岡山県で育ったという、神戸市民病院の看護婦長だった高橋先生は、終戦時に二十歳ぐらいでした。


日本の戦争が始まったのは、実は12月8日ではありませんね。あれは日米開戦です。

その前からシナ大陸でじわじわと戦火は広がっていました。

南京開城は、昭和12年です。

この年は2・26事件の年でもあります。

だから、戦争の始まりは盧溝橋事件の昭和12年が、正しいと思う。


もちろんその前から、国を挙げて戦争を煽っていたわけですから、岡山県の少女は「兵隊さんのおかげです」と教えられ、愛国少女に育っていきました。


男の子ならお国のために兵隊さんになれるけど、女の子だから従軍看護婦になってお国のために尽くそうと、小さい胸を膨らませて行ったのです。


私は、今の時代に立って、あの戦争を裁いてほしくない。


純真な人たちは、政府のプロパガンダをそのまま信じて、天皇陛下のために死ぬことを理想とした。

戦地に行って戦うことを人生の目標にしたのです。

それが正しい、それが最高の日本人としての生き方だと信じきって。

だから、高橋先生は、従軍看護婦を目指した。

当時看護婦の社会的地位は、非常に低かった。
高橋先生の家の格からいえば、看護婦という職業はずいぶん下だった。
それでも「お国のために」と、愛国少女は躊躇しなかったのです。

純朴な日本人は、みんなそうでした。

もっとも、私の母親の様にわがままな人は、戦火がひろがり、東京の女学校に行けなくなったことを、ぼやき「天ちゃん」と天皇陛下を愚弄する子どもでしたネ。
町の子は純粋ではなかったのかもね。

父は、強度の近視と、体格の貧弱さ、病弱から徴兵検査の結果は丙種で、もう、国内にまともな男子がいなくなって、ようやく赤紙が来た・・・戦地にもいかないし、呉の軍港で甲板磨きをしばらくしただけだから、戦争について語るものが何もない。

だから、私は、あの戦争がなにものかを、親からは聞かなかった。

母と同じ年の高橋先生から、はじめて「軍国少女」の話を聞きました。

従軍看護婦は、自らの理想、国のために殉ずる・・・を実現する憧れの仕事だった。

ならば・・・男なら兵隊さん。
技能があれば、従軍看護婦。

看護婦になれない女が、戦地に行って、戦争協力をしようと思えば、慰安婦・・・という選択肢があっても、おかしくないと、私は、その時思いました。

欲しがりません勝つまでは。
パーマメントは、やめましょう。
金属は供出しましょう。
1億火の玉。
国民総力戦です。

だったら、どうせ慰安婦・売春婦をやるなら、外地で、兵隊さんを励まそう・・・
なかには、儲かるからという計算もあったでしょう。

けど、明日死ぬ若者の最初で最後の「女」になりながら、感極まって送り出した女がいたことを、私は信じるのです。

おそらくは、ここを汚すことで、日本民族の総力戦を分断したい悪魔がいる。
日本人の慰安婦で賠償請求した人は一人もいない。

あれをやっているのは、朝鮮戦争でアメリカ軍、国連軍に駆り出された朝鮮人です。

日本人の慰安婦は、おそらく銃後で、日本兵の戦いを支え切った。
ものすごい女たちだと思う。
この女たちがいたからこそ、あの戦争は、たやすく終わらなかった。

最後の最後まで命の際まで戦い抜く男たちと、それを励まし支える女たちがいた。

ひとりは看護婦に、ひとりは慰安婦に。

そして、ミニッツ将軍をして「早く戦争を終わらせてくれ、もう、これ以上は兵士がもたない」と、言うところまで沖縄戦を引っ張ったのです。

誰が何と言おうと、この時の日本人の本気度を私は、疑わない。

けれど、ここまで庶民を追い詰めた上空にいる連中・・・こいつらが、今も、そこから、政府を操り、天皇を動かし、庶民の命を虫けらのように扱っていることを、私たちは、全身の怒りをもって見つめなければならない。

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