ゲーマー日日新聞

ゲームを「ゲーマー目線」で語る独立系ゲーム紙 | 依頼等はメールに | note https://note.mu/j1n1 | 連絡先ak47ava(at)gmail.com

本当に『ボーダーランズ3』に電脳少女シロを使う必要はあるのか ローカライズの責任とタレント吹替文化について

この記事は約8分で読めます。

 

f:id:arcadia11:20190624193259p:plain

『ボーダーランズ3』の日本語吹き替えキャストが一部公開。4人の主人公のうちひとりは“電脳少女シロ”が担当

automaton-media.com

 

「や~~め~~て~~く~~れ~~!!」

 

というのが本音。いや電脳少女シロとかvtuberが嫌いなわけでも、演技力を疑ってるわけじゃないよ(理由は後述)。

 

ただ、ゲーマーであると同時に映画ファンでもある自分だからこそ言わせてくれ、「タレント吹替」という日本の配給会社のウ〇コ文化をゲームにまで持ち込むのは本当にやめろと。

 

ローカライズという仕事の責任をあまりにも軽んじている、この日本の映画業界の悪癖が、このままゲーム業界にまで流れるんじゃないかと戦々恐々としているわけだ。

 


タレント吹替というクソ文化

まず「タレント吹替」って何ぞや、という話をゲーマー向けにしておこう。

 

映画ファンでなくても知ってると思うけど、日本の映画業界には「タレント吹替」というウン〇文化がある。文字通り、吹替版の公開に伴ってお笑い芸人やアイドルなど、本業が声優ではない人間を起用する文化のこと。

 

毎回、ネットの映画界隈で荒れる話題もこれだ。タレントの吹替は実際の俳優の演技とはあまりにも異なり、その多くがとても視聴に耐えない。

 

だからといって、字幕版を見ようにも台詞が画面の都合上大幅にカットされるし、純粋に「吹替版」を一つの作品として二度おいしくいただくオタクにとっても死活問題だ。

 

例えば、これまでのキャストを大幅に変更し、あまつさえ芸人の宮迫を使った『アベンジャーズ』はクソ吹替として名高いし、名作カートゥーンの『ザ・シンプソンズ MOVIE』は所ジョージや和田アキ子など本当に知名度とノリと上層部の付き合いだけで決めたような面子で、署名運動にまで発展した。

f:id:arcadia11:20190624193439p:plain

嘆願の甲斐あり、二度吹替されている。

 

 

個人的に怒髪天を衝いたのは、『The Secret Life of Walter Mitty』……もとい、『LIFE!』である(このタイトルが既に酷い!)。

 

油断した私も悪かったのだが、友人と入った映画館で何気なく吹替版を選んだのがとんだ過ちだった。冴えないウォルターが輝く美しい映像と共に、「ナイナイ岡村がそれっぽい物まねをするディレクターズコメント」というノイズが何故か挿入されていたのである。

 

『The Secret Life of Walter Mitty』という作品に対する、ひとかけらの敬意も、ほんのわずかな愛情も、かすかな理解も、何もない、ただひたすらナイナイ岡村が関西弁で何か喋ってるだけの吹替。

 

あまりにクソすぎて最後まで見た。映画館で席を離れるのはマナー違反だと思ったから……などという生ぬるい遠慮のためではない。クソ配給によってもたらされた、この怒りがやがて風化してしまわないようにこの吹替を脳に刻み付けたのである。

 

f:id:arcadia11:20190624193546j:plain

 

とは言え、じゃゲームでそんな吹替がなかったのかといえばそうではない。『Fallout3』のDLC『The Pitt』の吹替はファンのトラウマとして名高い。演技については完全に素人のゲーム実況者を起用するという暴挙に出たからだ。

 

……責任者はファンに頭ねじ切っておもちゃにされても不思議ではない。ノゾミガタタレター


(正直、この時代の洋ゲーはどんだけクオリティが低かろうと、翻訳されるだけマシ状態だったのもまた事実だが。)

 

タレントは演技力で声優に劣るのか?

誤解しないで頂きたいのだが、電脳少女シロにしても、タレントやゲーム実況者の起用にしても、実は彼らの技能自体が問題なわけではない。

 

(そもそもvtuberは電脳少女シロに限らず、プロの声優かそれと同じだけ声の演技が上手い場合が多い。でなければ彼ら彼女らは「バーチャル」足りえない。)

 

よく「下手くそがプロに勝てるわけないだろ!」という理由でこの文化を批判する方がいるのだが、もちろんその批判はある程度正しいものであるにしても、ではお笑い芸人やアイドル、俳優が純粋な「演技力」で声優に劣るかといえば、そうとも言い切れない。

 

そもそも、「演技力」とは何だろう。たくさんの人物を演じ分ける力か、印象に残る独特な声を出す力か。私は声優ではないが、そこに唯一の基準はないと思う。少なくとも、絶対に声優をキャストしなければならない理由はないのだ。

 

俳優は実写というフィールドにおいては演者としてプロフェッショナルだし、お笑い芸人やアイドルであっても「声」を使うプロである以上、その声量や声色は決して声優にも劣らず、彼らも舞台の稽古は日常的に行っている。

 

cakes.mu(お笑い芸人の稽古についてはこれが詳しい。まぁ新喜劇なのでやや特殊だが。)

 

『アベンジャーズ』で叩かれた宮迫はあの声だから客から笑いを取れたし、『WANTED』で批判されすぎて「旅に出ます」とツイートしたDAIGOはバンドのボーカルである。所ジョージは『デジタル所さん』という自身が主役のアニメに出演しているが、アレは所ジョージの間の抜けた発音があって知る人ぞ知る名作深夜アニメになっている。

 

少なくとも、タレントが良い吹替を行う、その素質は十分にあるはずなのである。

 

更に言えば、素人だから出演してはならないわけではない。宮崎駿の作品がその典型例だろう。

 

彼の『風立ちぬ』が最初に庵野秀明を起用すると発表された時散々叩かれたが、蓋を開けてみれば素晴らしい内容だった。豊かな心の裡を持ちながら、他者に対して心を開かない主人公二郎と、庵野の酷い棒読みが見事にシンクロしていたのである。

www.youtube.com

分野が違えど、彼らはプロであるし、作り手が必要とあらば素人でも起用する価値はある。

 

にもかかわらず、何故タレント吹替はそうした「例外」を除いてクソなのか、ファンに叩かれるのだろうか。それはローカライズがプロモーションに浸食される流れで、必然的に彼らが起用されることに理由がある。




スポンサーリンク

タレントと声優の違い:誰を演じているのか

まず重要なことだが、そもそもタレントで100%嘘偽りなく、ありのままでタレント足りえる人間はいない。

 

普段は清楚系として人気のあるアイドルも、深夜番組で交際人数が10人超えてますと暴露するなんて珍しくもないし、バラエティ番組で毒舌キャラとして知られる某芸人も、番組が終わると毒舌を吐いた相手に謝罪することもあるそうな。

 

バーチャルユーチューバーはその最たる例である。

 

当たり前だが、電脳少女シロは「電脳少女シロ」という人間ではない。まず誰かが電脳少女シロの設定や人格を考え、そこに誰かがモデルを制作し、更にどこかに住む「中の人」が声を加えることで、電脳少女シロというvtuberが成立している。

 

だがこれは何も電脳少女シロに限らない。お笑い芸人であっても事務所によるマネジメントがあり、番組による演出があって、初めて彼らはお笑い芸人として存在する。アイドルも無論そういうコンテンツとして作っている。

 

心理学者のユングは人間が社会に適応する上で、外面的な自己であるペルソナを作ると説いたが、人間それ自体が社会に対して必ずしも「ありのままで」生きているわけではない。

 

私でさえ「J1N1」という名義で記事を書いている時、自分でも全く違う自己が気付かぬ間に現れ、勝手に記事を書いているような錯覚することがある。

 

人は誰しも「自分」という仮面を作り、その役を演じている。問題は、こうして「中の人」が演じ、周囲が補助することで生産された「タレント」が、そのまま更に他の何かを演じることが実際には極めて難しいことだ。

 

声優とて無論タレントとしての自分を演じている。だが少なからず、彼らは声優として、貌のない誰かを演じるということの役割を達成してプロになっており、そういう意味で彼らの演技は一次的なものである。

 

これはまさしく、声優そして俳優の本当に尊敬できる点だと私は思う。

 

例えば、大塚明夫と聞いて我々は誰を思い浮かべるだろう。スネーク?ライダー(Fate/Zero)?スティーブンセガール?

 

その全てが正解なのだ。彼らは全て大塚明夫であると同時に、大塚明夫は彼らなのである。全く違う出自、違う人生を、違う媒体で歩む彼らに魂を吹き込み、他ならぬ人格を与える……、全ての声優ができるわけではないが、まさしく演者としての極地がここにある。

 

大塚明夫が「大塚明夫」を演じることと、全く同じ次元でスネークとして敵地に潜入し、ライダーとして覇道を示すのは同義である。

 

同じ『Fate』繋がりでは、『Fate/stay night』の衛宮士郎役である杉山紀彰はその歪な「正義の味方」の姿勢とは異なる考えを持ちながらも、見事に彼の歪な在り方をそのまま再現している。

 

また同作に登場する間桐慎二を演じる神谷浩史は、あえて『Fate』シリーズのことをほとんど調べていないらしい。それは作中において無知故に運命に翻弄される慎二の姿を再現するためであり、実際神谷の演技によって慎二は、脇役にも関わらず唯一無二の人物として認識されているだろう。

 

逆に、先ほど「タレント起用の素晴らしい例」として示した庵野秀明は庵野秀明か、それに限りなく近い誰かにしかなれない。堀越二郎は限りなく庵野秀明に近かったから、逆に庵野秀明が選ばれたのである。

 

或いは、『デジタル所さん』は所ジョージという存在があまりにも強烈だから、彼をそのまま引き立ててアニメ化したことで、シュールな笑いが起きたのである。

 

だが彼らが、物語における過酷な運命を歩む人間を演じるには、あまりにも彼らは自分を演じすぎている。

 

庵野秀明はともかく、お笑い芸人、アイドル、vtuber、いずれも途方もない本人の努力と、戦略と、リソースによって彼ら自身を演じている。演じているからこそ、彼らはこれほど多くの人間を前にしてもなお、唯一無二の存在として認識されている。

 

彼らは既に一つの配役をずっと演じ続けているし、彼らが声優に負けず劣らず持つ「声」の力も、声優とは全く逆で、たった一つの配役を演じるために特化した声なのである。

 

だから彼らが芸名を明かしたままで誰かを演じると、それは既に演じている上で誰かを二次的に演じることになる。つまり、二重の演技になってしまう。

 

だが実際に、『007』に出てくるスパイではあるまいし、タレントは二重スパイにもなれず、少なくとも無数のキャラを演じ分けている声優と比べれば見劣りせざるを得ない。

 

そういう点では、バーチャルユーチューバーという存在は非常に興味深い。「中の人」は声優か、それにかなり近い人々だが、少なくとも同じ「中の人」が複数のアバターに入っている事例はあまり聞かない。彼らこそ演技の本質は声優とほぼ同質だが、その研ぎ澄まされようはタレントのそれに近い。

 

ともかく、タレントを映画の吹替に起用する、声優の代役として使うというのは、陸上のスプリンターを野球選手として使うようなもの。

 

確かに「足が速い」ことで有利になれるのは陸上も野球も同じだが、その用途や方向性は全く違う。しかしながら、作品がちゃんとスプリンターを使う理由を考え、スプリンターでなければならないという場合であれば、彼らの「足の速さ」は遺憾なく発揮されるだろう、ということ。




山岡洋一が語る、ローカライズの責任

つまりだ、要は声優は偉大だし、だけどそれと同じぐらい、タレントやvtuberも「声のプロ」として偉大であり、そこに優劣など存在しないのである。

 

じゃ誰が悪いのかと言えば、まぁそりゃ配給会社やパブリッシャーだよねと。

 

なんでタレント起用するのって、そりゃその方が作品良くなるから……なんて建前で。宮崎駿はちゃんと理由があって庵野秀明を起用したけど、そもそも他国のクリエイターが作った他人の作品のキャストなんだから、ちゃんと彼らがどんな想いで作品を作ったか考えなきゃいけない。

 

で、99%の本音は「だってシロちゃんの方が数字取れるし」「だってお笑い芸人使ったら話題性もあるし、何なら芸人が自分の番組で無料で宣伝してくれるし」なんだよな。作品なんて知らん、売れたらええんじゃ!という意図で。(売れるとは言ってない)

 

もちろん、私はパブリッシャーの仕事も尊重している。彼らがいなければ、日本語で映画やゲームを楽しむことはままならず、彼らのローカライズ(翻訳)によって原作さえ超えるような傑作が生まれることもある。

 

(俺にとって『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティは、マイケルJフォックスであると同じぐらい、三ツ矢雄二なんだ!!)

 

けどな!!作品へのリスペクトを一切持たず、原作者がどんな想いでその台詞を考え、どんな情熱で俳優の演技を指導したか考えもせず、ただ数字を水増しするためだけにタレントを起用する奴ら、お前らにはマジで中指をくれてやるわ!

 

私が最も尊敬する翻訳者の一人、山岡洋一氏は『翻訳者の責任』という題で、ローカライズをすることの重大さについて説明している。

 

「だが、翻訳の醍醐味を味わえるのは、内容を理解し、それを母語で伝えることに全責任を負うときだけである。全責任を負わないのであれば、負えないのであ れば、翻訳ほどつまらない仕事はないといえるかもしれない。何も作らない。何も達成できない。完成品は作れない。中途半端な半製品を作って、肝心な点は他 人にお任せであれば、何の面白みもない。達成感もない。それでも収入が抜群に良ければ我慢するが、翻訳者の収入は嘆きの対象になっても、自慢の対象にはな るはずがない。」

 

山岡洋一 『翻訳者の責任』

 

山岡洋一氏はJ・S・ミル『自由論』やアダム・スミス『国富論』など古典の翻訳を行い、これらは今でも名訳と名高い。

 

そんな彼は翻訳を「命をかけた仕事」とし、国民全員に対して責任を追うものとした。外国の偉大な技術や文化を翻訳するとは、それほど重要な仕事なのだと。

 

そこで改めて問いたい。タレントを吹替に起用することに一体何の意味があるのかと。

 

ローカライズはあくまで誰かの表現をそのまま自国民へ伝えること。決して翻訳者の主義主張をするためのものでも、まして自分の趣味や経済的な要因を混ぜこむ行為ではない。

 

日本語しか聞き取れない人間のために、或いは日本語という美しい言語で再表現するために、遠い国でクリエイターが頭をギリギリと捻って出した血と汗の決勝を、全責任を背負って日本語に翻訳する。

 

ローカライズは本当に困難で、しかし尊ぶべき仕事である。

 

2K Japanは、少なくともこれまでその翻訳を実現してきた。

 

『Borderlands』シリーズでは好例の悪ノリやニッチなミームまでうまく翻訳していたし、『Spec Ops: The Line』も複雑な世界観や物語を精巧に再現し、『Bioshock: Infinite』で起用した藤原啓治の演技はファンとしてこの上ない配役だったと確信している。

www.youtube.com

 

それでも尚、本当に電脳少女シロを『Borderlands 3』のモズ役に起用する意味があったのか。それが開発のGearbox Softwareの意をくみ取ったものなのか(上っ面の付き合いでなく)。

 

「タレント吹替」なんてクソ文化がゲームに根付く前に、その真意が問われるべきだ。