昨日が一昨日になっていくことが悲しくて仕方がない自分と、不易流行だから仕方ないよそういう変化を悲しいと思えることが愛おしいよね、と言う自分が同居している。
永遠に夢の中にいることはできない。
ディズニーランドだって、22時で閉まるのだ。
最近はよく、二つの人格が私の中で会話をしている。
武道館の翌日は、カラーボトルの10年20年のサビを脳内再生するだけであんなに泣けそうになってたのに、今じゃ動画を再生したってあの時のように胸が熱くなったり鼻の奥が痛くなったりしない。
なんでだよ!
苦しかったときの光景はまさにあの時と同じくらいの感覚でフラッシュバックするくせに、楽しいことや幸せだったときの瞬間がふっと蘇ってくれることはないなんて、やっぱりどう考えたって理不尽だろう?
だけど人間なんてそんなもんでしょうってもう一人の自分が言う。
中三の夏、この愛おしい毎日が、ただの学生生活の青春の一ページにしかならないことに気づいたときの絶望。
将来の私は今の私を振り返って、「懐かしい」の一言でまとめるのだろうかと、勝手に未来の自分に失望していた。
だけどお前は成人式の夜泣いただろう。卒業式にも泣かなかったお前が、愛おしい日々を思い出して泣いただろう。
だからそれでいいんだと、それに納得する自分がいる。
でもやっぱり、納得いかないよな。
昨日が一昨日になって、一昨日が一週間前になる頃、「もう一週間かぁ」などと言いながら、もう細かいことなんて何一つ覚えていない自分。一週間前が一年前になって「もうあれから一年経つのか」と、「あれから一年」という文字列だけで感傷的になる自分。三年も経てば、もう何も思わなくなる自分。
自分に嫌気がさすとは言うが、それよりももっと、単純に思い出せなくなってゆくことが、悲しくて仕方がない。