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【社会】

<ぬちかじり 沖縄を伝える>(中)ウルトラマン脚本家の苦悩 本土との溝 深いまま

金城哲夫資料館に展示されている森口と金城らが作った壁新聞=沖縄県南風原町で

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 ジャーナリスト森口豁(かつ)(81)=千葉県松戸市=が初めて沖縄を訪れたのは六十三年前、東京の高校生のときだ。米軍統治下の沖縄行きを誘ってきたのは、同じ高校で一年後輩の金城哲夫=写真。後に日本中の子どもたちを熱狂させたウルトラマンの脚本家になる金城は沖縄からの「留学生」だった。

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 「沖縄の人たちが置かれている状況を見てほしい」という金城の願いに、森口ら生徒と教員の計十八人が応じた。一九五六年の春休み、約二週間かけて民家などに泊まり、トラックの荷台に乗って高校を訪ね、生徒らと交流した。

 訪れた高校では、米軍に農地を接収され、米兵の犯罪が続いているとの訴えもあった。「なぜこんなちっぽけな沖縄に基地をつくらなきゃならないのか」と問う生徒に、森口は何も言えなかった。

 立派な米軍基地と住民の粗末なバラックが混在する沖縄の風景。一方で、東京は高度経済成長の入り口にさしかかり、政府の経済白書は同年「もはや戦後ではない」と掲げた。その落差に森口はショックを受ける。金城らと沖縄での体験を紹介する壁新聞を作り、体験記の冊子を全国の高校計二百五十校に送るなど、沖縄を伝える活動を始めた。

 森口は五八年、東京の大学を中退して琉球新報の記者に。金城は東京で、後にウルトラマンを製作する円谷プロに入社する。森口は沖縄で金城の母親が営む食堂で食事し、金城は世田谷区にある森口の実家によく遊びに行った。金城が会社を辞めて沖縄に戻ると、森口と子どもを連れて南部の新原(みいばる)ビーチで遊んだ。

 金城はウルトラマンシリーズで、沖縄を意識した脚本を書いている。七一年の「帰ってきたウルトラマン/毒ガス怪獣出現」は、沖縄の米軍施設で毒ガス兵器の貯蔵が明らかになった後に執筆した。沖縄の方言を怪獣の名前に付けることもあった。

 沖縄の本土復帰後、金城は七五年の沖縄国際海洋博覧会の演出を任される。沖縄の良さを世界にアピールできると張り切ったが、復帰後も米軍基地を残した政府への反発などから地元の協力は得られず、酒の量が増えた。

 「哲夫は本土と沖縄のギャップに悩んでいた」と森口は当時を振り返る。金城は七六年、酒に酔って自宅二階から転落し、三十七歳で亡くなった。

 先月中旬、森口は十年ぶりに新原ビーチに足を運んだ。五十キロ離れた名護市では、多くの県民が反対する中で政府が新基地の建設を進め、本土と沖縄の溝は今も深いままだ。「もし哲夫が生きていたら、何て言うだろうか」と森口。

 十代の二人が作った壁新聞は、県内の金城哲夫資料館に残っている。見出しには「沖縄と本土のかけ橋に」とあった。 (敬称略)

 

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