイクのヘルムシュテット(Helmstedt)出身。(2720:名古屋)
2065) Schütze(シュッツェ),Julius(?-1919):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年1月31日、スペイン風邪により習志野で死亡。タンガーミュンデ(Tangermünde)出身。(1513:福岡→習志野)
2066) Schütze(シュッツェ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・曹長。青島時代はブレーメン街(Bremerstraße;日本の占領統治時代は馬関通)に住んでいた。妻ヘトヴィヒ(Hedwig)は子供(12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。ポンメルンのグライスヴァルト(Greiswald)出身。(2074:丸亀→板東)
2067) Schwaff(シュヴァフ),August(?-?):国民軍・伍長。[シュヴァルツコップ商会支配人]。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。なお同年4月20日、シュヴァフは陸軍省宛に釈放の請願書と損害賠償請求書を提出した。釈放の理由としては、戦役中軍務に服さず、開戦と同時に免除されたこと、国民軍、警察または消防隊等の勤務に従事しなかったことなど5項目を挙げた。損害賠償としては、シュヴァルツコップ商会において、自身が俘虜となることで生じた損害、及び現に生じつつある損害として数十万ドルに達するとしていること。また、自身が冷湿にして風の通る木造営舎に起居することで、健康上の障害を来たしたことを日本政府の責任としている。妻リリー(Lili)は大戦終結まで、こども(12歳以下)と二人上海で暮らした。ハンブルク出身。(4655:大阪→似島)
2068) Schwarm(シュヴァルム),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。〔第2歩兵堡塁〕。[宣教師]。広東のベルリン福音教会から、ヴァナクス(Wannags)とともに青島守備軍に馳せ参じた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においてシュヴァルム(当時33歳)は、2時間33分41秒5分の3で42位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。ポンメルンのアルト・ドゥラーハイム(Alt-Draheim)出身。(2092:丸亀→板東)
2069) Schwarz(シュヴァルツ),Franz(1890-1924):海軍東アジア分遣隊第3中隊・伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1916年(月日不明)、「秘密通信ヲ企テタル科」で重営倉20日の処罰を受けた。また同年(月日不明)、「入倉中営倉内羽目板ニ不穏当ナル楽書ヲ為シ且規定ヲ犯セシ科」で重営倉25日に処せられた。「14歳にて小学校を卒業し、三ヶ年大工職を学び同時に工業補修学校に通学せり、幼少より1910年10月15日陸軍に入営する迄農業に従事し大工職の他に農業の実際に精通するに至れり、兵役中乗馬隊に入り養馬の方法を実際と学理に就いて修得せり、建築と耕作を特技とす」【「北海道移住」より】。カルクブレンナー(Kalkbrenner)をリーダーとする6名、ハッセルバッハ(Hasselbach)、ホフマン(Hoffmann)、シュヴァルツ、ザイフェルト(Seifert)、ゾンマーラット(Sommerlatt)は、愛知県下の大地主数十名が創設した愛知産業株式会社と契約して、朝鮮蘭谷面(蘭谷村)で「機械農場」と称するドイツ式大農場(約千町歩)の経営を始めることが、大正8年12月25日付け「名古屋新聞」で報じられた。翌年春の出発までシュヴァルツはハッセルバッハとともに、当時建築中の敷島パンの工場に出かけて生活費に充てた。ほどなくエートマン(Oetmann)を加えたシュヴァルツ等7名は朝鮮蘭谷で営農し、カルクブレンナーを総指揮とする朝鮮蘭谷のドイツ式大農場の農場長となったが、1926年(大正15年)秋に腸チブスで没して、農場に埋葬された【校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅱ」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号74頁及び『朝鮮半島に夢を求めて』60頁】。テューリンゲンのクレーヴィンケル(Kräwinkel)出身。(1570:福岡→名古屋)
2070) Schwarz(シュヴァルツ),Karl(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等機関下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、シュヴァルツは金属加工部門には文鎮3点、木工部門の「焼き絵」で、ペーパーホルダー、裁縫箱、板関カレンダー、箴言の壁掛け等38点、また写真部門では「青野原とその周辺」の写真1点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』77、79-80、82頁】。ボヘミアのカリッヒ(Kallich)出身。(2398:姫路→青野原)
2071) Schweim(シュヴァイム),Arthur(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等水兵。青島時代はドイツ街に住んでいた。妻ヨハンナ(Johanna)は大戦終結まで上海で暮らした。東プロイセンのメーメル(Memel)出身。(4043:大阪→似島)
2072) Schwengenbecher(シュヴェンゲンベッヒャー),Carl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[山東鉄道管理部・文書係]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。ブラウデローダ(Brauderoda)出身。(2085:丸亀→板東)
2073) Schwerke(シュヴェルケ),Reinhold(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[カルロヴィッツ商会広東支店]。松山時代、公会堂の収容所講習会でスペイン語の講師を務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。シュテッティン出身。(3114:松山→板東)
2074) Schwitzki(シュヴィツキ),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米収容所で発行された『トゥルネンとスポーツ』の「付録第7号」(1919年6月14日付け)によると、シュヴィツキは1919年6月1 日に開催されたホッケーの試合に出場したが、そのボールをさばき方は模範的であった。また6月8日に開かれたサッカーの試合でも活躍し、更には、6種競技トゥルネン(鉄棒、平行棒、鞍馬、走り幅跳び、砲丸投げ、100メートル走)の下級にも出場して、67⅓点で第3位になった。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ベルリン郊外のアルトグリーネケ(Altglieneke)出身。(717:久留米)
2075) Scoppwer(スコップヴェーア),Paul(1893-1984):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1893年9月11日コットブスに生まれた。大戦終結して帰国後、トリーアで歯科技工士となり、1984年3月15日死亡した。遺品中に浅草本願寺での集合写真が遺されている【シュミット】。コットブス出身。(227:東京→習志野)
2076) Scriba(スクリバ),Emil(1891-1933):第3海兵大隊・予備陸軍少尉。父はユリウス・カール・スクリバ(Jurius Karl Scriba,1848-1905)博士で、E.ベルツとともに東京帝国大学医学部の基礎を築いた人物。母は富山県出身で名は神谷ヤスといい、その間に次男として1891年11月23日東京で生まれた。1908年(明治40年)10月16日、ポツダムから来日したフリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)が日本で最初に投宿したのはスクリバ邸であった。1914年12月3日付けの『九州日日新聞』に、母親ヤス(やす子)の次の言葉が紹介された。「実は私共へも三十日の夕刻、門司の発信で港務部の福田という人から『御令息、只今無事到着。これから熊本へ行く』と云ふ、至って簡単な電報が参りましたので、初めて俘虜となって来たのを知ったのです。同人は一昨年伯林郊外のポツダムの士官学校を卒業すると共に伯林の近衛連隊に勤務して居ましたが、昨年春病気に罹り非常に衰弱しましたので、八月始め保養方々日本に参り、それ以来引続いて滞在してゐます中本年七月召集されて俄に青島へ参りました儘何等の便りもありませんので安否如何と気遣ってゐたのですが今回、俘虜として日本に参ったと云ふ知らせを得て漸く安心しました。私の方からも折返して電報を出したいと思ひますが、何処へ宛て宜いのやら分り兼ねるので其儘にしてゐますが、何れその中詳しい便りを寄越すことだろうと、それのみを待って居ます」【『熊本の日独交流』63頁より】1915年1月7日、弟が陸軍大臣の許可を得て面会に訪れた。久留米時代の1915年11月5日に発生した、真崎甚三郎所長によるベーゼ、フローリアン両将校殴打事件では、日本通としてフォークト(Vogt)予備少尉とともに真崎所長とアンデルス少佐の会談に列席した。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。習志野収容所では旧知のフリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)及びヴェークマン(Weegmann)と一緒になった。1919年(大正8年)5月19日付けの東京朝日新聞第五面には、壁に掛かった浮世絵の前で三人がヴェークマンが拡げる画集とおぼしき本を眺める写真が掲載された【〔写真3〕を参照】。1919年12月17日、リューマチと喘息で苦しんでいた母親が軽い脳溢血を起こしたことから早期の解放を願い出た。兄は欧州大戦に従軍して負傷し、一時期スイスに居た。大戦終結後は日本窒素(株)に入社、ビジネスマンとして活躍した。1924年小西ともえと結婚して娘二人を儲けた。1933年11月24日東京で没した。東京の青山霊園に父、兄及び本人の墓碑がある。東京出身【『俘虜名簿』ではダルムシュタット出身】。(3643:熊本→久留米→習志野)
2077) Seckendorff(ゼッケンドルフ),Oscar A.A.Freiherr von(1873-1928):第3海兵大隊第7中隊・退役陸軍少尉(男爵)。静岡時代、ミュルトナー(Müldner)予備少尉と日本の新聞をドイツ語に訳し、収容所内で回覧された。出身地不明(『俘虜名簿』では福州)。(1784:静岡→習志野)
2078) Seddig(ゼディッヒ),Gustav(?-?):装甲巡洋艦シャルンホルスト(Scharnhorst)乗員・1等焚火兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で漆塗り小箱1点及び水雷1点を、また金工部門では文鎮3点、灰皿1点、真鍮製の額縁1点を出品した。シュテッティン出身。(4605:大阪→似島)
2079) Seebach(ゼーバッハ),Thilo von(1890-?):海軍砲兵中隊・海軍少尉。〔第8砲台指揮官〕。習志野では将校用厨房責任者であった。また1915年12月25日収容所のクリスマスコンサートでは、ハイメンダール少尉とヴェーバーの「舞踏への勧誘」及び「ジョスランの子守唄」をピアノで演奏した。ヴィースバーデン出身。(242:東京→習志野)
2080) Seebold(ゼーボルト),Philipp(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門に、ヘントリヒ(Hendrich)及びヴァーゲマン(Wagemann)と共同で、縮尺20分の1の家の模型を出品した。ヘッセンのエルフェルデン(Elfelden)出身。(4051:大阪→似島)
2081) Seeger(ゼーガー),Hermann(1891-1918):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。〔中隊伝令〕。1913年2月18日、兵員輸送船「ルイーゼ王妃」で青島に来た。最初は機関砲部隊に勤務し、2年目に第2中隊伝令に就いた。日独戦争勃発後、口子街道防備に加わり、四房山への出撃に巡邏隊長として活躍し、1914年10月3日上等歩兵に昇進した。第4歩兵堡塁に日本軍が突撃して来た時、負傷していたにもかかわらず、伝令としての任務の赴こうとした。結局は堡塁指揮官に呼び戻されて中隊に留まり俘虜となった。丸亀時代の1916年2月12日、ヨーハン・ヘルマイ(Johann Hermey)と脱走を企てたが14日に辻村で発見され逮捕、禁錮1年3ヶ月の刑を受け高松刑務所に収監された【『丸亀俘虜収容所記事』より】。板東時代の1918年11月18日スペイン風邪に罹り、11月30日肺炎で死亡した。12月2日、新設のホールで戦友であった牧師ヴァナクス(Wannags)の司式で葬儀が執り行われた【『バラッケ』第3巻第10号145-147頁】。1960年頃、親類が「チンタオ戦友会」に出席した。ルール(Ruhr)河畔のミュールハイム(Mühlheim)出身。(2056:丸亀→板東)
2082) Seemuth(ゼームート),Wilhelm(?-?):海軍第2工機団測量船第3号・2等焚火兵。1914年10月11日、東カロリン群島のトラック島で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られた。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その左から三人目にゼームートが写っている。マンハイム近郊のアルトルスハイム(Altlussheim)出身。(766:久留米)
2083) Seffern(ゼッフェルン),Theodor(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ノイヴィート郡のラインブロート(Rheinbrod)出身。(741:久留米)
2084) Segebarth(ゼーゲバルト),Daniel(?-?):海軍砲兵中隊・2等按針兵曹。松山時代、公会堂の収容所講習会でフランス語の講師を務めた。板東では、工芸品展に船のモデルを多数出品したグループの代表だった。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡り、当初はジャワ島西部バタビア新市街のヴェルテヴレーデン(Weltevreden)に住んだが、後に東部のスラヴァヤに移った。バルト海沿いのバールト(Barth)出身。(3135:松山→板東)
2085) Segelken(ゼーゲルケン),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1918年5月26日、収容所体操協会による創立記念体操会が行われた。鉄棒2、平行棒2、鞍馬1、跳び箱1を使用しての体操会であった。ゼーゲルケンは第3組の指導を受け持った【『バラッケ』第2巻183頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン出身。(3109:松山→板東)
2086) Seggern(ゼッゲルン),Max von(1887-?):機雷保管庫・上等水雷兵曹。1908年10月上等水雷兵曹に任じられた。1914年8月上記部隊に配属された。1916年9月掌水雷兵曹長に、1917年4月掌水雷少尉に昇進した。板東時代、ゼッゲルンは「エンゲル・オーケストラ」の団員で第1ヴァイオリンを担当したが、1917年6月頃ガーライス(Gareis)とともに楽団から退いた。1920年1月蘭領印度に渡ったが、直にドイツへ帰国して退役した。1922年2月、クラーラ・ドライアー(Klara Dreyer)と結婚、一男一女をもうけた。1934年9月再婚して、息子をもうけた。オルデンブルクで商人として従事したが、1936年海軍大尉として復職した【シュミット】。オルデンブルク出身。(3136:松山→板東)
2087) Seidel(ザイデル),Alfred(?-?):国民軍・階級不明。[ザンダー、ヴィーラー商会支配人]。青島時代は皇帝街(Kaiserstraße)に住んでいた。1915年3月19日、他の5名の青島大商人とともに青島から大阪に送還された。送還される前の2ヶ月間ほど、日本の青島軍政署ないしは神尾司令官から、用務整理のために青島残留を許可された【『欧受大日記』大正十一年一月より。青島の大商人10名は、当初国民軍へ編入されたが、青島で築き上げたドイツの貿易・商権保持のため、マイアー=ヴァルデック総督の指示で国民軍のリストから削除されたのであった】。大戦終結後は青島に戻り、ジーボルト(Siebold)と共同で精練・加工を中心とする化学工業会社を経営した。シュレージエンのヒルシュブルク(Hirschburg)出身。(4654:大阪→似島)
2088) Seidel(ザイデル),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備1等砲兵。[土木監督]。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門で、画法幾何学のノート15枚、鉄筋コンクリート構造物、小さな橋等を出品した。解放後は天津に渡ったが、1920年3月に南海丸で帰国した。出身地不明【『俘虜名簿』では上海になっている】。(4594:大阪→似島)
2089) Seidel(ザイデル),Willy(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[天津・ローゼンベルク商会]。板東時代、収容所内のタパタオでコーヒー店を営んだ。ケムニッツ出身。(3111:松山→板東)
2090) Seifert(ザイフェルト),Richard(1890-?):第3海兵大隊第4中隊・伍長。[園庭師]。「小学校卒業後、四年間園芸業を学び(野菜栽培、園芸美術、農作、植樹法等)同時に工業専門学校に通学せり、入隊に至るまで園芸技手として従事し1912年12月青島総督の園芸人に命ぜられ同時に総督府庭園の監督として開戦に至れり、目下久留米俘虜収容所に於いて主として植物学を研究し収容所耕地の監督たり、園芸、果実、植樹、製林及び野菜缶詰業を特技とす」【「北海道移住」より】。カルクブレンナー(Kalkbrenner)をリーダーとする6名、ハッセルバッハ(Hasselbach)、ホフマン(Hoffmann)、シュヴァルツ(Schwarz)、ザイフェルト、ゾンマーラット(Sommerlatt)は、愛知県下の大地主数十名が創設した愛知産業株式会社と契約して、朝鮮蘭谷面(蘭谷村)で「機械農場」と称するドイツ式大農場の経営を始めることが、大正8年12月25日付け「名古屋新聞」で報じられた。しかし蘭谷の機械農場での営農後しばらくたって、農場の準備も整いドイツから機械類が到着してまもなくザイフェルトは農場を去った。ザクセンのツァイツ(Zeitz)出身。(3651:熊本→久留米)
2091) Seiffert(ザイフェルト),Thomas C.(1885-?):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。青島時代は皇太子街(Kronprinzenstraße)に住んでいた。ドイツに帰国後の1920年1月30日、 1915年10月17日付けで海軍大尉に昇任し、同年9月9日で退役した。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(3724:熊本→久留米)
2092) Seigel(ザイゲル),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の喜劇『放蕩娘』等3演目に女役で出演した。バーデンのオッフェンブルク郡ヴィントシュラーク(Windschlag)出身。(1520:福岡→久留米)
2093) Seiler(ザイラー),Martin(1892-1968):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1892年1月20日、坑夫の子としてザールブリュッケン郊外のシフヴァイラーに生れた。大戦終結して解放後、蘭領印度に渡った【シュミット】。ザールブリュッケン近郊のシフスヴァイラー(Schiffsweiler)出身。(737:久留米)
2094) Seiner(ザイナー),Karl(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。久留米時代は演劇活動で、ブルーメンタール及びガーデルベルク作の笑劇『私が戻ったとき』に出演した。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。アフレンツ(Aflenz)近郊のテルル(Thörl)出身。(3745:熊本→久留米→習志野)
2095) Seitz(ザイツ),Julius(1880-1951):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。「チンタオ戦友会」に出席した。ハイルブロン郊外のターレム(Thalem)出身。(3102:松山→板東)
2096) Selbach(ゼールバッハ),Christian(?-?):海軍砲兵中隊・2等水雷機関兵曹。大戦終結後、日本足袋(株)に入社した。ケルン=ライン管区のヘスペルト/エッケンハーゲン(Hespert/Eckenhagen)出身。(3711:熊本→久留米)
2097) Semmelhack(ゼンメルハック),Franz(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。久留米時代は演劇活動で、茶番劇『ペンション・シェラー』に出演した。宣誓解放された。ハンブルク出身。(3659:熊本→久留米)
2098) Seng(ゼング),Karl(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。1919年2月6日、スペイン風邪により習志野で死亡。フィリンゲン(Villingen)郡のノイキルヒ出身。(1486:福岡→大分→習志野)
2099) Senkbeil(ゼンクバイル),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。名古屋俘虜収容所に収容中に、落合兵之助が経営する落合化学に、鍍金技術者のマックス(不詳)及びクーヘン(不詳)の通訳として派遣された。やがて落合の依頼を受けて、技術力により優れたエンゲルホルン(Engelhorn)の派遣を実現した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、落合化学に就職した。落合化学は大正13年9月には「ゼンクバイル商会」と改称した。ゼンクバイルの帰国の時には、友人で敷島パンに勤めていたフロイントリープ(Freundlieb)夫妻が見送りに来た。故国にはすでに両親もなく、姉一人だったとのことである。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ベルリン出身。(2694:名古屋)
2100) Setzer(ゼッツァー),Hugo(1890-1962):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。解放されて帰国後ミナ((Mina)と結婚した。ハイルブロン出身。(1528:福岡→名古屋)
2101) Setzkorn(ゼッツコルン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲隊・後備上等歩兵。[機械組立工]。ルール河畔のヴェルデン(Werden)出身。(2706:名古屋)
2102) Seufert(ゾイフェルト),Wilhelm D.Dr.(1885-1974):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備副曹長。[宣教師]。牧師の父の下、8人兄弟の4番目として生まれた。1903年に父親が亡くなると、母はカールスルーエに移った。カールスルーエ等のギムナジウムで勉強し、1904年に大学入学資格を取り、シュトラースブルク及びハイデルベルクで神学を学んだ。1909年10月1日から1910年9月30日まで、一年志願兵として兵役に就いた。牧師として任務に就いた後、「統合福音派海外伝道教会」から宣教師にして中国学者リヒャルト・ヴィルヘルムの補佐として青島に派遣され、1912年12月8日に青島に着いた。青島時代は上海路(Schanghaistraße)に住んでいた。久留米時代の1916年1月27日、ドイツ皇帝誕生祭に当たって説教祈祷を行った。1916年9月16日久留米から青野原へ収容所換えになった。1919年、オーストリアのドラッヘンタール少佐に代わって青野原収容所の俘虜代表に選出された。大戦終結して解放後の1920年4月1日、南海丸でドイツに一時帰国し、その年の12月28日にベアトリーチェ・ブリント(Beatrice Blind;1891-1973)と結婚した。1922年にハンブルク大学に提出した、「漢王朝の国家下の新国家秩序資料」によって博士の学位を取得した。1922年に再び青島に戻り、1949年に伝道教会が青島での活動を閉じるまで、ヴィルヘルムの設立した学院「禮賢書院」の運営に当たった。その後、共産党治下の中国での布教活動の難しさから、1952年3月30日に妻とともに青島を去った。帰国後の当初はカールスルーエに住んだが、その後フライブルク(Freiburg i.B.)近郊に移り、ハイデルベルク大学中国学講座で講義もした。中国に関する一連の本を出版した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。夫婦に子供はいなかった。バーデンのフォイエルバッハ(Feuerbach)出身。(3701:熊本→久留米→青野原)
2103) Seuffert(ゾイフェルト),Heinz(1884-?):駆逐艦タークー艦長・海軍大尉。〔陸正面砲兵隊指揮官〕。1902年4月1日海軍に入った。 1905年9月29日海軍少尉、1908年3月30日海軍中尉、1914年3月22日海軍大尉に昇進した。河用砲艦オッター艦長の時青島に赴きタークー艦長に就いた。ミュンヘン出身。(1779:静岡→習志野)
2104) Seyffart(ザイファルト),Paul(?-?):装甲巡洋艦グナイゼナウ(Gneisenau)乗員・2等水兵。習志野時代の1919年10月7日、習志野寄席の第2部で上演されたケルン風茶番劇「むちゃくちゃな夜」の演出を担当した。ハンブルク出身。(1789:静岡→習志野)
2105) Sickel(ジッケル),Hugo(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備1等水兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハレ河畔のヴェルムリッツ(Wörmlitz)出身。(1521:福岡→久留米)
2106) Siebel(ジーベル),Carl(1867-?):総督府参謀・陸軍少佐。〔総督府要塞工兵部長〕。1888年4月1日陸軍に入った。1889年9月21日少尉、1897年5月20日中尉、1902年9月21日大尉、1913年5月6日少佐に昇進し、1913年9月1日付けで海軍歩兵隊に移籍した。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。解放されて帰国後の1920年1月30日、1918年5月18日付けで陸軍中佐に昇進し、1920年3月9日に帝国陸軍に移籍した。ラインラントのバルメン(Barmen)出身。(1458:福岡→習志野)
2107) Siebel(ジーベル),Robert(?-1919):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月18日、ベルント(Berndt)等68名とともに、福岡から大分に移送された。1919年2月2日、スペイン風邪により習志野で死亡。ジーゲン郡のゴーゼンバッハ(Gosenbach)出身。(1482:福岡→大分→習志野)
2108) Sieber(ズィーバー),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。『熊本俘虜収容所記事』中の附表第21「負傷證明書附與者一覧表」には、ズィーバーについて「右前膊下端内側ヨリ同前面中央部ニ至ル榴霰弾々子ニヨル軟部盲管銃創」と記述されている。バート=ズルツァ(Bad Sulza)出身。(3652:熊本→久留米→板東)
2109) Siebold(ジーボルト),Hugo(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・後備上等兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。大戦終結後は青島に戻り、A.ザイデル(Seidel)と共同で精練・加工を中心とする化学工業会社を経営した。解放後は蘭領印度に渡った。ハンマースレーベン(Hammersleben)出身。(3685:熊本→久留米→板東)
2110) Sieger(ズィーガー),Jakob(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門でシュヴァルツヴァルト(黒い森)の晴雨自動表示器を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴュルテンベルクのトゥットリンゲン(Tuttlingen)出身。(4054:大阪→似島)
2111) Siemssen(ジームセン),Frederick(1888-?):第3海兵大隊第5中隊・予備副曹長。板東時代、板東テニス協会のコート係を務めた。妻と子は大戦終結まで上海で暮らした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では福州)。(3090:松山→板東)
2112) Siemssen(ジームセン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第5中隊・戦時志願兵。[福州のコロンビア商会]。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。【上記フレデリックとヴィルヘルムの二名の出身地は中国・福州となっている。青島に広大な地所を所有し(個人として6個所合計13963㎡、約4200坪、商会所有として6184㎡、約1800坪)、一部を総督府に提供したため、後に日本側により土地・家屋の没収処分を受けたジームセン商会を経営していたアルフレート・ジームセン(Alfred Siemssen)の身内であろうか?(『青島経済事情』27頁以下を参照)ジームセン家はハンブルク有数の貿易商で、1851年ハンザ都市ハンブルクの広東領事に任命された】。松山時代の1915年6月15日、クーグラー(Kugler)とともに婦女に戯れることが目的で、6月12日に夜陰に乗じて脱柵して民家に至った(目的は果たさず)した科で重営倉20日に処せられた。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。また板東公会堂での絵画と工芸品展覧会では、「B 1の顔」で肖像画部門の一等賞を受賞した。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時28歳)、2時間38分31秒5分の1で85人中の第59位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明(『俘虜名簿』では福州)。(3096:松山→板東)
2113) Sieweke(ジーヴェケ),Ludwig(1893-1963):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、「ドイツ兵墓碑」の建設に際して石積み工事を担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヒッデッセン/リペ(Hiddessen/Liype)出身。(4291:「大阪→」徳島→板東)
2114) Simon(ジーモン),Oskar(1891-1970):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。2007年11月14日、ジーモンの孫トーマス・ベルンハルト(Thomas Bernhardt)氏が、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に書き込みをした。それによればジーモンは家族に『チンタオの飛行家』(Flieger von Tsingtau)の本を遺した。ジーモンはプリュショー海軍中尉附きのコックをしていたとのことである。ザクセンのカーメンツ(Kamenz)で没した。ポーゼンのダンゲンフェルト(Dangenfeld)出身。(4062:大阪→似島)
2115) Simon(ジーモン),Robert(?-1916):第3海兵大隊第2中隊・伍長。1916年3月19日久留米で死亡、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)117頁には、ジーモンの葬儀の様子、収容所長渡邊保治大佐から贈られた花輪、酒保の商人の名が見られる幟を写した写真4点が掲載されている。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された。ザクセンのグリューン(Grün)出身。(3645:熊本→久留米)
2116) Simon(ジーモン),Wilhelm(1884-1966):海軍膠州砲兵隊・予備海軍少尉。〔第1中間地掃射砲台指揮官〕。ホーフガイスマル(Hofgeismar)出身。(1463:福岡→習志野)
2117) Simonis(ジーモニス),Erich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[オットー・ライマース商会神戸支店]。板東時代の1919年、バルクホールン、カイスナー、ラーン及びルードルフと共に、日本語文献からの翻訳『国民年中行事』の出版に関わった。ベルリン出身。(3112:松山→板東)
2118) Singer(ジンガー),Georg(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等電信兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデン出身。(270:東京→習志野)
2119) Sinn(ジン),Otto(?-?):第3海兵大隊第3中隊・曹長。1915年10月2日、アール、ツェルナー、ルントの4名で脱走したが、他の3名は同日逮捕、ズィンも5日収容所に戻ったところを逮捕された。ハイルブロン出身。(743:久留米)
2120) Skrebba(スクレッバ),Hans(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、得点110で上級3位になった。1918年6月、「久留米体操クラブ」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の体操指導者を務めた。ハノーファーのミスブルク(Misburg)出身。(738:久留米)
2121) Skupin(スクーピン),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[ディーデリヒセン漢口支店]。上部シュレージエンのコンシュタット(Konstadt)出身。(2058:丸亀→板東)
2122) Smith(スミス),Richard(?-?):第3海兵大隊・予備後備上等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(2705:名古屋)
2123) Snoek(スネク),Hermann(1892-?): 第3海兵大隊第4中隊・伍長。解放後は蘭領印度に渡り、ペダン(Padang)のギュンツェル製靴商会に勤めた。ブレーメン出身。(3656:熊本→久留米)
2124) Sobottka(ゾボトカ),Johann(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にビオンデロ役で出演した。また1919年6月1日(日)に開催された12種目から成る体操大会では、初級の部で121½点を挙げてニ位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。東プロイセンのトロッフェン(Troffen)出身。(2088:丸亀→板東)
2125) Sodan(ゾーダン),Ernst A.(1876-1935頃):第3海兵大隊工兵中隊長・陸軍工兵大尉。〔第5歩兵堡塁(海岸堡塁)指揮官〕。小柄であったが強靭な肉体と強い精神の持ち主のユニークな人物で、部下を始め多くの人から親しみを持たれていた。ヴェーデル(Wedel)少佐と替わって前記指揮官になった。11月9日の青島開城交渉ではドイツ側の実務委員として、地雷等の危険物除去に関わった。11月14日、日本側の開城交渉委員の堀内少将から絵葉書を贈られた。久留米時代、収容所内での散歩を日課として、久留米から故郷東プロイセンのケーニヒスベルクまでの距離8500キロを、1年以上の所内の散歩で達成し、収容所の仲間達から大喝采を受けた。収容所仲間からは親しみをこめて「小さな大尉」と呼ばれた。大戦終結して帰国後、11月1日の第5歩兵堡塁の砲撃についての報告書を書き残した【『青島戰史』124頁以下等より】。30.01.1920年1月30日に1918年9月20日付けで陸軍少佐に昇進し、同年3月9日再度陸軍に入った。ケーニヒスベルク出身。(3695:熊本→久留米)
2126) Solger(ゾルガー),Dr. Friedrich(1877-1965):第3海兵大隊第6中隊第3小隊長・予備陸軍少尉。[北京大学教授・地質学者;中国名表記:梭格尓]。枢密衛生顧問官の息子としてベルリンに生れた。1894-1895年にベルリン大学、1896-1899年にはブレスラウ上級鉱山監督局で鉱山学を実習し、その後再びベルリン大学及び王立鉱山大学に学ぶ。1899年から1903年までベルリン大学地質学・古生物学研究所助手、1902年にベルリン大学で哲学博士の学位を取得した。1903年から1909年までベルリンのマルクブランデンブルク博物館勤務、1907年ベルリン大学教授資格を取得して講師となる。1909年ロシア・トルキスタンを旅行し、1910年から1913年まで北京大学教授、1913年から翌年にかけて、中国地質図の作成を指揮した。青島で所属した第6中隊は、商人や官吏等の応召兵から成る即席部隊でろくに軍事訓練も受けていなかった。そこでゾルガーは「勤務能力無し中隊」(Die D.U. [=dienstuntaugliche]Kompagnie)の戯れ詩を作った。【《Tsingtau Tagebuch》18頁及び《Erinnerungen an Tsingtau》73頁。但し《The Japanese Siege of Tsingtau》(204頁)ではブラシュケ(Blaschke)等の複数による合作となっている】また青島陥落後には、愛惜をこめた「嗚呼、チンタオ」(O,Tsingtau)の詩も作った。松山時代、マルティーン少尉及びゴルトシュミット予備副曹長とともに『陣営の火』の編集に当たった。板東では収容所内講演会で最も活躍し、所内最高の知性と謳われ、収容所印刷所から『故国の土と父祖の血』を出した。1917年5月14日、第1回「中国の夕べ」を開催し、「中国について」の連続講義を45回に亘って行うなど多種多彩な数多くの講演を行った。『バラッケ』編集に携わり、演劇の指導を行い、上演に際しての責任者にもなった。大戦終結してドイツに帰国後の1920年4月からベルリン大学員外教授、1925年ドイツ国粋主義連盟会員、1930年からは同理事長、1927年から1933年までドイツ大学協会理事、1946年からは東ドイツのフンボルト大学教授に就き、1953年退官した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。1965年11月29日、東ベルリンで没した【ゾルガーの俘虜以前及び解放後の経歴については、高橋輝和「板東収容所のドイツ語学・文学・文化論」所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号、129頁を参照】。ベルリン出身。(3097:松山→板東)
2127) Sommer(ゾンマー),Eugen(?-?):海軍東アジア分遣隊・第3中隊・2等歩兵。大分時代の1916年3月1日付けの葉書(宛先不明。コーブレンツ連邦文書館所蔵)によると、下士卒は一日40キロから50キロの行進をしたことを報告している。バイエルンのホーフ出身。(4441:「熊本→」大分→習志野)
2128) Sommer(ゾンマー),Hermann Ernst(1888-1968):第3海兵大隊第3中隊・軍曹。ドイツに帰国後の1920年12月24日、エマ(Emma Jenny Höhn,1894 -1963 )と結婚して娘一人をもうけた。ザクセン=マイニンゲンのアイスフェルト(Eisfeld)出身。(2690:名古屋)
2129) Sommerfeld(ゾンマーフェルト),Konrad(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1919年10月24日に開催された「1919年スポーツ週間」の「直径2.13mからの石投げBクラス」で、9.205mを記録して2位になった。ヴェストファーレンのオスターフェルト(Osterfeld)出身。(1576:福岡→久留米)
2130) Sommerlatt(ゾンマーラット),Benedikt(1889-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。「英領東印度カラチン生まれ6歳にしてハノーベル市の市立リツェーウム高等学校に入り18歳にして卒業し大学入学資格を得たり、後二ヶ年半ハムブルヒにて商業を学びハムブルヒ、香港に商人として従業す、1910年より同11年迄一年志願兵たり 企業上の営業部及び会計部及び簿記を特技とす」【「北海道移住」より】。カルクブレンナー(Kalkbrenner)をリーダーとする6名、ハッセルバッハ(Hasselbach)、ホフマン(Hoffmann)、シュヴァルツ(Schwarz)、ザイフェルト(Seifert)、ゾンマーラットは、愛知県下の大地主数十名が創設した愛知産業株式会社と契約して、朝鮮蘭谷面(蘭谷村)で「機械農場」と称するドイツ式大農場の経営を始めることが、大正8年12月25日付け「名古屋新聞」で報じられた。ほどなくしてエートマン(Oetmann)を加えた7名は朝鮮蘭谷で営農した。しかし農場が本格的に起動する前にゾンマーラットは、ザイフェルト、カルクブレンナーに続いて農場を去った。ハンブルク近郊のオルデンフェルデ(Oldenfelde)出身。(1556:福岡→名古屋)
2131) Sonntag(ゾンターク),Joseph(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1914年10月2日、四房山で俘虜となり久留米俘虜収容所に送られた。コーブレンツ近郊のハッツェンポルト(Hatzenport)出身。(767:久留米)
2132) Sottorf(ゾットルフ),Bernhard(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海・フーアマイスター商会]。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ホルンを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(2089:丸亀→板東)
2133) Spann(シュパン),Alexander(1890-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。[独中・高等学校助手]。1890年12月22日ハンブルクのアルトナに生れたが、教育はザーレ河畔のハレで受けた。その地のギムナージウムを出た後、ハレ市近郊の農園で実習を受け、ハレ高等農林に進学した。1910年に同校を終えると上記農園の支配人を務めたが、その後ベルリンとハレの大学で農芸化学を学んだ。1912年10月、一年志願兵として青島に赴いた。2年後に青島の独中・高等学校の農林学科助手に就任した。1915年(月日不明)、「猥リニ印刷物ヲ発行シ我官憲ヲ侮辱シテ俘虜ヲ煽動スル言辞ヲ弄シタル科」で重営倉30日の処罰を受けた。久留米収容所では菜園で研究に必要な植物の栽培をし、また久留米俘虜収容所雑誌『故国の三角旗』(Heimatswimpel)の主筆を務めた。大戦終結して解放後、九大医学部教授久保井猪之吉の紹介で福岡県幸袋町(現飯塚市)の伊藤農園の顧問になった。1920年10月から九州帝国大学講師として、医学部の有志にドイツ語とドイツ文化を教え、翌年には農学部で農業発達史の講義を委嘱され、1926年まで担当した。この間1922年4月から山口高等学校で3年間外国人教師として勤めてドイツ語を教えた。収容所時代に日本語を学んだが、独学によって日本語に一層磨きをかけた。1924年7月に独力で発行した独文雑誌「Das Junge Japan」(若き日本)は1926年6月の第2巻10号出で廃刊するまでに全21冊を出したが、日本近代文学の翻訳を数多く発表した。以下に主なものを挙げると、夏目漱石『坊ちゃん』、武者小路実篤『その妹』、菊池寛『藤十郎の恋』(米沢直人共訳)、『恩讐の彼方に』、里見弴『嫉妬』、山本有三『海彦山彦』(内山貞三郎共訳)、国木田独歩『帰去来』がある。『坊ちゃん』は1925年に大阪の共同出版社から上梓された238頁の完訳である。副題として「お人好し」(Ein reiner Tor)が付けられている。シュパンは「『坊ちゃん』を独訳して」という文章で次のように述べている。「夏目漱石氏の坊ちゃんを訳了出版するにあたって、色々の感慨に打たれます。私が、最初これを読んだ時には、其の生彩に富み、溌剌たる独創性の横溢してゐる点で、明治文壇異数の作品であると思ひましたが、自ら其の後教職に就いて、日本に関する研究を積んでからは、所謂『江戸っ子気質』がこれ程巧みに生き生きと描写してあるものは殆ど他に比類を見まいと思ひます。勿論漱石氏の作品中には、より深刻なより偉大なものがあるけれども、坊ちゃんの人間本然的な、闊達にして廉直なしかも同時に優に柔しい性格は独り日本人のみではなく世界万国の人々に同感を起こすものと思はれ増す。…」シュパンはその後一時神戸鉄道病院でドイツ語講師を務めたが、昭和2年再び九州帝国大学講師となり、医学部でドイツ語論文の校閲などの仕事をしたが、翌年の昭和3年には久留米の九州医学専門学校(現久留米大学医学部)にも出講した。翻訳の仕事はこの頃も続け、上海の独文誌『橋』(Die Brücke)に、菊池寛『小野小町』、芥川龍之介『鼻』等の独訳を発表した。1934年3月10日付けで九州帝国大学講師を依願退職後の消息は不明である。一説には、ある事件のために三池港から密かに貨物船で帰国したとも言われているが、真相は不明である【以上は、上村直己熊本大学教授の「『坊ちゃん』独訳者A・スパン」(「熊本大学学報」第550号)から抜粋したものである】。1920年1月1日の『福岡日日新聞』には、久保井猪之吉訳になるシュパンの詩「窓の前」が掲載された。ハンブルクのアルトナ出身。(732:久留米)
2134) Spenle(シュペンレ),Albert(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。宣誓解放された。ゼンハイム(Sennheim)近郊のウフホルツ(Uffholz)出身。(2737:名古屋)
2135) Sperling(シュペルリング),Eduard(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・後備砲兵伍長。応召前10年近く北京に暮らし、蒋介石軍の顧問を務めていた。妻は中国人で、中国語を流暢に話した。とがった顎鬚をはやし太鼓腹のシュペルリングは、周囲から中国老人と言われた。1916年10月20日、ミリエス(Millies)、オストマン(Ostmann)等68名とともに福岡から習志野へ収容所換えになった。下記弟のエーミール(Emil)とは福岡で一緒であったが、弟は大阪俘虜収容所行きとなって別れ別れになった【参照『大阪朝日新聞』大正5年10月21日付け】。習志野時代、習志野楽団でティンパニーを受け持った。楽譜が読めなかったシュペルリングは、演奏の際指揮者に左の拳で合図をもらってティンパニーを打ち鳴らした【『ポツダムからチンタオへ』204頁】。また習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』に教師役で出演した。ベルリン出身。(1473:福岡→習志野)
2136) Sperling(シュペルリング),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[神戸製鋼所]。1916年10月20日、上記兄エドアルト(Eduard)と一緒に福岡から収容所換えになった。大阪駅で習志野に送られる兄と手を取り合って別離を嘆いた【参照『大阪朝日新聞』大正5年10月21日付け】。ベルリン出身。(1479:福岡→大阪→似島)
2137) Speth(シュペート),Nikolaus(1890-1970):第3海兵大隊第5中隊・副曹長。解放されてドイツに帰国後の1921年4月23日、アンナ(Anna Fontaine, 1888-1942)と結婚した。ラインラントのフラウラウテルン(Fraulautern)出身。(3089:松山→板東)
2138) Spiesecke(シュピーゼッケ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵伍長。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁2点、箱1点、戸棚1点、筆入れ1点を出品した。ブランデンブルクのフレーダースドルフ(Fredersdorf)出身。(4042 :大阪→似島)
2139) Spiro(シュピーロ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・後備機関兵曹長補。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。当初は小樽で職を得ようとしたが、最終的には上海へ渡り、同済大学に勤務し教授となり、工学部長を務めた。ハンブルク出身。(1488:福岡→大阪→似島)
2140) Spohr(シュポーア),Christian W.(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備軍曹。[宣教師]。東京時代の1914年11月29日、ミサを執り行った。なかなか立派な説教であったが、自身の純潔を褒めすぎた嫌いがある、がハインリヒ・ハム(Hamm)の評だった【「ハインリヒ・ハムの日記から」】。習志野時代、1915年12月のクリスマスにミサの司式を執り行った【Jäckisch,W.:Das Barackenlager in NARASHINO、85頁、所載:(Philatelistische Japan-Berichte)116 号】。オスナブリュック出身。(234:東京→習志野)
2141) Spöler(シュペーラー),Heinrich(1894-1919):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大分時代の1918年5月7日、板東のラングハイム(Langheim)から葉書を受けた。【マイレンダー(Mailänder)の項参照】。1919年1月29日、スペイン風邪により習志野で死亡。ヴェストファーレンのボルケン出身。(4445:「熊本→」大分→習志野)
2142) Spörl(シュペルル),Simon(1890-1965):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、第4棟2室で仕立屋を営んだ。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。上部フランケンのカールスグリューン(Carlsgrün)出身。(4288:「大阪→」徳島→板東)
2143) Sporreiter(シュポアライター),Albert(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1917年7月10日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、得点136⅔で中級2位になった。ライプチヒ出身。(724:久留米)
2144) Sprick(シュプリック),Friedrich(?-?):海軍砲兵中隊・2等木工。習志野時代の1918年9月、ハム、ホルヒ、ハスラッハー、リーガーの四阿を建てる際に、大工仕事をした【ハインリヒ・ハム(Hamm)の項参照】。シュトルツェナウ郡のウヒテ(Uchte)出身。(256:東京→習志野)
2145) Spurzen(シュプルツェン),Peter(?-?):海軍膠州砲兵大隊第3中隊・2等砲兵。徳島時代の1916年1月16日、ヤコボフスキー作の一幕物『労働』で女役を演じ、観客にその方面の才能もあることを見せつけた【『徳島新報』第18号(1916年1月23日発行)より】。板東時代の1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、マルタの娘エーフェ役を演じた。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ラインラントのマイエン出身。(4287:「大阪→」徳島→板東)
2146) Stabel(シュターベル),Heinrich(1892-1971):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。『大阪毎日新聞(大正4年4月2日付け)』によればシュターベルは、鉄屑2400貫ほどを積んだ南区難波蔵前町浅野政市所有の和船が、ロープを切断して困っているのを見て、服を脱いで海中に飛び込み、牡蠣殻で足を負傷したのにも拘らずロープを取って、収容所所員を感心させたとのことである。ラインラントのシュトルベルク(Stolberg)出身。(4055:大阪→似島)
2147) Staben(シュターベン),Johannes(?-?):総督府・1等按針長。青島時代はビスマルク街に住んでいた。妻マクダレーナ(Magdalena)は大戦終結まで上海で暮らした。ホルシュタインのレンツブルク出身。(3737:熊本→久留米)
2148) Stahl(シュタール),Ludwig(?-?):総督府・2等焚火兵。板東時代、収容所正門の外のすぐ近くにあった「小松ジャム製造所」の販売を第5棟6室で担当した。所長はイェーガー(Jaeger)であった。また1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、シュタールは初級の部で120½点を挙げて三位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ミュンヘン出身。(3138:松山→板東)
2149) Stahlschmidt(シュタールシュミット),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で木箱用の留め金(真鍮及び鉄製)を出品した。ライン河畔のアルテンドルフ出身。(4053:大阪→似島)
2150) Staiger(シュタイガー),Karl(?-?):国民軍・伍長。大戦終結して解放後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された【『俘虜ニ関スル書類』より】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。【『俘虜名簿』では「Steiger」となっている】。孫娘は、同じ収容所にいたエステラー(Maximilian Esterer)の息子ライナー(Rainer)と結婚した。ヴュルテンベルクのクラインガルターエ(Kleingartahe)出身。(4597:大阪→似島)
2151) Stamm(シュタム),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。[鋳型工]。熊本時代、酩酊して脱柵し、民家に入った科で重営倉15日の処罰を受けた。久留米時代、1918年10月から澤野鉄工場で鋳型の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。エルビング(Elbing)出身。(3660:熊本→久留米)
2152) Starcic(スタルチッチ),Johann(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等機関下士。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、スタルチッチは木工部門の「削ぎ彫・平彫り」で、宝石箱、額縁等7点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』80-81頁】。ダルマチア出身。(2397:姫路→青野原)
2153) Stauch(シュタオホ),Karl(?-1919):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1919年1月29日、スペイン風邪により習志野で死亡。テューリンゲンのルーラ(Ruhla)出身。(228:東京→習志野)
2154) Staudt(シュタウト),Heinrich(1893-1986):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1925年8月29日に結婚した。ヘッセン=ナッサウのドルヒハイム(Dorchheim)出身。(3673:熊本→久留米→板東)
2155) Stecher(シュテッヒャー),Georg Walter(1874-1922):海軍野戦砲兵隊長・陸軍砲兵大尉。〔外方陣地左翼陣地指揮官〕。1874年11月(日にちは不明)、父クルト・シュテッヒャー(Kurt Stecher;1840?-1900)と母(Elise Anna、旧姓Lemke)との間に長男としてドレスデンで生まれた。後に弟(名前は不詳)が出生する。父はザクセン陸軍の軍医であった。ザクセン陸軍省に所属していたシュテッヒャーは、陸軍少佐久邇宮邦彦王のプロイセン陸軍への受け入れと交換で来日することになり、1907年4月、ドレスデン駐屯第4野砲兵連隊中尉から大尉に昇進して同年9月初旬東京に着いた。同年11月に静岡の連隊に、翌1908年9月に東京世田谷・三宿の近衛第14野砲兵連隊付武官となった。1909年4月の満州戦場視察を願い出たが、病気のために満韓旅行は中止された。滞在中、日本陸軍の教範『歩兵操典』、『野戦砲兵操典』及び『野戦砲兵射撃教範』を独国大尉クント(不詳)等と独訳した。その時期に明治天皇の接見をも体験している。日本滞在の期間は当初2年間とされていたが、配属部隊が1909年9月から11月まで演習を行うことから3ヶ月の滞在延長を願い出た。世田谷時代に猪狩亮介少佐と親交を結んだと思われる。1909年11月に帰国した。1909年の『ザクセン国政便覧』によれば、ドレスデン駐屯第4野戦砲兵連隊所属となっている。1913年にはピルナ(Pirna)市駐屯第5野戦砲兵連隊に所属した。その年青島の守備隊に配属された。10月13日の一時休戦時に、カイザー少佐を通じて知友の山田耕三大尉の安否を問う葉書を受け取った。山田大尉からはその後も、シュテッヒャー大尉を気遣う葉書がドイツ側前線に送られた【ベヒトルスハイム(Bechtolsheim)大尉の項を参照】。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。松山時代、猪狩亮介少佐の弟猪狩恭助(当時、愛媛県立農事試験場技師)が収容所に面会に訪れた。また来迎寺の収容所では他の俘虜達に日本語の授業を行い、山越の日曜講演会では「日本」と題して講演した。また、松山俘虜収容所では非合法の形で新聞『陣営の火』が発行されたが、1916年に3回に亘って掲載された松山地域を概観する論説が載った。その前書きによると、関連する日本語文献を翻訳したのはシュテッヒャーであった【松尾「ザクセン王国出身の青島捕虜」45頁】。板東では、1917年10月2日「日本側から見た青島の戦い」の第1回講演(第2回は9日)を行った。板東テニス協会の理事長を務めた。板東の鳴門市ドイツ館には、シュテッヒャーが筆で書いた「忍 耐 ステッヘル少佐」の書が額に納められて展示されている【収容中に昇進したと思われる。フォラートゥン(Vollerthun)及びマイアー=ヴァルデック(Meyer-Waldeck)の項を参照】。妻クレール(Claire)は息子と娘の三人で、大戦終結まで上海で暮らした。ドイツに帰国後の1920年1月30日、1915年1月30日付けで陸軍少佐に昇進し、1920年3月9日、再度陸軍に入った。なお、前述したシュテッヒャーの父親クルト・シュテッヒャーについては、森鴎外との接点が明らかになった【参照:松尾展成「日本とザクセンを結んだシュテヒャー父子」所載:『チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会』ホームページ中の「論文・記事等」】。ドレスデン出身。(3132:松山→板東)
2156) Steckelberg(シュテッケルベルク),Hans(1886-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備2等砲兵。1886年11月、ラインラントのランゲンベルクに生まれた。1888年1月から1898年2月までシュレースヴィヒのゾンダーベルク(Sonderberg)に居住し、後に家族とともにヴェストファーレンに移住したが、1910年8月中国に赴いた。母親は1918年11月に再びゾンダーベルクに移住した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ラインラントのランゲンベルク出身。(1487:福岡→大分→習志野)
2157) Steen(シュテーン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。[上海・ヘットラー商会(Hoettler & Co.)]。大戦終結して解放後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(2078:丸亀→板東)
2158) Steffens(シュテフェンス),Walter(1889-?):総督府・海軍少主計。1907年4月1日海軍に入り、1911年9月22日海軍少主計補、1914年10月30日少主計に昇進した。ドイツに帰国後の1920年1月30日海軍中主計、1922年11月1日退役した。ローマン(Lohmann)の遺品中には、シュテフェンス、ローマン、エンゲルホルン(Engelhorun)、カルクブレンナー(Kalkbrenner)、ヤンゼン(Jansen)、シュテーゲマン(Stegemann)の六人が、冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところで思い思い居並んでいる写真が遺されている【ローマンの項、及び〔写真7〕を参照】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ククスハーフェン出身。(2685:名古屋)
2159) Steffens(シュテフェンス),Heinrich(1880-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[横浜・ドイツ学園教師]。松山時代、公会堂の収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、ヴィオラを担当し、合唱団にも所属してバスを担当した。板東時代、ヘルマン・ハーケ(Hermann Hake)と二人同室で過ごした。ハーケによれば「真の友人」となった【石川「ベートーヴェン『第九』と板東俘虜収容所」189-190頁】。解放後は日本に留まり、横浜のドイツ学園に復帰した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席。ハノーファーのゾルタン郡エッガースミューレン(Eggersmühlen)出身。(3098:松山→板東)
2160) Stegemann(シュテーゲマン),Alfons(?-?):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備副曹長。1919年10月4日、名古屋市内の明倫中学校校庭で行われた「日独混合蹴球戦」で、白軍のRH守備の選手として出場した。試合の結果は白軍が2対1で黒軍を破った。この試合の模様は、10月6日付けの新聞『新愛知』で詳細に報じられた。なお、バイアー(Beyer)、ビーン(Ludwig Bien)、クルーク(Krug)、クドラ(Kudla)及びシュテーゲマン以外の5名の名古屋の俘虜は同姓が二名以上いる等から特定することが不可能である。2006年12月15日、ドイツ-日本研究所のウルズラ・フラッヘさんから、シュテーゲマンの孫オスヴァルト・ハッセルマン(Oswald Hasselmann)氏の編集になるCDが日本の複数の研究者に届けられた。そのCDは、シュテーゲマンとその友人マックス・ローマン(Max Lohmann)の遺品を集成したもので、総数は50枚である。青島から日本へ送られる際の「ヨーロッパ丸」船内、帰国船「豊福丸」船内、蘭領印度のサバン(Sabang)港、スエズ運河沿いのイギリス軍収容所、ヴィエルヘルムスハーフェン港、名古屋市内の様子など、従来余り知られていなかった写真映像が多数ある。いくつかの写真の下には短い説明分や俘虜の氏名が記されている、貴重な資料である。シュテーゲマン自身が写っている写真は四枚ある。またローマン(Lohmann)の遺品と思われる写真には、シュテーゲマン、ローマン、エンゲルホルン(Engelhorn)、カルクブレンナー(Kalkbrenner)、ヤンゼン(Jansen)、シュッテンフェンス(Walter Steffens)の六人が、冬の陽だまりの中、収容所の建物内の縁側と思われるところで思い思い居並んでいる写真が含まれている【ローマンの項、及び〔写真7〕を参照】。なお、1918年3月16日消印で、名古屋収容所のシュテーゲマンに宛てて板東収容所のフリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)が出した葉書が、スイス在住のシュテーゲマンの孫オスヴァルト・ハッセルマン(Oswald Hasselmann)氏の手元に遺されている。葉書の表には、「板東俘虜作品展覧会」(Deutsche Ausstellung Bando 1918)等の記念印が押されている。なお、ルンプは同年5月8日消印でもシュテーゲマン宛てに葉書を出している。ハンブルク出身。(2689:名古屋)
2161) Stegemann(シュテーゲマン),Otto(?-1978): 第3海兵大隊・予備伍長。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フライブルクの連邦公文書館には、「日本におけるドイツ人俘虜の状況」(Die Lage der deutschen Kriegsgefangenen in Japan)の報告書が所蔵されている。その内容の一部が校條善夫氏によって紹介されている【「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅲ」、所載:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号、62頁及び64-66頁】ダイスター(Deister)河畔のラウエナウ(Lauenau)出身。(3678:熊本→久留米)
2162) Steglich(シュテーグリヒ),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。青野原時代の1919年3月30日に開催された慈善演奏会で指揮を執った。この演奏会は東シベリアで苦境に喘いでいる戦友のために開かれたものである。曲目としては、グリーグの『ソルヴェイグの歌』、ヴァーグナー『巡礼の合唱(歌劇「タンホイザー」)』、シューベルト『軍隊行進曲第一番』等である【『AONOGAHARA捕虜の世界』85頁】。ドレスデン近郊のロシュヴィッツ(Loschwitz)出身。(1503:福岡→青野原)
2163) Stegmaier(シュテークマイアー),Alois(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1916年10月18日、福岡俘虜収容所から大分俘虜収容所へ移された。習志野時代の1919年8月12日、習志野演劇協会によるベネディクス作の喜劇『親戚の情愛』に女中頭役で出演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ウルム出身。(1481:福岡→大分→習志野)
2164) Steil(シュタイル),Alwin(1889-1960):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[独亜銀行香港支店]。松山時代の1915年3月15日、シュタイルは両親に宛てて手紙を書いたが、規定の書き方に反したことで、本人に通知されることなく検閲官に没収された。【久留米俘虜収容所及び松山俘虜収容所では、郵便を出す際にその書き方に厳しい規定を設けた。線をきちんと引いてその上に文字を書かせるようにしたのである。検閲しやすいようにとの考えからと思われる。因みにその手紙には、上海のドイツ人クラブが松山の俘虜達のために、その蔵書の一部を送ったことが記されてある。手紙は今日、コブレンツの連邦資料館に保存されている。クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』134頁及び179頁】。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時30歳)、2時間58分56秒5分の1で84位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ライン河畔のアルトリップ(Altripp)出身。(3105:松山→板東)
2165) Steimann(シュタイマン),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米に収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのハム(Hamm)出身。(1496:福岡→久留米)
2166) Steimetz(シュタイメッツ),Fritz(?-?):第3海兵大隊幕僚・後備中尉。〔地区工兵将校〕。ライナイ(Lainey)出身。(1578:福岡→習志野)
2167) Stein(シュタイン),Wilhelm(1892-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。[ホテル経営]。久留米時代の1916年12月15日、松山のオットー・ヴェルナー(Otto Werner)の母親(未亡人)宛にクリスマスと新年の挨拶を述べた絵葉書を出した【シュミット】。大戦終結して解放後、シャート(Schad)と青島で共同経営していた「ホテル・シュタイン・ウント・シャート」の営業を再開した。大戦中はある日本人女性に形式上譲渡してあった。ザール河畔のノイキルヒェン出身。(720:久留米)
2168) Steinbach(シュタインバッハ),H.Walter(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1917年1月28日、アンドレーアをショルツ(Scholz)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ライプチヒ出身。(3717:熊本→久留米)
2169) Steinbacher(シュタインバッハー),Hans(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ベネディクス作の喜劇『新婚旅行』等25演目に、主として女役で出演した。1919年12月21日の久留米恵美須座での幕間演芸で、シュタインバッハーはザルトリは(Sartori)と一緒に南ドイツの靴踊りを披露して大喝采を博した(『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(55頁)。ミュンヘン出身。(713:久留米)
2170) Steinbrück(シュタインブリュック), Heinrich Robert(1886-?):第3海兵大隊工兵中隊・予備少尉。[建築家]。応召前は上海及び広東で建築の仕事をしていた。解放後は蘭領印度に渡った。ライプチヒ出身。(3696:熊本→久留米)
2171) Steindecker(シュタインデッカー),Arthur(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。ハンブルク出身。(4704:大阪→似島)
2172) Steinert(シュタイネルト),Kurt(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。板東時代、「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時26歳)は、2時間38分30秒で58位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。エアフルト出身。(3662:熊本→久留米→板東)
2173) Steinfeld(シュタインフェルト),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[神戸・ジーモン・エーファース商会]。松山時代、公会堂の収容所講習会で日本語の講師を務めた。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、ボイスハウゼンと組んでBクラス1位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。また1918年9月、「板東健康保険組合」の第6中隊代表理事に選ばれ、また劇場委員会にも所属した。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、大阪の井村貿易商会に勤めた。リーグニッツ(Liegnitz)出身。(3107:松山→板東)
2174) Steinhagen(シュタインハーゲン),Fritz(?-1920):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日、福岡から久留米へ収容所換えになった。1920年1月15日死亡(帰国船内?)。ブレーメン出身。(1501:福岡→久留米)
2175) Steinhart(シュタインハルト),August(1884-1971):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。解放されて帰国後に結婚した。ホーエンツォレルンのケッテンアッカー(Kettenacker)出身。(716:久留米)
2176) Steinhoff(シュタインホフ),Fritz(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備2等工兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、東京で勤務した。ヴェストファーレンのヴェルファー(Welver)出身。(3130:松山→板東)
2177) Steinlein(シュタインライン),Jakob(1892-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。板東時代、丸亀蹴球クラブの役員を務めた。解放後は蘭領印度に渡った。ザールブリュッケン出身。(2069:丸亀→板東)
2178) Steinmetz(シュタインメッツ),Hermann(1891-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。丸亀時代の1915年7月19日、楽器購入のために市街に赴いた。同年10月21日には、高松師範学校外県立4学校の音楽教師の希望により、パウル・エンゲル(Paul Engel)と丸亀高等女学校で試験演奏を行った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代、1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会に出場して、横泳ぎでは42.1秒で3位に、主競泳では1分28.4秒で1位になった。またメドレーリレーでは、ヴィヒェルハウス(Wichelhaus)、フェルチュ(Färtsch)、レーマン(Lehmann;板東にはレーマンが二名いて特定不可)と組んで1位になった。ブレーメン出身。(2082:丸亀→板東)
2179) Steitz(シュタイツ),Fred(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。吉村お縫いという名の内縁の妻がいた。ヴィースバーデン出身。(739:久留米)
2180) Steitz(シュタイツ),Dr.Wilhelm(1891-?):第3海兵大隊第1中隊・予備陸軍少尉。久留米時代、シュタイツの手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには【〔写真6〕参照】、中央部分に「久留米収容所楽団」のレーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている。さらに写真には各自のパートも記されている。それによって「久留米収容所楽団」の楽団員が受け持ったパートが判明した。シュタイツは1919年用の「久留米カレンダー」に12枚のスケッチを寄せた。また収容所で制作された「久留米カレンダー」(1919年用)にスケッチ12枚を載せた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。マイン河畔のフランクフルト出身。(3644:熊本→久留米)
2181) Stelzner(シュテルツナー),Georg(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門で、農場及び一家族用住居の設計図を出品した。ザクセンのメーラネ(Meerane)出身。(4070:大阪→似島)
2182) Stephan(シュテファン),Andreas(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で下記マティーアス(Matthias)と同船でドイツに帰国した。ラインラントのヴァインスハイム(Weinsheim)出身。(4298:「大阪→」徳島→板東)
2183) Stephan(シュテファン),Matthias(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。大戦終結後の1919年12月26日、帰国船豊福丸で上記アンドレーアス(Andreas)と同船でドイツに帰国した。ラインラントのヴァインスハイム(Weinsheim)出身。(4049:大阪→似島)
2184) Stephan(シュテファン),Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。ハインリヒ・ハムの日記によると1918年3月、勤務に就くのが少し遅れたことで、田中中尉に殴られて倒れそうになった。反抗出来ない俘虜に対するこの態度は、皆を立腹させた。エルンストタール近郊のホーエンシュタイン(Hohenstein)出身。(232:東京→習志野)
2185) Steppan(シュテッパン),Herbert(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代の1915年6月11日、6月4日に規定場所以外で日光浴をし、かつ歩哨に対して粗暴な振る舞いをした科で重営倉20日に処せられた。板東時代、公会堂での絵画と工芸品展覧会に日本趣味に富んだ風景画「赤い寺」を出品して奨励賞を受けた。1918年6月1日、軍楽曹長ハンゼン(Hansen)によってベートーヴェンの「第九交響曲」が板東収容所内で本邦初演された。その折り、シュテッパン、ヴェーゲナー(Wegener)2等歩兵、フリッシュ(Frisch)2等歩兵、コッホ(Koch)伍長の四人は第4楽章の「合唱」でソロを受け持った。プフォルツハイム出身。(3115:松山→板東)
2186) Stern(シュテルン),Heinrich(?-?):海軍砲兵中隊・海軍中主計。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、運営本部の一員として出納主任を務めた。ヴェルニゲローデ出身。(4072:大阪→似島)
2187) Stern(シュテルン),Otto(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・1等水兵。習志野時代、習志野劇場によるエルンスト作の喜劇『フラックスマン先生』にブロックマン役で出演した。ニーダーバルミン郡のシュトルプス(Stolps)出身。(262:東京→習志野)
2188) Stertze(シュテルツェ),Friedrich(?-1916):海軍砲兵中隊・2等水兵。1916年6月4日、肺結核兼結核性脳膜炎により習志野で死亡、陸軍墓地に埋葬された。ホーエンエルクスレーベン(Hoenerxleben)出身。(255:東京→習志野)
2189) Steude(シュトイデ),Rudolf(?-?):国民軍・卒。[ザンダー・ヴィーラー青島支店]。青島時代はイレーネ街(Irenestraße;日本の占領統治時代は久留米町)に住んでいた。ライプチヒ出身。(4599:大阪→似島)
2190) Steudner(シュトイトナー),Hermann(?-?):兵器庫・砲兵係。青島時代はティルピッツ街に住んでいた。松山時代(大林寺収容)の1916年5月28日、酔って同僚に危害を加えようとしたことで、営倉預けになり重謹慎5日に処せられた。ザクセンのアイバウ(Eibau)出身。(3140:松山→板東)
2191) Stevens(シュテフェンス),Heinrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。板東時代の1918年4月4日から6日の三日間、ブランダウ演劇グループによるクライストの『壊れ甕』の上演に際して、農民ファイト・テュンペル役を演じた。ラインラントのレース(Rees)出身。(4304:「大阪→」徳島→板東)
2192) Stobrawe(シュトブラーヴェ),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、全般の部の作業道具の部門に手編みの壁掛けを出品した。ブレスラウ出身。(4058:大阪→似島)
2193) Stoffregen(シュトフレーゲン),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・後備上等歩兵。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通に住んでいた。ハノーファー出身。(2684:名古屋)
2194) Stoll(シュトル),Hugo(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・副曹長。〔第13砲台指揮官〕。指揮官は後に、ブリルマイアー予備少尉に替わった。似島時代、屠畜職人だったケルン(Kern)、ヴォルシュケ(Wolschke)の三人で、当時の広島市広瀬町上水入町のハム製造会社酒井商会でハム製造の技術指導をした。三人の写真が『広島中国新聞』(大正8年12月25日付け)に掲載されている。ザクセンのランゲンザルツァ(Langensalza)出身。(4067:大阪→似島)
2195) Stolle(シュトレ),Otto(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備伍長。[オットー・ライマース商会横浜支店]。板東時代、収容所の管理本部事務室で通訳を務め、「ドイツ牧舎」の建設にあたっての通訳の任に当たった。また電灯係りとして電灯の注文・代金支払いの公示や故障申告・補充品販売等の仕事をを務めた。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。オルデンブルク出身。(2080:丸亀→板東)
2196) Stopsack(シュトップザック),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備2等水兵。1919年11月25日、九州・若松の帝国鋳物株式会社に技師として就職した。月給は350円であった【坂本「久留米俘虜収容所の一側面」(下)5頁】。なお、大阪安治川鉄工場からの鉄工作業技術を持っていて、日本在留就職希望者照会に対する、同年12月23日付けの久留米収容所からの回答にもその名がある。メークデシュプルング(Mägdesprung)出身。(3731:熊本→久留米)
2197) Storf(シュトルフ),Matheus Josef Otto(1892-1967):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。建築士の父マテーウス(Matheus;1845-1911)と母マリーア(1863-1948)との間にアウグスブルクで生まれた。1913年10月1日海軍に入り、1914年1月12日、パトリツィア号で膠州に向かい、2月12日に青島に着いた。大阪時代の1915年12月31日の大晦日、ケルン(Kern)とともに脱走したが、翌元旦に堤防の上を歩いているところを発見され逮捕、大阪監獄に収監された【堀田暁生氏からの教示によれば、「欧受大日記」(大正5年2月)には、12月30日夜に脱走となっている。また、同「欧受大日記」(大正11年1月)では、大正6年2月2日、5日付けで、似島への収容所換えに関して、「収監中ノ俘虜ハ其侭収監 …刑期満了ヲ待テ似島ニ護送」とある由。】。この事件のため、1月27日に予定されたドイツ皇帝誕生日を祝う祝賀会及び音楽会が許可されなかった。ドイツに帰国後は機械印刷主任として働いた。1927年ブラジルに移住し、後にアルゼンチンのブエノスアイレスに移り、その地で没した【シュミット】。なお、2007年11月30日、シュトルフの甥ダニエル・エグナー(Daniel Egner)氏が、シュミット氏のホームページの「ゲストブック」に上記内容に関して若干の書き込みをした。またエグナー氏からシュミット氏に寄せられた情報では、シュトルフは禁固28月に処せらたとされている。アウグスブルク出身。(4061:大阪→似島)
2198) Straehler(シュトレーラー),Herbert(1887-1979):海軍膠州砲兵隊・海軍中尉。〔第7及び第7a砲台指揮官〕。1915年11月福岡収容所から逃亡した。フランス語が巧みだったので、パリ・ヴォルテール街59番地に住む法律家アンリ・ヴーテル(Henry Vouters)と称した。上海で四人が落ち合って後、ザクセと二人で太平洋を渡ってアメリカに行き、更にザクセとともにノルウェー人を装ってヨーロッパに向かったが、スコットランド沖でイギリス軍艦の臨検で発覚して逮捕され、大戦終結までマン島の俘虜収容所に収容された。ザクセ少佐と共同執筆した「我等が逃亡記」という記事が、『シュトゥラールズント日報』の付録娯楽版(”Stralsunder Tageblatt”,Unterhaltungs-Beilage,Nr.54ff,März~Juli,1938)に掲載された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ブレスラウ出身。(1462:福岡)
2199) Strantz(シュトランツ),Harry von(1872-1923):海軍東アジア分遣隊第3中隊長・陸軍大尉。〔外方陣地左翼陣地〕。ゲルリッツ出身。(3698:熊本→久留米)
2200) Strassenburg(シュトラーセンブルク),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等信号兵。1917年1月28日、アンドレーアをシュタインバッハ(Steinbach)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。ベルリンのシャルロッテンブルク出身。(3688:熊本→久留米)
2201) Strasser(シュトラッサー),Karl(?-?):総督府・後備陸軍少尉。[総督府経理官及土木監督官]。ゲーデッケ中尉の後を受けて要塞火工長に就いた。青島時代はキリスト小路(Christweg)に住んでいた。ヴュルテンベルクのアウレンドルフ(Aulendorf)出身。(1460:福岡→習志野)
2202) Straub(シュトラウプ),Eugen(?-?):装甲巡洋艦グナイゼナウ乗員・2等木工。[写真屋]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。ヴュルテンベルクのドラッケンシュタイン(Drackenstein)出身。(4606:大阪→似島)
2203) Strauch(シュトラオホ),Rudolph(1893-1972):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。1893年5月3日、機関手の子としてザンクト・ヨーハン(今日のザールブリュッケン)に生れた。1914年8月上記中隊に入隊した。1915年7月11日福岡収容所から久留米収容所に収容所換えになった。1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)が設立されたが、その第3代会長を務めた。第二次大戦後「チンタオ戦友会」に出席した【シュミット】。ザールブリュッケン出身。(1579:福岡→久留米)
2204) Strauss(シュトラウス),Moi(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。妻は日本人女性でミサオという名であった【『日本人とドイツ人』59頁】。マインツ近郊のボーデンハイム出身。(3117:松山→板東)
2205) Strauss(シュトラウス),Paul(1892-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。熊本時代(長国寺に収容)の1915年3月15日、少し以前から高熱で入院していたが、この日ベッヒャー(Böcher)及びグラーゼル(Glaser)とともに腸チフスと診断された。久留米時代は演劇活動で、トーマ作の喜劇『放蕩娘』等に出演した。バイエルンのアイニヒ(Aynig)出身。(3668:熊本→久留米)
2206) Streich(シュトライヒ),Otto(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。[屠畜職人]。東京収容所時代の1915年4月4日、日本官憲の命令を聞かなかったことから重営倉2日に処せられた。ボン出身。(235:東京→習志野)
2207) Streicher(シュトライヒャー),Kuno(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。[麦酒製造職人]。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ブレーナ(Brena)出身。(1532:福岡→青野原)
2208) Strempel(シュトレンペル),Walter(?-?):所属部隊なし・2等掌砲兵曹。元キールの海軍水兵第1大隊所属。1912年アメリカに渡りペンキ屋となったが、1914年11月3日アメリカ歩兵大隊に志願してマニラに赴いた。1915年2月除隊してサンフランシスコに戻る途中船は長崎に寄港した。上陸して酒をしこたま飲み日本の官憲に見咎められた。たまたまドイツの新聞を持っていたため逮捕され、久留米俘虜収容所に送られた。当時24歳だった。1916年4月10日ヴィラーバッハ(Willerbach)と逃亡するが、4月17日長崎で捕まり、禁錮1年6ヶ月の刑を受けて福岡監獄に収監された。久留米の演劇活動では、喜劇『クラブチェアーに座って』他1演目に出演した。ベルリン出身。(4710:久留米)
2209) Strieder(シュトリーダー),Kurt W.(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備伍長。[四川鉄道漢口支店]。松山時代、山越の収容所講習会でフランス語の講師を務めた。カールスルーエ出身。(3131:松山→板東)
2210) Strietzel(シュトリーツェル),Martin(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。板東時代、タパタオの14号小屋でヘフトと鍛冶屋、金属加工を営んだ。シュレージエンのロイン(Royn)出身。(4286:「大阪→」徳島→板東)
2211) Struck(シュトルック),Heinrich(?-1950):総督府。[巡査長]。妻オッティーリエ(Ottilie)は息子(12歳以下)と大戦終結まで青島に留まった。ハノーファー近郊のハンマー出身。(4074:大阪→似島)
2212) Struczynski(シュトルシンスキー),Hans von(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては「シニアの部」(当時36歳)で、2時間22分13秒5分の2で1位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ダンチヒ出身。(2076:丸亀→板東)
2213) Stueben(シュトゥーベン),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等機関兵曹。〔海軍飛行部隊〕。青島船渠技手のロルケ(Rolke)とともに、プリューショウ中尉の飛行機の組み立てを行った。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したシュテューベンは4組(出場者総数21名)の内の第2組に割り振られたが、3位で本戦のB級進出に留まった。ヴェストファーレンのハーゲン出身。(4308:「大阪→」徳島→板東)
2214) Stühler(シュテューラー),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等兵曹。1916年8月20日付けの『徳島新報』第3巻第15号によれば、徳島時代シュテューラーは徳島管弦楽団の一員で、第3チェロを担当していた。ベルリン出身。(4275:「大阪→」徳島→板東)
2215) Stuhlsatz(シュトゥールザッツ),Johann(1891-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1919年1月21日、流行性感冒のため広島衛戍病院に入院し、1月26日に同病院で解放された【『戦役俘虜ニ関スル書類』中の附表第六号の「俘虜患者解放者一覧表」より】。ザールブリュッケン出身。(4588:大阪→似島)
2216) Sturm(シュトゥルム),Peter(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、得点128⅓で初級1位になった。また、1919年10月23日に開催された「五種競技」に出場し、円盤投げ3位、砲丸投げ3位、立幅跳び1位、突撃跳び2位、100m競争3位で総合成績2位になった。ヘッセンのヴァラーシュテーテン(Wallerstädten)出身。(740:久留米)
2217) Suhr(ズーア),Karsten H.(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・後備2等工兵。板東公会堂での絵画と工芸品展覧会に連作「日本の風景」を出品した。また1918年5月9日、収容所近隣の水車小屋谷への遠足が行われた。『バラッケ』第2巻第8号の「水車小屋谷への遠足」の文章用にその水車小屋のスケッチを、また同巻第11号には四国の山から見た瀬戸内海のスケッチを寄せた。更に『バラッケ』1919年6月号には、ズーアによる大麻神社に通じる祓川橋、本殿前の石段風景と拝殿のスケッチ等が掲載された。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのメルドルフ(Meldorf)出身。(3004:松山→板東)
2218) Suran(ズーラン),Franz(?-1917):海軍砲兵中隊・後備2等兵曹。東京時代の1914年12月、不服従の行動で重営倉3日に処せられた。更に1915年6月29日には、収容所内の酒保が閉店になってから酒の販売を強請し、空き瓶で酒保監督の軍曹を殴ろうとして重営倉10日の処罰を受けた。習志野時代の1916年7月14日、「収容所医師ニ対シ不軍紀ノ言動ヲナシタル科」で重営倉20日、また入院中の10月21日には「脱院シ逃走ヲ企タル證跡顕著ナル科」で重営倉30日に処せられた。1917年8月29日習志野で死亡。ハンブルク近郊のヴィルヘルムスブルク出身。(247:東京→習志野)
2219) Surand(ズーラント),Fritz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。西プロイセンのエルビング(Elbing)出身。(2073:丸亀→板東)
2220) Susemihl(ズーゼミール),Werner F.(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備伍長。松山時代、公会堂の収容所講習会で英語の講師を務め、板東時代は、板東義勇消防団の団長を務めた。キール出身。(3101:松山→板東)
2221) Sussmann(ズスマン),Kurt(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等水兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門で、一家族用の家のスケッチ、鉄筋コンクリート構造物等を出品した。ザクセンのシェーネルン(Schönern)出身。(4063:大阪→似島)
2222) Swierszinski(スヴィルチンスキー),Anton(?-?):第3海兵大隊第3中隊・軍曹。1919年5月10日に行われた「下士官体操クラブ(Unteroffizier-Turnverein)」の6種競技(陸上競技三種目、器械体操三種目)では、得点67点⅓で初級の3位になった。西プロイセンのブロムベルク(Bromberg)出身。(745:久留米)
2223) Symalla(ジュマラ),Max(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。[天津ドイツ領事館]。ヴェストファーレン地方マルク(Mark)のブリーゼン(Briesen)出身。(2053:丸亀→板東)
2224) Syré(ジュレ),Hermann(1882-1962):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[建築家]。1901年(あるいは1902年)に膠州に赴き、要塞の建設及び山東鉄道の敷設に従事した。1908年1月9日、青島で結婚した。1912年10月、ドイツ帝国の皇弟ハインリヒ・フォン・プロイセン皇子が青島を訪問した際、プリンツ・ハインリヒ・ホテルで歓迎の式典が執り行われた。その折の記念写真をあしらった絵葉書でジュレは兄弟にはがきを出した。記念写真には白い服を着た王子とマイアー=ヴァルデック総督を中心にして、総勢50名ほどが写っている。ジュレは王子のすぐ左隣に立っている。そのはがきの文面は次の通り。「親愛なるアルフレート!ヘルゴラント島からの便り有り難う。元気な様子なによりです。裏面の写真は、陸海軍合同のハインリヒ・フォン・プロイセン王子歓迎式典の時に写したものです。これ以外には特に変わったことはありません。ヘルマンより」【シュミット】。青島時代はハンブルク街(日本の占領統治時代は深山町)に住んでいた。丸亀時代の1916年2月5日、済南で暮らしていた妻メタン(Metan)に宛てて、25円を送金した現金封筒の表の部分が三木充氏所蔵で現存している。板東時代、工芸品展にアードラー(Adler)と縮尺25分の1の橋を制作・出品した。妻は娘(1919年時点で11歳)と大戦終結して俘虜の解放後まで済南で暮らした。テューリンゲンのシュレンジンゲン(Schlensingen)出身。(2083:丸亀→板東)
2225) Tabbert(タッベルト),Otto(1879-?):第3海兵大隊第1中隊・予備陸軍少尉。[裁判所書記官]。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。妻のマルガレーテ(Margarete)と子供二人(いずれも12歳以上)は、大戦終結まで上海で暮らした。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)(769:久留米)
2226) Tauch(タオッホ),Eduard(1883-?):総督府・海軍中主計(中尉相当)。1901年10月1日海軍入り、1909年9月11日海軍少主計、1913年6月28日中主計。北京の海軍東アジア分遣隊経理部勤務から青島へ応召した。ベルリンのハーレンゼー(Halensee)出身。(788:久留米)
2227) Taudien(タオディーン),Hugo(?-?):海軍砲兵中隊・2等副按針長。久留米時代の1916年7月19日、ヘルム(Helm)と逃亡するがすぐに捕まって、重営倉30日に処せられた。このことは収容所と警察の対立を生んだ。同年9月16日、ゾイフェルト(Seufelrt)等と久留米から青野原へ収容所換えになった。東プロイセンのザイケンブルク(Seikenburg)出身。(3753:熊本→久留米→青野原)
2228) Tegethoff(テーゲトフ),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。マンハイム県のシュヴェッツィンゲン(Schwetzingen)出身。(1606:福岡→習志野)
2229) Tegge(テッゲ),Willy(?-?):砲兵兵站部・2等掌砲兵曹。青野原時代の1918年12月13日から20日にかけて、俘虜製作品展覧会が開催されたがその折、テッゲは数々の色鮮やかなスケッチ、デッサンを描いた。今日それらは『小野市史』第6巻、及び第3巻の別冊「AONOGAHARA 捕虜兵の世界」で見ることが出来る。なお、青野原俘虜収容所全景のスケッチも残している。シュトラースブルク出身。(2427:姫路→青野原)
2230) Teinitz(タイニッツ),Max(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海・シェルフ商会(W.Schärff & Co.)]。タイのバンコク在住のドイツ人友人からタイニッツに宛てた葉書が、『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』144-145頁(2007)に紹介されている。ベルリン出身。(3145:松山→板東)
2231) Teller(テラー),Herbert(?-1919):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。1919年2月3日(4日?)、スペイン風邪により習志野で死亡。シュレージエンのオッペルン(Oppeln)出身。(1790:静岡→習志野)
2232) Temme(テンメ),Amandus(1893-1915):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1915年6月6日、12指腸虫症により死亡し、丸亀市土器町東駒ヶ林の軍人墓地に埋葬された。ドイツの習慣にはなかったために検便を拒否したことも、死亡につながったと言われる。前月初旬から丸亀衛戍病院に入院していたが病状悪化し、3日には青島時代の上官及び同郷人としてランツェレ大尉、バウツ(Bautz)曹長、アンドレ(Andrae)伍長、シュレーダー2等歩兵が見舞った。6月8日、石井収容所長を始め所員等職員が立会い、俘虜将校以下273名が整列し、法衣を纏った俘虜宣教師ヒルデブラント(Hildebrandt)の司式により新教で葬儀が執り行われた。10月20日には墓標の竣工がなり、俘虜准士官以下255名が参拝し、一周忌は俘虜将校以下が参列して執り行われた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。ノルトライン=ヴェストファーレンのゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)出身。(2094:丸亀)
2233) Thamm(タム),Eduard(?-1914):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となる。二日後の30日、青島郊外の東李村第2野戦病院で死亡、日本軍により埋葬された。ゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)/ビューア(Buhr)出身。(108:なし)
2234) Theen(テーン),Theodor(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・後備伍長。[シュヴァルツコプ商会青島支店]。青島時代はヴィルヘルム皇帝海岸通に住んでいた。青島では両親と妻の四人家族で、開戦後上海に逃れた妻ルル(Lulu)は、こども(12歳以下)と夫の両親(テーオドール;[商人]、カロリーネ)とともに大戦終結まで上海で暮らした。1915年12月25日の習志野収容所でのクリスマスコンサートでは、P.ローデの作品10「エア・ヴァリエ」及びヘンデルの「ブーレ」をヴェルダー(Wälder)水兵のピアノに合わせてヴァイオリン演奏した。習志野俘虜収容所開設以来5年余に亘って俘虜郵便係となって、陸軍郵便検閲官の業務を助けたことによる所長山崎友造名の感謝状(1919年11月7日付け)が残っている。また同日付での妻の病状悪化を示す文書も残っている。正規の解放前に1ヶ月早く上海へ向けて習志野を発った。上海に居る妻ルルがこの年の1月以来病にあり、危篤との理由からであった。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)。(271:東京→習志野)
2235) Theile(タイレ),Friedrich(1889-1978):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。[ジータス-プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。久留米時代の演劇活動では、K.Th.ケルナー作の悲劇『トーニー』等に出演した。宣誓解放された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。アルトナ出身。(773:久留米)
2236) Thibaut(チボー),Charles(1881-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍中主計(中尉相当)。キールもしくはオーデル河畔のフランクフルト出身。(789:久留米)
2237) Thiel(ティール),Gustav(?-?):海軍野戦砲兵隊・後備副曹長。エーリヒ・フィッシャー(Erich Fischer)の日記には、収容所仲間の人物評が記されている。ティールについての人物評は次ぎの通りである【『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(60頁-61頁)「ティールは昔漢口で茶の鑑定人をしていた。それにもかかわらず治しようのないタバコ飲みだ。既婚、素晴らしい数学家で頭が切れる。どもることがある。大金稼ぎ。僕が知っている中で最高に節度をわきまえた人間だ。休暇を取って、上海にいる兄弟を訪ねるつもりでいる。」】。ケーニヒスベルク出身。(3750:熊本→久留米)
2238) Thiel(ティール),Otto(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、佐賀県の日本電機株式会社に電機技師として雇用された。ノインキルヒェン出身。(3746:熊本→久留米)
2239) Thiele(ティーレ),Johannes(1890-1974):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[金銀細工師]。1916年9月25日、トルトゼン(Thordsen)等90名で福岡から青野原へ収容所換えになった。大戦終結して解放後の1920年9月、結婚のためにツィッタウ市役所に書類を提出した【松尾「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」99頁】。ツィッタウ出身。(1607:福岡→青野原)
2240) Thiele(ティーレ),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で蹄鉄2点を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセンのハルバーシュテッテ(Halberstett)出身。(4078:大阪→似島)
2241) Thielsch(ティールシュ),Alfons(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ブレスラウ近郊のティンツ(Tintz)出身。(777:久留米)
2242) Thies(ティース),Bruno(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。丸亀時代の1915年(月日不明)、「禁止ノ場所ニ猥リニ立入リタルノミナラス絶対ニ服従スヘキ衛兵司令ノ命令ニ従ハサリシ科」で重営倉10日の処罰を受けた。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのシングル(ハンディ付き)Aクラス2位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時29歳)、2時間29分56秒5分の2で85人中の第24位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ブレーマーハーフェン(Bremerhaven)出身。(2098:丸亀→板東)
2243) Thies(ティース),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[上海郵便局]。1914年8月5日の夜10時半に友人のギムボルン(Gimborn)と一緒に青島に向けて上海を出発した。8月6日朝7時南京着、8月7日朝6時に青島に到着した。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルス(ハンディ付き)で、アルプスⅠと組んでAクラス2位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。また同年6月25日、収容所内「タパタオ」の村長選挙が行われ、決戦投票の結果ティースの22票に対して、ハークが44票を獲得して新村長に選出された。板東ホッケー協会の庶務係を務めた。ブレーメン郡のノイツェン(Neuzen)出身。(2096:丸亀→板東)
2244) Thilo(ティーロ),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備副曹長。[山林局長代理]。8月末からの豪雨で破壊された道路を、部下とともに中国人労働者を使って修復に努め、日本軍が租借地境界に進軍する前に復旧させた。【『青島戰史』76頁】妻エルナ(Erna)は大戦終結まで上海で暮らした。なお、1914年12月17日付けで、広島衛戍病院から青島ビスマルク街の歯科医ブーヒンガー夫妻に宛てたハガキ(俘虜郵便)が知られている。ホルシュタイン出身。(4079:大阪→似島)
2245) Thoma(トーマ),Leo(1894-1968):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。ドイツに帰国後の1920年に結婚して子供三人をもうけた。郷里で理髪店を営んだ。ラインラントのカルターヘアベルク(Kalterherberg)出身。(2714:名古屋)
2246) Thomer(トーマー),Fritz(?-?):海軍東アジア分遣隊・2等歩兵。習志野時代の1919年1月8日、9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に娘役で出演した。ケルン近郊のフレシェン(Fleschen)出身。(1608:福岡→習志野)
2247) Thomsen(トムゼン),Erich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備2等砲兵。天津から応召した。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのボルデスホルム(Bordesholm)出身。(4311:「大阪→」徳島→板東)
2248) Thomsen(トムゼン),Oswald(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備陸軍少尉。静岡時代の1915年4月13日、俘虜情報局に横浜のオットー・ライマース商会のヴェルナー・ライマースより、トムゼン訪問の願い書が提出された【『欧受大日記』(大正十一年一月綴り)より】。ハンブルク出身。(1791:静岡→習志野)
2249) Thönes(テーネス),Fritz(?-1919):第3海兵大隊第1中隊・予備副曹長。1919年2月2日、スペイン風邪により習志野で死亡。デュッセルドルフ出身。(4447:「熊本→」大分→習志野)
2250) Thordsen(トルトゼン),Thomas(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。1916年9月25日、ティーレ(Thiele)等90名で福岡から青野原へ収容所換えになった。トルトゼンと同じ部隊で、収容所も一緒であったケルステン(Kersten)の日記には、トルトゼンに言及した部分がある。それによると青野原時代、6羽のチャボと1羽の雄鶏を飼う許可を得、後にはチャボの代わりに普通の産卵鶏を買う許可も得た。また、神戸の「ドイツ・クラブ」での歓迎会に出席するため休暇を得ての神戸行きが、時間的に極めて困難であると、司令官等に粘り強く交渉した。【『小野市史』第6巻825頁】。妻は子どもと神戸で暮らしていた。神戸から応召したものと思われる。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(1597:福岡→青野原)
2251) Thoss(トス),Alfred(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。『ドイツ軍兵士と久留米』205頁には、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真が掲載されているが、その左から五人目にトスが写っている。テューリンゲンのツォイレンローダ(Zeulenroda)出身。(776:久留米)
2252) Thron(トゥローン),Karl(?-?):第3海兵大隊工兵大隊・2等工兵。[北ドイツ・ロイド汽船プリンツ・アイテル・フリードリヒ号乗員]。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第2ヴァイオリンを担当した。プロイセンのプレッサ(Plessa)出身。(3146:松山→板東)
2253) Thurm(トゥルム),Max(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ザクセン=アルテンブルクのゲスニッツ(Gössnitz)出身。(4449:「熊本→」大分→習志野)
2254) Tidemann(ティーデマン),Karl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・予備伍長。久留米の演劇活動では、リンダウ作の『もう一人の男』等3演目に出演した。1919年10月21日に開催された「1919年スポーツ週間」の「幅高跳び Aクラス」で、高さ1.50m、幅2.80m 接触で2位になった。上部シュレージエンのエルグート=ティロヴィッツ(Ellguth-Tillowitz)出身。(771:久留米)
2255) Tiefenbacher(ティーフェンバッハー),Josef(1892-1972):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。〔湛山堡塁〕。1914年11月2日未明の日本軍の攻撃で負傷した。ハンブルク近郊のラインベク(Reinbek)出身。(4609:大阪→似島)
2256) Tiefensee(ティーフェンゼー),Dr. Franz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[徳華高等学堂講師・中国語学者]。松山時代、公会堂の収容所講習会で中国語及び数学の講師を務めた。板東時代、『日刊電報通信』のために中国からのニュースを翻訳した【『バラッケ』第2巻82頁】また収容所内印刷所から『中国礼式入門』、『商用中国語・中国事情』、『礼節指南』を出した。1917年6月21日、「中国の夕べ」で講演を行う。ドイツが戦争に負けて俘虜達が故国に帰還し始めると、ドイツで若者達の再教育をする方が中国語の勉強よりも重要だとの考えに至った。帰還船がインド洋上にさしかかった時、ティーフェンゼーは貴重な草稿類を全て海中に放り投げてしまった。ドイツ帰国後の1920年、『東亜評論』に「日本で俘虜となって」の文章を寄稿した。グロス・オッテンハーゲン(Gross-Ottenhagen)出身。(3143:松山→板東)
2257) Tiemann(ティーマン),Theodor(?-?):海軍野戦砲兵隊・上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。ブレーメン出身。(1793:静岡→習志野)
2258) Tiesel(ティーゼル),Kurt(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1918年9月16日から、つちや足袋合名会社に木綿漂白の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ゲーラ出身。(784:久留米)
2259) Timm(ティム),Johannes(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ハンブルク・アメリカ汽船青島支店]。青島時代は皇帝街に住んでいた。松山時代、山越の収容所講習会で英語及びスペイン語の講師を務めた。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時36歳)、2時間28分52秒5分の1で85人中の第19位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(3142:松山→板東)
2260) Timme(ティンメ),Wilhelm(1867-1942):総督府・予備海軍大佐。〔青島市防衛指揮官及び国民軍並びに消防隊指揮官〕。日独開戦に備えての食料・物資の調達責任者になった。ウラジオストックに豚やセメント等を運ぶあるアメリカ商人の船の積み荷を、相場価格でまるごと買い取って、防備・篭城に備えた。糧食は半年分を確保したと言われる。青島時代はアルベルト街(Albertstrasse)に住んでいた。1918年3月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。トリーア出身。(1590:福岡→習志野)
2261) Tittel(ティッテル),Hans(1880-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。[上海郵便局]。東アジアの数ヶ国語に通じ、バールト(Barth)の中国古典の師であった。丸亀時代には、『大阪朝日新聞』を購読していて、グロスマン(Grossmann)と共同で講和提議の号外をただちに独訳して大型の洋紙に大書して掲示した。(『大阪朝日新聞』大正5年12月25日付け)。日本語に関しては、会話よりは読解力に優れていた。板東時代の1919年、ティッテルは収容所内の印刷所から、『相撲図説 日本の格闘技』を出版した。『丸亀俘虜収容所日誌』によれば、丸亀時代の1915年5月21日、収容所の別院門前広場で相撲興行が行われた。文書からは不明であるが、見物が許されたとなれば、この相撲見物が上記出版のきっかけになったと思われる【この相撲興行は、引退直後の常陸山一行かとも考えられる。常陸山は俘虜慰問のために四国での興行を行った。しかし地元香川新報の上述の日付前後には相撲興行の記事はない、とのことである。前年の1914年11月22日の香川新報には、興行中の太刀山一行中の4,5名が、収容所前広場で運動中の俘虜の前に姿を見せ、その図体の大きいことに驚いた俘虜達の「俘虜関取に驚嘆す」の記事が掲載されている】。1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、背泳ぎに出場して45・1秒で2位になった。またグロースマン(Grossmann)と共著で『尋常小学校読本独文解説』の本も出した。下士官室の彼の机の脇には、常にウイスキーのビンが置いてあった。戦後バタビアのオランダ財務部に就職し、中国人商会の会計帳簿等の税務調査の仕事をした。中国語、マレー語の知識が存分に発揮されたが、数年後に死亡した。噂では、竹の繊維に含まれる微細な毒の入ったカクテルが原因とも言われた【Barth《Als deutscher Kaufmann in Fernost》56頁】。ブレスラウ出身。(2095:丸亀→板東)
2262) Tjardes(チャルデス),Hero(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1917年1月28日、アンドレーアをシュトラーセンブルク(Strassenburg)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役2月に処せられた。オルデンブルクのイェーファ(Jever)出身。(3756:熊本→久留米)
2263) Tolle(トレ),Constanz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ウラジオストック・ランゲリューチェ商会(Langelütje & Co.)]。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時25歳)、2時間39 分36 秒で67位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ゲッティンゲン出身。(3144:松山→板東)
2264) Tolle(トレ),Gustav(?-?):第3海兵大隊第2中隊・副曹長。[カルロヴィッツ上海支店]。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。出身地不明(『俘虜名簿』では上海)。(2093:丸亀→板東)
2265) Tomaszewski(トマツェフスキー),Wladislaus(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・1等砲兵。板東時代、第4棟2室で洗濯屋を営んだ。ポーゼン出身。(4309:「大阪→」徳島→板東)
2266) Tönnissen(テニッセン),Edmund(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1915年10月21日名古屋へ収容所換えになった。1950年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オルデンブルク出身。(1592:福岡→名古屋)
2267) Tospann(トスパン),Ernst(1889-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。似島時代、リースフェルト(Liessfeldt)と共同で、朝日新聞及び毎日新聞の記事をドイツ語に訳した。時にクット(Kutt)も参加し、複雑な文章の時はオートマー(Othmer)予備少尉が手助けした【クライン『日本に強制収容されたドイツ人俘虜』177頁】。1918年9月付けの、F.パラヴィチーニ博士(在ジュネーヴ赤十字国際委員会駐日代表)の報告によればトスパンは、似島時代に共同で提出した嘆願書の中で、父親から送金された200円が日本に届いていないことで探索依頼をした。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。1950年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハーメルン出身。(4080:大阪→似島)
2268) Tostmann(トストマン),Heinrich(1877-?):第3海兵大隊・海軍中主計(中尉相当)。[総督府主計長]。以下の記述は、シュミット氏のホームページの「ゲストブック」へのトストマンの孫娘エーファ・キューラー(Eva Kühler)氏の書き込みによる。「トストマンは1913年8月、妻アンナ(Anna)、二人の子供ヨアヒム(Joachim:1908年生まれ)及びギーゼラ(Giesela:エーファの母親で1913年4月生まれ)とともに青島へ赴いた。」祖父のアルバムが遺されていて、日本軍の青島入城行進等の写真が保存されている、とのことである。ベットルム(Bettrum)出身(『俘虜名簿』には天津も記載)。(770:久留米)
2269) Traeder(トレーダー),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・予備1等砲兵。[灯台守]。妻の名はエミーリエ(Emilie)。ポンメルンのベルクラント(Bergland)出身。(4076:大阪→似島)
2270) Träger(トレーガー),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、トレーガーは金属加工部門に「イルティス記念像」、額縁、筆記用具、花瓶等13点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』74頁】。ザクセンのベルクギースヒューベル(Berggiesshübel)出身。(1605:福岡→青野原)
2271) Traut(トラウト),Hans(?-?):第3海兵大隊・予備副曹長。〔第5歩兵堡塁〕。1914年9月29日の夜海泊河の河口近くで、トラウト率いる20名は日本軍と不意に遭遇し、銃床での殴り合いになった。かろうじて第5歩兵堡塁に逃れた。1916年10月16日、ゾイフェルト等と久留米から青野原へ収容所換えになった。ライプチヒ出身。(3749:熊本→久留米→青野原)
2272) Trautmann(トラウトマン),Franz(1891-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備1等信号兵。[旋毛虫検査官]。青島時代はホーエンローエ小路に住んでいた。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ハノーファーのアインベック(Einbeck)出身。(787:久留米)
2273) Trendel(トレンデル),Anton(?-?):海軍膠州砲兵隊・予備海軍少尉。〔第1砲台指揮官〕。[ホテル経営者]。木製の擬砲を造ってその周囲を火薬で爆破させ、あたかも砲台が破壊されたように見せかけた。福岡時代、5名の将校の逃亡事件で調べられるが、無罪判決を受けた。大戦終結後青島に戻ったが、戦争中のホテルの維持困難から負債が嵩み売却せざるを得なかった。クルムバッハ(Kulmbach)出身。(1591:福岡→習志野)
2274) Trendelburg(トレンデルブルク),Franz(1884-?):第3海兵大隊第5中隊・陸軍中尉。〔新沙子口派遣隊指揮官〕。後に第3歩兵堡塁救援に向かった。1904 年4月21陸軍入りして同月24日騎兵少尉、1911年12月3日海軍歩兵隊に移籍、1913年4月18日陸軍中尉になった。板東時代、収容所のスポーツ委員会の委員長を務めた。1919年5月7日に開催されたテニス大会では、テニス協会(T.V)チームのダブルスでマイアー(G.Meyer)と組んで出場し、新テニス協会(N.T.V.)のゲッテ(Goette)及びハルクス(Harcks)組と熱戦を繰り広げ、第3セットで勝利した【『バラッケ』第4巻170頁】。ヴィースバーデン出身。(3141:松山→板東)
2275) Treuke(トロイケ),Richard(?-?):国民軍・卒。〔イルチス砲台〕。[ヴィンクラー商会(Winckler & Co)青島支店・簿記係]。青島時代はホーエンローエ小路に住んでいた。当時43歳でベルリン生まれ。18歳の時スイスを経てアルゼンチン、ブラジルへ行き、数年を経て中国に渡り、上海、天津を経て青島に住んだ。最後は青島の貿易商社「ヴィンクラー」の簿記係となった。青島在住は14年に及んだ。〈その〉という名の日本人女性と暮らしていたが、〈その〉は青島のドイツ人家庭に保母として雇われていた。同棲6年になり、子供が三人いた。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に送られると日本への帰化を申請したが却下された。大阪時代、他のドイツ人と折り合いが悪く、マックス・ツィンマーマン(Max Zimmermann;本名はヤン・パホルチックでポーランド人)とともに隔離所に容れられた【『俘虜ニ関スル書類』より】。1916年10月9日、ツィンマーマンとともに大阪から丸亀に移された。板東時代は、ドイツ人俘虜達としっくりしなかったヘルトレ(Haertle)、コッホ(Lambert Koch)、ヴァルシェフスキー(Waluschewski)、ツィンマーマン等の反ドイツ感情の強いポーランド人、ロシア系ユダヤ人と一緒に成就院分置所に隔離収容された。トロイケはドイツ人であったが、帰化申請が反感を買っていたからであった。解放まじかの1919年11月22日、分置所から復帰したがナイフで自殺未遂を図った。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ベルリン出身。(4705:大阪→丸亀→板東)
2276) Trilk(トリルク),August(1892-?):海軍膠州砲兵隊・砲兵伍長。1916年10月18日福岡から大分へ収容所換えになり、更に1918年8月習志野へ移された。解放後は蘭領印度に渡って巡査になった。メクレンブルク=シュヴェーリンのハーゲノー(Hagenow)出身。(1600:福岡→大分→習志野)
2277) Trittel(トリッテル),Walther(1880-?):総督府通訳・戦時志願兵(予備陸軍少尉?)。〔暗号将校〕。01.10.1904年10月1日海軍歩兵隊入り、19.10.1912年10月19日予備役少尉。青島時代はティルピッツ街(日本による占領・統治時代は忠海町)に住んでいた。妻マルタ(Martha)は子ども(12歳以下)と大戦終結まで上海で暮らした。解放後は蘭領印度に渡って、ヴェルテヴェルデンの中国研究事務所の顧問を務めた。ヴェルニゲローデ近郊のネッシェンローデ(Nöschenrode)出身。(3757:熊本→久留米)
2278) Trokle(トロクレ),Nikolaus(1893-1966):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1919年4月20日に行われた「久留米体操クラブ」の5種競技(投擲用ボール投げ、石投げ(15kg)、幅跳び、棒高跳び、100m競争)では、得点89点で初級の1位になった。ザールブリュッケンのヴェールデン(Wehrden)出身。(785:久留米)
2279) Trost(トロスト),Hermann(?-?):第3海兵大隊・階級不明。[巡査]。妻マルタ(Martha)は娘(12歳以下)と二人大戦終結まで青島に留まった。バルヒム郡のツィーデリヒ(Ziedich)出身。(3147:松山→板東)
2280) Truber(トルーバー),Wilhelm(1892-1945):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。〔ビスマルク砲台〕。解放後はドイツで警察所の事務官になった。ヘッセンのバーベンハウゼン(Babenhausen)出身。(4077:大阪→似島)
2281) Trümper(トゥリュンパー),Franz(?-?):海軍砲兵中隊・2等水兵。1915年6月熊本から久留米へ収容所換えになった。1918年12月4日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒の演習3種目、鞍馬の演習2種目、徒手体操1種目、陸上競技3種目)では、初級の審判を務めた。2007年10月4日、孫娘のヒリゲス氏(Ilona Maria Hilliges)がシュミット氏のHPのゲストブックに書き込みをした。トゥリュンパーが久留米では体操クラブに属していたこと、久留米時代の写真が遺されていること、六人の子を儲け、大勢の孫と曾孫がいることを記している。ヒルデスハイム出身。(3755:熊本→久留米)
2282) Tschentscher(チェンチャー),Waldemar(1881-1962):海軍東アジア分遣隊第1中隊・陸軍中尉。1900年陸軍に入隊し、1901年歩兵少尉1909年10月1日海軍歩兵隊に移った。1910年8月8日海軍歩兵中尉に昇進、1914年8月海軍東アジア分遣隊附きとなり、ヘルツベルク大尉の戦死後の1914年10月第1中隊長(第1中隊の指揮を執ったが、後バーケ中尉と替わった。)、.1914年10月8日大尉に昇進した。解放後の1920年3月10日陸軍に移り、少佐で退役した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュレージエンのナイセ(Neisse)出身。(4610:大阪→似島)
2283) Tucher(トゥーハー),Christof Frhr. v.(1892-1974):第3海兵大隊第5中隊・1年志願兵(男爵)。9月27日、李村で俘虜となり久留米収容所に送られたが、負傷のため当初は久留米衛戍病院に収容された。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ミュンヘン出身。(786:久留米→板東)
2284) Ueberschaar(ユーバシャール),Dr. Johannes(1885-1965):第3海兵大隊参謀本部通訳・予備陸軍中尉。法学博士。[大阪高等医学校外国人教師]。マイセンに生まれた。ライプチヒ大学で(1906-1911)法律を学ぶ。1911年、日本国憲法の研究で学位取得、大阪高等医学校のドイツ語及びラテン語教師として来日した。1914年10月12日の戦死者埋葬、負傷者救出のための一時休戦には、カイザー少佐の通訳として派遣された。また11月7日午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉にも通訳として参加した。習志野時代の1917年10月31日、ミリエス(Millies)と共同で「宗教改革400年記念の夕べ」を主催した。二部構成の音楽会と言えるもであるが、合間に「1517年から1917年のドイツ人」の題で講演した。1919年3月5日に開催された「朗読の夕べ」では、レッシング作の『賢人ナータン』から第3幕7場の有名な「3つの指輪」の場面を朗読した。大戦終結後も日本に留まり、1919年から1930年まで再び大阪高等医学校に在職し、この間日独交換学生制度及びゲーテ協会設立に参加した。1932年から1937年ライプチヒ大学日本学教授、日本文化研究所を設立し、初代所長となった。1937年再度来日し、天理外国語学校、甲南高等学校を経て、第二次大戦後は甲南大学教授に就いた。1965年1月21日、神戸市の海星病院で没した。『天皇の地位』、『プロイセン憲法と日本憲法』、『芭蕉と「奥の細道」』、『日本における学生運動』等の著書がある。ボッフム出身。(276:東京→習志野)
2285) Uffelmann(ウッフェルマン),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのイーゼンシュテット(Isenstedt)出身。(793:久留米→板東)
2286) Uhlenhuth(ウーレンフート),Walter(1881-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・後備副曹長。久留米俘虜収容所では絵を描いた。1917年5月19日、朝香宮鳩彦王にリーデルシュタイン、シュタイツ等の絵とともに供覧に呈する。その『日記』の中で青島の攻防について論評している。また1976年4月15日付けで、グライクスナー(Gleixner)から手紙が届いた。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。コーブルク出身。(3762:熊本→久留米)
2287) Uhlig(ウーリヒ),Alfred(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ニーダーラウジッツのクレットヴィッツ(Clettwitz)出身。(795:久留米)
2288) Ulbl(ウルブル),Rudolph(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・機関銃隊宿営長。解放後は、蘭領印度に渡ったと思われる。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。グラーツ出身。(2438:姫路→青野原)
2289) Ulbrich(ウルブルヒ),Ernst(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[電気工]。久留米時代の1918年10月から、つちや足袋合名会社に織物機械据付及び修繕の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ヴェストファーレンのグローナウ出身。(1618:福岡→久留米)
2290) Ulbrich(ウルブリヒ),Robert(?-?):海軍東アジア分遣隊第5中隊・2等兵曹。板東時代、松江所長の斡旋により、他の3名の俘虜と一緒に撫養中学校において、板野郡長や郡内の小中学校校長および体操教師を集めて、体操の講話並びに実技を行った。やがて彼等は巡回体操教師として各小中学校を回って実技を行った。【『日本人とドイツ人』271頁より】また無料水泳教室の教官も務めた。シュレージエンのライヒェンバッハ(Reichenbach)出身。(4312:「大阪→」徳島→板東)
2291) Ulrich(ウルリヒ),Heinrich(1894-1973):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。ドイツに帰国後、やがて指物師マイスターになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハノーファー州のブルクドルフ(Burgdorf)出身。(1612:福岡→名古屋)
2292) Ulrich(ウルリヒ),Walter(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1915年6月熊本収容所から久留米に収容所換えになった。久留米時代の1915年10月4日、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」が設立されたが、その第5代会長を務めた。1916年4月23日に行われた「久留米体操クラブ」の12種競技(鉄棒、平行棒、鞍馬の演習3種目、陸上競技2種目、徒手体操)では、得点113⅔で上級1位になった。1918年9月16日から、つちや足袋合名会社にミシン機械類修繕の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。テューリンゲンのアポルダート(Apoldat)出身。(3761:熊本→久留米)
2293) Umbscheiden(ウムブシャイデン),Ernst(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。1916年10月22日福岡から習志野へ収容所換えになった。1919年1月8日、9日、習志野収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』に衛生顧問官役で出演した。ライン河畔のアンデルナッハ(Andernach)出身。(1611:福岡→習志野)
2294) Unger(ウンガー),Fritz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・第2後備伍長。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ケムニッツ出身。(2100:丸亀→板東)
2295) Unger(ウンガー),Herbert(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。板東時代、1919年3月9日から16日にかけて開催された「懸賞九柱戯大会」で、カール・ベーア(Karl Baehr)及びフェルヒネロフスキー(Felchnerowski)とともに主催者を務めた。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会においては(当時24歳)、2時間29 分8 秒5分の3で20位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。ケムニッツ出身。(4313:「大阪→」徳島→板東)
2296) Unger(ウンガー),Kurt(?-?):第3海兵大隊第4中隊・上等歩兵。1919年6月22日に開催された「名古屋収容所俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、ヴァルター・シェンク(Walter Schenk)及びオットー・ヘル(Otto Herr)とともに収容所図書室の管理係りを務めた。ケムニッツ出身。(2743:名古屋)
2297) Unkel(ウンケル),Heinrich(1891-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。20歳の時に上海に赴き、そこでメラー(Wilhlem Meller)と知り合いになり、終生の友となった。静岡俘虜収容所の俘虜の多くは、青島での戦闘で負傷していた。ウンケルも肘に銃弾を受けていた。1916年3月14日、静岡収容所を脱走した。カナダ・ライフル隊アンダーウッド大尉と称するアメリカの偽造旅券で上海に逃げ、更に上海から逃走した。ウンケルはドイツ本国まで辿り着いた数少ない逃亡俘虜の一人である。以下のウンケルの足跡は、幼少時からウンケルを知るメラーの子息アードルフ・メラー氏の『第一次大戦時における日本の収容所からのチンタオ戦士の逃走』(Meller,Adolf:Fluchtversuche von Tsingtau-Verteidigern aus japanischem Gewahrsam im Ersten Weltkrieg.)に依拠するものである。ウンケルの逃亡の日付は上記のように3月14日で、日本側の資料による逃亡日の3月18日には天津に着いていた。1920年にウンケルとメラーの二人は上海で再会した。1930年代にメラーが上海のウンケルを訪問したときの写真が遺されている。ウンケルはスイス女性のパルミーラ(Palmira)と結婚していた。妻は早くに癌で亡くなった。第二次大戦後は上海から香港へ移り、1951年10月1日、フランス女性と再婚した。1962年2月3日付のウンケルからメラーに宛てて、誕生を祝う手紙が遺されている。メラーからウンケル宛ての手紙は、1962年2月27日付けが最後である。シュトゥットガルト出身。(1796:静岡)
2298) Unland(ウンラント),Arnold(1885-?):海軍膠州砲兵隊・掌砲副兵曹。1907年10月2日第3砲兵隊入隊、1908年11月26日予備掌砲副兵曹。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。ハンブルク出身。(福岡→青野原)
2299) Unverzagt(ウンフェアツァークト),Friedrich(1892-?):海軍砲兵中隊・1等焚火兵。久留米時代の1917年1月28日、W.アンドレーアを仲間18人で殴打し、傷害罪で1月の懲役刑に処せられた。ドイツに帰国後、郷里でブリキ職マイスターになった。ヴィースバーデンのビーデンコプフ(Biedenkopf)出身。(3763:熊本→久留米)
2300) Urban(ウルバン),Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門で額縁2点を出品した。シュレージエンのベアレングルント(Bearengrund)出身。(4083:大阪→似島)
2301) Urbanski(ウルバンスキー),Georg(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・砲兵軍曹長。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。西プロイセン州のエルビング(Elbing)出身。(1614:福岡→青野原)
2302) Urmersbach(ウルメルスバッハ),Jakob(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。静岡時代の1916年10月21日、「衛兵司令ニ対シ従順ナラサル態度ヲ取リシ科」で重営倉20日の処罰を受けた。ゲルゼンキルヒェン(Gelsenkirchen)出身。(1795:静岡→習志野)
2303) Uerscheln(ユルシェルン),Matthias(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。エンジニアとして電気会社に勤めていた。兄弟が8人いた。大戦終結して帰国後、バーバラと結婚した。その息子のヘルマン・ユルシェルンの娘で、東京在住のガブリエレ内藤氏によると、祖父のユルシェルンは久留米では絵を描いたり、スポーツをしたりして過ごしたとのことである。サッカーは特に好きで、地元の日本人に教えることもあったとのことである。軍服姿の写真が紹介されている【『ドイツ軍兵士と久留米』150頁】。また前掲書205頁掲載の、1919年1月の日付での久留米ホッケーチームの集合写真中にも、左から二人目で写っている。デュッセルドルフ近郊のコルシェンブルク(Korschenberg)出身。(792:久留米)
2304) Vahldick(ファールディック),Otto(?-?):所属部隊・階級不明。[青島警察署巡査]。ブラウンシュヴァイクのヴァルベルク(Warberg)出身。(3154:松山→板東)
2305) Valder(ファルダー),Peter(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[カルロヴィッツ青島支店]。大戦終結後は、青島での就職既定者として日本国内で解放され、青島で貿易会社を興し、カルロヴィッツ社の代理店として営業した。ケルン出身。(2120:丸亀→板東)
2306) Vassillière(ファシリール),Peter(1893-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。時にその会の議長を務めた。アーヘン出身。(3767:熊本→久留米)
2307) Veidt(ファイト),Richard(?-?):巡洋艦シャルンホルスト(Scharnhorst)乗員・2等焚火兵。第一次大戦が勃発し、シャルンホルストがドイツ東洋艦隊司令官シュペー中将に率いられて太平洋へと出撃した際、病気で総督府衛戍病院に入院していた。シャルンホルストはイギリスとのフォークランド沖海戦で撃沈された。メーメル地方のシュメッツ(Schmetz)出身。(1798:静岡→習志野)
2308) Vennewitz(フェネヴィッツ),Oskar(1887-1928):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。上海から応召した。板東時代、1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、背泳ぎに出場して53.4秒で3位になった。デトモルト(Detmold)出身。(2106:丸亀→板東)
2309) Verleger(フェアレーガー),Karl(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で種々の鋳造品を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのギュータースロー(Gütersloh)出身。(4090:大阪→似島)
2310) Vetter(フェッター),Franz(?-?):青島時代はテティス街に住んでいた。海軍砲兵中隊・後備1等焚火兵。ベルンブルク(Bernburg)出身。(280:東京→習志野)
2311) Vetter(フェッター),Dr.Friedrich(1881-1957):第3海兵大隊第2中隊・陸軍中尉。丸亀時代の1916年4月14日(推定)に、石井彌四郎収容所長を囲んで撮影した記念写真が現存している。ドイツ将校7名と収容所人員の計17名の集合写真である。フェッター中尉は、前列向かって左端である【アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉の項、及び〔写真1〕を参照】。1916年10月4日、ランセル(Lancelle)大尉、ラミーン(Ramin)中尉、シュリーカー(Schliecker)中尉、シェーンベルク(Schönberg)少尉、アダムチェフスキー(Adamczewski)少尉、キュールボルン(Kühlborn)少尉とともに丸亀から大分に移送された。ドイツに帰国後の1920年3月10日、陸軍に移籍し、第二次大戦時での最終階級は少佐だった。ラインプファルツのランダウ(Landau)出身。(2101:丸亀→大分→習志野)
2312) Vetter(フェッター),Kurt(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、第7棟5室でマインゼン(Meinsen)及びザウアー(Sauer)とともに洗濯屋を営んだ。なお1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にヴィンセンチオ2の役で出演した。また、1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、フェッターは109点を挙げて上級の部5位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。エルベ河畔のケーニヒスシュタイン(Königsstein)出身。(2105:丸亀→板東)
2313) Violet(ヴィオレット),Frederic(?-?):第3海兵大隊第7中隊・予備副曹長。[ジームセン商会大阪支店]。丸亀俘虜収容所時代、ジームセン商会大阪支店関係者からのヴィオレ宛俘虜郵便が、高知在住の郵趣家河添潔氏所蔵で数通現存している。1915年1月4日付けのイルゼ・マツノ夫人(Ilse Matsuno)からの葉書は、比較的長文の内容である。板東時代、公会堂での工芸品展に拡大写真を出品した。また、板東ホッケー協会のチームのメンバーだった。ベルリン出身。(2104:丸亀→板東)
2314) Vissering(フィッセリング),Carl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[上海・ロイター・ウント・ブルーケルマン商会]。松山時代、公会堂の収容所講習会で中国語の講師を務めた。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、第1ヴァイオリンを担当した。また板東では1917年7月16日、「中国の夕べ」で講演をした。また、新板東テニス協会の記録係及び競技係を務めた。解放後の当初は日本に留まったが、やがて中国に赴いた。リューネブルク出身。(3151:松山→板東)
2315) Vita(ヴィータ),Janos(?-1916):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等水兵。1916年5月25日青野原で死亡、姫路陸軍墓地に埋葬された。大戦終結後、遺骨の引き取り手がなかったために、名古山霊園内の旧陸軍墓地に、イエロヴィッチ(Anton Jellovcic)およびゴモルカ(Theofill Gomolka)とともに葬られている。ハンガリーのホルトマロス(Holdmaros)出身。(2442:姫路→青野原)
2316) Vockerodt(フォッケロート),Eduard(?-1974):第3海兵大隊予備榴弾砲兵隊・予備上等砲兵。[アルンホルト、カルベルク商会天津支店]。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1919年、板東収容所内の印刷所から『工場設計』(Fablikanlagen)の本を出した。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会(当時33歳)で、2時間24分41秒で85人中の第11位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(3771:熊本→久留米→板東)
2317) Vogel(フォーゲル),Carl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1918年6月、「久留米体操クラブ(Turnverein Kurume)」から分派した「久留米体操会(Turnschaft-Kurume)」の会長を務めた。ブラウンシュヴァイク出身。(797:久留米)
2318) Vogel(フォーゲル),Gustav(1892-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[鍛冶職]。ザクセン=マイニンゲンのゾンネベルク(Sonneberg)出身。(4086:大阪→似島)
2319) Vogel(フォーゲル),Karl(1890-1971):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。コンスタンツ出身。(798:久留米)
2320) Vogel(フォーゲル),Karl Arthur(1892-1967):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1915年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。ドレスデン郊外のゼルコヴィッツ(Serkowitz)出身。(1175:福岡→青野原)
2321) Vogelfänger(フォーゲルフェンガー),Christian(1896-1980):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1914年11月、東京に列車で着いた時に市民、生徒を含む人々から歓迎の挨拶を受けたが、一人の和服を着た若い女性から、「親切にしてくれたあるドイツ人夫妻への感謝に応えて、の紙片が折りたたまれた花籠を受け取った」【《The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920》8頁】。浅草の東京俘虜収容所時代、あるドイツ人夫妻から貰った愛犬シュトロルヒ(Strolch)を連れていた。彼は東京俘虜収容所の図面一葉と習志野俘虜収容所の詳細な地図数葉を書き残した。習志野時代は将校用厨房で炊事係を務めた。また、彼の「日記」の表紙には、苗字を漢字に当てはめた「風久留寶賀」とカタカナによる「フウクルフィンガァー」と「フ(ォ)ーゲルフヰンガー」の文字が見られる。大戦終結して豊福丸で帰還し、ヴィルヘルムスハーフェン港に入港する際には安全に入港すべく水先案内をした。愛犬シュトロヒと写した写真【〔写真4〕を参照】など、フォーゲルフェンガーが写った写真は、今日いくつもの資料で多数紹介されている。【『ドイツ兵士の見たNARASHINO』41頁等より】。生家はデュッセルドルフ市内で食料品店を営んでいた。フォーゲルフェンガーは二種類の『日記』を遺した。今日、習志野教育委員会に所蔵されている『日記』は、俘虜収容所及び俘虜に関する郵便資料等の収集研究家であるイェキッシュ氏所蔵のコピーになるものである。一つは東京及び習志野の収容所において手書きで記された。青島での戦闘、両収容所での出来事を日誌風に書き記したものである。1916年の大晦日で一応終わっている。もう一つは、帰国後にタイプ打ちで記された、回想録風のものである。記述の期間は先のものと概ね同じであるが、解放の朝から豊福丸での帰国の模様、デュッセルドルフの自宅に帰り着く場面が追加されている。【『ドイツ兵士の見たニッポン』より】。1916年4月11日の日記には、ハーゲン(Hagen)に誕生祝をしてもらったことが記されている。その折に食べたウサギの肉が、愛犬シュトロルヒ(Strolch)の肉であったかのように(?)フォーゲルフェンガーは日記に記している【『ドイツ兵士の見たニッポン』154頁】。なお、フォーゲルフェンガーの日記には、習志野俘虜収容所の吉岡量平軍医のことが、「今までに出会った一番の好人物」(『ドイツ兵士の見たニッポン』155頁)と記されている。また日記の一部が、ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページに掲載されている。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。デュッセルドルフ出身。(281:東京→習志野)
2322) Vogelstein(フォーゲルシュタイン),Max Vogel von(1894-1949):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。同名の父(1869-1927)と母マリア(Maria;1869-1935)との間に1894年3月4日、ヴァイルハイムのミュンヘン通り231番地に生まれた。大戦終結して解放後まもなく、1920年にブラジルへ旅立ち、森林労働者として働きやがて農園主になった。その後ブエノスアイレスに移り、その地でマリア・エレナ(Maria Elena;1898-1976)と結婚し、酪農を始めるとともに、やがてアイスクリーム工場を経営した。1949年11月10日、ブエノスアイレスで没した。上部バイエルンのヴァィルハイム(Weilheim)出身。(4085:大阪→似島)
2323) Voget(フォーゲット),Franz(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・上等歩兵。[パン職人]。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。ヴェストファーレンのオスターフェルト出身。(1629:福岡→青野原)
2324) Vogt(フォークト),Fritz(?-1920):砲艦ヤーグアル乗員・2等信号兵。1920年1月18日、帰還船豊福丸船内で死去【シュミット】。ゾエスト(Soest)出身。(283:東京→習志野)
2325) Vogt(フォークト),Dr. Karl(1878-1960):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備陸軍少尉。[弁護士・弁理士]。アンハルト公国のザーレ河畔のニーンブルクに生まれた。学校の校長を勤めていた父親の関係でデッサウのギムナジウムに学んだ。父親に勧められてベルリン大学で主として日本語と法律を学び、音楽史や対位法も学んだ。東京のドイツ公使館勤務のために、1903年2月に来日した。1907年、兵役実習義務を青島及び膠州で果たし、東京のドイツ大使館勤務に戻った。1910年10月、ドイツ人として最初の弁理士資格を得た。日本の民法、商法を独訳・紹介した本を数冊自費出版した。1914年1月に発覚した一大疑獄事件であるシーメンス事件の弁護人を務めた。1914年10月10日、フォークト法律特許事務所から俘虜情報局へ、俘虜氏名照会手続きについての問い合わせがあった。11月7日午後4時からモルトケ兵営で行われた青島開城交渉に、通訳として参加した。また11月10日にモルトケ兵営で行われた神尾青島攻囲軍司令官とヴァルデック総督の会見では、通訳の任に当たった。熊本収容所時代の1914年12月1日付け「九州日日」新聞の記事によると、フォークト予備少尉は金には不自由せず、金遣いが荒かったとのことである。日本語に堪能であったので、出入りの塩山呉服店に絹の綿入れ寝巻きと布団を注文し、物産陳列場見学の折には、座布団を買い込んだ【『新聞集成 大正編年史』大正三年度版下、787頁及び788頁より】。久留米収容所の音楽活動においてフォークトは、レーマン及びヘルトリングと並ぶ存在であった。久留米市民たちの「共鳴音楽会」はフォークトの指導を受けていた。日独戦争前、横浜市山下町75番地で法律特許事務所を開いていた。久留米時代の1915年11月5日、真崎甚三郎所長によるベーゼ、フローリアン両将校殴打事件が発生した際、日本通であることからスクリバ予備少尉とともに真崎所長とアンデルス少佐の会談に列席し、事件打開に骨を折った。フォークトは真崎と幾度も面談協議し、また俘虜将校達に対しても日本の習慣等について説明した。1916年12月から収容所内の「交響楽団」の指揮を執り、更にヘルトリング(Hertling)やツァイス(Zeiss)とともに収容所の音楽教育にも携わった。1917年3月4日、収容所のオーケストラ・コンサート「ベートーヴェンの夕べ」では、「交響曲第5番〈運命〉」の指揮をした。また1918年7月9日には、ベートーヴェンの「第九」を第3楽章までではあるが演奏指揮した。【インターネットによる「『第九』事始め(中)」より】「カール・フォークトの四つの歌」(1919年)を作曲し、演奏指導等も行い、また自身が作曲した歌曲を歌うなど、久留米の音楽活動ではレーマン(Lehmann)とともに大活躍した。解放後の1920年3月25日、南海丸でドイツに帰国し、5月27日に故国に着いた。08.06.1920年6月8日ドーラ=マリア(Dora-Maria Ostwald;1874-1941)と結婚した。 ab 02.1921年2月から再び東京及び横浜で弁護士・弁理士活動をした。また東京のドイツ大使館の法律顧問をするなど、法律家として日本におけるドイツ人の権利擁護、またドイツにおける日本の権利仲介にも重要な役割を果たした。『ある日本在住ドイツ人の人生記録から』(Aus der Lebenschronik eines Japandeutschen ,Tokyo,1962)の著書もある。後半生は、神奈川県二宮町の二宮駅前の相模湾を見下ろす4000坪の敷地に、中国的で日本風の寺のような邸宅に住んだ。昭和35年(1960年)5月14日、83歳で没した。ザーレ河畔のニーンブルク(Nienburg)出身。(3772:熊本→久留米)
2326) Voigt(フォイクト),Oskar Hermann Paul(1894-1969):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916年9月25日青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、フォイクトは木工部門で竹製のビールジョッキ17点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』81頁】。テューリンゲンのアルンシュタット(Arnstadt)出身。(1630:福岡→青野原)
2327) Voigtländer(フォイクトレンダー),Hermann(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備少尉。〔連絡将校〕。「名古屋俘虜製作品展覧会」のカタログによれば、フォイクトレンダーは1918年7月設立された名古屋俘虜収容所劇団の指導者であった。バート=ミュンスター出身。(2744:名古屋)
2328) Volland(フォラント),Franz(?-1922):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。解放後は蘭領印度に渡り、ジャワ島中部のスマラン(Semarang)に住み、1922年10月17日その地で没した。ヴェストファーレンのギュータースロー(Gütersloh)出身。(2103:丸亀→板東)
2329) Vollerthun(フォラートゥン),Waldemar(1869-1929):総督府参謀本部・海軍大佐。〔情報部長〕。[海軍省膠州課長]。1914年7月、ドイツ本国から膠州湾租借地視察のために出張で青島に来た。暫く滞在して帰国の途に就いたところで大戦が勃発し、本省の命を受けて青島に引き返した。8月3日青島に戻り、総督府情報部長に就任した。8月4日、イギリスが参戦後ただちに上海、芝罘等でドイツの電信網の切断を開始すると、フォラートゥンは中国当局と接触して、通信網確保に奔走した。伝書鳩の利用も指示した。8月14日、日本の参戦がありうるか探るべく総督の命令を受けて、東京に情報収集に出かける直前、済南まで赴いたところで総督から日本の参戦間じかとの電報を受けた。済南で待機するか青島に戻るか判断中の16日、日本の最後通牒が発せられたことを知って青島に戻った。俘虜として収容中に少将に昇任し、また後に海軍次官になった。著書に『青島攻防戦』(《Der Kampf um Tsingtau》,Leipzig,1920.)がある。上記の書は習志野収容所で執筆されたものと思われる。序文には「1919年10月1日習志野にて」と記されている。『青島戰史』もこの書物に多くを依拠している。また、プリューショウ中尉に関する記述には多くの頁を割いている。「プリューショウ中尉はその有名な書物(私は未見だが)でその辺を既に語っていて、周知のことを繰り返すことになるが、読者に再度紹介せねばならない」【『青島攻防戦』75頁】との記述も見られる。大戦終結後の1919年12月28日、フォラートゥン少将(収容中に昇任)を輸送指揮官とする帰還船「喜福丸」は、習志野557名、似島64名、久留米98名、青野原222名の計941名が乗船して神戸第4埠頭から出発し、翌年1月2日青島に立ち寄って、荷物及びドイツ市民と官吏を収容して、1920年3月8日、ヴィルヘルムスハーフェン港に到着した。西プロイセンのエルビング郡フュルステンアウ(Fürstenau)出身。(1619:福岡→習志野)
2330) Vollmann(フォルマン),Robert(1891-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。[製靴職人]。日雇い煉瓦工を父に9人兄弟で生まれた。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。解放後は蘭領印度に渡った。ヴュルテンベルクのクライルスハイム(Crailsheim)出身。(1627:福岡→青野原)
2331) Vollweiler(フォルヴァイラー),Adolf(1885-?):第3海兵大隊第4中隊・予備伍長。久留米時代の1918年6月スイス公使から情報局へ、シベリア・ハバロフスクのスイス赤十字社の依頼によるフォルヴァイラー宛葉書1葉交付依頼があり、検閲の上13日に転送された。バーデンのベルヴァンゲン(Berwangen)出身。(3765:熊本→久留米)
2332) Vorläufer(フォアロイファー),Friedrich(1867-?):第2船渠師団・海軍大主計(大尉相当)。1887年4月1日海軍入り、1898年4月27日海軍少主計、1901年4月20日海軍中主計、1906年第3海兵大隊移籍、1908年6月27日海軍大主計、1909年海軍膠州砲兵隊付、 1914年膠州総督府経理首座。青島時代はフリードリヒ街に住んだ。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(3778:熊本→久留米)
2333) Voskamp(フォスカンプ),Joachim(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。青島ベルリン福音教会の教区監督フォスカンプの長男。弟の1年志願兵ゲルハルトは1914年11月4日、徳華高等学堂付近で背中に砲弾を受けて死亡、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。久留米時代は演劇活動で、ケルナー作の悲劇『トーニー』等3演目に出演した。出身地不明(『俘虜名簿』では広東)(3768:熊本→久留米)
2334) Voss(フォス),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザクセンのクヴェードリンブルク(Quedlinburg)出身。(1622:福岡→大分→習志野)
2335) Vosteen(フォステーン),Johann(1884-1957):海軍砲兵中隊・1等機関兵曹。熊本時代、許可なく市街に外出して、酒楼に登った科で重営倉10日の処罰を受けた。1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(3774:熊本→久留米→名古屋)
2336) Wachsmann(ヴァックスマン),Hermann(1894-1985):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。大戦終結して解放後の1920年、汕頭のレスラー(Roessler)商会に勤めた。ハノーファーのディーフォルツ(Diepholz)出身。(814:久留米)
2337) Wachter(ヴァハター),Simon(?-?):第3海兵大隊機関銃隊・2等兵。熊本時代、1915年1月20日から5月27日まで、靴工として従事した。ヘッセンのナッケンハイム(Nackenheim)出身。(3803:熊本→久留米)
2338) Wacker(ヴァッカー),Adolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[香港・ベーデカー商会(Baedecker & Co.)]。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(3168:松山→板東)
2339) Wacker(ヴァッカー),Carl(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備上等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有することから日本国内での居住を希望した。テューリンゲンのルードルシュタット(Rudolstadt)出身。(4460:「熊本→」大分→習志野)
2340) Wagemann(ヴァーゲマン),Franz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門に、ヘントリヒ(Hendrich)及びゼーボルト(Seebold)と共同で、縮尺20分の1の家の模型を出品した。ザクセンのガルストウルフ(Garsturf)出身。(4097:大阪→似島)
2341) Wagner(ヴァーグナー),Friedrich(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等焚火兵。「フォーゲルフェンガーの日記」の1916年12月31日の記述には、ヴァーグナーが将校用浴場の清掃係りを務めていたことが記されている【「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページの「論文・記事等」中の、「資料」に掲載されている「フォーゲルフェンガー日記」(ファン・デア・ラーン/小阪清行共訳)より】。ザールブリュッケン近郊のエルファースベルク(Elversberg)出身。(307:東京→習志野)
2342) Wagner(ワーグナー),Georg(1881-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。俘虜の第一陣として久留米に到着し、下士卒用の収容先である、久留米市日吉町の大谷派久留米教務所に収容された。4班に分けられた内の第2班の班長を務めた。ハノーファー出身。(816:久留米)
2343) Wagner(ヴァーグナー),Hans(1889-1970):第3海兵大隊第2中隊・予備副曹長。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ザーレ河畔のゲシュヴィッツ出身。(1802:静岡→習志野)
2344) Wagner(ヴァーグナー),Hermann(1892-1970):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸金工部門で火鉢の模型2点を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのニーダーディールフェン(Niederdielfen)出身。(4096:大阪→似島)
2345) Wagner(ヴァーグナー),Jacob(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[メルヒャース商会漢口支店]。板東時代、板東義勇消防隊の第2小隊長を務めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブレーメン出身。(3166:松山→板東)
2346) Wagner(ヴァーグナー),Dr.Wilhelm(?-?):国民軍・階級不明。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会学校部門では、農業の授業用の図版20枚と講義ノートを、また科学教授のカイパー(Keiper)と共同で授業用の化学実験装置、分析器、講義ノートを出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデン出身。(4615:大阪→似島)
2347) Waldecker(ヴァルデッカー),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・砲兵伍長。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡ってセマラング(Semarang)の郵便局に勤めた。マンハイム出身。(4091:大阪→似島)
2348) Wälder(ヴェルダー),Alfons(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。元音楽指揮者。習志野時代、60人編成の習志野男声合唱団の指揮者を務めた。1915年5月24日、主宰する合唱協会の「歌曲の夕べ」で指揮を執り、同年12月25日の習志野収容所でのクリスマスコンサートでは、P.ローデの作品10「エア・ヴァリエ」及びヘンデルの「ブーレ」をテーン(Theen)伍長のヴァイオリンに合わせてピアノ演奏するなどの活躍をした。1919年10月15日、「アルフォンス・ヴェルダー氏のための謝恩コンサート」が収容所で開催され、最初の演奏曲目は自ら作曲した「俘虜の歌」であった。シュトゥットガルト出身。(288:東京→習志野)
2349) Wallbott(ヴァルボット),Carl(?-?):海軍野戦砲兵隊・上等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヘッセンのゲーゼン近郊シュタインベルク(Steinberg)出身。(4458:「熊本→」大分→習志野)
2350) Wallner(ヴァルナー),Josef(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡ってジャワ島西部バタヴィアのイェンネ(Jenne)商会に勤めたが、1922年5月以前にはドイツに帰国した。ミュンヘン出身。(3155:松山→板東)
2351) Walter(ヴァルター),[Karl]Arthur(1893-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡って地方警察の主任看守として勤務した。ザクセン出身。(4318:「大阪→」徳島→板東)
2352) Walter(ヴァルター),Berthold(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1916年9月29日、久留米俘虜収容所より情報局へ、ヴァルター他1名の処罰について通報があった。ブレスラウ出身。(1687:福岡→久留米)
2353) Walter(ヴァルター),Heinrich(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュピールベルク(Spielberg)出身。(2760:名古屋)
2354) Walter(ヴァルター),Heinrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。〔湛山堡塁〕。姫路から応召した。1919年7月、一足先に解放されてフランスに向かった。エルザスのミュールハウゼン(Mülhausen)出身。(3165:松山→板東→習志野)
2355) Walter(ヴァルター),Hugo(?-?):国民軍・卒。1914年8月3日の総督府による動員令発布時点では17歳未満であった。いったんは俘虜を免れたが、軍服を着た記念写真が発見され、尋問の結果俘虜と宣告された。母親と弟妹5人がいて扶養の要ありとみなされ、一時自宅居住を許された。1915年9月下旬に青島収容所に収容され、1916年1月31日に大阪収容所へ収容された【『戦役俘虜ニ関スル書類』より】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。下記同姓同名のヴァルター(Walter)の息子。なお、妹のマルタ(Martha)はカップラー(Karl Kappler)と青島で結婚した。ククスハーフェン出身。(4709:青島→大阪→似島)
2356) Walter(ヴァルター),Hugo(1868-?):国民軍・中尉補。〔第1国民軍小隊長〕。妻の名はヴィルヘルミーネ(Wilhelmine)で、1900年ごろから青島に住んでいた。上記同姓同名のヴァルター(Walter)の父。大戦終結後は、青島居住を希望した。なお、娘のマルタ(Martha)は1920年3月29日、カップラー(Karl Kappler)との婚姻届を日本の役所に提出して青島で結婚した。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4462:「熊本→」大分→習志野)
2357) Walther(ヴァルター),Paul(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ジームセン青島支店]。大戦前から麦藁帽子の材料である麦稈真田の買い付けのために、青島から丸亀に再三出張できたことがあった。麦わらの漂白、圧搾、軟靱等の諸工程から帽子の完成に至る技術に習熟していたことから、丸亀市の勧業課と提携して工場建設の話しがもちあがった【『大阪朝日新聞 四国版』大正5年8月13日付け】。丸亀時代の1915年2月5日、多度津町の商人大島吉平と斉藤佳都の二名が面会に訪れ、日本語で会話を交わし10円を寄贈した【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡ったが、1922年5月以前にドイツに帰国した。ドレスデンのドーナ(Dohna)出身。(2129:丸亀→板東)
2358) Waluschewski(ヴァルシェフスキー),Theophil(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。ポーランド人。18歳でアルゼンチンに渡り、アメリカ、オーストラリア等を放浪する。軍艦エムデンに乗船3ヶ月後に青島守備軍に配属された。1916年10月9日、ヘルトレ(Haertle)とともに久留米から丸亀に移送された。板東時代は、コッホ(Lambert Koch)、ヘルトレ(Haertle)、トロイケ(Treuke)、ツィンマーマン(Max Zimmermann)等の反ドイツ感情の強いポーランド人、ロシア系ユダヤ人と一緒に分置所に隔離収容された。板東時代の1918年10月19日、分置所内の争いからヘルトレに対してコッホとともに飲酒の上暴行して、障子を破損し営倉20日の処罰を受けた。板東では同じポーランド人のヘルトレと絶えず行動をともにして、「腰巾着」の渾名が付いた【林 啓介:『「第九」の里ドイツ村』133頁】。ヴァイクセル河畔のクルム(Kulm)出身。(3811:熊本→久留米→丸亀→板東)
2359) Walzer(ヴァルツァー),Viktor(1872-1956):所属部隊不明・後備伍長。[為替仲介業]。メッテンドルフに生まれ、トリーアのギムナジュウムで勉強した。ドレスデンで兵役義務を果たし、1894年ラインラントの小さな村メルケン(Merken)の煙草工場で商業教育を受けた。その後1897年春、ロンドン、アルジェ、上海、香港を経て天津に赴いた。1910年頃、天津で長崎出身の日本女性ウメさんと出会い、長女時子をもうけた思われる。やがて青島に赴き、そこで次女照子が生まれたと推測される【以上までの経歴は、後述するゲルトルートの従兄弟ヘルベルト・アムブロス(Herbert Ambros)氏から篠田和絵氏に寄せられた手紙による】。青島では市内中心のフリードリヒ街に住み、為替仲介の仕事に就いた。しかし第一次大戦が勃発して、日独の戦争も始まると一家は離れ離れに引き裂かれた。1918年11月9日付けで、東京のスイス公使館からスイスの内田公使に宛てた文書が遺されている。それによると、ロシアのイルクーツクにいる甥フェーリクス・ヘス(Felix Hess)が病気になり、窮地に落ちいていることからヴァルツァーは30円の送金願いを申請した。似島俘虜収容所から解放されたヴァルツァーは、なぜか長崎に住むウメとの接触をしないままドイツ本国に帰国した。帰国後は、リムブルク(Limburg)の姪夫婦の近くに住んだ。姪夫婦の間に生まれた娘ゲルトルート(Gertrud Wetzel;1928-)からは“おじいさん”と呼ばれるようになった。1938年、ヴァルツァーと姪夫婦一家はグラーツに引っ越したが、1945年グラーツから追放されると、ヴァルツァーは郷里のメッテンドルフ(Mettendorf)に戻った。1956年頃、メッテンドルフ近郊の村ヴァックスヴァイラー(Waxweiler)で没したが、メッテンドルフのヴァルツァー家の墓地に埋葬された。ヴァルツァーの遺品中には、大阪収容所時代のアルバムがあり、それには本人の写真二枚があることが判明している【〔写真14〕参照】。【ヴァルツァーの生涯の一端が判明したきっかけは、平成12年1月に習志野市教育委員会によって開催された「特別史料展 ドイツ兵士の見たNARASHINO」であった。史料展を訪れた三井悠二氏は、ウメさんが後に再婚した人との間に生れた方だった。やがて三井氏は母親ウメさんの先夫が俘虜であったことを思いだし、異父姉の時子さんから「ワルチェル」という名前、及び広島の近くの収容所にいたという話を聞き及んだ。その話をきいた星昌幸氏(習志野市教育委員会)によって上記二点を手がかりに、ヴァルツァーであることが突き止められた。照子さんの娘、すなわちヴァルツァーの孫娘に当たる篠田和絵さんの手元には、大阪収容所から差し出された手紙が遺品として遺されていた。また天津の「シュトラオホ商会(Strauch & Co.Ltd.)」からウメさんに宛てた、ヴァルツァーが似島収容所に収容されていることを伝える手紙も遺されている。やがて篠田和絵さん自身のルーツへの強い思いが前記のヴァルツァーの経歴・足跡の判明に至った。判明に至るその過程には、篠田和絵さんの友人石井晴美氏や、星昌幸氏及びドイツの俘虜研究者ハンス=ヨアヒム・シュミット氏の支援と熱意があった。特にシュミット氏の探索によって上記ドイツの縁者が判明した。大戦終結して解放後、ヴァルツァーは何故か単身ドイツに帰国し、二人の子供をもうけたウメとはその後関わりを持たなくなったと思われる。しかしドイツに戻ったヴァルツァーは結婚することなく、子供をもうけることもなかった。参照:星昌幸「ワルチェルさんのこと」(所載:『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第1号、及び篠田和絵「メッテンドルフに眠る祖父ヴィクトール・ヴァルツァーへ」所載:『青島戦ドイツ兵俘虜収容所研究』第2号】。ラインラントのメッテンドルフ(Mettendorf)出身。(4618:大阪→似島)
2360) Wannags(ヴァナクス),Martin(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。〔第2歩兵堡塁〕。[宣教師]。リトアニアの出身で、元胸甲騎兵であった。広東のベルリン福音教会から、シュヴァルム(Schwarm)とともに青島守備軍に馳せ参じた。丸亀時代の1915年11月7日、准士官以下に対して宗教講和を行った【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。板東時代の1918年3月21日と28日の「中国の夕べ」で、「広東地方の住民」と題して講演した。また1918年12月2日、スペイン風邪で死亡した戦友ゼーガー(Seeger)の葬儀で、感動的で心にしみわたる追悼の言葉を述べた。【『バラッケ』第3巻145-147頁】。東プロイセンのグルムベルン(Grumbern)出身。(2122:丸亀→板東)
2361) Wannrich(ヴァンリヒ),Paul(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ブランデンブルクのアンガーミュンデ(Angermünde)出身。(3798:熊本→久留米→板東)
2362) Waschkewitz(ヴァシュケヴィッツ),Wilhelm(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。1915年7月11日久留米へ収容所換えになった。久留米時代は演劇活動で、笑劇『ベルリンっ子』に出演した。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡ってマカッサール(Makassar)の警察所の主任看守として勤務した。ライン河畔のメルス(Mörs)出身。(1682:福岡→久留米)
2363) Wasmeier(ヴァスマイアー),Robert(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米の演劇活動で、シェーンヘル作の悲劇『信仰と故郷』に出演した。宣誓解放された。トリフテルン(Trifftern)出身。(818:久留米)
2364) Wassermann(ヴァッサーマン),Albert(?-?):第3海兵大隊第7中隊・副曹長。北京から応召した。1915年8月12日、ドレークカンプ(Drögkamp)伍長とともに麺麭製造見学のため、収容所納入業者の丸亀市大西商会に赴いた【『丸亀俘虜収容所日誌』より】。テューリンゲンのエステンツェル(Estenzell)出身。(2116:丸亀→板東)
2365) Wassermann(ヴァッサーマン),Georg(?-?):国民軍・副曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。シュミット氏のホームページの「ゲストブック」には、2005年3月20日付けでPákozdi氏が以下の書き込みをしている。「私の義母イルゼ・コッホ(Ilse Kosch;旧姓Wassermann)は、1915年2月4日に青島のファーバー病院で出生。義母の父親は青島のドイツ館のオーナーだったのでしょうか? Georg Wassermannは1880年生れですか?情報お願いします」。これに対しては5月23日付けで、マツァトゥ(Matzat)教授が「ゲストブック」に大要以下の文章を寄せている。「Pákozdi氏に次の情報をお伝えします。1910年から1913年の青島住所録に名前が記載されています。1911年では、ヴァッサーマンはティルピッツ街のプショル醸造レストランの業務主任、1912年にそのレストランのオーナーになり、ヘレーネ(Helene)と結婚し、娘エディト(Edith)が1913年に生れたものと思われます。1913年に彼はレストランを売却して、フリードリヒ街の「チンタオ・クラブ」の支配人になりました。この建物は現存します。戦争中、妻と二人の娘は1920年初頭まで青島に留まりました」。ベルリン出身。(4614:大阪→似島)
2366) Waetcke(ヴェトケ),Wilken(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備上等兵。上海から応召した。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放され、カルロヴィッツ神戸支店に勤めた。エルベ河畔のアルトナ出身。(1674:福岡→名古屋)
2367) Weber(ヴェーバー),Adolf(?-?):第3海兵大隊・後備曹長。大戦終結後は、特別事情を有する青島居住希望者として日本国内で解放された。ベルリンのシュパンダウ出身。(4657:大阪→似島)
2368) Weber(ヴェーバー),Ehrenfried(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。久留米時代の1917年10月18日に開催された三種競技(高飛び踏み切り台なし、砲丸投げ、100m競争)で、ベンツ(Benz)と共に17点を挙げて一位になった。なお、10月21日の100m競争では、11.4秒で一位になった。また、1919年10月の第2回スポーツ週間開催に当たって、ヴェーバーは陸上競技の試合規則制定や、審判を選ぶための技術委員会の一員にマーニッツ(Manitz)、H.オルトレップ(Ortlepp)、ペッヒ(Pech)、プロイ(Preu)、ブロック(Block)とともに選ばれた。バーデンのクラインアイヒョルツ(Kleineincholzheim)出身。(3817:熊本→久留米)
2369) Weber(ヴェーバー),Friedrich(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したヴェーバーは4組(出場者総数21名)の内の第1組に割り振られ、3位で本戦のA級に進出した。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡り、セレベス島南部マッカサー(Makassar)のオランダ・セメントに勤めた。バーデンのリンクス(Linx)出身。(4319:「大阪→」徳島→板東)
2370) Weber(ヴェーバー),Josef(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。徳島時代の1915年4月20日、開催されたチェス選手権試合において、4組(出場者総数21名)の内の第1組に出場し、2位で本戦A級に進出した。板東時代、タパタオの5号小屋でシャラー(Schaller)と家具の仕事を営んだ。また板東時代、大阪市難波の野村彦太郎(洋食製品業)から、ウイスキー、ブランデーの製法指導を要請された。1960年ごろ、「チンタオ戦友会」に出席した。南ヴェストファーレンのレックリングスハウゼン(Recklingshausen)出身。(4321:「大阪→」徳島→板東)
2371) Weber(ヴェーバー),Karl(?-?):第3海兵大隊第3中隊・上等歩兵。久留米の演劇活動では、シェーンヘル作の悲劇『信仰と故郷』に女役で出演した。宣誓解放された。バイエルンのアンシュパッハ(Anspach)出身。(820:久留米)
2372) Weber(ヴェーバー),Otto(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ドレスデン出身。(823:久留米)
2373) Weber(ヴェーバー),Willy(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。[漢口・中国ジャワ輸出商会(China Java Export Co.)]。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、ピアノを担当した。デュッセルドルフ出身。(3163:松山→板東)
2374) Weckmann(ヴェックマン),Georg(1868-?):第3海兵大隊第1中隊長・陸軍歩兵大尉。〔第1歩兵堡塁(湛山堡塁)指揮官〕。1918年8月6日久留米から習志野へ収容所換えになった。ミュンヘン出身。(803:久留米→習志野)
2375) Wedekind(ヴェーデキント),Heinrich(1889-1971):海軍砲兵中隊・2等機関兵曹。〔ビスマルク砲台〕。工業学校を出てドイツ海軍の機械整備係りとして軍艦に乗り込んだ。第一次大戦前に日本に来たことがあった。久留米時代は収容所で数学の学習をした。その折りのドイツ語の教科書が残されている。また演劇活動では、シェーンタン作の笑劇『無分別』に出演した。大戦終結後は久留米の「つちやたび合名会社」(後に日華ゴム株式会社となり、1962年には月星ゴム株式会社となる)に入社し、50年余勤務してゴム産業の発展に貢献した。後年社内では、上田金蔵の日本人名を用いた【『月星ゴム90年史』等より】。1963年5月31日付け朝日新聞の西日本版で、東宝映画「青島要塞爆撃命令」(監督・古沢憲吾、特技監督円谷英二、出演:加山雄三、佐藤允、夏木陽介、池部良、浜美枝等)に関して、「東宝映画「青島要塞爆撃命令」を見て」の記事が掲載されたが、その記事の中にヴェーデキントの感想が談話の形で紹介されている。ハノーファー出身。(3807:熊本→久留米)
2376) Wedel(ヴェーデル),Hasso von(1868-1933):第3海兵大隊第3中隊長・陸軍少佐。〔第5歩兵堡塁指揮官〕。前記指揮官は後にゾーダン大尉に替わった。弁護士・公証人の父グスターフ・フォン・ヴェーデルと母マティルデ(旧姓フライイン・フォン・ヴァンゲンハイム)との間に生れた。1888年9月陸軍に入り、1890年1月歩兵少尉、1898年中尉に昇進した。1900年10月ヴィルヘルミーナ・フォン・アルニム(Wilhelmina von Arnim;1880-1969)と結婚、1901年7月一人娘カローラ(Karola)をもうけた。1905年5月大尉に昇進し、海軍歩兵部隊に移った。1914年5月少佐に昇進し、同年8月第3海兵大隊第3中隊長兼第5歩兵堡塁の司令官になった。青島時代はアーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)に住んでいた。大分時代は収容所の俘虜代表を務めた。1918年5月大分から習志野へ移された。習志野時代の1919年3月9日、「ハンス・ミリエス・コンサート」ではサラサーテの「チゴイネルワイゼン」及びシューマンの「トロイメライ」をピアノ演奏し、また同年7月3日の文化・体育祭では第1部の収容所楽団の指揮をした。さらに同年10月5日、マルフケのために開催された「謝恩の夕べ」では、終了の音楽としてヴェーデル作曲の「大分行進曲」がヴォストマン(Wostmann)指揮の収容所楽団によって演奏された。大戦終結して解放後は、シベリア鉄道の陸路で帰還したとも思われる【参照:Rüfer/Rungas、111頁】。ヴィルヘルムスハーフェン出身。(4451:「熊本→」大分→習志野)
2377) Wedel(ヴェーデル),Jonny(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハルブルク近郊のアルテンウェルダー(Altenwerder)出身。(304:東京→習志野)
2378) Wedemeyer(ヴェーデマイアー),Max(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・予備伍長。習志野時代の1919年1月8日、9日、収容所で演じられたハウスライターとライマン作の3幕の茶番劇『電話の秘密』にオルガン奏者役で出演した。ブレーメン出身。(286:東京→習志野)
2379) Weegmann(ヴェークマン),Dr. Oskar C.v.(1879-1960):海軍砲兵中隊・予備海軍中尉。1879年1月15日ケルンに生まれた。ミュンヘン大学とハイデルベルク大学で美術文化史を学ぶ。1914年日本美術研究のため3ヶ月日本に滞在したところで第1次大戦が勃発した。森鴎外と面識があった。習志野収容所では旧知のフリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)及びスクリバ(Scriba)と一緒になった。1919年(大正8年)5月19日付けの東京朝日新聞第五面には、壁に掛かった浮世絵の前で三人がヴェークマンが拡げる画集とおぼしき本を眺める写真が掲載された【〔写真3〕を参照】。大戦終結後、松山高等学校でドイツ語を教え、この地の女性と結婚した。東京に戻ってからは陸軍大学校、陸軍士官学校のドイツ語教官となり、東京のOAG(ドイツ東洋文化協会)の理事も務めた。その後日本医科大学、成蹊大学等の教壇に立った。『おあん物語』、『お菊物語』をドイツ語に翻訳し、また『日本の歴史』、『日本の教育』等の著書も遺した。1959年勳4等旭日章を受賞。1960年5月9日、OAG事務所のデスクに向かったままで死去し、多磨霊園に埋葬された。ポツダム市の参事官を勤めていた兄がルンプ家の近くに住んでいたことから、フリッツ・ルンプとは旧知の間柄であった。ミュンヘン出身。(299:東京→習志野)
2380) Wefers(ヴェーフェルス),Conrad(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エッセン出身。(4461:「熊本→」大分→習志野)
2381) Wegener(ヴェーゲナー),Georg(?-?):総督府参謀本部。[海軍法務官・総督府法務長]。青島時代はハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße)に住んでいた。福岡時代、5名の逃亡事件で調べられるが、無罪判決を受けた。妻ルツィエ(Lucie)は大戦終結まで、子ども三人と上海で暮らした。カッセル出身。(1636:福岡→習志野)
2382) Wegener(ヴェーゲナー),Hermann(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[ロイター・ブルーケルマン商会広東支店]。板東時代の1918年4月21日、F.フリッシュ(Frisch)とクラーゼン(Claasen)と共同で「歌の夕べ」を開催して仲間達に感動を与えた。ヴェーゲナーはメンデルスゾーンの「春の歌」及び「いざ、さらに飲まん」を独唱した。また1918年6月1日、軍楽曹長ハンゼン(Hansen)によってベートーヴェンの「第九交響曲」が板東収容所内で本邦初演された。その折り、ヴェーゲナー、シュテッパン(Steppan)2等歩兵、フリッシュ(Frisch)2等歩兵、コッホ(Koch)伍長の四人は第4楽章の「合唱」でソロを受け持った。1918年8月11日、「収容所体操クラブ」の「ヤーン祭」では、熱気に満ちた躍動的な開会宣言の言葉を述べた【『バラッケ』第2巻87頁及び411頁】。ブレーメン出身。(3169:松山→板東)
2383) Wegener(ヴェーゲナー),Joseph(1892-1963):第3海兵大隊機関銃隊・上等兵。久留米時代、1918年10月から久留米市通町の本村治兵衛工場で、麺麭及び洋菓子製造の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのポルズム(Polsum)出身。(3802:熊本→久留米)
2384) Wegner(ヴェークナー),Arthur(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・2等砲兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡り、ソロ(Solo)の郵便局に勤めた。マグデブルク出身。(4092:大阪→似島)
2385) Wegner(ヴェークナー),Ferdinand(1884-?):キール第9師団歩兵第85連隊・伍長。『大正三年乃至九年 戦役俘虜ニ関スル書類』に次の記述がある。「大正七年四月十九日奉天ニ於テ飢餓ニ迫リ同地帝国警察官憲ニ保護ヲ願出テタル独逸国下士「フエルヂナンド、ウエーグネル」ト云フ者アリ同人ハ二年以前「リガ」附近ニ於テ露国ノ俘虜ト為リ西伯利ニ収容中再度戦線ニ立ツニ至ル虞アルヲ厭ヒテ脱走シタルモノナルモ途中所持金ニ欠乏シ奉天附属地ナル我警察署ニ願出テタルヲ以ッテ我邦ニ俘虜トシテ収容スルコトトシ関東都督府ヨリ青野原俘虜収容所ニ護送シ来リ同地ニ収容ノ手続キを了シタリ」。【従ってヴェークナーは、日独戦争には直接的な関わりを持たなかった】。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。ハノーファー出身。(4714:青野原)
2386) Wehrhahn(ヴェーアハーン),Ernst R.A.(?-?):第3海兵大隊重野戦榴弾砲兵隊・後備伍長。静岡時代に、「両名ハ頗ル傲慢不遜ノ態度ニシテ写真撮影セラレ敵国ノ新聞雑誌等ニ掲載セラルルガ如キ事アラバ軍人ノ体面上恥辱ナリト主張シ如何ニ訓諭スルモ之ニ服従セズ遂ニ同人等ノ撮影ヲ中止スルノ已ムナキニ至レリ「ヴェーアハーン」ハ収容所俘虜中富裕者ニシテ金銭ヲ浪費シ行状不脩ノ者ナリ」とされて、ケルクホーフ(Kerkhof)とともに重営倉25日に処せられた【『日独戦書』】。ハンブルク出身。(1806:静岡→習志野)
2387) Weichold(ヴァイヒホルト),Arno(?-?):第3海兵大隊第2中隊・伍長。板東時代の1918年10月16日、フライベルクに住むエルザ・シュレーゲル(Elsa Schlegel)嬢に宛て出したクリスマスと新年の祝いを述べる葉書が、郵趣家大沼幸雄氏の所蔵で遺されている。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会において、ヴァイヒホルト(28歳)は2時間23分39秒で85人中の第9位になった【『バラッケ』第4巻4月号80頁】。ザクセンのフライベルク(Freiberg)出身。(2107:丸亀→板東)
2388) Weigandt(ヴァイガント),Horst(1885-?):砲艦ヤーグアル乗員・海軍中尉。ライプチヒ出身。(1808:静岡→習志野)
2389) Weigel(ヴァイゲル),Karl(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。シュレージエンのザガン(Sagan)出身。(2124:丸亀→板東)
2390) Weigele(ヴァイゲレ),Eugen(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備陸軍少尉。〔連絡将校〕。エルザスのミュールハウゼン出身。(1686:福岡→習志野)
2391) Weindorf(ヴァインドルフ),Eugen(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴァッテンシャイト(Wattenscheid)出身。(1671:姫路→青野原)
2392) Weinholz(ヴァインホルツ),Dr. Fritz (1887-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。[ドイツ・アジア銀行漢口支店]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。板東時代、新板東テニス協会のテニス小屋(収容所脇の借上地にあった)の管理係りを務めた。オーデル河畔のフランクフルト出身。(2109:丸亀→板東)
2393) Weis(ヴァイス),Adolf(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴィースバーデン近郊のオーデルスベルク(Odersberg)出身。(1675:姫路→青野原)
2394) Weis(ヴァイス),Karl(?-?):第3海兵大隊第1中隊・後備伍長。久留米時代の1915年3月16日、三井郡役所の黒岩書記が赤岩筑後川架橋設計図を持参して、架橋技師のカール・ヴァイスに意見を求めに来て、翌日一緒に視察に出掛けた。1917年5月1日名古屋収容所より情報局へ、ヴァイスが名古屋市熱田服部商店の機械工場で、労役に服するため収容替えとなった旨の報告がなされた。また名古屋収容所に移されてから、興和紡績桜田工場に、ドイツのランツ社からボイラー据付の際に派遣された。工場と収容所が近かったことから、後に毎日収容所から工場に通って技術指導をした。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カールスルーエ出身。(804:久留米→名古屋)
2395) Weise(ヴァイゼ),Johannes(1890-?):第3海兵大隊・2等見習主計。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。キール出身。(3174:松山→板東)
2396) Weise(ヴァイゼ),Richard(?-?):第3海兵大隊第7中隊・伍長。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ベルリン出身。(2117:丸亀→板東)
2397) Weisleder(ヴァイスレーダー),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第1中隊・1等砲兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡り砂糖工場に勤めた。ワイマール出身。(3815:熊本→久留米)
2398) Weiss(ヴァイス),Adolf(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・2等下士。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、技術部門で、クラインギュンター(Kleingünther)と共同で、ゴットリーバー(Gottlieber)及びミュラー(Fritz Müller 629)製作の東屋及び別荘の模型用の家具と金属製品を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ウィーン出身。(3820:大阪→似島)
2399) Weiss(ヴァイス),Wilhelm(?-1920):砲兵兵站部・上等掌砲兵曹。1920年1月17日、帰還船ヒマラヤ丸船内で死去【シュミット】。ポツダム出身。(2446:姫路→青野原)
2400) Weiss(ヴァイス),Wilhelm(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時29歳)、2時間39分6秒5分の2で64位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。ブエノスアイレス出身。(3167:松山→板東)
2401) Weissenborn(ヴァイセンボルン),Hermann(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米俘虜収容所の音楽活動では歌曲を作曲した。シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヴァイセンボルンは、コントラバスを受け持った。ザクセンのヴォルビス郡ハインローデ(Haynrode)出身。(809:久留米)
2402) Weisshaar(ヴァイスハール),Ernst(?-?):海軍砲兵中隊・1焚火兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会の技術部門で蒸気機関の模型を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラント出身。(4612:大阪→似島)
2403) Weitz(ヴァイツ),Franz(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[上海・ガレルス‐ベルナー商会]。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第1ヴァイオリンを担当した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リューネブルク出身。(2126:丸亀→板東)
2404) Weller(ヴェラー),Adam(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等焚火兵。[電気工]。エルランゲン近郊のヴェラーシュタット出身。(1655:福岡→久留米)
2405) Welter(ヴェルター),Hans(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[ロイター‐ブレッケルマン商会上海支店]。板東時代の1917年5月、松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の第2ヴァイオリンを担当した。ハンブルク出身。(2127:丸亀→板東)
2406) Welter(ヴェルター),Heinrich(?-1915):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1915年1月15日,チフスにより福岡で死亡、軍人墓地に埋葬された。ザールブリュッケンのヘレンスオーア(Herensohr)出身。(1645:福岡)
2407) Welzel(ヴェルツェル),Albrecht(?-?):第3海兵大隊参謀本部・予備陸軍大尉。[青島警察署長]。青島時代はベルリン街に住んでいた。游内岬の対岸にあたる膠州湾口のイェシュケ(Jaeshcke)半島北庄猟区779ヘクタールを、6年間(1914年1月15日まで)39ドル(約60万円)で借りていた【『青島経営ニ関スル獨国ノ諸法令』612頁】。ゲルリッツ出身。(4452:「熊本→」大分→習志野)
2408) Welzel(ヴェルツェル),Reinhold(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等焚火兵。ロシア国籍のポーランド人。1917年11月10日、ヴェルツェルから長崎ロシア領事館及びロシア陸軍大臣宛に解放請願の信書が送られ、検閲の上情報局へ転送された。後に宣誓解放された。ロシアのタルンチノ(Tarntschino)出身。(1656:福岡→久留米)
2409) Wenckstern(ヴェンクシュテルン),Gerhardt von(1887-?):海軍砲兵中隊・海軍少尉。〔第1b砲台指揮官〕。メラー少尉指揮の河用砲艦チンタオ(213トン)の乗員。1914年8月3日、停泊していた広東の英仏共同租界沙面島を脱出する際病気のため一人10日ほど留まり、8月12日河船、三板(平底の河船)、鉄道、馬、徒歩等で650キロの離れた青島に向かい、3週間程かけて辿り着いた。青島到着後は数週間衛戍病院に入院し、10月上旬に退院した。1915年11月19日福岡収容所から逃亡した。アメリカに渡り、ニュウーオリンズ近くのオーストリア人農場主からはその娘との結婚話を持ち掛けられたりした。オランダのカリフォルニャ号にオランダ人船員として乗り組みアメリカを脱出したが、イギリス海軍軍艦の臨検により逮捕された。ロンドン近郊のメイドゥンヘッドの将校収容所に容れられたが、神経衰弱症を偽装して治療のためスイスに送られ、大戦終結までその地で過ごした。ゲルリッツ出身。(1638:福岡)
2410) Wendekamm(ヴェンデカム),Albert(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・1等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会の喫茶室の屠畜・ソーセージ製造部門で、鰊・サラダを提供した。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡り郵便局に勤めた。ザクセンのオーバールングヴィッツ(Oberlungwitz)出身。(4098:大阪→似島)
2411) Wendler(ヴェントラー),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・予備砲兵伍長。似島時代の1918年、聖霊降臨祭の記念絵葉書を作画した【高橋スタンプ商会のHP「第二部・日独戦争と俘虜郵便の時代 98」に掲載されている。参照:http://www.takahashistamp.com/2note98.htm】。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放され、オットー・ライマース横浜支店に勤めた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ハンブルク出身。(4110:大阪→似島)
2412) Wendt(ヴェント),Emil(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。1917年1月28日、アンドレーアをチャルデス(Tjardes)等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。シュテッティン出身。(3813:熊本→久留米)
2413) Wendt(ヴェント),Paul(1887-1963):海軍東アジア分遣隊・陸軍中尉。大分時代、小さい荷物の横パネルに秘密の指令文書を隠し、北京にいる友人と連絡し合って脱走するための綿密な計画を練った。しかし、脱走はしないという宣誓をしていたことから、その計画は実行されずに頓挫した【《The German Prisoners-Of-War in Japan,1914-1920》68頁】。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。トルン出身。(4459:「熊本→」大分→習志野)
2414) Wenslawski(ヴェンスラフスキー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、俘虜博覧会に自作の写真額を出品した。ロッゲンハウゼン(Roggenhausen)出身。(1652:福岡→習志野)
2415) Werdecker(ヴェルデッカー),Paul(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、ヴェルデッカーは金属加工部門に文鎮と時計ケースを出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』77頁】。ゲーラ(Gera)出身。(1676:福岡→青野原)
2416) Werder(ヴェルダー),Wilhelm von(?-?):機雷保管庫・上等兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ヴェルダーのグループは玩具部門で体操選手の操り人形を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』83頁】。ブレーメン出身。(2448:姫路→青野原)
2417) Werff(ヴェルフ),Bernhard de(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。東フリースラントのヘーゼル(Hesel)出身。(1646:福岡→習志野)
2418) Werkmeister(ヴェルクマイスター),Karl(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1915年10月21日消印で、東京銀座の十字屋楽器店からのヴェルクマイスター宛に出荷案内書が出された。内容はヴァイオリン、ヴィオラ、バスの弦発送と請求で、21円40銭の10パーセント引きになっている。プファルツのランダウ(Landau)出身。(817:久留米)
2419) Werner(ヴェルナー),Albert(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。板東時代は俘虜収容所医務室の通訳を務めた。やがて戦争終結まで病院の一室にバールトと一緒に住んだ。バールトが日本の内外貿易に就職する際には通訳をした。ザクセンのヴァイセンフェルス(Weissenfels)出身。(3170:松山→板東)
2420) Werner(ヴェルナー),Alfred(?-1918):第3海兵大隊機関銃隊・2等焚火兵。1918年5月8日久留米で死亡、久留米山川陸軍墓地に埋葬された。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)119頁には、ヴェルナーの葬儀の様子、収容所長林銑十郎中佐から贈られた花輪と墓標、葬儀の様子を写した写真が掲載されている。なお、大戦終結後の1920年1月16日、遺骨はドイツ側委員に引き渡された。シュレージエンのローンシュトッホ(Rohnstoch)出身。(3804:熊本→久留米)
2421) Werner(ヴェルナー),Otto(?-?):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。青島時代の1912年9月28日を初めとして三通の母親宛の葉書、及び松山時代の1916年1月23日付けの母親からの葉書、1916年9月6日付けの兄弟からの葉書が遺されている。また、神戸のヤーコプ・クラウス(Jakob Kraus)から板東のヴェルナー宛の葉書も存在している【ハンス=ヨアヒム・シュミット氏のホームページより】。なお、松山時代の1915年8月30日、バッカース(Beckers)と柵外から物品を購入した科で重営倉3日に処せられた。ザールラントのノインキルヒェン出身。(3159:松山→板東)
2422) Werner(ヴェルナー), Wilhelm(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1915年9月15日福岡から習志野へ収容所換えになった。習志野時代、自分の四阿の前で戦友と立っている写真が現存して、資料に紹介されている【『特別資料展「ドイツ兵の見たNARASHINO ―1915-1920 習志野俘虜収容所」展示品図録』54頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。フレンスブルク出身。(1667:福岡→習志野)
2423) Werner(ヴェルナー),Willy(?-?):海軍東アジア分遣隊・後備副曹長。〔第8a砲台〕。フィードリヒ(Fydrich)砲兵曹長から引き継いで第8a砲台の指揮を執った。板東時代、グロースマンとともに『日刊電報通信』及び『バラッケ』に戦況等ニュースの記事執筆を担当した【『バラッケ』第2巻82頁】。ベルリン出身。(4322:「大阪→」徳島→板東)
2424) Wernert(ヴェルネルト),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊。2等砲兵。1915年12月、宣誓解放された。シュトラースブルク郊外のグリース(Gries)出身。(1666:福岡)
2425) Werther(ヴェルター),Max(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ホーク(Hog)出身。(1669:福岡→名古屋)
2426) Wese(ヴェーゼ),Arthur(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」に当時43歳の最年長で出場し、2時間42分25秒で16人中の9位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。ブレスラウ出身。(2119:丸亀→板東)
2427) Wesemann(ヴェーゼマン),Walter(1884-1948):海軍東アジア分遣隊第3中隊・後備上等歩兵。ロシアのウラジオストックから青島に馳せ参じた。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1922年4月25日、エリーザベト(Elisabeth Johanna Fischer)と結婚し、息子一人を儲けた。ザクセン=アンシュタルトのアルテンブルク(Altenburg)出身。(1681:福岡→名古屋)
2428) Wessoly(ヴェッソリー),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第2中隊・後備上等歩兵。一般送還船出発前に予め日本で解放された。ルクセンブルク出身。(1801:静岡→習志野)
2429) Westphal(ヴェストファール),Erich(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。[中国ジーメンス上海支店]。板東時代,1918年春のテニス・トーナメントのダブルスで、エルトニス上級書記官と組んでBクラス2位になった【『バラッケ』第2巻211頁】。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度のバンドンに渡り、ジーメンス社のバンドン支店に勤務した。ポンメルン出身【ただし『俘虜名簿』では上海出身】。(2114:丸亀→板東)
2430) Wex(ヴェックス),Friedrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・後備伍長。[製薬会社社員]。応召前は横浜のバイエル合名合資会社薬品部に勤めていた。1918年8月に習志野に移送され、ルンプ(Rumpf)と知り合いになる。かつての日本人同僚が習志野に面会に来た時、これまでの労苦が失われたことを悲しがって涙を流したと言われる。大戦終結して解放後の1920年に再び日本に戻り、バイエル製薬会社の東京支社支配人となった。ベルリン出身。(1800:静岡→習志野)
2431) Weyand(ヴァイヤント),Hans(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。ドイツに帰国後は郷里で警察官となった。ザール河畔のノイキルヒェン(Neukirchen)出身。(3786:熊本→久留米)
2432) Weyand(ヴァイヤント),Johann(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備上等歩兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。ザールブリュッケン出身。(3784:熊本→久留米)
2433) Weyershausen(ヴァイヤースハウゼン),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・1等砲兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度のサマルディナ(Samardina)に渡った。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オーバーシェルト(Oberscheld)出身。(1650:福岡→習志野)
2434) Weyhe(ヴァイエ),Curt v.(?-1964):海軍野戦砲兵隊・予備陸軍少尉。1914年10月5日、前線の方に移された繋留気球に乗り込んだ。日本軍の榴散弾が気球に当り地面に落下したが、負傷はしなかった。1919年8月、ウラジオストックのスイス赤十字社に宛てて、私有物品取り寄せ依頼の信書を出し、検閲の上18日情報局に転送された。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。1916年1月6日に死去。ブローメ/ハノーファー近郊のファーレンホルスト(Fahrenhorst)出身。(837:久留米)
2435) Wichelhaus(ヴィッヒェルハウス),Hermann(?-?):第3海兵大隊第5中隊・上等歩兵。板東時代、公会堂での絵画と工芸品展覧会に、丹念な模写「ノルウェーの女」等を出品したが、松山で完成していたものを放置していたため紙が黄ばんでしまっていた。1919年8月13日に開催された櫛木海岸での水泳大会で、平泳ぎに出場し42秒で1位になった。またメドレーリレーでは、フェルチュ(Färtsch)、シュタインメッツ(Steinmetz)、レーマン(Lehmann;板東にはレーマンが二名いて特定不可)と組んで1位になった。ヴッパータールのエルバーフェルト(Elberfeld)出身。(3158:松山→板東)
2436) Wider(ヴィーダー),Hermann(?-?):海軍膠州砲兵隊・1等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。カールスルーエ出身。(1662:名古屋)
2437) Wied(ヴィート),Emil(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた。似島への移送時点で右目は義眼であった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのズィーゲン(Siegen)出身。(4613:大阪→似島)
2438) Wieder(ヴィーダー),Josef(?-?):海軍東アジア分遣隊第1中隊・2等歩兵。習志野時代の1919年5月24日、習志野合唱協会の「歌曲の夕べ」ではエンスリン、ハイメンダール及びベヒトルスハイムの4人でシュヴァーベン民謡の「選ばれし者」を四重唱した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。バリンゲン郡のタイルフィンゲン(Tailfingen)出身。(292:東京→習志野)
2439) Wiegand(ヴィーガント),Leopold(1878-1977):国民軍・陸軍中尉。〔動員国民軍指揮官〕。1880年の2歳の時から1899年12月までフレンスブルクに居住【『俘虜ニ関スル書類』より】。1920年1月23日、他の6名ととも青島に居住するために台北丸で出発した【『小野市史』438頁】。フレンスブルク出身。(2449:姫路→青野原)
2440) Wiemeier(ヴィーマイアー),Ernst(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。1922年5月前にドイツに帰国したが、後に再度蘭領印度に渡り、1933年にドイツに最終的に帰国した。ピュルモント(Pyrmont)出身。(3791:熊本→久留米)
2441) Wiemer(ヴィーマー),Severin(?-?):海軍野戦砲兵隊・2等砲兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ライン河畔のリンツ(Linz)出身。(2763:名古屋)
2442) Wierny(ヴィルニー),Paul(?-?):第3海兵大隊第6中隊・補充予備。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。グライヴィッツ(Gleiwitz)出身。(3795:熊本→久留米)
2443) Wiersbitzki(ヴィルスビツキー),August(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等焚火兵。[電気工]。ボイテン(Beuthen)郡オルツェゴウ(Orzegow)出身。(1657:福岡→久留米)
2444) Wiese(ヴィーゼ),Wilhelm(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。1916年9月25日福岡から青野原へ収容所換えになった。1918年12月13日から20日まで開催された青野原俘虜製作品展覧会で、ヴィーゼは絵画部門で鉛筆画、チョーク絵、パステル画等13点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』70頁】。シェーンベルク(Schönberg)出身。(1678:福岡→青野原)
2445) Wiesendt(ヴィーゼント),Hermann(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備副曹長。久留米時代の1917年4月17日、上海のロシア・アジア銀行に預金している500円の払い戻しを請求し、在東京のロシア大使館から許可があれば払い戻すとの回答が届いた。1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。妻ヘトヴィヒ(Hedwig)は息子(12歳以下)と大戦終結まで青島に留まった。出身地不明(『俘虜名簿』では青島)(836:久留米→名古屋)
2446) Wieser(ヴィーザー),Rudolf(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備2等歩兵。[ドイツ・アジア銀行天津支店]。徳島時代の1915年4月20日、チェス選手権試合が開催された。それに出場したヴィーザーは4組(出場者総数21名)の内の第4組に割り振られ、1位で本戦のA級に進出した。ニュルンベルク出身。板東時代、ホッケー協会の会計係を務めた。ニュルンベルク出身。(4323:「大阪→」徳島→板東)
2447) Wiesner(ヴィースナー),Hugo(1861-?):国民軍・副曹長。オルデンブルクのネーエンブルク(Nehenburg)出身。(1807:静岡→習志野)
2448) Wiesner(ヴィースナー),Paul(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。[ハンブルク・アメリカ汽船]。シュレージエンのティレンドルフ(Tillendorf)出身。(4320:「大阪→」徳島→板東)
2449) Wiest(ヴィースト),Richard(?-?):海軍砲兵中隊・1等焚火兵。久留米時代の1916年12月17日、青野原のヘルケ(Herke)に絵葉書(久留米名所としての歩兵第56連隊の正門前を写した写真)を出した【シュミット】。久留米の演劇活動では、リンダウ作『もうひとりの男』に出演した。ベルリン出身。(3809:熊本→久留米)
2450) Wieting(ヴィーティング),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。[エードゥアルト・マイアー商会(Eduard Meyer & Co.)天津支店]。丸亀俘虜収容所時代の所内の様子をまとめて編集したアルバムが、鳴門市ドイツ館に寄贈され、所蔵されている。また、1968年(昭和43年)3月3日、ドイツ館に1万円を寄付した【中野正司「画像資料から見た板東俘虜収容所の施設と生活」93頁及び西田素康「現代によみがえる板東俘虜収容所」109頁;所載:『地域社会における外来文化の受容とその展開』】。1970年のクリスマスの折り、ヴィーティングは娘と孫に「回想録」を贈った。2003年、鳴門市によるブラウンシュヴァイクでの「『第九』里帰り公演」の折に、ヴィーティングの娘インゲマリー・フォン・ハレンさんから上述の「回想録」の一部がドイツ館に寄贈された。それは「第1次世界大戦―1914年の夏と秋」と「日本 1914年―1920年」の2章である。前章では、青島への応召から堡塁での防禦の様子、直属の上官ショーン(Schon)の人物像が記されている。また、日本軍の攻撃から逃れる際に一人遅れて自陣の地下壕に辿り着き、既に死者として登録されてしまい、そのことが正規ルートでブレーメンの父親の元に通知されたこと、しかしそれが届いたときには、日本で俘虜となって無事であることを知っていたことな度が記述されている。次章では、丸亀収容所での過密状態や、所内「犯罪クラブ」とでもいうものの存在について触れている。丸亀時代は「アルフォンス」というあだ名で呼ばれていたが、あだ名で呼び合うことが一般的であった、と記している。板東時代の記述としては、イェプセン(Jebsen)とデンマーク語の勉強をし、後にブレーメンのコーヒー会社「カフェー・ハーク」のデンマーク語のパンフレットの翻訳をしたことが記されている。なお、ヨハネス・バールト(Johannes Barth)とは、少年の頃からの友人で同窓生であることが、この「回想録」から判明した。ブレーメン出身。(2131:丸亀→板東)
2451) Wild(ヴィルト),Gerhard(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米時代、シュタイツ(W.Steitz)の手になると思われる収容所の柵をあしらったスケッチには、中央部分に「久留米収容所楽団」のオットー・レーマン(Otto Lehmann)以下22名の楽団員の写真が並べられ、また一人一人のサイン(ただしレーマンのを除く)が記されている【〔写真6〕参照】。さらに写真には各自のパートも記されている。それによるとヴィルトは、フルートを受け持った。ラインラントのヴァイスヴァイラー(Weissweiler)出身。(808:久留米)
2452) Wilde(ヴィルデ),Carl(?-?):国民軍・卒。[商人]。1912年まで、ミネラルウオーター製造会社「イルチス鉱泉(Iltisbrunnen)」の共同経営者であった。その後はもう一人の経営者の単独会社になった。ヴィルデは1914年にヘレーネ・アーレンス(Helene Ahrens)との婚姻届を戸籍登録所に提出した。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住んだ。1915年9月16日に青島から日本へ送られ、20日に大阪俘虜収容所に収容された。解放後の1920年初頭に青島に戻り、1920年5月21日、リヒャルト・ヴィルヘルムの司式でヘレーネとの正規の結婚式が執り行われた。それがヴィルヘルムが執り行った青島での最後の結婚式であった。なお、ヘレーネはハインリヒ・アーレンス(Heinrich Ahrens)の長女だった。1920年代にはハンブルクに住み、青島のヘルマン・グレーフェン(Hermann Grefen)商会の代理人を務めた。1956年時点では、アーレンブルク(Ahrenburg)のアーレンスフェルダー(Ahrensfelder)小路36に住んだいた。ポンメルンのバルテルスハーゲン(Bartelshagen)出身。(4706:大阪→似島)
2453) Wildner(ヴィルトナー),Karl(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵軍曹長。大阪時代の1917年1月29日、俘虜6名を指揮して大阪衛戍病院に入院中の俘虜の荷物を荷車三台に積んで衛戍病院へ赴いた。似島移転に際して同道し、荷物搬送の指揮を執ったものと思われる(『大阪朝日新聞』大正6年1月30日付による)。ザクセン=ヴァイマルのアポルダ(Apolda)出身。(4094:大阪→似島)
2454) Wilhelm(ヴィルヘルム),Gustav(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に当って、目録の表紙・装丁を担当し、また美術部門の責任者をハッハマイスター(Hachmeister)とともに担当して、自ら油絵16点を出品した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのズィーゲン(Siegen)出身。(1644:福岡→大阪→似島)
2455) Wilhelm(ヴィルヘルム),Karl(?-?):海軍砲兵中隊・2等需品兵曹。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュタインバック=ハレンベルク(Steinback-Hallenberg)出身。(3806:熊本→久留米)
2456) Wilke(ヴィルケ),Waldemar(1889-?):第3海兵大隊第4中隊・予備副曹長。プレンツラウ(Plenzlau)出身。(3781:熊本→久留米)
2457) Will(ヴィル),Dr.Eduard(1883-?):第3海兵大隊第5中隊・予備陸軍少尉。[弁護士]。ハイデルベルク大学で法律を学んだ。久留米時代、収容所の音楽活動では主として室内楽の演奏で指揮を執った。1919年7月、在北京オランダ公使宛に妻子救出に関する信書を出し、検閲の上11日に情報局に転送された。出身地不明(『俘虜名簿』では天津)(3790:熊本→久留米)
2458) Will(ヴィル),Heinrich(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。[鋳型工]。久留米時代、1918年10月から澤野鉄工場で鋳型の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。エーリングハウゼン(Ehringhausen)出身。(1679:福岡→久留米)
2459) Wille(ヴィレ),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・2等砲兵。1915年7月11日福岡から久留米へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェリングホーフェン(Wellinghofen)出身。(1651:福岡→久留米)
2460) Wille(ヴィレ),Georg(?-?):第3海兵大隊第7中隊・2等歩兵。1919年6月1日(日)、12種目から成る体操大会が開催されたが、ヴィレは119点を挙げて古参選手の部4位になった【『バラッケ』1919年6月号より】。ハンブルク出身。(2130:丸亀→板東)
2461) Willems(ヴィレムス),Anton Max(1894-1959):海軍膠州砲兵隊第・2等砲兵。1894年5月17日、機械工の子としてメルヒヴァイラーに生れた。1914年8月上記砲兵隊に入隊した【シュミット】。トリーア郡のメルヒヴァイラー(Merchweiler)出身。(3818:熊本→久留米)
2462) Willerbach(ヴィラーバッハ),Ernst(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。久留米時代の1916年4月10日、シュトレンペルと逃亡したが、17日に長崎で捕まった。禁錮10ヶ月の刑を受けて、福岡監獄に収監され、1917年2月27日出獄した。久留米時代は演劇活動で、喜劇・笑劇に出演した。ハノーファー出身。(3788:熊本→久留米)
2463) Willers(ヴィラース),Ernst(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備上等歩兵。久留米時代に演劇活動で、トーマ作の喜劇『放蕩娘』に出演した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オルデンブルク出身。(3783:熊本→久留米)
2464) Willers(ヴィラース),Fritz(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵伍長。1915年9月20日福岡から名古屋へ収容所換えになった。大戦終結後は、特別事情を有す日本内地居住希望者として、日本国内で解放された。ヴェストファーレンのミンデン出身。(1642:福岡→名古屋)
2465) Willhöft(ヴィルヘフト),Arthur(?-?):第3海兵大隊・2等歩兵。福岡時代の1916年(月日不明)、「俘虜ノ逃走ヲ幇助シタル科」で懲役2ヶ月に処せられた。1916年10月20日福岡から青野原へ収容所換えになった。ハンブルク出身。(1688:福岡→青野原)
2466) Willig(ヴィリッヒ),Georg(1890-1981):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。義理の娘ロッテ(Lotte Willig)によると、ククスハーフェンで海軍兵士としての訓練を受けた後、1913年1月に青島に赴いた。1916年10月21日福岡から名古屋へ収容所換えになった。1938年以来ヴュルツブルクに住み、ドイツ帝国鉄道(後の連邦鉄道)の機関士として働いた。1972年、ヴュルツブルクでの最後のチンタオ戦友会には、友人にして同じく戦友のプレヒト(Karl Precht)と出席した。戦友との集まりには生涯きちんと出席した。日本の収容所時代を記念するものは、生前中すでに散逸して失われた【メッテンライター『極東で俘虜となる』84-85頁 】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。リムブルク(Limburg)出身。(1670:福岡→名古屋)
2467) Willuda(ヴィルダ),August(?-?):所属部隊不明・後備伍長。[帽子仕立て職人]。青島時代は、市内中心のフリードリヒ街に住み、軍御用達商として広く知られていた。大戦終結が近づいた頃、『似島俘虜収容所新聞』に軍装品やシルクハット、背広の広告を出した。また1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された、似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のために発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の32頁には、ヴィルダの帽子のスケッチが掲載された。妻アンナ(Anna)は子ども(12歳以下)と二人で大戦終結まで上海で暮らした。東プロイセンのラステンブルク(Rastenburg)出身。(4619:大阪→似島)
2468) Wilms(ヴィルムス),Robert(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ライン河畔のランク(Lank)出身。(812:久留米)
2469) Wilms(ヴィルムス),Walther(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。丸亀時代の1916年8月4日、ヴェーザー河畔の町(判読不可)175番地のH.Wilms(ヴィルムス)宛てに絵葉書を出した。図柄は、丸亀の将校収容所を写した写真である。写真には門の奥、建物の前に立つ三人の将校(?)と衛兵、衛兵詰め所脇に立つ白い服の巡査(?)、及び塀の脇に置かれた自転車一台が写っている。文面はごく簡単な挨拶状【郵趣家三木充氏の収蔵品より】。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡ったが、1922年時点ではすでに故国に帰還していた。ゲーステミュンデ(Geestemünde)出身。(2113:丸亀→板東)
2470) Wilucki(ヴィールキ),Günther von(1883-?):海軍東アジア分遣隊・陸軍大尉。〔外方陣地左翼陣地副官〕。ドレスデン出身。(284:東京→習志野)
2471) Wimmer(ヴィンマー),Ludwig(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。久留米の演劇活動では、ブルーメンタールとガーデルベルク合作の笑劇『私が戻った時』に出演した。ミュンヘン出身。(466:久留米)
2472) Wingert(ヴィンゲルト),Walter(?-?):海軍砲兵中隊・2等焚火兵。久留米時代の1917年1月28日、アンドレーアをカロルチャク等18名で袋叩きにして負傷させ、2月7日久留米軍事法廷で懲役1月に処せられた。また、1919年6月からは日本製粉株式会社久留米支店に、蒸気機関火夫の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。シュテッティン出身。(3814:熊本→久留米)
2473) Winkler(ヴィンクラー),Albrecht(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪俘虜収容所に移送された。オーストリアのアウスゼー出身。(4707:大阪→似島)
2474) Winkler(ヴィンクラー),Anton(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時27歳)、2時間39分14秒5分の1で66位になった【『バラッケ』第4巻4月号82頁】。コーブレンツ出身。(3156:松山→板東)
2475) Winkler(ヴィンクラー),Johann(1892-1960):海軍東アジア分遣隊第1中隊・上等歩兵。1914年10月2日、四房山で俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。バーデンのウイシングハイム(Uissingheim)出身。(838:久留米)
2476) Winkler(ヴィンクラー),Josef(1895-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等下士。【「1919年12月似島」と題する、タイプ打ち95枚の回想記を著したが、出版されるには至らなかった。1991年1月に、ウィーン大学へ提出されたトーマス・クリヴダ(Thomas Krivda)氏の博士論文『1908-1914年並びに俘虜時代における東アジアにおけるオーストリア=ハンガリー帝国巡洋艦皇后エリーザベト及びその乗員』に、ヴィンクラーの遺稿が紹介されている】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。オーストリアのミュルツシュラーク(Mürzuschlag)出身。(2451:姫路→青野原)
2477) Winterhagen(ヴィンターハーゲン),Friedrich(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・2等水兵。1954年11月6日、青島攻防戦終結40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。更に1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ヴェストファーレンのハーゲン(Hagen)出身。(833:久留米)
2478) Winterscheidt(ヴィンターシャイト),Paul(?-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ラインラントのインガー(Inger)出身。(834:久留米)
2479) Wischnat(ヴィッシュナト),Friedrich(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備軍曹。大戦終結して解放後の1920年、蘭領印度に渡った。シュタルペネン(Stallupönen)出身。(2748:名古屋)
2480) Witt (ヴィット),Ludwig A.(?-?):国民軍・階級不明。[ジータス、プラムベック青島支店]。青島時代は皇太子街に住んでいた。1919年10月29日、大戦終結後は従来勤めていた上海のH.C.Augusteslenという、デンマークの会社に就職したい旨の手紙をスイス公使に出した。青島就職既定者として日本国内で解放された。シュレースヴィヒ=ホルシュタインのゾンダーブルク出身。(4616:大阪→似島)
2481) Witte(ヴィッテ),Georg(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、収容所内のタパタオで肉屋を営んだ。また、1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会の「シニアの部」(当時40歳)で、2時間38分12秒で5位になった【『バラッケ』第4巻4月号83頁】。フィッセルヘヴェーデ(Visselhövede)出身。(2123:丸亀→板東)
2482) Wittmann(ヴィットマン),Hans(?-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊長(?)・海軍大尉。〔陸上砲兵隊指揮官〕。青島時代はハインリヒ皇子街に住んでいた。シュトゥットガルト出身。(1637:福岡→習志野)
2483) Wodarz(ヴォダルツ),Robert(?-?):海軍膠州砲兵隊第3中隊・副曹長。青島での戦闘で右脚に貫通銃創を受け、右脚を切断していた。1916年9月12日、義足を下賜された。大阪俘虜収容所は1917年2月19日に閉鎖されたが、同年3月8日時点で大阪衛戍病院に入院していた。シュレージエンのオッペルン郡のアルテ=ブトゥコヴィッツ(Alte Budkowitz)出身。(4656:大阪→似島)
2484) Wohlfahrt(ヴォールファールト),Ludwig(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・1等水兵。青野原時代、1918年12月13日から20日まで開催された俘虜製作品展覧会で、ヴォールファールトは編み物・レース編み部門にレース3点を出品した【『AONOGAHARA捕虜の世界』82頁】。ボヘミアのゼバスチアンスベルク(Sebastiansberg)出身。(2452:姫路→青野原)
2485) Woineck(ヴォイネック),Fritz(?-?):海軍砲兵中隊・1等木工。熊本時代、哨兵に暴行を加えた科で禁錮1月の処罰を受けた。ブレスラウ出身。(3808:熊本→久留米)
2486) Wolczik(ヴォルチク),Heinrich(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等下士。姫路時代の1915年(月日不明)、モウトラー(Mostler)と共謀して脱柵した科で禁錮8ヶ月の処罰を受けた。モラヴィアのヴィトゥコヴィッツ(Witkowitz)出身。(2450:姫路→青野原)
2487) Wolf(ヴォルフ),Gustav(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。習志野時代、東京京橋の「カフェ・パウリスタ」に洋菓子製造の指導に出向いた。ヤコビーネ/オーラウ(Jacobine Ohlau)出身。(295:東京→習志野)
2488) Wolf(ヴォルフ),Hermann Ernst Oskar(1885-1938):第3海兵大隊第3中隊・予備2等歩兵。ドイツでは化学の勉強をして製薬会社に勤め、1910年ないし1912年頃ウラジオストックへ行き、大戦勃発で応召し青島に赴いた。大戦終結後は、一般送還船出発前に予め日本国内で解放された。1920年始めにドイツに帰国したが、ドイツの経済事情悪化で就職が難しく、南海丸を日本へ返す仕事に応募して、再び日本に来た。貿易の仕事に従事した後、鋼鉄の勉強をしたのち二枚刃の安全剃刀を製作した。そのブランド名は頭文字からとったH-Wと呼ばれ、カタカナで「ハーヴェー」と書かれていたとのことである。1928年、大阪出身の日本女性「カシマ志を」と結婚した。ヴォルフはヴァイオリンが得意で、久留米オーケストラの指揮や合唱団の指揮をした。二人が出会ったのは、「カシマ志を」の琴演奏リサイタルであったと、娘のハーサ・W.ロジャースさんは語っている。合唱団を指揮する様子や、収容所の建物脇のベンチに本を広げて座るヴォルフの写真がロジャースの元に遺されている。1930年4月頃、脳卒中で4ヶ月寝たきりになった。剃刀製造会社は閉鎖・倒産のやむなきに至った。1938年11月二度目の脳卒中に倒れ、二日後に他界した。日本ではほとんどを神戸市の青谷町に住んだ。1966年、妻の「志を」はハーサの住むアメリカへ渡り、1968年11月に癌で他界した【ハーサ・W.ロジャーズ/安達康子訳「父、ヘルマン・エルンスト・オスカー・ヴォルフ」より。所載:『ドイツ軍兵士と久留米』142-144頁】。ハンブルク出身。(824:久留米)
2489) Wolff(ヴォルフ),Josef(?-?):第3海兵大隊第6中隊・後備軍曹。松山時代(公会堂・収容)の1915年9月22日、クレーマン予備副曹長(Kleemann)から誕生日祝いの招待を受け、前後の思慮なく酩酊して脱柵し、民家に立ち入った科で23日に重営倉10日に処せられた。コーブレンツ出身。(3162:松山→板東)
2490) Wölk(ヴェルク),Max(?-?):第3海兵大隊第6中隊・予備伍長。〔湛山堡塁〕。[青島郵便局]。1914年11月2日の未明4時10分頃、ヴェルクは第6中隊の湛山兵営から電話で、湛山堡塁に第2小堡塁の電信状態についての調査依頼をした。ラーン(Laan)が進んでその任務に赴いた。東プロイセンのピラウ出身。(3164:松山→板東)
2491) Wolkenhauer(ヴォルケンハイマー),Gustav(?-?):第3海兵大隊第1中隊・上等歩兵。1918年12月2日、久留米からブレーメンの家族に宛てて、久留米収容所をスケッチした絵葉書を送った【イェキッシュ氏所蔵】。アラー(Aller)河畔のヴェルデン(Verden)出身。(806:久留米)
2492) Wolschke(ヴォルシュケ),Friedrich Hermann(1893-1963):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。[屠畜職マイスター]。1891年7月31日、ブランデンブルクのラウノ(Rauno)に生れた。兄(Friedrich Paul)、弟(Friedrich Carl)、妹(Marie Martha,Frieda Charlotte,Agnes Margarethe,Anna Marie)四人の7人兄弟の次男だった。似島時代、屠畜職人だったケルン(Kern)、シュトル(Stoll)の三人で、当時の広島市広瀬町上水入町のハム製造会社酒井商会でハム製造の技術指導をした。三人の写真が『広島中国新聞』(大正8年12月25日付け)に掲載されている。1919年3月4日から広島県物産陳列館で開催された俘虜作品展示即売会では、バウムクーヘンを出品するようユーハイムを励まし、自身はソーセージを出品し、またドイツ料理を供した。似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會のために発行された「似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録」の33頁には、ヴォルシュケ料理のスケッチが掲載された【〔図3〕参照】。大戦終結後は、銀座に新規開店した明治屋経営の「カフェー・ユーロップ」のソーセージ製造主任になった。後に軽井沢に自分の店「ヘルマン」を創業した。1932年、アメリカからベーブルース等を含むプロ野球チームが来日した折り、甲子園球場で日本初のホットドッグを販売した。第二次大戦中は同盟国の人間でありながら、長野県野尻湖畔で営業活動を停止されて、いわば幽閉生活を送った。今日、息子のヘルマン・ヴォルシュケ氏が神奈川県厚木で「ヘルマン」を営業している。東京・狛江の泉龍寺に墓があり、墓碑には「遥かなる祖国ドイツを誇り、第二の故郷日本を愛したヘルマン・ヴォルシュケここに眠る」と記されている。ブランデンブルクのラウノ(Rauno)出身。(4099:大阪→似島)
2493) Wolter(ヴォルター),Otto(?-?):第3海兵大隊第2中隊・上等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にグルミオ役で出演した。ヴィッテンベルク出身。(2110:丸亀→板東)
2494) Worms(ヴォルムス),Ernst(?-?):海軍野戦砲兵隊・軍曹。板東時代、1917年5月に松山収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、トロンボーン及びコントラバスを担当した。また収容所第7棟の3室で理髪業を営んだ。ザクセンのツァイト(Zeit)出身。(3172:松山→板東)
2495) Woerz(ヴェルツ),David(?-?):第3海兵大隊第1中隊・2等歩兵。1919年10月24日に開催された「スポーツ週間」のBクラス80mハードルに出場し、12.8秒のタイムで2位になった。ヴュルテンベルクのガイスリンゲン(Geislingen)出身。(815:久留米)
2496) Woserau(ヴォーゼラウ),Arthur(?-?):国民軍・卒。1915年9月20日、青島から大阪収容所に移送された。ベルリン出身。(4708:大阪→似島)
2497) Wössner(ヴェスナー),Albert(?-?):第3海兵大隊第5中隊・後備軍曹。[巡査]。妻ベルタ(Berta)は息子(12歳以下)と二人青島に留まった。自分の四阿(あずまや)の前に立つヴェスナーの写真が現存し、資料に紹介されている【『特別資料展「ドイツ兵の見たNARASHINO ―1915-1920 習志野俘虜収容所」展示品図録』87頁】。大戦終結後は、特別事情を有することから青島居住を希望した【『俘虜ニ関スル書類』より】。ヴュルテンブルクのロムバッハ(Lombach)出身。(1803:静岡→習志野)
2498) Wostmann(ヴォストマン),Hermann(?-?):砲艦ヤーグアル乗員・1等軍楽兵曹。習志野時代、収容所における1915年12月25日のクリスマス・コンサートではクーロ中佐のピアノとベーロウ予備少尉のチェロに合わせて、メンデルスゾーンの「ピアノ三重奏曲第一番」からのアレグロとアンダンテを、さらに「ジョスランの子守唄」はゼーバッハ、ハイメンダール両少尉のピアノに合わせてヴァイオリン演奏した。習志野弦楽四重奏団の一員で、第二ヴァイオリンを担当した。他の三人はミリエス(第一ヴァイオリン)、ハルツェンブッシュ(ヴィオラ)及びテーン(チェロ)である。1919年10月1日、第2回「芸術家コンサート」がヴォストマン氏のためにと銘打たれて開催された。また同年10月5日、マルフケのために開催された「謝恩の夕べ」では終了の音楽として、ヴェーデル(Wedel)少佐作曲の「大分行進曲」を指揮・演奏した。ブランデンブルク出身。(303:東京→習志野)
2499) Wulff(ヴルフ),Andreas(?-?):第3海兵大隊第4中隊・後備2等歩兵。1919年12月のクリスマスは、クルーゲ(Kluge)、マル(Marr)及びヘルビヒ(Helbig)の四人で過ごした。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ハンブルク出身。(3789:熊本→久留米)
2500) Wunderlich(ヴンダーリヒ),Alexander(?-?):海軍東アジア分遣隊・後備副曹長。[ベンク・ウント・クレッチュマー商会青島支店]。青島時代は皇太子街に住んでいた。松山時代(大林寺収容)の1916年9月19日、ヴンダーリヒから上海に居住するツィンマーマン(Otto Zimmermann)の妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し、重謹慎20日の処罰を受けた。他の5名はゲルビヒ(Gerbig)、イェシュケ(Jeschke)、マイアー(Otto Meyer)、シャイダー(Scheider)、ツンマーマン(Otto Zimmermann)である。なお、松山時代には大林寺の収容所講習会で英語の講師を務めた。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の応援で、ピアノを担当した。また板東では、収容所内のタパタオでローデ(Rode)と共同で薬局を営んだ。1918年10月23日には、マイヤー・フェルスター作の戯曲『アルト・ハイデルベルク』上演に際して演出を担当し、1919年3月5日には「ラジウムと放射能」の題で講演した。ノルトライン=ヴェストファーレンのイーゼルローン(Iserlohn)出身。(3175:松山→板東)
2501) Wunschhof(ヴンシュホーフ),Otto(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。[ジータス、プラムベック青島支店]。青島時代はホーエンツォレルン街に住んでいた。東プロイセンのアンガーブルク(Angerburg)出身。(2118:丸亀→板東)
2502) Wuttka(ヴトカ),Richard(?-?):海軍膠州砲兵隊第2中隊・2等砲兵。似島時代の1919年3月、広島県物産陳列館での似島独逸俘虜技術工芸品展覧会開催に際して、美術の工芸木工部門でシュミット(A.Schmidt)と共同で、鳥籠1点を出品した。上部シュレージエンのブランデ(Brande)出身。(4100:大阪→似島)
2503) Zabel(ツァーベル),Adolf(?-?):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。大戦終結後は、日本内地契約成立者として日本国内で解放された。ブレーメン出身。(1696:福岡→青野原)
2504) Zach(ツァッハ),Georg(1893-1964):巡洋艦グナイゼナウ乗員・2等焚火兵。病気のため残留していた東カロリン群島のポナペ島で逮捕された。1914年11月29日横須賀に上陸後、リュールス(Lührs)とともに海軍により護送されて東京収容所に送られた。大戦終結して解放後は、蘭領印度に渡った。シュナイテンバッハ(Schneitenbach)出身。(87:東京→習志野)
2505) Zarges(ツァルゲス),August(1892-1957):海軍膠州砲兵隊・2等砲兵。ヴェストファーレンのプレッテンベルク(Plettenberg)出身。(1694:姫路→青野原)
2506) Zeffler(ツェフラー),Albert(?-1919):海軍膠州砲兵隊第2中隊・砲兵軍曹長。1916年10月20日福岡から大阪へ収容所換えになった。1919年3月27日、似島で死亡。シュレージエンのシュトリーガウ(Striegau)出身。(1692:福岡→大阪→似島)
2507) Zeiss(ツァイス),Eduard(?-?):海軍野戦砲兵隊・予備副曹長。青島への応召前は、東京で商人として従事していた。熊本時代の1915年1月24日、阿弥陀寺に収容されていたツァイスは、ブッシュ(Busch)、フリッケ(Fricke)及びラッペンエッカー(Rappenecker)の四人で収容所から脱走した。夜の内に海岸へ20キロの地点まで進んだ。翌朝早くに同罪となることを恐れたシューマン(Paul Schumann)の報告で脱走が分かり、四人はボートで海に漕ぎ出す寸前で警察官に逮捕された。荒縄で繋がって縛られて収容所に連れ戻され、やがて軍法会議で一年の禁錮に処せられた。拘禁中は赤茶色の囚人服を着せられた。2月6日、禁錮1年の刑を受けたが、恩赦によって出獄した。大正天皇の即位による恩赦で12月22日に(クリスマスとの説もある)に釈放されて久留米収容所に送られた【アドルフ・メラー『日本の収容所からの脱走の企て』(Meller,Adolf:Fluchtversuche von Tsingtau-Verteidigern aus japanischem Gewahrsam im Ersten Weltkrieg)より】。久留米時代、1918年1月6日の収容所コンサート「リヒャルト・ワーグナーの夕べ」等で指揮者として活躍した。またヘルトリング及びフォークトとともに収容所の音楽教育にも携わった。1918年9月頃、187名が他の収容所に移って16号棟が空き、ツァイスはシュナック(Schnack)及びエーリヒ・フィッシャー(Erich Fischer)とともに町でピアノを借りて練習した【『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)37頁】。また同書153頁には、ツァイスがドイツの友人に宛てた手紙が紹介されている。演劇活動では、1919年12月17日から18日にかけて、久留米俘虜収容所最後の芝居となったイプセン作の『国民の敵』等の演出をするとともに、5演目に出演した。1954年11月6日、青島戦闘40年を記念してハンブルクで開催された「チンタオ戦友会」に出席した。アウグスブルク出身。(3826:熊本→久留米)
2508) Zenkert(ツェンケルト),Stefan(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ヴュルテンベルクのラウデンバッハ(Laudenbach)出身。(850:久留米)
2509) Zieger(ツィーガー),Albert(?-?):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。ライプチヒ出身。(841:久留米)
2510) Zientek(ツィーンテク),Hipolit(?-?):第3海兵大隊工兵中隊・2等工兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。ポーゼンのヤロチン(Jarotschin)郡グラープ(Grab)出身。(851:久留米→板東)
2511) Ziercke(ツィールケ),Fritz(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。松山時代(公会堂収容)の1915年10月8日、婦女に戯れる目的で脱柵した科で、翌9日に重営倉30日に処せられた。ハンブルク出身。(3178:松山→板東)
2512) Ziesel(ツィーゼル),Wilhelm(1886-?):海軍膠州砲兵隊第5中隊・予備副兵曹。久留米時代には演劇活動で、ドレディ作の喜劇『お似合いの燕尾服』に出演した。『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(2007)123頁には、読書をしているツィーゼルの写真(久留米時代の1916年9月27日)が掲載されている。1918年8月5日久留米から名古屋へ収容所換えになった。ケルン出身。(3830:熊本→久留米→名古屋)
2513) Zillig(ツィリッヒ),Otto(?-?):第3海兵大隊・副曹長。青島時代はダンチヒ街に住んでいた。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュマレミンケン(Schmallemingken)出身。(3825:熊本→久留米)
2514) Zimmer(ツィンマー),Karl(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。〔湛山堡塁〕。[ディーデリヒセン上海支店]。戦争の当初はラーン(Laan)とともにビスマルク兵営で、本部警備隊に食事やコーヒーを運ぶ任務に就いていた。その後湛山堡塁に移った。板東時代の1919年4月17日に開催された21キロの競歩大会で(当時26歳)、2時間33分16秒で39位になった【『バラッケ』第4巻4月号81頁】。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ツェルフェルト(Zerfeld)出身。(3180:松山→板東)
2515) Zimmermann(ツィンマーマン),Ernst(?-?):第3海兵大隊第7中隊・上等歩兵。板東時代、1918年6月25、27、28日の三日間上演された、シェイクスピア作の喜劇『じゃじゃ馬馴らし』にじゃじゃ馬役で出演した。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。シュタスフルト(Stassfurt)出身。(2133:丸亀→板東)
2516) Zimmermann(ツィンマーマン),Fritz(1884-?):第3海兵大隊第7中隊・予備陸軍少尉。[アルンホルト・カルベルク通州支店]。(4621:大阪→似島)
2517) Zimmermann(ツィンマーマン),Georg(1892-1931):第3海兵大隊第2中隊・2等歩兵。1892年1月17日、使用人の子としてザールブリュッケンに生れた。1914年8月上記中隊に入隊した【シュミット】。ザールブリュッケン出身。(2132:丸亀→板東)
2518) Zimmermann(ツィンマーマン),Heinrich(1893-?):第3海兵大隊第4中隊・2等歩兵。送還船の豊福丸船内で発行された新聞『帰国航』の最終号に、次の詩を寄せて幾分切ない雰囲気を漂わせた。「我らの誇れる旗が降ろされるまで、己が持ち場で耐え抜いた我々を、運命はいまや東へ西へと散り散りにする」【メッテンライター『極東で俘虜となる』77頁】。バーデンのネッカルゲミュント(Neckargemünd)出身。(2765:名古屋)
2519) Zimmermann(ツィンマーマン),Joseph(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1917年5月24日、情報局から各収容所への製針業に従事していて労役希望の照会に際して、久留米ではツィンマーマン他3名を届け出た。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ラインラントのデューレン(Düren)出身。(845:久留米)
2520) Zimmermann(ツィンマーマン),Julius(?-?):海軍砲兵中隊・2等信号兵曹。[商船船長]。習志野時代、クリューガー(K.Krüger)と同室だった。小柄でずんぐり太っていた。クリューガーによると、両手をいつもポケットに入れて歩き、人をからかうのが好きだった。ニーダーザクセンのオスト=グローセフェーン(Ost-Grossefehn)出身。(312:東京→習志野)
2521) Zimmermann(ツィンマーマン),Kurt(1891-1983):第3海兵大隊第5中隊・2等歩兵。板東時代、1917年5月に松山俘虜収容所からの人員を加えて拡大した「エンゲル・オーケストラ」の団員で、テノール・ホルンを担当した。ドイツに帰国後の1922 年、エマ(Emma Hanke)と結婚して息子二人をもうけた。2003年6月、ブラウンシュヴァイクで開催された「第2回ベートーヴェン『第九』里帰り公演」に際して、息子の妻ヴァルトルート・ツィンマーマンから、軍隊手帳と手書きの絵葉書が鳴門市ドイツ館に寄贈された。ザクセンのヴルツェン(Wurzen)出身。(3177:松山→板東)
2522) Zimmermann(ツィンマーマン),Dr.Manfred(?-?):第3海兵大隊第4中隊・予備陸軍中尉。青島時代はディーデリヒス小路に住んでいた。1918年8月7日久留米から板東へ収容所換えになった。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。出身地不明【『俘虜名簿』では青島】。(3822:熊本→久留米→板東)
2523) Zimmermann(ツィンマーマン),Max(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。本名はヤン・パホルチック(Jan Pacholczyk)でポーランド人。22歳の時スターコンチノクの歩兵第45連隊に入隊するが1ヶ月後に脱走する。その後フランスのパリで約一年間指物師の修業をする。再びロシアに戻り、シベリア、トルキスタン、満州を経て中国を放浪する。1914年夏、青島に来た。病気と貧困に耐えられず、ちょうど募集中の青島守備軍に国籍、居住地を偽って入隊する。病気のため衛戍病院送りとなり後方勤務となるが、青島陥落で俘虜となり日本に送られた」【『「第九」の里 ドイツ村』134頁】。1916年10月9日、トロイケ(Treuke)とともに大阪から丸亀に移された。板東では後に、コッホ(Lambert Koch)、ヘルトレ(Haertle)、トロイケ(Treuke)、ヴァルシェフスキー(Waluschewski)等の反ドイツ感情の強いポーランド人、ロシア系ユダヤ人と一緒に成就院分置所に隔離収容された。後に板東で宣誓解放された。ロシア領ポーランドのガリチア出身。【『俘虜名簿』では、ドレスデン近郊のグリンメンハウゼン(Grimmenhausen)出身】。(4116:大阪→丸亀→板東)
2524) Zimmermann(ツィンマーマン),Otto(?-?):第3海兵大隊第4中隊・副曹長。松山時代(大林寺収容)の1916年9月19日、ヴンダーリヒ(Wunderlich)から上海に居住するツィンマーマンの妻に宛てた小包の二重底に、6名の信書が隠されていたことが発覚し、ツィンマーマンは重謹慎15日の処罰を受けた。他の4名はゲルビヒ(Gerbig)、イェシュケ(Jeschke)、マイアー(Otto Meyer)、シャイダー(Scheider)である。ポッメルンのポイシン(Poissin)出身。(3176:松山→板東)
2525) Zimmermann(ツィンマーマン),Peter(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・2等歩兵。久留米時代、1918年9月16日から日本足袋株式会社に、木綿織物の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ミュンヘンのグラートバハ(Gladbach)出身。(1701:福岡→久留米)
2526) Zimmermann(ツィンマーマン),Wilhelm(1893-?):海軍膠州砲兵隊第4中隊・2等砲兵。ライン河畔のグレッフェルン(Greffern)出身。(1809:静岡→習志野)
2527) Zinck(ツィンク),Walther(?-?):海軍東アジア分遣隊第2中隊・予備伍長。1915年9月20日、福岡から名古屋へ収容所換えになった。ローマン(Lohmann)の遺品中に、ツィンクがアルトマン(Altmann)及びローマンの三人で、名古屋収容所の建物の窓辺で撮った写真が現存している【ローマンの項参照】。ライプチヒ出身。(1697:福岡→名古屋)
2528) Zipp(ツィップ),Michel(1892-1961):海軍東アジア分遣隊第2中隊・2等歩兵。レーゲルスフルスト(Legelshurst)出身。(1698:姫路→青野原)
2529) Zöffel(ツェッフェル),Werner(?-?):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。久留米時代、1918年9月16日から日本足袋株式会社に、木綿織物の労役で出向いた。労働時間1日8時間、賃金は1ヶ月24円(内4円は国庫納入)であった【『ドイツ軍兵士と久留米』24頁】。ザクセンのクリミチャウ(Crimmitschau)出身。(1699:福岡→久留米)
2530) Zoellner(ツェルナー),Hermann(1891-?):第3海兵大隊第2中隊・予備上等歩兵。1914年9月28日、浮山で日本軍に投降して俘虜となり、久留米俘虜収容所に送られた。1915年10月2日、ルント、アール、ジンの4名で脱走したが、3名は同日捕まり、ジンも5日に捕まった。ブランデンブルクのノイルッピン(Neu-Ruppin)出身。(840:久留米)
2531) Zoepke(ツェプケ),Gustav(1872-?):海軍1等書記官。[独華高等学堂事務局長]。青島時代はイレーネ街に住んでいた。妻ミンナ(Minna)はこども二人と大戦終結まで上海で暮らした。キール出身。(852:久留米)
2532) Zorn(ツォルン),Franz(?-?):海軍砲兵中隊・2等砲兵。1919年8月29日付けの『東京日々新聞』によれば、千葉県安房郡勝山町の房総練乳勝山工場へ毎週火曜と木曜の週二回出張して、コンデンスミルクの製造を指導した【『ドイツ兵士の見たNARASHINO』33頁】。ハレ出身。(1691:福岡→習志野)
2533) Zorn(ツォルン),Max(?-?):第3海兵大隊第3中隊・2等歩兵。1960年頃、「チンタオ戦友会」に出席した。ウンター=ヴィッティッヒハウゼン(Unter-Wittighausen)出身。(846:久留米)
2534) Zorngiebel(ツォルンギーベル),Theodor(1891-1974):海軍東アジア分遣隊第3中隊・上等歩兵。1919年4月20日に行われた「久留米体操クラブ」の5種競技(投擲用ボール投げ、石投げ(15kg)、幅跳び、棒高跳び、100m競争)では、得点75点で上級の5位になった。バーデンのヴァルドゥルン(Waldürn)出身。(1700:福岡→久留米)
2535) Zug(ツーク),Kurt(?-?):第3海兵大隊第6中隊・2等歩兵。[天津・テルゲ‐シュレーダー商会]。ライプチヒ出身。(3179:松山→板東)
2536) Zulliani(ツリアーニ),Pietro(?-?):巡洋艦皇后エリーザベト乗員・3等水兵。1916年10月9日、デスコヴィック(Descovvick)等12名と青野原から丸亀に移送された。板東収容所へ移送後まもなくの1917年6月22日、イタリアの連合国加盟により宣誓解放された。高木大尉以下下士13名の付き添いの下、小松島港から徳島丸(共同丸とも)で神戸に着き、同夜は栄町の「恵比須屋旅館」に投宿した。大正6年6月24日付『神戸新聞』には、その折の高木大尉を囲む記念写真、旅館でくつろぐ13名の解放俘虜の写真が掲載された。イストリアのグラード(Grado)出身。(2455:姫路→青野原→丸亀→板東)
2537) Zwanck(ツヴァンク),Otto(1890-1978):海軍東アジア分遣隊第3中隊・予備伍長。習志野時代、1919年3月5日に開催された「朗読の夕べ」で、ドイツロマン派の詩人シャミッソーの詩「太陽が一日をもたらす」を朗読した。ハンブルク出身。(310:東京→習志野)
注
1)予備:本資料には、階級名及び所属部隊名として、予備、後備、補充予備及び国民軍の語が頻出する。そこでこれらの用語を、『ディ・バラッケ』第1巻xxiv~xxv頁の解説(大和啓祐解説)を借用して説明する。1888年制定のドイツ兵役法によれば、満17歳から満45歳までの男子は在営服務義務もしくは国防義務を負うものと定められ、徴兵検査に無条件あるいは条件付で合格した20歳以上23満未満は現役、23歳以上27歳未満は予備役、27歳以上32歳未満は第一後備役、32歳以上39歳未満は第二後備役、それ以外の者は補充予備役(20歳以上32歳未満)、または第一国民軍役(17歳以上40歳未満)、第二国民軍役(40歳以上45歳未満)に属する。なお、日独戦争の勃発に際して総督府は、1914年8月3日に予備、後備、補充予備を召集する動員令を発布した。→3頁)
2)高千穂:二等海防艦高千穂(3709トン)は、1914年10月17日11時30分頃、駆逐艦S90から三発の魚雷を受けて、18日の午前零時30分頃沈没した。艦長の伊東祐保大佐を始めとして271名が艦と運命をともにした。生存者は僅かに5名だった。→6頁)
3)青島俘虜収容所:「開城實施手續規定」の中に、「俘虜委員ハ海泊河以北の諸村落ニ俘虜ヲ収容スヘシ」(『日獨戰史』上巻、1013頁)の記述があるが、具体的な場所、建物等は不明。四方周辺に点在した独軍のバラックを指すかとも推測される。しかし、俘虜移送完了後は若鶴兵営(旧モルトケ兵営)に青島俘虜収容所が設けられて、国民軍等の新たな俘虜が一時期収容された。→7頁)
4)宣誓解放:1907年(明治40年)にオランダのハーグで調印され、1912年に公布された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」の第2章俘虜の第10条には、「俘虜ハ其ノ本国カ之ヲ許ストキハ宣誓ノ後解放セラルルコトアルヘシ此ノ場合ニ於テハ本国政府及之ヲ捕エタル政府ニ對シ一身ノ名誉ヲ賭シテ其ノ誓約ヲ厳密ニ履行スルノ義務ヲ有ス」とある。【『俘虜ニ関スル法令及例規』(俘虜情報局発行「日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独国俘虜関係雑纂」)より】。以下に南洋群島パラオにおける「宣誓書」の例を示す。「下記署名ノ拙者ハ當戰争中ヲ通シテ今後如何ナル塲合ニモ再ヒ獨逸ノ軍隊ニ加ハルコトノナキコトヲ誠實ニ茲ニ宣誓ス 大正三年 月 日 於パラオ」。なお、このドイツ語文を次に示す。「Ich schwöre hiermit,daß ich von heute ab in diesem Kriege mich nie jeglicher Teilnahme gegen japanischen Regierung enthalte.Palau.den 1914」→7頁)
5)飯田祥二郎:山口県出身。昭和9年8月1日近衛歩兵第4連隊長、同10年8月1日第4師団参謀長、13年1月11日第1軍参謀長、同年11月9日台湾混成旅団長、14年8月1日中将、同年9月12日近衛師団長、16年11月6日第15軍司令官、19年12月1日予備役、20年7月25日第30軍司令官、25年4月17日シベリアより帰国。→8頁)
6)ドレンクハーン(Hans Drenckhahn):ジーメンス=シュッケルト社東京支社長。日独開戦後、東京、横浜、神戸にドイツの救援委員会が設立されたが、その内の東京の救援委員会の責任者であった。当時、東京市牛込区田町3-21に住んでいた。1914年10月、最初の俘虜が久留米に到着するとすぐに収容所を訪問した。やがて各地の収容所を訪れ、義捐金、慰問品、新聞雑誌書籍等、更には楽器などを俘虜に届けた。またそうした収容所訪問の折り、各収容所での待遇等を俘虜と対面して聞き取り調査も行い、調査の結果をドイツ本国に報告した。→9頁)
7)香港俘虜収容所:イギリス軍管轄の俘虜収容所。1915年、青島の総督府衛戍病院に収容されていた重傷の俘虜76名(77名とも)が、イギリス軍の要請で香港俘虜収容所に移送された。後に香港収容所の俘虜は、オーストラリアのリヴァプール(Liverpool)収容所に移された。→9頁)
8)テティス街(テティス・シュトラーセ:Thetisstraße):「テティス」は、ギリシャ神話の海の女神でアキレスの母。テティス街の日本による占領統治時代の名称は瀬戸町。なお、青島市街の街路名が本資料中に多く記載されていることから、この項で纏めて掲載順に列挙する。ベルリン街(Berlinerstraße;麻布町)、ダンチヒ街(Danzigerstraße;大阪町)、フリードリヒ街(Friedrichstraße;青島市内でも随一の住宅街で、日本による占領統治時代は静岡町)ティルピッツ街(Tirpitzstraße;日本による占領統治時代は忠海町)、キリスト小路(Christweg;逢坂通)、ホーエンローエ小路(Hohenloheweg;治徳通)、イレーネ街(Irenestraße;久留米町)、リューベック街(Lübeckerstraße;比治山町)、停車場街(Bahnhofstraße;横須賀町)、ヴィルヘルム皇帝海岸浜(Kaiser-Wilhelm-Ufer;舞鶴浜)、労山街(Lauschanstraße;日本名不明)、皇太子街(Kronprinzenstraße;浜松町)、ハンブルク街(Hamburgerstraße;深山町)、ハインリヒ皇子街(Prinz-Heinrich-Straße;佐賀町)、アーダルベルト皇子街(Prinz-Adalbert-Straße)、ホーエンツォレルン街(Hohenzollernstraße;姫路町)、アウグステ・ヴィクトリア海岸浜(Auguste-Victoria-Ufer;旅順町)、ブレーメン街(Bremerstraße;馬関町)、台西鎮街(Taihsitschenstraße)、ビスマルク街(Bismarckstraße;万年町)、即墨街(Tsimostraße;即墨町)、ディーデリヒス小路(Diederichsweg;赤羽町)、海鷲街(Seeadlerstraße;隼町)、ドイツ街(Deutschlandstraße;大和町)、ヘルタ街(Herthastraße;軽藻町)、衛戍病院小路(Lazarettweg;病院通、後に鞍馬町)→3)
9)石井彌四郎(?-?):初代丸亀俘虜収容所長。1914年(大正3年)11月11日、歩兵第12連隊附歩兵中佐から丸亀俘虜収容所長に任命された。1916年1月21日に大佐に昇任した。同年3月8日から病気のため引き篭もり、やがて休暇を申請した。4月5日、なお引き続き3週間の休暇を請願したところ、4月10日付けで収容所長を免じられて待命となり、納富廣次歩兵少佐が第二代収容所長に就任した。陸士1期。→5)
10)丸亀俘虜収容所日誌:『丸亀俘虜収容所日誌』は、全俘虜収容所日誌の半分近くを占める分量を誇る。その詳細な記述により、俘虜収容所の管理・運営等をつぶさに知ることが出来る貴重な資料である。→5)
11)巡洋艦皇后エリーザベト:二等巡洋艦皇后エリーザベト(Kaiserin Elisabeth;4030トン)は、日本を親善訪問する前に青島に立ち寄っていた。1914年8月24日、日本の勧告に従って武装解除し、乗員は北京及び天津に向かったが、26日にオーストリア=ハンガリー帝国が日本に宣戦布告したことを受けて、日独戦争に加わり、300名余の乗員が北京、天津から青島に引き返して戦闘に参加した。→6)
12)『ディ・バラッケ』:『ディ・バラッケ』(Die Baracke)は、板東俘虜収容所で1917年9月30日の第1号から1919年9月号まで、まる2年に亘って発行された俘虜の印刷・発行による収容所新聞。1919年4月までは毎週日曜に週間で、1919年4月から9月の4ヶ月間は月刊で発行された【〔図6〕参照】。合計2720頁に及ぶ。その内容は、収用所内で行われたコンサート、演劇、懸賞附き応募作文の優秀作の掲載、俘虜作品展示会の様子などを記した収容所での出来事に留まらず、戦況記事、政治・経済問題、学術的論文、徳島の地理・風土、チェスの詰め将棋等多種多様な記事が掲載されている。ドイツ語原文は、ドイツ文字筆記体による手書きを謄写印刷したものである。徳島収容所での『徳島新報』と松山俘虜収容所での『陣営の火』発行に携わった人々を中心に発行された。編集委員としては、マルティーン(Martin)中尉、ゾルガー(Solger)予備少尉、ラーハウス(Rahaus)予備火工副曹長、ゴルトシュミット(Goldschmidt)予備副曹長、メラー(Moeller)予備軍曹、マーンフェルト(Mahnfeld)後備伍長の6 名(後に変動あり)。鳴門市ドイツ館史料研究会によって全4巻が翻訳・刊行され、同時にラテン文字に置きなおしたドイツ語原文が、1,2巻は書物で、3,4巻は1,2巻と合わせたCD-ROMの形で刊行された。→7)
13)スペイン風邪:1918年から1919年にかけて世界的に大流行したインフルエンザ。アメリカの兵営に発したとも、中国から発生したともされるが、地球上の人間の約半数が罹患したといわれる。フランスからイギリスに伝播してから、「スペイン風邪」の名で知られるようになった。死者は2500万人以上とも言われ、第1次大戦の死者数約1000万人を遥かに上回った。日本でも2500万の罹患者を出し、38万人余が死亡したとされている。【『平凡社 百科事典』より】→9)
14)病院船博愛丸:日清戦争時における傷病兵搬送・治療の経験から、日本赤十字社がイギリスのロブニッツ社に注文した二隻の病院船のうちの一隻で(もう一隻は弘済丸)、1899年(明治32年)に建造された。全長95m、幅12m、時速24キロ、2600トンであった。船内には292床あり、診察室、手術室が設けられた。北清事変、日露戦争、第一次世界大戦では病院船として傷病兵の輸送・治療に使用された。博愛丸は第1病院船、弘済丸は第2病院船と称された。第一次大戦後は、日本郵船の上海航路に就航し、1926年、当時世界的に需要のあったサケ、タラの缶詰を船内で製造できる蟹工船に生まれ変わった。かつての病院船は、やがて「第二の監獄部屋」とも「海のタコ部屋」とも言われた船に変貌した。1926年9月8日の函館毎日新聞は、「蟹工船博愛丸」の大惨劇事件を報じた。小林多喜二の小説『蟹工船』は、この「蟹工船博愛丸」の事件がモデルになっている。1945年6月18日、軍需品を積んでオホーツク海を航行中に、米潜水艦の魚雷を受けて沈没した。→10)
15)リヒャルト・ヴィルヘルム(Richard Wilhelm;1873-1930):1873年5月10日、シュトゥットガルトに生まれた。1891年テュービンゲンの福音派上級神学校を経て、バーゼル伝道派教会に入った。1899年1月19日、クリストフ・ブルームハルトの娘ザロメと結婚した。1899年5月12日青島に赴き、中国の古典研究に打ちこむとともに、やがてゾイフェルト(Seufert)及びボーナー(Bohner)を指導して、禮賢書院で中国人の教育に携わった。日独戦争中は赤十字の仕事に従事し、戦後の日本軍占領統治時期には青島在留ドイツ人の代表を務め、ドイツの教会維持に努めつつ説教をした。なお、青島のドイツ人男性のほとんどが国民軍所属として俘虜となった後、ドイツ人社会に残った男性は、ヴィルヘルム以外には独中・高等学校長代行のヴィルツ教授、トゥチェック総督府立学校長、ヴァイシャー医師(後に追放され、戦後再び青島で医院を開業)等10名足らずで、他は婦女子150名余が残留するだけとなった【『日獨戦争ノ際俘虜情報局設置並獨國俘虜関係雑纂 第十巻 在本邦俘虜ノ家族取締ニ関スル件』より】。妻のザロメ(Salome)は、時に夫リヒャルトの代わりに文化活動の中心的役割を担った。ドイツに帰国後は、フランクフルト大学の中国学教授を務めた。1926年12月、ヴィルヘルムを訪問したヘルマン・ヘッセはヴィルヘルムを評して、「我々の時代における最も中国的なヨーロッパ人」と語っている。中国の古典(『論語』、『易経』等)を翻訳した。→14)
16)ティルピッツ街:アルフレート・フォン・ティルピッツ(Alfred von Tirpitz;1849-1930)に因む街路名。ティルピッツは1896-1897年まで、ホフマン少将の後任としてドイツ東洋艦隊の司令官を務め、膠州湾を給炭港として最適との判断を下した。1897年海軍次官、1911年海軍元帥、1916年海軍大臣。無差別Uボート戦支持者として首相ホルヴェーク(Bethmann Hollweg)と衝突して退任した。『回想録』(1920)を遺した。→18)
17)高木繁(1886-1953):陸軍大尉。後出の徳島及び板東俘虜収容所長松江中佐の副官。香川県丸亀市に生まれた。陸軍士官学校卒。松江所長とともに徳島俘虜収容所に赴任した。ドイツ語を始めとして、英語、ロシア語、中国語等7ヶ国語に通じていたと言われる。板東俘虜収容所閉鎖後は福山連隊等を経て、1929年に陸軍中佐で退役した。退役後は兵庫県外事課、ドイツ系のバイエル薬品勤務を経て、1935年満州のハルピンに渡った。外資系の百貨店秋林洋行に勤務し、日中ソ間の情報戦に従事したとも言われる。終戦後、ソ連軍によってシベリアのバイカル湖東方のチタに抑留され、最後はスヤンドロフクス州アザンの病院で病没したとされている。1965年厚生省から、1953年4月30日に死亡したとの公式通知が遺族に届いた。ヴァイオリンをたしなみ、音楽好きであった。【『「第九の里 ドイツ村」』及び『「歓喜」によせて 板東俘虜収容所物語』(2000年5月22日付け『読売新聞』徳島版、徳島支局編纂)より】→18)
18)チンタオ戦友会:1954年11月6日に青島戦闘40周年を記して、ハンブルクで開かれた戦友会である。ミヒャルコフスキー(Michalkowski)によって記録された出席者リストから、久留米俘虜収容所の元俘虜を中心として66名が参集したことが判明している。通し番号が付されていて、その1番はミヒャルコフスキーであることから、ミヒャルコフスキーが呼びかけの中心だったと推測される。このリストは郵趣家のヴァルター・イェキッシュ氏の所蔵になる【シュミット氏のホームページより】。なお、1960年頃にも何度かこの戦友会は開催された。→19)
19)カルロヴィッツ社:中国で営業活動をした数多くのドイツ商社の中でも、ドイツを代表する大商社で、青島のホーエンツォレルン街に社屋を構えていた。創業者のリヒャルト・フォン・カルロヴィッツ(Richard von Carlowitz)はプロイセンとザクセン両王国の広東領事も務めた。中国語の社名は禮和洋行。青島の有力企業30社で構成された青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、船舶代理、保険。【『青島研究資料』中の「青島商業会議所報告」51頁より】。大港沿いの一画(日本の占領・統治時代の三條町、堺町にかけての地域)三ヶ所に、計14518㎡(4400坪)の地所を所有していた。日独戦争による青島における損害額は約20万マルクといわれる【Bauer,Wolfgang:《Tsingtau 1914 bis 1931》209頁】。→29)
20)堀内文次郎(?-?):歩兵第23旅団長・陸軍少将。幼年学校在学中から日記をつけ始める。号は信水、健筆多弁の人であったと言われている。オーストリア=ハンガリー帝国のレルヒ陸軍少佐(Thodor Edler von Lerch;1869-1945)が日本に初めてスキーの技術を伝えたのは1910年の冬、新潟県高田の歩兵第13師団第56連隊の営庭内であったが、その時の連隊長が堀内であった。その後堀内は官民へのスキー術伝播に力を尽くした。青島攻囲戦では、日本軍の主力の一つである左翼隊を指揮して湛山方面の攻撃に当たった。青島陥落後は青島開城交渉委員に任ぜられ、11月9日の開城規約調印後は危険物除去委員長となった。11月11日、台東鎮の村落で露営し、黒パンで凌いでいる独軍将兵に梨を贈った。この日の夕刻、地雷除去に当たっていた日本軍の工兵少尉が油断して地雷に触れ4名が即死し、40数名が負傷した。11月14日に挙行された招魂祭では委員長を務めた。12月7日長崎に凱旋し、翌8日上陸して市内を行進する。出島には凱旋門が設けられていた【注83のプリューショウの項を参照】。『青島攻囲陣中記』を著した。→26)
21)真崎甚三郎(1876-1956):陸軍中佐。陸軍士官学校9期卒。1923年陸士本科長、1926年同校長となり、尊皇絶対の日本主義による教育につとめ、後の2.26事件の首謀者に影響力を与えた。1932年参謀次長になり皇道派の首領と仰がれた。1933年大将、次いで教育総監になったが、1935年林銑十郎陸相により罷免された。このことが2.26事件の誘因となった。1936年の2.26事件では、反乱幇助の容疑で軍法会議に付されたが無罪となった。【『平凡社 百科事典』より】→30)
22)クルーゼン(Dr.Georg Crusen;1867-1932):1867年5月15日ハノーファー近郊に生まれた。1886年までハノーファーの学校に通い、ベルリン、ライプチヒ、マールブルクの大学で学ぶ。1895-99年までプロイセンの裁判官試補、1899年フランクフルトの区裁判所裁判官となり、同時に2年半の休暇を認められ日本に赴く。1902年まで東京で内務省及び法務省の顧問及び警察学校ならびに刑務学校の講師を勤める。1902年から1914年まで膠州地区の高等裁判所判事兼独中大学講師を勤めた。1909年結婚し、一男一女をもうけた。【《Degeners Wer ist's ? 》より】日独戦争勃発で戦時応召したが、終結前に家族とともに上海に逃れた。植民地加俸を含めての年俸は約1万4000マルクで、総督を別格として除くと、青島の官吏で最高額の年俸を受けていた。ビスマルク街(日本時代の万年町19番地)の自宅は3238㎡(約970坪)の広大な敷地にあり、家屋を含めたその評価額は、1917年8月時点で3万円と評価された【『青島経済事情』24頁】。『ベルツの日記』(岩波文庫、上巻316頁)に、1903年7月15日から27日までベルツがクルーゼン邸に投宿したとの記述がある。また1904年5月21日の項(同書下巻79頁)には、「青島の判事長クルーゼン博士が来訪中である。自分は去年の夏、同氏のもとで客となった。…優れたピアニストである」と記されている。「今日の日本の監獄制度」(『東亜文化協会』、報告集9巻17-56頁)の論文を発表している。→30)
23)アーレンス継続社:1871年にハインリヒ・アーレンス(Heinrich Ahrens;-1886)が築地41番で開業し、やがて横浜及び神戸にも支店を置いたアーレンス商会の後継商社。1873年頃には横浜及び神戸でも営業した。各種ヨーロッパ製品、特にアニリン染料、化学薬品、織物,綿花の輸入を手がけた。北ドイツ・ロイド汽船の代理店でもあった。→31)
24)エンゲル・オーケストラ:丸亀時代の1915年7月8日、第1ヴァイオリンのエンゲル、第2ヴァイオリンのモルトレヒト(Moltrecht)、第3ヴァイオリンのライスト(Leist)、第1フルートのヘス(Hermann Hess)、第2フルートのヤーコプ(Jacob)及びオルガンのクラーゼン(Claasen)の6人によって「エンゲル・オーケストラ」が成立した【当初は1915年1月10日に第1回演奏会が開かれた「寺院楽団」の名を掲げ、1915年7月8日に夏の保養を意味する「保養楽団」の名称となった、楽団の後継】。板東時代も、数多くの演奏会を開いた。→35)
25)ヴェルテフレーデン:ジャワ島西部のバタビアは、蘭領東印度の政庁が置かれていた都市で、ヴェルテフレーデンは旧バタビア市街の外に建設された新市街。諸官衙、会社、銀行、日本人を含む外国人等の住宅が立ち並び、賑わいを見せていた一画だった。1920年(大正9年)当時、ジャワ島の人口は3018万人で、人口密度は世界一だった。白人6万5000人、中国人30万人、アラビア人2万人、その他のアジア人3000人であった。また、バタビアの人口は約15万人、自動車の数は2500台ほどだった【上田彌兵衛『南洋』より】。→36)
26)広島県物産陳列館:1915年(大正4年)8月5日に開館した。設計者チェコ人のヤン・レッツェル(Jan Letzel,1880-1925)は、1907年(明治40年)に東京で建築会社を経営していたドイツ人デ・ラランデの招きで来日、1909年(明治42年)に東京京橋に自身の設計会社を興した。広島県物産陳列館は、1922年(大正11年)に広島県商品陳列所と改称され、さらに1933年(昭和8年)には広島県産業奨励館と改称された。1945年(昭和20年)8月6日、アメリカ軍の原爆投下の目標となった。今日は「原爆ドーム」の名で知られる建物である【〔図1〕参照】。→41)
27)ヘルツベルク(Graf Klaus von Hertzberg;1874-1914):海軍東アジア分遣隊第1中隊長・陸軍歩兵大尉(伯爵)。〔外方陣地右翼陣地指揮官〕。1874年2月9日ナウムブルクに生まれた。1893年3月陸軍歩兵隊に陸軍少尉として入隊し、1902年3月中尉、1907年9月大尉に昇進した。神出鬼没の働きをして日本軍を撹乱した。10月7日、四房山附近54高地にて戦死。この日の独軍は計25名が戦死した。10月12日の戦死者埋葬、負傷者救出のための一時休戦で、日本軍の手により四房山頂に埋葬された。1920年12月13日、呉家村よりヘルツベルク以下29名の遺骨は、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地の共同墓標に改葬された。→60)
28)ブラゴヴェシチェンスク:アムール川(中国名は黒龍江)に面したロシアの軍事的要衝の町。義和団事件の折りの1900年7月末には、中国人によって包囲・攻撃された。対岸の中国側の町は黒河。→70)
29)アルンホルト・カルベルク社:中国語の社名は瑞記洋行。ハンブルクに本社を置く商社。山東鉱山会社に依存せずに、山東における鉱山採掘の認可を受けた企業集団のリーダーで、濰縣南西部の沂水、諸城、日照周辺での金,ダイヤモンド等の金属を含む採掘権を所有した。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、海運、代弁業。日独戦争に際しては、オーストリア製シュヴァルツローゼ(Schwarzlose)式機関銃8門(元来は中国政府からの注文品)、弾薬等を総督府に納めた。→83)
30)当時の200円は今日の約160万円(約8000倍)に相当する。なお、当時の為替レートで1円は約2マルク、1ドルは約2円、1ポンドは約10円であった。→86)
31)メルヒャース社:中国語の社名は美最時洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、船舶代理(北ドイツ・ロイド汽船代理店)。大港近くの一画(日本の占領・統治時代の葉桜町28番地)に、19091㎡(約5785坪)の地所を所有していた。日独戦争による青島における損害額は約73万マルクといわれる。→87)
32)青島欧人墓地:ビスマルク通りを登り詰めた場所の山道沿いあった。青島で没した第2代総督イェシュケ(Paul Jaeschke,1851-1901)及び禮賢書院の設立者で、植物学者でもあったファーバー(Ernst Faber,1839-1899)の墓碑があった。→97)
33)プリンツ・ハインリヒ・フォン・プロイセン(Prinz Heinrich von Preussen;1862-1929):ドイツ帝国皇弟。1879年(明治12年)5月末来日、6月1日には上野精養軒で在京ドイツ人(ベルツ、ナウマン、バイル、ネットー、シュルツェ)の名で歓迎の小宴が開かれた。当時親王は16歳と6ヶ月であった。【『ベルツの日記』岩波文庫(上)81頁を参照】同年11月17日には京都を訪れた。1898年5月5日、巡洋艦隊を率いて膠州湾入港、青島の衙門に宿泊、滞在した。9月28日、青島築港のC.フェーリング建設会社の工事事務所で、山東鉄道の起工式の鍬入れを行った。1899年6月30日、東洋艦隊司令官として軍艦ゲフィオン(Gefion)を従えて旗艦ドイッチュラントで再度横浜に来航、ドイツ公使、領事、神奈川県知事は御乗艦まで出迎え、皇居附属邸の玄関では閑院宮戴仁が出迎えた。青島を度々訪問し、1912年の訪問終了に際しては、「『もし日本人が来ても、持ち堪えるように』との陽気な言葉を残したが、やがてそれは現実となった」【Laan,Heinz van der:Erinnerungen an Tsingtau.12頁】→99)
34)タパタオ:大鮑島(ターパオタオ)という地名は、古くから住んでいた中国人が名づけたことに由来する。そもそもは、小港北西の小さな島の名で、その対岸地区も大鮑島と呼ばれるようになった。青島村の名称由来と同様である。「鮑」とは日本で言えば〈くさやの干物〉のように、一種独特な臭みがある発酵した魚のことを言う。場合によっては独特の漬け汁に浸して置いたものもそう呼ばれた。「アワビ」のことを指すものではない。中国人の商店が多く建ち並び、青島で最も活気のある一画であった。日独戦争後、ドイツ人俘虜が日本各地の収容所に送られたが、その内の一つ板東俘虜収容所では、俘虜達が種々の店を収容所内の一画に開いた。その地区は〈Tapatau〉(タパタオ)と呼ばれた。日本人が「大鮑島」をどのように発音していたのか、残念ながら多くの事例を承知していない。しかし、「ターパオタオ」の音は日本人にとっては発音上困難な面を持っていると思われる。山根楽庵は『寳庫の青島』の中で、「タボ(ポ?)タウ」と記している。多分「…トー」となる発音をしていたと考えられる。参謀本部編纂になる『日獨戰史』下巻の「挿図22」では、大鮑島に「タパトウ」とルビが振られている。板東収容所内で俘虜によって発行された『板東俘虜収容所案内記』(《Adressbuch für das Lager Bando 1917/1918》)及び『板東俘虜収容所案内記』(《Fremdenführer durch das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan》)では、一貫して〈Tapatau〉と記されている。俘虜達は〈タパタオ〉(あるいは〈タパトー〉)と発音していたことが推測される。なお、俘虜のヤコービ(Jakoby)が1919年4月に作製した「板東俘虜収容所要図」では、〈Tapautau〉と記入されている。こうした背景から中庸的ではあるが、「タパタオ」とする表記でもよいのではないだろうか。「タイホートー」の呼び方も知られているが【東京朝日新聞、大正3年8月11日付け記事「膠州灣概観」を参照】、これは公的色彩のある場合の発音と考えられる。漢字表記においては、「太包島(たいほうとう)」も見られる。青島(チンタオ)も「チントー」と発音する人も多かったが、公的な場合には「セイトー」と発音した。→102)
35)第4棟:板東俘虜収容所には、将校棟2、下士卒以下の居住棟8のほか、管理棟、厨房、医務室、便所・洗面所、更には大鮑島と称された商店街区等の建物があった(図版参照)。こうした一連の建物は、第一次大戦終結後も陸軍の演習施設として利用されたが、太平洋戦争終了後は、戦災に遭った人や大陸からの引揚者の住宅として充てられた。西側の第1棟から第4棟までは太平洋戦争終結時点で無くなっていた言われる。東側の第5棟から第8棟もやがて解体されたが、その後の利用等については不明であった。2001年暮れになって、板東俘虜収容所周辺の牧舎等の建物が旧収容所の建物を払い下げられて建造されたことが判明した。この大ニュースは『徳島新聞』(2002年1月14日付け)で報道された。さらに詳しい発見の経緯と概要は,『鳴門市ドイツ館館報』Ruhe(ルーエ やすらぎ)第3号に《「バラッケ」発見!!》と題されて報告されている。目下のところ、9ヶ所の建物が旧「バラッケ」を利用した可能性として指摘されている。今後の詳しい検証が待たれる。→105)
36)山田耕三(?-?):独立第18師団司令部附・陸軍歩兵大尉。陸士16期(1904年)卒。1904年少尉で任官し、1906年近衛歩兵第3連隊附歩兵少尉、1907年中尉。1908年から1912年まで宇都宮の歩兵第66連隊に配属された。10月13日の一時休戦の会談の折り、かつての知友シュテッヒャー(Stecher)大尉に宛てて、「毎日無事でいるか案じている」との葉書をドイツ側のカイザー少佐に託した。二日後の15日、ドイツ人婦女子等を乗せたベヒトルスハイム(=マウヘンハイム)海軍大尉指揮の船に乗り組んで膠州に行き、更に山東鉄道に乗り換えて済南まで同道した。また10月27日の李村ポンプ所附近での戦闘時には、絵葉書を折ってドイツ側前線に投げた。深夜、ベヒトルスハイム大尉がその葉書をビスマルク兵営の参謀本部に持ち帰った。「我々が思いもよらなかった戦闘の中より、心からの挨拶を送る。吾が友に神のご加護のあらんことを! 山田大尉」と記されてあり、総督のテーブルの周囲でどっと笑いが生じた。【Otto von Gottberg《Die Helden von Tsingtau》140頁参照】。11月9日に行われた開城交渉の一員で、神尾司令官とマイアー=ヴァルデック総督との会見では日本側通訳の任に当たり、開城規約調印後は俘虜委員となった。1917年4月6日付けで青島軍政署から出されたガリ版ずりの「支邦政見雑纂」第2巻4の冒頭に、「今日ニ於ケル帝国ノ対支邦政策案」と題する山田耕三の立案文が載っている。→107)
37)柳樹台:柳樹台保養所(Mecklenburghaus):労山中腹、標高460メートルの柳樹台に建てられた「メクレンブルクハウス」は、在独「東アジア救済会及慈善彩票会」の寄付により建設され、1904年に開業した。寄付者中の最高額寄贈者メクレンブルク公爵の名が付けられた。元来ドイツ人官吏、軍人の保養施設及び療養施設として建てられたが、余裕のあるときは、ドイツ人以外の外国人にもその利用が開放された。山腹には総督の別荘もあった。近くには九水及び北九水の景観地もあり、秦の始皇帝、漢の武帝、詩仙李白も登った労山は、山東では泰山に並ぶ名山として古くから知られていた山である。ドイツ人は「山東のアルプス」とも呼んでいた。→139)
38)フリース(Wolfgang von Fries;1885-1914):第3海兵大隊第5中隊・予備陸軍少尉。9月28日のヴァルダーゼー高地攻防で戦死し、日本軍によりヴァルダーゼー山頂に埋葬された。認識票番号は第157だった。朝日新聞従軍記者の美土路春泥(美土路昌一;1886-1973;後に同社社長、さらに全日空会長を務めた)によるフリースにまつわる感動的にして、かつ感傷的な戦況記事がある【拙稿「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(2)」,110-113頁を参照】。なお、春泥は検閲を逃れて記事を発信したことから、時事新報の室伏高信とともに青島退去を命じられた【『欧受大日記』(大正3年12月)より】。→139)
39)ベンク・ウント・クレッチュマー商会:中国語の会社名は盆斯洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、保険、船舶代理。特に生糸・絹織物の山東地域での買い付け、及びその輸出では、数ある商社の中でも最大規模の商売を行った。→140)
40)徳華高等学堂:1908年設立。創設費64万マルク(内訳:ドイツ政府60万マルク、中国政府4万マルク)で、1911年から1913年にかけて校舎の建設がなされた。開校式は1909年10月25日に行われた。予科と本科からなり、予科は修業年限5年で、中等・高等を折衷したものだった。本科は法政、医科、農林、工科の4学科からなり、修業年限は法政と農林が3年、医科と工科は4年であった。校内には図書館、博物館、翻訳局等の施設があった。特に図書館には独、英,仏等の図書1294冊、漢書5058冊が所蔵されていた。【徳華高等学堂の概要については、瀬戸「ドイツによる青島経営」参照】。→147)
41)チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会:2003年4月7日、「丸亀ドイツ兵俘虜研究会」の小阪清行氏(メール会報担当)、及び赤垣洋氏(ホームページ担当)をホームページの管理人として発足した。2007年4月現在で、40数名の研究者・関係者を擁し、ドイツの俘虜研究者ハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏のホームページとはパートナーサイトの関係にある。→156)
42)ジームセン社:青島のホーエンツォレルン街に社屋を構えていた。中国語の社名は禅臣洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、銀行、船舶代理(Ocean Steam Ship 代理店)、火災海上生命保険、輸出入。大港近くの一画(日本の占領・統治時代の葉桜町6、7、8、9番地)に、6184㎡(約1800坪)の地所を所有していた。また、アルフレート・ジームセン(Alfred Siemssen)名では計13963㎡(約4200坪)を所有していたが、民有地としては唯一、いずれも日本の青島守備軍により押収された。『鹵獲(ろかく)書籍及図面目録』(注17参照)の中に、民有の建物として唯一その図面が収められている。総督府に軍の施設として提供したことによる。→157)
43)明倫中学校:沿革は尾張徳川藩の藩校明倫堂に発し、明治32年に明倫中学校となり、大正8年愛知県立明倫中学校となった。昭和23年、県第一高等女学校と合併して今日の明和高等学校となり現在に至っている。→171)
44)徳島新報:徳島俘虜収容所の俘虜達によって、1915年4月から1917年4月まで発行されたと推測される。毎週日曜日に発行された。従来は、寄贈を受けた1916年3月12日付けの通巻第50号のみしか知られていなかった。2001年になってから、フレンスブルクのミュールヴィック海軍学校に1年半分が保存されていることが判明し、9月に鳴門市ドイツ館に一時貸与され、マイクロフィルムに収められて収蔵された【〔図4〕参照】。収蔵分は1915年4月15日の創刊号から1916年9月17日発行分までである。新聞の隅に「ハンゼン」と書かれていることから、板東俘虜収容所内でベートーヴェンの第九交響曲が初演された時の指揮者ヘルマン・ハンゼンが寄贈したものと思われる。『トクシマ・アンツァイガー(徳島新報)紹介』(『徳島新報』翻訳・刊行会;川上三郎/田村一郎、2006年3月)によって、『徳島新報』の概要が紹介されている。→191)
45)鷲屋薬局:オットー・リンケ(Otto Linke)予備少尉の経営になる医薬品輸入・販売店。青島の一等地プリンツ・ハインリヒ街(Prinz Heinrich Straße)115番地,青島郵便局の向かいにあった。取扱品目は,医薬品、洗面・化粧用品、乳児用品。【《Guide to Tsingtau》の広告から】。大戦終結後は、オットー・リンケ薬局として再出発した。→205)
46)山東鉄道:山東鉄道会社(Die Schantung Eisenbahn Gesellschaft)は、ドイツと中国の間で1898年3月6日に締結された独清条約に基づいて、独亜銀行を始めとする14に及ぶ民間会社が出資し、1899年6月1日に設立された民営会社である。資本金総額は5400万マルクであった。山東鉄道会社のドイツ人社員は僅か61名で、この僅かな社員で鉄道会社を経営するために中国人を多く雇用した。また山東鉄道会社内に鉄道学校を設けて、中国人鉄道員の養成を計った。【なお、山東鉄道建設を取り巻く諸状況並びに山東鉄道の概要については、瀬戸「膠州湾占拠から青島の建設まで」参照】。→219)
47)駆逐艦S90:ブルンナー(Paul Brunner;1880-)海軍大尉を艦長とする駆逐艦S90(400トン)は、10月17日総督の命で膠州湾を出港して、石炭、糧食等の調達に上海方面に向かった。その際二等海防艦高千穂(3709トン;乗員284名)を撃沈した。艦長の伊東祐保大佐を始め271名が戦死し、生存者は僅かに13名であった。「S90」は山東省石血所で座礁、艦を自爆させ乗組員は拘束されて南京俘虜収容所に送られたが、中国側の待遇は悪くはなかったと言われる。なお、中国の俘虜収容所としては南京の他に、西苑、万寿寺、斉斉哈爾、西峪寺、天津、香港等10箇所があった。→224)
48)ザンダー、ヴィーラー社:中国語の社名は利康洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、保険、船舶航海。青島湾に面した一等地ヴィルヘルム皇帝海岸通り(Kaiser-Wilhelm-Ufer;日本の占領・統治時代の舞鶴浜)に816㎡(約250坪;大正6年時点での評価額1万円)、日本占領・統治時代の葉桜町24番地に4135㎡(1253坪)の地所を所有していた。→231)
49)龍海鉄道:江蘇省の海州から甘粛省までを結ぶ鉄道。→244)
50)ヴァルダーゼー高地:ヴァルダーゼー高地(Walderseehöhe)は、北清事変(義和団事件)の際の列強8カ国連合軍の総司令官ヴァルダーゼー伯爵(Alfred Graf von Waldersee;1832-1904)に因む青島郊外の丘陵(222メートル;日本による占領・統治時代は佐賀山と呼ばれた)の名。ヴァルダーゼー伯爵は1882年陸軍元帥、1889年にはモルトケの後を襲って参謀総長となり、ビスマルク追い落としに指導的役割を果たした。1901年(明治24年)6月に来日した折は、朝野を挙げての歓迎行事が行われた。在京ドイツ人社会の歓迎会では、お雇い医師のベルツが歓迎の辞を述べた。→265)
51)カール・ローデ商会:一時期はドイツでも最大級の商社に数えられていたハンブルクの大手商社シュルツ・ライツ社の後を継いで、カール・ローデ(1869年来日)によって1874年横浜(居留地23番→12番→70番)に設立された。日本人には「赤門70番」として親しまれた【インターネット「外国への恐れとあこがれ(商館時代)」より参照:http.//arochan.hp.infoseek.co.jp./shokan2.htm】。やがて神戸、東京に支店を置いたが、第一次大戦後まもなく日本から撤退した。業務内容は、輸入、各種保険代理。→268)
52)シュヴァルツコップ社: 1898年3月6日に膠州湾租借に関する独清条約が締結されるや、シュヴァルツコップ社は、ジータス-プラムベック社とともに、その3月中に上海から真っ先に青島入りした。青島のホーエンツォレルン街に社屋を構えていた。中国語の社名は順和洋行。ホーエンツォレルン街(Hohenzollern-Str.;日本の占領・統治時代は姫路町、今日の蘭山路)に支店を置いていた。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入(食料品、ワイン、スポーツ用品、ガラス及陶器、煙草等)、保険、船舶具、鉄工具、工場用具、建築材料、家具、植民地需要品。日独戦争による青島における損害額は約10万マルクといわれる。→278)
53)四方:山東鉄道の始発青島駅から2キロ北に位置する、最初の駅が四方である。鉄道の引込み線がある要衝地でもあった。付近には兵営バラックが点在していた。→280)
54)日刊電報通信:徳島及び松山で新聞を発行していた俘虜を中心に、板東俘虜収容所開設当初の1917年4月19日から、閉鎖の年の1920年1月15日まで発行された。日本の新聞からのニュースを翻訳紹介するための日刊新聞で、「板東の官報」的役割を果たした【『バラッケ』第1巻xxii頁より】。→290)
55)フォスカンプ(C.J. Voskamp;1859-1937):ベルギーのアントヴェルペン(Antwerpen)に生まれ、13歳までそこで過ごした。父も宣教師であった。やがてドゥイスブルクのギムナジウムで学んだ。ドイツが膠州租借地を獲得した1898年、青島に伝道の地を移したが、中国での伝道は通算30年に及んだ。ベルリン福音教会の山東地区教区監督として、多くの福音派宣教師を指導した。ヒルデブラント(Hildebrandt)、シュヴァルム(Schwarm)、ヴァナクス(Wannags)の三人は応召兵となり、クンツェとシュラムは衛戍病院で看護人として負傷兵の看護に当った。またエンマ夫人も臨時衛戍病院となった水兵館で看護に当った。ヨアヒム、ゲルハルト、ハンス、マルティーンの四人の息子がいた。戦争終結前に妻とハンス、マルティーンを伴い上海に逃れた。次男の1年志願兵ゲルハルトは1914年11月4日、徳華高等学堂付近で背中に砲弾を受けて死亡、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。日記をもとにした『包囲された青島から』(Aus dem belagerten Tsingtau.)の他に、『孔子と今日の中国』等の著作がある。→337)
56)『鹵獲(ろかく)書籍及図面目録』:この目録は1920年(大正9年)2月、日本の青島守備軍陸軍参謀部によって編纂された。青島独軍の降伏により、膠州租借地における全官有財産は、日本軍により没収処分を受けた。書籍も例外ではなかった。没収された書籍及び図面は以下の通りである。官有書籍(官庁蔵書):洋書8634冊、漢籍1477冊;徳華高等学堂:洋書1294冊、漢籍5058冊;ヴィルヘルム・コーン叢書:洋書324冊;膠州図書館蔵書:洋書9473冊。合計は洋書・漢籍を合わせて26260冊、更に図面5133葉に及ぶ。1919年6月28日に締結されたヴェルサイユ条約によって、ドイツの山東における権益は山東鉄道を始め、日本に譲渡された。日本がドイツとの戦闘のために計上した特別軍事費は5300万円であった。やがて、いわゆる山東還付により、1922年12月10日をもって中国政府に返還されることになり、山東鉄道は約4000万円で中国政府に売却された。「鹵獲書籍」もドイツに対する賠償金の一部として日本の手に帰したと考えられる。これらの「鹵獲書籍及び図面」は、当時の東京、京都、東北、北海道、九州の各帝国大学や旧制高等学校等、更には諸官庁に配分された。配分先によっては、戦災等での焼失によるのか、今日所在不明になっているところもある。なお、この「鹵獲書籍」に関しては、志村恵金沢大助教授の追跡調査による詳細・綿密な論考「日独戦争と青島鹵獲書籍」、及び関連文献として森孝明愛媛大教授の「「青島守備軍司令部」寄贈図書 -愛媛における日独交流の跡?」、同じく森孝明教授の「愛媛における日独関係史「青島守備軍司令部」寄贈ドイツ図書と旧制松山高等学校(前)」及び同教授の「愛媛における日独関係史「青島守備軍司令部」寄贈ドイツ図書と旧制松山高等学校(後)」、奥村淳「山形大学図書館に存する青島鹵獲書籍について ―その比較文化的考察―」;所載:『山形大学紀要(人文科学)第16巻第1号』、持井康孝、古市大輔、Sylke Scherrmann「獨逸租借期青島所蔵書籍目録:1」、志村恵「青島鹵獲書籍について ―現在の所蔵を中心に―」がある。森教授の二論文は、第5代青島守備軍司令官由比光衛大将と、その弟で初代松山高等学校長由比質に関する、従来触れられなかった面での新事実を含む興味深い論考である。→337)
57)高密:高密(カオミー)は、青島から約100キロの北西にある膠州地方の古くからの城郭都市で、当時の人口は約1万だった。山東鉄道の膠河の鉄橋を渡るとまもなく高密駅に着く【『山東鉄道旅行案内』71頁より】。ドイツによる山東鉄道建設に際しては、義和団並びに住民による抵抗が鉄道沿線では最も激しかったところでもある。ドイツ時代の終わりごろには、日本人経営の遊郭が一軒あった。この遊仙窟は後に膠州に拠点を移し、登龍閣としてドイツ軍の行動監視の役割を果たしたとも言われる【山根楽庵『寳庫の青島』126頁以下】。→337)
58)シュラマイアー:シュラマイアー(Wilhelm Schrameier;1859-1926)は、1885-1890年まで北京大使館通訳試補、1890-1895年まで広東領事館通訳官、1895-1897年まで上海領事館通訳官、1897-1900年まで膠州総督府通訳官、1900-1909年まで総督府中国問題審議官の職を歴任した。1900年から1915年にかけて、膠州に関する多くの著作を著した。→337)
59)『陣営の火』:『陣営の火』(Das Lagerfeuer)は松山俘虜収容所で1916年1月から翌1917年まで、週刊の形で第1巻50号、第2巻13号の計61回(合冊号があったことによる)発行された新聞【〔図5〕参照】。編集委員はマルティーン中尉、ゾルガー予備少尉、ゴルトシュミット予備副曹長であった。1917年6月16日付でスイスのベルン俘虜情報局から外務省に、松山俘虜収容所で発行されている《Das Lagerfeuer》の、既刊及び未刊各5部を送ってほしい旨の依頼があり、外務省から情報局にそのことが伝達された。同年7月19日付けで白川義則俘虜情報局長官は、検閲の結果不都合が発見され、刊行停止としたとの回答を送った【『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』1の2より】。松山収容所ではタイプライターによるラテン文字での印刷であったが、板東俘虜収容所に移ってから、ドイツ文字筆記体によるガリ版で印刷され、今日、それが二冊合本の形で鳴門市ドイツ館に所蔵されている。→357)
60)富田酪農場:富田製薬の創業者富田久三郎(1852-1937)はドイツに留学経験のある下山順一、長井長義の両東大教授(ともに製薬学)と知己だった。昭和に入ってから、自身もドイツへ製薬学の視察に赴いた。1908年(明治40年)、甥の松本清一を麻布獣医学校に入学させた。1916年、徳島県の西田牧王畜産技師、国友徳芳板野郡長及び徳島俘虜収容所の松江豊寿所長と相談の上、板東俘虜収容所建設予定地に隣接して、純ドイツ式牧舎の建設を計画した。設計は松山収容所の俘虜ハインリヒ・シュラーダー(Heinirch Schrader)に依頼した。1917年板東町桧字野神ノ北40番地に771坪(2549㎡)の土地を購入し、4500円を投じて1917年8月に第1期工事が完成した。1階は煉瓦造り、2階は木造・白壁塗りの北欧風の牧舎であった。当初牧場長には松本清一が当った。1919年に第2期工事が行われ、東側に1・2階合わせて119㎡を増築し、同年松本の友人で徳島県海部郡の獣医師船本宇太郎が管理人となった。その後も隣接地を買い上げて、合計2422坪(約8007㎡)に拡張された。富田畜産部の牧舎・牧場は後に松本名義となり、1954年には松本から船本に譲渡され、船本牧舎となり現在に至っている。→381)
61)諏訪邦彦(?-?):陸軍中尉。1916年10月28日、高知の歩兵第44連隊附より丸亀俘虜収容所員となる。丸亀収容所閉鎖後は板東俘虜収容所員になった。後に陸軍大尉。→381)
62)山東鉱山:山東鉱山会社は1899年10月10日、資本金1200万マルクでベルリンに設立された。設立母体は山東鉄道と同じ独亜銀行等14の民間企業による民営会社で、いわば山東鉄道とは兄弟会社であった。1898年3月6日に締結された独清条約による、山東鉄道と津浦鉄道沿線15キロ以内の鉱山採掘権に基づいている。坊子、博山、黌山等の鉱山を所有していたが、採算の点では必ずしも良くはなかった。そこでドイツ政府は、坊子、博山、黌山及び金嶺鎮を除く他の鉱山は、1913年12月31日をもって中国政府に返還した。→404)
63)ドイツ橋:2004年1月22日、徳島県史跡に指定された。→430)
64)ディーデリヒセン社:中国語の社名は捷成洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、煉瓦製造、輸出入、銀行、船舶代理(不定期欧州航路を開いていた日本郵船の代理店。航路は、神戸、門司、青島、マルセーユ、アントワープ)、保険、蒸気、石炭、木材、倉庫業、麦稈真田。生糸・絹織物の買い付けとその輸出も手広く手がけた。大港近く(日本の占領・統治時代の三條町13番地)に2667㎡、葉桜町24に5000㎡の計7667㎡(約2300坪)の地所を所有していた。→439)
65)神尾司令官:神尾光臣(1855-1927)は、陸軍中将・青島攻囲軍司令官。日本軍による青島占領後は青島守備軍司令官に任ぜられた。信州諏訪郡岡谷郷に生まれた。幼名信次郎。1874年10月3日陸軍教導団に入って武学生となり、1877年の西南戦争には曹長として従軍した。1879年2月1日陸軍少尉に任ぜられる。以後、清国公使館附武官、近衛歩兵第3連隊長、第1及第10師団参謀長、歩兵第22旅団長、遼東守備軍参謀長、清国(天津)駐屯軍司令官、関東都督府参謀長、第9及第18師団長を歴任して、独立第18師団長(青島攻囲軍司令官)となる。陸軍内で、三本指にはいる中国通と言われた。1914年11月26日付けで、上記の職を解かれ青島守備軍司令官に就任。1914年12月18日青島から東京駅に凱旋した。その日がちょうど東京駅開業式の日であった。1915年3月24日付けで東京衛戍総督に転出、1915年6月24日大将に昇任、7月14日男爵に叙せられ、8月退役した。次女安子は1909年3月有島武郎に嫁ぎ三男をもうけたものの、1917年12月2日27歳で病死した。有島武郎の『死其前後』は妻安子の病状・病中等を題材にした戯曲である。→439)
66)山本茂(?-?):歩兵第11連隊附陸軍歩兵中尉。陸軍士官学校20期卒。ベルリン効外ポツダムのドイツ陸軍士官学校に留学した。1913年12月14日山本中尉が青島訪問を終えるにあたって、マイアー=ヴァルデック総督は特に総督官邸で送別の宴を開いた。1914年10月2日久留米俘虜収容所所員に任命される。当初は京町梅林寺収容所勤務であったが、11月2日、新設の香霞園収容所勤務に移る。11月17日、マイアー=ヴァルデック総督が薩摩丸で門司港に到着した際は久留米から出張して、旧知の総督としばし歓談の後【『東京朝日新聞』、大正3年11月18日付記事「ワ総督来る」を参照】、福岡俘虜収容所長久山又三郎中佐、熊本俘虜収容所長松木直亮少佐の通訳に当たった。福岡に向かう列車にも久山中佐とともに同乗、通訳の任に当たった。1915年1月26日、久留米俘虜収容所所員を免ぜられる。久留米俘虜郵便には検閲官としての山本茂印が使われ、今日三種類が判明している。1916年5月12日から1918年4月30日まで陸軍士官学校教官を勤め、かつ臨時軍事調査委員(大正4年9月11日軍令乙第12号により設立された)を兼任し、大尉に昇進して1921年10月14日から1922年2月8日までは調査委員(第1課所属)となる。ドイツ陸軍士官学校留学時代には、当時少年だったフリッツ・ルンプ(Fritz Rumpf)に日本語を教えた。森鴎外の要請もあって習志野俘虜収容所にルンプを訪ねた折は大尉に昇任していた。【鴎外の日記:大正8年5月19日の項「19日。月。晴。…山本茂、…至。…山本言Oskar Karl Weegmann與Fritz Rumpf之事。」(『鴎外全集』第35巻775頁、岩波書店)を参照】→447)
67)ハンブルク・アメリカ汽船:1847年ハンブルクに設立された。第一次大戦直前には世界最大の汽船会社となり、所有船は206隻、総トン数は136万トンであった。青島商工会議所の会員会社だった。中国語の社名は享寶輸船公司。不定期欧州航路のほか、定期近海航路としては上海を起点として、青島、芝罘、大連、天津とを結んでいた。大戦終結後の1919年には、その所有する船は5隻、4000トンに減少した。1920年から26年にかけて再建・復興が成り、1930年には北ドイツ・ロイド汽船と提携し、1970年6月に合併してHapag-Lloydとなる。→480)
68)イリス商会:カール・イリス(Carl Illies)が、横浜及び神戸の最初期のドイツ人商社クニフラー商会(L.Kniffler & Co.)の解散を受けて、その事務所を引き継いで設立した。東京にも支店を置いていた。業務内容は、各種欧米製品の輸入、保険代理、日本製品の輸出。ハンブルク・アメリカ汽船の代理店でもあった。同商会のヴィルヘルム・ラントグラーフ(Wilhelm Landgraf)は、習志野始め日本各地の収容所を慰問し、俘虜の援助に尽くした。→511)
69)フンツィカー牧師:ヤーコプ・フンツィカー(Jakob Hunziker)は、当時東京都小石川区上富坂町に住んでいたスイス人牧師。久留米、似島、板東等の収容所を訪問し、収容所の様子などを記した文書を残した。→517)
70)シュトロルヒ:フォーゲルフェンガーが東京俘虜収容所時代に、あるドイツ人夫妻からプレゼントされた犬。フォーゲルフェンガーと一緒に写った写真が数多く残されている。エレ達が会食した頃に、シュトロルヒが行方不明になったのかもしれない(星昌幸氏の推測)。→529)
71)丸亀保養楽団:注24)の事項を参照→536)
72)松江豊寿(1872-1956):旧会津藩士松江久平と妻ノブの長男として会津に生まれる。1889年、16歳で仙台の陸軍幼年学校入学。1892年陸軍士官学校へ進学し、1894年陸軍歩兵少尉に任官された。1904年大尉となり、韓国駐剳軍司令官長谷川好道大将の副官に任ぜられる。1907年浜松の第67連隊附少佐に昇任。1908年7月第67連隊大隊長、1911年11月第7師団副官。1914年1月中佐に昇進、徳島歩兵第62連隊附、経理委員首座。1914年12月3日徳島俘虜収容所長、後板東俘虜収容所長。松江所長は俘虜に対して可能な限り最大限の配慮を示し、俘虜による自主的な活動や、近隣住民との交流を許した。その人間味溢れる人柄から、松江所長は俘虜から敬意を払われ、慕われもした【〔写真24〕参照】。このことから板東収容所は模範的収容所と言われることになった。松江所長のこうした俘虜に対する姿勢は、会津の出身であったその出自に起因するとの考え方も広く言われている。後に(1934年)ドイツでかつての俘虜達により「バンドー会」が結成されたのもこのことを如実に示している。鳴門市ドイツ館には元俘虜から様々な資料が寄せられているのもこうした背景がある。1920年4月1日第21連隊(島根浜田)連隊長。1922年2月8日陸軍少将に昇進、5月1日予備役入り。12月27日付けで第9代若松市長。1926年5月末、東京世田谷の狛江に敷地2千坪を購入し、屋敷を建てた。1956年5月21日死去。松江豊寿の人となりについて記された文献としては次のものが挙げられる。棟田博『日本人とドイツ人』(『桜とアザミ』の改題)、林啓介『板東ドイツ人捕虜収容所』、田村一郎「「ヒューマニスト所長」を可能にしたもの:「背景」からみた「板東収容所」」、横田新『板東収容所長 松江豊寿』、中村彰彦『二つの山河』(直木賞作品)、星亮一『松江豊寿と会津武士道』。→536)
73)古川(こかわ)病院:院長の古川市次郎(1863-1929)は徳島県出身。1892年東京帝国大学医科大学卒。鳥取県立病院の分院長を経て、徳島市寺島町藍場町に古川病院を開設して院長となった。なお、1902年から1904年までライプチヒ大学に留学した【『日本醫籍録』及び松尾「ザクセンにおける日本人(2)」192頁より】。→536)
74)ヴィルヘルム・ラントグラーフ:ラントグラーフ(Wilhelm Landgraf,)は鉄鋼製造コンツェルンのティッセン=クルップ社社員であった。1921年、第一次大戦が終結して日独の経済関係が修復すると東京に事務所を開設した。→536)
75)グスタフ・クローン(Gustav Kron,1874-?)は1874年8月29日ドイツのブラウンシュヴァイクに生まれた。1892年ドレスデンの王立音楽院入学、1900年ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のソリストとなり、やがて指揮者A.ニキシュのヨーロッパ演奏旅行に同行した。1913年1月2日、指揮者A.ニキシュ等の推薦で、東京音楽学校外国人教師(お雇い教師)のアウグスト・ユンケル(August Junker,1870-1944)の後任として東京に着任した。ベルリン・フィルのメンバーで、ヴァイオリン奏者としては国際的レヴェルの演奏家だった。在職期間は1913年(大正2年)から1925年(大正14年)までの12年間で、担当科目は絃楽、声楽、和声楽、作曲、合唱、管絃楽であった。在任中多くのベートーヴェン作品を本邦初演した。1924年(大正13年)6月7と8日の東京音楽学校春季演奏会で初指揮を執った。また同年11月29日、奏楽堂で行われた東京音楽学校第48回演奏会で、日本人による初演となるベートーヴェンの「第九」を指揮した。この演奏会には寺田寅彦が友人の小宮豊隆を誘って聴きに出かけた。なお、翌30日にも「第九」演奏会が開かれた。クローンは1925年、銀座の十字屋楽器店から『実際唱歌教授法』を刊行した。→536)
76)北ドイツ・ロイド汽船:1857年ブレーメンに設立された汽船会社。1876年にはアメリカ東海岸諸都市に寄港し、1886年には帝国郵便船として東アジア各地の港とも連絡した。青島関連では、毎月一回日本と香港を結んでいた。第一次大戦後の痛手から再建・復興を果たし、1938年には85隻・62万トンにまでになった。1970年6月、ハンブルク・アメリカ汽船と合併してHapag-Lloydとなる。→549)
77)膠海関: 1899年(明治32年)4月17日に独清間で結ばれた関税協定により設置された税関所。→554)
78)ドイツ・アジア銀行:1889年2月12日、当時のドイツの有力銀行であるドイツ銀行、北ドイツ銀行、メンデルスゾーン銀行、ダルムシュタット銀行、バイエルン抵当銀行等13行による出資500万テール(約2250万マルク)でベルリンに設立された。本店は上海に置き、支店としてはベルリン、ハンブルク、カルカッタ、シンガポール、香港、広東、漢口、北京、天津、済南、青島、横浜、神戸の13支店を置いた。中国語の銀行名は徳華銀行。青島商工会議所の会員会社だった。青島の独亜銀行の建物は、1899-1901年にヴィルヘルム皇帝海岸通りに建てられた。日本には横浜と神戸の二ヶ所に支店を置いたが、前者は関東大震災を期に閉鎖され、神戸からもその数年後に撤退した。→563)
79)ラルツ薬行:中国語の社名は賚寶薬行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、売薬、調剤、写真用品、眼鏡類、理化学黴菌試験。→601)
80)東アジア・ロイド新聞:1886年、中国内のドイツ企業の出資で上海に設立されたドイツ字新聞社。ドイツの利益を代弁する国策的新聞社でもあった。1890年一時的に財政難に陥ると、ドイツ外務省の肝いりで独亜銀行が補助金を出した。【《Imperialism and chinese Natinoalism. Germany in Shantung,11頁。》】→611)
81)ヤーン(Friedrich Ludwig Jahn;1778-1852):「体操の父」とも呼ばれる、19世紀ドイツ青年運動の指導者。ベルリンで学校の教師をしていたヤーンは1811年、当時のドイツの国家主義的風潮にも呼応して、プロイセンの内的活性に寄与すべく、ベルリンのノイケルン(Neukölln)にドイツ最初の運動場を設けた。ブルシェンシャフト(学生組合)の設立にも関与したが、1819年に禁固刑を受け、1840年まで警察の監視下に置かれた。1848年、フランクフルト国民議会議員に選出された【《dtv-Lexikon》より】。8月11日はヤーンの誕生日である。→645)
82)青島郵便局:青島には、1898年1月26日に郵便取扱所が開設された。やがて1901年、プリンツ・ハインリヒ街とアルベルト街が交差する角に、石造り3階で建てられた青島郵政局が設けられた。青島郵便局はその郵政局内に設けられた。なお租借地内のドイツ局としては、青島市街に青島郵便局の他に青島大鮑島、青島大港、台東鎮及び膠州、高密、李村、沙子口、四方、滄口、労山保養所、塔埠頭に設けられた。なお、中国には青島の他上海、北京、天津、煙台、済南、漢口、南京、鎮江、福州、廈門、汕頭、広州にドイツ郵便局が設置された。→650)
83)プリュショー(Gunther Plüschow;1886-1931):海軍膠州砲兵隊附・海軍中尉。メクレンブルク州のシュベーリン出身。青島の中国人からは「青島の鳥人」とも「青島の鳥王」とも呼ばれた。左腕には「竜」の刺青をしていた。1913年8月、それまでの騎兵中隊所属から飛行部隊に異動となり、青島勤務となる。その後3ヶ月余をキールで過ごし、1914年1月1日にベルリンに赴く。翌2日にヨハニスタール(ドイツ最初の飛行場)に出かける。2月1日からは毎日練習に励み、2月末、高度5500メートルの当時の世界最高記録を樹立した。1914年3月上旬に6年振りで青島に赴任する。オーストリア海軍飛行大尉クロブツァーと水上飛行機の組み立てを行ったが、プロペラが湿気の多い青島に合わず、各種プロペラ11種を製作した。ドイツ軍に唯一残った飛行機で日本軍陣地を偵察し、時に空中戦を行った。総督の命を受けて11月6日午前6時、日の出とともに上海へ向けて飛行機で青島を脱出した。最後に握手をした人物は親友のアイエ海軍中尉(※1)であった。給油で着陸した江蘇省海州近郊で、中国官憲により機体没収の通告を受け機体を破壊・炎上させ、陸路上海へ向かった。上海からさらに南京に赴いた際には駅頭に、駆逐艦S90艦長ブルンナー大尉(※2)を始めとして、乗組員が出迎えた。12月5日上海発サンフランシスコ行きの汽船モンゴリア号に乗船し、12月8日長崎港に寄港、検査・検閲を受けるが食中毒を装い逃れた。「余が以前から知っている長崎の陸地を船内から眺めた。…青島からの凱旋軍を迎える満艦飾で港も町も飾られていた。船内には青島を退去させられたドイツ人も大勢いた」【若林欽・広政幸助訳『青島から飛び出して』170頁】更に神戸、横浜に寄港してホノルルを経由してアメリカ本土に着いた。ホノルル港には南洋から来たドイツの巡洋艦ガイエルが抑留されて停泊していた。1915年1月2日サンフランシスコを去り、2月8日ジブラルタルに到着するが、露見して俘虜となる。イギリスのプリマスに着き、そこからさらに汽船でドチェスター(Dochester)に行き上陸。ロンドン近郊のメイドゥンヘッド(Maidenhead)、更にはホーリーポート(Holyport)の収容所を経て5月1日、ダービーに近いロングイートンにあるドニングトン・ホール(Donington Hall)の将校俘虜収容所に入れられる。月給として120マルク(約60円)を支給された。1915年7月4日逃亡し、熟知していたロンドンを数日彷徨して、オランダの貨物船プリンツェス・ユリアナ号の救難用ボートに忍び込み、オランダの港に着く。7月13日ベルリンに帰還して、ドイツ皇帝から「鉄十字章功1級」が贈られた。上記著作は70万部のベストセラーとなり、プリューショウ中尉は英雄として称えられた。1919年に軍籍から離れ、民間飛行家、映画のアナウンサー等の仕事をしつつ、幾つかの著作を執筆した。1931年1月28日、アルゼンチンで複葉二人乗りの「チンタオ」号を操縦中に、墜落事故を起こして死亡した。妻のイーゾト(Isot)に亡夫を偲んだ『ドイツ海軍軍人にして飛行家グンター・プリュショー』の回想記がある。
※1:アイエ(Julius Aye;1887-1914):海軍膠州砲兵隊第3中隊・海軍中尉。〔ビスマルク山頂砲台指揮官〕。1914年11月7日未明、山頂砲台自爆後、観測所に派遣された同中尉は、日本軍工兵隊の襲撃に対して抜剣して応戦したが、無数の切り傷を負って戦死、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。墓標番号は512番。プリュショー海軍中尉の親友であった。シュレースヴィヒ=ホルシュタイン出身。
※2:ブルンナー(Paul Brunner;1880-?):駆逐艦S90艦長・海軍大尉。1914年10月17日、総督より上海ないしは中立港へ脱出して、石炭及び糧食を調達すべく出動命令を受ける。午後7時青島港を出港し、11時30分日本の艦船を発見して魚雷を発射、高千穂を沈没させ、翌午前5時ごろ青島南方海岸に接岸・自爆させ、中国官憲に逮捕された。やがて南京俘虜収容所に送られたが、拘禁中の待遇は悪くはなかったと言われる。11月11日、飛行機で脱出してきたプリュショー中尉を南京停車場に他の乗組員とともに出迎えた。→666)
84)ジーメンス社:ヴェルナー・フォン・ジーメンス(Werner von Siemens;1816-1892)とハルスケ(Halske)との共同で、1847年に設立された電気会社。1905年にジーメンス=シュッケルト株式会社となり、ドイツ最大の電気及び電機総合会社になった。中国語の社名は西門子電気廠。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、電気工事、電気器具製造。1887年8月1日、東京に最初の支店が置かれ、後に大阪、門司にも支店が開設された。大戦勃発時点での3支店合わせた人員は、ドイツ人18名、日本人7名であった。→686)
85)岡澤慶三郎(?-?):茨城県出身。陸士11期、陸大12期卒。大正3年9月11日少将に昇進して歩兵第2旅団長、6年8月6日近衛第2旅団長、7年7月24日中将となって待命、8年1月15日予備役になった【『陸海軍将官人事総覧』陸軍篇89頁】。→698)
86)ビュットナー:ゾフィー・ビュットナー(Sophie Büttner;1868-?)は、ベルリンのヴェーフェルリンゲン(Weferlingen)に生まれ、ハルバーシュタット高等女学校を卒業した後、英語とフランス語のの勉強のためにイギリスへ、フランスへ渡った。その後ベルリンに戻って、主に日本人を対象としたドイツ語の私塾を開いた。1907年(明治40年)に、鹿児島第七高等学校造士館教師として招聘されて2年間勤めた。その後ベルリンに戻ったが1911年夏、第五高等学校から招かれてドイツ語とラテン語を教え、300円の俸給を支給された。1915年(大正4年)7月31日まで雇用されたが、1914年12月には奏任5等以上に準じる身分とされた。帰国後、日本滞在の体験に基づく論文を2編発表し、その後まもなく世を去ったと推測されている【上村直己『九州の日独文化交流人物誌』93-95頁】。→698)
87)プリンツ・ハインリヒ・ホテル(Hotel Prinz Heinrich):青島のヴィルヘルム皇帝海岸通りに1899年に建設された。同ホテルは青島と格別にゆかりのある皇弟ハインリヒに因む、青島随一の豪華なホテルであった。花崗岩を用いた3階建ての白亜のホテルは、その豪華さで東京の帝国ホテル、横浜のグランドホテルに遜色ないとも言われた。部屋数40室で、他にヴェランダ、テラス、婦人室、倶楽部室、読書室、控室、舞台を備えたホールがあった。1ヶ月の滞在費100ドル(約160万円)から150ドル(240万円)であった。パーティー、舞踏会が繰り広げられ、演奏会や演劇が開催されることもあった。日独戦争中は仮設野戦病院に充てられた。なお、アウグステ・ヴィクトリア湾に臨む海岸ホテルもその経営になり、そこでも第3海兵大隊や海軍膠州砲兵隊の軍楽隊によるクラッシク、ポピュラーの演奏会が、冬期には週に2回開催された。→729)
88)ジータス、プラムベック社:1898年3月6日に膠州湾租借に関する独清条約が締結されるや、ジータス、プラムベック社はシュヴァルツコップ社とともに、その3月中に芝罘から真っ先に青島入りした。ホーエンツォレルン街の膠海関の隣に、広壮な社屋を構えていた。中国語の社名は哈利(Hali)洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入(洋食器、陶器、酒類、煙草、衣類、帽子、靴、家具、電気器具、紳士淑女流行品、飲料、時計、植民地需要品等各種雑貨)、鋼材建築材料、宝玉技術部、機械工場、運送、保険。海軍歩兵第3大隊並びに膠州総督府御用達。済南、芝罘に支店、ウラジオストックに営業所を設けていた。青島湾に面した一等地ヴィルヘルム皇帝海岸通りの三ヶ所(日本の占領・統治時代の舞鶴浜24、25、26)に1903㎡、5027㎡、7026㎡の計13956㎡(約4229坪)、大正6年時点での評価額65万円の地所を所有していた。1907年10月22日付けで総督府から、水雲山島、竹岔島、浜柳島、及び蓮島における石炭その他の鉱物の採掘権を1937年12月31日まで付与されていた【『青島経営ニ関スル獨国ノ諸法令』580-581頁より】。→733)
89)オットー・ライマース商会:横浜、神戸で輸出業を営んだパウル・ハイネマン商会(Paul Heinemann & Co.)が前身。1890年頃に前記商会が共同経営者のオットー・ライマースに譲渡されて設立された。業務内容は、日本製品、特に絹、銅、樟脳の輸出。大戦終結後10年ほどして廃業した。→767)
90)「わが腕白時代より」:原題は「Uß minere Buewezitt」。標準ドイツ語では「Aus meiner Bubenzeit」となる。→767)
91)ヴァルター・イェキッシュ:ボッフム在住の郵趣家。その蒐集品には、日本各地の収容所からドイツに向けて送られた膨大な量の俘虜郵便や、俘虜収容所及び俘虜関連の資料・写真、更には俘虜が遺した日記等が含まれている。→783)
92)芝罘:芝罘(チーフー)は山東半島先端の港湾都市。青島が建設される以前は、山東半島随一の港だったが、後に青島にその座を奪われ、やがて煙台とその名を変えた。→815)
93)モルトケ兵営:モルトケ山の東、プリンツ・ハインリヒ山(浮山)の麓に建設費約50万マルクで建てられた。騎兵中隊、機関銃隊、工兵中隊、海軍野戦砲兵隊の兵営で、日本の占領・統治時代は若鶴兵営と呼ばれ、日独戦争終結後、「青島俘虜収容所」が兵営内に設けられた。→815)
94)水兵館(Seemannshaus;水師飯店):1898年、ハインリヒ皇弟が東洋艦隊司令官として青島に滞在した折り、その設立が発案された。設立の目的は下士官、守備隊員及び艦隊乗組員のリクレーション並びに休息所を提供するためであった。設計は東アジア地域在住の建築家に公募された。1898年10月18日着工(礎石)、1902年完成。日本の占領・統治時代は軍事法廷として用いられた。→815)
95)ラムゼーガー:ハンス・ラムゼーガー(Hans Ramseger(?-?))は神戸でラムゼーガー商会を経営していた。甥に当たるラーン(Heinz van de Laan)は1913年、神戸の叔父の元にやって来てその商会で働き、やがて青島に応召して俘虜となった。作曲の心得があったと思われ、『忠臣蔵』等の作品を遺した。板東俘虜収容所に妻ルイーゼ(Luise)とともに慰問訪問した。1917年12月にラーンが執筆した『チンタオの思いで』(Erinnerungen an Tsingatu)は、板東俘虜収容所で書かれ製本され、叔父ラムゼーガーの誕生50年を記念して捧げられた。近年、ラムゼーガーの『忠臣蔵』が注目され、演奏の動きもある。→1014)
96)樋殿谷の溜池:国道12号線から樋殿谷川に沿って、山へ2キロほど入った所にあるすり鉢状の溜池。樋殿谷川にかかる林谷橋を渡ると、目の前に高さ10メートル、幅40メートルほどの堰堤が立ちはだかるように聳えている。溜池は一見ひょうたん型に見えるが、東平草谷(ひがしひらくさだに)から水が流れ込む奥は二方向にやや広がって魚の尾びれのような形になっている。そこから地元の人々には「金魚溜め」と呼ばれている。溜池全体の形が金魚に似ていることからの通称である。溜池の水面積は3000坪ほどかと推測される。さらに地元の人の話によると、堰堤、溜池ともドイツ人が造ったとのことであるが、明治末に造られたらしい。←1023)
97)高橋写真館:1901年のドイツ時代から、海岸通に近い山東路で営業していた。店主は、その高度な撮影技量、ウイットに富んだ話術、誰の心にもすぐに伝わる善意で、青島在住ドイツ人に親しまれていた。旅行で青島を訪れるドイツ人は必ず立ち寄って記念写真を撮り、青島や周辺を写した絵葉書を購入したという。青島の風景・建造物や軍人・兵士の写真を多く写したことからドイツでは、店主は日本軍のスパイとして働いたとの推測もされている。→1028)
98)西郷寅太郎(1866-1919):歩兵第1連隊附歩兵中佐から東京俘虜収容所長を経て、習志野俘虜収容所長となる。西郷隆盛の長男で、明治天皇の思し召しで1885年(明治18年)18歳の時、ポツダムにあったドイツ陸軍士官学校に留学し、在独期間は13年に及んだ。1902年(明治35年)に父隆盛の名誉回復なり、侯爵に列せられた。なお、俘虜の待遇に関しての西郷所長の談話が残っている。西郷中佐の談「俘虜の月給はクーロー中佐の183円を筆頭として中尉47円、少尉40円、準士官40円、下士以下は日給30銭の規定なるが、右はいずれも我国軍人の各官等に準拠せるものにて、佐官尉官等は当該官等中の第三等級を以って標準となしたるなり。之は日露戦争の当時露国俘虜待遇法と何等異なる所なくいずれも俘虜を遇するにあくまで武人の面目を保たしむるを目途とせる俘虜取扱規定に拠れるものなり。尚右月給中将校以上の者は該月給の範囲内にて衣食住其の他一切の費用を自弁するの義務を有し下士以下は各給料の範囲内を以って当方にて一切の賄いをなし与え、衣食以外の間食又は嗜好品たるみかん、ビスケット、コーヒー、煙草等は希望により適宜現品にて支給する規定なり。以上の如き俘虜収容待遇に要する一切の費用は平和克復後即ち欧州戦乱終息の後において独逸政府之が賠償の義務を有する事勿論にして償金還付時期の戦後一年の後なりや将二年の後なりや不明なるも戦敗の結果疲弊せる独逸が一時に償金還付をなし能はざる節は一定の期間を約して漸次に賠償の義務を果たすこととなるべし」。【1914年11月26日付け『東京朝日新聞』の記事「俘虜待遇の規定」による】1919年1月1日午後4時、スペイン風邪で死去【〔写真23〕参照】。習志野俘虜収容所での二人目のスペイン風邪による犠牲者であった。東京・港区の青山墓地(1種イ11号21/22側3番)に墓所がある。→1064)
99)牛荘:牛荘(ウンチャン)は満州の古くからの港湾商業都市。遼東半島付け根の遼河河口にあり、渤海湾を隔てて葫蘆島(コロトウ)と相対している。1858年の天津条約によって開港した。中国商人には、芝罘、青島と並んで重要な都市であった。日露戦争後は南満州鉄道の付属地となり、日本軍が駐屯し、日本領事館が置かれた。ロシア人、ドイツ人等は牛荘と呼んだが、日本人は営口と呼んでいた。→1084)
100)マックス・ネスラー書店:ライプチヒに本店があった。日本では横浜に支店を置き、書籍販売を営んだ。板東収容所で印刷された『板東収容所俘虜故国住所録』の裏表紙には、いわばその広告が印刷されている。→1118)
101)ヤコボフスキー:ルートヴィヒ・ヤコボフスキー(Ludwig Jacobowski;1868-1900)は世紀転換期の詩人。その短い生涯の中で若き日のリルケ、「山のあなた」の詩人カール・ブッセ、人智学の確立者ルードルフ・シュタイナーと親交を結んだ。代表作に『ユダヤ人ヴェルター』がある。→1133)
102)カップラー製造:中国語の社名は徳遠洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、屋根煉瓦製造。資本金5万マルク、職工数70名で、一日約4500枚の赤煉瓦を製造した。→1137)
103)ウルリヒ(Friedrich Ullrich;?-1914):海軍野戦砲兵隊・軍曹。〔給養係長〕。1914年11月7日、軍使カイザー(Kayser)少佐の馬丁として台東鎮の日本軍部隊に赴く途中、流弾を受けて死亡し、青島欧人墓地に埋葬された。当時一部ではドイツ軍降伏による戦争終結を知らずに、まだ銃撃戦が行われていた。→1150)
104)中国輸出入銀行会社:中国語の社名は謙信洋行。1859年広東でヘッセ・エーラース社として誕生した。日本では1893年から神戸居留地17番に支店を置き、やがて1900年には横浜にも支店を置いた。業務内容は、主としてアニリン色素、化学薬品の輸入、証券業務。→1164)
105)青野原俘虜収容所:ヴィリー・テッゲ(Willy Tegge)の挿絵によると、青野原俘虜収容所施設には兵舎が7棟あった。平成14年5月25日の神戸大奥村弘助教授の調査で、農業真鍋勇氏方の納屋は陸軍兵舎か収容所の倉庫と推定されていたが、納屋で「大正4年6月25日起工」などの年月日や、「竣工棟札」が発見された。納屋は東西15.5メートル、南北7.9メートル、仕切られた居室の大きさから、ケルステン日記に描かれた7棟の内将校宿舎(東西66メートル、南北8メートル)の一部と分かった。さらに、東隣なりにある別の農家の納屋も、内部の構造が当時の入浴風景と一致したことから、将校の浴場(東西7.5メートル、南北5.6メートル)と判明した。一帯は第二次大戦後、開拓地となり、収容所施設は1951年に四分割され、真鍋氏の父親等入植者に払い下げられたとのことである【インターネットの「神戸便り」中の、「第一次大戦中ドイツ、オーストリア兵入所加西の納屋は元捕虜収容所」による】。→1167)
106)ドイツ・クラブ:神戸における最初のドイツ人クラブは、1868年7月18日に設立されたウニオン(Union)である。設立者にして初代会長はアウグスト・エーファース(August Evers)で、エーファースはプロイセンと北ドイツ連盟の神戸における名誉領事でもあった。彼は神戸の二番目のクラブ・コンコルディア(Concordia)の会長も長く務めた。当初はクニフラー(Kniffler & Co.)商会の代表で、後にジーモン‐エーファース商会(Simon,Evers & Co.)の経営者となった。横浜のゲルマニア(Germania;1863年12月22日設立)及び神戸のコンコルディア(1879年10月1日設立)の両クラブともに、1917年5月9日に閉鎖された。強制的な売却処分を受けたが、その売却金(そこそこの金額)は大戦後、全額ドイツ人に返却された。1919年11月24日に両クラブの再開がなった。→1167)
107)青島屠畜場:官営の施設で1904年に起工し、1906年6月に完成、翌7月から業務を開始した。建設費として85万マルクを要した、東洋一の設備であった。5300余坪の広大な敷地には、検査場、処理場、厩舎、消毒室、冷蔵庫のほかに研究室もあった。ドイツ人所員は6名、中国人雇用者20名。冬季における輸出用の一日あたりの処理数は400頭、青島市用の一日の平均は、牛40頭、豚40頭、山羊20頭であった。1907年の輸出額は約6万5238マルクであったのが、1913年には22万6334マルクにまでと3倍強に達し、総督府における重要な財源となりつつあった。→1189)
108)沙子口:沙子口は青島から東へ40キロほど離れた薫家湾口の要衝地。ジャンク貿易の監視所も兼ねて、古くから中国の税関所が置かれた。ドイツ租借地のはずれに近い。戦闘で膠州湾及び青島湾が使用できなくなったため、俘虜は沙子口まで行進させられ、それから沖に停泊する船に乗せられた。→1217)
109)樫村弘道(?-?):少佐時代の1914年(大正3年)10月6日から1915年5月25日まで、初代久留米俘虜収容所長を務め、二代の真崎甚三郎中佐時代も所員を務めた【『久留米俘虜収容所1914~1920』:「久留米市文化財調査報告書第153集」(久留米市教育委員会)より】。後の中佐時代には第二浦塩派遣軍委員、更に浦塩派遣軍俘虜委員となった。1920年4月20日、浦塩派遣軍俘虜委員であった樫村中佐の元に、西伯利俘虜救済会から44613円50銭の寄付金が送られた。同委員会は1919年12月に渋沢栄一、藤山雷太、大岡育造、星野錫の四名と新聞10数社を発起人として発足した。革命の起こったロシアで辛酸を嘗めているドイツ及びオーストリア、ハンガリー等の俘虜を救済することが目的であった。俘虜の数としては、ドイツ人4万、オーストリア人10万、ハンガリー人8万、トルコ人1万5000、ブルガリア人2000の計23万7000人とされている【『俘虜ニ関スル書類』より】。→1237)
110)アイヒヴェンデ・ウント・シュレーダー社:中国語の社名は維徳洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入、代弁業、保険、船舶代理。→1241)
111)シャリエール(Georg Charrière;1886-1914):第3海兵大隊工兵中隊・陸軍工兵中尉。1914年11月6日夕刻、第2歩兵堡塁攻防で重傷を負い、2日後の8日死亡、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。墓標番号は512番。フライブルク出身。→1323)
112)ヴィンクラー商会:中国語の社名は衛禮洋行。青島商工会議所の会員会社だった。ヤーコプ・ヴィンクラー(Jacob Winckler;1851-1911)が1885年に横浜で設立し、今日まで存続する数少ないドイツ系商社の一つ。1869年に来日したヴィンクラーは1869年設立の老舗ドイツ商社ハンス・アーレンス商会に入社し、やがて独立したのであった。日露戦争(1904-1905)後にには、主としてライプチヒのF.A.ブロックハウス社の医学や哲学、技術に関するドイツ語の教科書の輸入を扱い、ブロックハウス社の日本総代理店ともなった。1907年には中国の青島に支店を開設し、特にピーナツの輸出入を扱った。1912年には名古屋、ハンブルクにも支店が開設され、磁器、麦稈真田(ばっかんさなだ)の輸出入をでがけた【参照:http://www2.gol.com/users/winckler/history2j.htm】。業務内容としては他に、輸出入、各種保険代理。日本の占領・統治時代の葉桜町と広東町にまたがって、5195㎡(1574坪)の地所を所有していた。日本の工芸品の輸出もてがけていた。→1353)
113)ビスマルク兵営:ビスマルク兵営:ビスマルク山の南西の麓に、1903年に建設費約75万マルクで建てられた。花崗岩の石造り3階建てで、「コ」の字形に配置されていた。第3海兵大隊(除く騎兵中隊)の兵営で、日独戦争時には独軍の本部が置かれていた。日本の占領・統治時代は万年兵営と呼ばれた。→1355)
114)坊子鉱山:山東鉱山会社が開発した三炭鉱・炭田(錙川、博山、濰縣)の一つ、濰縣炭田にあった炭鉱。また坊子鉱山には三つの竪坑があった。坊子竪坑は1901年(明治34年)9月に開鑿した。山東鉄道の坊子駅から西南2kmにあり、坊子駅から引込線があった。坑深248mで、1914年ごろには日量1000トンを産出した。その三竪坑、坊子坑、アンニー坑(1904年に開鑿するが、犠牲者を多く出してやがて廃坑)、ミンナ坑(1907年に開鑿)は二本の坑道で繋がっていて、レール上を馬で牽いて石炭を運搬した。そのために21頭の馬を飼育していた。→1372)
115)四阿:収容所生活末期の習志野、板東等では、個人用の簡単な小屋が兵営(バラック)の近くに建てられた。日中その中で読書等をして過ごした。将校のためにはその従卒等が四阿の建設に従事した。→1394)
116)ディール(Wilhelm Diehl;?-1918):第3海兵大隊第1中隊・伍長。1914年10月20日、部下のレッチェ(Letsche)及びリーゼナー(Riesener)等8名を率いて、第1歩兵堡塁から浮山所へ日本海軍の動向偵察に赴いたが、銃弾を受けて死亡、22日に青島欧人墓地に埋葬された。→1400)
117)浮山所:遠く明代の洪武帝2年(1369年)に倭寇防禦地として設けられた。浮山(ドイツ時代の名称はハインリヒ皇子山;標高324m)の付け根の浮山湾湾口の要衝地。→1400)
118)俘虜郵便:第一次大戦期における日本の俘虜郵便で現認されている最初期のものは、1914年10月7日付け(消印は10月12日)の久留米俘虜収容所から差し立てられたものといわれている【『ドイツ俘虜の郵便』46頁】。俘虜郵便の総数は、100万通以上に及ぶと考えられる。→1454)
119)女子高生:その女学生山田紀和子(現姓井上)さんは昭和22年生まれ。ハンス=ヨアヒム・シュミット氏からの要請を受けた星昌幸氏(習志野市教育委員会)によって、井上紀和子さんの所在が突き止められた。マイレンダーとの文通に至った経緯とその様子は、『習志野市史研究3』所載の「ドイツ捕虜調査その後」(星昌幸)に詳述されている。→1454)
120)衛門砲台:衛門(ヤーメン)とは、清の時代まで存在した中国の役所。ドイツ時代の青島にも残っていた中国の建造物は、衛門と明の時代の建造になる道教の寺院天后宮の二つのみであった。今日は後者のみが存在する。→1466)
121)ライボルト機械商会:1895年に技師として日本にやって来たルートヴィヒ・ライボルト(Ludwig Leybold)が、ジーモン・エーファース商会の支援を得て設立した機械商会。→1502)
122)総督府衛戍病院:総督府のある総督山北東の敷地約2万坪の広大な土地に、1898年起工し、300万マルクの巨費を投じて1902年に完成した。小児病棟、婦人病棟、結核病棟、精神科病棟等を含む15棟から成り、病床数は最終的には301床となった。医師の数は院長を含め6名で、いずれも海軍軍医であった。それまでは病院としては民営の「ファーバー病院」(1901年開業、医師1名)があるのみで、入院・手術の用がある場合は横浜の「ドイツ海軍衛戍病院」(※)に搬送されていた。後に李村、四方、即墨、膠州等に診療所を設けて出張診療した。日露戦争当時、約200名のロシア軍負傷兵が旅順から逃げ延びて、ここで治療を受けたとも言われる。日本による占領・統治時代の1915年、青島療病院として一般に開放され、翌年青島病院となる。(※)ドイツ海軍衛戍病院:1878年横浜市街の外側、山手居留地40/41番に建設され、33年間存続したが1911年12月31日に閉鎖された。病院は海から約50メートルの高さの、いわゆる「ブラフ(山の手)」にあり、周囲には外国人の庭園付きヴィラが心地よい風を受けて立ち並んでいた。1876年(明治9年)定礎、開院は1878年6月1日。煉瓦造り(一部木造)で、設計はフランス人建築家レスカス(※※)による。一等病室4部屋、二等病室3部屋、三等病室48部屋があった。1899年には手術室が設けられた。当初の陣容は、外科医長1名、検査官1名、薬剤師2名、日本人職員7名であった。義和団事件の頃には療養所が併設され、将校用10室と兵卒用40室が設けられた。33年間に受け入れた患者数は3357名、内1669名は陸軍並びに海軍軍人であった。民間のドイツ人750名、その他の国籍者は938名であった。最も繁忙であったのは1880-1881年で、その間の入院患者数は181名。1897年7月(または8月)からは郵便業務も行った。最初は5,10,20pfgの切手及び5pfgの葉書が配備された。1901年からは3及び50pfgの切手の配備もなされた。また在中国局切手の持ち込み使用も認められた。使用例は極めて希少である【参照:『日本郵趣百科年鑑』、1984年、115頁(H.Böddicker:Deutsche Marine-Schiffspost Yokohama所載:《Philatelistische Japan Berichte》115号)及び『ベルツの日記』(上、219頁)】。(※※)レスカスは、1877年フランス土木技師協会誌へ、「地震の面からみた日本の建築構造と建築構造一般についての研究」を寄稿している。その中で、煉瓦造建築の耐震補強法を提唱し、このドイツ海軍衛戍病院や横浜三菱社の建築に実施している【『横浜もののはじめ考』101-102頁】。→1503)
123)松田池:松山市郊外の山越地区、来迎寺前の道を挟んでやや南東に広がっていた池。山越地区は昔から水利の便が悪かった。そこで明治11年1月7日池の普請が開始され、15年10月に完成した。総面積約1万坪、水面積7330坪、水深66尺、総工費1549円65銭、延べ作業人員4万7149人であった。昭和50年に埋め立てられて、松山商科大学(現松山大学)の運動場となった。→1539)
124)ベーア(E. Behr;(?-?)):神戸のドイツ人商人。友人達を訪問するために頻繁に板東収容所を訪れた。戦争でドイツの子ども用図書が入手困難になり、自分の子どものために童話を書いた。それが収容所印刷所から出版された。収容所の内外で好評となり、初版400部はたちまち売り切れ、第2版は1150部刷られた。→1546)
125)ヴァインベルガー商会:1890年代後半、ヴァインベルガーによって横浜に設立された。→1597)
126)ボーケンブレン:ドイツ語の方言で、「火柱祭」の意。原綴りは「Bookenbrenn」。→1637)
127)福島安正(1852-1919):陸軍大将。陸軍きっての情報将校。信州に生まれた。慶応元年江戸に出て講武所に入り、オランダ兵式を学んだ後大学南校で苦学勉励した。1869年(明治2年)司法省に翻訳官として勤務、1874年語学力を買われて陸軍省文官になり、ついで武官に転じて1881年陸軍中尉になった。参謀本部勤務と外国派遣(中央アジア、トルコ、ペルシャ、アラビア、インド等)を繰り返した。1887年陸軍少佐の時駐在武官としてベルリンに赴任、帰国の際(92~93年)シベリアを単騎横断して勇名を馳せた。義和団事件では臨時派遣隊司令官となり、太沽城塞攻撃の混成大隊司令官を務めた。1889年から1906年迄の長期に亘って参謀本部情報部長、日露戦争時は満州軍参謀、戦後の1906年参謀次長、1907年男爵となり、1912年関東都督、1913年大将になった。中尉から少将までの30年間を情報将校一筋で通した【『大日本人名辭書』等より】。1914年8月1日、マイアー=ヴァルデック総督を訪問し帰途に着くや、翌2日ドイツ総督府は青島に戒厳令を布き、3日には予備・後備等を召集する動員令を発布した。→1706)
128) H.ベルニック・ウント・ペッター商会:青島商業会議所会員会社で、中国語社名は貝泥各公司。→1735)
129)『帰国航』:板東収容所の俘虜たちがドイツ本国に送還され、神戸からヴィルヘルムスハーフェンまで豊福丸で帰航中、船内で発行した船内新聞。週刊で6号まで発刊され、合計116ページであった。最終の6号には、「さらば習志野」の詩が掲載された。→1773)
130)イルチス兵営:イルチス山の南西の麓に、1899-1901年に建てられた。建設費は約95万マルクだった。ヴェランダ風のテラスを持つ2階建てで、夏の熱さを凌ぐための構造であった。海軍膠州砲兵隊の兵営で、日本の占領・統治時代は旭兵営と呼ばれた。→1822)
131)シュラークバル:シュラークバル(Schlagball)とは、ドイツ式野球ないしはクリケットのようなもの。1チーム12人で構成され、革製のボールをスティックで打ち、前方の鉄の棒を回って戻ってくる。相手が先に本塁にボールを返すか、走者にボールをぶつけるとアウトになる。【『バラッケ』第1巻10頁の註より】→1850)
132)安田稔:安田稔(1881―1965)は独協中学卒業後に不同舎に入門、1906年ドイツに渡り、ミュンヘン美術学校に入学した。ドイツ時代に知り合ったか、知人を介して安田屋を紹介されたのかもしれない。→1881)
133)アラーフ・コロニア「ケルン万歳」の意。因みにケルン(Kölln)は大聖堂で知られるライン川沿いの都市で、ローマ帝国時代の殖民により成立した事から、「コロニア」から「ケルン」の地名が出来た。→1923)
134)リーデゼル(Gottfried Frhr.von Riedesel zu Eisenbach;?-1914):第3海兵大隊第5中隊・予備陸軍少尉(男爵)。[北京駐在外交官]。元近衛第3槍騎兵隊所属。1914年9月14日李村郊外白沙河畔の戦闘で、日本軍騎兵隊に突撃して壮絶な死を遂げ、青島欧人墓地内のドイツ人戦没者墓地に埋葬された。墓標番号は500番。ドイツ軍にとっての最初の痛ましき損失ともいわれた【W.Vollerthun:Der Kampf um Tsingtau.98頁以下を参照】。なおこの戦闘では、日本軍の騎兵第22連隊第3中隊長佐久間善次大尉も戦死した【瀬戸「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(2)」109-110頁を参照】。→1934)
135)久邇宮邦彦王:久邇宮邦彦王(1873-1929)は父朝彦王の次男として明治6年7月23日京都に生まれた。兄邦憲王が病弱のために久邇宮を継いだ。1896年(明治29年)皇族として初めて陸軍士官学校に入学、ドイツ語を得意とした。陸軍大学校卒業後、約3年間ドイツに滞在し、帰国後の1911年(明治44年)に日独協会初代総裁に就任した。日独戦争後の12年間はドイツ側の全会員が脱退して有名無実となったが、1926年(大正15年)に復興した日独協会の総裁に再び推挙された。陸軍大将で没したが、死後元帥の称号を受けた昭和天皇后の香淳皇后の父。→2155)
136)猪狩亮介:猪狩亮介は(1881-1957)は明治14年1月5日、宮崎県に生まれた。昭和2年7月26日基隆要塞司令官、3年3月8日砲兵監部附、4年8月1日野戦重砲兵第4旅団長、5年第5師団司令部附、7年4月11日陸軍中将、同日附けで待命、同月28日予備役。陸士12期、陸大23期。昭和12年から20年まで武蔵高等工科学校(現武蔵工業大学)長を務めた。→2155)
137)ロルケ(Eduard Rollke(?-?)):青島船渠技手。プリューショウ中尉のために水上複葉機の製作に当たった。戦争終結前に上海に逃れた。→2213)
138)常陸山:常陸山谷右衛門(1874-1922)は第19代横綱。水戸に生まれ、水戸中学校に進学し、3年生の時力士になるために中退、出羽の海部屋に入門した。当時としては非常なインテリ力士であった。1903年、梅ヶ谷藤太郎とともに横綱になり、「梅・常陸時代」を築いた。9年の横綱在位期間に8敗しかしなかった。従来野天で行われた相撲が、東京本所に屋根付の国技館が造られたのも、「梅・常陸」の人気によるものであった。1914年(大正3年)9月20日、京都での東京大相撲千秋楽に梅ヶ谷と取り組み敗れたが、土俵に上がる20分前、水戸中学同期の佐久間善治騎兵大尉の青島での戦死が、号外により場内で朗読された。常陸山は悄然として力なく土俵に上がった。この出来事は「常陸山の落涙」として新聞紙上で話題になった【瀬戸「青島をめぐるドイツと日本(2)日独戦争とドイツ人俘虜」109-110頁参照】。この年を最後に常陸山は引退し、特に常陸山部屋の創設を認められた。翌年、ドイツ人俘虜慰問のための興行を四国で行った。『陣営の火』第1巻第13号には、常陸山が松山を訪問したことが記されているが、慰問については触れられていない。常陸山は力士の地位向上にも努め、後に渡米してアメリカ大統領に謁見するなど、力士の社会的地位向上に貢献し、後に「角聖」と呼ばれた。常陸山のドイツ人との関わりには、ハンブルクでの巡業体験があるものと思われる。藤原龍雄氏はその論考「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」(『文化財だより』10頁)の中で、次のように記している。「12月4日の記事(『鷺城新聞』のこと。筆者注)では、相撲見物が許可される見通しであるという。俘虜の中のドラデン生まれのリットールという俘虜は、本国のハンブルクで日本の常陸山一行の相撲を見物した経験があり、早く見たいと楽しみにしていたが、残念ながらこれは実現しなかった。」→2261)
139)シュペー(Maximilian von Spee;1861-1914):シュペー中将は第一次大戦勃発時のドイツ東洋艦隊司令官。旗艦シャルンホルスト(装甲巡洋艦;11600トン)で青島を脱出したが、1914年12月8日、イギリスとのフォークランド沖海戦で戦死した。1877年(明治9年)上野公園で開かれた第1回「東京勧業博覧会」で、若き海軍少尉候補生シュペー伯爵は、オットー・シュミーデル(Otto Schmiedel)教授と数時間会話をした。石炭の問題ではシュミーデルを驚かせる知識を披露した【Schmiedel,Otto(Professor am Gymnasium zu Eisenach)《Die Deutschen in Japan》47頁等より】。→2307)
140)吉岡量平:埼玉県出身。明治12年10月生。千葉医専卒。明治36年3月3等軍医、同38年1月2等軍医、同40年12月1等軍医、大正5年5月3等軍医正(歩兵第10連隊附;姫路市五軒邸96)、同10年7月2等軍医正、同13年8月1等軍医正累進。大正14年時点では、小倉衛戍病院附で、福岡県企救町北方に居住した。なお、習志野収容所にいたユーバシャール(Uebeschaar)博士の遺品には、吉岡量平(3等軍医正時代)の写真が存在し、『ドイツ兵士の見たニッポン』153頁に掲載されている。写真には、達筆なドイツ語で「Zur Erinnerungen Dr.Yoshioka 1916」のサインが記されている。文献:『陸軍軍医団団員名簿』、『日本医籍録』→2321)
141)メラー(Erich von Moeller;?-1914):河用砲艦チンタオ(213トン)艦長・海軍大尉。1914年8月3日、チンタオの乗組員に対して、「この小さな艦で敵と戦うことは及びもつかない。諸君はなんとしても青島に辿りつくように」との言葉を贈って、自身は5人の部下と小さな船でドイツに向かった。インド洋を渡り、アラビア半島の海岸に着き、コンスタンチノープルまであと200マイルのところでベドウィンに襲撃されて、部下達とともに死亡した。【Burdick:The Japanese Siege of Tsingtau.39頁より】→2409)
142)エードアルト・マイヤー社:中国語の会社名は世昌洋行。青島商工会議所の会員会社だった。業務内容は、輸出入。→2450)
青島(チンタオ)及びドイツ兵俘虜関連文献表
(概ね発行年代順に掲げ、古い文献にはその所蔵先を示した。所蔵先名として大学図書館名の個所があるが、必ずしも当該大学のみの所蔵を意味するものではない)
1)Hesse-Wartegg,Ernst von:Schantung und Deutsch-China im Jahre 1898.,Verlag von J.J.Weber in Leipzig,1898.(筑波大学附属図書館所蔵)
2)Behme,Dr.F.and Krieger, Dr.M.:Guide to Tsingtau and its Surroundings.Ⅳ.Edition with 9 Maps a plan of the town and 86 Illustrations.Wolfenbüttel,1910.(東北大学附属図書館所蔵)
3)Mohr,Friedrich Wilhelm:Die Pachtgebiete in China.Die Organisation ihrer Verwaltung und Rechtspflege.Inaugural-Dissertation zur Erlangung der juristischen Doktorwürde der hohen Juristischen Fakultät der Königlichen Universität zu Marburg.Robert Neske,Leipzig,1913.(九州大学付属図書館所蔵)
4)Bunge,Max:In Kriegs- und Friedenszeiten bei Ⅲ. Seebataillon 18981901.Erinnerunge eines ehmaligen Seesoldaten. Druck u. Kommissionsverlag von Adolf Haupt. Tsingtau 1914.(金沢大学附属図書館所蔵)
5)山根楽庵『寳庫の青島』、玉樹香文堂出版部、大正3年12月1日。(高知大学附属図書館所蔵)
6)『青島戦記』、朝日新聞合資会社、大正4年1月15日。(高知大学附属図書館所蔵)
7)Walter,Robert:Tsingtau unterm Feuer.Eine Erzählung.Gustav Kiepenheuer Verlag Weimar 1915.(金沢大学附属図書館所蔵)
8)《Tokushima-Anzeiger》,1915-1917.(鳴門市ドイツ館所蔵)
9)Gottberg,Otto von:Die Helden von Tsingtau.Verlag Ullstein,Berlin,1915.(北海道大学スラヴ研究センター所蔵)
10)『山東概観』、通信局長田中次郎(発行者)、大正4年7月23日。(東北大学附属図書館所蔵)
11)『俘虜名簿』、俘虜情報局、大正4年10月調(久留米市文書館所蔵)。
12)『青島研究資料』、青島軍政署(附陸軍歩兵少佐中村照治訳)、青島新報社印刷、大正5年9月。(同志社大学附属図書館所蔵)
13)『大正三年 日獨戰史』、上下二巻、付図及び写真帳、参謀本部編纂、偕行社、大正5年12月20日。(高知大学附属図書館所蔵)
14)『自大正三年十一月 至大正六年四月 丸亀俘虜収容所記事』(防衛研究所図書館所蔵)
15)『俘虜収容所業務報告綴』大正六年 陸軍省 大正三年十一月十四日起 「熊本俘虜収容所日誌」、「丸亀俘虜収容所日誌」、「丸亀俘虜収容所記事」、「大阪俘虜収容所記事」(防衛研究所図書館所蔵)。
16)《Lagerfeuer》Wöchentliche Blätter für die deurschen Kriegsgefangenen in Matsuyama.1916-1917. (鳴門市ドイツ館所蔵)
17)『獨逸及墺洪国 俘虜名簿』、日本帝国俘虜情報局、大正6年6月改訂(防衛研究所図書館所蔵)。
18)『獨逸及墺洪国 俘虜名簿』、日本帝国俘虜情報局、大正6年6月改訂(外務省外交資料館所蔵)。
19)《Die Baracke》Zeitung für das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan.Gedruckt in der Lagerdruckerei.1917-1919. (鳴門市ドイツ館所蔵)
20)『大正三年乃至九年戦役俘虜ニ関スル書類』(防衛研究所図書館所蔵)
21)『自大正三年至九年 俘虜ニ関スル書類』(防衛研究所図書館所蔵)
22)『自大正三年至大正九年戦時書類』(防衛研究所図書館所蔵)
23)『陸軍省 歐受大日記』(防衛研究所図書館所蔵)
24)「獨國陸軍官階表」、「獨國海軍官階表」、「澳洪國海軍官階表」(防衛研究所図書館所蔵)
25)『日独戦争ノ際俘虜情報局設置並独國俘虜関係雑纂』21冊(外務省外交資料館所蔵)
26)Plüschow,Gunther:Die Abenteur des Fliegers von Tsingtau.Meine Erlebnisse in drei Erdteilen.Im DeutschenVerlag,Berlin,1938(cp.1916).
27)Voskamp,C.J.:Aus dem belagerten Tsingtau.9.Auflage,Buchhandlung der Berliner evang.Missionsgesellschaft,Berlin,1917.(ドイツ-日本文化研究所所蔵)
28)グンテル・プリッショー著、若林 欽/広政幸助訳『青島から飛び出して』、洛陽堂、大正7年1月25日。
29)堀内文次郎『青島攻囲陣中記』、目白書院、大正7年4月23日。
30)《Adressbuch für das Lager Bando 1917/8》(板東俘虜収容所案内記),Zusammengestellt und herausgegeben von Rudolf Hülsenitz,Gedruckt in der Lagerdruckerei.(鳴門市ドイツ館所蔵)
31)《Fremdenführer durch das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan》,herausgegeben von der Lagerdruckerei Bando gelegentlich der Ankunft der von Kurume nach Bando verlegten Kameraden,August 1918.(鳴門市ドイツ館所蔵)
32)《Dichtungen von Kriegsgefangenen des Lagers Kurume-Japan》,1919.3.18.
33)『青島経営ニ関スル獨国ノ諸法令』、青島守備軍民政部編、第3版。大正7年10月30日。(国立国会図書館所蔵)
34)「獨逸人北海道移住ニ関スル趣意書」、名古屋俘虜収容所、大正8年。(北海道大学附属図書館所蔵)
35)《Führer durch die Ausstellung des kriegsgefangenenlagers Ninoshima》(似島獨逸俘虜技術工藝品展覧會目録),Frühjahr 1919.
36)《Heimatsadressen der Kriegsgefangenen im Lager Bando,Japan》,Gedruckt in der Lagerdruckerei des Kriegsgefangenenlagers Bando,Japan,1919.6.(鳴門市ドイツ館所蔵)
37)《Die Heimkehr》Zeitung an Bord des Transport=Dampfers „Hofuku Maru“.Reise Kobe-Wilhelmshaven.Januarr 1920. (鳴門市ドイツ館所蔵)
38)Vollerthun,Waldemar:Der Kampf um Tsingtau.Eine Episode aus dem Weltkrieg 1914/1918 nach Tagebuchblättern.Verlag von S.Hirzel in Leipzig,1920.
39)Schmiedel,Otto(Professor am Gymnasium zu Eisenach):Die Deutschen in Japan,Leipzig,1920.
40)上田彌兵衛『南洋』、上田彌兵衛発行、大正10年4月1日。(高知大学附属図書館所蔵)
41)《Liste der ins Ausland entlassenen deutschen und österreichischen TSINGTAU-Kriegsgefangenen》,Hilfsausschus Tokyo,Erscheinungsjahar unbekannt.
42)『大日本人名辭書』、大日本人名辭書刊行會、大正15年3月20日。
43)『鹵獲書籍及図面目録』、青島守備軍陸軍参謀部、大正9年2月。(山形大学附属図書館所蔵)
44)Vogt, Karl:Handelsgesetzbuch für Japan.2.Aufl.Carl Heymanns Verlag,Berlin,1927.
45)Der Krieg zur See 1914-1918. Die Kämpfe der kaiserlichen Marine in den Deutschen Kolonien.Hrsg.vom Marine-Archiv ,Verlag von G.Mittler & Sohn,Berlin,1935.(名古屋大学附属図書館所蔵)
46)《Degeners Wer ist's ? 》,Verlag Hermann Degener,1935.
47)Meißner, Kurt:Deutsche in Japan 1639-1939,Deutsche Verlag-Anstalt,1939.
48)『青島戰史』―獨逸海軍本部編纂1914年乃至1918年海戰史、海軍省教育局、東京・双文社印刷、昭和10年12月25日。(防衛研究所図書館所蔵)
49)『通商破壊戦記』、フランツ・ヨーゼフ著、今村 甫訳、財団法人日本機動艇協会「舵」発行所、昭和17年5月。
50)『デモ 私立ッテマス』、株式会社ユーハイム、昭和39年。
51)『月星ゴム90年史』、月星ゴム株式会社、昭和42年。
52)才神時雄『松山収容所』、中公新書、中央公論社、昭和44年。
53)頴田島一ニ郎『カール・ユーハイム物語 ―菓子は神さま』、新泉社、1973年。
54)八木浩「H.・ボーネルと今日の日本学の課題」、所載:『日本語・日本文化』第4号(大阪外国語大学)、1975.
55)Burdick,Charles B.:The Japanese Siege of Tsingtau.Archon Books,1976.
56)Schmidt,Vera:Die deutsche Eisenbahnpolitik in Shantung 1898-1914.,Otto Harrassowitz,Wiesbaden,1976.
57)Korth,Georg:Wandervogel,1896-1906.dipa-Verlag,Frankfurt/M,2.Aufl.1978.
58)林啓介訳・編:扶川茂詩『鉄条網の中の四年半』―板東俘虜収容所詩画集―、1979年。
59)Schrecker,John E.:Imperialism and Chinese Nationalism.Germany in Shantung.Harvard University Press,Second Printing,1980.
60)冨田弘「ドレンクハーン報告書 -日独戦争と在日ドイツ俘虜」、所載:『豊橋科学技術大学人文・社会工学系紀要 ―雲雀野』第3号、1981年。
61)外山操(編)/上法快男(監修)『陸海軍将官人事総覧』陸軍篇、1981年9月1日。
62)坂本夏男「久留米俘虜収容所の一側面」(上)、(下)、所載:『久留米工業高等専門学校研究報告』第31号・32号、昭和54年。
63)『ベルツの日記』(上)及び(下)、トク・ベルツ編・菅沼竜太郎訳、岩波文庫、1979年改訳第1刷。
64)坂本夏男「久留米俘虜収容所の一側面」、所載:『久留米市史編さんだより』、久留米市編さん室、1980年。
65)『ブリジストンタイヤ50年史』、ブリジストンタイヤ株式会社、1982年。
66)Burdick,Charles/Moessner,Urusula:The German Prisoners-Of-War in Japan, 1914-1920.University Press of America,1984.
67)C.バーディック/U.メスナー/林啓介『板東ドイツ人捕虜物語』、海鳴社、1982年(昭和56年)4月30日。
68)『鳴門市史』中巻、鳴門市史編纂委員会、昭和57年3月31日。
69)『ドイツ俘虜の郵便』―日本にあった収容所の生活、吉田景保訳注、日本風景社、昭和57年5月20日。
70)Barth,Johannes:Als deutscher Kaufmann in Fernost.Bremen-Tsingtau-Tokyo 1891-1981.Erich Schmidt Verlag,1984.
71)『日本郵趣百科年鑑』1984年、財団法人日本郵趣協会、1984年4月20日。
72)―:Tsingtau Tagebuch,OAG akutuell,1985.
73)山下肇「鳴門板東のドイツ村」(1)~(3)、所載:『ノイエ・インフォーマ(Neue Informa)』、第9巻10-12号、株式会社サンポスト、1985年10-12月。
74)《Du verstehst unsere Herzen gut》-Fritz Rumpf(1888-1949)im Spannungsfeld der deutsch-japanischen Kulturbeziehungen.Japanisch-Deutsches Zentrum Berlin,1989.
75)Plüschow,Gunther:Silberkondor über Feuerland.Hans Georg Prager Verlag,1989.
76)『「板東俘虜収容所」研究』、「昭和62・63年度文部省特定研究報告書」、鳴門教育大学社会系教育講座・芸術系講座(音楽)、1990年3月。なお、執筆者とその執筆項目を次に掲げる:田村一郎「「ヒューマニスト所長」を可能にしたもの」―「背景」からみた「板東俘虜収容所」、棚橋久美子「地域社会と俘虜の受け入れ 」―受け入れ側からみた交流展開の諸要因―、小笠原洋三「『忠臣蔵』「序曲・由良之助の悲しみと復讐の思い」再演の徳島における音楽史上の意義」、松岡貴史「「序曲忠臣蔵」の作曲の背景と再演のための編曲」、永井滋郎「板東俘虜収容所の歴史的評価:国際理解・国際理解教育の視点から」、立岡裕士「板東の気候」、脇田晴子「前近代の捕虜の身請けと文化交流」、斎木哲郎「中国俘虜史」、白樫三四郎「松江豊寿・板東俘虜収容所長関連資料解説」。
77)Hoevermann,Otto:Ostasienfahrt.Hrsg.v.Kurt Jürgen.Husum,1990.
78)《Kulturvermittler zwischen Japan und Deutschland》Biographische Skizzen aus vier Jahrhunderten,Herausgegeben vom Japanischen Kulturinstitut Köln,Campus,1990.
79)猪狩隆明「熊本俘虜収容所記事」、所載:『市史研究くまもと』創刊号、熊本市、1990年。
80)『郵趣』第44巻7号、財団法人日本郵趣協会、1990年7月1日。
81)『郵趣』第44巻10号、財団法人日本郵趣協会、1990年10月1日。
82)『バウムクーヘンに咲く花 ―ユーハイム70年の発展と軌跡』、株式会社ユーハイム、平成3年10月1日。
83)関川夏央『「ただの人」の人生』、文藝春秋社、1991年6月。
84)冨田弘『板東俘虜収容所』―日独戦争と在日ドイツ俘虜、法政大学出版局、1991年12月18日。
85)『鶏肋―大和啓祐教授退官記念随筆集』(高知大学人文学部独文研究室編)、1992年。
86)『富田製薬百年のあゆみ』、富田製薬株式会社社史編纂室、平成4年10月16日。
87)横田新『板東俘虜収容所長 松江豊寿』、歴史春秋社、1993年4月15日。
88)Klein,Ulrike:Deutsche Kriegsgefangene in japanischem Gewahrsam 1914-1920 Ein Sonderfall,(Dissertation) Universität Freiburg,1993.
89)林啓介『「第九」の里ドイツ村』―『板東俘虜収容所』改訂版、井上書房、平成5年12月。
90)『姫路市史』第13巻 上 史料編 近現代2、姫路市史編集専門委員会、平成6年3月27日。
91)中村彰彦『二つの山河』:『別冊 文藝春秋』207号所載、平成6年4月1日。
92)新田義之『リヒアルト・ヴィルヘルム伝』、筑摩書房、1994年12月1日。
93)『ドイッチュラント』、Societäts-Verlag,NO.12/95 J1.1995.
94)志村章子『ガリ版文化を歩く』―謄写版の百年、新宿書房、1995年1月30日。
95)『来日西洋人名事典』増補改訂普及版、武内 博編著、日外アソシエーツ、1995年1月31日。
96)柘植久慶『軍事郵便物語』、中公新書、1995年7月19日。
97)松尾展成編訳『近代ザクセン国制史』、九州大学出版会、1995年9月20日。
98)『久留米市史』第11巻 資料編(現代)、久留米市史編纂委員会、1996年。
99)上村直己「リヒトホーフェンの見た幕末・明初の九州」、所載:『文学部論叢』第56号、地域科学篇、熊本大学文学会、1997年3月。
100)棟田博『日本人とドイツ人』―人間マツエと板東俘虜誌、光人社NF文庫、1997年10月10日。(『桜とアザミ』(光人社、昭和49年5月)の改題)
101)『東京・ベルリン 十九世紀~二十世紀における両都市の関係/ Berlin-Tokyo im 19.und 20.Jahrhunert』、Springer,1997.
102)『第7回企画展 ドイツ人俘虜と久留米』(久留米市教育委員会・平成9年11月1日~11月15日。会場:久留米市役所2階 くるみホール)。
103)安宅温『父の過去を旅して』―板東ドイツ俘虜収容所物語、ポプラ社、1997年12月。
104)山田理恵『俘虜生活とスポーツ ―第一次大戦下の日本におけるドイツ兵俘虜の場合―』、不昧堂出版、平成10年1月22日。
105)《Die Baracke. Zeitung für das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan.》,Band 1.Neu transkribierte Jubiläumsausgabe zum 50 jährigen Bestehen der Stadt NARUTO.鳴門市、平成10年3月31日。
106)『ディ・バラッケ』第1巻、「板東俘虜収容所新聞」、鳴門ドイツ館資料研究会訳、平成10年3月31日。
107)宮崎佳都夫『似島の口伝と史実(1) 島の成り立ちと歩み』、似島連合町内会・郷土史編纂委員会、1998年。
108)上村直己「『坊ちゃん』独訳者A.スパン」所載:「熊本大学学報」(第550号)、平成10年5月。
109)松尾展成「来日したザクセン関係者」、所載:『岡山大学経済学会雑誌』 第30巻第1号、1998年6月。
110)榎本泰子『楽人の都・上海』、研文出版、1998年9月20日。
111)高辻知義「塀の中のワーグナー 久留米ドイツ俘虜収容所と音楽」上・中・下、所載:『西日本新聞』、1999年1月19日~21日。
112)『久留米俘虜収容所 1914~1920』:「久留米市文化財調査報告書第153集」(久留米市教育委員会)、平成11年3月31日。
113)Laan,Heinz van der:Erinnerungen an Tsingtau.Die Erlebnisse eines deutschen Freiwilligen aus dem Krieg in Ostasien 1914.Hrsg.Rolf-Harald Wippich,OAG Tokyo,1999.
114)石川栄作「二人のドイツ兵墓地」、所載:『ラテルネ』82号、同学社、1999.
115)『特別史料展 ドイツ兵の見たNARASHINO 1915-1920習志野俘虜収容所』、習志野市教育委員会生涯学習部社会教育課、平成11年12月25日。
116)瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(2)日独戦争とドイツ人俘虜」、所載:『高知大学学術研究報告』第48巻、人文科学編、1999年12月27日。
117)『特別資料展 ドイツ兵の見たNARASHINO ―習志野俘虜収容所/1915―1920』(「パンフレット」:主催:習志野教育委員会;平成12年1月15日~1月30日;会場:ザ・クレストホテル津田沼)。
118)『どこにいようと、そこがドイツだ』、鳴門市ドイツ館、平成12年3月。
119)「「歓喜」によせて 板東俘虜収容所物語」、読売新聞徳島版(2000年5月16~26日)掲載記事の集成パンフレット。読売新聞社徳島支局、2000年6月。
120)津村正樹「久留米俘虜収容所における演劇活動(1)」、所載:『九州大学言語文化研究院 言語文化論究』No.12. 平成12年8月。
121)Bauer,Wofgang:Tsingtau 1914 bis 1931.Iudicium Verlag,München,2000.
122)『小野市史』第7巻 史料編Ⅳ、小野市史編纂専門委員会、小野市、平成12年10月30日。
123)瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(3)ドイツによる青島経営」、所載:『高知大学学術研究報告』第49巻、人文科学編、2000年12月25日。
124)斎藤聖ニ『日独青島戦争 秘 大正三年日独戦史』①~④及び別巻1~3,ゆまに書房、2001年3月25日。
125)『ディ・バラッケ』第2巻、鳴門市、平成13年3月31日。
126)《Die Baracke. Zeitung für das Kriegsgefangenenlager Bando,Japan.》,Band 2.Neu transkribierte Jubiläumsausgabe zum 50jährigen Bestehen der Stadt NARUTO.鳴門市、平成13年3月31日。
127)Krüger,Karl:Von Potsdam nach Tsingtau Erinnerungen an meine Jugendjahre in Uniform1904-1920,Hrsg.Jürgen Krüger,2001.
128)Mettenleiter,Andreas:Gefangen in Fernost.Sechs Jahre im Leben des Würzburger Kaufmann Wilhelm Köberlein,Echter Verlag,2001.
129)黄 光域『近代中国専名翻訳詞典』、四川人民出版社、2001年。
130)森 孝明「「青島守備軍司令部」寄贈図書 -愛媛における日独交流の跡?」、所載:『愛媛日独協会会報』第8号、2001年7月。
131)『鳴門市ドイツ館館報 Ruhe(ルーエ やすらぎ)』創刊号、鳴門市ドイツ館、2001年9月1日。
132)Schmidt,Hans-Joachim und Janson,Karl Heinz:Von Kutzhof nach China und Japan.Die Odyssee des Andreas Mailänder 1912 bis 1920,Band 11 der Schriftenreihe des Heimatkundlichen Vereins Köllertal e.V.,Kutzhof,2001.
133)『ドイツ兵士の見たニッポン 習志野俘虜収容所1915-1920』、習志野市教育委員会編、丸善ブックス、平成13年12月20日。
134)瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(4)-独軍俘虜概要」、所載:『高知大学学術研究報告』第50巻、人文科学編、2001年12月25日。
135)《Berichte des Deutschen Hauses von Naruto RUHE》,Die erste Nummer,2002.1.1.
136)『鳴門市ドイツ館館報 Ruhe(ルーエ やすらぎ)』第2号、鳴門市ドイツ館、2002年1月10日。
137)『小野市史』第6巻 史料編Ⅲ、小野市史編纂委員会、小野市、平成14年3月30日。
138)志村恵「日独戦争と青島鹵獲書籍」、所載:『金沢大学独文学研究会「独文研究室報」』第18号、2002年3月31日。
139)『香川日独協会会報』第10号(創立10周年記念号)、香川日独協会事務局、2002年5月。
140)『鳴門市ドイツ館館報 Ruhe(ルーエ やすらぎ)』第3号、鳴門市ドイツ館、2002年5月25日。
141)横田庄一郎『第九「初めて」物語』、朔北社、2002年。
142)Meller,Adolf:Das Schicksal der Verteidiger von Tsingtau im Ersten Weltkrieg.Aus dem Nachlaß meines Vaters,Studien,Quellen und Perspektiven zum Leben der Deutschen in Ostasien,Band 2,2002.
143)Meller,Adolf:Fluchtversuche von Tsingtau-Verteidigern aus japanischem Gewahrsam im Ersten Weltkrieg.
144)高橋輝和「1914年12月丸亀俘虜収容所のドイツ宛書簡」、『岡山大学文学部紀要』第37号、2002年7月。
145)松尾展成「日独戦争、青島捕虜と板東俘虜収容所」、所載:『岡山大学経済学会雑誌』第34巻第2号、2002年9月。
146)松尾展成「ザクセン王国出身の青島捕虜」、所載:『岡山大学経済学会雑誌』第34巻第2号、2002年9月。
147)安藤秀國/森孝明「『陣営の火』―第一次世界大戦時における松山のドイツ人俘虜収容所新聞―」、所載:『愛媛大学法文学部論集 人文学科編』第13号、2002(平成14)年9月。
148)『鳴門市ドイツ館館報 Ruhe(ルーエ やすらぎ)』第4号、鳴門市ドイツ館、2002年9月30日。
149)高橋輝和「丸亀俘虜収容所からの匿名告発書」、『岡山大学文学部紀要』第38号、2002年12月。
150)松尾展成「日本語文献から見た「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァー」、所載:『岡山大学経済学会雑誌』第34巻第3号、2002年12月。
151)松尾展成「「ドイツ牧舎」(徳島板東)指導者クラウスニッツァーの生涯」、所載:『岡山大学経済学会雑誌』第34巻第3号、2002年12月。
152)《Berichte des Deutschen Hauses von Naruto RUHE》,Die zweite Nummer,2003.1.1
153)『鳴門市ドイツ館館報 Ruhe(ルーエ やすらぎ)』第5号、鳴門市ドイツ館、2003年2月。
154)石川朋子「ベートーヴェン「第九」と板東俘虜収容所 ―ドイツ俘虜たちの苦悩と歓喜―」、所載:『稲本萌先生古希記念 ドイツ文学・語学論集』、稲本萌先生古希記念論集刊行会、2003年。
155)藤原龍雄「第一次世界大戦と姫路俘虜収容所」所載:『文化財だより』第50号、姫路市文化財保護協会、平成15年3月1日。
156)『習志野市史研究』3、習志野市教育委員会編、なお、「ドイツ捕虜収容所特集」であるこの号の内容は次の通り:カール・ハム「読者の皆様へ」;カール・ハム編/生熊 文訳「ハインリヒ・ハムの日記から」;生熊 文「解題」;ユルゲン・クリューガー「読者の皆様へ」; ユルゲン・クリューガー編/ディルク・ファン=デア=ラーン訳「カール・クリューガーの回想録から」;ディルク・ファン=デア=ラーン「解題」;星 昌幸「編集後記」―ドイツ捕虜調査のその後― 、2003年3月1日。
157)『菩提樹』(徳島日独協会会報)第10号、平成15年3月。
158)『地域社会における外来文化の受容とその展開』―「板東俘虜収容所」を中心として―、鳴門教育大学・鳴門市共同学術研究事業報告書、なお、執筆者とその執筆項目を掲げる:田村一郎「『教育・学習機関』としての『板東俘虜収容所』」、川上三郎「俘虜の学習活動について」、久野弘幸「19世紀後半におけるドイツ中等教育と板東俘虜収容所」、木内陽一「ドイツ兵俘虜の東アジア研究」、米澤義彦「俘虜の見た日本」、頃安利秀「板東俘虜収容所における音楽生活」、安藤 幸「「ドイツ兵の想いを創作ダンス」で」、高橋 啓「『雑書編冊』にみるドイツ兵俘虜と地域社会」、田中 優「共同社会の中の板東俘虜収容所」、大石雅章「ドイツ兵俘虜収容所の礼拝と宣教師」、中野正司「画像資料から見た板東俘虜収容所の施設と生活」、西田素康「現代によもがえる板東俘虜収容所」、田村一郎「他の収容所の研究動向」、山本 準「名古屋俘虜収容所」、平成15年3月15日。
159)森 孝明「松山のドイツ人俘虜文献の周辺」、所載:『ラテルネ』89号、同学社、平成15年3月22日。
160)『ドイツ軍兵士と久留米』―久留米俘虜収容所 Ⅱ―;久留米市文化財調査報告書第195集、久留米市教育委員会、なお、執筆者とその執筆項目を掲げる:高松基助「獨逸俘虜久留米来朝」;吉岡哲也「ヴァルター・イェーキッシュ氏を訪ねて」;高辻知義「久留米俘虜収容所における音楽活動について」、「プログラムによる 久留米俘虜収容所 オーケストラ 演奏記録」;津村正樹「久留米俘虜収容所における演劇活動」;エルンスト・クルーゲ/生熊 文抄訳「エルンスト・クルーゲの日記」;エルンスト・クルーゲ/清水良男「祖国への生還」、「タウディーン船長の脱走」、「父、エルンクルーゲの一生」、「私とクルーゲさん」;パウル・イーザーローヘ/生熊 文抄訳「パウル・イーザーローヘ ―パウル・イーザーローヘの日記」;ハーサ・W.ロジャース/安達康子訳「ヘルマン・エルンスト・オスカー・ヴォルフ ―父、ヘルマン・エルンスト・オスカー・ヴォルフ」;友野信善「ハインリヒ・ヴェデキント氏について」;ディルク・ファン=デア=ラーン「カール・フォークト(Karl Vogt)についての覚書」、平成15年3月31日。
161)『どこにいようと、そこがドイツだ』―“Hie gut Deutschland alleweg“板東俘虜収容所入門(改訂版)、鳴門市ドイツ館、平成15年3月31日。
162)「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」ホームページ(http://homepage3.nifty.com/akagaki/)、2003年4月8日発足。
163)Nakamura,Akihiko:Widergespiegelte Heimatwelten.Berge und Flüsse(「呼応する二つの故郷―その山々と川」),übersetzt von Wolfgang Herbert,das Deutsche Haus der Stadt Naruto,2003.(なおこの文献は、中村彰彦『二つの山河』(初出:『別冊 文藝春秋』207号、平成6年4月1日;1994年度直木賞受賞作品)の翻訳である)
164)上田浩二/荒井訓『戦時下日本のドイツ人たち』集英社新書、平成15年7月31日。
165)『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』創刊号、「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究会、内容:高橋輝和「サムナー・ウエルズによるドイツ兵収容所調査報告」、田村一郎「板東の「慰霊碑」について」、校條善夫「「名古屋俘虜収容所」覚書」、森孝明「「松山ドイツ俘虜収容所」に関する資料紹介」、小阪清行「「ヴァーチャル俘虜学会」について」、瀬戸武彦「青島(チンタオ)への船旅と旧山東鉄道の旅」、堤諭吉「捕虜と女学生が「第九」で交流 ―大正8年、収容所外での日本初演は久留米―」、星昌幸「随想 「ワルチェルさん」のこと」、2003年10月25日。
166)『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』創刊号(改訂版)、「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究会、2003年12月25日。
167)瀬戸武彦「青島(チンタオ)をめぐるドイツと日本(5)-独軍俘虜概要(2)」、所載:『高知大学学術研究報告』第50巻、人文科学編、2003年12月25日。
168)上村直己『九州の日独文化交流史』、熊本大学文学部地域科学科、平成16年3月31日。
169)森孝明「愛媛における日独関係史「青島守備軍司令部」寄贈ドイツ図書と旧制松山高等学校(前)」、所載:『愛媛大学法文学部論集 人文学科編』、平成16年9月。
170)『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第2号、「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究会、内容:ディルク・ギュンター「『徳島新報』、『ラーガー・フォイアー』、『バラッケ』-四国のドイツ兵俘虜収容所新聞の比較検討」、田村一郎、ローランド・シュルツ「「ルートヴィッヒ・ヴィーティングの回想」から」、瀬戸武彦「俘虜郵便について」、星昌幸「少しマクロな視点から」、赤垣洋、田村慶三、大西伯治「丸亀ドイツ兵俘虜研究会の歩み」、校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書 Ⅱ」、校條善夫「収容所図書室を膠州図書館の規則でイメージする」、森孝明「松山ドイツ兵俘虜収容所関係年表」、高橋輝和「板東俘虜収容所のドイツ語学・文学・文化論」、池田順次「静岡俘虜収容所 調査旅行日誌」、北里資郎「思い出すままに-或るドイツ人俘虜のことなど」、篠田和絵「メッテンドルフに眠る祖父ヴィクトール・ヴァルツァーへ」、2004年10月15日。
171)盛厚三(小谷厚三)「フリッツ・ルンプ物語―日本美術文化研究家・波乱の生涯(1)」、所載:『船抜』第Ⅲ期第9号、2005年1月30日。
172)「知られざる青島(チンタオ)の戦い ―“武士道精神”が発揮されたもう一つの戦争」、エリザ・R.シドモア/訳・解説/外崎克久、所載:『正論』2月号、産経新聞社、平成17年2月1日。
173)森孝明「愛媛における日独関係史「青島守備軍司令部」寄贈ドイツ図書と旧制松山高等学校(後)」、所載:『愛媛大学法文学部論集 人文学科編』、平成17年2月。
174)盛厚三(小谷厚三)「フリッツ・ルンプ―日本美術文化研究家・波乱の生涯」、所載:『北方人』第6号、北方文学研究会、2005年2月20日。
175)安松みゆき「第一次大戦下のドイツ人俘虜大分収容所で生み出された美術をめぐって」『大分黄表紙-鉄条越し患者のための本-』を例に、所載:『20世紀における戦争と表象/芸術―展示・映像・印刷・プロダクツ―』(平成15-16年度補助金科学費基盤研究(B)(1)研究成果報告書、2005年3月。
176)『ディ・バラッケ』第3巻、鳴門市、平成17年3月31日。
177)『ドイツ兵捕虜とスポーツ』―久留米俘虜収容所 Ⅲ―、久留米氏文化財調査報告書第213集、久留米市教育委員会、内容:「ドイツ兵捕虜と久留米」、岸本肇「ドイツ軍捕虜兵のスポーツ活動と久留米俘虜収容所」、生熊文「久留米の『Turnen und Sport』誌について」、生熊文「トゥルネンとスポーツ」、生熊文訳「『第3回久留米美術工芸品展』カタログ」、生熊文訳「久留米収容所ドイツ兵俘虜詩集」、生熊文訳/エルンスト・クルーゲ「エルンスト・クルーゲの見た収容所の生活」、桑木光信「『ポツダムから青島へ』―クリューガー回想録―、」、平成17年3月31日。
178)盛厚三(小谷厚三)「フリッツ・ルンプ物語―日本美術文化研究家・波乱の生涯(2)」、所載:『船抜』第Ⅲ期第10号、2005年5月1日。
179)松尾展成「日本とザクセンを結んだシュテヒャー父子」、「チンタオ・ドイツ兵俘虜研究会」メール会報132号、2005年5月4日。
180)志雲生(野村新七郎)『朝鮮往来』及び『朝鮮半島に夢を求めて』、発行者:山本卓也・知千子、2005年8月30日。
181)『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第3号、「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究会、内容:瀬戸武彦「青島独軍の部隊・階級名の日本語訳について」、田村一郎「青島戦当時のドイツ軍の「部隊名・階級名」をめぐって」、大和啓祐「下士官の官級とその名称」、星昌幸「日独戦争におけるドイツ側階級名・部隊名について」、川上三郎「講演:『徳島新報』の概観とそお意義について」にむけて、大河内朋子「エーリッヒ・カウル『青島の水兵・日本の俘虜 1914年から1920年』」、高橋輝和「A.ゲルラッハ「丸亀俘虜収容所より」」、高橋輝和「ウエルズの調査報告書の添付図面」、2005年9月15日。
182)吹浦忠正『捕虜たちの日露戦争』、日本放送出版協会、2005(平成17)年9月30日。
183)盛厚三(小谷厚三)「フリッツ・ルンプ物語―日本美術文化研究家・波乱の生涯(3)」、所載:『船抜』第Ⅲ期第11号、2005年10月1日。
184)松尾展成『日本=ザクセン 文化交流史研究』、大学教育出版、2005年10月10日。
185)『我ら皆兄弟とならん』―日本におけるドイツ人捕虜1914-1920、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)、2005年10月26日。
186)『DIJ板東コレクションの所蔵検索・ヴァーチャル展覧会』、ドイツ-日本研究所、2005年10月26日開始。
187)「Brückenbauer Pioniere des japanisch-deutschen Kulturaustausches」;『日独交流の架け橋を築いた人々』、iudicium,2005.
188)依岡隆児「日独文化交流試論―四国から見た「世界」」、所載:『言語文化研究 徳島大学総合科学部』、第13巻、2005年12月。
189)大川四郎編訳『欧米人捕虜と赤十字活動 パラヴィチーニ博士の復権』、論創社、2006年1月10日。
190)『ドイツからの贈りもの―国境を越えた奇跡の物語』、テレビ新広島(フジテレビ系列)、2006年1月22日放送。
191)奥村淳「山形大学図書館に存する青島鹵獲書籍について ―その比較文化的考察―」;所載:『山形大学紀要(人文科学)第16巻第1号』、平成18年2月。
192)田村一郎「「大阪俘虜収容所」記念碑落成」、『鳴門市ドイツ館館報』第15号、平成18年3月25日。
193)『「トクシマ・アンツァイガー(徳島新報)」紹介』、『徳島新報』翻訳・刊行会、2006年3月。
194)星亮一『松江豊寿と会津武士道 板東俘虜収容所物語』、KKベストセラーズ、2006年6月1日。
195)瀬戸武彦『青島(チンタオ)から来た兵士たち ―第一次大戦とドイツ兵俘虜の実像』、同学社、2006年6月9日。
196)榎本泰子『上海オーケストラ物語 西洋人音楽家たちの夢』、春秋社、2006年7月20日。
197)『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第4号、「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究会、内容:田村一郎「徳島・板東俘虜収容所長 松江豊寿の実相-「模範収容所」を可能にしたもの-」、奈良岡聡智「第一次大戦勃発時のドイツにおける日本人「捕虜」」、星昌幸「一枚の写真との格闘-画像探偵術のすすめ」、星 昌幸「俘虜のHeimatsortの比定について」、校條善夫「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅲ」、ディルク・ギュンター「松山俘虜収容所における前川所長とドイツ兵俘虜」、瀬戸武彦「似島俘虜収容所-その概要と特色」、高橋輝和「ヨーハンクロイツァー「日本における私の俘虜生活」、2006年10月31日。
198)持井康孝、古市大輔、Sylke Scherrmann「獨逸租借期青島所蔵書籍目録:1」:『金沢大学文学部論集』史学・考古学・地理学篇、第27号、金沢大学、2007年3月25日。
199)『ドイツ兵捕虜と収容生活 ―久留米俘虜収容所 Ⅳ―』(久留米市文化財調査報告書第251集)、久留米市教育委員会、平成19年3月31日。
200)『ディ・バラッケ』第4巻、鳴門市、平成19年3月31日。
201)志村恵「青島鹵獲書籍について ―現在の所蔵を中心に―」:『金沢大学文学部論集 言語・文学篇』第27号、金沢大学、2007年。
202)『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究』第5号、「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究会、内容:星 昌幸:「史料紹介」 習志野収容所「収容所楽団と男性合唱団のお別れパーティーのためのビール新聞」(1919年11月30日)、校條善夫:「名古屋俘虜収容所 覚書Ⅳ」、井戸慶治:オットー・シュテーゲマン「日本におけるドイツ人戦争捕虜の状態(熊本・久留米)」、井戸慶治:1918年6月2日、徳島における「徳島俘虜奏楽団」演奏会」、ディルク・ギュンター:「それでも笑える、というのがユーモアである」-収容所新聞『バラッケ』におけるユーモラスな記事とその役割の考察」、瀬戸武彦:「俘虜郵便について(2)、高橋輝和:ルードルフ・エーレルトの獄中書簡、高橋輝和:「アードルフ・メラー著『第一次大戦中の青島守備兵らの運命―私の父の遺品より』「在日俘虜として」、田村一郎:韓国における松江豊寿と伊藤博文、松田邦雄:ドイツ軍の俘虜収容所がもたらしたもの~ドイツに届いた友好の輪~、田村一郎:誌上相談、2007年10月31日。
203)『Freund-schaft Brücke 熊本の日独交流』;熊本日独協会、2007年11月16日。
俘虜等写真及び図版
〔写真1〕
丸亀俘虜収容所長石井彌四郎大佐退任記念写真
(鳴門市ドイツ館所蔵)
前列左より フリードリヒ・フェッター(Friedrich Vetter)陸軍中尉
ヴァルデマール・ランセル(Waldemar Lancelle)陸軍大尉
石井彌四郎収容所長(陸軍歩兵大佐)
ヴィルヘルム・シュリーカー(Wilhelm Schliecker)陸軍中尉
ゲオルク・キュールボルン(Georg Kühlborn)陸軍少尉
亀友廣吉陸軍一等主計
中列左より 山路岩太郎陸軍一等看護長
ボレスラウ・アダムチェフスキー(Boleslau Adamczewski)陸軍少尉
パウル・オットー・ラミーン(Paul Otto Ramin)陸軍中尉
石川元治陸軍歩兵中尉
ルードルフ・フォン・シェーンベルク(Rudolf von Schönberg)陸軍少尉
後列左より 田中一三陸軍軍曹
秋山留吉陸軍軍曹
梅野栄三郎陸軍上等計手
倉本猪三男陸軍二等軍医
里見金二陸軍歩兵中尉
荒川光雄通訳
〔写真2〕 〔写真3〕
丸亀収容所での中国語勉強会 左から日本美術史家フリッツ・ルンプ
左から三番目はヴィルヘルム・メラー (Fritz Rumpf)、スクリバ(Emil Scriba)
(Wilhelm Meller) 予備陸軍少尉、ヴェークマン(Oskar C.v.
(鳴門市ドイツ館所蔵) Weegmann)
予備海軍少尉
〔写真4〕 〔写真5〕
習志野収容所におけるクリスチアン・ 習志野収容所におけるカール・クリューガ
フォーゲルフェンガー(Christian ー(Karl Krüger;椅子の人物)とカール・
Vogelfänger)と愛犬シュトロルヒ オストマン(Karl Oatmann)
(Strolch) (習志野市教育委員会所蔵)
(習志野市教育委員会所蔵)
〔写真6〕
久留米収容所楽団の指揮者オットー・レーマン(Otto Lehmann)とその楽団員
(上段中央のレーマンの肖像のみスケッチ。下部の署名欄にもレーマンの署名はない)
上段左から、ナック(Kurt Nack)、ヘルトリング(Georg Freih.von Hertling)、コーツァー(Erich Kozer)、エッケルト(Walter Eckert)、オットー・レーマン(Otto Lehmann)、ヘック(August Heck)、ハイムス(Karl Heims)、クルーゲ(Ernst Kluge)、デューニッシュ(Max Luidpold Dünisch)、中段上の左から、エーペ(Heinrich Epe)、フレーベル(Karl Fröbel)、ヴァイセンボルン(Hermann Weissenborn)、ペステル(Willy Pestel)、オルトレップ(□□ Ortlepp)、中段下の左から、ハーケ(Hermann Hake)、キューネ(□□ Kühne)、ゲリッケ(Otto Gericke)、下段左から、ヴィルト(Gerhard Wild)、 ヒューン(Karl Gustav Hühn)、ゲープハルト(Otto Gebhardt)、ニーチュケ(Richard Nitschke)、エームンツ(Hermann Emunds)
(松尾展成氏提供)
〔写真7〕
名古屋収容所の一室の冬の陽だまりで
左から、シュテーゲマン(Alfons Stegemann)、エンゲルホルン(Friedrich Engelhorn)、ローマン(Max Lohmann;中央の胡坐の人物)、ヤンゼン(Gustav A. Jansen)、
カルクブレンナー(Paul Kalkbrenner)、シュテフェンス(Walter Steffens)
(オスヴァルト・ハッセルマン氏所蔵)
〔写真8〕 〔写真9〕
名古屋収容所でのテニス 名古屋収容所の若き俘虜
オットー・ライマース(Otto Reimers)対 ルートヴィヒ・ビーン
フォン・シュリック(v.Schlick)陸軍中尉 (Ludwig Bien)
(ハッセルマン氏所蔵) (ハッセルマン氏所蔵)
〔写真10〕
大阪・似島のサッカーチーム;右から(ゼッケン番号順)、シュルマン(Fritz Schürmann)、シュライ(Johann Schrey)、ハイネマン(Martin Heinemann)、クラインベック(Ernst Kleinbeck)、ハープリヒス(Christian Habrichs)、ホロナ(Alois Holona)、ポッサルト(Alfred Possardt)、クヌッベン(Peter Knubben)、クライバー(Hugo Klaiber)、イーデ(Georg Ide)、レーヴェン(Heinrich Loeven)
(田中清司氏所蔵)
〔写真11〕
似島収容所俘虜のサッカーチーム(〔写真10〕とは別のチーム)と広島中学等の生徒との記念写真
(山田足穂氏所蔵)
〔写真12〕 〔写真13〕
晩年に日本人女子高生と文通をした 松山収容所時代のハインツ・ファン・デア・
アンドレーアス・マイレンダー ラーン(Heinz van der Laan)
(Andreas Mailänder) (ディルク・ファン・デア・ラーン氏所蔵)
(ハンス=ヨアヒム・シュミット氏所蔵)
〔写真14〕 〔写真15〕
ヴィクトル・ヴァルツァー(Viktor Walzer) フランツ・メツガー(Franz Metzger)
(篠田和絵氏所蔵) (オットー・メツガー氏所蔵)
〔写真16〕
指揮者パウル・エンゲル(Paul Engel)とジークフリート・ベルリーナー
(Siegfried Berliner;左端)
(鳴門市ドイツ館所蔵)
〔写真17〕
徳島市内の音楽教室でのパウル・エンゲル
(鳴門市ドイツ館所蔵)
〔写真18〕
指揮者ヘルマン・ハンゼン(Hermann Hansen)と徳島オーケストラ並びに合唱団
(鳴門市ドイツ館所蔵)
〔写真19〕 「ドイツ牧舎」を背景に
「ドイツ牧舎」建設の功労者富田久三郎(髭の老人)、及び松本清一(中央のハットの青年)と船本宇太郎(後列左の鳥打帽)。女児(久三郎の孫娘)を抱くのはクラスニツァー(Franz Claussnitzer)、女児を見やるのは牧舎の設計者シュラーダー(Heinrich Schrader)と思われる(富田実氏の推定)。参照→注60)
(富田製薬株式会社所蔵)
〔写真20〕 〔写真21〕
元露国青島副領事館副領事ハンス・ 海軍東アジア分遣隊長パウル・クーロ
W.・クロパチェク (Paul Kuhlo)陸軍中佐
(Hans W.Kropatscheck)陸軍少尉 仏教研究に打ち込み、日本人の友人がいた。
(ハンス=ヨアヒム・シュミット氏所蔵) (クリスチアン・ボルマン氏所蔵)
〔写真22〕
膠州総督アルフレート・マイアー=ヴァルデック
(Alfred Meyer-Waldeck)海軍大佐
〔写真24〕
徳島・板東俘虜収容所長松江豊寿陸軍歩兵大佐
(鳴門市ドイツ館所蔵)
〔写真23〕
東京・習志野俘虜収容所長侯爵西郷寅太郎陸軍歩兵大佐
(習志野市教育委員会所蔵)
図版等
〔図 1〕
「似島獨逸俘虜収容所技術工藝品展覧會目録」の表紙
建物は会場となった広島県物産陳列館
(ファン・デア・ラーン氏提供)
〔図 2〕 〔図 3〕
同上目録中のバウムクーヘンの広告 同上目録中のヘルマン・ヴォルシュケ
カール・ユーハイム(Karl Juchheim) (Hermann Wolschke)の広告
の出店広告と思われる。
〔図 5〕
松山俘虜収容所新聞『陣営の火』
(Lagerfeuer)第1号の扉絵
(鳴門市ドイツ館所蔵)
〔図 4〕
徳島俘虜収容所新聞『徳島新報』
(Tokushima Anzeiger)
第2巻第3号(1915年10月10日)
(鳴門市ドイツ館所蔵)
〔図 6〕
板東俘虜収容所新聞『ディ・バラッケ』
(Die Baracke)第3巻表紙
(鳴門市ドイツ館所蔵)
〔図 7〕 俘虜郵便(大正4年2月20日 姫路消印)
ゲオルク・クルーゼヴィッツ(Georg Krusewitz)から妻宛の絵葉書
文面等については、1326)の「Krusewitz」の項を参照。
(河添 潔氏所蔵)
あとがき
本資料作成に当たっては、多くの諸機関並びに各方面の方々から種々の点で教示・協力を仰ぐことが出来た。以下に順不同で列挙する。
防衛省防衛研究所図書館、外務省外交資料館、ドイツ-日本研究所(DIJ)、ドイツ東洋文化研究協会(OAG)、姫路市教育委員会、丸亀市立資料館、鳴門市ドイツ館、ドイツ在住俘虜研究家ハンス=ヨアヒム・シュミット(Hans-Joachim Schmidt)氏、ベルリン日独センター図書・資料室主任桑原節子氏、ドイツ在住の青島研究家ヴァルター・ケルナー(Walter Kerner)氏、ドイツ在住俘虜研究家アヤ・プスター(Aya Puster;生熊文)氏、ドイツ在住の研究家クリスチアン・ボルマン(Christian Bormann)氏、青島在住の青島研究家王棟氏、元鳴門市ドイツ館館長田村一郎氏、山形大教授奥村淳氏、東北学院大教授エルンスト・ゾンダーマン(Ernst F.Sondermann)氏、習志野市教育委員会星昌幸氏、元ドイツ東洋文化研究協会理事ディルク・ファン・デア・ラーン(Dirk van der Laan)氏、元ドイツ-日本研究所図書室主任ウルズラ・フラッヘ(Ursula Flache)氏、高橋スタンプ商会高橋健次郎氏、元俘虜の子息オットー・メツガー(Otto Metzger)氏、日本文学研究家小谷厚三(盛厚三)氏、大東文化大教授川村千鶴子氏、日本テレワーク(株)朝川昭史氏、元俘虜の孫篠田和絵氏、横浜開港資料館平野正裕氏、袋井市在住俘虜研究家内野健一氏、名古屋日独協会理事校條善夫氏、金沢大准教授志村恵氏、神戸大名誉教授岸本肇氏、大阪市大正区長西村東一氏、大阪市立図書館市史編纂所長堀田暁生氏、立命館大学名誉教授井上純一氏、岡山大名誉教授松尾展成氏、岡山大教授高橋輝和氏、似島俘虜収容所研究家宮崎佳都夫氏、香川県大手前中・高等学校教諭赤垣洋氏、四国学院大等非常勤講師小阪清行氏、丸亀ドイツ兵俘虜研究会の大西伯次氏、田村慶三氏、嶋田典人氏、香川日独協会会長中村敏子氏、岡山大学教授高橋輝和氏、高松市在住の郵趣家三木充氏、愛媛大教授森孝明氏、徳島大教授石川栄作氏、徳島大教授川上三郎氏、徳島大准教授井戸慶治氏、富田製薬株式会社本社研究部技術顧問富田実氏、高知大教授吉尾寛氏、高知大講師シュテファン・フーク(Stefan Hug)氏、高知県土佐市在住の郵趣家河添潔氏、九州大教授津村正樹氏、久留米市立南筑高等学校堤諭吉氏、別府大安松みゆき氏、熊本大名誉教授上村直己氏、熊本日独協会会長窪田隆穂氏の各位から資料の提供及び情報等の教示を受けた。記して感謝申し上げる。