「えーと、ここはあれか、補助線引くのか」
土曜日の夕食後、俺は数日前から始めた試験勉強にいそしんでいた。幸い周りに頭がいいやつが多くて、わからないところは聞きに行けばすぐに教えてくれるので、意外となんとかなりそうな気がしてきている。特に授業の要点をまとめたノートを俺のために用意してくれたシャルロットには感謝感謝で足を向けて寝られないくらいだ。俺に近づいたのは父親からの命令だったと言っていたけど、やっぱりいい子なことに変わりはないよな。
「……父親、か」
シャルロットはデュノア社の社長の愛人との娘で、母親が亡くなった後父親に引き取られた。だけど父親と彼の本妻は彼女を娘として扱わず、会社の経営のための道具として使ってきた……らしい。シャルロット本人からその話を聞いた時、俺は怒りをこらえるので精一杯だった。自分自身が親に捨てられたという経験から、シャルロットの立場に対する同情が深いものになったからだろう。だから、彼女が父親のことを『あの人』と他人行儀に呼ぶのも当然だと感じていた。
……ただ、やっぱり親と子は仲良く一緒にいてほしいという気持ちがあるのも確かだ。子供には親が必要だということは、鈴の両親の離婚騒動の時にはっきりと感じた。
生きているのなら、会える場所にいるのなら、デュノア親子が和解する可能性はわずかにでもあるのかもしれない。もしそうなら――
「っと、電話だ」
着信音が耳に入ってきたので思考を一時中断し、机の端に置いてあった携帯電話を手に取る。画面には、『五反田弾』の4文字が映っている。
「もしもし」
『よう一夏、元気か』
「ぼちぼちってところだな。そっちはどうだ?」
『こっちも相変わらずだ。今日もじーちゃんに一発殴られた』
五反田家もこの前遊びに行った時と変わらずみんな元気なようだ。家庭内ヒエラルキー最下層にいる弾の姿が容易に想像できる。
『それで用件なんだが、明日うちに遊びに来ないか? 面白いゲームが手に入ったんだ。数馬も来るからよ』
「あー……悪い。明日は先約があるんだ」
『先約?』
「ああ。鈴と水族館に行くって約束をしてる」
弾に対しては隠すようなことでもないので、素直に先約の内容を話す。下手にごまかそうとして変な勘違いをされても困るしな。
『……お前、それ2人きりで行くのか?』
「そうだけど」
『ということは、ひょっとするとデートというやつか』
「ひょっとしなくてもデートだ」
改めて明日はデートなのだということを意識すると、なんだか気恥ずかしいものがある。ラウラやシャルロット絡みのことでごたごたしてはいたものの、その間もどういう風にデートを進行させるべきなのかということは何度か考えていたのだ。正式なデートは初めてなんだし、気をつけなければならない点は多い。
『ふーん、お前もずいぶん色気づいたもんだな。ま、俺はお前ら2人のこと応援してるから』
「そう言われてもな……どうもちゃんとした答えが見つからないんだ。改めて自分の人生経験のなさを痛感してる」
『その答えを見つけるためのデートだろ。ちょっとでもいいなと思ったら付き合っちまえばいいんだ。時には積極性も大事だぞ』
「そんな簡単な問題でもないだろ。付き合うってことは……ほら、将来結婚する相手を選ぶみたいなもんだ。だから、真剣に考えないと」
『……お前、いつの時代の人間だよ』
困ったような声で俺に問いかける弾。いつの時代って、お前と同じ年に日本という国で生を受けたわけなんだが。
『んなこた知ってるよ。俺が言いたいのはお前の考え方が時代錯誤で堅すぎるってことで……まあいいか。そんだけ大事に考えられてるってことは、鈴もある意味幸せ者だろうし。とにかく、明日は頑張れ。俺から言えることは以上だ』
「ああ、サンキューな、弾」
その後は軽く雑談を交わして、10分ほどで通話を切った。時刻は午後10時。明日の準備もあるし、そろそろ勉強を切り上げるか。
「それにしても、鈴とデートか……」
あいつとこういう関係になるなんて、初めて会った時からは想像もできないことだと思う。なにせ、初対面でいきなりあんな目に遭わされたんだもんな。
*
凰鈴音という少女が中国から転校してきたのは、幼馴染の篠ノ之箒が突然引っ越してしまってから数ヶ月後の、小学5年の春のことだった。クラスが違ったので直接話す機会はなかったのだが、遠目に眺めた限りでは『頭の左右両側から伸びてる髪が印象的なかわいい女の子』という感じだった。
そのまま1ヶ月たって、クラス替えによるクラスメイトの変化にも慣れてきた頃、どうも例の転校生がいじめられているらしいという噂が俺の耳に入ってきた。日本に来たばかりで言葉がうまく話せないのを馬鹿にした男子数名が、彼女に嫌がらせを行っている、とかなんとか。
あまり気分のいい話じゃなかった。中国から来て、日本語が上手じゃないってだけでいじめられるなんて馬鹿げている。今は確かな証拠がないから黙ってるけど、もしいじめの現場を見かけたらすぐに割って入るつもりでいた。
そして、その時は案外早くやって来た。ひとりで下校中、なんとなく普段通らない道を選んだところ、人通りの少ない路地で凰が男子4人に囲まれておびえている場面に出くわしたのだ。
「ほらリンリン、笹食えよ笹」
「パンダみたいな名前してるんだから当然食えるよなー」
「ははは!」
どこで仕入れてきたのか、ご丁寧に実物の笹を手に持っている男子たちの笑い声が妙に鼻につくな――と感じた時には、すでに俺はそいつらに向かって全力疾走を始めていた。そりゃもう、思いっきりぶん殴るつもりで。
「うわっ、なんだお前!」
「織斑じゃねえか! くそっ……」
結局俺は4人の同級生を相手に大喧嘩をすることになり、気がつけば体のあちこちに痣を作ってしまっていた。それでもなんとか連中を追い払えたのだが……これ、絶対明日先生に怒られるよな。箒の時のように千冬姉に迷惑をかけることになったら、それは嫌だ。
「おい、大丈夫か?」
呆然と俺を見つめていた凰に声をかけ、ゆっくりと歩み寄る。カッとなっていきなり殴りに行ったのはまずかったけど、とりあえずこいつを助けられたのはよかっ――
「っ!!」
次の瞬間、凰の右ストレートが俺の左頬を捉えていた。『痛い』と『なんで?』という感情が同時に湧き上がり、しばし思考がフリーズする。
「………っ」
俺があっけにとられている間に、凰は走ってその場を去ってしまっていた。……うわ、速いな。
「………」
ひとり残された俺は、ここ数分の出来事を時間をかけて冷静に振り返り、結果として。
「って、ふざけんな! なんで俺が殴られるんだよ!」
理解できない凰の行為に恩をあだで返されたような気がして、再び頭に血を上らせてしまったのだった。
*
「――それで、結局そいつらと喧嘩になった。だから、もしかしたらまた千冬姉が学校に呼び出されちゃうかもしれない。……ごめん」
その日の夜。夕食のカレー(それなりに自信作)を一緒に食べながら、俺は千冬姉に夕方の出来事を話した。謝罪の言葉を聞くと、千冬姉はスプーンを皿に置き、
「すぐに手が出るのはあまり良くないことだが、お前のやったことは間違いじゃない」
と答えた。つっけんどんな言い方だけど、その顔には微笑が浮かんでいる。
「でも、凰のやつわけわかんねえよな。いきなり顔をグーで殴ってきたんだぜ? 信じられないっての。ろくでもないやつだ」
凰に対する怒りは、数時間たってもまだ収まっていなかった。きれいに入った一撃だったようで、いまだに頬がひりひりする。
「……お前は、その子のことをろくでもないやつだと考えているのか」
「え? そりゃそうだろ」
何を言っているんだと千冬姉を見る。
「お前はいきなり乱入して男子たちと喧嘩を始めたのだろう? その光景を見て、彼女は少し気が動転していた可能性がある。お前を殴ったのも、何か理由があってのことなのかもしれない」
諭すような千冬姉の口調に少しむっとなる。――その頃の俺は、とにかく早く成長しようと背伸びしている時期で、子ども扱いされるのがなんとなく嫌だったのだ。
「なんだよ、千冬姉はあいつの肩を持つのかよ」
「そうは言っていないさ。ただ、まともな会話をしてもいないのに相手がどんな人間が決めつけるのはどうなのかと思っただけだ。……ごちそうさま。おいしかった」
「……お粗末さまでした」
まだ言い返したいことがあったのに、『おいしかった』なんて言われたら文句も全部引っ込んでしまう。千冬姉のそういうところがずるいんだ、などと思いつつ、最近ようやく形になってきた自分の料理に満足を覚えるのだった。
*
夕食が終わって、千冬姉はまた仕事だと言って家を出て行ってしまった。束さんが行方知れずになってから、家を空ける時間がかなり増えた気がする。寂しくないと言えば嘘になるが、仕方のないことだと思う。
「48……49……50……っと。よし、腕立て伏せはこんなもんでいいか」
で、ひとり家に残った俺は、日課である夜の運動に励んでいる最中だ。以前千冬姉に『俺も千冬姉みたいに強くなりたい』と言って、『ならまずはもっと筋肉をつけろ』と即座に返されて以降、基本的に毎日休まず行っている。おかげで最近、少し腕が太くなったような気がする……たぶん気がするだけだけど。
「まともな会話をしてもいないのに、か……」
腹筋運動に移ろうとしたところで、夕食時のやり取りを思い出す。……確かに、千冬姉の言う通りなのかもしれない。殴られたのが結構ショックだったせいで、勝手に嫌なやつだと判断してしまったけど……何かわけがあったのだとしたら、俺はそれを知りたいと思う。
「もう1回話しかけてみるしかないか」
結局それ以外に問題を前に進める方法はない。また殴られるかもしれないが、このままもやもやした感じが心に残るよりはずっとましだ。
「日本語がうまくないらしいから、ゆっくり話せばいいのか? いや、世界共通の英語で話した方がいいのかも。……えー、ハロー。ハウアーユー?」
……英語はやめておくべきかもしれない。仮に向こうが話せたとしても、俺が聞き取れないし口にもできない。
*
翌日。意外にも昨日の喧嘩のことは先生に伝わっておらず、俺が怒られるということはなかった。あの男子たちも自分たちのいじめがばれるのを恐れたのかもしれない。人気のない場所だったし、目撃者もいないはずだ。
「一夏、お前今日の算数の宿題やったかー?」
「……あ」
そういえば、1週間前くらいにどばっとドリルが出されていたような気がする。まずいな、うちのクラスの先生は宿題忘れると怖いから、5時間目の算数の授業までになんとか終わらせないと。
「凰に会うのは放課後でいいか」
あいつのことも気にかかるが、自分の宿題も同じくらい大事な優先事項だ。ここは懸命にドリルを解く作業に専念したほうがいいだろう。
――なんとか大量の宿題をさばき切り、迎えた放課後。凰のクラスに行くと、すでにあいつの姿はなかった。うちのクラスの終わりの会がやたらと伸びたから、その間にもう帰ってしまったのだろう。靴箱にも上履きしか入ってなかったし、まず間違いない。
「……家に行ってみるか」
確かあいつの両親は中華料理の店を開いていたはず。行ったことはないが、最近スーパーのあたりに新しく店ができたという情報は頭に入っている。今日は千冬姉も帰ってこないらしいし、せっかくだから凰に会うついでに夕食はそこでとることにしよう。
「よし」
そうと決まればすぐさま行動。いったん家に帰り、財布にお金を補充してから中華料理屋へと歩を進める。多分自宅から歩いて5分くらいってとこだろう。
……そして、もうすぐ目的の店があるであろう場所に着こうというところで。
ぽーん……ぽーん……
「ん……?」
ボールか何かが跳ねる音に、なんとなく足を止める。たぶん、あっちの空き地から聞こえてきたんだと思うが……
「あれは……」
空き地をのぞいてみると、塀に向かって壁当てをしているひとりの女の子がいた。結構きれいなフォームで軟球を放るたび、頭から生えてる……ツインテールって言うんだっけ、それが揺れてる。こっちに背を向けてるから顔は良く見えないけど、あれは俺が会いに来た人物――凰鈴音本人だ。
「おい」
しばらく壁当てを眺めた後、声をかける。ビクン! とその背中が震えて、おそるおそるこっちを振り向く凰。
「っ!?」
そこにいるのが俺だと認識した途端、いきなり2,3歩後ろに下がって距離をとってきた。やっぱり警戒されているらしい。
「あー、その……そんなに怖がらなくていいんだ。俺は別に、お前に嫌がらせをしようとか、そういうつもりで来たわけじゃないから」
「………」
こっちを睨んだまま、凰はますます俺から離れていく。……駄目だ、らちが明かない。
「……あ」
どうすりゃいいんだと途方に暮れているところで、壁際に落ちている野球のボールと、凰が左手につけているグラブが目に留まった。……これだ。
「凰、ちょっと待ってろ。5分くらい」
それだけ言い残して、全力疾走で空き地を出る。あいつが俺の言う通りにその場にとどまっていてくれるかは果てしなく微妙だが、そのときはそのときだ。
「こうなったら意地でも会話してやる……!」
目的地は俺の家。そこに置いてあるものを目指して、俺は宿題をやるのに疲れた体にむち打って走り続けた。
真面目な話になるとなぜかキーボードを打つ指の動きが遅くなってしまいます。わりとどうでもいいシーンの方が書きやすいのは悲しいです……
前書きにも書きましたが、今回と次回は過去編で、一夏と鈴のなれ初めを書いていきます。次回は鈴視点での回想になります。これが終わったら10話以上前から約束していたデート回がようやくやってきます。
そろそろ大学のほうも忙しくなりそうで更新も遅めになるかもしれませんが、次回からもよろしくお願いします。