私は、在家仏教徒の端くれとして、法力を御伝授いただける立場にあります。
「法力」というのは「形に見えない力」のひとつ。
仏法に秘められたパワーのことです。
これは、「印をむすぶ」手の指でつくる形
「呪文」神々の名前だといわれるけど・・・「のうまく」で始まったりする意味の分からない「音」ですね。
そのほかに釈尊が残したと言われるお経典にこもっています。
もちろん、お札とかお守りという「もの」に込められることもあります。
私が知っているのは仏教だけど、神道にもあるでしょう?
「祝詞」だとか、
護符、破魔矢とか、榊とか、この場合は神力かな?
神官の資格はどうして得られるのかは知らないけど、
仏教の場合、位があって最高位が大阿闍梨位です。
比叡山の千日回峰行を終えられた聖者さまは大阿闍梨に、なられますね。
あんなふうに、修行の道のりが決まっていて、それを終えた者に、先達が与えるものです。
真言密教の場合、唐の清龍寺の座主真言七祖の最後の恵果阿闍梨が、弟子に先立たれ、法を伝えるべき人を待っているときに、空海が、お山にやってきました。
空海は真言密教を継承した唯一の人となり、日本で真言密教を始める最初の人になりました。
インドで始まった仏教の真言密教の流れは、日本にしか伝わらなかったのです。
たとえば、法力こもる経典がありますね。
特別のお経というものがあるのです。
空海が高野山に大本山を建てた後、朝廷から高い位をもらっている比叡山の伝教大師・最澄が、弟子を空海のもとへ送ります。
なぜなら、最澄の乗った遣唐使船は南へ流され、最澄は密教の奥義を手に入れられなかったから。
最澄には、仏教の法力の究極のモノがなかった。そこで、最澄は弟子にその「究極の奥義」を受け取らせに送り込んだのですが、弟子たちは、そのまま空海のもとにとどまり、比叡山にもどらなかった。
比叡山は鎌倉時代多くの新仏教を分派させていますね。
比叡山には、究極の救いが無い、大衆を救うことはできないと、感じた法然、親鸞、一遍などが、新宗教を編み出したのです。
けれど、真言密教からは、新しい宗派は出ていません。
「救いの根源」が、ここにあるからなんです。
それは、空海が唐から持ち帰った経典「般若理趣経」にあると、いうことです。
般若というと心経が有名です。
私も、理趣経の全貌は知りません。
心経の様に短いのか、はるかに長いのか?
ただ、修行の過程で御伝授を頂いたものがあります。
これは、印刷物ですから、誰でも、読もうと思えば読める。音読も出来ます。
しかしながら、資格をもったものが、唱えなければ法力とはならない。
そういう世界です。
理趣経は、不成仏霊を成仏させる唯一のお経だと先輩に教わりました。
最澄は、これを持たないんだよ。だから、比叡山から派生したどの仏教にも、真の救いが無い。
そういえば、私の実家は浄土真宗ですが、
お坊さんが「お釈迦様は、人間死んだら、どうなるのでうか?という弟子の質問に”もって、知らず”と、答えておられます。ですから、人の死後、どうなるのかは、お釈迦さまでさえご存じないのだから、私たちにわかりっこありません。
私たちは、親鸞上人様のおっしゃったように”お念仏”をあげれば西方浄土にいけると信じていくだけです。なまんだぶ~なまんだぶ」という感じでした。
だから、浄土真宗は簡単です。
葬式の経典を聞いていると「極楽浄土の描写」があり、亡者に向かって「ほんと、極楽ってすばらしいところだよ」と、言い聞かせる・・・
極楽浄土にすっといける魂はいいけど・・・行けなくて、その辺をふらふらしたり、子孫にへばりついたり、地縛霊といって一定の場所にとどまるのは、困るのよね。
苦しみを抱えているから、その苦しみを訴えてくる…訴えられた人間は、そもそも波動が同じだから呼び込むので、さらに苦しむことになる。
私には霊視はできないから、どういうものがあるのかは、わからないけど、
此の世のことを「うつし世=現世」というでしょ。
あれは霊界の「うつし」だから。
見えない波動に生きる人は影響を受けている。
この世に心を残した不成仏霊を、成仏させることこそ、地球を救うことだというのが、仏教の主張です。当然、私の教団は、ひたすら、世界を救うために全世界での施餓鬼を続けています。
見えない世界が存在する。
そこを清める方法がある。
この鍵を握るものには神通力が持てる・・・
そういう世界が実際にあるのですが、そういう超人は「俺、超人」なんて、申告しないんですよ。
この世界には、私たちが知っている人やことやモノだけじゃない。
理解不能の不思議がたくさんあります。
だから、そりゃあ、宇宙人がいて、宇宙人から教えられて、地球上に不思議な技術をもたらす人がいても、おかしくないと、私は思います。
私ごときが唱えるお経でも、法力を伝授頂いているので、人の寿命を延ばしたり、霊障を遠ざけたりできるのですから。
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「法力」というのは「形に見えない力」のひとつ。
仏法に秘められたパワーのことです。
これは、「印をむすぶ」手の指でつくる形
「呪文」神々の名前だといわれるけど・・・「のうまく」で始まったりする意味の分からない「音」ですね。
そのほかに釈尊が残したと言われるお経典にこもっています。
もちろん、お札とかお守りという「もの」に込められることもあります。
私が知っているのは仏教だけど、神道にもあるでしょう?
「祝詞」だとか、
護符、破魔矢とか、榊とか、この場合は神力かな?
神官の資格はどうして得られるのかは知らないけど、
仏教の場合、位があって最高位が大阿闍梨位です。
比叡山の千日回峰行を終えられた聖者さまは大阿闍梨に、なられますね。
あんなふうに、修行の道のりが決まっていて、それを終えた者に、先達が与えるものです。
真言密教の場合、唐の清龍寺の座主真言七祖の最後の恵果阿闍梨が、弟子に先立たれ、法を伝えるべき人を待っているときに、空海が、お山にやってきました。
空海は真言密教を継承した唯一の人となり、日本で真言密教を始める最初の人になりました。
インドで始まった仏教の真言密教の流れは、日本にしか伝わらなかったのです。
たとえば、法力こもる経典がありますね。
特別のお経というものがあるのです。
空海が高野山に大本山を建てた後、朝廷から高い位をもらっている比叡山の伝教大師・最澄が、弟子を空海のもとへ送ります。
なぜなら、最澄の乗った遣唐使船は南へ流され、最澄は密教の奥義を手に入れられなかったから。
最澄には、仏教の法力の究極のモノがなかった。そこで、最澄は弟子にその「究極の奥義」を受け取らせに送り込んだのですが、弟子たちは、そのまま空海のもとにとどまり、比叡山にもどらなかった。
比叡山は鎌倉時代多くの新仏教を分派させていますね。
比叡山には、究極の救いが無い、大衆を救うことはできないと、感じた法然、親鸞、一遍などが、新宗教を編み出したのです。
けれど、真言密教からは、新しい宗派は出ていません。
「救いの根源」が、ここにあるからなんです。
それは、空海が唐から持ち帰った経典「般若理趣経」にあると、いうことです。
般若というと心経が有名です。
私も、理趣経の全貌は知りません。
心経の様に短いのか、はるかに長いのか?
ただ、修行の過程で御伝授を頂いたものがあります。
これは、印刷物ですから、誰でも、読もうと思えば読める。音読も出来ます。
しかしながら、資格をもったものが、唱えなければ法力とはならない。
そういう世界です。
理趣経は、不成仏霊を成仏させる唯一のお経だと先輩に教わりました。
最澄は、これを持たないんだよ。だから、比叡山から派生したどの仏教にも、真の救いが無い。
そういえば、私の実家は浄土真宗ですが、
お坊さんが「お釈迦様は、人間死んだら、どうなるのでうか?という弟子の質問に”もって、知らず”と、答えておられます。ですから、人の死後、どうなるのかは、お釈迦さまでさえご存じないのだから、私たちにわかりっこありません。
私たちは、親鸞上人様のおっしゃったように”お念仏”をあげれば西方浄土にいけると信じていくだけです。なまんだぶ~なまんだぶ」という感じでした。
だから、浄土真宗は簡単です。
葬式の経典を聞いていると「極楽浄土の描写」があり、亡者に向かって「ほんと、極楽ってすばらしいところだよ」と、言い聞かせる・・・
極楽浄土にすっといける魂はいいけど・・・行けなくて、その辺をふらふらしたり、子孫にへばりついたり、地縛霊といって一定の場所にとどまるのは、困るのよね。
苦しみを抱えているから、その苦しみを訴えてくる…訴えられた人間は、そもそも波動が同じだから呼び込むので、さらに苦しむことになる。
私には霊視はできないから、どういうものがあるのかは、わからないけど、
此の世のことを「うつし世=現世」というでしょ。
あれは霊界の「うつし」だから。
見えない波動に生きる人は影響を受けている。
この世に心を残した不成仏霊を、成仏させることこそ、地球を救うことだというのが、仏教の主張です。当然、私の教団は、ひたすら、世界を救うために全世界での施餓鬼を続けています。
見えない世界が存在する。
そこを清める方法がある。
この鍵を握るものには神通力が持てる・・・
そういう世界が実際にあるのですが、そういう超人は「俺、超人」なんて、申告しないんですよ。
この世界には、私たちが知っている人やことやモノだけじゃない。
理解不能の不思議がたくさんあります。
だから、そりゃあ、宇宙人がいて、宇宙人から教えられて、地球上に不思議な技術をもたらす人がいても、おかしくないと、私は思います。
私ごときが唱えるお経でも、法力を伝授頂いているので、人の寿命を延ばしたり、霊障を遠ざけたりできるのですから。