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【社会】

<ぬちかじり 沖縄を伝える>(上)権力と対峙 貫いた反骨記者 政府も米軍も信用せず

琉球新報新聞博物館に展示された池宮城秀意の資料。愛用の万年筆などが並ぶ=那覇市で

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 沖縄県名護市辺野古(へのこ)に米軍の新基地を建設する政府に対し、厳しい姿勢で臨む地元メディアには、インターネット上などで「偏向報道だ」との声が上がる。沖縄の実情を伝えてきた記者らの苦闘と努力はどれだけ知られているのだろう。「ぬちかじり(命の限り)、闘う」。がんで余命一年を宣告されながら沖縄を追い続けるジャーナリスト森口豁(かつ)(81)と現地を訪れ、考えた。二十三日は沖縄慰霊の日。 (石原真樹)

 「当時は焼け野原だったから、海はもっとよく見えたはず」

 沖縄が梅雨入りした五月中旬、本島南部の豊見城市伊良波(とみぐすくしいらは)。沖縄戦の時に避難壕(ごう)があった丘の中腹で、森口はつぶやいた。「あの人が生を確かめた瞬間の光景を、自分の目で見たかった」と森口。戦後の報道は、ここが原点だと思ったからだ。

沖縄戦で使われた壕の跡を学芸員の案内で取材する森口豁(左)=5月、沖縄県豊見城市で

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 あの人とは、七十四年前、当時三十八歳の日本兵だった池宮城秀意(いけみやぐしくしゅうい)。池宮城は戦後、琉球新報の編集局長などを務め、現地の報道をリードしてきたジャーナリストだ。沖縄日報の記者だった戦前は、戦意高揚の紙面に反発して一九四〇年に辞職。四五年二月に徴兵され、沖縄戦の地獄を見た。

 砲弾の雨をくぐり抜け、たどり着いた壕の中で、手足をもがれた傷病兵がうめき声を上げる様子を、池宮城は日記に書き残している。六月二十日、伊良波の壕を出て米軍に投降した。

 池宮城は四六年、米軍の支援を受けて創刊したウルマ新報(琉球新報の前身)で編集長に就く。記者経験などを買われたためだが、戦後の米軍統治下でも戦中と同じく、報道の自由を守るのは容易でなかった。

 「編集や人事に口を出さない」という約束は守られず、ソテツを食べた住民が死亡したとの記事に「米国が食べ物を与えていないことになる」と抗議を受けるなど、介入との闘いが続いた。そんな緊張感が漂う五八年、二十一歳だった森口は記者として採用され、東京から沖縄に移住した。

 「地元紙がしっかりしないと、権力の意のままになり操られる。それは怖いことだ」。森口は池宮城から折に触れ、そう言われた。池宮城は、沖縄に悲惨な結果をもたらした日本政府も、米軍も信用していなかった。

 琉球新報の社長となった池宮城は六五年、米国が任命していた琉球政府行政主席を公選制にするべきだとのアピールを沖縄タイムスの社長らと出す。地元の姿勢を毅然(きぜん)と示し、公選制は三年後に実現した。

 戦前から四十三年間、反骨のジャーナリストとして地元の報道に携わった池宮城は、八九年に八十二歳で亡くなった。権力に厳しく対峙(たいじ)する琉球新報の姿勢は、いまも変わらない。

 森口は今月、九五年に出版した池宮城の評伝を再版した。「沖縄で言論を守るのは簡単ではなかった。その歴史を知ってほしい」 (敬称略)

<もりぐち・かつ> 1937年東京生まれ。56年に初めて沖縄を訪問し、58年に都内の大学を中退し琉球新報社に入社。東京支社勤務を経て59年1月から沖縄で記者として働く。61年から日本テレビ沖縄通信員を兼務、63年に琉球新報社を退社し日テレの沖縄特派員に。74年に東京本社勤務になってからも沖縄取材を続け、90年からフリー。ドキュメンタリー「ひめゆり戦史・いま問う国家と教育」(79年)などで84年にテレビ大賞優秀個人賞。

 

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