「篠ノ之さん? どうかしたの、さっきから心ここにあらずって感じだけど」
ルームメイトの鷹月静寐に声をかけられたことで、ベッドに腰掛けたまま虚空を見つめていた箒はハッと我に返る。
「……いや、なんでもない」
「そうは見えないけれど……。織斑くんに何か言われた?」
30分ほど前、箒と静寐の部屋にやって来た一夏が、『大事な話がある』と言って箒を連れ出した。その後部屋に戻ってきた彼女の様子がおかしいことを、静寐は心配してくれているようだ。
「気遣ってくれるのはうれしいが、本当になんでもないんだ。一夏にはISのことを少し聞かれただけだしな」
「なら、いいんだけど……」
腑に落ちないという表情をしながらも、静寐はそれ以上の追及は行わなかった。ほっと息をつく箒だが、同時に自分のことを思ってくれている相手に嘘をついてしまったことへの罪悪感がこみあげてくる。
「なぜだ……」
静寐が用事で部屋を出て行ったのを確認してから、ぽつりと独り言を口から漏らす。
『そうか……やはり、鈴とそういう仲になっていたのだな』
先ほどの、一夏との会話を思い出す。彼が箒に伝えたことは、『凰鈴音と付き合い始めた』という内容のものだった。
『ああ。まだ学校のみんなには秘密にしてるんだけど……箒やセシリアには、ちゃんと話しておきたくて』
そう語る一夏の表情はあまり冴えない。まるで、何か後ろめたいことがあるような。
それを見て、箒は彼が自分の恋心に気づいていたことを悟った。
『そんな顔をするな。お前は当たり前のことをしただけだ。選べる人間はひとりで、そして私やセシリアではなく鈴を選んだ。何も悪いことはしていない』
『箒……ありがとう。……その、俺、うれしかったんだ。小さいころに仲の良かった女の子が、今でも俺のことをそういう風に思ってくれていたこと』
『そうか。……鈴のこと、大事にするんだぞ』
――結果として、篠ノ之箒の初恋は終わった。明確に、はっきりとした形で、幕を閉じた。ずっと胸に抱き続けてきた想いは、報われなかったのだ。
……だというのに。
「なぜ、これだけしか涙が流れない……?」
もし一夏に振られたら、一晩中泣き続けるだろうと箒は常々考えていた。自分の一夏に対する感情は、それくらい大きなものだと自負していたのである。
だが実際は違った。確かに一夏と話し終えて、彼が立ち去った後に目からあふれ出るものはあったが、5分経って部屋に戻るころには止まってしまっていた。静寐にも彼女が涙を流していたことは気づかれていないだろう。
おかしいと思った。ずっと想い続けていたはずなのに。家族と離れ離れになり、政府の監視下という縛られた環境で生きてきて、やっとここで幼馴染に再会できた。だから絶対に、心の支えにしてきた彼への気持ちを成就させようとしてきたのに。それを諦めるという状況になって、この程度の悲しみしか感じないなんて。
「……いや、待て」
――そもそも、どうして簡単に諦めるなんて考えられるのだろう?
「8年、抱き続けた気持ちなのだぞ」
小学1年生の時から、実家の道場に通ってきた一夏。最初はお世辞にも仲がいいとはいえない関係だったが、いろんな出来事を経験するうち、気づけば彼のことばかり見るようになって。転校した後も、暇なときにはいつも一夏のことを思い出していた。
依存しすぎていることは自分でもわかっていた。それでも箒は、いつかまた会えることを信じて、ずっと……
「どうしてしまったんだ、私は……?」
強烈な違和感。こんなはずじゃないのにと、自分の心が信じられなくなる。おかしい、間違っている、そんな思いばかりがこみあげてきて……それでも、涙は流れない。
心の整理ができない。自分の中で決着をつけなければ、一夏と鈴に向き合うことすらままならない。
「もう、ぐちゃぐちゃだ……」
結局、彼女は消え入るような声でそうつぶやくことしかできなかった。
*
「箒とセシリアに、話してきた。……2人とも、あんまり驚いてなかったな」
「……そっか。やっぱりごまかせてなかったってことね」
自室に戻ると、時刻は午後8時を迎えようとしていた。鈴を部屋に招き入れ、事の次第を説明すると、彼女は少しバツの悪そうな顔を見せた。
「クラスのみんなにも勘付かれてるかもしれない」
というかめっちゃ怪しまれてた。
「うーん、参った……全然決心がついてないのに」
俺たちが付き合っているということをカミングアウトするのはまだ無理らしい。……でも、今日の休み時間みたいなことやってたら隠す気なんて実はないんじゃないのかとちょっとだけ疑いたくなる。
「ま、これから授業の合間に来るときはテキトーな理由をでっちあげるべきだな」
「……そうする」
こくんとうなずく鈴。昼休みになるまで会いに来ないという選択肢はないようだ。
「ま、『急に顔が見たくなった』なんて言われて悪い気はしなかったぜ」
「……バカ。自分でも恥ずかしいと思ってるんだから蒸し返すんじゃないわよ」
照れているのか、うつむいて蚊の鳴くような声で文句を言ってくる。……やばい、かわいい。俺もすっかりこいつの照れ顔の魅力にはまってしまったようだ。このままだとわざと困らせるようなことを言って彼女が赤面するのを楽しむちょっとしたサディストになってしまうかもしれん。
「悪い悪い。ちょっとした冗談だ」
「ダメ、許してあげない」
つん、とそっぽを向く鈴。どうやらへそを曲げてしまったらしい。
「そう言うなよ。どうしたら許してくれるんだ?」
俺がそう口にすると、鈴は下を向いていた顔をこちらに向けると、真顔でずい、と乗り出してきた。
「……朝の続き、してくれたら」
「え……それって、キスのことか」
火照った顔で首を縦に振る鈴。どうやら正解らしい。今朝は途中でラウラとシャルロットが部屋に入ってきてうやむやになってしまっていたのだが、俺も早いところ仕切り直しを行いたいと考えていたからちょうどいい。
「わかった。それじゃ、いくぞ」
「うん……」
鈴の目が閉じられる。深呼吸をしてから、俺はゆっくりと彼女の小さな唇に自分の唇を近づける。バクバクしすぎて破裂しそうな心臓の鼓動だけが耳に響く中、俺は――
コンコン
「一夏くん、いるー? 昨日言った通りお話をしに来たんだけど、時間あるかしら?」
「………」
……楯無さん、空気読んでください。
*
「なんだかさっき鈴音ちゃんから殺意の波動を感じたのだけれど……私、何か悪いことした?」
「あー、あれですね。多分その青い髪が気に障ったんじゃないでしょうか」
「え、今さら? 初対面の時そんな素振り微塵も見せてなかったでしょう?」
「最近かき氷のブルーハワイ食べて腹壊してましたからね。先輩のブルーハワイを見て嫌な記憶が刺激されたんじゃないかと」
「髪の毛をブルーハワイって言われたのは初めてよ」
楯無さんの後について行っている道中のこと。まさか口づけを交わす直前でしたなんて説明するわけにもいかないので、彼女には即興で考えた偽ストーリーを話しておいた。ちなみに鈴が腹を下したのは本当だ。
「まあいいわ。とにかく私の部屋にどうぞ」
「お邪魔します」
連れてこられた先は、学生寮の2階、つまり2年生のフロアにある楯無さんの自室だった。ルームメイトは外出中らしく、部屋の中には俺たち2人しかいない。
「とりあえず飲む物出すから座って待っててね」
「あ、いえ、おかまいなく」
「遠慮しなくてもいいわよ」
屈託のない笑みを浮かべる楯無さん。それじゃあ、ご厚意に甘えさせてもらうとするか。
「コーヒーと青汁と日本茶と青汁と青汁、どれが飲みたい?」
「待ってください、なんで選択肢の過半数が青汁なんですか」
「この前青汁を大量に衝動買いしちゃったんだけど、おいしくないし味に飽きるしで処分に困ってるのよねえ」
「つまり俺に飲ませて少しでも量を減らそうとしているわけですね」
「正解♪」
笑顔に騙された俺が馬鹿だった。やっぱりこの人は何考えてるかわかったもんじゃない。
「じゃあコーヒーで」
「コーヒー味の青汁ね」
「それも青汁だったんですか!?」
「ちなみに日本茶は本物の日本茶でした、残念」
くそ、なんかクジを外したみたいで悔しいぞ。
……結局日本茶を出してもらえたのだが、負けた気分で飲むお茶はいつもよりもほろ苦く感じた。
*
「さて、それじゃあ本題に入らせてもらいます」
「あ、そういえば話があるって言ってましたっけ」
お茶を飲んで互いに一服したところで、楯無さんが話を切り出す。わざわざ俺を部屋まで連れてきたんだから、きっと大事な内容なのだろう。
「本音ちゃんから聞いたんだけど、簪ちゃんと会ったんですって?」
「ええ、まあ……というか、先輩ってのほほん……布仏さんと知り合いだったんですか」
「知り合いも何も幼馴染だし……という話はまた今度にして。それで、簪ちゃんのことなんだけど」
更識簪。今俺の目の前にいる生徒会長・更識楯無さんの妹で、日本の代表候補生。何日か前に1度だけ寮の廊下で話したことがある。
「あの子がキミに聞きたいことを聞いたっていうのは本当?」
「……そうですね。布仏さんと俺がけしかけて渋々って感じでしたけど」
――絶対に本物に届かない模倣なんてことを続けていていいのか。
彼女の問いはそんな感じのものだった。俺が自分なりに考えて出した答えに、あの子は納得してくれたのだろうか。あれ以降会っていないのでなんとも言えない。
「そう……あの簪ちゃんが、ね」
小さくうなずく楯無さんの表情は、どことなくうれしさと寂しさが入り混じった複雑なものに見えた。……いったい、何を考えているのだろうか。
「一夏くん」
「はい」
「お願いがあるの」
赤い瞳が、真っ直ぐに俺を見据える。いつもとはまったく違った楯無さんの雰囲気に、思わず背筋が伸びていた。
「私の妹のこと、少しだけでいいから気にかけてくれないかな。廊下で会ったらちょこっと声をかける程度でいいから」
「……どういうことですか?」
素直に思ったことを口にすると、楯無さんはきまりの悪そうな顔をして、少し声のトーンを下げて語り始める。
「あの子、私にコンプレックスみたいなものを抱いてて……その、いろいろと焦っちゃってるのよ。用意されるはずだった専用機もまだできていないし」
「専用機ができていない?」
「ええ。倉持技研が白式の開発と改造に熱をあげているせいでね」
思わぬところで俺につながってきた。更識さんが専用機を持てていないのは、元をたどれば織斑一夏という人間に原因があるということだ。
「もちろんそのことで一夏くんを責めるつもりはないわよ。簪ちゃんのことをお願いするのも、別に専用機絡みのことが理由じゃない」
「……じゃあ、その理由っていうのは」
「……一夏くんなら、あの子にいい影響を与えてくれるかなって思ったから」
どうしてそう思ったのか。俺が尋ねる前に、楯無さんは自ら答えを口にする。
「簪ちゃんはね、昔から人づきあいが苦手なのよ。だから必要以上に他人に関わろうとしない。心を開くのは幼馴染の本音ちゃんにくらいかな」
「……先輩には?」
「残念ながら、ね」
やはり姉妹仲がよくないようだ。こんな元気のない楯無さんの声、初めて聞いた。
「……そんなあの子が、キミには言葉を投げかけた。本音ちゃんや一夏くんにけしかけられたからだとしても、最後には自分の意志で他人であるキミに質問をしたのよ。……これが理由。なんとなくわかってもらえた?」
つまり、この人は俺が妹さんにとってある程度特別な存在だと考えている、ということなのだろう。そんな気はまったくしないが、他ならぬ彼女の姉が言うのだからあながち間違いではないのかもしれない。
「そうですね。どうして俺に頼んだのかっていう疑問は解決しました」
あとはこの頼みごとを受けるか受けないかだけど……
「……なんとか、やってみます」
「っ! ありがとう、一夏くん!」
更識さんがどういう意図であんなことを聞いてきたのかも気になるし、こんなに真摯にお願いしてきた楯無さんの思いを無碍にしたくもない。だから、断る理由は存在しなかった。
「お礼になるかどうかはわからないけれど、これからたまに一夏くんのIS訓練を手伝うことにするわ」
「お願いします」
こうして等価交換が成立。俺は更識簪さんに接触してみることになったのだった。
*
「……おかえりなさい」
部屋に戻ると、鈴が本棚に置いてあった漫画を読み漁っていた。顔を見ただけではっきりとわかるくらいのご機嫌斜めっぷりである。悪気はないとはいえ、2回もキスを邪魔されたのが堪えているのだろう。
「留守番させちまって悪かったな。30分も暇だったろ?」
「別に、漫画読んでたから平気よ。アンタが帰ってくるまで待つって言ったのもあたしだし、謝られる筋合いはないわ」
「いやいや、それでもお礼くらいはしないとな」
そう言って、俺は拗ねている鈴に近づき。
「ほら、朝の続きだ」
自分でも驚くくらい自然な動作で、彼女の唇を奪っていた。
「っ!?」
鈴の体がピン、と硬直する。まるで電流が走ったみたいだなと思いつつ、柔らかな唇の感触を堪能……する前に恥ずかしさが限界を迎え、顔を離してしまった。
「ぷはっ……い、いきなりしてこないでよ! 心臓止まるかと思ったじゃない!」
「すまん。でも悠長にやってたらまた誰かがやってくるかもしれないし」
ゆでだこのように真っ赤になっている鈴を見て、多分俺も同じようになってるんだろうなと予想する。……とにかく、顔も体もめちゃくちゃ熱い。
「で、どうだった? 俺からしたキスの感想は」
「……不意打ちだったし、すぐに唇離しちゃったから、全然感じがつかめなかった」
「お前、それもしかしてもう1回やり直せと要求してるのか」
「……一夏は、嫌なの?」
嫌じゃないです、はい。
「んじゃ、仕切り直しの1回、いくぞ」
「うん」
2度あることは3度ある……にはならなかったようで。
俺たちはその後、誰にも横槍を入れられることなく唇を重ね合わせることができたのだった。
箒に関してはしばらく問題のある状態が続く予定です。彼女はこの作品においてもかなり大事なキャラクターなので、丁寧に描いていきたいと思っています。
楯無さんのお話とは簪のことでした。原作と同じ感じでお願いを受けた一夏ですが、彼女との関係もしばらく決着に時間がかかりそうです。
鈴とのいちゃいちゃはどんな感じで書けばいいのかよくわからないです。今回はこんな感じでしたが、次はもっと薄味になったり濃い味になったりするかもしれません。
では、次回もよろしくお願いします。
わりとどうでもいいですけど、ブルーハワイって僕の地元ではハワイアンブルーと呼んでいました。なんか関東圏はブルーハワイが多いと聞いたのでそっちに合わせたのですが、実際はどうなのでしょうか。