知られざる天皇家の「闇」をあぶり出した、ある女官の手記

明治大正期の貴重な証言
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文/原 武史(放送大学教授)

 天皇制研究の「壁」

近代天皇制研究の最大の難点は、御製(ぎょせい)と呼ばれる和歌を除いて、天皇や皇后(皇太后)が書いたものがほとんど公開されていないことである。

確かに最近では、『明治天皇紀』に続いて『昭憲皇太后実録』や『昭和天皇実録』が刊行されるなど、研究環境が整ってきているように見えるが、こうした資料は宮内省や宮内庁が編修しており、基本的に天皇や皇后の生涯を顕彰するという政治的意図が込められていることに注意しなければならない。

つまり、マイナスの情報ははじめから遮断されているということだ。

2002年から11年にかけて公開された「大正天皇実録」も、学業成績や病気の詳細な診断が書かれた部分については黒塗りされていて見ることができない。

したがって、公式の資料だけを見ていても、天皇や皇后の実像に迫るには限界がある。

むしろそれらが取り上げない宮中関係者の私的な回想録のなかにこそ、生身の人間性を剝き出しにした天皇や皇后の等身大の姿が描かれている場合があるのだ。

男子禁制の空間

1888(明治21)年10月に完成し、1945(昭和20)年5月の空襲で焼失した宮殿(明治宮殿)は、大きく分けて「表」と、「御内儀」と呼ばれる「奥」に分かれていた。前者は天皇が政務を行う公的空間を、後者は天皇や皇后が生活する私的空間を意味した。

一般国民はもちろん、天皇に面会を許された政治家や軍人すら見ることのできない天皇や皇后の人間像があらわになるのは、言うまでもなく後者のほうであった。

そして後者の背後には、皇后統轄のもと、多くの女官が住み込む「局(つぼね)」(女官局)と呼ばれる、男子禁制を原則とする空間があった(『女官 明治宮中出仕の記』22頁)。

実はこの女官たちこそ、侍従や侍医などとともに生身の天皇や皇后と日常的に接することができたという意味で、特権的な人々であった。

しかし彼女らは「すべて宮中内のことはどんな些細な事柄も、親兄弟にさえ話してはならないのですよ」(同17頁)と言われていたため、情報が外に漏れることはずっとなかった。

皇太子明仁(現天皇)と正田美智子(現皇后)が結婚した翌年に当たる1960(昭和35)年に公刊された本書(『女官 明治宮中出仕の記』)は、このタブーを初めて破り、一人の元女官がそれまで誰も知らなかった近代の天皇や皇后に関するエピソードを生々しく記した点で、きわめて衝撃的であった。