自分は小学校入学時から現在まで家族以外の人と一切話をしていません。 小5からは家族とも話をしていません。 高2から誰一人として誰とも話をしていません。(執筆時) 話さない時は即ち、自発的に何かしているところを誰にも見られないようにしています。 誰とも話さない今は、人前では常時その状態。 話せないフリ、自発的には動けないフリをし続けないといけない状況になっている。 その状態で定着してしまったので元に戻る勇気がなく、もう戻れない。 「自発的に」行動しているところを人に見られてしまうので密かに外に出ることもできない。 何もできない人を演じ続けている状態で、言葉がわかるかどうか字が書けるかどうかも曖昧なフリをせざるを得なくなっています。 意思表示も何もできず、何かを選択することもできません。 やれないことになっているので1人の時「何かした形跡を残す」こともしてはならない状態。 何もしない何もしてない何もできない。行動、判断、言動なし。 即ち基本責任を持つようなことにはならない。 どうやって生きてきたかというと、想像を絶するような形です。 そんなで今や重度知的障害者とされ、それ相応な扱いをされるようになってしまいました。 このような人はおそらく世の中で自分だけでしょう。 どう思われますか? ↓これらなんか比ではない。。どれだけ仰天?w(もし、気に障る発言だったとしたらすみません) https://www.facebook.com/SelectiveMutism.Kanmoku/posts/483617915031199 http://www.ntv.co.jp/gyoten/backnumber/article/20170301_02.html どれほどのものか伝えるために言っておきますが、 学校では喋ったことがないどころか、誘導されずに動いたことはないし、 着替えたことも、食べたことも、トイレの中に入ったこともありませんでした。 自分で教科書を開いたこともないし、ペンを出して字を書いたこともない。音読なんてもってのほか。 最初の3年間は1分以上座ったこともありませんでした。 見聞きしていただけ。 入学前までのころはごく普通でした。 入学後も小5までは家では普通でした。学校だとあれなのに家ではどうして?と不思議に思われていたくらい。 (他人の前で本来を見せることに無理はないので、正確に言うと〈人前ではなく〉知人の前では常時その状態) … 原因はなんだったのか? 簡潔に言うと… 園で辛いことがあったから…それもあるかもしれないが、1番は自分の個性… 問題はそこにある。 結局を言うと…自分が変わっていただけ…。 普通子供なら何も考えず、ありのままに生きているはずなのに、 自分の場合、あらゆることに対し、色々考えてしまう性格だったがために、こうなってしまった。 もともと家族に大げさな反応をされてしまうから…それがあれで、知恵を凝らし、 できないフリ、やれないフリをし続けていたわけです。3才時点からそうだった。 そういう“フリ”をすることが発展してしまった。 できすぎてしまうので、その力を隠していた感じ。 今でも(家族に)本気を見せたら色々絶賛されて衝撃を与え続けることになります。確実に。(思い込みではありません) このような人はまず他にいませんから、これを分かってもらえる人もいない。。 孤独な存在。 何かできないことがあったり、欠点があったり、短所ばかりだったり、 自信が持てず内気だったりで苦しみ悩むみたいな人は、世の中では有り触れた存在。 そのような人はどこにでもいる。 自分の場合それとは全く違い、その逆です。(できることにより苦しみ悩む感じ) こんな人は見たことも聞いたこともありません。。 自分はそうではないので、そういうのは共感できない。 そしてこの世の中はそういう人を励ますもので溢れていますが、自分はそれで励まされるようなことはありません。 そういう人とは全く違うため、共感できないわけですから。 共感できる人は普通です。励まされるのでまだいいです。 「下手だから見せられない」ではなく、「上手いから見せられない」。 「わからないから言えない」ではなく、「わかるから言えない」ような感じになる。 6才から…みたいに思われていますが、実は3才の時にはすでにこの“やれないフリをする病気?”になっていた。 人に見られていると何もできないわけですが… 1人にしてもらえる(誰にも見られていない場にいさせてもらえる)時間がわりとあります。 その時にネットなどがやれている。 (確実に自由の身になれている時間は夜中のみ〈夜中のみしか自由の身になれないわけではありまあせん〉) もう話をしていた(健常者だった)ころに…あのころの自分に戻ることなどできません。 今、健常者になったとしても日程なんかが色々あって…誰もが困惑する。 ともかくもう非常に戻りにくい環境になってしまっているわけだ…。 “自分が話すその時”をただただ待ち続けている人がいたりしますが…それではだめなのです。 そんなことを言っている人は何も考えていない。 考えてみればわかります。今の環境で突然健常者に戻ることなんてできない。 でも自分は一刻も早く昔みたいな健常者に戻りたい(現状打破したい)と思っています。 (戻りたいからそう言っています。本当は戻りたくないということはありません。それならこのページはありません) どうしたらいいのか? “自分のことを知らない人(他人)”とならリアルでもなんとか勇気しだいで話せるかもしれない。 自分と話したことが、自分を知ってる人(知人)にバレないと断定できる場合ならば何とか…。 ネットの掲示板で見知らぬ人と話すことはできます。それはできました。 ネットで人と話ができたこと。これは凄いことだった。 そんなで電話で見知らぬ人と話してみることならできそうなのでまずそこから始めてみようと考えた。 次のステップそれは肉声…以下省略 と思っていたが冷静に現実的に考えてみた結果、それができたとしても もはやあまり意味がない可能性大だったのであれだ。重要なことには繋がらない。 自分は現状のままでも密かにネット上で色々なことがやれており、生きがいを感じられている。 仕事をすることと、家族を作ること。それは絶対にやらないといけない…。それをせずに人生を終えてしまうわけにはいかない。 ですがそれは本当に夢のような話。 よくよく考えてみると…遠い場所へ連れて行き、長い間放置してもらうくらいのことをしてもらえないとそれはもうほぼ無理。 まず絶対にそんなことはしてもらえない。ある意味何もやれないと(普通と違う常識知らずの人だと)思われているので。 誰も健常者だったころを詳しくは覚えていない。 健常者の時の状態とそうでない時の状態とを同じに見られたりする…。 小5までのことは忘れられていることが多い。 今のイメージが以前のイメージと重複し、どうしていたのか何をしたか?そういうことが忘れ去られていたりする。 色々自分でやっていたわけだが。 忘れているからには具体的に言わないと否定される。 “小5まで”が人生のうちの少しという扱いになってしまうとは。。 あのころとは別人のようにも思われる。 自分は“普通に授業を受けていたのと同じことになるように”勉強しました。 普通でない特殊な人(特別な扱いを受ける人〈特に障害者〉)などには絶対になりたくないと思っていました。 (障害者には悪いですが、普通に過ごせるに越したことはないので) だからそうならないようにするんだと心に誓っていました。そのような人になっているわけがありません。 いや健常者ではない状態の時はあれですが、“健常者の時の自分”は普通。 普通のわけないだとか言う人がいそうですが、何を持ってそう言うのでしょう? 大人の普通とは何ですか?子供の普通とは違いますか? 昔とは違い、今は色々なことが障害と定義付けられ、一見何ともなくても少し特徴があるとそれを障害と見なして 障害者の認定を受けさせる風潮で、障害者のイメージが変わってきていますが… 個人的には思うに、会話ができて覚えることができればその人は障害者ではないと思います。 個性があり、人はそれぞれ違います。自分とは違います。 こうあるべきではないなどと思うことがあります。 突き詰めたら自分以外の全ての人が障害者になってしまいます。 “自分”というのは自分が正しいと思うことをしているので基本、自分では自分を悪くは思いません。 皆そうです。 だが他人から見ると悪いことだらけだったりします。 必ず良くないと思う点があります。 (何もできない状態だったことにより)学校では普通に授業を受けていないといえばいないわけですが、 “そういう普通に授業を受け続けていない人は即ちどうしたって人並み以下だ”と思う人がいる。本当にそうですか? そう言ったら古い年代の人の多くは今となっては人並み以下。 “人に教わることをしないと「確実」にわからない”“学歴が全てだ”みたいに思う人もいる。耳で聞くことと読むことがどう違う? 普通のことを経験していない特殊な人にはなります。 だからその特殊な人にならないように誰もが経験する道を経験していくことを望んでいた。 そして“普通に授業を受けたのと同じことになるように”こだわって勉強したわけです。 後々同じことになるようにしたわけです。 生きる上で重要なことか非かは関係なし。 “皆が覚えたことを覚える”という形式。 皆がやっていたようにやる。本来自分が通るはずだった道を通ったことにする。 そうしないと許せませんから。 なので普通に授業を受け勉強していたものと思っていいわけです。 学校は教科書に基づいて授業を行っています。それなりにそうすることができます。 文句はありますか?無知だという証拠はありますか? もし無能だとしたら、自分でそのように感じると思いませんか? 自分の思うことが絶対ではありません。皆しもが同じではありません。あなたの考えは独特かもしれません。 何もしてなかった、普通の生き方をしてない、経験がない、特別だとか、そんな風に思わなくて良い。 通るはずだった道を通り、本来なら今頃自分は遠に別の家族の元で暮らしていたはずです。 それがそれが、儚くもまさかのこんなことになっている。 “普通に授業を受けていたのと同じことになるように”の意味、わかりませんか? 「学校で学ぶこと」を学校で学ぶ通りにほぼもれなく学んでいます。 しかし何もできない状態だったとはいえよ、ちゃんとその気があれば、授業中の皆と同じ時に密かに学ぶことができていた。 ノートに書いたりしてもしなくてもほぼ変わらない。少なくとも自分はそう。 悔しくもその気になるのが遅かった。それができたのは僅な期間のみ。 「何もできない=その場で勉強不能」とはならない。 「何もできない状態だったことにより」というよりか 「何もできない状況で、何もしなくとも問題ないことになっていたことにより」が正しい。 …話しが脱線していましたが、つまりは「本来の状態の自分なら何でもやれる」ということを言いたかった。 できる場面ではできることは事実。(違いますか??) ただの仮病です。いつまでも続けざるを得なくなってしまった仮病。 そう表現するとわかりやすい。 「密かに外を出歩く」くらいのことなら勇気しだいで何とかできるかもしれない。 それができたら凄いことなので良しとするべきか? 成人間近になったら焦って健常者に戻ってしまうか…とも思っていたが、 そんなことはなかった… 次は30手前か…なんて思ったりもしたがそういう問題ではない気がする。 何か行動を起こさないと変わらない。 でもさすがに30,40になったら呆れられて状況を変えてくれるかもしれない。 「このままで一生を終える」ということは…さすがに“ない”と思う。 早死にしない限り、それはありえない。 あのころ、もう少し厳しくされていたらこうなってはいなかった気がする。 大きくなれば自然に治ると言われていたが、「そんなわけない」と感じていた。(本当にそう。自然に治るわけはなかった) 早い(根の浅い)うちに何とかしないと取り返しのつかないことになる。 普通に取り返せる可能性があったのは小1の前半くらいまでだった。 今回、こんなに長引くことになるとは自分でも驚き。 皆も驚き。そのうち戻るはずで、そういうことになっていましたから。 社会に出る歳になってもそのまま?などと言えば笑い話になったもの。 本当にそのままで人生台無しへの道をたどることとなってしまおうとは。。 長引けば長引くほど色々あって元に戻りにくくなる。 外を歩けても見知らぬ人と話せても何にもならない。家の人と話すのは“冷静に”考えてみるともうほぼ無理だから。 それは単なる「こっそりやっていること」に過ぎない。 どうすれば…… 遠くでなくてもいいので少しずつ、一人暮らしさせてもらえたらそれが現状打破に繋がるかもしれない。 ネットで話せる人と知り合ってその人のところへ行くみたいな展開になれば何とかなるか?(難しいか?) ネットで知り合った人がたまたま徒歩圏内に住んでいて行き来できることになる… みたいなシチュエーションがあったら一時的にだが現状打破している時間を作れる…。 ともかく現状打破する手段はないわけではない。 誰も来れないくらい遠い場所に放置してもらうか、 知人(自分に関わってこられる人達〈家族含む〉)が全滅する(この世から消え去る)ようなことがあれば確実なのだが。。 高齢になればかってにほぼ全滅すると思うが、それまで待ったら自分の人生も残り僅かになる… 全知人と縁を切ってしまってそれで果たして幸福か? 全滅するから…というのもあるが、高齢になればさすがのさすがに色々な感情が込み上げ、 何か大胆なことをしてでもして健常者に戻る。 まず“自分”としたことがこんなままで終わるわけはありません。 何というか、そういうもの。そう思ってきた。 訓練等は無意味。 心の問題なので。 確認をとられるとだめ(全てにおいてそう)だというのに、何においても確認をとられないとだめとされるのでどうにもならない。 証拠が残らないように工夫したり、何かしても本当に驚かなくなるような状況を作ってもらうことで可能性が開くことはありえる。 自発的に動いているところを見られても話せないことはあるかもしれないが、逆はない。 普通に「話すこと」ができたらその時は完全に健常者になっているはず。 考えてみればわかるはずだが、話すようになったら同時に動けるようにもならないといけない。 そうしないと辻褄が合わない。というか、そうなる。 普通に仕事をして家庭を作ったりすることができたら奇跡だ…なんて言われていたことがあるが、そんなことはない。 自分がこうなったこと自体がある意味奇跡。 こうなったのにはしっかりしたプロセスがあるし、本気で何か手を打てば普通にやっていけるようになることが可能なわけです。 もうとっくに「人生失敗」になっているが、だからといってもうどうでもいいとも思わない。 成人したらもうオ○サンです。終わり。仕事も何もできない人でした。みたいな無残なことを言われましたが、 実際には年齢の数字が増したからといってどうってことないし、人生で言うと先は長い。 諦めなければ大概のことはやれるし、今の世の中のシステムや常識に束縛されていなくてもいい気がする。 1年違うだけでも見られ方が大きく異なってくる。 時間が経過したことが、それが影響してだめになってしまうことがあったり、 運命が変わったりしてしまうようなことがあったら、残念でたまらない。 これからも時間が経過していくのでそういう見方があると絶望的でしかない。未来は暗い。 若いと良い→即ち歳をとるとだめ→即ち未来は暗い 14から今を今だと思わない感覚でいるので、「今」の年齢に対してどうこう言われたり、 子供だ大人だ若い、年寄りだの言われてもピンと来ない。14からは常にそうだった。 「何歳から見て←何歳は○○」という認識も昔から持っていなかった(持ったことがない)のでそう言われてもピンときません。 年齢は人が作ったただの数字。 生年月日などとは違い、頻繁に変化する「変数」。 何にしろすぐに今は今ではなくなって本当の年寄りになるし、子供でもあった。 今には過去がいくらでも混じっています。過去があって今がある。今は過去でできている。 “少しずつできるようになろう”みたいなことも散々言われてきましたが、そういうものではない。 ある瞬間から突然変わる(元に戻る)もの。 最初は園で健常者の状態になったりそうでない状態になったりを繰り返していたわけです。 (健常者の状態に戻れた時の解放感は何度か味わっている) その“状態が変わる時”は“突然”でした。(考えてみればわかるがそういうもの) “本来”はそういうものですが… ただ、これだけしぶとくこの状態が続いてしまうと色々あるし突然という風にはいかなくなってきてしまっている。 健常者ではない状態の時が健常者の時のような状態に近づく… みたいな中途半端なことはない。不都合が生じるので。だからそういう意味での訓練は意味なし。 スイッチで切り替わる感じ。 今でも誰にも見られていない時は健常者の状態なわけです。ある意味突然状態が切り替わっています。 切り替えを繰り返しながらうまくやっていくみたいなことはできる可能性がありますが、 中途半端な状態を経由して少しずつ健常者に近づける(良くなる傾向にする)…みたいなことはできない。 自ら何かすることは何もしない状態。 簡潔に言います。「健常者ではない状態の時を、訓練により健常者の時のような状態に近づける」ということは現状では不可。 「切り替えを繰り返しながらうまくやっていく」ことは可。 言っておきますが健常者の状態から障害者の状態になっても内面は変わりません。 心や記憶や人格に変化はありません。 多重人格ではありません。 でもその2つの状態は全く違います。 同じもの・同じになるものとして見ることはおかしい。 分けて(別人のようなものとして)見るもの。 場面のことは言うまでもなく、説明する上で必須。 実際には「できない、知らない、やれない、わからない」みたいなことは自分にはありません。(現時点でありません)本当です。 教えられる側の立場でいることはもう卒業してると思っています。 (世の中の情報量は無限大ですから、当然知らないことが一切ないという意味ではない。全てを知る人など存在しない) 教えられるのではなくて、教えさせるべきなことだらけですから。 どうしても、少しずつ…みたいなことを言われてしまうと思いますが、それだと複雑なことにもなるし逆に大変。 実際は“普通と違う人ではない”ということを改めて言いたかった。 「手助けしてくれる人がいなくなったら終わり」だとか思われていますが、そうではない。 逆にそういう人がいるからだめなんです。 無能だったらすぐに元の状態に戻る(治る)。 こうしたらどうなるか?今後はどうなるのか?と先のことや状況を考えて(思考が働いて)しまうからこそ、 元に戻れなくなり、環境の変化に応じて良くも悪くも変わりながらより重度化した感じ。 認知症になって無能に(本当の障害者のように)なったとしたら、傍から見ると逆に健常者に見えるようになる可能性がある。 現状打破方のまとめは最後に記載。 家族に迷惑をかけているとは言っても、迷惑をかけるような行動をとるようなことは一切しません。 現状で迷惑を最小限に抑えるためにはそうするべきだし、そもそも「「何か行動をとるようなことはできない」」わけです。 こちらとしては、かってに生きるので殺すようなことをしてくれて結構ですという感じ。 迷惑なだけなら消えるべき。 何も消費しない生物になれれば迷惑にならない。 消費しないと生きられないので、迷惑になる。生き物は迷惑をかけずに生きることができない。 知人に何かしてほしいと思うことはほぼありません。 放っておいてくれたらどれだけいいか?とそう思うのみ。 本当に色々とやれないフリをせざるを得ない雰囲気だった。 わかりませんか? できないだろうと思われて、そう言われていたらできません。 例えば、病気ではないのに入院させられたら病気のフリをせざるを得なくなってしまいませんか? 障害者ではないのに障害者手帳を持たされ、養護学校に入れられたら障害者のフリをせざるを得なくなってしまいませんか? 怪我がすでに完治しているのに誰かが見舞いに来たらその人の前では痛いフリをせざるを得なくなってしまいませんか? 自分は何というか、ハマってしまった状態。 常識知らずの無知だと思われている限り、できるはずない・わかるはずないという持論を持たれている限り… いや「そうでなくても」驚かれることは免れられない。 自分の意志で何もできない状態なため、勉強がやれていな“かった”こと… 高校以降は障害者として扱われるようになってしまったこと… それが要因し、話してしまうと誰もが困惑するような状況になってしまっていたので、 話したいと思っていつつも“話そうとすること”すらできなかった。 …過去に出会った人達と心や空想や夢の中で…ではなく、本当に話しができる日が訪れることを夢見ています。 その人達側からすると、逆に自分と話しができる日が来ることを夢見ていることでしょう。 生きているうちに、互いにその夢を実現させされる日が来ることを願っている。 恩もあるし、このまま終わりでいいわけがない。 何も言わなくとも、頭の中は言葉のオンパレード。心の中は秘密の空間。 できないフリをする、場や人に応じて自分を変える…そういう演じる傾向がとにかく常にあった。 あの人(△さん)は自分のことをこう思っているので、その人の前ではこういう自分でいないといけない… あの人(□さん)は△さんとは違って自分のことをこう思っているので、その人の前ではこういう自分でいないといけない… △さんと□さん、両方に見られている場面… まずい!なんとか2人が困惑しないようにカモフラージュしないと。。 ↑こういうケースに何度も巡り会った。 ヒヤヒヤして大変。 話せる人と話しているところを、話せない人に見られそうになったりするともう、赤面。 自分の思うようには行動できないので、あれは悪かった…だからなのか…みたいに思ったことがいくつもある。 自分で自分の心を痛めた。 同じ病気の人(似たような人)はいくらでもいますが、ここまで重度化した人はどこを探しても見つからない。 “場面性はなくなった”かと思われていますが、いまだに人や場に応じて多少状態を変えているのでそれがなくなってはいない。 各々の知人は別の場面でのことを知らないので、必然的にそう思われる。知られてはならない。 この病気の人は皆、話せないことで苦しんだり大変な想いをしたりしているようですが、 自分の場合ほとんどそういうことがありません。 心の中では昔から過剰なほど喋っているので、それで自分の想いを発散できているからなのか? これが当たり前のようになっているからなのか? いやそもそも何もできない(よって見学になる)ほど重症だからか?話そうとすることができないためか? 度を越してしまったためか?(もちろん嫌な想いをすることがないわけではない) 自分はだめだと思い込んで自信が持てないという人が多いようですが、自分の場合はそのまったく逆。 変わったケース。 病気というのは何のことか?という問いに答えますと↓ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B4%E9%9D%A2%E7%B7%98%E9%BB%99%E7%97%87 6歳の時に実際に診断され、長いこと言われ続けてきましたが、自分で調べ、症状をみても、確かにまるで自分のことのよう。 自分でこれだと思う病気はこれしかありません。 (ネット上の皆がかってな解釈により思い描く自分は狂人のような姿だと思いいますが、違うと思います) 注意:ある意味傾向の異なる点・度を越している点もいくつかあります。(ただ者ではないわけです) ↓この点を理解してもらえないと的外れなことを言われる一方になる。 ・話そうとしても話せない…というか、「自分はこういうものだということになってしまっている」ことなどにより、 話したいながらそもそも「話そうとすることが」できません。 それができる場面で話そうとすると不安で躊躇するので、「話せない」という気持ちもわからなくはない。 話そうとすることができる場面でないとそもそも話せない。 動くことも同様で、動こうとすることができる場面でないと動けない。(緘動と言えるかどうか微妙) 言ってしまうと「話そうとすることができない場面」というのは、 単なる「極端に話すこと=恐ろしいこと」として形作られてしまった場面とも見て取れる。 ハードルが高すぎて絶対無理のような場面。(絶対無理にならないシチュエーションを作ることは可能。そうしないといけない) 基本的には「こういう人だと思われているから、こう思っているその人の前では思われている姿のままでいないといけない」 という風になっている状態。 ・人前で意志的に動くことを「ほぼ全く」(したいが)してはならない状態なのでそもそも何もできない。 少なくとも「家から出て何かする」ということはまずできない。 ・自己表現、意思表示をすることを「ほぼ全く」(したいが)してはならない状態なので完全にコミュニケーション不能。 ・自信がないということはない。 失敗すると思うこともない。 ・ある意味さほど苦しんではいない。(自らは何もしなくていいし) 人生失敗になってしまったが。。 自分が1番嫌だったのは「特別扱い」されること。 授業に出る意味なしとみられて学校を早退させられたり、休ませられたり、席を固定されたり、ほかの人と違う呼び方をされたり…。 何も言えないのでそれを阻止したり色々自分の良いようにしてもらうことはできない。例えどんなことでも絶対に。 (何をどう思ってか↑その呼ばれ方が気になる人が多いようなので言っておきますが、 出席の時なんかに皆フルネームなのに1人だけあだ名で呼ばれたりしていたというだけのことです。 優遇されていた感じで、悪気があってそう言っていた感じではありません。全くもってそうではありません。先生ですし) ・ほとんど苛めに遭ったことはない。 そういう雰囲気ではない+そういう雰囲気にさせなかったからか? このことは信じてもらえないことが多い。 「苛められる価値すらない身分だった」と考えらる模様。 元クラスメイトに聞かないと断定できないが、本当にそうなのか? (自分がいたのは特別学級ではありません。特別学級なら障害者とは無縁ではないし、完全に特別扱いされていたことになります。 その時点で障害者の道へいっていたことになります) http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/siberia/1507150477/ ↑自分からすると、数あるこの類の掲示板にいる当事者の人達は「全員軽度」です。 1人として自分より上に君臨する悲惨な人はいない。 軽度ですから、安心してほしい。 ここは当事者の人に見てほしいページでもある。 安心感を得られるかもしれないし、克服・改善を目指す上でのヒントになることがたくさん書いてあると思う。 今や自分を信じて何かすることができない、 できる範囲でしてもあまり意味がないような状況になってしまった自分はもう… 克服の難しさが半端ない。 自分の場合、絶対無理の壁ができています。他の人のようにはいかない。 現に他の人のようにいっていない。 改善していかない人などいない。いくらなんでももう見切りをつけられていい。 自分で分かる。思った通りになっています。 状況的に絶対無理なほど厳しいことは文字通り無理なので、今はそこを突破することはできない。 突破せずに現状打破することは可能なので、そうすることになるが、色々と難しい。 大きな決心もいる。 だめなのはだめな要因(知人の件)があるからです。 自分の場合、その要因をなくさないとどうもできない。 だからいつまでもそのままなわけです。 自分は(複数の意味で)他にどこにもいない強者です。 自分は本来は健常者なので…健常者といえば健常者ですが、病人といえば病人。重病人。 自発的に何もできないその状態でできること、それは頭で何かを考えることくらい。 自サイトで公開している様々な構想、空想、妄想などは… そういう状態の時に考えたもの。 親に障害者と関わる人生を歩ませてしまい、罪深さを感じる。 思えば思うほどそれを感じる。 あの自分が、あの家庭が、こんなことに。 障害者の世界へ足を踏み入れさせられた時の気持ち…わかりますか? この道へ行くのを嫌がる人はほかにもいると思います。うちの親はそういう人ではなかった。 そのことは小2の時点でわかっていた。 “小学校を卒業する時”がタイムリミットだったはず。 そこを過ぎてしまったら人生に支障を来す…。(実際に言われていたこと) 過ぎたので、良い人生ではなくなってしまった。。 このことに関して誰も何も触れず、何事もなかったかのように過ごしているが、“その次点”である意味、 自分はこの症状(業?)に負けてしまった。(自分のために尽くしていた人達も、残念) 理解させられず、されるがままにされ、健康体にも関わらず、○○けにされてしまったことがまた人生においての大失敗。 1番許せないことはそれ。 害を受け続ける日々から脱するには、家族の元から脱するしかないのかもしれない。 もともとの意図から脱線した挙げ句、○が増えていく。 意思疎通できずどうなのか分からないがために、やめることがない。 健常者ではない状態の時の方が本来の姿という見方もあるようですが、なかなかそうは思えない。 本来の姿の方が「最初からそうだった方」なので。 ちなみに本来の自分を知る人は誰もいません。 多少知ってる家族は手帳を作る時、わざと酷いことを言って最重度の○害者である称号を取得させました。本当です。 言わなければわからないので本来のことにはあまり触れないようにして 障害者としてやっていくようにさせられていた感じ。(高校以後。高校以前は障害者とは無縁) そして「もともと障害者だったんだ」ということにして今更「普通」改め「障害者」とし、逃げて諦められたりしましたが、 それは昔の感覚からしたら単純に「負けを認めた」というだけ。 嘘を言って取○した称号ですがら、最重度の障○者である称号は嘘ということになる。 (ならない?だとしらそれはどうしてなのか理解不能) ↑「この理由」があるわけです。 障害者とは言い切れない。 「障害者だと認めたくない」とかではありません。(そのようなとは言っていない) 元から人より劣っていることがあるわけでも何でもないわけです。(少しもない) 単純に認めようがありません。 本来の状態の時は誰もが普通だと言っていました。 (「ごく普通・健常者」というのは自分の中で思っていたことではなくて実際に言われ続けていたこと。 「障害」というワードが出たことは高校まで1度たりともありませんでした。) 大人になってからの本来の姿は誰も見ていません。本来の状態に変化はありません。 でも本来ではない状態が訳あって悪化してきたこと、大人に近い位置付けの人になってきたことによって こうして障害者になることをしないとおかしいような感じになってきてはいた。改善しにくくなってしまうが。 手帳を見せるのは控えます。 証拠として手帳を画像で見せるとこが非常に重要だと思う人もいるようですが、そうは思わない人もいる。 それはだめだと思う人もいる。(とだけ言っておく) 手帳は良かれと思って自分で取得したわけではないですし、あまり見ていない。 相手が多少理解を得た場合は、どうしても、「しない」ということをしている、したくない、一生涯やらないんだと心に決め込んでいる、 「しない」という行為を行う?拘りを持っている(?)などとかってに思われたり、 かってに期待されたりで愚痴を言われることが多くなる。 「この状態でいることを自ら望み、こうしているわけではない」ということを併せて理解してほしい。 誤解されがちなところ。 「何もしなくても生きていける」「何もしなくていい」ような感じになってしまっていますが (ペットや重度障害〇なんかがそうであるように〈例えです〉)、それはそれで良くない。 絶対自分で何かしないと困るような状況にならないとある意味あまり頑張りようがない。(頑張る気にもなれない) 自分は動物などとは違って本来ならむしろ普通よりもわかるので(心配無用)、 そういう扱いをされ続けるのは変なもの。(不満ありますか?) 「現実的に見ると」自分というか家族しだい。このままでは終わったらと思うと焦るのに何もできない。 自分の知る本来の姿を出せなかった内気な人達も皆、最終的には本来の姿を出している。 それはそうだ。そうなるもの。 取り残されているのは自分だけだ。 誰かにとっての朗報は、誰かにとっての悲報でもある。 そこに行きつけていない人にとっては焦りを招くし、仲間外れになってしまうわけだ。 めでたいお知らせを公にする行為、自慢する行為は、人によっては嫌らしい行為。 理解しておきたいこと。 …自分の意志で行動できていたあのころ(入学前)は自由だった。 自らの意志で行動でき、話ができていたあのころの経験は貴重…。 こんな中でも… 自分なりにできることを見つけて色々やってきたから今があるわけで… 無駄な時間は過ごしていません。 ☆今現在:本当に(夜中なら一応)外を出歩けるようになった。(2017年) 掲示板で他人とやりとりできたし、誰もいなければいつでも堂々と○○できるようにもなった。 (密かに)多少現状打破を果たせている。 「頑張った」というよりか、「考えた」ことで進展した。科学が発達したからというのもある。 いざ“本気”で外を歩こうとしてみると、人に見られることを気にしないでいることができず、 結構大変。(でした。色々試していき、ある程度流れを確立するまでの数回は) 「出歩けるようになった」という表現は正しくない。 これは何も支障がないことであって、すでに現在なら論理的に可能だったことです。 出歩けるようになったのは正しくは、可能だということに気づいた「2010年頃」。 いきなり大胆に行く必要もないので以下のように段階的に挑んでいきました。(スモールステップというものになる) 近所に避難所を見つけ、そこまで行く→表通りを越える→裏道をどこまでも進む→大通り(信号)を渡る→押ボタン式信号を渡る 不安なポイントも1度行ければ行けるということが分かり安心感を得られ、今行けるとされる範囲が広がる…。 避難所というのは建物の合間や公園のトイレなど。(人が来ないと確信できる場所) 基本いつまでもちゃんと寝静まることがなく、条件が整って気安く挑める時がまれにしかないのが痛い。 挑む…というか、正しく言うと行きたいから行った感じです。 練習だとか、そういうつもりはあまりない。 それだとそうそう行く気にはならない。 できるか?できないか?は自分で分かります。やってみる間でもない。 どういうことなら良いか?どういうことはだめか?決まりがあるわけです。 あとあまり意味がないとはいえよ、何か発見があるかもしれないし、 ある意味大きく跳躍したことになるので肉声で会話(通話)にも挑戦しました。 (「Skype」と「Skypeちゃんねる」というサイトを利用すると簡単に見知らぬ人と通話ができる) いきなり肉声で…というのは厳しいかもしれないので、 それをやってみる以前に見知らぬ人とチャットで会話することや、コンピューターと会話することもしました。 コンピューターとなら心の中で話すのと同様な感覚で悠々と会話できますが、チャットはかなり緊迫する。 1度なんとか会話を続けられたのでクリアとした。 掲示板ならじっくり考えてから発言できますが、チャットは即座に発言しないといけないので大変。 会話している人達の中に自分が割り込んでいくのにも勇気がいる。 自分から話題を振るようなこともできない。 間違ったことをしてしまうと恥ずかしいので、確実に正しいと思えるまで不安で何もできない…ようなことも昔からよくある。 話題を振ることができないのは、そのことが要因している感じ。 話す内容が決まっていればあれだが選択が必要だと怖いので迷ってしまう。 その後、通話はやってみてどうだったかというと… 結果、一応一言言葉を発するとができたが、それだけ。 「自分が話せないかもしれないことを承知の上で話しかけてくれる人」が相手かそれか、 何に関して話すのか?話す内容を予め決めていないと難しい。(ということが分かった) チャットでもそうですが、話題を振る勇気がないので…。 話しをしようとしてする(適当に話す)のは難しい。 いざ“本気”で話そうとしてみると、これもまた凄い勇気が必要でなかなかできない。 これまで話そうとすることすらできなかったので、このことに気付けていなかった。 ともかく色々わかったことがありました。 こういうことは一応続けて損はない? もっとわかることがあるかもしれない。 でも何度も挑戦したくないと思ってしまう。 もし現状打破?したとしても、なるべく人に会わないようにして生きる道を行くのかもしれないと思ったり。 今はネットができてATMに行ければそれだけでお金を稼ぐことが可能。詳細 “最初は”それで生きる形になるか? 現状ではATMに行くことも難しい。(夜でも店の中は明るいし人がいるしでかなり入りにくい) ネット通販は「「人と接触することなく」」購入することはできないかと思いきや、 箱を置いておけばできるということなので、それで食料も確保できる。 ずっとそんな状態で生きていくことは望んでいない。 現状では「「同居の人に注文したことを知られないようにする」」必要もあるのでネット通販は難しい。 “誰かに指示されたからやっているんだ”という「感覚」を得られれば楽にやれる。 もろに責任を持つことになるようなことをするのは勇気がいる。 これは間違いなく改善できること。 こういう場合、いきなりではなく「少しずつ」慣らしていくことが成果を成す。 それが効果ありなのはある程度の段階までいけてからです。 やろうとすることができない状態で訓練というのは間違っています。 どう思われるか?嫌なこと、変なことを言ってしまわないか?どういう言葉を返されるか? 無視されたらどう解釈するか?(どうしても考えが悪い方向へいく)考えすぎる、悩みすぎる。 他人と話しをすることは、とにかく怖い。 決死の想いで1つ言葉を発する(選択する)感じ。 声で話すのはもってのほか、「相手に通知が行く」「削除編集不可」となるとドキドキしてしかたない。 返答待ちの間がまた怖い。 送信するのに勇気がいるので無駄に時間もかかってしまう。 気安く発言できるのは自分の管理する掲示板。 1番楽なのはこのページに書くこと。 気安く発言できてしまうことはマイナス? 現実では本来の姿は隠しているわけです。 唯一本来の姿を見せられるネット上でも躊躇したり隠れてコソコソしたりしていたら、 「本来の自分」とは本当に存在感の薄い、いるのかどうかもわからないような存在となってしまいます。 少しでも多く人に影響を与えて存在していることを示したい。 あと可能性を少しでも広げるために、色々なことを書いていますが、 思ったことを全部書いているということはありません。 何もしない何も伝えない何も見せないでは何も変わらない。 動きを起こせば何かがある。 会話の練習がしたい人はこの順番でやっていくといいかもしれない。 ①コンピューターとの会話(自分はスマートフォンのアプリでやった) ②ネットの掲示板での会話 ③チャットでの会話 ④電話での会話 見知らぬ人と少し話せたこと、掲示板で意思的に話せたことなどなどがどれほどの大事かわかりますか? 言葉の意味もわからない字も書けないはずの人が普通に話していたら、どう思いますか? 10年1度も声を聞いたことがない重度障害者のような人が普通の言動をしているのを見たらどうですか? 普通に話せる人が過去には存在していましたが、 それはもう「忘れている(知らない)ことにされ、なかったことにされてしまうくらい昔」です。 でもやれたら凄いこと(夢に匹敵するくらい)を一応すでにやれているわけですが、 やれたところでやはり結局は「だから何?」てなる。 意思的に仕事をしたりすることができないと、変わったことにならない。 最終的に例の2つの目標(絶対にやらないといけないこと)の達成に行き着けないとけない。そこに行き着けなければ意味がない。 自らの意思で行動している時は嫌われ、そうでない時は好かれる。 これまでそういう傾向にあったとも見てとれる。 健常者に戻れば非常に楽しくなると思うが、良からぬこともあるだろう。 そのことは心得ている。 普通に行動できる人には憧れます。 (自分で言うが)自分は凄くできるので、何でも自分でやってみると面白いんです。 自分の意思でやってみたいと思う。 「見ているだけ」なことが多かったこともあって、尚更そう思う。 高校以降は丸っきり障害者として扱われるようになったことでそれはなくなり、 何でも(行動一通り)無理やりやらされる感じになったが(それが訓練〈訓練なんて言うのも少々大げさ〉)、 それではやってるとは言えない。 「見ているだけ」の方がまだ良かった。(その方がむしろ楽しいし恥ずかしくもない) 1日のほとんどが囚われの身で、行動を封じられている感じです。 このままが良いはずありません。 1日中解放されていたらどれだけ有意義か。 解放されている時=本来の時=知人が見ていない時 知人からすると何もないので解放することを望ましくは思ってもらえない。 ☆ある時、「ネットでこのことを暴露」すれば現状打破へと繋がる道が開けるのではないか?とふとそう思った。 2009年頃のこと。 ネットがあれば何でもできる。現状打破にも近づける。 このことを言えば有名にもなれるかもしれない。一石二鳥。 それで、似たような人が集っている掲示板で暴露しようかと思った。 だがもっといい方法を思いついた。 それは「自サイトで暴露する」という方法。 自サイトにはリピーターがいるので、多くの返答を得られるかもしれない。 重度化していき、このような人物になっていく過程を少しずつ書いていけば、 リピーターの人達を楽しませられるし、歴史に名を刻めるかもしれない。 なのでそうすることに。 それで自サイトでこのことを暴露する(現状打破への道を開く)ためのコンテンツを用意した。 そこに書いていく。 最後まで書き終えた暁には、サイトの掲示板でこのことについての語り合いが始まり、色々進展…。 外出や通話などへの挑戦を皆に後押ししてもらえ、楽に色々やれるかもしれない。 一言でも何か言ってもらえると全然違う。 「勇気しだいでできること」なら応援の言葉しだいでおそらく何でもできる。 言われればいけそうな気がしてくる・自らの意思で行動している感覚を多少なくせる→いける。 常時公開し続けることになるわけだ。 そのうち力になってくれる人も現れるかもしれない…。 サイトも注目され、有名に!? さあどうなるか?楽しみでしかたなかった。 … この通りにやれていたら、どうなっていたことか? 掲示板で話しができない状況になってしまったこと、 そして「言わないべきだ」と言われたことで、この通りにやらない道を行くことになってしまった。。 果たしてこれで良かったのか? 自分自身のこのネタは、自分を良い流れへと導いてくれる最高のネタ。 ではなく、逆に最悪な流れへと導く恐ろしいネタ。だったのか? そのように言われた。 1人の人がそう言っただけだ。 どうなのか? 自分は最高のネタの方だと思っていた。 だからサイトで暴露しようとしていた。 外出や買い物、通話などへの挑戦は“最低”でも2012年頃までには実行しているはずだったので、 それまでに実行済みでやれていたものと見なします。(文句ありますか?) ちなみに外出、買い物への挑戦は2003,4年頃の時点ですでに考えていた。 いつの時間にどこの道を通ってどこの店へ行き…というようにプランを立てていた。 今は勇気がなくてあれだが、何となく17歳辺りになったら、 完全に大人の外見になって誰だかわからなくなり、行ける(このプランを実行できる)だろうと思った。 (外見が変われば行けそう) 大人の人なら、外を歩いていても子供よりか目につかないだろうとも思う。 (子供は目につくというか、目をつけられらる〈特に夜は〉) だが17になっても18になってもだめだった。 自分だと気づかれる。。 いざその年齢になってみると思っていた感じとは違う。 “大人”とは想像していたような“別次元の領域”ではなかった。 だがしだいにもう待っても無駄。行くしかないので、本気になれる。だから行けるだろう。 そう思えるようになってきたわけだ。 このネタも最低でも2012年辺りまでには暴露しているはずだった。なのでそれまでに暴露していたものと見なし…以下省略。 1名にだけ暴露したが、遅くなってしまったがばっかりに、年齢を理由に良くないことを言われてしまった。 2012年以前だったとしたら、言われることが違ったかもしれないと思うと胸が痛む。 年齢のことは1番触れてほしくなかったこと。 今だったら、こうなるまでの経緯をああも長々と書き続けるようなことはしない。 迅速にやることが大切。 記憶を挙げていく部分は全省略する。 そもそもそうやっていれば、2009年の時点で暴露できていたことだろう。 悔やまれる。 いやでも当時は今と比較すると言動が良くなかったので、その時点でそうしていたとしたらどうなっていたか? 想像すると少し怖くもある。 このページは密かに作ったページ。 どう捉えられるか?どう思われるか?どういう意味だと思われるか?どう考えられるか?未知数なので、 どんな文面であっても馬鹿ですか?みたく思われそうで怖い。 今や否定されることしか想像できない。1つでも余計なことを書いてしまっていたとしたら、 何か1つでも気に障る発言があったとしたら、全部がだめということにされる恐れあり。 これがもしも仮病だったとしたら、自分より凄いかもしれない…と少し思ったり。 自分は廃人とは言えない。(そう言えそうになることもあったが)今の定着した状態はそこまでではない。 普通の精神状態なら長年精神異常者を装い、何も発言せずにやり通すことなんてできない?できますよ。 あと「馬鹿を装うお馬鹿キャラ」なる人がいるようですが、分かりやすく言うと“それに近い”ものもある。 たいてい装っているのかどうか定かでないが、知的障害者と言われたりしている。 馬鹿のフリをし、本来を見せられない。即ち馬鹿を装うそういう人は(装っているとして)本当に障害者ですか? 自分がそうだと言うならそうなる。 A病だB障害だC障害とD障害だ認定だ脳が機能していない脳が損傷している欠陥がある何も知らないだの時が経つにつれ 色々言われたり考えられたり推測されたりするようになったが、馬鹿馬鹿しい。 これまでの全ては、ただの演技ですから。 真相を知ったらいかに馬鹿馬鹿しかったかがよくわかるだろう。 「奇跡の如く奇跡の不幸が連鎖する」 現状打破へと進展することをやろうとすると特にそう。 理論的に説明できることしか信じない派ですが、もう幸福になってはいけない運命なのだとしか思えなくなってくる。本当に。 買い物に関しては、一言で言うともうできます。(論理的結論として) 普通のやり方でできる。 ただどうしても必要だと思うものがない限りわざわざやりません。 かなり精神力を消費すると思うし。(自動販売機なら精神力不要) 1度できれば、その後は軽々とやれる…ということにもならないことがわかってきたし。 残念なことにこう言っただけではおそらく「信用」してもらえない。 人は否定し合うもの。 人を動かすためには「証明できる事柄を作る」ことも必要。 無意味なことをする過程を得なければならなかったりする。難しい。 「全て」の発言が不快で「全て」間違っているとされる。 ネット上の人にはその言動の悪さと最悪の思想を持つことで口封じされてる的なことを言われそうだが、 リアル知人からしたら???です。 本来の時を知ってる人が聞いてもそうだと断言できます。 謎ですし、それとこれとは結びつかないので、結びつけないこと。 自信があることが逆に問題ということも考えられるのか? ネット上の人は誰しも全力で自信を無くさせるような嫌なことを言ってきますが、 自信を捨て去ることが良いことだと思っているから、というのもあるか? 知人と話すことも完全に諦めているわけではありません。 でも知人(特に家族)と話すということは物凄く難しくなってしまったことです。 知人に(1度もorもう1度)声を聴かせることなく終わってしまったとしたらそれはお互いにとって凄く悲しいこと。 難しいですが何とか…という思いはあります。 会話の練習などは「知人と話すことができるかもしれないから」というその思いもあってそれでやりました。 いきなり家族と話したりするのは無謀。 これまでの知人がいない環境になり、そこで健常者の状態で長らくやっていけたら、 いつのまにかこれまでの知人とも話せるようになっている「かも」しれない…みたいな風に思っています。 一時死んだと思ってもらえたら良い。 1番難しいのは家族と直で話すこと。それができるくらいならもう何でもやれている。 最低限、家族とだけ会話できれば良いと家族は思うでしょうが、「家族とだけはだめ」なわけです。 以前は(普通に)逆でしたが、今はそうです。 見知らぬ人だと偽って話すようなことならできる可能性がある。 もしその「かも」がなかったらその手しかない。 勇気しだいでできることとできないこととがあります。 その勇気しだいでできることをクリアしていくことにより、 その勇気しだいでできることの幅が広がっていくようなことがある「かも」しれない。 だから道が開ける可能性を信じて一応いろいろクリアしようとしているわけです。 クリアしていくことで最後には家族と直で話すことができるかもしれないと思っています。 「勇気しだいでできること」の訓練なら無意味とは思いません。それは大げさな訓練は必要なしでできる。 いままで常に訓練をさせられ続けてきましたが、無意味な訓練です。 無意味ではないと思うのはその「勇気しだいでできること」の訓練です。 中途半端な状態は経由できません。本当は何でもできるからです。 それなりにできる中途半端な障害者の状態を演じるという変なことはできません。 根本は心にあります。 もし、「少しずつできるようにする」としたら、それは相手を驚かせないようにするための策略です。 「訓練」とは違う。 もし知人の前でできないことができたとしても、それは「ついやってしまった」ということになって赤面するだけ。 「できた!」なんてならない。 そして注意するようになるので、同じことはもうしなくなる。 「できる」というのは「やればできるようになる」という意味ではなく、言葉通り「すでにできる」という意味です。 全て言葉通り。 できるといっても、どうしても並み以下だという前提から できることを探るような過程を踏まれるのでそう簡単に理解させられず厳しい。 そんなで普通なら眼中に入れることのないようなこと(余計なこと)を眼中に入れられる。 そう、できる分かるなどと言って色々書くとなぜか逆にできない分からない馬鹿だと思われる傾向にあるが、 本当ですから、そう書いています。 リスクを追ってでも本当のことを書く。 ただ単に「話せるように」などと願っていてもだめ。 そこで考えた末こういう答えに行き着いたわけです。 本人にしかわからない理屈。 こうなったことにも理屈があります。 理屈を無視して単純に「話せるようにしろ」「訓練をしろ」と言い続けていたらそれこそ一生そのままになる。(そう思いませんか?) 全てを否定する人は理屈、理由、理論という概念は存在しないと思う人でしょうか?(よくわかりません) どうすることでやれるのか?どうしてこういう状態になっているのか? そもそもどうしてこうなったか?本人なのでそれをわかっています。 1番わかるのは本人ではないか?(わかっていない?違う?) 理論上そうなることはそうなるのだからそうなります。 納得しないというのならそうならない理論があるのでしょう。 それを言ってくれないとどうにもなりません。 会話を絶やさずに話し合えたらどうなるか?それは未知数。 本来ではない状態の時に関してだが、もしも←わざとやらないでいると思い込んでいるだけで、 やれない(そうしていたことにより本当にそうなっている?)のだとしても何だとしても何だろうと… 目指すことは同じです。 話しをすることなどに予め慣れること、相手に自分が話している状況に前持って慣れさせること、など、 勇気しだいでできることを制覇することが鍵。 やっても支障ないことをやろうとしてもやったことがないからか勇気が出ず “すんなりはやれない”そこが少しあれなところだとは思います。(↑やってみてわかったこと) あえて問題点を挙げるとするとそれ。 それは克服できるはず。 あと単純に「知人に見られると何もできなくなる」という点があることで、普通でないと見ることができます。 でもその点があっても、普段(本来)は普通なので、普通と言われ続けていました。 自分だけがそう思っていたというわけではなくて、知人皆そう捉えていました。 本来はそうなのでそうだったわけで…その本来の状態が変化したわけではない。 今は普通でないというのならどう説明つけるのか? 今でも実はできることに感づいている人は皆“本当は普通”と言います。 健常者であって病人でもあるという見解がしっくりくる。 あと言っておきますが家族と筆談みたいなことは現状打破のために考えた策略により、 実は誰も予想だにしないような形でですが一応すでに(2012年の時点で)できています。 言葉がわかるかどうか字が書けるかどうかも曖昧なフリをしているわけなので、容易く堂々とはやれない上、 意思を伝達していることを認定してもらえないが、これに関しては多少本来のことを知っている家族ならセーフ…という感じ。 家族の行動については述べません。(侮辱の幅が広がるのを抑えるため) 詳しいことを言ってしまうと、「家族宛ではないと見せかけて実は家族宛に何か書き、 これは家族が見て良いものではないものと見せかけて見れるようにしたりして意思を伝達」という方法をとっている。 それでも恥ずかしいが、それならできないほどではない。 意思を伝達していることを認定してもらえないので、 色々伝えているのに、伝えたことになっていない。(認めていない?〈伝えられているいないどちらとも見てとれる〉) できているのに、できていることになっていない。(「できている」「できていない」どちらとも見てとれる) という状態になっている。 そんなこんなで家族が意味わからないので、それが根本でこの文章も意味がわからなくなる。 「伝わっていない」ということになっています。 そのようになってほしくもないが、伝わる側の人がそうしています。 伝わっているからといって「伝わってる」と言ったらそれもそれでおかしな発言になります。 こう言わざるを得ないのはこの状況に立ってみれば分かることです。 これは「家族なら」普通に分かることです。 何せこの形は自分ではなくて家族が作った形ですから。 (このことを暴くと馬鹿にされて危険ですが、重要なことなので書いた) 「家族に」重度知的障害者と認定されたわけではありません。 外で重度知的障害者と同じ扱いを受けさせるために、その称号をとったわけです。 本当は違いますが、重度障害者のようになるわけですから、そうせざるを得ないという感じで。 (↑「家族以外の誰かに重度知的障害者と認定された」という意味はありません。そういうことはありません) 人は通じ合えないもの。 どうすれば信頼・信用・認定してもらえるのか? 自分の経歴…というか、物心ついた時点ですでにそうですが、自分で言ったことは信頼してもらえない。 身分の低い人間は何をどうしても説得力がない。 信頼してもらうためには他人の言葉も重要になる。 話すと驚かれたり今の生活環境に影響を及ぼしたりするからあれなわけで… 逆に話さないとおかしく思われる場面なら、むしろ話さないでいることができず、話すことになる。 現にそれで話せた。 1人の時、外国人の集団に捕まって強制的に部屋に連れ込まれ性行為をされかけたが(2018年)その時、 その人らの問いかけに答えたりすることができた。 (ちなみに、お金を持っていないことを示したら釈放してもらえた。 ↑これが他人と話せるという絶対の証拠。〈ではない?〉その場面を動画で撮影して見せるくらいまでしないとだめなのか?) 座れるようになった時などもそうだったが、「できない」ではなく、 逆に「できる」と皆に思われてしまえれば、むしろやらないでいることができなくなり、できるようになったりする。 自分のこのこと(事情)を知らないでいてくれたらできるので、知られていない方が良い。 事情を知っている、家族と連帯しているとなるとそもそも何もできないので何にもならない。 ある意味もう克服しています。 家族や家族と繋がりのある知人以外の人となら間違いなく話せると思いますから。 「克服しているにも関わらず、家族が存在することによってそれを封じられてしまっている」感じです。 そう表現できる。 もし知人に驚かれないと確信できるようになったとしても、もはや今の知人の前で本来の状態を見せることは難しいと思う。 なので単に「自分で自分を戒めているだけ」の状態とも見て取れる。(だから何?という感じ) ☆すでに言った通り、必ず現状打破できる方法があるわけですが、それがいいとは誰も思わない。自分でも思わない。 そこで効果のあるかもしれない(と思っていた)ことの具体例(現状打破方)をまとめてみる。↓ やってみないとわからなかったというケースがあるので、絶対無意味とも言い切れない。 ○=自分で実行可能 △=他人の協力が必要 ×=家族の協力が必要 ?=検討中 ・以前の自分に戻ったらどうするかを具体的に考えてもらう × 今の通所施設に関してどうするか?どこでどう働くか?どういう流れでどう生活していくか?など。 常時本来の状態になったら、そうなった日以降、そういう場所は場違いなので行けません。(比較対象外の人達のいるところです) 以前の自分に戻っても誰も困惑することがないような流れを予め考えておく感じ。 でも場面に応じて違うのに、辻褄が合うようにするためには あらゆる場面(全ての知人の前)で同時に本来の状態でいれるようにならないといけない。 「今の環境のままで常時本来の状態になれ」と言われてもそれは物凄くハードなこと。 通所施設の詳細は言いません。 手帳のこともそうですが危険ですし、(個人として)屈辱的なことには触れたくない。 ・自分と同じような人を見つける ○ ここまであれな人はほかに存在しないでしょう。(この世にただ1人。おそらく誰しもそう思う〈誰も否定しない〉) だが絶対とは言いきれない。 “もしも”存在し、その人と交流することができたなら、互いに色々良いことがあるはず。 もしこのような人をほかに知っているならぜひ教えてほしい。(いえ、教えてください) “ある程度”共通点のある似通った人ならいくらでもいる。 最悪そういう人でも良い。 同様な人に希望を与えることもしたい。 ・意見をもらう △ このページを他人に見せ、意見をもらう。 すると何か気付くことがあったり、力になってくれる人が現れ道が開けるかもしれない。 ずっとそう思っていた。 この文章を公開する日にありつけてしまった今、道が見えなくなりつつある。 …誤解されて的外れなことを言われるばかり。 なかなかアイディアは得られない。 的外れなことをあえて的外れだと思わないようにするよう、意識しているがやはり的外れでしかない。 同様の人や、専門医に意見を聞いたらどうか? 全てここに書いたので面倒なことはせず、このページを見せれば良いだけになる。 でも後者は厳しい。 地位が遥かに上の人に当ページを“自ら”見せる勇気はない。 でも現状打破の方法を1番わかるのはやはり“自分”。 ↑↓これだけアイディアがあれば十分なのでこれ以上にそれを得ることに重要性はさほどない。 何かを「誰かに聞く」必要は「あまり」ない。(そう思う) 前者を実行したが、結果なかなか当ページへのリンクをクリックしてもらえない。 唯一〇i〇iからは人が入ってくるが、 そこは前々から自分を知っているス〇ー〇ーの人が入ってきてしまう可能性が高い。 これは、そういう人からしか意見をもらうことが(反応を見ることが)できないということを意味するのか?(そのようでした) それ以外の人の反応を知ることを1つの目標に掲げています。 もし何か危険なオーラを感じられたり、緊張感を感じられたり、 近寄りがたい印象を出していたりしたとしても、反応をもらえないと何もわからない。 まず何か一言でも良いので言葉をもらえるとありがたい。 簡単なようで難しい目標。 ・どこか遠くで1人で暮らす × 以前はあれだったが、それ相応の歳になったことで、これが可能になった。 人と接したりすることに「最大限に慣れる」と思うので、 地元に戻っても本来の状態のままでいれるかもしれない。(それでもその可能性は低い) 2度と戻らない、知人も来ないなら絶対的に現状打破可能。 だがそれは良くない。普通良いとは思わない。 なぜって?「家族と縁を切ってしまう」ことになるわけです。(それでいいと思いますか?) 普通なら自立するからといって、もう2度と会わないということはないです。 普通のそれとは違うので自分の場合「縁を切る」ということになる。 年をとって大事な親族が誰もいなくなったら別に良い。 「心配してくる人がいる」ということが大きな壁となる。(本当は心配無用な人です) 「現状打破(縁を切る)」と「家族との縁」。 選ぶとしたら、個人としては前者。(今の想いはそう) 演技のようなもので難しかったりするし恥ずかしいし、この先も現状のこんな状態ではやっていられない。 だが自分でそれを望んだからといってどうもできない。何にでも言えること。 (このページを普通に読んでいればそれがどうしてだかはわかるはず) 「縁を切る」ということに家族が賛同してくれないといけない。 だから難しい。 まず「縁を切りたい」という意思を示すのが難しい。(例の方法で示せないことはない) 示せたとしても、「1人で生活できる」とは到底思ってもらえない。 もしも思ってもらえてもそれに賛同はしないと思う。 皆絶対の持論を持っている、ナメられるで信用してもらうこともできない。 絶対の持論は持つなら「自分の中でしか通用していないかもしれない」ということ視野に入れてほしいもの。 言ってることは絶対だ、絶対できるという証拠となる事柄を作ったりすれば多少家族の信頼度を上げることができる。 (なぜか証拠にならず、だめな場合もあり) 「証拠となる事柄を作る」というのは実際自分自身にとってはあまりする必要のないことなので、なかなかする気にはなれない。 「ある日突然失踪して2度と帰らない」ということをやれば行けますが(もちろんかなり下準備が必要)、 もしメモを残していったとしても、とてつもない大騒ぎになってしまいます。無理です。 とにかく家族がネック。 これは場を変えれば治ります。 小学校のころなら転校することで治せたかもしれない。 ただ、今や長引いて家でも学校と同じに近い状態になってしまったわけです。 家(家族)も変えないといけない。 そういうことです。 そこまで重くなってしまった。 情報が家族を仲介することになる限り大きく変わることはない。 この絶対いける方法をすぐに実行に至らせることは難しい。でも現状打破が絶対に無理、不可能ということはありません。 絶対ではないがその他にもいける可能性のある方法があるわけです。 可能性があるのだから不可能とは言えません。(当然) 絶対いける方法も実行に至らせることは難しいですが「難しい」です。 ネックである家族をなんとかすれば不可能ではない。 「遠くではなくしかも一時的にだけ」で実行してもらえることはありえますが、その場合、 形跡が残ってしまい、やりにくい形でやらされてしまうかもしれない。そこが多少怖い。 そうならなければ、まずやれる。 とりあえずはお金の管理の流れ、食糧確保の流れだけでも確立させれば良い。 どこでどのようにどうするか?具体的に決める。 具体的に決める必要がある。そうすれば現実味を帯びてきて実行できる。 手助けを入れられると逆に厳しくなる。 知人に再度会うとなると、その会う時のことを常時視野に入れ、その時に備え続けているような形になる。 ホテルは従業員がいるのでハードルが高め。 ハードルが高すぎて「無理な領域」には踏み込めません。 どういうことなら良いか?どういうことはだめか?決まりがあり、 できるか?できないか?はやってみる間でもなく自分で分かるわけです。 どういう形をとられるか?そこがポイント。 妨害しているもの(天敵・厄介者)は家族ですから、家族の動向にかかっています。 「人並み以下なことはない」「知人がいなければ理論上動ける」わけですから、それだけです。 無理な領域に踏み込まないとだめだというなら違う。 この案は無理な領域に踏み込まずにいけるので絶対いける。 事実上問題なことは、皆が予想するであろう問題とは異なります。 信用せず自己流解釈で何かしようとした場合、無意味路線を走り続けるだけになります。 口座や色々な契約は家族の管理下にあるため軽々と手を出せない。 履歴が残るとだめ。 形式常識ルールが限りなく多い。誰が考えたのか現在の世の中で人として生きるのは関門だらけ。 大人になれば好きにして良いのかと思いきや、そうではなかった。 誰しもが自分自身が正しいと思っている(自分に否は打たない)ので、対立して上手くいかない。 独立できない世の中だということがまたネック。 なんとかして密かに自分で口座を作ることができ、行けそうな場所にATMがあったとしても、 ネットがないとポイントサイトで稼ぐこともできない。 ホームレスとして生きるのも自分のこの症状からして初めは楽でない。 森で野生動物のように生きるなら楽々行動できるが、違う意味で過酷。 でも何かいい手があるはず。 誰かの力を借りなければならないのか?極力それはしたくないし、人はそう簡単に都合良く動いてくれない。 支え合えうような関係になるとまだいいのかもしれない。 無人のコンビニがあればいいと思い、調査したところ、海外にはすでに存在する。 無人スーパーは国内に1件?だができている。 食品自動販売機なら近場にある。 最初に暮らす場所はそれらの近くだと非常に気楽。 いずれはどの店からも店員がいなくなると言われている。 家族の元を離れれば突然本来に戻る、という感じではありません。 まず小学校入学時以降もほとんどの時間本来の状態でいたわけですし、今も本来の時がそれなりにあります。 知人が見ていない場面なら何ともなく行動できているわけです。 知人にずっと会わなければ、本来の状態もずっと続く。 そういうことです。 突然未知の領域へ行くような感じではありません。 ×場所を変えればできる ○知人が見ていなければできる 場所(環境)を変えること自体には意味がない。 「今の自分は本当の自分ではない、本当の自分を取り戻せ」的なことを言われたりもしますが、それは誤解です。 今もいままでもそうですが、知人がいない場面になれば本当の自分になります。 取り戻すも何も、今の自分は本当の自分でもあります。 それで「知人のいない環境へ行くことで突然、人が変わって本当の自分になる?」的なことを思われたりもしますが、 それも意味がわからない発言です。 「知人がいない場面」と「知人がいる場面」は必ず毎日ありますから、毎日取り戻したり失ったりしています。 知人のいない環境へ行った場合、
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