だからさらざんまいはプリキュアだって言ってるだろうが!!!!
第1話の最初からさらざんまいはプリキュアだと言い続けてきたけど、最後までプリキュアだった。
そして、僕は「女の子のプリキュアと違って男のカッパは出産できないので未来がない」と主張していたけど、欲望を繋いだら「なんでもできる!なんでもなれる!」っていうプリキュアだったので、未来を見つけられて感動したディッシュ。
- プリキュアだったポイント
というか、最終回のプリキュアあるある。
なんか闇のラスボスに友達が連れさらわれて、謎の空間でラストバトルするのがプリキュア。
で、絶望した久慈悠が自分の思い出を消していくのがプリキュアだった。みんなの大切な思い出が消えてしまう!プリキュアだ・・・。こないだの映画で宮野真守がプリキュアの記憶を奪ってた・・・。
でも悠が自分をそそのかす兄の幻影を撃ってカワウソを退けるのはヒーロー感があった。
それで、三人が合流するけど、赤のプリキュアの一稀が「ミサンガが切れても何度でもつなぎなおす!」って言うの、プリキュアの「何度絶望しても希望を諦めない!」っていう少女革命ウテナに似てたGo!プリンセスプリキュアのキュアフローラだった・・・。
しかし、概念の世界に取り込まれて思い出が消えてしまう!!!!
でも、思い出が消えるシーンで逆に視聴者にこれまで放送されたエピソードを思い出させて、エモくしていくのが実にプリキュアの終盤だった。
で、思い出が消えるのが嫌なので、絶望していた久慈悠から、「さらーーーーっ!!!」って叫ぶ。人間形態なのに変身後の必殺技を叫ぶことでマスコットを召喚して特殊変身!!!人間形態から直接特殊変身するの、メッチャプリキュアの終盤で熱いやつだ。
悠が絶望するのを止めなければ!!というのが目的の一つだったけど、プリキュアは絆を思い出したら自然に絶望よりプリキュアのつながりが大事!ってなる。
そんで、カッパになってどうするのかって言うと、つなぎ直したミサンガを子供の頃の一稀に届けてつながりを結び直す!というわけで、子供の頃の最初の思い出のパワーで奇跡を起こそうぜ!っていうのは美少女戦士セーラームーンR劇場版でもあり、アイドルマスターアニメ版の天海春香さんでもある。あと、プリキュアとしてもやっぱ、姫プリなのかな。子供の頃に王子様と出会った最初のつながりを姫プリは大事にしていたけど、さらざんまいでもカッパ三人組の最初のつながりである4年前の一稀が大事になる。あと、プリキュア全般としても、「キッズを助けることが世界を助けること」みたいなキッズアニメ感がある。プリキュアとさらざんまいは男女が違うけど、「キッズが未来の象徴」とか「キッズだった頃の過去の思い出の大事さ」みたいなのは共通して繰り出してきてる。
で、「最後のさらざんまい」で最初のさらざんまいの歌のような決めポーズのバンクを出して集大成感を出すのもプリキュア。
同時に、光の王子のケッピと闇の王子の黒ケッピの最後の戦いというか融合もあって、これはプリキュア的にも絶望したラスボスを光の女王が抱きしめて光と闇を融合させて浄化する奴だ。まあ、さらざんまいは男の子なのでケッピは黒ケッピのアナルに突っ込むのだが。
しかし、カワウソの闇が邪魔する。カワウソの闇、おジャ魔女どれみの頃からプリキュアの敵として出てきた「謎の黒いもやもや」の概念だな・・・。
そこを闇落ちして前回浄化されて版権グッズになった先輩プリキュアの玲央と真武が復活!ふたりはさらざんまい!黒と白のプリキュアが光の力で後輩プリキュアに道を開く!欲望を手放すな!劇場版プリキュアの初代先輩だ・・・。
んで、「さらざんまいは男の子なのでプリキュアと違って赤ちゃんの育成要素が少ない(レオとマブのマンガではサラちゃんを育ててるけど)」と書いてきたけど、「過去の自分」をハグたんとかフワとかの子ども要素として、それに「未来のつながり」を再インストールすることで救ったわけだ。それと同時にカッパの王子も絶望と融合を果たして世界の理が正されたー!ケッピが絶望の黒ケッピを受け入れた理由はよくわからんけど、ケッピなりに三人組と過ごしてきたつながりとかレオとマブの生き様を見て頑張ろうと思ったのかなー。
「欲望の河を渡れ!!!!」
- 過去と未来のさらざんまい
唐突なサッカー!しかし、三人にとってサッカーは大事なつながりだったのだが。未来・・・。最終回に未来出してくるのHugっと!プリキュアなんだけど!未来はただの未来の予定というだけでなくこれまでの過去のサブタイトルによる彼らの関係性が未来でもリフレインされていくというつながりの延長線上なんやー、という意味でプリキュアとはまた違ったアプローチで強くつながりを打ち出してきている。
未来のサッカーの話もそれだけで二次創作一本書けるくらいのBLドラマが展開されているし、スポーツはやっぱりBLで大事なんだけど。
しかし、サブタイトルを回収していくことで少年時代のプリキュアとして活動していた時代に培われた三人のつながりを強く思い起こさせるの、1クールのアニメには珍しいというか、1年シリーズでのエピソードを思い出して強くしていくという手法に近くて、やっぱり幾原邦彦監督のセーラームーン時代に培われたキッズアニメのテクニックを感じた。
でも未来も厳しくて成功が約束された感じではなく、未来でもつながりが切れそうになるときは何度もあるけど、それでもと言い続ける内山昂輝のユニコーンガンダム感。ガンダムユニコーンもある意味白と黒と金色でプリキュアっぽさあるしな・・・。
そしてケッピとサラの王位戴冠!からの星座!キンプリでもあるのか・・・。
サッカー選手として活躍する未来も可能性の一つで、未来は明るいとは限らず、希望も絶望も命とともにあるのだから・・・。プリキュアもそういうこと言ってたな。でも痛みを持ちつつもつながりの縁の中で未来を選び取っていく。
春河も無力な子どもではなく、ケッピとサラの真の姿を見て未来の可能性を感じるキッズだったんだな。そこで未来を選び取っていく原動力として欲望も肯定される。
しかし、黄桜のカッパがモチーフかもしれないけど、カッパの姫のサラちゃんの衣装、エロすぎないか?
- (ア)の意味。
まあ、わかってないんですけど。星座になるくらいだから大事なものだと思う。しかし、ラカンの対象aとか、そこまで難しく考えたくはない。なんとなく大事な物、だと思っている。アイウエオのはじまりでもあり、愛というつながりでもあり、アナルという終わりでもある、みたいなもんかなあー。
- 幾原邦彦アニメの自己否定
自己犠牲がだせえ!というのは、「逃げるのか!」に近いと思ったので、そこまで幾原邦彦アニメの自己否定とは思わなかったんだけど。
久慈悠が普通に懲役食らってるの、めっちゃびっくりした。第8話の感想でレオとマブのバッヂによって警察官の記憶が改ざんされて、「やっぱり幾原邦彦監督は社会秩序を信じてないんだな」と書いた。
それが、縁が正しく結ばれたからかもしれないけど、悠が普通に社会的制裁と教育を受けて出所してるの、びっくりした。幾原邦彦アニメにおいて社会は基本的に敵で、償うとしても「概念」とか個人的な相手への贈り物として描かれてきたと思っている。高倉冠葉は普通にテロリストだし。輪るピングドラムでの警察は高倉家のつながりを絶ちに来る敵みたいな感じだったし。鳳暁生も大人の社会は恐ろしいと思っているので、学園長室に固執した。
そんな幾原邦彦作品の最終回で普通に社会的制裁で少年院で教育を受けるとか・・・。幾原邦彦監督も丸くなったなあ・・・。というか
つまり男の子もヒーローやアイドルや王子様になって王様に成れば社会的な地位を確立してつながりを実感できるのですが。(異世界転生ものも現実では社会的に認められないけど異世界で自分が社会のルールになることで褒められが発生する、みたいな構造が有る)
20年以上前に女の子を王子様に憧れさせて、王子様のシステムからの脱出を描いた幾原邦彦、男の子がプリキュアになるような構図のアニメで、男の子を王子様にせず、生きているのか死んでいるのかわからない妖怪のカッパにする。
Hugプリの最終回の前の男プリキュアは戦士とか王子様みたいな感じだったけど、そうしない。
だから、カッパに変身は社会的にかっこいい認められた存在ではなくて、逸脱した、妖怪だけどかっこよくもないちょっと間抜けっぽいアレ。
と、第1皿の感想で書いたのだが、さらざんまいは社会的にカッパ三人組が評価されたりという「世界を救って偉いプリキュア」のようにはならないだろうと思っていた。
それが、ガチで社会に償わされるという現実感!を出してきてびっくりした。浅草の街のつながりを描いたので、三人組だけで終わるとは思わなかったし、ある程度社会は描かれると思っていたけど、少年刑務所は予想外だった。あと、少年刑務所の囚人と職員がピクトグラムじゃなくて人間として描かれているのもエモかった。
ただ、少年院の職員のおじさんの最後の訓戒であるように、「君の人生はここからはじまる」というわけで。「社会的制裁を受けて悪人と認定されたからダメ」というわけではなく、ヤクザを何人か殺害したとしても、(レオの謎銃の橋破壊の罪は・・・)少年の未来はやり直せるし、社会はそれを受け入れてあげる余裕がある。って幾原邦彦アニメで描くのが凄いびっくりした。社会に対する信頼感や、メインキャラクターの未来を信じてくれるモブ公務員を幾原邦彦アニメで見せられるとは思わなかったけど、それも含めて「つながり」を描こうという作品だったんだなあ。その「つながり」を否定しようとした「孤独の概念」がカワウソだったのかもしれない。それを消したことで、一般人の社会のことも多少信じられるようになったのだろうか。
だが、「俺の人生は全部終わってる」「それがどうした!」と久慈悠は出所して入水する。自殺なのか、単にヤケを起こしただけなのか、ちょっとわからないけど。
※追記 自殺というよりは「人生辛そうだから、さっぱりしたい」くらいの入水だと思う。二人が来るのは、約束の場所だからでしょ
幾原アニメで入水する王子様はカッコイイけど忘れられる儚い存在だったわけですが。
笑って浮上する三人組が尊い!
幾原アニメで入水したのに、普通に笑って友達と一緒に浮上するとか思わないやん。
久慈の出所を忘れないよ!という迎えてくれる二人の気持ちがあったけえ!
そこが「さらざんまい」の「つながり」と「欲望」なんだなあ。もちろん少年院のおじさんの「君には未来がある」という説教も大事だったと思うけど、やっぱり最後は「ともだち」が大事で、そこは幾原アニメらしい。
で、さらざんまいを「男の子のプリキュア」として見てきた訳だが。
- 子どもを生み出せない男に未来はあるのか?
サッカー選手になるにしても、ならないにしても、子どもを産もうが生むまいが、10代の少年自体が未来にあふれているよ!!!!!というわけだった・・・。そうだな・・・。10代には未来があるよな・・・。若さは力。
そして、子どもを生むだけが未来じゃなくて、友達とつながって何かをしていけば、誰かに何らかの影響を与えて行くし、それも立派な未来ということだったのか。
もし彼らがサッカー選手になればLionel KaPPa選手のように誰かに夢を与えるだろうし、そうでなくともケッピたちカッパ王国の人たちは救うことが出来た。レオとマブが復活して本当に良かった。ケッピと吾妻サラは王子とお姫様の姿から、またマスコットとアイドルの姿になったけど、「次」の皿を持っているので男の子のプリキュアも未来をつくることが、どうやら出来たようだ。
- 王子様になれないカッパはどうなるのか?
Hugっと!プリキュアの男性プリキュアは王子様や戦士のようなかっこいい感じだったし、社会的に認められた存在のようだった。たいして、さらざんまいのカッパはいまいちかっこよくない。王子様になりきれない。カッパの王子もケッピも最終回まではずっと間抜けっぽかったし。
前回のレオとマブは「男もお姫様になれるのか?」を描いていたのだが、今回、悠が入水から現世に友達と一緒に浮上して、幾原アニメにおける「溺れ死ぬ王子様」を否定した。これは、「王子様として力を発揮したり、社会的に認められなくても」「友達と一緒に笑い合える」「つながり」があれば良い、というメッセージに見えた。
あと、溺れ死ぬ王子様と助けられるお姫様は二者関係だけど、さらざんまいは三人っていうのがやっぱり大きいんだと思うなあ。二者関係だと線だけど、三人だと円になれる。
アドゥレセンス黙示録のころから有るには有ったけど、「王子様にならなくても友達に救われることがある」と言う感じ。王子様ほどわかりやすくカッコイイ象徴にならなくても、概念の世界やファンタジー世界に昇天しなくても、地元で友達と楽しくサッカーしてハッピー!
夕日の隅田川から青い隅田川に成って肩を組んで「監督 幾原邦彦」なんじゃなあ。
- つながりたいからさらざんまい
そして3年会ってない三人組だけど、楽しくサッカーしてさらざんまいしてカッパにもなる。成れるんかい!!
なんというか、自由だ!って感じだな。少年院に入ろうが、どんな未来を選び取ろうが、特に理由もなく川に飛び込んだり、目的もなくさらざんまいを叫んでカッパになろうが、自由なんだー!(ラストの川を流れていく船の上のカッパ三人組は本体から分離した説もあるけど、再会した人間の三人組もさらざんまいを叫んで謎空間を生み出しているのでなぞ・・・)
ケッピをもとに戻したりカワウソを倒したからプリキュアカッパの力がなくなるわけではなく、やりたいようにやっていいんだ!欲望の肯定。
- 幾原邦彦の円熟
なんか、大人になったなあ・・・。という印象。悪い意味ではなく。
若者に未来がある!というすごく素直なメッセージを出せるとは・・・。
アドゥレセンス黙示録だと「ダメになるかもしれない」という次の城が出てきたりしたわけだし。微妙にひねくれていたのが魅力でもあった幾原邦彦作品。
今まで、主人公たちが概念になって消えたりしていたけど、「そんなにはっきり概念にならなくても、中途半端な妖怪のカッパに成ったりもしながら自由にやっていいじゃん」という懐の広さが今回、出てきました。
あと、やっぱり少年院かなあ。久慈誓はヤクザになったことで一般社会から外れたけど、悠は罪を償って社会に復帰した。これはアニメだから現実の少年犯罪者の境遇に比べると理想化されているのかもしれないけど、一回やらかした人もつながりに戻ってきていいというメッセージなんだろうね。
それと、少年院の公務員とか社会の大人、今までの作品や久慈家の両親に対して「社会は冷たいし、敵」みたいなのが幾原アニメにはあった。それが、公務員とか、渡瀬眞悧が批判したような「自分が何を好きだったかも忘れて箱に閉じ込められている大人」なんだけど、社会的ルールに縛られている公務員だとしても、そういう人が頑張って社会秩序を運営してくれている面もあるわけだし・・・という風に、社会の構成員に対する視線が変わったなあ、と感じる。というか、今までの幾原邦彦作品は学園とかイリュージョン空間とか、テロ組織とか、壁とか、社会から微妙に隔絶したところでのドラマが多かったのだが。
今回のさらざんまいは「つながり」というのがテーマだったからか社会ともつながっていこうという感じの最終回だった。
震災以降というよりかは、幾原邦彦監督の友達の庵野秀明監督の官僚映画のシン・ゴジラ以降というか、「令和になってもニヒリスティックに社会批判をするのも古い」という気持ちが芽生えたのかなあ。
まあ、もちろん、「社会秩序に従って大人になれ」とか「社会的成功が正しい未来」という作品ではない。社会とのつながりはあるけど、それはルールとか官僚組織とかじゃなくて、迎えてくれる友達とのつながりの延長線上にあるもの、という感じだし、カジュアルにカッパになったりするので、サッカー選手として成功するのをガチガチに目指すわけでもない。ファンタジー世界に行かなくても、現実世界でカッパになったりする。カッパになってハッピー。
なので、自由で仲良く。って感じかなーって思いました。というか、さらざんまいはプリキュアなので、子供向けアニメなので、絶望とか小難しい観念を描いてもしょうがないんだな。幾原邦彦アニメはアンダーグラウンドな感じが強かったけど、今回、プリキュア的なアプローチをすることで、最初はネタっぽかったけど、割りとガチでプリキュアのような広く訴えかける明るさを手に入れられたんじゃないかな。もちろん、キッズ向けで大衆アニメのもーれつア太郎とかやってたしセーラームーンも大ヒットさせた人でも有るわけだが。
若者には未来がある。という、そういう明るい感じでいい。
いざ、未来へ−−−。
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