誰が大人で、誰が子供か | 世界はあたしのお庭なの

誰が大人で、誰が子供か

テーマ:日記ではない

よーへいは、かつに対するあたしの怒りの鉄拳記事や、その後の記事の内容を読んで(書き途中も見てるから)、コメント欄にお疲れ様コメントをしたのだと思うけど、そのお疲れ様の半分は受け取れない。
一人で進んだり、こうやって書いてきたことに対するお疲れ様は貰っておく。
だけど、かつや前の記事に関してのお疲れ様はいらない。
見えない世界を殆ど知らなかったあの頃のあたしを、ボロボロになるまで追いやった原因の一つを作った人に、お疲れ様と言われてもイラッとするだけ。
それ、覚えておいて。



人間は、どうも大人になるほど馬鹿になる者が多いらしい。

あたしはよーへいから、自分を批判する者や、馬鹿にする者達から気持ちを離したり、批判を浴びない方法を教わってきた(全く言うこと聞いてないけど)。
大事なものを心に仕舞って本音で話さなければ、何を言われても傷付かないこと。
腹の立つものは見ずに、触れないようにすること。
相手に対して意見するのではなく、自分の主張にすること。
エネルギー循環の癒しで、心をリセットすること。
まだあるけど、そんな諸々を教わった。
確かにそうしておけば、傷付くことは少ないだろう。
相手が不快になるような発言は避け、「自分はこう考えるけど、貴方には貴方の考えがあるよね」で止めておけば、大概は丸く収まる。
お互いを尊重出来、物事の本質を見ようとする者同士なら、それはアリだとあたしも思う。
でも、よーへいを知り、よーへいのことを調べ始めた当初から、あたしには向かないやり方だったとは思う。

初めてそれを感じたのは、マリエちゃんのことでだった。
彼女は縁があって、よーへい達の仕事に時々参加していた。プライベートでも、会って話すようなことはあったかもしれない。
よーへいと二人で写っている写真も見かけたりするから。
そういったことが、ファンにとっては癪に障るものだったのだろうね。
あたしが目にしたのは、「マリエ死ね」だとか、「いい気になるな」だとかいう言葉。果てはブスみたいなことも書いてあった気がする。
自分は到底書かないようなことが、色々書かれていた。
これがよーへいの、ドロスのファンなのか?と、疑いたくなった。

かつにその事を話すと、アイツはこう言った。
「酷いとは思うけど、マリエちゃんも芸能界に入るなら、それくらいは覚悟してて当然だと思う。仕事が仕事なわけだから。覚悟が出来てなかったとしたら、甘いんじゃないか」
あたしは即イラッとした。
「マリエちゃんは非難されるために芸能界に入ったワケじゃないでしょ。女優やるためでしょ。よーへい達と仕事をしてるのは、彼女が芸能界を目指して頑張った結果でしょ。よーへい達でも、よーへい達でなくても、仕事の依頼があったのは彼女が努力したからでしょ」
あたしはそんな風に返した。
それに対してかつは、
「俺だって仕事であれこれ言われることはある。そんなことは誰にでもあるだろ?」
と、言った。
「何言ってるの?誰にでもあるからいいわけ?あれこれ言う正当な理由があれば別だけど、マリエちゃんがよーへいと付き合ってるかもしれないってことで、馬鹿にされたり死ねと言われたりするのは間違っているでしょ。よーへいとそうなりたいのなら、自分が芸能界に入りゃいいじゃんか。そしてお近づきになればいいでしょ。努力して夢を叶え続けている人に八つ当たりしたり、嫉妬したりするのはお門違い。」
こんなようなことを強めに言ったら、かつが黙ったのを覚えてる。

あたしはコメント欄であれこれある前から、よーへいのファンの一部が、子供以下の行動や発言を平気でしているのを見ていた。
今考えてもマリエちゃんへの非難は、発情期のメスザルか何かが、有望なオスを他のメスに取られそうになったために、いきり立っている…とう風にしか思えない。
そういう女達がいるわけだから、コメント欄がああなったなら、ケツの赤い馬鹿女どもがキーキー騒ぐくらいのことは予想出来ていても良かったと思う。
力足らずだった。
あたしはコメントをし始めた頃は必死すぎて、そんなことは頭の隅にさえ無かったわ。

冷静に考えたなら、芸能人が誰と付き合おうが結婚しようが、一ファンには全く関係のないこと。
嫉妬は仕方ないものの、ネットで死ねだの何だのと書くのは、欲しいものが買って貰えないために、その場にひっくり返って足をバタつかせている子供と同じ。
そういう行為を大人がするのは、この世界では「」と言う。
ネットではその「」を忘れてしまう者が多いらしい。
顔や名前が分からないから恥がないんじゃない。
顔や名前を出さないから、自分が恥ずかしいことをしているという意識が薄くなる。
誰かの表情を見て話していないから、自分がやり過ぎていることに気付けない。もしも目の前の誰かが顔をしかめてたら、言わずに飲み込む言葉はあるはず。
これを言ったら嫌われそうとか、酷い人間だと思われるかもしれないと感じて、言えなくなる言葉はあるはず。

公式のコメント欄では、マリエちゃんがされていたようなことを、あたしはされていたの。
一部のファンやよーへい達に。
かつはマリエちゃんの時に言ったようなことを、あたしにやっていた。
よーへいとのことは、かつ自身が決意して始めたことだったはずなのに。
まーちゃんは初め、正義感丸出しで、批判されてるあたしをそのままに出来ないと言って、コメントをし始めた。
だけど2ちゃんねるにニックネームが載って、まーちゃんが行動する度に書かれるものだから、怖くなって何も出来なくなった。
それでも2ちゃんねるを気にして見続けていた。2ちゃんねるの人達の事を馬鹿にしたり悪く言ったりしていた。
それでは2ちゃんねるの人達と何も変わらない。あたしは何度か指摘したけどね。

今のあたしだったなら、やらなかったことも勿論あるし、酷いことを書かれても、自分の愚かさも分からないような者達だから、当然の行動だろうと思えたと思う。
だけどあの頃のあたしは、分からないことがあったとしても、きっと伝わるものはある…そう思って疑わなかった。
かつ達にも、ファンの人達にも。
よーへい達は、そんなあたしを分かっているものだと思ってた。
ギリギリの気持ちでこなしながら、よーへい達は分かってると信じてた。
だけど、そんなことはなかったね。
あたしもよーへい達のことは分かってなかったけど、よーへい達もあたしのことは分かってなかった。
あたしに対する思い込み、あったでしょ。

この世界の人間のことを、自分の思い込みから現実を作っていると思っていたって、よーへい達のような神的人間も、思い込みはあったんじゃない?
人間と関わって生きるなら、人間を知らなきゃならないと思う。
みんな同じとひとくくりにするから、細やかなことに気が回らなくなる。
理不尽だろうが、そうでなかろうが、一人一人傾向は違う。
嫌いな人も好きな人も同じ。
個々の傾向の違い、思い込みの違いを見ることが出来たなら、どんな人のことでも分かりやすくなる。
ひとまとめに出来るものと、出来ないものはある。
あたしも多くの人間とか、ファン達という風にひとまとめにするけど、それは人間の殆どが、ファンの殆どが、少なからず何処かにそういうものを持っているのが分かるから、そう使っている。
本人が気付いていないだけでね。

りんだって、理不尽なファンの一人として片付けてしまってもいい。
彼女は個にしても、多数にしても、ダメなのは変わらない。
世の中には、りんのような人が多い。
個になっても、集団になっても、どっちもダメ。ダメな者は共感しあって固まる傾向があるから、ダメな個が集まって大きなダメ集団を作る。

あたしは5月の初め頃のまで続いた批判の嵐で心を病んだ後、よーへいとのエネルギー循環で心が癒され、8月頃にはまた記事をかけるくらいに回復していた。
けれどその頃も周りは煩かった。
まーちゃんは、分かっているからもうしなくていいと伝えても、何度も何度も同じような忠告をしてくる。助ける気もないのに、忠告だけはしてきた。
ひろりんとけーちゃんも忠告はしてきたものの、分かっているから止めてほしいと伝えたら、それ以降はしなくなった。
あたしは、よーへいのことを気軽にいいねとリアルで言える相手が欲しかった。 
5月までは苦しかったけれど、それ以降のよーへいはいつも懸命で、あたしの回復のために必死になってくれていた。あたしはそれに頼って甘えていた。
よーへいをいいなと思った。
だから、そんな話を出来る人が欲しかった。
いつも話してた3人は、その頃よーへいのことをあまり良く思ってなかったから、よーへいの良さをあれこれ話すのには違和感を感じた。
よーへいとはリアルで会えない。
話も出来ない。言葉のやり取りは僅か。
あたしは、リアルで話せる誰かが欲しかったのだと思う。

そんな頃、よーへいがコメント欄でりんのコメントを上げてた。
よーへいは注意するべき人という意味で上げたようだけど(そういうのはいくつもあった)、あたしはお構い無しに、りんのブログにコメントした。
コメントし始めると楽しくて、久しぶりに出来た気軽なやり取りに心が少し楽になった。
5月までのことで、人を信じられなくなっていたあたしは、また似たことが起こったら…という恐怖心を感じながらも、また人を信じられるかもという期待感も感じていた。
りんとやり取りにしていくうちに、あたしは彼女を騙しているような気分になった。
よーへいのとこを普通に話せるのは嬉しいけど、彼女はコメント欄のことを全く知らない。
もしもそれが知れて、あたしと関わったために彼女まで批判されてしまったら、彼女が苦しんでしまう。
あたしは彼女によーへいとの関係と、コメント欄のことを話した。悲しかったけど、彼女を巻き込むわけにはいかないから、もうコメントはしないという言葉を添えて。
彼女から返ってきたのは、気にしなくていいという言葉だった。
自分は、2ちゃんねるの人達みたいに人非難するのは好きじゃない。ああいうのには交わらないから気にしないで。よーへいさんとそんな関係とは凄いね。今後色々教えてほしい。
そんなような内容だった。
あたしはとても嬉しかった。
あんなことがあった後だったから、彼女の文章が心に染みた。
けれど、彼女の本質は言葉と全く違っていた。
メッセージでやり取りをしていくうちに、身勝手さが見えてきた。
かつ達と似ていて、自分の言ったことを直ぐに忘れ、全く逆のことを言い始める。
仕舞いには、よーへいに何が起こっても所詮他人だから関係ないと書いてきた。
あまりに無責任に言葉を使う彼女に対して、あたしははっきりと指摘し、もう二度と話すことはないとも伝えた。
彼女も関わらない、コメント欄も見ないと言った。
それにも関わらず、りんはコメント欄に上がっていたあたしのコメントを読んで、自分のブログであたしを批判した。
それを教えてくれたのは、確かまーちゃんだったように思う。

あたしは腹が立って仕方なかった。
りんは、もう一度人信じようと接した人。
本音を言ってくれたら嬉しい。心を開いてくれたら嬉しいと言葉をかけてくれた。だから信じようとしたけど、離れる頃にはよーへいはどうでもいい人と、吐き捨てるように書いていた。
それでももう関わらないと約束し合ったから、付き合いを終わりにすればそれでいいと思ったのに。

苛立ちが収まらず、怒りが収まらず、あたしは彼女の愚かさを指摘し、酷く馬鹿にしたような文章を書いてブログにアップした。
彼女はそれを直ぐに読んだようで、アメブロからあたしに連絡があった。
記事を削除した報告と注意文だった。
やりすぎたと思いながらも、後悔は無かった。

あたしはあの時が初めてだった。 
個人を取り上げて、あんな風に書いたものを記事として載せたのは。
そんなことをしようと思ったことは無かったし(今は普通にやってる)、いい大人がすることではないと感じていたから(いい大人だからこそ、今は分かった上でやってる)。
だけどあの時は、書かないと気持ちが収まらなかった。
りんに対する強い怒りは当然ある。
ただ、5月までの苦しみが怒りに変わっていたことで、彼女の行動が許せなくなってしまい、本来はすることの無かった行動を取ってしまったのもあった。

過去に虐められた者が犯罪を起こすことがよくある。
20年前に習った教師からの虐待が忘れられず、大人になり、それなりの地位と名誉を得たにも関わらず、教師を刺してしまったという事件があったのを、暫く前にネットの記事で読んだ。
あたしも対して変わらない。
今は記事として書いているけれど、自覚なくあたしに理不尽なことをした者達を、どれだけ殴りたいと思ったか、どれだけ死ねばいいと思ったか、どれだけ苦しめばいいと思ったか分からない。
そう思ってやるせなくなる度に、自分の拳を床に何度も何度も打ち付けた。

りんは記事が削除されて優越感に浸っていたようだけど、記事が削除されただけで終わったことを不思議に思わないような人間だから、自分の置かれている状況がどうなのかもわからないの。
よーへい達と接触したようだけど、自分にとって都合の良いことだけが現実じゃない。
誰が騙していて、誰が騙していないのか知らないといつかは自分の首を自分で絞めることになる。

りんが2ちゃんねるを見ていたのは知ってる。
あたしが確認した。
よーへい達と接触したことでやたらと強気なってたね。
ライブ中、自分の顔に腕を当てた人の髪を強く引っ張ってぐちゃぐちゃにしたようで、それを得意気にブログに書いていた。
けれど、それを2ちゃんねるで批判された(誰が批判しだしたかは想像がつく)。
彼女は2ちゃんねるを気にするあまり、記事を消してみたり、取り繕う記事を書いてみたり。
何をしているのやら…と思ったよ。

恨みや憎しみは簡単に消えるものじゃない。
あたしは今までの人生で、こんなに誰かを恨んだり憎んだりしたことはないし、怒りや憤りを感じたことはない。 
似たような経験を前にも一度したことはあったけど、離れたらどうでも良くなった。
だけど今回はそうはなれなかった。 
なれないほどのものだった。 

よーへい達も5月までの件はお疲れ様とは言わないで。
気分が悪くなる。 
お疲れ様と言うのなら、その後のあたしの苦しそうだった姿を二度と忘れないで欲しい。
二度とあたしには戻らない、奪われた時間があるのだということを忘れないで欲しい。

理不尽な者が理不尽な者を作る。
けれど人はそれに気付けない。

今朝、美術館の対応についての記事を読んだ。
不快な思いをした客への対応が悪かったというもの。
不快な思いをした方は気の毒だと感じた。
美術館の方も、対応の仕方には検討の余地があるように感じる。ただ、限度もある。
責任は美術館だけにあるのではなく、利用者個人個人にもあるからだ。
どうすれば心地好く安全に楽しめるかは、どちらかではなく、どちらの行動もあり方も影響する。
いくら施設側が最善をつくしても、利用者が愚かな人間であれば、必ず問題は起こる。
そこにいる全ての者に配慮する心がないと、よい空間は決して生まれない。

その記事には多くのコメントが付いていた。
その内容は施設側を批判しているものが多かった。
そういうのを馬鹿と言う。
美術館に苦情の電話をかけた阿呆もいたようだ。
居合わせたわけでもない、現場を見てもいない者が、とんだ戯言を。
普段の生活のなかで、誰かが殴られているのを見たなら、コメントをした者達は助けれるのか?
自分が大怪我をしても止めに入れるか?
ネットの中でしかほざけない者は、足がすくんで何も出来ないか、見て見ぬふりをするのがオチ。
ネットで騒ぐならリアルでやれ。

そういった馬鹿者を野放しにしていたのが、神的人間でもあったことを忘れないでほしい。
あたしはその犠牲者になった。
あたしがここまでならないと、みんなは分からなかったし見ようともしなかったでしょ。

こんなことをしたワケじゃない。
もう見ちゃいないけど、他人からあれこれ言われたいワケでもない。
こんな男だか女だか分からないような人間になりたかったワケでもない。
恐れられるような、気持ち悪がられるような者になりたかったワケじゃない。
人を疑わず、争わず、ただ笑って生きていたかった。
何も持たなくても、至らない人間であっても、ただ笑って。
そんなささやかな願いを、何故理不尽な馬鹿者達に壊されなきゃならない?
金も物も名誉もいらないんだよ。
もっと言うなら美しさも、整った体も。
ただ健やかに生きれる場所さえあれば。

人は一体何を求めてるんだ?
多くの物が無くたって、多くの人と関わらなくたって、今生きる場所に幸せがあればそれでいいだろ。
幸せが無いとしたなら、幸せな場所を作る努力を怠っているのもある。全てがそうではないけれど、そういうことが多い。
家族と本音で向き合わず、友達と本音で向き合わず、恋人と本音で向き合わず、ネットに居場所を求める。
他者を批判することで、自分の自信を保っている。 
そんな者には幸せなんて一生来ない。

よーへい達にも本当に腹が立ったんだよ。
人と本気で関わるようなあたしでなかったなら、よーへいとの向き合いも続かなかった。
それくらい、今回は困難だったの。
死んでしまうかもしれないくらいにね。
死なないヤツはいない。
命は明日、続かないかもしれないから、してはならない失敗もある。
あたしはそう思うよ。
この死のある世界ではね。