ラッシャー木村、アニマル浜口、ストロング小林、阿修羅原、マイティ井上らを輩出し1981年8月に崩壊した国際プロレスを描いたノンフィクション「東京12チャンネル時代の国際プロレス」(税込み2160円)が12日に辰巳出版から発売された。著者でプロレス史研究家の流智美氏がこのほど、東京・巣鴨のプロレス格闘技ショップ「闘道館」でトークイベントを開催。著書に込めた思いを明かした。
日本プロレスを退団した吉原功氏が1966年10月に設立した国際プロレスは、昭和40年代には、日本プロレスの対抗馬、さらにジャイアント馬場の全日本、アントニオ猪木の新日本に続く第3の団体として根強いファンを獲得していた。テレビ中継は、旗揚げ間もないころからTBSが行っていたが、途中で打ち切られ、74年9月からは「国際プロレスアワー」と題し、団体が崩壊する81年夏まで東京12チャンネル(現テレビ東京)が中継した。
同書は、流氏が「国際プロレスアワー」のチーフプロデューサーだった田中元和氏が残した極秘資料を入手。通称「田中メモ」を元にテレビ局から団体側への要求、吉原社長の対応、テレビ視聴率、さらには12チャンネル側からのギャランティーなど赤裸々かつ緻密に書き込まれている。加えて流氏が調べた当時の視聴率、独自取材と記事資料に基づいた史実は、プロレスの歴史本と言える内容となっている。
流氏は、国際への思いを「私の青春の物語に近いんです」と明かした。幼少のころからプロレスファンだった同氏は、初めて生観戦した団体が国際プロレスだったという。そして一橋大学に入学後は、後楽園ホールなどに頻繁に観戦し国際の選手、フロントと顔見知りになり語学力を買われ1978年10月から団体が崩壊する81年夏まで来日する外国人を世話する担当となった。こうした背景があるからこそ国際は「青春物語」。そして同書には、流氏がファンとして見た選手、会場、東京12チャンネルの放送席など鮮明な光景が描かれており、その記憶の数々が生々しい真実をあぶり出している。
自らの経験を踏まえた上で流氏は今を生きるプロレスファンへメッセージを送る。
「国際は、敷居が低くてボクみたいなファンでも身近に入れたんです。馬場さんの全日本、猪木さんの新日本は入れませんでした。そんなボクが外国人係としてバーン・ガニアを空港で出迎えできるなんで夢のような話なんです。でも、そういうことが実際にあったんです。コンプライアンスなんかなかった時代のおとぎばなしの面もありますが、プロレス業界の入り方っていろいろあっていいと思う。ボクみたいな関わり方もあるという示唆をこの本には書いています」
多団体が乱立する今のプロレス界。昭和から存続しているのは、全日本、新日本の老舗2団体だけだ。81年に崩壊した国際は、時代の荒波に流された印象がある。しかし、流氏は、こうした見方に真っ向から反論した。
「ボクがこの本で一番書きたかったのは、昭和の3団体がいた時代が一番長くて一番平和で週に3回もゴールデンタイムでテレビ中継があった。そして、この時代が今につながっていて今のプロレス文化はこの時代にできた文化なんです。それを馬場、猪木だけでくくるのは真っ赤な間違いでそこに国際プロレスがないと絶対にウソの歴史だという確信があります。国際には、新日本、全日本に負けないものがあったんです。そして、これはボクが書いておかないと誰も書けない。大袈裟にいえばそれぐらいの任侠心とパッションがあります」
ファンとして団体関係者としてマスコミとしてプロレスを見続けてきた流氏。同書は、そんな情熱の集大成だった。そして最後にこう言った。
「この本は、もう国際プロレスをテーマにした最後の本だと思うんです。そのぐらいのうぬぼれはありますし、恐らくこれ以降、国際の本が出ることはないでしょう。これは、自分のルーツなんです。そんな体験をできた国際プロレスには、感謝の気持ちしかありません」
ジャンルは何でもいい。大切なのは好きという気持ちを忘れないこと。「東京12チャンネル時代の国際プロレス」は、そんなことに気付かせてくれる一冊だった。(記者コラム・福留 崇広)