一方、その一族は、China国民党にも、China共産党にも顔が利きました。
そこで彼らは蒋介石と毛沢東を西安で引き合わせ、いわゆる「国共合作」を行いました。
こうして、ChinaにおけるChineseの軍と暴徒とヤクザ、および半島人の共通の敵が、日本という図式が形成されていきます。
そしておよそ2年がかりの準備の上、ついに実行に写されたのが、昭和12年7月7日の盧溝橋事件です。
この事件は、日本軍が夜間に実弾を持たずに演習していたところ、突然、日本と中国の両方の軍にあてての発砲騒ぎがあり、互いが戦闘状態になってしまったという事件です。
いまでは最初に発砲したのが中国共産党であり、日本と国民東軍を無理矢理戦わせるための共産党の「謀略」であったことがはっきりしています。
この事件は、よく、「国民党に対して劣勢だった中国共産党が、起死回生を図ろうとして日本軍・国民党軍双方を戦わせて疲弊させ、漁夫の利(つまり中国全土の支配権)を得ようとして行動に出たもの」として説明されることがありますが、それですと、それ以前の国民党と共産党の仲の悪さが、なぜ一転したのかの説明に十分ではありません。
けれどもここに「アヘン利権を牛耳っていた一族」という補助線を一本引くと、あらゆるものがつながります。
このことは、河添恵子さんの著書『トランプが中国の夢を終わらせる - プーチンとの最強タッグが創生する新世界秩序』をお読みいただくと、詳しいです。
さて、こうして準備万端整えられて仕掛けた盧溝橋事件ですが、もとより日本軍は、戦うことを目的としていません。
結果、現地の日本軍はきわめて冷静にこれに対処し、早々と現地で停戦協定を結んでしまいました。
これは日本人の感覚からしたらあたりまえのことです。
そもそも治安維持のためにChinaに出兵しているのです。
その治安維持部隊が先頭きって争いを起こしているようでは話になりません。
目論みが外れた彼らは、続いて昭和12年7月25日。北京近郊の廊坊駅で「廊坊事件(ろうぼうじけん)」を起こします。
この事件は廊坊駅にある中国国民党軍の兵営内を通過する軍用電線が故障したために、日本の中国駐屯軍が前もって国民党軍側に通報してから、護衛を含む百名ほどの兵員で回線の修理に向かったところを、いきなり発砲され、日本側に14名の死傷者が出たという事件です。
この事件に危機感を持った日本側が、増援部隊を北京に送ったのですが、その増援部隊が北京の広安門を通過中に、いきなり門を閉ざされ、隊列を分断された挙げ句、発砲され、またまた19名が死傷するという事件が翌日に起きています。
これが「広安門事件」です。
この広安門事件も、日本側は、相手を蹴散らして事件を収束させたのですが、この廊坊、広安門で事件を起こしたChineseの暴徒と、当時通州上のあたりにいた冀東防共自治政府軍が、日本軍が北京界隈に集結することで防備の手薄になった北京郊外の通州市の日本人居留民を襲ったのが通州事件です。
通州事件が起きたのは、昭和12(1937)年7月29日ですが、この事件があらかじめ入念に計画し、準備して行われたものであることは、事件当時に襲撃を受けた日本人の居宅が、まえもって他のChineseが住む住居と識別できるように、玄関に印が打たれていたという事実をもってしても明らかです。
通州は、北京の東18キロの地点にある明朝時代に城壁が築かれた街です。
もともと天津からの集荷の拠点として栄えたところで、事件直前までは日本人にとっても、Chineseにとっても治安の良い場所とされ、日本の軍人や民間人の妻子たちが多数居住していました。
通州には親日派とされる中国軍閥の「冀東防共自治政府」も、守備にあたっていました。
長官の殷汝耕(いんじょこう)は日本人を妻にしており、しかもこの自治政府は、付近から雑兵を掻き集めて九千人の「保安隊」を組織していました。
けれど、そのなかに、彼らは悪魔をひそませました。
事件当日、通州にいた日本人は385名です。
このうち軍関係者(男)が110名。
残りは婦女子でした。
29日午前3時、突然、冀東防共自治政府の保安隊の張慶餘(じょけいよ)が率いる第一総隊と、張硯田(ちょうけんでん)が率いる第二教導総隊、合計で三千の保安隊が、日本軍の基地に攻撃をしかけてきました。
不意をつかれた日本軍は、獅子奮迅の防戦をするけれど、3000対110名です。
さすがに勝負になりません。
しかも寝込みを襲われたのです。
襲撃と同時に日本兵30名が死亡しています。
そしてこの戦闘の最中に保安隊は、自分達保安隊のボスである殷汝耕(いんじょこう)を拘束しました。
そして日本人民間人への虐殺を開始しました。
この襲撃で、日本人居留民385名中、223名が、人類史上、歴史的な極悪非道な方法で虐殺されました。
以下は、女性の読者の方には、衝撃が強すぎるかもしれないけれど、そのままを掲載します。
これが歴史の事実です。
<虐殺現場を目撃した萱島高氏の東京裁判での証言>
「旭軒(飲食店)では四十から十七~八歳までの女七、八名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中四、五名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」
<通州救援の第二連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述>
「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、一名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場配膳室では男一人、女二人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女二人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。階下座敷に女の死体二つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。
一年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた。」
近水楼を襲撃したのは武装した黒服の学生団と保安隊です。
彼らは女中数名を惨殺、残る十数名の男女従業員・宿泊客に対して金品を強奪した後、全員を麻縄で数珠つなぎにして銃殺場に引き出し、銃殺しました。
<China駐屯歩兵第二連隊小隊長桜井文雄証人>
「守備隊の東門を出ると、ほとんど数間間隔に居留民男女の惨殺死体が横たわっており、一同悲憤の極みに達した。
『日本人はいないか?』と連呼しながら各戸毎に調査していくと、鼻に牛の如く針金を通された子供や、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦等の死体がそこここのゴミばこの中や壕の中から続々出てきた。
ある飲食店では一家ことごとく首と両手を切断され惨殺されていた。婦人という婦人は十四、五歳以上はことごとく強姦されており、全く見るに忍びなかった。
旭軒では七、八名の女は全部裸体にされ強姦刺殺されており、陰部にほうきを押し込んである者、口中に土砂をつめてある者、腹を縦に断ち割ってある者など、見るに耐えなかった。
東門近くの池には、首を縄で縛り、両手を合わせてそれに八番鉄線を貫き通し、一家六人数珠つなぎにして引き回された形跡歴然たる死体があった。
池の水が血で赤く染まっていたのを目撃した。」
悪鬼も目をそむけるほどの酷たらしい所業ですが、これら頭部切り落とし、眼球えぐり、胸腹部断ち割り、内臓引き出し、陰部突刺などは、昔からのChinese特有のお決まりの惨殺パターンです。
日本にはこのような風習はまったくありません。
ちなみに、「生きて虜囚の辱めを受けず」という東条英機元首相の戦陣訓について、これを日本軍の集団自決や玉砕の理由にする人がいますが、それは違います。
義和団事件以降、何度もChineseの残酷さを目撃し経験させられた日本が、生きたまま拷問殺戮を受ける悲惨に合わぬよう、むしろ、
「そのくらいなら先に死んだ方がよっぽどまし」
という現実を述べたものです。
当時の時代を考えれば、ごく常識的な事実への対処だったのです。
通州における殺戮と略奪は、まる一日続けられましたが、そのなかにひとつ、涙なくしては語れない物語があります。
ある人が、便槽に隠れていると、外で日本人の男性の声がしたのだそうです。
その声は、日本語でこう怒鳴っていました。
「日本人は隠れろ!!
日本人は誰も出てくるな!!
日本人は逃げろ~~っ!」
必死の叫び声でした。
そして、ズドンという銃声。
以降、その声は聞こえなくなりました。
わかる気がします。
その日本人男性は最後の瞬間まで、自分のことではなく、他の日本人の心配をしていたのです。
だから、
「たすけてくれ!」
ではなく、
「日本人は逃げろ!」
と叫んだのです。
事件の日の夕方、前日まで通州に駐屯していた萱島無敵連隊が、事件を知り、通州に急行しました。
夕方まで非武装の日本人民間人を虐殺し続けた張慶餘と張硯田率いる中国軍保安隊は、萱島部隊がもどると聞いて逃亡し、その一部が北京に向かっています。
その北京では、日本人が、逃げてきた保安隊のメンバーに、食事を与え、
「二度とそのような真似はするんじゃないぞ」
と口頭で説諭までして、犯人たちを逃しています。
北京にいた日本人たちが、通州の惨劇を知ったのは、その後のことでした。
一方、北京付近で翌30日に日本軍と遭遇した三千の保安隊は、たちまち粉砕されたのですが、このとき虐殺の指揮をとっていた張慶餘と張硯田は、さっとChineseの国民服である「便衣服」に着替えて、民間人に紛れて逃走しています。
もちろん部下は置き去りです。
そしてこの二人はその後も戦争を生き延び、張慶餘(ちょうけいよ)は後年、中国共産党人民解放軍の中将にまで出世して、昭和61(1986)年には、革命の英雄気取りでウソ八百の回想録まで出版しています。
一方、保安対の総責任者で、日本人女性を妻にしていた長官の殷汝耕(いんじょこう)は、事件後、日本軍の手に戻され裁判で無罪となり、犠牲者追悼の義捐金を集めたり供養搭を建てたりの活躍をしたものの、日本の降伏後、蒋介石により「親日分子」の烙印をおされて残酷に処刑されて亡くなっています。
その蒋介石は、通州事件の十年前に南京に攻め込んで、各国の領事館を襲撃し、各国の領事や婦女子に暴行を加えて、これを殺害しています。
米英は共同して砲艦でもってこれを攻撃し、生残った居留民の救出にあたっています(南京事件)。
世界では、このような事件が起こった場合、徹底的な報復と賠償を求めます。
ほぼ無傷で全員が助かった義和団事件でさえ、当時の清朝政府の年間予算をはるかに上回る賠償請求がなされたのです。
では日本は、この事件後、いったいどのような請求をしたのでしょうか。
実は事件後、日頃は仲の決して良くないといわれる陸軍省と海軍省も意見が一致し、内閣満場一致で決めた対策があります。
それが「船津工作」です。
「船津工作」というのは、日本の民間人で、Chineseからの信頼の厚い元外交官の実業家であり、紡績業組合の理事長をしていた船津辰一郎(ふなつたついちろう)を通じて、蒋介石側に和平を働きかけるというものでした。
その内容は、それまでのChina側の言い分を、日本にとって不利益なこともふくめて全部まるのみするから、争いを止めようというものです。
中国国民党の対日本に対する政治的主張を、全部まるのみしますというのです。
そうなれば、これ以上国民党側には、日本と争う理由がありません。
あれだけ酷い惨事となった通州事件についてさえ、日本はいっさいの賠償請求をしないというのです。
いかにも平和を愛する日本らしい対応です。
日本はそこまで譲歩したのです。
ただし、この日本の譲歩は、はっきりいって政治とはいえません。
当時の日本では、議会が民政党と政友会の二大政党に分かれて、森友学園や加計学園事件さながらに強烈な政争を繰り広げていました。
そして、そうした政争の渦中にある個々の議員にとって、議員生命を維持するためには、地元選挙区への利権誘導が最大の関心事となっていました。
通州事件は、世にもまれなる残虐な事件ですし、当時の新聞でも大きく採り上げられた事件ではありましたが、日本の議会の関心は、もっぱら国内事情におかれ、外地で起きた惨劇への政治上の関心はほとんど払われませんでした。
ですから当時、Chinaにいた日本人居留民は、危険が大きくなったChinaから、脱出するようになりました。
当時は日本への帰還は船便です。
その船は上海から出向しました。
そこで上海に、およそ3万人の日本人民間人が集結しました。
ところがなんと日本は、その上海で、8月9日に船津工作に基づく現地停戦協定を結ぼうとしています。
これは危険なことです。
なぜなら上海には、3万人を超える日本人民間人が日本への渡航を目的に集結していたのです。
そしてこの日本人居留民の安全確保のために、上海に上陸していたのは、わずか2千人の日本海軍陸戦隊でした。
この日本海軍陸戦隊は、戦闘部隊ではありません。
あくまで日本人民間人が無事に日本船舶に乗るための警備兵です。
ですから武装も、軽装です。
いよいよ停戦協定の日となります。
その日の朝、上海で起きたのが大山中尉惨殺事件です。
この事件は、海軍上海陸戦隊の大山勇夫(おおやまいさお)中尉が、車で走行中に、Chinaの保安隊に包囲され、機関銃で撃たれて惨殺され、さらにごていねいに中尉が瀕死の状態でいたところを、車外に引きずり出して、頭部を青竜刀でまっ二つに割られたという事件です。
この緊急事態発生によって、上海は戒厳令が敷かれ、当然の事ながら、当日予定されていた日本と国民党との和平会談はご破産になりました。
そしてこの事件の一週間後、なんと上海に、和平を結ぶはずだった国民党が、なんと5万の兵力をさしむけて市内にいる日本人の虐殺をしにやってきました。
そのまま彼らの上海侵入を許せば、通州事件の何十倍もの大被害が日本人を襲うことになります。
日本海軍陸戦隊は二千名のの増援を得て、この5万の大軍を前に、なんとわずか4千の兵で、まる二週間も国民党の上海侵入を防ぎました。
これによって、日本人居留民は無事に船に乗って日本に帰還することができたのです。
もしこのとき「日本海軍陸戦隊の4千名が上海にいなかったら」、どのようになっていたでしょうか。
その実例は、チベットに見ることができます。
武装を持たないチベットは、人民解放軍の侵入により、600万人いたチベット人は、4分の1にあたる150万人が虐殺されました。
チベットは敬虔な仏教国ですが、寺院にやってきた人民解放軍の兵士たちは、寺の高貴なお坊さんを引きずり出して地面に据え、手足を切り落として
「お前の信仰の力でその手足を元通りに付けてみろ」
とゲラゲラ笑ったと伝えられています。
酷い話です。
その意味で、当時の日本海軍陸戦隊の活躍は、歴史に残る偉大な功績です。
一般に銃を使う近代戦では、戦闘は普通1〜2分で終わるものであり、銃撃戦が5分も続いたら、
「今日はとんでもなく長い戦いだった」
と、後々まで語り継がれます。
それが、海軍陸戦隊は、わずか4千で、十倍以上の敵を相手にして一歩も退かず、二週間も持ちこたえたのです。
ものすごい精神力です。
では、海軍陸戦隊が上海で必死に戦っていた二週間、日本政府は何をやっていたのでしょうか。時の内閣は近衛文麿内閣です。
答えは、
「喧々諤々(けんけんがくがく)していた」
です。
断固戦うべしという議論と、軍は派遣すべきでないという議論がまっ二つに分かれて紛糾し、決断がつかずにいたのです。
結果として二週間も経ってから(二週間も経ってからです)、日本政府は上海出兵を決断しました。
そして松井大将率いる10万の上海派遣軍が編成されました。
ようやく日本が軍を派遣したのが、9月9日です。
大山中尉事件から、一ヶ月経過していました。
少し考えたらわかることですが、手ぐすね引いて待ち受けている敵に、1ヶ月もの余裕を与えたのです。
これは軍事的にみたら最悪の選択です。
その間に、待ち受ける国民党は、なんと60万もの精鋭部隊を上海に集結させ、2万個ものトーチカをつくって、日本軍の上陸を待ち受けていたのです。
古事記を読むと、このときの日本政府の怠慢は、まさに目を覆うばかりです。
古事記は、軍を「稲妻」や「雷(かみなり)」にたとえています。
軍事というものは、常に迅速果敢を要すると、古事記ははっきりと書いているのです。
上海派遣軍の松井大将率いる日本軍は、たいへんな苦戦を強いられました。
これが「第二次上海事変」ですが、この事変で日本側は4万名もの死傷者を出しています。
この数は、日露戦争に次ぐ犠牲者数です。
ちなみにこのときの上海派遣軍ですが、日本にとって、10万の兵力を外地に出すということは、たいへんな負担でした。
ですからこのときに派遣された軍は、まさに各地から寄せ集めの大隊や中隊で、その多くは家族持ちの兵としてはやや高齢な30代のお父さんたちが多かったのです。
国に帰れば、女房も、まだ幼い子もいる。
そういうお父さんたちが、敵が手ぐすねひいて待ち受ける上海に出撃することになったのです。
二ヶ月後の11月10日、ついに日本軍は国民党軍を蹴散らして、上海の軍事的脅威を取り除きました。
このときの英国の新聞の報道が残っています。
「国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。我々は日本軍に感謝すべきである。」
それが当時の世界の客観的な反応です。
しかし勝ちはしたものの、日本側の被害も甚大でした。
この時点でお父さんたちの命は、約半数が失われていたのです。
このことについては、やはり当時の日本政府の政治責任というものを考えざるを得ません。
事態がここに至るまで、国会は、政府は、いったい何をやっていたのでしょうか。
簡単な話、日本は国際協調のもと、欧米諸国と連合軍を組成して、ChinaにおけるChineseの武装を完全解除させる動きに出るか、それができないのなら、遅くとも通州事件が起きた時点で、Chinaにおける日本軍および日本人居留民の完全撤退を図り、満洲、半島、台湾、および日本列島、太平洋の島々といった日本が守備する範囲だけをしっかりと守る。
内乱状態のChinaからは完全撤収し、Chinaへの経済的援助の一切もすべて停止するという選択もあったはずです。
そもそも敵に十分な時間を与え、戦争でもないのに日本軍を上陸させれば、後日それを
「日本軍による侵略行為であった」
と言われることは火を見るよりもあきらかなことです。
だから彼らは「待ち受けた」のです。
日本を攻めるだけの力がないから、「待ち受けた」のです。
もちろん、上海派遣軍の編成などせず、そのまま放置するという選択もありました。
この場合、すでに日本人居留民は避難済みですから、日本側に被害は発生しません。
汪兆銘などの親日政権も、いつまでもChinaに置いておいたから、結局彼らは殺されることになったのです。
満洲にでも移住させて、そこで亡命政権をつくって、時を待つという選択もあったかもしれません。
それが政治というものではないかと思います。
けれど当時の日本政府の関心は、次の選挙と政争だけでした。
いまと同じです。
次々と天然災害が起こり、被災者が出ても、国会は言葉尻をつかまえた不適切発言問題と、不倫問題ばかりです。
三流週刊誌ではないのです。
国会がそのようなもので、果たしてまともな国政などできるのでしょうか。
日本人の生命と財産の安全に、それらが何の関係があるのでしょうか。
さて、上海戦を勝利した日本軍は、敵が逃げ込んだ南京へと兵をすすめました。
なぜなら逃げ込んだChina国民党軍は、南京市内で、南京市民を対象に、まさに通州事件の再現をしていたからです。
日本軍の派遣は、治安維持出動です。
ですから、これは南京まで行かざるを得ません。
南京での日本軍は、一週間後の何時何分に砲撃を行うとあらかじめ空から南京城内にビラを撒いて告知したうえで、城外で攻撃をしないで待機しました。
南京の市民たちに十分な避難の期間を与えるためです。
総攻撃開始は12月10日です。
そして12月13日には南京城が陥落し、翌14日に日本軍は南京城内に入城を果たしています。
このとき第十軍にいた山崎参謀は、南京城の南端にある中華門から東端の中山門までを見分した情況を日記に記録しています。
「南京城東部は、
広漠たる空地にして、
都市計画の雄大さを認む。」
つまり南京城内は、なにもない広大な空き地になっていたのです。
どういうことかというと、実は、日本が攻めて来ると悟った国民党が、城内に日本軍が隠れないようにと、市民たちを強制的に追い出し、そこに火を放って、何もかも燃やしてしまっていたのです。
同じく14日の模様を、城内東北部の残敵を掃討した佐々木大三〇歩兵旅団長が日記に書いています。
「住民はひとりも顔を見せない。
痩せ犬だけが無表情に歩いたり、
寝そべったりしていた。」
歩兵第三八連隊の戦闘詳報には、
「興衛および十字街付近は、
小集落の点在をみるも、
住民は居住しあらず。
敵はこれらの家屋をほとんど焼却し退却せり」
とあります。
また、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者も、当時の様子を「China軍による焼き払いの狂宴」と題して次のようにレポートしています。
「昭和12(1937)年12月7日、日本軍が進撃し始めた。
これが中国軍による焼き払いの狂宴の合図となった。
南京に向けて十五マイルにわたる農村地区では、
ほとんどすべての建物に火がつけられた。
村ぐるみ焼き払われた。
農業研究書、警察学校その他多数の施設が灰塵に帰した。
火の手は南門周辺地区と下関(シャーカン)にも向けられた。
中国軍による焼き払いの損害は優に三千万ドルにも及ぶ。」
南京にいた国民党総裁の蒋介石は、南京戦の始まる3日前の12月7日に、我先に南京から逃げ出しています。
その蒋介石は、その前にも、あれだけ準備した戦いで、日本軍に負け続けており、日本軍の強さを思い知った蒋介石は、南京でも勝てないと踏んだわけです。
だからこそ逃げたのです。
そして日本軍に軍事力では勝てないと踏んだ蒋介石は、この後から新たな対日戦闘を開始しました。
それが広告宣伝戦争(情報戦争)です。
蒋介石は、南京陥落の日の少し前から年間300回にもわたる記者会見(ブリーフィング)を行うようになったのです。
これは内外のジャーナリストや外交官など30〜40人の前で、日本がいかに不当であるか、蒋介石自身が宣伝したというものです。日本に軍事力で勝てないから、パフォーマンスで勝とうとしたのです。
同時にこれは、日本に負けて兵を失った蒋介石が、新たな兵を徴用するための広告宣伝活動でもありました。
蒋介石は、日本を非難するための宣伝材料を見つけたり、捏造しては、毎日記者会見をして、自分たちを正当化し、また日本軍の悪逆非道をアピールしていました。
これが年間300回、毎日のように行われました。
現代の中共政府は、日本軍が南京で虐殺を行ったと宣伝していますが、当時蒋介石自身が行った三百回におよぶ記者会見の内容について、昨今、日本の自由主義史観研究会が、すべての会見内容について詳細に分析を行いました。
もし本当に日本が南京で虐殺を行っていたのなら、宣伝をする蒋介石にとって、それは格好の日本糾弾材料になったであろうことからです。
ところが三百回にわたるその会見で、日本軍による南京での虐殺の話は一回も、行われていませんでした。
要するに「南京虐殺などなかった」のです。
日本軍の占領後、南京は治安が回復し、少なくとも大東亜戦争が終わるまで、そこは、日本人の若い女性が普通に市場で一人歩きしてショッピングを楽しんでも何ら問題が起こらない、平和な町となりました。
大東亜戦争の末期、日本国内では空爆があり、占領があり、食料の供給もままならないひどい状態が続いていましたが、南京は、すくなくとも昭和20年夏までは、きわめて平和で、食料も豊かで、軍事的脅威やテロの危険のない、安全な町であり続けたのです。
その様子が変化したのは、終戦後、日本軍が去ったあとのことです。
中共軍が南京を制圧し、資本家らを襲い虐殺、強姦、略奪を行ない、一般市民から十万人から十五万人という、とほうもない死傷者を出しています。
このとき、南京市民の三人にひとりが殺害されました。
通州事件や南京での虐殺事件を起こした張本人が、実際にはありもしなかった日本軍による南京大虐殺なる虚構をこしらえ、これをいまでも宣伝しています。
そして大切なことは、その張本人というのは、蒋介石の国民党でもなければ、毛沢東の共産党でもない。
両方に関係している、いまも昔も変わらぬChineseそのものなのです。
お読みいただき、ありがとうございました。
※この記事は2010年1月の記事のリニューアルです。

↑ ↑
応援クリックありがとうございます。
講演や動画、記事などで有償で活用される場合は、
メールでお申し出ください。nezu3344@gmail.com
- 関連記事
-