2019年06月22日

がんばって生きたいというきもちせいりのために
閲覧は非推奨で風呂でたら記事整理するけど、
1人の人間の足掻いた人生を一気に見るということに
興味がある人だけみてみてください
公開理由は冒頭にちょっとある通りほんとにわからない
(元々非公開で書いた日記)
丸一日うんこやったからこっから上がるぞ!!!!!!







かなり長いし適当な羅列。
えぐい話しも多い。
どうせ自撮りとかしてない自分の像がいつまでもバーチャルでしかない人間だから、
創作と思ってみてもらえればと思って敢えて公開する。
なにを求めて公開するかもわからない。
辛かったねの言葉とか同情はいらない。
救いを求めているわけではない。結局自己嫌悪にしかならない。
もうそういう時期は過ぎてるし、辛かったのは自分が判り切ってるので。
第一自分よりずっと辛い体験していても話せないで黙っている人のが
圧倒的に多い。私は実像はここに存在しなくても、
実像というか本体が人に話せなくても
ぬまたちひろとして架空の自伝を語れる場所があるだけ救い。
私はただなにもかもがわからなくなってきて、気持ちを整理したい。
拍手で質問されたときには素直に返していたけど(マシュマロと同じ感覚で)
改めて並べると心の底から惨めで笑える。
あと当然全部話しているわけじゃない話していない事のが多い
一部しかも覚えていることだけだし、
しんどい内容を一応人が見る前提もおいて簡単に描いている部分も大きい


産まれてからおぼえてること
母方のじいちゃんが死ぬ
じいちゃん写真みるとものすごいイケメン。病床のインテリだったらしい
子どもが女(三姉妹)、孫も女の子ばっかりで優しい人だった
この頃から母方のばあちゃんちに入り浸っていた。
ばあちゃんは厳しいけど孫には優しい人だった。
幼稚園のとき遠視でごっついメガネ掛けてメガネザルと弄られる
物心ついたときから父親のアルコール中毒の醜態が本当にイヤだった。
5さいのとき福島のアウシュビッツ博物館いって死ぬということを
初めてまじまじ考えた 
父親に車で吐いたの怒られて車から下ろされ泣き泣き知らない土地を歩く。
母親が父親と大げんかをしてやっと私をのせて帰宅した。
このくらいしか記憶がない。
小学校1年のときの担任にみんな一緒にビンタされる
たしか理由は床に給食のパンが落ちていたかなんかで
誰がやったかとクラス全員に問われたときみんな黙ってたので
みんなビンタされた たしか一年以内にもう一回くらい全員ビンタされた
小2のときの臨時担任の先生と中2まで文通した 救いだった
この頃家に父親がいないせいで父方の祖母の母親虐めがひどくなり
相当精神やられているのを理解したので
弟と一緒に祖母を無視することをはじめた クソガキ
小2のとき初めて倒れた 
行進の練習中に意識なくなった。初めてのぐらっとした感覚はよく覚えてる
目を閉じたときにフィルムの色合いみたいなのが目を焦がすみたいに覆う
そのうち全身が焼かれるようになる。
原因はわからないけど過呼吸だか貧血だかいわれた
小1か2のとき大量のエロ本をみつけた
感動した おっぱいがいっぱいみれて嬉しくて、家の水仙の草の下に拾った本を
隠した 親にすぐバレてゴミを集めたえらいでしょと苦し紛れのいいわけ話した
小2のとき1年生のときから飼っていた初めて家族になった猫が交通事故で亡くなった
愛犬が何者かに盗まれた?のもショックだったが、
やっぱり死という現実を受け入れるのは難儀だった
どうして死ぬんだろうと考えるのはとても怖かったのをよく覚えている
小3のとき原稿用紙に小説書くのにハマった
小4のとき友だちの長編漫画を読ませてもらって感動してにわかマンガを描きたくなった
でもカービィとかキティちゃんとかしか描けなかったクソガキだったから諦めた
この頃服の脱ぎぐせがすごかったらしいがもしかしたら小3かも
新しい服を帰り道で脱ぎ捨てて帰ってしまうらしく母親にとても怒られた
はじめて変質者にあった
図書室図書館でガキ相手にちんこの勃起をみせたあと
オナニーして追いかけてくる知的障害者だった。
ジャイアンツのぼうしを被っていて、背が大きかった。
背中越しにちんこ擦られた恐怖がいまだに半端ない。
おじいさんくらいに見えるけどおそらく父親っぽい人が隣に何時も居て、
わたしをじっと見ながら助けないでそのままで居たのが悔しかった。
大きくなって、そいつには隣にいる助けてくれる父親がいるのに
私にはいないことを理解したときに本当に悔しくてたまらなくなった。
ソレ以降、そいつに顔を覚えられ中1くらいまで町内で出会う度追いかけられ
一時期そいつに限らずジャイアンツのぼうし見る度に過呼吸みたいになった。
ほんとに立てなくてはっはっってなるの。ただ体が抵抗してるの。
図書館というか大好きな外国文学コーナーにもいけなくなった。
御陰で高校以降隣町の図書館いくの覚えるまで、本に触れられなかった。
中1以降遊びにいくのは町内じゃなく45分掛けてとなりの町のゲーセンに行った。
小5のときにプールの授業中にパンツを盗まれた
仕方ないのでノーパンで帰ったら母親にブちぎれられた
(服の脱ぎ癖だと思われた)ロリコンの今、間違いなく理解したが、
汚い話しだが、私のパンツは当時生理になる手前でおりもので汚れていたので
同級生じゃなく教師か侵入した変質者が盗んだんだと思う。
わざわざ名前のかいた水泳バッグにしまっていたから、
選んで盗んだと思うと腹が立つ。
ソレ以降パンツ汚れたものが盗まれたらとても恥ずかしいという思いが強く
クロッチの汚れに神経質になった。どうでもいいはなしすぎる。
すでにその頃女の群れが苦手で男子と仲が良かったのだが
よく遊ぶ女友だちも溢れた愛情欠落児童の2人くらししかいなかった
自分の中で現実の女の子は辛い生き物すぎて、
メガミマガジンのピンナップの美少女が救いだった。この辺から
ロリコンが酷くなる(当時はお姉さんですが…)。
絵の中の女の子は生理みたいな汚いものもないし、みんな可愛くて
人の悪口を言わなくて本当に憧れだった。
その後小6のとき女子のリーダー格にブスだしリンスインシャンプーだし
洗顔料で洗顔してないし女として終わってると言われむかついたので
完全に男子グループに所属して一緒にゲームの話ししたり遊戯王したり
エロマンガ読みまくるようになった。
そんな学校の帰り道、男子と2人で帰っていたら口の中に手を突っ込まれた
相手は興奮していてほっぺの裏に爪を立てられて痛いと泣いたらやめた
それ以上なにもなかったし自分もなにも感じなかった
この時期に祖母が亡くなり母親がやっと気楽になる。
それまでは母親が虐められた反動で当たられることもすごかったし
自分もやっと家の中が落ち着くと思った。
ただ基本母親は厳しかったのと私がアホだったので仲良く無かった。
父親は海外にいるほうが長かった。
あと、たしか従姉妹の父親が亡くなったのもこの時期だった。
肺がんだった。かわいそうだった。人がどんどん死ぬ事はやりきれなかった。
小6のとき初めてシャワーでオナニーをした。気持ちよかったけど刺激が強過ぎて
痛みもあったのであまり頻繁にやらなかった。
死んだおじさんの遺品を整理して従姉妹とPC88のエロゲーをやりまくった。
男の子にむりやりエロゲーをやらせて泣かせたのを覚えてる。
すごく悪い事の懺悔だが、死んだおじさんの名前を勝手に使って
従姉妹とミスフルの凪さんのエロ同人をとらのあな通販で買った。
これは中1なのだが、親戚のおじさんにバレて怒られた。
中学になるとまた暴力教師に出会ってメガネを割られるほど殴られ正座させられた。
友だちは骨折させられてたけど誰も何も言わなかった、そういう時代だった
(もう2000年代だったけど)
その後他の教師に口は災いのもとだから真面目に対面で会話しようとするなと
言われた。大人の不信感がすごかった。
弟の具合が悪いことが増えた。学校を欠席する回数が増えた。
中1のとき不在が多く家にいれば母親と喧嘩する父親への反抗から
父親の貯金箱から数万盗んですぐバレた。
当然罵倒され怒られ家族全員の間1人正座して過ごした。
それでも懲りないで大人に反抗を繰り返して家出までいかないけど
電車賃握りしめて遠くに行った
24歳のショップのお姉さんと友だちになった。きれいな人だった。
プリクラをもらてすごく喜んでた記憶がある。
中2のときゲーセンで小6の従姉妹と遊んでいる最中にクソみたいな変質者に会った
胸を正面から揉んで遊びに行こうとずっと言うので気もち悪くて泣きそうだったが
従姉妹が声掛けてくれたのでダッシュで逃げた。
また前歩いている人に家の目の前で唾と精液と思われるもの掛けられた。
泣きながら家に帰りなんで?なんで大人はこういうことをする?と苦しんだ。
辛くて仕方ないけど、どこの怒りを打つけていいか判らなかった。
とにかく家庭の鬱憤、アカの他人の暴力で深く傷ついたので、
唯一で来た事が、部屋の壁に死ね、と書き綴ることだった。
ひたすら叫びのように死ねと描き続けたあとガムテープで隠した。
この頃、ただでさえブスだが女っぽい格好をすることにすごく抵抗が湧くいていた
思春期の葛藤が酷くなり、身なりが判り易い陰キャになった
でもそうすると、痴漢にもあいにくくなったので、
髪の毛もぼさぼさ男の子みたいな服、当時は化粧という概念ないが
いまでも化粧がわからないの含め薄いのは、この頃からずっと続いている。
ブスがブスのままで笑える
弟が正式に白血病と診断されて長い入院生活が始まった
母親はほとんど病院なので、父親と2人で暮らすハメになったが
会話ができず、父親もそのうち朝5時に家を出てしまうようになる。
父親がいない朝5時から夜7時の間だけ家で動けるもソレ以外は動けなくなり
大概ばあちゃんちか従姉妹のうちに家出するようになった。
中3からは友だちの家にもお世話になったが、とにかく
父親は料理ができず全て総菜だったのと昔から一緒にごはん食べなかったことで
私が中々食事の席に同席しなかったことに腹を立てた父親が
一切食事を用意しなくなったのでぼちぼち自分で作るようになる
この頃の食事で覚えているのは父親が作ったみそ汁を頑張って飲もうとしても
精神的にしんどいというか気もち悪くて飲めなくて
泣き泣き庭に穴を掘って食べ物無駄にしてごめんなさいといって埋めた。
この頃から今に至るまで食事は1人で基本取っているが
高校2年で数年ぶりに親と同じ席で食事を食べたとき、人に食べているところを
見られるのが怖くなり、摂食障害のきかっけみたいになった(早く席を立ちたくて
口に全部食べ物入れて飲み込まずトイレを往復し嘔吐していた)。
母親の料理もなぜかすごくまずく感じた。しんどかった。だから朝4時におきて
弁当作って顔あわせない様に家出てたのが高校。
大概ばあちゃんちに居たので言う程実家で生活してない。
高大と便所飯ならぬ空き教室飯してたのがなつかしいきっかけである
この辺から人生が露骨に転落するのだが
中2のときにゲーセンでゲームしている友だち繋がりでなんとなく彼氏ができた。
特に最初はなにもなく携帯でメールやりとりしている友だちだったが
相手が19高専生だから大人相手に対等に付き合っている(実際は対等でもなんでもない)
という謎の自信が沸いてよく懐いた結果だった。
言葉悪く言えば単純に自分の自信情報として相手をいいように利用していた。
ただ変質者の出会いで性的なアプローチを嫌悪していたので
セックスしようと言われても初めは無理だったのでしばらく電話越しのオナニーに付き合ったが
子供相手にそういうことする大人が気もち悪過ぎて無理だった。
そのうちに相手の贈り物が酷くなったのと
自分は上のようにあくまで調子に乗ってスキとかいう感情もよくわからないままに
相手を利用していたので、罪悪感を感じ別れを切り出して一悶着あったが
なんとか別れた。
その頃は男子を揶揄うことを覚えた。
男の子ってこういうもんなんだという味を占めておっぱい触らしてあげるを
条件に釣ると簡単に釣れて、目の前でおあずけくらって真剣な目で待ってるのを
見ると笑いが出た。本当に自分最低、バカじゃねーの。
そのうちに同じようなゲーセンのともだちとまた付き合うことになって
そいつは21だったが、ロリコンで容赦なかったし、
大人にとって、ブスでも中学生のガキが、若い女がいかに価値がある生き物かと理解した。
同時に色々諦めついて来たからセックスした。ただ痛かった。
セックスしてる最中は親もこういうことしたのかと考え吐きそうになった。
いままで抱いていた、嫌悪感あっても、どこか抱く性への憧れみたいなものは
存外期待はずれだった。
小学校から問題起こしてた変わってた一年下の女の子の父親の暴力が酷い話しを
相談され、答えどうしたらいいかわからずに、結局その子と中学の時
つるむことでくらいしか助けてあげられなかった。
その子も家出して年の離れた彼氏に助けてもらっていたようだ。
だがお姉ちゃんは妊娠していたらしく、もしかしたら大概身体暴力と
セットに成り易い性虐待も存在してたかもしれない。
その頃からすでに子宮膣が人並み比べて未熟だったので(気付いたのはあとづけだが)
とにかく穴を拡張するためにオナニーをしたら
二回目のセックスでやっと中間まで入って若干意識が跳んだ。中イキだと思う。
オナニーはすごいと思ったけど弟が死んだと同時にいけないことだからと
思ってやめた。20過ぎるまではずっとしなかった。
中3のときゲーセンで援交おじさん教師に出会ったが怖いので普通に逃げた
従姉妹は金貰って胸触らせていた。この頃父親の居ない従姉妹も
荒れ始め二週間くらい家出したりやりたいほうだいだったので心配になった。
自分は弟のこと等であまり従姉妹を構ってあげることもできずに申し訳なかった。
ただ中3くらいのときは漠然とした不安は大きかったけど、
自分が他のクラスメイトがしていない経験している部分に酔っていたのも大きくて
なんだが一番調子に乗っていた気がする。
従姉妹みたいに煙草や万引きとか物理的な悪い事は出来る程勇気なかったけど、
中2まで抱いていた世の中の不満とか大人への不信とかを、
自分の若さが凌駕しているみたいな実感があった。ガキですね。
高校受かったあたりで付き合っていた男が高校の先輩に寝取られて別れた。
高校に入った時期くらいに、治るはずだった弟が再発して一気にしんどくなった
元々7割治ると言われていたので、びっくりした。
骨髄移植と幹細胞移植のドナーになるために通院が始まった。
高校の三分の一くらいは休んだ。
この頃は父親との関係が劣悪でほぼばあちゃんちと友だちの家にいた。
父親にお前が死ねばいいといわれたとき人生で一度きりのリストカットをした
ただカミソリが見つからずボールペンでやったので、傷痕はえぐれたけど
深くはならなくてすぐ血止まったが、全然死ぬ傾向もないので
どうしていいかわからないので従姉妹の母である叔母にこっそり電話して
止血のやり方とか相談して(母親には話したくないので)なんとかやり過ごした。
もう父親との関係は諦めようと思って、それから弟が死ぬまで一切付き合わなかった
家出してた友だちの家で出会った友だちの従兄弟の中3に告白されたので
ちょっとだけ付き合ったが相手が初めての女のせいか中学卒業したら
ラーメン屋になって結婚すると言われてドン引きしたので即別れた。
クリスマス手前に幹細胞移植を行った。
私の体の血液を一度全部抜いて細胞濾過して移植するみたいなやつで
一日掛けて血液循環しながらやる簡単な手術。
ただ血液を抜くので意識が昏睡するので、怖くて情けなく泣いてしまった。
朦朧とした中母親が弟にお姉ちゃんがクリスマスプレゼントくれたよ、と
涙ぐんでいるような様子で喜んでいたことが心から嬉しかった。
自分が初めて母親と弟に心から喜ばれた気がして溜まらなかった。
でもそのあと結局弟が13で亡くなった。移植から一ヶ月ないくらいだった。
母親が呼吸器を外すの許可した。
母親はすごいと思った。最期泣かなかったからだ。
弟が亡くなったとき父親は家でいつものように酒を飲んでいたので
動けなくて叔母が本気で怒った記憶が印象深い。
弟の遺体車に乗せて高速走っているとき、助手席で遠くのテールライトを
みていて、なんとなく魂とかってあんなかんじか?と考えていたのを覚えている
お通夜の最中、全然普段関わらない父方の親戚のおばさんが大げさに私を抱きしめて
辛かったねぇと大声で話かけた、あまりにも白々しくてすごく萎えた。
ドラマのお通夜みたいなお通夜で、同級生が泣き崩れているのをみて
弟は二年もまともに学校行ってなくても人格あってすごいなと思った。
(入学していた学校では病気で休みというのも濁してもらっていたし)
一度も着れなかった学生服を母親が納棺のときに持って来て入れてあげていた。
私は勿体ないと思った。でもその後、納骨のときに弟に当時大好きだったGBAや
エグゼとかFEのソフトを一緒にいれるのは自分のお願いでもあった。
人間の価値観はよくわからない。
弟を燃やしているとき、食事の席の瓶ジュースビールの蓋を集めまくってた
なんとなく祖母の葬式の席で集めた昔を思い出したのかもしれない。
あっという間に葬式が済んで、何事も無かったかのように自分の高校生活が
再開したけど、自分の中で、ぽっかり穴が開いてた。
哀しいとかもよくわからないままにただ空っぽの弟の部屋があって
机の上に弟だったものがある。
母親も父親も家にいる。でも弟はいない、いままでみたいに病院とかじゃなく
家に弟だったものはいるけど、弟はもういないのだ。
そのことを理解するまでには長い時間がかかり、
そして自分がいままでどれだけ愚かなことをして生きて来たかを理解した。
自分は両親に愛されていない、と考え、勝手に道を外れ、
好き勝手やって、死ねと言われた人間が生き残って、
がんばれ、きっと治るよ、みんな待っているよと一心に言われたまだ幼い
弟があっさり亡くなったのに、自分はなにをやってきたんだろうと
本当に己を恥じて、当時の学校以外の交友関係を一度全て終わりにして、
いままでゲームとか享楽に興じてきたことも全て断ち切った。
それが高2からだった。適当に受けた学校だったけど一応進学高で
ひたすら勉強して、成績はかなり上がり大学も早めに意識した。
あと成績がよくしたかったのはバイトをしたかったので
(一応進学校でバイトは成績優秀者のみの許可制だった)、
必死にやった。バイトをしてお金を溜めて自立したかった。
ただ結局塾と大学費用で当時のバイト代は全部消えてしまい自立は大分先の話しになった。
ばあちゃんが弟の死がショックだったのか、すごく口数が減り
食も細くなり病弱になった。
のちに東京に居た大学時代、あまり会えなくてたまに帰る度
17歳で亡くなったばあちゃんのお姉さんに間違えられることが増えた
間違えられなくてもお前は誰だと言われてとても苦しかった。
前述したけど摂食障害がひどくなり体重が39kgを切り担任に心配された。
スクールカウンセラーとか紹介されたが眉唾というよりも、
弟とそれにまつわる通院期間のことをばらされたくなくて口止めした当時の担任に
あっけなくクラス全員にばらされ御涙頂戴の舞台を作られたことが
本当に悔しくて、高1の休みを増やす原因でもあったため、
元々大人に抱いていた不信感がまだまだ強かった。
まともに学校に通い始めた高2からまた変質者にたくさん会った。
通学時の裸オナニーおじさんとかバスの隣の席で見抜きじゃないがシコってくる
若いお兄さんとか半年間体験した盗撮おじさんとか色々面倒くさかったが
大分大人になっていたので、諦めはついてきた。
とくに半年付き纏われた盗撮おじさんはにわか気付いていたが、
自分が近くのスーパーに現れる度にたかが背中くっついてスカートの中撮影されるくらいなら
実害ないしと思って我慢してしまったのもある、
その後勇気出して相談しにいったら他の子に通報された
おじさんが逮捕されたというオチだった
でもわたしは何度もいうようにブスだしやせ形のチビだったので
色気もなく、学校の先生に変質者に付き纏われて遅刻したときに
正直に話しても、お前みたいな芋が会うわけないだろと一喝されたことがあり
やはり他人に話すのは自分が辛いと思い込む節があり、
30になる今まではほぼ黙りこくっていた。
この頃、中学1年からずっと親友だった美少女の友だちが私が紹介した
幼馴染みと付き合い処女捨てた。朝一番に昨日処女捨てたと私に嬉しそうに話した。
私は良かったね、と盛り上がりその子は私に早く彼氏作って捨てなよwみたいな
やりとりをして、なんとなく、罪悪感みたいなものを感じた。
ずっとその子は自分のことを私に話すけど、私から話したことはほぼなく
昔から自分が人に自分のこと話せない愚かさを感じ始めるきっかけでもあった。
もちろん強制でも義務でもないが、その度に鬱蒼とした気持ちになった。
高3のとき、どうしても昔抱いた絵の夢(漫画家)を捨てきれなくなり
親に絵をやりたいと相談するも猛反発され、画塾いって大学に受かったら
認めてやってもいいといわれ急に準備する。
ただやはり1年そこらでは絵はできないので、見事に記念受験になり落ちる。
お金もないので美大以外受けなかったためセンターで拾ってもらった
適当な学校に適当に入ったが、親には散々安牌ルートを捨てたとを
20代半ばまで責め立てられた。
18から一人暮らししてやっと心が落ち着くと思ったら、
逆にドンドン摂食障害が悪化し32kgになる。
仕方ないので精神科にいき診察、躁鬱といわれ治療を受ける。
この頃、小2のときから一年に2、3回倒れていた発作なのか貧血なのかが
悪化し、救急車を度々呼ばれるハメになり、
さすがにメンタルをなんとかしなくてはいけないと自分でも自覚したが、
カウンセリングは当たり前のことしかやらないし、
体中調べられてもなにもわからず、健康といわれるばかりで、
地元に帰る24あたりで通院はやめてしまった。
結局自分がなんなのかはよくわからずじまいだ。
ただ向精神薬の御陰で体重は倍増して、50kgを越えるほど太ったので
気は楽になったしなんだか元気にはなった。
根本の不安は取れず、2人バイト先の人と声掛けられるままに
付き合ったりしたがなんとなく終わるだけで、なにか生き甲斐をみつけようと
バイトが終わると都内の古本喫茶に入り浸って、ずっと本を読み耽った。
18から24まではとにかく本と映画、音楽が救いだった。
学校の仏文学の先生とデートを重ねたのも文学のおかげだったが、別に特に
深い仲にもならずいまでいうオタクのやりとりみたいな程度で終わった。
ただ、19のときのこの体験が初めてマトモに淡い恋心に近い尊敬を抱いたような気は
いまではしている。自分と違う世界の人間だったと思った。
ただ結果的にそういう人間に抱く尊敬は肉体関係等に染まりたくないので
早く終わってよかったと思う。
金銭面でバイトに没頭して、大学は一年休学を取ったが、23のとき親と就職の関係で
揉めて、いままで授業料だけは払ってもらっていたものの、それを打ち切る
相談になり、結局大学を卒業間近で辞めた。卒業制作費用が出せなかったのもある。
教職もお金の関係で途中で諦めたし、
全部お金のことを親と揉めたくなくて自発的にで諦めてしまった結果
挫折ばかりになりあとから結果だけを求めていた親と口論になってばかりの
悔しい時代だった。19からは毎月バイトで12~15万稼いで生活費に充ててたが
仕送りがないため(授業料は申告すれば出してもらっていたので
そこの差額を少し充てがえたので+はある)限界のような生活で笑える。
すぐに当時のバイト先で就職目指して働いたが、過労なのかはたまた極端な
ストレスなのがぶっ倒れ、機転効かせたというか迷惑かけたので当たり前かも
しれないが、上司が実家に電話をしてしまい、次の年に強制送還となった。
そこから惨めな地元ブラック企業でただ家に金入れるのと最低限生きるための
お金稼ぐだけの時期になる。だがその御陰でオタクをマンキツしたのあるが。
この辺はなんも面白みがない、ただの努力期間。
両親には罵倒され、田舎故に出戻りを噂さればかにされ、家から出れずにネットだけが
友だちみたいな状況(でもツイッターもピクシブもやっていない)。
仕事が一ヶ月フル稼働のブラックなので休みも一ヶ月5日くらいな分鬱が強まり
オナニーに逃げたりも出来なかったから、すごく暗い。
自分が唯一心を許し、甘えていたばあちゃんが亡くなった。
本当に辛かったのに母親との喧嘩が激しく葬式にも満足に出れなかった。
この直後から丸4年、5年くらい母親と一言も会話をしなかった。
このブログの最初あたりはそんな時期。
28のおわりまで必死に働いて貯金作って、やっと仕事を辞めた。
そうして創作サークルとして再出発して3年、漫画家デビューして1年、もうすぐ2年の
今に至る。ここ1年は性依存との闘いでもある。
去年同業の作家にセクハラをされた。グループ飲み会のあと忘れ物とりにいった私を
待ち伏せされた。すごく尊敬していた人だったから辛かった。
その頃から昔みたいに性依存が酷くなった。がむしゃらにセックスした。
声掛けられた人全員とした。たまに彼女いない男の人で遊びたい人を教えてと
頼んだ人が自らセックスするとしゃしゃりでたとき心の底で軽蔑した。
気もち悪い。そういう女とセックスしたくないとかいってたくせに。
結局みんな口だけなんだよなぁそういうこと繰り返されるせいか
性の嫌悪である日突然まったくセックスが出来なくなり、
これもこれでいかんだろうと思ったので
少しでもセックスに対して対等なコミュニケーションになるように、
楽しさ、安全さを意識しようとがんばった。そして自分の自暴自棄を
資料的価値にまで昇華したいと願った。で今がある。
そうして、今年に入りまた過去の出来事がツイッター凍結と共にぶり返し
同業にさらに性的関与を求められるトラブルがあったり、
結果的には良い方向だけど、がん検診ひっかかりなど一気に辛い事がきた。
なんともいえない愚かな人間の人生。
そしていまは7年前、男出来た事で関係自然に切れたと思ってた中高10年の付き合いの
元親友が離婚したことで、一時の道具として過剰に依存されている
今だけとわかっているのに相手が憧れで好きだった気持ちが捨てきれず助けたいみたいな
純粋な気持ちも含めて自分のキャパいっぱいいっぱいなのに
相手の愚痴を聞いてへらへらしてしまっているウンコ人間でメンタルが死んだ
この女に結婚式のウェルカムボード書いてとかスピーチよんでとか
色々いわれ、親友だと思って互いに自立目指して努力しようと行った女が
まんまと男利用して離れて行くのを見なくちゃいけない辛い精神に堪えながら
結婚式はやけ酒してトイレで二時間吐いて泣いた記憶があった
その結果がこれでもはや笑いしかでね~

人生につかれた、ココ2日間人に会う予定のドタキャンと
引きこもり、メールの返信が山のように溜まっているのに
なにもせずふとん被って十数時間無理矢理目をつぶりつづける
どうしたらいいかもどうすればいいかもわからない
絵を描いてもすぐに嫌になる
体はずっとおかしい 手術の痕が塞がらず出血したり
血尿がでたり細かいことが続きすぎる
風呂にも入れない食事も取らない鬱がでてきて気もち悪い
自死を選べないのが弱い
人生見てて思ったけど
いつも性被害受けてもやってる側はしらばっくれて
元気に生きてる 居場所がある 守られている
挙げ句自分が大人になって声を上げるようになっても
事実無根としらばっくれて人をさらに傷つける
お前すごいよなんでそんなことできんの
わたしもそうなりたいくらいだわ
世の中は全て証拠だし
性被害のニュースをみてもレイプした人間だって懲役10年もいかない
だったらやりたいことやって「やるつもりはなかった」だの
開き直って事実無根っていったほうが全然いいですね
うらやましい

いろいろつかれてしまった。
べつに死にたいとかそういう気持ちはない。
死にたいではなく生きたくないだけで、
ただ人間に求められる度どうしていいかわからなくなってきた。
自分は求められたときどうしたいのかわからないのだ。
女、男関係なく、相手の求めているものに
自分のようなカスが叶わないと思うのか、とても辛くなってしまう
皆自分を都合のよい道具として利用しているとずっと考えてしまう
助けてと声を出したくて仕方がないがどう助けてもらいたいかが
わからなくて結局声を上げられない
どんな人間にも楽な人生はない。
大小あれどかならずしんどいのはある。楽しいこともある。
一気にいろんなことがあって心が全然休まらない。
でもがんみたいな病気のせいで自分の先がないかもしれない不安もすごく
仕事をすることでしかやりすごせない。
むずかしい!!!!
posted by ちひろ at 09:36| 日記