★ 裁判官は悪魔のような最高裁事務総局が支配する「檻」の中の囚人である。だから良心を堅持しようとする裁判官は精神を病んでいく。
裁判所を最高裁事務総局が支配する「檻」とし、裁判官をその「収容所群島」の囚人とまで激烈に批判しています。同じ様な批判は、「司法権力の内幕」を著した森炎氏(元裁判官)が、裁判官を「司法囚人」、フーコーの「パノプティコン」の状態だと指摘されていたことと共通です。 (水口洋介談)
何回も繰り返して言うが、日本の司法、裁判に君臨している「司令塔」のような秘密組織がある。「守秘義務」「非公開」の原則のもとに、その実態は、闇に包まれている。
実は、今、話題の「検察審査会」を管轄しているのも、この組織「最高裁事務総局」である。
「検察審査会」は、検察の管理下ではなく、「最高裁事務総局」の管理下にある。したがって、「検察審査会スキャンダル」は、正確には「最高裁スキャンダル」と呼ぶべきなのである。
では、「最高裁事務総局」とは何か。
早くから「最高裁事務総局の正体」を厳しく追求してきた西島博之は、こう書いている。
《最高裁には二つの゛顔゛がある。最高裁長官および14人の最高裁判事によって、上告それた事件などの裁判を行う「裁判部門」の顔と、全国の裁判官や裁判所職員の人事や給与、予算の切り盛り、施設管理などを行なう、いわゆる「司法行政」としての顔である。》(西島博之「日本の司法をダメにする最高裁事務総局の正体」「週刊プレイボーイ」2009.10.19)
我々が問題にするのは、最高裁の二つの顔のうち、後者、つまり「司法行政」としての顔の方である。これが、いわゆる「最高裁事務総局」である。
そして、「最高裁事務総局」の役割については、こう書いている。
《最高裁の司法行政は本来、最高裁長官が総括する「櫻裁判官会議」が石決定機関であり、ここの議決によって進められることになっている。だが、その実務は庶務担当の「事務総局」が取り仕切っており、原案を事務総局が作成、裁判官会議はただそれを承認するだけといわれている。》(同上)
では、この「最高裁事務総局」の何が問題なのか。
実は、この「最高裁事務総局」が、全国の地裁や高裁に配置されている裁判官を支配し、コントロールしているからである。
したがって、裁判官たちは「裁判官の独立」を建前としながらも、実質的には、最高裁事務総局の顔色をうかがいながら判決を下すという、いわゆる「ヒラメ裁判官」となる。
では、最高裁事務総局は、何故、支配、コントロールが可能なのか。
それは、最高裁事務総局が、裁判官の人事、予算、給与、転勤・・・などの実権を握っているからだ。
最高裁事務総局の意向に逆らった判決を下すような裁判官は、最高裁事務総局に睨まれ、人事や給与で、仕返しされることになる。
多くの裁判官は、最高裁事務総局の顔色を伺い、最高裁事務総局の意向を先取りするかのような判決を下し続けることになる。
さらに、この最高裁事務総局には、エリート裁判官が勤務し、彼らが最高裁長官などに「出世」していくことになっている。
地裁から地裁へ、転々と転勤を繰り返すような裁判官が、最高裁判事や最高裁長官に出世することはない。
最高裁判事や最高裁長官のポストに上り詰めるのは、東京地裁など大都市の地裁勤務を経て、「最高裁事務総局」に「司法官僚」として勤務し、つまり裁判を行わない裁判官たちである。
「最高裁事務総局」に勤務する司法官僚たちは、裁判を行うことよりも、全国に散らばる地裁、高裁勤務の裁判官たちを管理、監督し、支配、コントロールするのが仕事である。
我妻栄も、新藤宗幸の『司法官僚』によると、こう言っていたそうである。
《最高裁事務総局につとめる人が出世する。これは厳然たる事実だ。私は、いろいろなところでいったが、それは司法省が裁判官の選任や任地の決定権を持っていた戦前の時代にも、陸上勤務と海上勤務というものがあった。
司法省につとめているものが陸上勤務。そして裁判所から裁判所へと流れ歩いているものは、海上勤務。そして陸上勤務は出世して、海上勤務は出世しない。》
海上勤務と陸上勤務。なるほど、わかりやすい。(続く)
阿修羅掲示板から転載、
絶望の裁判所 (講談社現代新書)
著 瀬木 比呂志
堕落した全体主義国家 >
囚人に裁かれる
我々の側から誰も声が上がらなかったら、何も起こらず、人々の期待を裏切る結果になってしまう。特に問題なのは、権力を持った者の沈黙による裏切り。彼らは、何が実際起きているかを見る事さえ拒否している。(ボブディラン)
国民は精神の収容所にいる囚人・精神病患者に裁かれるのです。この事実を知らずに済まそうとする私達の世代は、無垢の世代から裏切り者と見なされる事でしょう。
絶望の裁判所」瀬木比呂志著(エリート裁判官が目撃した司法荒廃、崩壊の黙示録であり、心ある国民、市民への警告である)
本文から抜粋要約
日本の裁判所は権力、政治家、大企業にとっての秩序を維持するのに非常に都合よく「民を愚かに保ち続け、支配し続ける」装置である。
裁判所にとって、当事者(あなた)は「処理」する「事件」の片隅に記載された「記号」にすぎない。私は、日本の裁判所、裁判官トップと多数派に深く失望、絶望している。p3~8
なぜアメリカ人は基本的に自由に生きているのに、自分を含む日本人には自由が無いのか? アメリカには「強い個人」が存在する。草の根民主主義の伝統と「司法権の独立」とが、アメリカ民主制を根元で支えている。日本にはその両方が無い。 p17
「こいつ(国会議員)、女のことで問題があるんだ。質問対策で女の事を週刊誌かテレビでリークしてやったらいいんじゃないか」こう発言した彼は、後に出世の階段を登りつめ、最高裁判事になった。こんな人物がトップ入りする裁判所組織にはダークサイドが存在するに違いない。 p20
国側(法務省)が裁判所に談合を申し入れ、多くの裁判官が国側が勝つように知恵を絞った。表に出さえしなければ大抵のことは許されるという感覚は裁判の自殺である。裁判所の不正は、さまざまな場所にさまざまな形で存在すると思われる。 p22~24
「元東大法学部長」で「商法、法哲学の学者」であった人間が最高裁長官になると米国大使と非公式会談をしたり、最高裁大法廷判決の内容と見通しを事前リークした。この学者にとって哲学、学問とは、一体何だったのか?しかし、これが日本の司法なのだ。 p25
東京地裁の所長代行判事(司法行政担当)と常置委員の選挙では、投票を「天の声」で指定される。そして、本来裁判官会議で決められるべき重要事項がこの委員会に委譲されている。こういった仕組みが最高裁判所事務総局による裁判官支配、統制の基盤になっている。 p26
「集団や規範の物神化」をする、「集団に対する帰属意識のかたまりのような日本人」。これは、日本の裁判官集団にも非常に良く当てはまる事柄である。 p28
なかば公けの席上で、最高裁判所の歴史における代表的な恥部であるブルーパージ(思想統制工作)に関わった事を大声で自慢する3名の判事たちがいた。彼らは、それを重要な「実績」として取り立てられたに違いなかった。 p32
現在の裁判所はもうそういうところまで落ちてしまっていることを、読者の方々にはご理解いただきたい。 p46
現在の裁判所に、ピラミッド型のキャリアシステムに、そして、それに馴染んでしまった多数派の裁判官たちに、制度の自浄作用を期待することは到底無理ではないか。 p48
企業であれば、上層部があまりに腐敗すれば業績に響くから、一定の自浄作用がはたらく。ところが、官僚組織にはこの自浄作用が期待できず、劣化、腐敗はとどまるところを知らない。 p50
裁判官にとって、当事者の名前など「記号」にすぎない。このような姿勢から法判断回避、和解の強要、令状や拘留状の甘すぎる発布、検察官追随姿勢による冤罪など、日本特有の問題が生じてくるのは、あまりにも当然の結果である。 p51
裁判官として実績があり、弁護士からもかなり評価されている人物であっても、「自分の意見を述べただけ」で見せしめ人事の対象にされた。事務総局による脅しの効果は絶大である。 p53
良識派は、ほとんどが地家裁所長、高裁裁判長止まりであり、高裁長官になる人はごくわずか、絶対に事務総長にはならない。長官の言うことなら何でも聴く、その靴の裏でも舐めるといった骨の髄からの司法官僚、役人でなければ、到底務まらない。 p54
最高裁判事になる人々は、ごくわずかな例外を除き、他人を踏み付け、なりふり構わず上をめざすことでのし上がってきた人々であり、裁判官本来のあるべき姿からは遠い行いをしてきた例が多い。 p63
日本の官僚的キャリアシステムの下では、すぐれた人材はほとんど育たない。すぐれた人物が最高裁判事になるのは、ラクダが針の穴を通るくらいに難しい事である。p65
裁判員制度導入の実質的な目的は、長らく劣勢にあった刑事系裁判官たちが系列の基盤を強化し、同時に人事権をも掌握しようと考えたことにある。これが「公然の秘密」。p67
刑事系裁判官は被疑者、被告人に対する偏見が強くなりがちである。被告人のことを語る際に、「奴ら」、「あいつら」といった言葉を用いる裁判官はかなりの数見かけた。p70
有罪無罪の別を実質的に決めているのが実際にはまずは検察官であって、裁判官はそれを審査する役目に過ぎない。このことは日本の刑事司法の特色として、海外の学者が必ず言及する事柄である。p71
現在の裁判所は、竹崎長官が主導した露骨、極端な情実人事によって、「毒」が全身に回った状態となっており、もはやこのキャリアシステムには自浄作用を期待できない。
裁判官の世界は、異論を許さない一種の全体主義体制であり、もしも公式見解と異なった意見を何事についてであるにせよ、抱いているのならば、もはや居場所がないような体制である。p82
日本の裁判所の最も目立った特徴は、上意下達のピラミッド型ヒエラルヒーであり、そのトップ、最高裁長官の主な仕事は裁判官を支配、統制することである。
局長にも裁量権はほとんどない、長官の意向に黙って従う「組織の大きな歯車」にすぎない。 p84,86
日本型キャリアシステムは、構成員に熾烈な出世競争を行わせ、飴と鞭を使い分けて、裁判官たちから、独立性を事実上ほぼ完全に近いと言ってもよいほどに奪う。結果、裁判官は制度に屈従する精神的奴隷と化している。 p96
裁判官の再任審査を行う委員会には、人事評価の二重帳簿システムがある。これによって、事務総局人事局は、評価権者に微妙なサインを送る事で、みずから手を汚すことなく、特定の裁判官の再任を拒否する事が可能になっている。 p97
司法研修所は事務総局人事局の出先である。上司の顔色をうかがうことに秀でたイエスマンが教官に取り立てられる例が多く、新任判事補の選任も客観性を欠いていて裁判官の質の低下が続いている。 p101~107
「開かれた裁判所」と言うイメージは事務総局が関与して「作られた」ものである。裁判所の取材に当たるジャーナリストは事務総局広報課の下請けに等しい報道をしていないかについては、よくよく内省していただきたいものである。 p110
「すべて裁判官は、最高裁と事務総局に従属してその職権を行い、もっぱら組織のおきてとガイドラインによって拘束される」ことになっており、憲法は他の輝かしい条文と共に、完全に愚弄され、踏みにじられている。裁判官は精神的収容所の囚人である。 p114
裁判所の根本問題は、内に対しては理念なき絶対的統制、外に対しては可能な範囲での迎合、さらに、情実人事によってその意思を貫徹するという、醜悪なシステムであること。これは良識派裁判官の善意によって克服できる性質のものではない。 p118
法理論は、結論正当化の理屈という性格を必ず含んでいる。この欠陥を見抜くには、それを正確かつ簡潔に要約するとともに、日常的な言葉に翻訳してみる事が大切である。 p122
自由や権利については、「誰か」のそれが今日侵されたなら、「明日は我が身」である事を認知しておかねばならない。法律専門家の眼からみると、この意味では、日本の国民、市民は、がけっぷちの空き地で無邪気に遊んでいる子供達のように見える。 p124
私が衝撃を受けたのは、ポスティング問題の判決文を見ても、憲法上の論点につき判事達の誰一人として本気で考慮した形跡がなかったことである。結論はおろか、まともに憲法問題に取り組んで判断しようという姿勢すらないのだ。 p124
憲法秩序が条約に対して優位にあることは憲法学の通説であり、憲法上の基本的人権、人格権の侵害に関わる事柄について国には義務がある。しかし果敢な判断を行った裁判官は、おそらく無傷ではいられず、いつどこでどのような報復を受けるかわからない。 p129
大多数の裁判官は、真摯に事案に対峙しようという心構えが乏しく、当事者ではなく、上級審にみせるため、あるいは自己満足のために判決を書いていて、ただ先例に追随する、棄却、却下、和解などの道を選ぶ。 p132
裁判官が和解に固執するのには理由がある。一つには早く事件を処理したいからであり、もう一つの理由は、判決を書きたくないから。書くのが面倒であり、自分の人事評価を下げる原因を避けたいなど、卑屈な動機に基づく場合が一般的である。 p136、137
国民、市民の自由と権利が(国家権力によって)侵害されていくときに踏みとどまってくれることは、(大多数であるところの)追随型の裁判官にはまず期待できない。 p141
現在の裁判所、裁判官は、司法の役割に関する明確で民主的なヴィジョンが不十分であり、考え抜かれた良心的、良識的な判決はまれにしか存在しない。 p144
日本の刑事司法の問題点は、それが徹底して社会防衛に重点を置いており、また、徹底して検察官主導であって、被疑者、被告人の人権には無関心であり、したがって、冤罪を生みやすい構造になっていることにある。 p145
「もしも、痴漢冤罪に巻き込まれそうになったら、相手女性に名刺を渡してともかくその場を立ち去ること(立ち去れば身柄拘束に逮捕状が必要になる)現行犯逮捕、勾留されてしまったらおしまいだ」 p147
刑事司法の現実は、普通は処罰されることのない形式的な行政法規違反等をとらえて、国家や権力者に都合の悪い人物を逮捕勾留し、必要のない捜索差し押さえでそのプライヴァシーを破壊し、決定的なダメージを与える事が可能であり、これが陰謀の温床になりうる。p147
刑事系裁判官のモラルは、一般の裁判官と比べても低く、被告人、弁護士、裁判員が見ていない場所で検察官と話を通じ合わせているような事態も十分に考えうるのである。 p148
裁判員制度は裁判所の不純な動機によって作られた制度であるため、無駄やムリが多い。量刑を決めるだけの自白事件まで対象にしたり、裁判員9名の中に裁判官が3名も居たり、非常識に守秘義務の範囲が広すぎたりしている。 p150~155
「裁判官多忙」というスローガンは非常に誇張されている。負担は減っており、暇なも場合も多い。よい裁判官は忙しくても一定の質を保った裁判をしているし、よくない裁判官はたとえ暇でもおざなりな裁判をしている。 p163
私は、日本の国民、市民は裁判所が司法本来のあるべき力を十分に発揮する様を、まだ、本当の意味では、一度としてみたことがないのではないかと考える。p164
「裁判官は判決の内容によって、左遷されるなどの不利益を被ることがあるのではないか」これが法科大学院学生や日本の知識人多数の一般的な認識、すくなくとも疑問である。 p166
裁判所組織の収容所的な性格と構造から、自殺、ノイローゼ、うつ状態がかなりある。裁判官の子供にも登校拒否、引きこもり、自殺などがあり、スパルタ式教育で死亡事故を出した「戸塚ヨットスクール」にも裁判官の子弟が複数いた。
p172、190
転載終了、
日本は官僚ファシズムに汚染された全体主義国家であり、自公の政治屋は彼らの隷(しもべ)にしか過ぎない。民主主義は完全に崩壊しているという事だ。 (どんどん和尚)
●全体主義(ぜんたいしゅぎ、英語: totalitarianism、イタリア語: totalitarismo)とは、個人の全ては全体に従属すべきとする思想または政治体制の1つである。
この体制を採用する国家は、通常1つの個人や党派または階級によって支配され、その権威には制限が無く、公私を問わず国民生活の全ての側面に対して可能な限り規制を加えるように努める
広く公布された政治思想の、結合である。
全体主義の体制や運動は、国家が管理するマスメディアによる網羅的なプロパガンダや、しばしば一党制、計画経済、言論の規制や制限、大規模な監視、国家暴力の広範な使用などによって政治権力を維持する。 (ウィキペディアから抜粋)
冤罪の温床、最高裁事務総局を解体すべし!