昭和天皇パチンコ狙撃事件[編集]

1969年1月2日皇居で6年ぶりにおこなわれた一般参賀で、奥崎は昭和天皇に向かってパチンコ玉を発射した。昭和天皇がバルコニーにいたところ、奥崎が15メートル先から手製のゴムパチンコでパチンコ玉3個を発射。さらに、「ヤマザキ、天皇をピストルで撃て!」と声を挙げ、パチンコ玉をもう1個放った。玉はいずれも昭和天皇の足元付近、バルコニーのすそかくしに当っただけだった。奥崎は私服警官にその場で逮捕された。公判廷では、性器を露出して検事に小便をかけ、判事に唾を吐きかけた[2]。結局、暴行罪で懲役1年6か月の判決を受けた。当時はバルコニーに防弾ガラスが入っていなかったが、この事件を機に入れるようになった。


[ウィキペディアより転載、おわり)


私はね、この奥崎謙三の自宅を知っています。
WIKIより
>入院していた神戸市内の病院で、死去寸前まで「馬鹿野郎」と周りに喚き散らしていたと報道されていた。しかし、奥崎の支援者によると、入院中に「みんな、良うしてくれます。」と漏らしていたという。 奥崎の死後、程なくして自宅は解体され、現在は駐車場となっている。 原一男によると、奥崎とシズミ、奥崎の母親の眠る墓(神戸市追谷墓園内)も撤去され、跡地は更地となっている。<

>神戸市兵庫区にサン電池工業所を開業し、バッテリー商・中古車販売・自動車修理を営む。1956年、店舗の賃貸借をめぐる金銭トラブルから不動産業者を刺殺し、傷害致死罪で懲役10年の刑に服する。<

この家は、有馬街道に面していて店舗住宅で、東向き正面におおきなブリキの看板をかかげて「天皇批判」の檄文が、手書きでありました。
畳み6畳ぐらいありそうで、普通の看板の何倍もあって家の出入り口より上はずべてを覆っていました。

その向かい側に、神大病院の別館のひそやかな入り口があり、そこは、「不審死」した遺体が運び込まれ司法解剖が行われる場所なのです。
私が、それを知ったのは、実弟が突然死して、そこに運び込まれたから。

看板もなにもない門構えもない入り口を入るとまっすぐ通路が通っていて、左側が医事施設で、右側の二階に通された。一生一度も、普通の人は来ない場所でしょうね。
私は、その場所で、これまでのもろもろの気苦労をかみしめ、こんな形でそれから解放されることを味わっていました。
思ったより短く解放され、遺族としても知りたい死因は「薬の飲みすぎ」と、書かれていたけど、非常におざなりな意見で・・・それを見せられた精神科の主治医は「飲みすぎても死ぬような薬じゃない」と一蹴した・・・

何なの?司法解剖って?本当にちゃんとみたの?みたふりだけじゃないの?
脳出血とか疑わなかったの?
なにを検査したの?
本気?

それ以後、その前を通過するごとに、いろんな思いが湧いてくる。
だから、私は神大前の交差点で赤信号になって、停車するのが嫌いになった。

だから、病院の入り口から目をそらせ、左側に視線を向ける・・・そういうことが無ければ、奥崎謙三の店をまじまじと見ることはなかった。
だから、弟が亡くなった2003年には、まだ、その家はあった・・・やっぱりね・・・亡くなったのは二年後です。

wiki
奥崎 謙三(おくざき けんぞう、1920年2月1日 - 2005年6月16日)は、日本の元・陸軍軍人(最終階級は上等兵)、バッテリー商、著述家俳優アナーキスト昭和天皇パチンコ狙撃事件、皇室ポルノビラ事件やドキュメンタリー映画『ゆきゆきて、神軍』への出演で知られる。自らを「神軍平等兵」と称していた。

(転載おわり)

すごい檄文でしたよ。
はっきりは覚えていないけど、たしか、この一節「処刑場面」が、大きく書かれていました。

wiki
『風流夢譚』は、中央公論1960年12月号に掲載された(発売は11月10日)[1][2][3]。夢譚(=「ゆめのはなし」の意)と言うように、全体的にシュールな展開で、主人公が見たの話であるという設定ではあったものの、「ミッチー」「美智子妃殿下」「昭憲皇太后」「ヒロヒト」などの呼称も見られ、「左慾」による天皇皇后皇太子皇太子妃の処刑の場面が登場し、主人公が皇太后を殴る・罵倒するといった内容であったため[4]名誉を傷つけるものとして宮内庁民事訴訟を検討するなど、発表当初より物議を醸した[5][1]。この、皇室を冒涜しているような「毒のある革命幻想譚」に対し[3]、「不敬」だという抗議が日に日に強まり、右翼団体が中央公論社に直接押しかけるなど、社では出版業務に支障が出るまでになった[3]

(転載おわり)
まさに「毒のある文面」で、よくもまあ、警察はこれをほったらかしにしているなあと、思ったし、近所の人も平気なのかと思ったけど、「問題の」家だったのですね。問題も問題、日本に、ひとつしかない家だったんだ・・・

弟の死後、母の病気が重くなって、もう、神大病院前で感慨にふける余裕がなくなり、興味を失って、いつのまにか、看板が見当たらない・・・なるほど、駐車場になっていたのですか。

あの戦争の理不尽なおびただしい死は、そのままでは鎮まらない・・・ということなのでしょうね。

それにしても戦前の生まれの人には、己の思いを貫く人がたくさんいました。
左翼でも、右翼でも、命がけだった。

今のやわな日本人からみたら野蛮すぎて考えられない。

現国会のありさま、犯罪者たちが経営しているこの国、悪に踏みつぶされる庶民・・・なぜ怒らないのか?怒りを忘れたのか?

そうではなく、よほど現実的な被害からとっさに身を守る場合以外。
日本人は怒らなくなった。

これはたぶん「日本人としてのアイディンティティの置き所」の変化に、あると思う。

人間と言うモノは、よほどの変人でない限り、「おのれ一匹」で、確立することはできない。
「自分も、こう思う。ほかの人も、同じことを思う。自分だけじゃない。では、これで正しいのか?」

自信というものは「内なる自信」を「外から補強」されないと、確立しない。
それが当たり前の人間だ。

こどもは、親に褒められ励まされて、自立していく。
やがて、社会に評価され自信を確固たるものにする。

これがアイディティティの確立。
このアイディティによって人は、発言もし、行動もする。

戦前は教育勅語に添うことが「自信の根源」だった。
日本人なら誰に聞いても、何が正しいか知っていた。

そこで、その信念にそって、よしんば最後の一人となろうとも行動できた。

けれど、教育勅語と言う精神的支柱を失った戦後の日本人は、そのよりどころを「マスコミ報道」にもとめることとなった。

「みんなが、こういっている。だから正しい」

結局、昔も今も、精神的な働きは同じなんだけど、「支柱」の置き所が違う。
かつて「親に孝」だから、家訓にしたがい、家の流儀に従った。「朋友相信じ」で、社会と和合した。

今は、マスコミの「支持率」だけに寄り添っている。
なにかに「寄り添うのは」同じなんだけどね。

そういうわけで、奥崎謙三のような人はいなくなった。
己の信念に従って行動する・・・そういう社会のはみだしものが居なくなった。

奥崎謙三を、褒めるわけじゃないけど、こういう人が社会には少数必要なんじゃないかと思う。

私は、自分が「大マスコミ指導」からのはみ出し者だと自覚しているから・・・あっちがわかもね。

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