「いらっしゃい……あら、鈴音と一夏くんじゃない!」
店の戸を開けると、突然の来訪に驚きながらもおばさんが出迎えてくれた。しばらくここには足を運んでいなかったが、店内の様子は特に変わっていない。お客さんもそこそこ入っているし、まだまだ経営面での心配はなさそうだ。
「一夏と外で遊んできたから、ついでにここで晩御飯を食べようってことになったのよ」
「どうも。えっと、お久しぶりです」
「一夏くんとは本当に久しぶりね。背、すごく伸びたんじゃない?」
「一応、成長期なんで」
俺と鈴の顔を見れてうれしいのか、おばさんは少しテンションが高い気がする。かくいう俺も、こうしてこの店で働いているおばさんを再び目にすることができて本当にうれしいと感じている。
「あれが店長がいつも自慢している娘さんか。俺初めて見たよ」
「俺はこの前来た時にも見かけたぞ。かわいい子だよな」
「2年前から彼女の姿を見守ってきた俺が断定する。ありゃ将来美人になる」
おばさんに案内されて空いている席に移動する途中、他の男性客の話し声が耳に入ってくる。……鈴のやつ、相変わらず人気みたいだな。中国に戻る前は看板娘として客引きに一役買ってたし、その辺は弾の妹の蘭と同じだ。……あっちはファンクラブみたいなものまで存在しているようだが。
「おう、鈴音じゃないか。飯を食いに来たのか?」
「あ、お父さん」
メニューを見て注文を考えていると、厨房からおじさんがひょっこり顔を出してきた。鈴を見つけてにこりと微笑むと、続いて俺に視線を移し。
「娘はやらんぞ」
「いい加減その言葉を俺専用の挨拶にするのやめてもらえませんか」
めっちゃガンを飛ばしてくるおじさん。このやり取りは悲しいことに1年前からずっと続く恒例のものとなってしまっている。
中学2年の春休み。俺と鈴の別れ際のキスの現場をしっかり目撃していたおじさんは、それ以降俺と会うと必ず『こんにちは』の代わりとばかりに先ほどの言葉をぶつけてくる。その一言の後は鈴の話題が出ない限りは普通に接してくれるのだが、俺が店でバイトしていた時期などはふとした拍子で鈴の話になることも多く、そのたびに睨みつけられるので結構困ったものだった。バイトをやめて受験勉強に専念し始めた夏以降は会うことも少なくなったのだが、時間の経った今になってもおじさんの態度は変わっていないようだ。
「うちの愛娘とデートした挙句私に見せつけにくるとはいい度胸だ」
「いや、別に見せつけるつもりはまったくないんですけど。ただ近くまで来たからおじさんとおばさんにご挨拶しておこうかと」
「両親に挨拶しに来ただと! くっ、まさか結婚まで話が進んでいたとは……!」
「そういう挨拶じゃないです!」
面倒くさい。娘が絡むとこの人ものすごく面倒くさい。鈴と一緒に来るとこうなることが容易に予想できたからここで飯を食うのが躊躇われたんだよなあ。
昔はこんな人じゃなかったのに、何が彼を変えたというのか。やっぱり会えない間に子への愛が深まるというのは事実なんだろうか。
「お、お父さん……?」
「仕事中に何を馬鹿なこと言ってるんだか……」
俺とおじさんのこういった会話を初めて聞いた鈴は戸惑い、おばさんは呆れたようにため息をついている。同居再開の直後に再び別居なんて事態にならないことを祈るばかりだ。
「……ふん、まあいい。夕飯を食べに来たなら腹いっぱいになるまでしっかり味わうんだぞ」
ようやく落ち着いてくれたおじさんは、そう言い残して厨房に戻る。……今のやり取りで精神的に疲れたからか、腹の虫の自己主張が激しくなってきた。とっとと注文してたらふく食べてやろう。
「一夏、何食べるか決まった?」
「ああ、この味噌ラーメンと餃子のセットにする。……あとさ鈴、食べ終わってからなんだが――」
*
「食べてすぐ後に運動するのはあんまり体に良くないんだけどねえ」
「キャッチボールくらいなら大丈夫だろ。久しぶりにやろうぜ」
「わかったわよ。あたしもちょうど懐かしいと思ってたところだし」
相変わらずのおいしい中華料理をいただいた後、俺は鈴を連れて店の裏の空き地を訪れていた。よっぽど人気がないのか、この土地は5年前から一切建物が建っていないのである。よって今でも、昔と変わらず2人でちょっとした遊びくらいはできるというわけだ。
「……しかし、まさかお父さんとアンタがあんな関係になってるとは思わなかったわ」
「俺は態度を変えてるつもりはないんだけどな。おじさんが過敏になりすぎてるだけだ」
本当、普段は気のいい大人の男なのに、そこだけが悔やまれる。
『おじさん、グラブ借りていいですか? ちょっとキャッチボールしたくなっちゃって』
『キャッチボールか。いいぞ、好きに使ってくれ。……ところで一夏くん、キャッチボールついでにうちの草野球チームに入らないか。深刻な若手不足なんだ』
『はは、俺じゃ足引っ張りそうなんでやめときます。若手なら鈴がいるでしょ』
『鈴音以外むさ苦しいおっさんばかりなんだがな……』
『まあ、次の試合の応援には行きますよ』
以上が先ほどグラブを貸してもらう際に行われた会話である。こっちがおじさんの本来の姿だということを補足しておく。
「よし、それじゃ投げるぞ」
「オーケー」
左手にグラブをはめて、鈴に向けて第1球を投じる。軽く放られた山なりの軟球は、そのまま鈴のグラブにポスリと収まった。
「アンタとこうしてキャッチボールするのも1年ぶりね」
「そうだな」
両者のグラブ間で球を行き来させながら、鈴と他愛のない話を繰り広げる。時刻は午後6時半。夏の空もようやく暗くなり始め、東から昇ってきた満月が顔をのぞかせている。
「初めてお前とまともに話した時も、俺たちここでキャッチボールしてたんだよな」
「そうそう。確かアンタ、あたしに気を遣ってへたくそな英語使おうとしてたわよね」
「あったあった、そんなこと。あの時は英語なんて全然知らなかったのにな。ま、今になっても自信があるってわけじゃないが」
「期末試験、大丈夫なんでしょうね」
「最大限の努力はいたします」
「なーんか不安を煽られる言い方ね……」
ジト目で睨んでくる鈴。ちなみに実際のところは、周りの人たちの頼もしいサポートのおかげで意外となんとかなるんじゃないかという希望が見えている。今の段階だと少なくとも相川さんよりはできるようになっているはずだ。
「ま、補習だけは避けてみせるさ」
少し強めに返球する。慣れてきたし、もうちょっと球速を上げてもいいだろう。
「お父さんも言ってたけど、草野球の試合に出てみない? アンタ運動神経いいんだし、結構イケると思うわ」
「そうか? けど俺送球が安定しないぞ」
「あたし含めてみんなわりとエラーするから大丈夫よ。次の試合はセシリアも出るし」
「は? セシリア? いつの間にそんな話になったんだ」
この前テレビでプロ野球観戦した時、ルールを懸命に覚えようとしていたのは記憶に新しいが……あいつ野球できるのか?
「海の日に試合があるから、それまでに外野を守れる程度の守備は身につけさせる予定」
「間に合うのか、それ」
「要領はいいし、なんとかなるんじゃない?」
「ふーん……」
まあ頑張れ、としか言いようがない。セシリアが野球を学んでいる間に俺は英数国理社を学ばなければならないので、手伝うこともできなさそうだ。
「うまくいくといいな」
「ちゃんと応援に来なさいよね。アンタがいればセシリアも張り切って活躍しそうだし」
「了解」
おじさんに言った通り、応援には行くつもりだ。しっかり鈴とセシリアの雄姿をこの目に焼き付けさせてもらおう。
「………」
そこで会話の流れが止まり、しばらくの間無言でのキャッチボールが続く。グラブとボールが生み出す乾いた音が、夜の空き地に響き渡る。
「……ねえ、一夏」
「ん?」
「……水族館で、あの迷子の子とお母さんが帰る時、変な顔してたでしょう」
「……変な顔ってなんだよ」
「具体的に言うと、たぶん寂しそうな顔をしてたと思うけど。違った?」
俺にそう尋ねる鈴の声は、少し硬かった。さっきまでの沈黙は、これを言うか言うまいか迷っていたということなのだろう。
「……よく見てるな」
「そりゃあ、アンタの顔はいつも念入りに観察してる……じゃなくて」
今のは好きな人の顔だから注意して見ているという意味なのか。だとしたら照れるな。
「あの時、何を考えてたの?」
心配してくれているのが伝わってくる鈴の言葉。そんなふうに言われると、俺も正直に白状するしか選択肢がなくなってしまう。
「家族って、いいもんだなって」
俺の言わんとすることを理解した鈴がはっと息を呑むが、かまわずに話を続ける。せっかく気遣ってくれたんだ、きちんと俺の気持ちを言葉にしておきたい。
「子供が親に甘えて、迷子になって迷惑かけて。怒られたりもするけど、最後にはちゃんと優しく、大切にしてもらえる。そういうの、いいなあって思ったんだ」
「一夏……」
「別に、自分が置かれてる環境に不満があるわけじゃない。千冬姉は俺を大事に守ってきてくれたし、仲のいい友達だってたくさんいる。だから俺は十分幸せだ。……けど、たまに考えちまうんだよ。もし、今も両親がそばにいたらどうなんだろうって」
自分でも欲張りだと思う。これだけ周りに恵まれているのにもかかわらず、まだいなくなった親という存在を求めているなんて。……隣の芝生は青いってやつなのかな。
ひとまず言うべきことを言い終えたので、鈴にボールをゆっくりと投げ返す。それを受け取ったあいつはそのまましばらく動かず、なぜかボールと俺の顔を交互に見比べている。
「……だったらさ」
どのくらい経ったろうか、ようやく意を決したように鈴が口を開く。
「だったら、自分で作ればいいじゃない。……その、結婚とかすれば……あ、でも違うのよ! あたしを選べってことじゃなくて、誰とでもいいから奥さんもらって、子供産めば……いや、でもやっぱりできればあたしをお嫁さんにって何言ってんのあたしはー!?」
勝手にしゃべって勝手に恥ずかしいセリフを口にして勝手に頭を抱えているその姿に、思わず頬が緩んでしまった。
同時に、鈴の優しさが深く心に染みるのを感じる。俺の話を聞いて、なんとか元気づけてやろうと考えて、うまく形にならない言葉を必死に伝えようとしてくれたんだろう。
そう思うと、今もうんうんうなっているこいつの姿が、とてもかわいらしいものに見えてきて。
「ああ……そっか。そうだったのか」
*
一夏の独白を聞いて、鈴の胸の中は切なさであふれそうになっていた。
彼女の家族は、1年という時間を経て無事元の形に戻った。そのきっかけを与えてくれたのは紛れもなく一夏なのに、その一夏自身は両親のいないことに寂しさを感じているままだ。そう考えると申し訳なくて、なんとかしてあげたいという気持ちで頭がいっぱいになる。
しかし、結局口から出たのは支離滅裂な言葉だけ。こういう時に上手なことを言えない自分の不器用さに、鈴はどうしようもなく腹を立てていた。
「はは、俺まだ高1だぞ? 結婚なんて先のこと過ぎて想像もつかねえよ。第一、それじゃ俺が親になってるじゃないか」
「そ、そうよね。ごめん、変なこと言っちゃって」
茶化すような一夏の態度に合わせて、鈴も苦笑いを浮かべる。次こそは、ちゃんと一夏を元気づけられるようなことを言おうと考えつつ――
「……けど、それもいいのかもしれないな」
不意に一夏が発したつぶやきに、一瞬思考が停止した。
「一夏……?」
「ほら、早くボール渡してくれ」
「え? あ、うん」
言われるがままにボールを放る。そのせいで、尋ねるタイミングを逸してしまった。
「よし、じゃあ今度は俺の番だな」
ゆったりとしたフォームをとり、投球動作に入った一夏の右手からボールが離れる。
「あのさ、鈴」
ほぼ同時に、一夏は鈴に語りかけてきた。それはいつもと変わらない、幼馴染に対する軽い調子の話し方で。
「……俺、お前のこと好きだ」
――瞬間。世界が、止まったような気がした。
というわけでついに告白です。一夏の心情は当然次回で補足します。
「よし、じゃあ今度は俺の番だな」という一夏のセリフは「よし、じゃあ今度は俺の(告白する)番だな」という意味でもあったり。今回地の分がちょっと少なくなってしまったような気がしますが、ある程度は意識してのものです。キャッチボールしかやってないので、会話中心に進めたほうがいいと考えました。
誰かを選ぶということはそれ以外の誰かを選ばないということ。次回はそのあたりに関連した話になる予定です。
では、次回もよろしくお願いします。