きょうの総幹部会も、燃えるような大熱気ですね。大感動いたしました。
そして三百万を見つめた本年初陣の二・三・四月法戦、さきほど発表のごとく、「誓願三万」を大きく突破する、実に三万三千八〇〇の大折伏が、ついに成し遂げられました。まことに凄いですね。驚きました。
まさに「顕正会の底力」「地涌の菩薩の面目にかけて」を、眼前にした思いであります。
これを成し遂げたみなさんの、涙の出るような信心の真心、ただ私は有難く思っております。
いいですか。正系門家の中でいま、大聖人様の仰せのままの折伏を行じているのは、顕正会だけなのです。
そうでしょ。学会は戒壇の大御本尊を捨て奉った。宗門は国立戒壇を捨てて御遺命に背き続けている。
これで折伏弘通ができるわけがないのです。
その中で顕正会だけが、御遺命たる広宣流布・国立戒壇建立を一筋に見つめ、死身弘法している。ゆえに大聖人様の御守護を頂き、このような大折伏が叶うのであります。
そしていま思うことは、どうか、この法戦で入信・入会した多くの人たちに、恋慕渇仰の信心口唱を、親切に教えてあげてほしいということです。
仏様を恋慕渇仰することが、我ら凡夫が成仏させて頂く一筋の道なのです。
誰でも、大聖人様の、あの大難を忍ばれての大慈大悲を知れば、自然と頭が下がり、手を合わせるようになりますね。
大聖人様は、竜の口の頸の座にお坐りあそばしたのです。そして骨まで凍る佐渡の極寒を三たびも耐え忍ばれた。まさに身命におよぶ大難を幾たびも耐え忍ばれたのちに、全人類の成仏のために「戒壇の大御本尊」を顕わされ、これを全人類に授与して下さったのであります。
この大慈大悲を知れば、自然と大聖人様に対し奉り、「有難い」「お慕わしい」の心が湧いてくる。これが恋慕渇仰の信心であります。
この恋慕渇仰の信心に立って、戒壇の大御本尊様に向い奉り、日蓮大聖人の御名を南無妙法蓮華経と唱え奉れば、直ちに大聖人様に通じて、我が心に仏様が宿って下さる。
仏様が宿って下されば、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒強盛の心が変わり、大功徳が頂ける。すなわち現世には生活が守られ、臨終には成仏の相を現じ、死後の生命も大安楽を得るのであります。
信心に距離は関係ない。大聖人様は佐渡に住む千日尼御前に対し、身延から、こう仰せ下されている。
「譬えば、天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞こゆ。
御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来たれり。乃至、御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」と。
――たとえば天の月は四万由旬も遠く離れているが、大地の池にはすぐに影を浮かべると。この譬えは、どれほど遠く離れていても、もし恋慕渇仰の信心があるならば、仏様は直ちにその人の心に宿って下さるということ。
また中国の雷門にある鼓は、千万里離れていても打てばすぐに聞こえたという。これは恋慕渇仰して唱え奉るお題目は、直ちに大聖人様に通ずるということ。
いま千日尼御前は佐渡の国にいるけれども、心はこの身延に来ているのである。御面を見る、見ないではない、恋慕渇仰の信心、心こそ大切なのである――と仰せ下されている。
この仰せこそ、まさに遥拝勤行の大精神であります。
たとえ戒壇の大御本尊様がどれほど遠くにましますとも、恋慕渇仰して南無妙法蓮華経と唱え奉れば、直ちに大聖人様に通じて大功徳が頂ける。一生成仏が叶うのであります。
どうか、この恋慕渇仰の信心口唱を、新しく入信・入会した人たちに、しっかりと教えてほしい。これが私の念願であります。
さて、さきほど第二次の教学委員を任命いたしました。第一次が二月総幹部会で一〇人、第二次が本日の八人。これで計一八人の教学委員が誕生いたしました。
私は、御遺命を守護し奉るにおいては「日本第一の教学部」を作りたいと思っております。
二月の総幹部会でも申しましたが、顕正会が三百万・五百万と力強く前進するに伴い、顕正会と国立戒壇に対する怨嫉は、ますます激しくなる。
その怨嫉はまず宗門の中に起き、次いで一国において起きてくる。それが出てきたら、もう広宣流布は眼前なのです。
いま宗門の中で一斉に起きてきたこと、私は嬉しい。顕正会の御遺命守護の戦いが力づよく進んで来たからこそ、このようにまず宗門内で怨嫉が起きて来たのです。
このところの宗門内の怨嫉を見てごらんなさい。
各末寺ごとにリーフレットを作っては、顕正会を悪口中傷し、さらに「国立戒壇は大聖人の教義ではない」などと誹謗している。
さらに宗門全体としてはこの二月、阿部日顕が平成十六年八月二十六日の「全国教師講習会」で講義したその講義録を、冊子にまとめて発刊している。
何という「恥しらずか」と私は思う。
この講義録の中で阿部日顕は、曽って池田大作にへつらって書いた「二冊の悪書」については「正本堂がなくなった今となっては、すべてが空論である」と卑怯な幕引きを図っているが、国立戒壇への誹謗だけはまだ執拗に繰り返しているのです。
いいですか。二冊の悪書についても、幕引きなどはとうてい許されない。
彼は二冊の悪書の中で、「勅宣・御教書は建築許可証である」とか、「戒壇の建物は広布以前に建ててよい」とか、「正本堂こそ御遺命の戒壇である」と騙した。それを今になって
「今から見れば『言い過ぎ』や『はみ出し』があるけれども…」
などと言っているが、三大秘法抄の御聖意を、かくも無残にねじ曲げて、「言い過ぎ」や「はみ出し」で済むのか。
世間の法においてもこれは詐欺ですよ。況んやこれは大聖人様を欺き奉り、全信徒を欺いた大罪です。それが「言い過ぎやはみ出し」「正本堂がなくなった現在では空論」で済むものか。
世親のごとく、馬鳴のごとく、嘉祥のごとく、身を捨てての改悔をしなければ罪は消えない。
さらに彼は二冊の悪書については幕引きを図りながらも、なお「国立戒壇」だけは否定し続けている。これが第六天の魔王その身に入る者の姿なのです。
彼の講義録に云く
「結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』の中において、『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」と。
この大謗法の悪言は、断じて許しがたい。
そこで私は、改めて阿部日顕の三大謗法、すなわち「御遺命破壊」と「戒壇の大御本尊に対し奉る誹謗」と「身延高僧の大石寺招待」の三大謗法を挙げて、顕正会の命運を賭して公開対決を申し入れた。
だが、阿部日顕は完全に逃げた。
にもかかわらず、一五年前の講義録をいま再び冊子にして発刊するとは、何たる恥しらずか。阿部日顕には、大聖人の御眼を恐れる道念がないのです。
彼の犯した三大謗法は、どれ一つとして許されるものはない。もし改悔がなければ、宗門追放すべきである、と私は思っております。
大聖人様は立正安国論に"謗法の者を責めることかくのごとくあれかし"と、涅槃経を引いて次のごとく仰せ下されている。
「法を壊る者を見て、置いて呵責し駈遣し挙処せずんば、当に知るべし。是の人は仏法の中の怨なり。
若し能く駈遣し呵責し挙処せば、是れ我が弟子、真の声聞なり」と。
どういうことか。
「仏法を壊る者を見て」とは、「見て」まではいいのです。
「置く」ということを大聖人様は強く誡めておられる。御講聞書には
「置の一字は獄卒なるべし。謗法不信の失を見ながら聞きながら云はずして置かんは、必ず無間地獄へ堕在すべし」と。
このように、仏法を壊る者を眼前にしながら、そのまま「置く」ということは謗法に与同する大罪になる。ゆえに「呵責し駈遣し挙処しなければ、仏法の中の怨となる」と仰せられる。
「呵責」とは叱り責めること。「駈遣」とは追放すること。「挙処」とは一切の処においてということです。
すなわち、法を壊る者を見て、捨て置く者は仏法の中の怨である。もしよく駈遣し、呵責し、挙処するならば、これ我が弟子、真の仏弟子である――と大聖人様は仰せられている。
そして日寛上人はこの「挙処」について立正安国論愚記に
「『挙処』とは一切の処なり。一切の処とは一処をも漏さざる義なり。乃至、故に知んぬ。今の文意は、謗者所住の一切の処、一処をも漏さずして、三業に経て折伏すべきなり」と。
仏法を壊る者の住む一切の所において、身口意の三業を以て折伏すべし、と御指南下されているのです。
顕正会はこの仰せのままに、阿部日顕の大謗法を呵責し抜いていく。またこれに加担する悪僧あれば、これも責め抜いていく。
かくて正系門家が清らかになる。日淳上人以前の「国立戒壇堅持」の宗門となる。このとき御遺命の正義が蘇るのであります。
いいですか。
日興上人・日目上人以来七百年、正系門家において国立戒壇建立の御遺命が破壊されたことは一度もない。国立戒壇こそ正系門家七百年来の宿願だったのであります。
ゆえに第六四世・日昇上人は
「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)と。
また第六五世・日淳上人は
「この元朝勤行とても……二祖日興上人が、宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての広宣流布祈願の勤行を、伝えたものであります」(大日蓮34年1月号)と。
このように第六五世・日淳上人までは、大聖人御遺命の国立戒壇は厳然と堅持されてきたのであります。
ところが次の六六世・細井日達と六七世・阿部日顕の代になって国立戒壇は否定され、池田大作が俄に建てた正本堂が「御遺命の戒壇」になってしまったのです。
この企みは、実に昭和三九年に始まったのです。以来今日まで五五年。
しかしその恐るべき謀りも、今ようやく「最終章」に至らんとしているのであります。
ここに今、七百年来かつてなかった「御遺命破壊」がなぜ起きたのか。また「御遺命守護の戦い」について、その本質を述べてみたい。
まず御遺命破壊がなぜ起きたのか。その本質を一言でいえば
これ第六天の魔王の働きによるのであります。
この大宇宙には、仏法を守護する諸天善神が存在しているように、仏法を破壊しよう、仏様の化導を妨げようという魔の働きもある。この魔の働きの中心的存在を「第六天の魔王」というのです。
この第六天の魔王は、大聖人御在世には良観などの邪法の僧と平左衛門等の国家権力者の身に入って、大聖人様の御命を奪わんとした。しかし大聖人様の絶大威徳の前には敗退したのです。
だが、いよいよ大聖人の御遺命が成就する広宣流布の前夜になって、第六天の魔王が手を拱いて傍観していることはあり得ない。必ず動き出すのです。
第六天の魔王は、まず正系門下において最大の権力者で政治野心に燃える池田大作の身に入った。
選挙に狂奔している池田大作はたちまち「国立戒壇は世間の批判が多く、選挙に不利をもたらす」との思いを懐いた。
かくて国立戒壇を否定するために、俄に偽戒壇・正本堂の建設を企てたのです。
しかしこの大それた謀りは、「時の貫首」の権威を借りなければ絶対になし得ない。そこで彼は、六六世・細井日達と六七世・阿部日顕を籠絡した。
二人は池田大作の権力・金力にへつらって、池田の意のままに国立戒壇を否定し、「正本堂は御遺命の戒壇である」と承認してしまった。
貫首の権威は絶対であった。かくて正系門家から、日蓮大聖人の御遺命は消滅した。これまさに第六天の魔王の障碍だったのであります。
次に、「御遺命守護の戦い」の本質を見れば
これまさしく、大聖人様がこの大悪を許し給わなかったのです。
ゆえに大聖人様は顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門に分裂・抗争を起こさしめ、ついに偽戒壇・正本堂を崩壊せしめ給うたのであります。
その経緯を簡略に説明いたします。
池田大作が「正本堂を建立して総本山に寄進したい」と初めて口にしたのは、昭和三十九年の第二七回・学会総会においてです。
このときすでに彼は細井日達を籠絡して、「これから作る正本堂を、ぜひ御遺命の戒壇と承認してほしい」と、前もって約束を取り付けていたものと思われる。
翌昭和四十年二月十六日、細井日達は総本山における第一回・正本堂建設委員会において、正本堂が御遺命の戒壇であるとも、ないとも、どちらにも取れる極めて曖昧な表現を以て、正本堂の意義を述べた。
この説法を根拠にして、池田大作は全学会員に次のように宣伝した。
「いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』といいますが、私はなにをいうかといいたい。そんなことは御書にはありません。彼らはなにもその本義を知らないのです。猊下(法主)が、正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります」(聖教新聞40年9月22日)と。
池田自身が曽ては「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのである」と主張していたのに、何という恥しらずの放言か。
しかしこの発言こそ、国立戒壇の放棄が、「評論家ども」の批判を恐れてのゆえであったこと。また偽戒壇・正本堂のたばかりに「法主」を利用したことを、はっきり示すものである。
日を追って池田の発言は露骨になる。昭和四十二年十月の正本堂発願式では、細井日達以下、宗門の全首脳僧侶が居並ぶ前で、池田は「発誓願文」なるものを読み上げた。云く
「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と。
つまり、正本堂は大聖人御遺命の事の戒壇、宗門の宿願そのものである、と断言したのです。
これを承けて、発願式に参列した宗門高僧たちは、先を争うように
「大聖人御遺命の事の戒壇が、いまついに実現する」
と、見えすいた諂いの言葉を述べた。その諛言はすべて当時の宗門機関誌「大日蓮」に掲載されている。
かくて正系門家から「国立戒壇」の御遺命は完全に消え失せ、偽戒壇・正本堂を讃嘆する悪声のみがこだましたのです。
この御遺命破壊を眼前にして私は
「もしこのまま黙止したら、大聖人様への不忠これに過ぎるはない」
と思い定め
「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め、諫暁に立ち上がった。
これを見て池田大作は、細井日達管長の権威で私を抑えようとした。
昭和四十五年四月三日、細井管長は私を総本山の対面所に招いた。そして
「戒壇の大御本尊まします所は、御宝蔵であれ、奉安殿であれ、いま建てられる正本堂であれ、事の戒壇といえるのです」
と繰り返し、私を説得せんとした。
私は承服せず、反論した。細井管長は怒気をみなぎらせた。
しかし道理には勝てない。理に詰まった細井管長は、私が最後に詰めてお伺いしたことについて、ついに本心を漏らされた。それはこういうことです。
「実は、広宣流布の時の事の戒壇は国立戒壇です。天母山に建てられるのです」と。
ちなみに天母山とは、天生原の中央にある小高い岡で、天生原と同意です。
さらに細井管長は最後に、「私を守ってくれるのは妙信講だけです」とまで言われた。
これが細井管長の本心だったのです。
だが、池田大作がこの裏切りを許すわけがない。
以後、細井管長は、私と会えば本心を取り戻し、池田大作と会えばまたその悪に与するという、無節操な行動を繰り返したのです。
昭和四十五年五月三日、創価学会・第三三回総会において細井管長は、なんと
「大聖人は、大聖人の仏法を国教にせよとは仰せられてない。日本の国教でない仏法に国立戒壇もあり得ない。今後、布教の邪魔になるので、本宗では、国立戒壇の名称は使用しない」(取意)と公言した。
「布教の邪魔」になるのだそうです。
だが事実を見てごらんなさい。この「国立戒壇放棄」以後、学会の折伏は完全にストップしてしまったではないか。ともあれ
この細井管長の「国立戒壇放棄」発言は、対外的な公式宣言であり極めて重大であった。
これを知った池田大作は、宗務役僧の早瀬日慈総監と阿部信雄教学部長を動かして、私に会わせた。二人は私の心を柔らげ、今後の出方を探るような様子だった。
私は「正本堂の誑惑を訂正させるに不退の決意である」旨を重ねて強く述べた。
早瀬総監は大いに驚き
「ことは重大で、私たちではどうにもならない。この上は、猊下と池田会長と浅井さんの三人が、膝づめで話しあって頂くほかはない。さっそくこの旨を猊下と会長に伝える」と言った。
もし池田会長と会えれば、ことは一気に決着する――。私は心に期するものがあった。
だが――、池田大作はついに姿を現わさず、出て来た学会代表は、秋谷栄之助・森田一哉の両副会長と和泉覚理事長の三人であった。
私は三人に対し、池田会長が学会総会で「今日はすでに広宣流布である」「正本堂は宗門七百年宿願の事の戒壇である」と公言したことを挙げて、難詰した。
三人は顔をこわばらせて交々反論したが、追い詰められると
「学会はこれまで、すべて猊下の御指南を頂いた上で発言している。どうして学会だけが責められなければならないのか」と猊下の責任を持ち出した。
私は「猊下の御本意はこうだ」と、猊下を守りつつ学会の誑惑だけを責めた。
勝敗すでに明らかになったとき、細井管長が初めて口を開いた。
「正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された戒壇ではありません。まだ広宣流布は達成されておりません。どうか学会は訂正をして下さい」
と三人に頼み込むように言われた。
私はその姿、今も憶えている。その言葉、今も耳にはっきり残っております。
学会代表は憤然として席を立った。彼らにしてみれば、「猊下はまたも裏切った」という思いだったに違いない。
しかし私は、この対論の結果を何としても文書にして、二度と誑惑をさせまい、との思いから、その後、何度も学会本部に秋谷を訪ねては、執拗に文書による誑惑訂正を求めた。
ついに秋谷は折れた。
かくて文書に署名ということになった。このとき宗務役僧二人も立ち会った。場所は早瀬日慈総監の自坊たる池袋の法道院。学会代表の三人と顕正会代表が署名して、「御報告」と題する書面を作り、それを宗務役僧から細井管長のもとに収めた。
これが学会の文書による誑惑訂正の第一回であります。
だが、池田大作に改悔はなかった。彼は依然として学会の集会では誑惑を口にしていた。
これを知った私は「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の一書を認め送付した。
池田大作は狼狽して、自ら早瀬日慈総監を法道院にたずね、善後策を協議している。
その結果、正本堂完成を半年後に控えた昭和四十七年四月二十八日、「細井日達」の名を以て「訓諭」が発表された。「訓諭」とは「一宗を教導するために管長が公布する最高の指南」とされている。
先の第三三回・学会総会では「国立戒壇放棄」が公式に宣言され、今ここに正本堂の意義が「訓諭」として宣布されたのです。その訓諭に云く
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。
この訓諭の意味するところは、「正本堂は、広宣流布以前に建てておいた御遺命の戒壇である」というものです。
前もって建てておくとは何事か。このこと自体が、とんでもない御遺命違背である。
池田大作はこの訓諭を以て、私の口を封じようとしたのです。
私はこの訓諭を発布せしめた池田大作に対し、公場対決を申し入れた。
すると数日後、宗務院から「池田会長への法論申し入れを撤回せよ。さもなくば宗規に照らして処分する」との、脅迫的な令達が送られてきた。
学会の走狗となっているこの宗務院に対し、私は強烈な諫状を認め送付した。「宗務院に対し」といっても、早瀬日慈総監よりも、もっと悪辣なのが阿部信雄教学部長であったから、もっぱら阿部信雄教学部長に向けての強烈な諫状を認めた。
これで解散処分は必至と思われた――。だが何と、かえって宗務院の早瀬総監・阿部教学部長の二人が、細井日達管長に辞表を提出して、行方をくらましてしまったのです。
この二人、どこに行ったのか私は知らなかったが、のちに学会がこれを暴露した。それによれば、有馬温泉に長く潜んでいたという。
これで宗務院は機能停止に陥った。そこで止むなく事態収拾のため、昭和四十七年七月六日、細井管長が自ら東京の妙縁寺に下向して、私と対面された。
細井管長はいきなり「私はきょう、死ぬ気で来ている。下着も取り替えてきた」などとあらぬことを口にして、「だからどうか聞き入れてほしい」と、繰り返し事態の収拾を要請された。
私は黙ってジーっとお聞きした。そして話の途切れたところで、静かに、「訓諭」が御遺命に違背していることを直言した。そして訂正を求めた。
さぞや「お憤り」と思ったところ、細井管長はしばらく考えたのち、意を決したように
「わかりました。訂正しましょう。しかしまさか訓諭を訂正するとはいえないから、訓諭の新しい解釈として、内容を打ち消す解釈文を『大日蓮』八月号に載せましょう。その原稿は必ず前以て浅井さんに見せますから」
と約束され、自身の決意を表わした「辞世の句」をその場で認め、私に下さった。そして七月十九日、訂正文原稿を、総本山で私に手渡された。
ところが、この妙縁寺における対談を、山崎正友ら学会首脳部が盗聴していた。北条浩副会長は直ちに本山に飛び、「もしこれを発表すれば大変なことになる」といって、細井管長を威した。
八月十二日、細井管長は再び妙縁寺に下向され、憔悴し切った面持で私に告げられた。
「先日の約束は取り消します。もう私にはどうにもならない」と。
このうえは、正本堂誑惑の元凶たる学会を抑える以外にない。私は細井管長に
「学会の代表と会って決着をつけたいのですが、なんとか猊下のお力で、学会に出てくるよう、お申し付け頂けないでしょうか」
と、その斡旋を依頼した。
かくて正本堂落成式のひと月前の九月十三日から二十八日まで、常泉寺において七回にわたって法論が行われたのです。
なんでこんなに時間がかかったのか。それは三大秘法抄の一文一句ごとに、その御文意を確認していったからです。
学会代表は秋谷栄之助副会長、原島嵩教学部長、山崎正友弁護士の三人であった。
激しい論判の末、彼らは理に詰まりついに屈伏した。そして
「正本堂の誑惑の訂正文を和泉覚理事長の名義を以て、十月三日の聖教新聞第一面に掲載する」
と誓約した。
この約束は守られた。これで正本堂は御宝蔵・奉安殿の延長としての建物になったのです。
かくてその九日後の十月十二日、正本堂の落成式がやっと行われたのであります。
その翌四十八年五月、妙信講は久々の御登山を総本山に願い出た。
ところが、後日、宗務院の早瀬総監から伝えられた返事は、思いもよらぬものだった。それは
「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の御意向である」
というものだった。
国立戒壇の御遺命を守るために正本堂の誑惑を訂正せしめた妙信講に対し、「国立戒壇を捨てよ」とは何ごとか。これが池田大作によってなされたことは火を見るより明らかだった。
国立戒壇を捨てて本山に参詣して、大聖人様はお喜び下さるか。かえってお叱りを受けるに違いない。私は「講」の安穏よりも、大聖人様への忠誠を選んだ。
そして翌四十九年七月二十八日、私は池田大作に対し文書で「政府の照会に対し、国立戒壇を否定した欺瞞回答を、八月十五日までに撤回せよ」と迫った。これこそ池田の最も恐れるところ。池田が訂正するわけがない。
そこで私は文部大臣に宛て「政府の照会に対する、昭和四十五年四月二十三日の学会回答は、欺瞞である。日蓮大聖人の御遺命は国立戒壇である」旨を記した書面を提出した。
そしてついに昭和四十九年八月十二日、覚悟のごとく解散処分が下った。処分理由は
「宗門が禁ずる国立戒壇を主張し、正本堂を御遺命の戒壇と定めた訓諭に異議を唱えたゆえ」(取意)
とあった。署名は「日蓮正宗管長・細井日達」であった。
この宣告書を手にしたとき、私の胸に
「大事の御遺命が破壊されんとしている時、妙信講が安穏であっては大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ。御遺命を守るに『懈怠の弟子、ゆるき行者』とのお叱りだけは免れる」との思いが湧いた。
さらに細井管長は翌五十年七月七日、総本山に法華講連合会の幹部を召集し、「妙信講と戦え」と命じたうえで
「訓諭以外に私の真意はない。国立戒壇は本宗の教義ではない」と言い切った。
何たる恥しらず、無節操か。ついに細井管長は、池田大作に魂を売り渡してしまったのです。ここに「御遺命の敵」たることが決定した。
よって以後、私は一切の敬称を用いず「細井日達」と呼ぶことにした。「御遺命の敵」に敬称を付けたのでは、大聖人様に申しわけないからです。
そして不思議なことが起きた――。
池田大作と細井日達の間に亀裂が生じて来たのです。それは深刻な自界叛逆であった。
「正本堂建立一周年記念法要」において池田大作は、法要から帰る途中の細井日達を呼び止め、多くの学会員が見ている前で、「猊下は恩しらずだ」と大声で罵ったうえ、「十億円を学会に寄付してほしい」と要求したのです。
とてつもない乱暴な行為であるが、この一件について池田大作は、後日、側近の原島嵩教学部長にこう述べている。
「あのとき、なぜ私は怒ったのかといえば、妙信講のとき、猊下はあっちについたり、こっちについたりしたからだ」(原島嵩「池田大作先生への手紙」)と。
これより、学会・宗門 真っ二つに分かれての大抗争が始まったのです。
細井日達のもとには二百余名の活動家僧侶といわれる僧侶が集まり、「学会と手を切るべし」と気勢を上げた。
そしてこの大抗争の最中に、細井日達は総本山近くのフジヤマ病院において急死を遂げてしまった。それは、大事な「御相承」もなし得ずの急死であった。
これ、大聖人様が許し給わなかったのです。すでに御遺命に背いた細井日達には「御相承」を授ける資格が無い。次の阿部もまた御遺命に背いて受ける資格が無い。ゆえに「授・受」が叶わなかったのです。すべては大聖人様の御計いだったのであります。
猊下急死という異常事態に全僧侶が茫然自失している中に、阿部日顕は「実は私が御相承を受けていた」と偽りの自己申告をして、あっという間に六七世の貫首に就任してしまった。
阿部日顕はすでに教学部長のとき、「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を書いて、池田大作の寵を得ている。この登座も、二人が示し合わせたうえであったことは間違いない。
その後、二人はいよいよ一体となって、「本門寺改称」という大それた陰謀実現に向かって走り出したのです。
「本門寺改称」とはどういうことかといえば、大石寺の名称を「本門寺」に改めようとする企みです。
一期弘法付嘱書には「本門寺の戒壇」と仰せられているが、この「本門寺」が広宣流布の暁の国立戒壇を指すことは説明の要もない。
ところが池田大作は「日本国の三分の一が入信すれば広宣流布といえる」と言い出して、この偽りの「広宣流布達成」を、大石寺開創七百年に当る「昭和六十五年」(平成二年)にこれを宣言して、「本門寺改称」を実現しようと企んだのです。
この改称が成功すれば、大石寺の正本堂はそのまま「本門寺本堂」になり、百六箇抄の「富士山本門寺本堂」を偽ることもできるし、また一期弘法付嘱書の「本門寺の戒壇」と偽ることもできる。このとき正本堂の誑惑は完結する――これが池田大作の執念、最後の陰謀だったのです。
もしこの陰謀が成功したら、大聖人様の御遺命は完全に破壊される。
平成元年に入ると、池田は大石寺大客殿の前に広大な広場を造成して、「本門寺改称」の大儀式に備えた。
そしていよいよ「本門寺改称」実現の平成二年を迎えた。
この年の四月、顕正会の熱烈な弘通は二十万に達した。私はこの死身弘法を背景に、心血を注いで「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する長文の一書を認め、阿部日顕に送付した。
この書の内容は、阿部日顕が曽て書いた「二冊の悪書」の誑惑の根を断ち切ったうえで「速かに戒壇の大御本尊を御宝蔵に遷座し奉り、早く偽戒壇・正本堂を撤去せよ」と強く迫ったものです。
この諫状は阿部日顕の肺腑を抉り、心に怖畏を生ぜしめた。
さらに七月には、顕正会員二万人を結集した大総会を横浜アリーナで開き、私は全員に訴えた。
「もし池田大作が本門寺改称を強行するならば、そのとき、全顕正会員はこぞって大石寺に登山すべきである。二十万顕正会員が戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺境内を埋めつくし、信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しようではないか」と。
二十万顕正会員の必死護法の決意は、池田の心胆を寒からしめた。
ここでまた不思議が起きた――。
あれほど一体になっていた池田大作と阿部日顕の間に、細井日達のときと同じような疑心暗鬼と亀裂が生じてきたのです。
いよいよ平成二年十月十二日の大石寺開創七百年慶讃法要を迎えた。企みのごとくならば、この席で「本門寺改称」が阿部日顕により宣言されるはずであった。
だが、阿部日顕は読み上げる慶讃文の中で、わざと池田に当てつけるように「本門寺の寺号公称は、広宣流布の未来にある」と述べた。
この"裏切り"を眼前にして、池田大作は憤激した。これより「修羅と悪竜の合戦」そのままの、凄絶そして醜悪な大抗争が始まったのです。
池田が「ニセ法主」「極悪日顕」と罵れば、阿部は池田を除名処分にし、さらに創価学会を破門にした。また学会が阿部のスキャンダルを暴くと、阿部はこれを名誉毀損で提訴した。
だが、この裁判で出廷を余儀なくされた阿部日顕は、学会弁護団により、猫が鼠を嬲るような辱めを受けた。阿部日顕の瞋恚は極限に達した。
そして彼は、池田大作が「仏教三千余年史上空前の偉業」と自讃していた正本堂を、ついに打ち砕いてしまった。
これまさに、諸天が阿部日顕を憤怒せしめ、その瞋恚の力でこれをなさしめたのであります。
だが偽戒壇・正本堂が崩壊しても、阿部日顕の無慚無愧は続いた。
先述のごとく、平成十六年八月二十六日に開催した全国教師講習会で阿部は
「正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、全くの空論である」
と述べたうえで、とんでもない謗法の悪言を吐いた。すなわち
「道理から言っても国立戒壇は誤りであるから、『国立戒壇論の誤りについて』の中において、国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかった」と。
このように、なおも御遺命に敵対する者を見て、もし捨て置いたら大聖人様に申しわけない。ゆえに事を一挙に決せんと、私は顕正会の命運を賭しての公開対決を申し入れたのです。
だが、阿部日顕は完全に逃げた。
逃げをそのまま許したのでは事は済まない。私は「最後に申すべき事」の一書を以て、阿部日顕の三大謗法に止めを刺した。
そしてまたも不思議なことが起きたのです。
阿部日顕が御開扉の導師を務めんとしたとき、戒壇の大御本尊の御前の大扉が、どうしても開かず、ついに御開扉中止という、未だ曽ってない事態が起きたのです。
この大現証に怖畏して、阿部日顕は猊座を退いた。
前年の平成十六年三月に、自ら宗規を「法主は、遷化又は自らの意志による以外はその地位を退くことはない」と改訂して「終身法主」となったにもかかわらず、この「大扉開かず」の大現証を目にして、怖畏し猊座を退いたのであります。これが平成十七年十二月十五日――。
そして今日に至っているのであります。
しかるに今、平成十六年の講義録を冊子として発刊して、全住職にこれを配布したという。
もう他に打つべき手がないのでしょう。ゆえに私は「長きにわたった御遺命破壊のたばかりも、いよいよ最終章になった」と言ったのであります。
もし宗門の全住職が、この十五年前の講義録に与同して「国立戒壇」を否定するのであれば、私は全教学部委員に命じて、それらの住職の一人ひとりと、決着がつくまで何度でも論判させる。
これこそ正系門家に御遺命の正義が蘇る無二の好機、大聖人様がこの機会を与えて下さったものと、私は拝しております。
「一切は現証には如かず」と。御遺命守護の戦いにおいて、二つの大現証があったこと、全顕正会員は深く見つめてほしいのであります。
その一つは、「正本堂の崩壊」。
池田大作は「末法万年までの正本堂」と豪語した。また細井日達は「訓諭」において「後代の誠証となす」との断わり付きで「正本堂は広宣流布の暁には本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と宣言した。ゆえに宗門全僧俗は「正本堂は永遠」と思い込んだ。だがわずか二十六年で消滅してしまったではないか。
もう一つは、「大扉開かず」の大現証。
以上の二つは、いずれも、大聖人様が御遺命破壊の大悪を断じて許し給わず、ゆえにお示し下された大現証であります。
この大現証を見て、宗門全僧俗は大聖人様の御心を拝し、改悔して、ひれ伏さなければいけない。
また顕正会は死罪に等しい解散処分を受けるとも、潰れもせず、その死身弘法はいま二〇七万余におよび、国立戒壇を高々と掲げて日本を独走している。この不思議、大聖人様の御守護なくして、どうしてあり得ましょうか。
御遺命を守護し奉った顕正会こそ、御遺命成就に戦う責務と資格がある。
さあ、全顕正会員はいよいよ大確信に立って共に励まし、天生原への御供叶うその日まで、一筋の御奉公を貫き、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。以上。
(大拍手)