「……腹へったな」
何もしないで部屋に閉じこもっていても、1日1回は食事をとらないと腹の虫が鳴くのをやめてくれないことを、この4日間で俺は学んだ。
時計を確認すると午後7時をまわったところ。閉め切っているカーテンをちらりとめくると、太陽はとっくに地平線の向こうに沈んでいた。
「何か食うか」
おもむろに立ち上がり、食糧を収納している棚の前まで移動する。中には、鈴にいらないからと押し付けられたカップめんやら菓子類やらが所狭しと詰め込まれていた。
昔から、あいつには一目見てうまそうだと感じた商品を大量購入する癖がある。だが結構な確率で本人の口に合わないものを引き当てるので、そういう時は余ったぶんを無理やり俺に渡してくるのだ。
『ただであげるんだから別にいいでしょ? いいからありがたく受け取りなさいよ』
なんとも勝手な言い分だが、そのおかげでこうして部屋の中に食べ物が貯まっているのも事実。今回はあいつの強引さに感謝するべきなのかもしれない。
「激辛ぺヤングにするか」
これなら自然と水を大量摂取するから、腹もふくれるだろう。
真っ赤なパッケージのカップやきそばを取り出し、熱湯を注いで3分。流しに湯を捨ててソースその他を混ぜ込めば完成。実に簡単である。
「いただきます」
箸を手に取り、まずは一口。
「辛っ」
うまいけど辛すぎる。以前に弾や鈴からそんな感想を聞いていたが、まったくもってその通りだ。2,3口食べたところでコップの水が空になってしまった。
「やべ、辛すぎて涙出てきた」
食べ物を残すのは礼儀に反するので、全部食べきる以外に選択肢はない。結構な苦行だが、まあ致し方あるまい。
「………」
――暢気なもんだな。
心の中から、暗い声が聞こえてくる。俺に現実を突きつけようとする容赦のない声が、頭の中で反芻する。
「いくらなんでも辛すぎるだろ、これ」
それを無視するように、やきそばをすすり続ける。あわよくば、辛さで頭が麻痺してくれないものかと無茶苦茶な期待を抱きながら。
そうして思考を逸らしていないと、またさっきみたいに余計なことを考えてしまう。
……俺は、必死に現実から逃げていた。
コンコン
そんな時、部屋の扉をノックする音がした。2,3日前はセシリアやラウラたちが何度か訪ねてきていたのだが、毎度部屋に入れるのを拒んでいるうちに誰も来なくなっていた。ひとりになりたいという俺の気持ちを察してくれたのだろう。
では今、ドアを鳴らしているのは誰なのか。
「一夏。中にいるわよね」
「………」
彼女の声を聞くのは、ずいぶん久しぶりな気がした。ついこの間までは、いつも俺の近くで騒がしく響いていたというのに。
「……鈴か」
「そうよ。中に入るから鍵開けて」
この数日間、鈴からは電話もメールも来ていない。そんなあいつが部屋の前まで足を運んでいるということは、何かしら面と向かって言いたいことがあるのだろうが……今の俺には、鈴と顔を合わせるだけの勇気がなかった。
「悪いけど、今はひとりにさせてくれないか」
扉越しに、拒絶の言葉を投げかける。これまで訪ねてきた人は、この一言で素直に引き下がってくれていた。
「ああ、悪いけどアンタに拒否権はないわよ」
予想外の返事が返ってくるとともに、ドアのロックががちゃりと音を立てて解除される。
「うわ、無精ひげ。完全にひきこもりニートの外見になってるわね」
「お前、どうやって」
「寮監から鍵借りてきた。以上」
寮監……千冬姉か。
驚く暇もなくずかずかと部屋に入り込んできた鈴は、そのままどかっと床に腰を下ろした。
「……強引だな。お前」
「アンタは十分知ってるでしょう。あとアグレッシブと言いなさい。響きがいいから」
「確かに、そうかもな」
『勝負よ! 勝った方が負けた方に何でもひとつ言うことを聞かせられる! 拒否権はなし!』
『一夏!! 勝ちなさい! 負けたらハーゲンダッツの大きい方30個おごってもらうんだからね!』
昔から、お前は強引なやつだった。よく、覚えているよ。
「……で。なんであたしの方を見ようとしないのよ」
「言ったろ。今はひとりでいたいんだ。誰とも関わりたくないんだよ」
鈴の顔から目をそむけ、少し語気を強めて話す。どうにか、これで諦めてもらえないだろうか。
「へえ、そうなの。それで? アンタはいつまで部屋にひきこもったままでいるつもりなのかしら?」
だが俺の意思も虚しく、鈴は立ち去るどころかさらに俺の心に踏み込んできた。
「自分がマドカのクローンだから落ち込んでるの? 正直、あたしからしたら少し羨ましいくらいなのよね。千冬さんもあいつもあれだけ強いんだから、クローンのアンタもISの才能あるの確定じゃない」
「……そういう問題じゃ、ないだろ」
「じゃあどういう問題だっていうのよ。記憶を埋め込まれただかなんだか知らないけど、そんな昔のことを引きずっても仕方ないでしょうが。むしろ前向きにとらえる方が精神的にいいと思うけど?」
昔のこと? 引きずっても仕方ない? ……そんな簡単に処理できることなら、俺だってこんなことになってないんだよ。
沸々と湧いてくる黒い感情。それを知ってか知らずか、鈴は変わらず俺に捲し立てる。
「アンタ、結局怖いだけでしょう? 自分がクローンだってこと。マドカに憎まれていること。現実が恐ろしいから、こうしてひとりになって逃げようとしている」
「……やめろよ」
うるさい。それ以上しゃべるな。
「何日もくよくよして、いろんな人に迷惑かけて。学校だっていつまでサボる気? 小さいことを気にしてないで、さっさと切り替えなさいってのがわから――」
「やめろって言ってるだろ!!」
気づけば、反射的に鈴の胸倉をつかんでいた。怒りの感情そのままに、彼女の顔を睨みつける。
「お前に……お前に何がわかるんだよ! 偽物の俺の気持ちが、わかるはずないだろ!」
溜めこんでいたものを吐き出すように、言葉が次々と口をついて出てくる。
「最初の記憶が、俺のはじまりが他人のものだって言われたんだぞ? 今まで信じてきたものが全部偽物で、全部崩れ落ちたんだ。空っぽなんだよ、今の俺は! なのに――」
なおも怒りをぶつけようとして、俺は。
「……やっと、話してくれたわね。アンタの気持ち」
鈴の口から漏れた言葉に、熱くなっていた頭が一気に冷えた。
胸倉をつかまれたままの鈴は、口の端をつりあげて、そして。
――思い切り、俺の顔面に右ストレートを叩き込んだ。
「がっ……!?」
手加減なしの一撃を受けて、体が床に倒れこむ。口の中では鉄の味が広がり始め、頭は今も少しくらくらする。
「何す――」
「バカ」
今度は俺が胸倉をつかまれる番だった。
横になっていた体を無理やり起こされ、視界に鈴の顔が入ってくる。
「バカ、バカバカバカバカ! 大バカ!! 二度と自分を空っぽだなんて言うな!」
怒っていた。今まで見てきた中でも一番と言っていいくらい、鈴の表情から怒りが滲み出していた。
「千冬さんから、アンタの生まれに関する話は詳しく聞いたわ。だから、アンタの9歳までの記憶が他人の物だってことも知ってる。そしてアンタがそのことでどれだけ苦しんでるのかも、さっきの言葉で理解したつもり」
でも、彼女の顔に表れているのは決して怒りだけではなかった。
「一夏が『みんなを守る』ことを夢にしてたのも知ってる。銀の福音にあたしがやられそうになった時も、必死に守ってくれたもんね。……その、守るって夢を目指すようになったきっかけは、マドカの記憶の方にあったのよね?」
「……そうだ。だから俺は」
「でも、だからってアンタの行動すべてがあいつの借り物になるとは思わない。だって、アンタとあいつは違う人間だもの」
「なに……?」
俺の胸倉をつかむ鈴の腕は、小刻みに震えていた。
「確かに記憶は偽物かもしれない。でもね、その記憶からアンタが感じたことは、間違いなくアンタ自身のもののはずよ。そして、アンタが生まれてからやってきたこと。学校行って、勉強して、遊んで……あたしと友達になってくれて、お父さんとお母さんの離婚を止めてくれて、あたしの彼氏になってくれた。これは全部、一夏自身が選んだこと」
本当に、そうなのだろうか。俺には確証が持てない。
「あたしが保証する。『織斑一夏』をずっと見てきたあたしがはっきり言ってあげる。アンタは空っぽなんかじゃない。……何もないようなやつに、あたしが惚れると思う? あんまり見損なわないでよ」
怒っているはずの鈴の顔は、いつの間にか涙に濡れていた。
俺のために、泣いてくれていた。
「始まりが何かなんて関係ない。今ここにいるアンタは、馬鹿で鈍感で女たらしで、そのくせいざって時には頼りになる、世界でただひとりの、かけがえのない、あたしの大好きな――」
鈴の言葉は、最後まで続かなかった。
すべてを聞き終える前に、俺が彼女の唇を塞いでしまったから。話を聞いているうちに、どうしても彼女に触れたくなってしまったから。
「………っ」
キスをしながら、鈴の体を強く抱きしめる。その体温が、俺にはとても暖かく感じられた。
「……バカ。最後までちゃんと言わせなさいよ」
「ごめん」
数十秒たって、ようやく俺は唇を離す。……鈴に触れたことで、少しだけ心を落ち着かせることができた。
「俺、怖いんだ。俺は本当に俺なのかって。自信が持てないんだ」
心の中の不安を、素直に吐露する。気づけば俺は、彼女に救いを求めていた。
「たとえ世界中の人がアンタを偽物だと言っても、あたしはそれを絶対に否定してみせる。アンタは織斑一夏だって、胸を張って言えばいいのよ」
そう言って、鈴は笑顔を見せてくれた。
彼女の腕が俺の腰にまわされ、再び抱き合う形になる。
ぬくもりが全身に伝わり、俺の目からは理由もわからず涙がこぼれていた。
「鈴」
お前が、そう言ってくれるなら。怒鳴り散らしながら、必死に、強引に俺の手を引っ張ってくれるなら。ずっと俺を見てきてくれたお前が、俺を織斑一夏だと信じてくれるなら。
「俺、頑張るから」
もう一度、立ち上がれるかもしれない。
「だから……今日は、このまま甘えさせてくれ」
「……うん」
どちらからともなく、唇を重ねあう。冷え切った体が、それだけで熱を帯びたような気がする。
……今だけは、何も考えずにこの甘さに浸っていたいと、そう思った。
*
「――か。一夏。朝よ」
「ん……」
目が覚めると、視界に入ってきたのは天井……ではなく女の子の顔だった。
「鈴」
「朝ご飯どうする? いきなりアンタが食堂に顔出したらすごい騒ぎになりそうだし、あたしが適当に取ってこようか?」
そうか、昨日は鈴と一緒に寝たんだった。とても暖かかったのをよく覚えている。
「それもそうだな。悪いけど、頼めるか」
「りょーかい」
昨晩の雰囲気が嘘のように、鈴の様子は元気そのものだった。そんないつも通りのこいつの態度が、今はとてもありがたい。
「ありがとうな。規則破ってまで一緒にいてくれて」
寮の規則に、男子の部屋に女子を泊めてはならないという旨のきまりがはっきりと記載されていたはずだ。
「一夏が元気になってくれるなら、そのくらいの規則はいくらでも破ってやるわよ。……まあ? 一晩一緒に寝て、キスくらいしかされなかったのは少し予想外だったけど?」
「なっ!? ば、馬鹿。さすがに寮の部屋で一線越えるわけにはいかないだろ!」
「確かにね。そこまでしちゃったら千冬さんにどれだけひどい目に遭わされるかわかったもんじゃないし」
冗談よ、とくすくす笑う鈴。……参ったな。昨夜の出来事を経て、こいつの何気ない仕種ひとつひとつにドキッとするようになっている気がする。簡単に言うと、惚れ状態からベタ惚れ状態に移行してしまったらしい。
「……あたしは、あのまま奪われちゃってもよかったんだけどね」
「え? 今なんか言ったか?」
「ううん、何も。じゃ、食堂行ってくるわね」
一言言い残して、鈴は駆け足で部屋を出て行った。
足音が聞こえなくなったところで、俺は大きくため息をつく。
「馬鹿。聞こえてるっての」
あんなセリフ聞かされたせいで、体が変に火照っている。
とりあえず、しばらくはうっかり性欲を爆発させてしまわないよう注意を払わなければならないだろう。
「って、暢気なもんだな。俺も」
この状況で、色恋について頭を悩ませているなんてな。
だけどもちろん、現実から目を逸らすつもりはない。
「勝つしかないよな。あいつに」
越えなければならない壁がある。俺を憎んでいる、本物の織斑一夏だった人間。
あいつとの決着なしに、俺は前には進めない。
「まずは、千冬姉に詳しい話を聞いて――」
ドドドドド……
「ん?」
地響きとともに、何かがこちらに近づいてきている。というかこのパターン、前にもあったような――
『織斑くん!!』
「のわあっ!?」
案の定、大量になだれ込んでくる女子生徒たち。ほとんどが1年生だが、ちらほらと上級生用のリボンをつけている人も見受けられる。
「織斑くん、もう大丈夫なの?」
「どこか体とか悪くしてない?」
「元気ですか! 元気なんですか!」
「ごめん一夏、バレちゃった」
次々に質問を浴びせてくる女子たちに紛れて、鈴が両手を合わせてごめんなさいのポーズをとっていた。
「ま、待ってくれみんな。そんな一気に話されても困るって」
「4日も外に出ないでご飯はどうしてたの?」
「まさか水だけとか?」
「というか無精ひげ生えててなんだかワイルドだね!」
俺の制止の言葉も届かず、騒ぎはどんどん大きく……って、まだ人数が増えるのかよ!?
「ま、まあ、それだけアンタが愛されてるってことでいいんじゃない?」
「いや、確かにそうかもしれんがお前も笑ってないで事態の収拾のために動いてくれ!」
苦笑いを浮かべている鈴に向かって叫びながら、俺はなんとかこの場を静めようと思考をめぐらせ始める。
「あーもう、本当にうちの学園の生徒はアグレッシブでしょうがないな……ははっ」
頭を抱えながらも、なぜか俺の口からは笑いがこぼれてしまっていた。
彼氏が落ち込んでいるときに全力パンチを叩きこむ、これぞ暴力系ヒロイン……というのは冗談です。ただ、鈴は言葉よりも先に手が出るというのは多分事実なはず。でも愛ゆえだから可愛いね。
この作品においては、織斑一夏という存在の絶対的な肯定を行えるのは鈴しかいないです。
今回の話で、僕の理想とする一夏と鈴のカップリング上の関係っぽいものが大体描写できたのではないかと思います。詳しく語りたいのはやまやまですが、それは物語を完結させてからの方がいいと思うので今回はやめておきます。あくまで僕という個人の理想なので、受け付けないという人には申し訳ありませんとしか言えません。
では、次回もよろしくお願いします。