私は、ときどき自分が宗教団体に所属していることを、ここに書きます。

だからだと思うのですが・・・いろいろの障害があって、生活は年金で回しているけど、思うような暮らしができない。普通に暮らしたいけど、できない・・・というメッセージを頂きました。

「ものもちゃんと考えられない」という訴えですが、文章全体が、きちんと筋が通っています。しかも長文。これだけの文章が書けて、なお、普通の生活が営めないのであれば、大きなストレスだと思います。
自分を客観視できるわけですから。


本当に、考えのまとまらない症状なら、どこかおかしな印象を受けるはずなのに。


で、私の「法力」で助けてくださいという訴えですが。


私には、他人様を助ける法力はありません。
人間には、なんらかのパワーが働くきっかけを演じることしかできません。

私は、いつも思う。

神さまは驚くような奇跡は起こせるけど、机ひとつ移動させられないんだから。人間にだって神様の手助けは出来る。

でも、

宗教を始めたころ、私は「人間を助けるのが神仏の”仕事”」だと、考えていましたけど。

違います。

それぞれの人には先祖霊など守護霊が複数あると、本で読んだことがあるので、この世に生まれる限り、なにかに守られているのだろうと思います。

でも、神仏があるなら、助けてよ!と、叫んでも、・・・無理です。

此の世の不幸のことを仏教では「悪因縁」と言います。
仏教とは「この因縁を知り、因縁の原因を知り、それを取り除く」ことを「仏法の力」としています。

因縁の形は4種類あります。
1.自分自身が過去にやったことの報い=自業自得
2.自分自身が過去世でやったことの報い=前世の自業自得
3.先祖の因果が子孫に出る
4.神さまの祟りとか、地縛霊の影響とか、自身には何の関係もないのに、突然襲い掛かる災難

私が教団の教義は本物だと信じて不信心ながら、離れないのは、これらの因縁に打ち勝つために、「自力で越える」ことを教えているからです。

つまり「呪文」「経典」「お札」「お布施」など、自分自身は変化しないで「他の何かに頼る」ことでは運命は変化しない。

呪文に頼ってもいいけど、それによって、自分の「器を大きくし、徳を積みなさい」自力で運命を開拓する以外、真の救いは無い。
自分の徳力にふさわしい世界が周辺に展開されるのだから。

そういうわけで。若くて元気なころから、努めなければ、宗教だって手には入りません。
私は、この世界でも「出世が遅い」のですが、現世で、たとえば、学科成績が良かったなど、得意な面が多かったので、宗教界でまで成績がよければ「鼻持ちならないうぬぼれ」になるでしょう。

私は、自分の宗教世界では、人のはるか後塵をかぶる劣等生です。
なんで、学校でも社会でもぶいぶい言わせてきたのに、ここだけだめなのか?
ずいぶん悩んだけど、今ではわかっているんです。

増上慢・・・自分を高いところに置く根性ですね。他人を馬鹿にして・・・普通にしていても、そういうありさまなのに、宗教界でまで、すいすい先を行ったら・・・うぬぼれが強くなりすぎて、最後はまっさかさまに地獄に落ちる・・・そういう自分なのだと、わかっています。

それでもね・・・それでも、それはそれとして。私は、「やさしい性格」なんだろうと、このごろ思うようになりました。
なぜかというと「自分自身の冷たさ、他人なんかどうでもいいと思う冷たさ」に気付くたびに、悲しくなるからです。もっと、なんとかしてあげられないものか、なんとか、幸せにさせてあげられないものかと悩む。

そして、何もできない自分を本当に情けないと思う。

「何もしてあげられない」のは、どういう場合かと言うと「精神的な問題」を抱えている人を前にするときです。

「なぜ、人と雑談ができないの?」
「なぜ、自分をそう決めつけるの?」
「なぜ、そこまで自信がもてないの?」

自分と他人との距離感がおかしい。
自分で、自分をがんじがらめにして身動き取れなくなる。
ともかく夜が眠れない。
睡眠薬を飲むと、一日中ぼーっとして、神経が集中できない。

そういう自分をあげつらって「悩むこと」だけで時間を費やす。

心とは「ころころ動くから心」だと、薬師寺の高田好胤師が言われていました。
でも、精神的に問題のある人は「コロコロ動かない」「同じところをぐるぐる回る」

そして「自分はだめだ」と「自分のことばかり」考えています。

自己中とは、「自分中心」とは、自分さえよかったら、他人なんかどうでもいい\というありようではないですね。

あなたのものは私のもの、
私のモノは私のモノ

こういうのは欲深いというだけで自己中ではありません。

自己中心とは「つねに、自分のことで頭がいっぱい」のことだと私は思います。
「自分はあれこれ、これそれだから・・・ダメなんだ」
「自分はこれもわからない、これもできない、あれも出来ない・・・自分はダメだ」
「将来何の希望もない、自分はだめだ。だめだ。だめだ」

こういうのが自己中だと思う。
こういうのを精神疾患というのでしょう。

勝手に落ち込んでいく。
悪い材料、ダメな材料ばかり探し出しては「不幸・絶対不幸」の位置に自分を置く。それで、じっとする。

ちっとも心地よくないけど、自分の駄目なところ、悪いところを数え上げて、なんか安定する。

確かに、これは「因縁」につかまった状態です。

なぜならこういう人は、すべて我が強い。
他人の言う事なんか聞きません。

その「自分の思慮=我」の中に閉じこもってしまう。

いや・・・そこが居心地がいいような錯覚にとらわれる。
そして、その安住の地から出ることが恐くて出られない。

長年引きこもると、他人の能力より劣ってしまう。社会性もない・・・生の人間の営みにふれると「夢の中」というわけにいかない・・・現実にぶつかる。

心のどこかで、わかっているから、あえて「生きて動いている世界へは出て行かない」傷つくのが恐いから。

こういう状態が長く続く人は、決して少なくはないと思う。
私の弟は30年間、こういう風でした。

なんやかや、もっともらしい理屈をつけるけど、結局は、出ていくのが恐いのでしょう。

だったら、生活の保障は一応あるのだから、黙ってにこにこその状態を愉しんで過ごしてくれたら周囲も楽だけど、「このままでは将来が不安。親がいなくなったら、どうしよう。なにも、したいこともないし、何も楽しいこともない」とこう着状態を続ける。

決して少なくないんですよ、こういうケースは。
ここまでいかなくても、精神的にふさがっていて、相手の立場に立って考えられずに自分がどうおもわれているかばっかり気にして、くよくようつうつする人も少なくはない。

今のような政情では、増えるばかりではないかと思います。

私の場合は、
これは「先祖の行いの報いとして出てきたこと」だという言葉を信じて、先祖の借りを返す決意をしました。
「あなたは普通の人に出来ないことをしてきましたね。だから、息子さんは20歳ころまでで死ぬところを命ながらえた」と、評価してもらえました。

息子は24歳の時大型トラックに追突されて、もし・・・ガソリンタンクから火が出ていたら、歪んだドアから出られず、焼死でした・・・けど、ムチうちだけで助かった。
そのむち打ち症の後遺症は、10年後に天寿堂さんの鍼で治してもらえました。

徳積みとは他人様に仕えること、尽くすこと、働くこと・・・それに徹してきたけど。
実際なかなか出来ることではありません。

私は、ものすごい強い守護神さまのお力で、ものすごく守っていただいてきたから。危険をものともしなかったけど。
ものすごい危ない橋をいくつもわたっています。

それでも、弟を普通の生活にもどしてやることは出来なかった。
大きな苦しみにあわせず、大きな悲しみに会わせず、何事もなく無事に安らかに一生を終えられたのは、まあ・・・最低限の幸せではありました。

だからといって・・・私の娘でさえ言います。
「だから、この教えはありがたい」と言って、ママが布教する気になれないのは、わかる。
「頭のおかしい弟がいたけど、親より先に苦しまずに死んだ」・・・これって「お力よ!」と、言って、誰が「へ~すごいね。じゃあ、私も入信するわ」と・・・言うはずないよね。

・・・そうなんよ。私は、無力感にしばしば打ちひしがれる。

父の6人の兄弟のうち、私のところだけは、かろうじてなんとかなったけど、他の従姉妹たちにまで力は及ばないし。

昨日も、私の住む町内の、さまざまな問題をどう解決できるのか・・・お寺に相談に行ったけど「あなたの力では、戦えません。相手が大きすぎる」と言われました。
「すぐに、こうしたらこうなると言う秘策はありません。仏教説話にある、お釈迦様とリスの話のように、大きな湖の水を、一匹のリスが、しっぽに水を含ませて、汲みだそうとする・・・「この湖の水をシッポで汲みだして空っぽにする」そのリスの決意を聞いて、お釈迦様は、一切衆生を救済する望みと覚悟を固めた。・・・・諦めないで、焦らないで、小さな努力を重ねる・・・それしかありません。」

「貧しさゆえに争った過去の因縁がある」と言われる当地ですから。
いわゆる地縛霊だらけ・・・
わかってはいました。家を建てて10年間以上「パチン!ばしっ!」というラップ音がうるさくて仕方がなかった。背後から誰かがこっちを凝視している感じに何度も振り返った・・・

こっちにきてから、健康問題でも経済でもろくなことはなかった。苦労のし通し。

けど、ここで、私がしなければならない仕事がある・・だから、ここに来ることになったと、信じてやってきました。

「狭き門から入る」のが、「我に艱難辛苦を与えよと祈る」のが、私の信条だったけど・・・実際、狭かったうえに、足元も凸凹だった。

けど、それと戦って打倒してやろうと言う強さが自分にあることを発見した40年だった。

でもね・・・泣きたくなるほど、私には力が無い。
そもそも、なにもかも、自分の努力だと言うけど、見えない助けを得て越えてきた。

だからといって「あっちを向いている人に」「この教えの通りに歩きなさい」と指し示す力もない。

あっちを向いている人をこっちに向かせることも、
指し示すことも
歩かせることも・・・いったい、どうしたら、できるのか・・・それがわからない。

そして、宗教の修行の道と言うのは、本当に厳しくて、とくに在家にありながらの修行は、日日のできごとに対応する自分の姿を見て、「我を取り除く」「器を広げる」「謙虚さを獲得する」わけで、己の我を破る作業は、本当に心に引き裂かれる痛みを感じるのです。

それは徹底した懺悔。
心の底から、今まで「こんなこと、当たり前だ」と、大手をふって威張っていたことが、実はとんでもない「わがまま」だったと気付いて・・・身も世もない、恥ずかしさに、顔もあげられない・・・

すごい、しんどい作業です。まして年を取ってからは。すでに自分の殻ができているから。

自分自身との戦いですね。
自分と激しくぶつかり合えない人は他人とも戦えない。

仏教をあなたまかせの柔和な宗教だと誤解しないでほしい。
真実の人間性を暴き出す、「己の罪を知り、他を許す」すさまじい自己との戦いなんです。
小我を叩きのめして大我に生まれ変わる。

私は、まだまだ道半ばで、ゴールまで行きつけそうにない・・・いや、行きつけないのが人生か。

どうしたら、幸せになれるの?という質問が来たので答えましたが。

黄金律・・・あれだけですね。

他人にされたくないことを他人にするな。
他人にされたいことを、他人に施せ。

これだけです。
けれど、これに徹して行けば・・・やがて、自分に必要な人もものもことも、その時期に向こうからやってくるようになります。


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