“革命戦士”長州力(67)が26日、東京・後楽園ホールで行われる「POWER HALL2019~New Journey Begins」で引退する。
レスリングでミュンヘン五輪出場の経歴を引っ提げ、1973年12月に新日本プロレス入団。翌74年8月8日にデビューした。82年10月8日の後楽園大会で藤波辰爾(当時は辰巳)へ反旗を翻し一気にスターダムへのし上がった。以後、ジャパンプロレスを設立し全日本プロレス参戦から新日本へのUターン、復帰後はエースとして現場監督として90年代の黄金時代を築き、98年1月4日には引退試合を行った。しかし、2000年7月30日の大仁田厚戦で現役復帰。新日本離脱からWJ旗揚げから崩壊、そしてフリーと波乱万丈の45年に及ぶレスラー人生を駆け抜けた。
中でも藤波とのライバル対決は、当時、テレビ朝日「ワールドプロレスリング」で実況を担当した古舘伊知郎アナウンサーをして「名勝負数え唄」と評されるほどプロレス史に残るライバル対決を刻み込んだ。「藤波さんがいたから今のオレがいる」と語る長州は、引退試合で藤波との対戦を熱望。結果、越中詩郎、石井智宏と組んで、藤波、武藤敬司、真壁刀義と対戦することになった。引退興行は、立ち見券も含め前売りで完売し全国の映画館でライブ・ビューイングされることが決定。プロレスのライブ・ビューイングでは、過去最大規模の上映館に達した人気を示している。「Web報知」はこのほど、引退直前の長州を単独取材しプロレス界を代表するライバルストーリーを残した藤波辰爾への思いに限定してインタビューし連載する。第1回は、藤波との出会い。
1973年12月。新日本に入門した吉田光雄(長州の本名)は、東京・野毛の新日本道場で藤波と初めて出会った。藤波は旗揚げからの生え抜きメンバーだったが若手選手の1人に過ぎなかった。そのためなのだろう。長州の中で当時の鮮明な記憶はない。
「全然、覚えてませんよ。道場で皆さんに紹介されて、他の選手と同じようなあれでね。そんなような状態だったですよ」
日本プロレスを追放されたアントニオ猪木が1972年3月6日に大田区体育館で旗揚げした新日本プロレスは当初、テレビ中継がなく経営は大苦戦。2年目を迎えた73年に日プロを退団した坂口征二が入門し4月からNET(現テレビ朝日)が金曜夜8時から中継をスタートした。長州が入団したのは、そんなようやく団体として軌道に乗ってきた時だった。長州に存在は「覚えてない」とされた藤波だが、これまでの取材でレスリングで五輪に出場した「吉田光雄」の入門は鮮明に記憶していることを明かしている。
「あの頃のボクにとって自分のことよりもこの猪木さんが作った新日本が一日も早く軌道に乗ることを一番に考えていました。そのために自分は毎日、練習していましたし試合も一生懸命にやっていた記憶があります。そういう状況で坂口さんが来てテレビが付いて、そして五輪に出場した有望選手が入ってきてくれたことがすごく嬉しくてね。ですから長州が入団した時は“あぁこれで新日本は安泰だな”って喜んだことを覚えています」
藤波の記憶を長州に伝えた。
「それは相手側がそう見るだけであってね。辰つぁんの受け止め方ですよ。ボクは、“わぁ、デカイ人もいるなぁ”って。また、小さい人もいるけど“体が違うなぁ”って驚きはありましたよ。道場で辰つぁんとスパーリングをやった記憶はないよ。(山本)小鉄さんが教えていましたから、グラウンドとかのトレーニングでやったことがあったかもしれないけど、記憶にはないですよ」
周囲は鳴り物入りと騒いだが長州自身は、言わば「就職」する気持ちで新日本の門を叩いた。
「入った時は、プロレスとアマレスの違いはあるけど、(ジャンボ)鶴田さんもやっていたし、他の先輩もやっていたし、そこらへんは安易な考えで、先輩ができるから自分もっていう感じでしたよ。何より食っていかないといけないわけだしね。そんな延長線みたいなもんですよね。だけど、これもずっとしゃべってきたこと。そんなの今、ここで聞くより週刊誌みたほうがいいよ」
入った当時は藤波はもちろん、他の選手を意識する段階ではなかった。とにかくプロレスラーの世界に馴染もうと必死だった。
「他の選手を意識するとかそういう状態じゃなかった。とにかく早くこの世界の水に慣れてやっていくことしか考えていなかった。誰々って頭の中で意識したことはなかったです」
鳴り物入りで入団した長州と1人の若手レスラーだった藤波。プロレスラーとしてのキャリアは藤波が上だったが年齢は長州が2歳上で藤波にとって初対面の「吉田光雄」はまぶしい存在だった。そんな視線が逆転する時が来る。1978年1月23日、ニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでの衝撃だ。(続く。取材・構成 福留 崇広)