今日は、林直道名誉教授のお話を聞く会をしました。場所は芦屋です。


いつもより、聴衆が少なかったので、気楽な雰囲気で、いろいろな話題が出ました。

スサノオと、天照大神のくにゆずりの話から、本当は天津神がこてんぱんに国つ神をやっつけたのだけど、国を譲る代わりに、出雲に世界一の宮を建てよう。
そして、出雲大社は縁結びの神様だとして、売り出し、大勢の参拝者を呼んだ。
天津神系は打ち負かした国つ神を、大切に扱ったのだ。
けれど、しめ縄は、出雲大社だけ、ほかの神社とは、反対向きにねじられている。

ほかの神社のしめ縄は、悪がはいらないようにというまじない、
出雲は、「出雲の神様が外に出ていかないように」というまじない。

それでも、こてんぱんにつぶして完膚なきまでに踏みつけたりしない。

敵も味方も同じように供養する。

日本人の賢い、やさしい国民性です。

柿本人麻呂の死も、実は刑死だった。
水に沈められて殺された。
この話は、梅原猛の「水底の歌」に書かれている・・・

あの宮廷歌人の人麻呂が、なぜ、刑死させられた?

「人麻呂は、持統女帝の子供に仕えたのだけど、持統女帝は、天武天皇のほかの嫁たちが産んだ子供たちを、次々殺した。それを、人麻呂が批判したのでしょうな。」

「それでも、私が、人麻呂のことを書くとしたら、露骨にそうは書きません。”栄枯盛衰は世の習い”という風に批判した・・・というようにぼやかして、持統女帝にも傷がつかないように書く。」

「梅原さんは九条の会の会長ですから、僕は梅原さんを支持している。
戦争はしてはいけません。僕は戦争の事実を見てきましたからね。戦争は絶対にしてはいけません。」

「ノモンハン事件を、知ってますか?」
「あ、あれ、日本が勝ったのでしょう?」
「とんでもない。あれは、日本軍がめちゃくちゃにまけたのですよ。
なぜ、あのとき、関東軍は国境を越えたのか・・・なぜ、あんなことを」

「昭和14年のことでした。
私は予科の一年生でした。その日は雨が降っていましてね。雨が降ると配属将校による訓示があったんです。

配属将校は紳士的な人でね、無茶苦茶するような人ではなかったんですが、その日は、様子がちがった。
ノモンハン事件の時だったのです。
”貴様らの中で、坊ちゃん刈にしているものは、前に出ろ。”と言ったんです。
何人かが前に出ました。すると”貴様らのようないい加減なやつらがいるから、ノモンハンで我が軍は苦境に陥っているんだ。”と、言って、全員にびんたを食らわせた。
”坊ちゃん刈にすると、ポマードをつけるだろう。ポマードは油だ。戦地では油も不足しているのに、それを、無駄につかうとは、なにごとだ。”
”私は、ポマードは使いません”というのがいたら”くちごたえするな!”と、また殴られた。

「ノモンハンでは大変なことになっている。ソ連の戦車は最新式のすごい戦車だ。わが軍の戦車など足下にも及ばない。軍備が全く違うのに、なぜ、攻撃を仕掛けたのか?
「壕にはいっているものは、壕ごと、ソ連の戦車に踏みつぶされて皆殺しだ。

「朝日新聞には日本軍が勝ったと書いてありましたが」

「違う。それは嘘だ。新聞は嘘を書いている。ほとんど全滅だった。」

配属将校が、学生の前で「大本営発表」は嘘だと、公言したわけです。新聞発表は大本営の発表の元ですから

あのとき、この話を聞いたのは、当時の大阪市大の1年生だけでした。それも、たまたま雨が降ったからね。

それで、僕らの仲間で「これは、まずい、戦争のことを研究しよう」ということになった。

調べると、当時の鉄鋼の生産量は日本はアメリカの17分の1でした。
経済力が全然違う。
アメリカと戦争して、勝てるわけがない。

だから、僕らは反戦運動をやりました。

「それで、治安維持法で監獄へ?」
「そう、でも、僕は後悔していません。僕は、反戦運動をやったことを誇りに思っている。

いいですか、戦争は絶対にやってはいけません。
九条は守らないと。

あの戦争で320万人の戦死者が出た。その7割が餓死です。戦闘死ではない。
それが戦争の実態だった。

   クリックよろしくお願いします