1.  ヴァンパイア城の内部


     第一の構造は、わたしがヴァンパイア城と名付けたものである。ヴァンパイア城は罪の意識を拡散することに特化している。この城は、破門や告発を望む「僧侶の欲望」と、一番に誤りを指摘したいという「学校的かつ学者ぶった者の欲望」、そして内輪集団のなかで開明的な人でありたいという「ヒップスター的欲望」によって運営されている。ヴァンパイア城を攻撃する際に生じる危険は、それがあたかも、レイシズムやセクシズム、あるいは同性愛差別に対する戦いを攻撃しているように見えかねない点にある−−−−もちろんたとえそう見えても、今後、ヴァンパイア城攻略の思想を強めるためにあらゆることがなされるべきなのだが。だが、ヴァンパイア城とは、そうした差別に対するあらゆる戦いについての唯一の正当な表現であるというよりは、ブルジョアリベラル的な倒錯として、またこうした戦いの運動のエネルギーを奪うものとして理解される。アイデンティタリアンたちのカテゴリーによっては定義されないようにするための戦いが、ブルジョア的な大文字の他者によって認められる複数のアイデンティティをもつための探究となった瞬間、ヴァンパイア城は生まれる。


     白人男性としてわたしが確かに享受している特権は、ひとつには、わたしが自分のエスニシティとジェンダーを意識していないことにあるのであって、そうした盲点に気づかされるような経験を時折することで、わたしは我に帰り、隠されていたものに気づく。けれども、あらゆる人がアイデンティタリアン的な分類からの自由を獲得する世界を求めることなく、ヴァンパイア城は人々を各アイデンティの陣営内に囲い込んでしまう。その囲いのなかでは、人々は支配的な権力によって設置された用語のなかに永遠に定義づけられてしまい、自意識によって不自由になり、同じアイデンティティのグループに属さない限りお互いに理解することなどできないのだという独我論的な主張によって孤立させられる。


     わたしはそこに、ある魅力的で魔術的だが転倒した否定投影のメカニズムがあることに気づいた。つまり、階級についての純粋な言及は、今や自動的に、あたかもそうした言及によってそれを述べた人が人種やジェンダーの重要性を格下げしようと試みているかのように思わせるのだ。実際、まったく逆のことが起こっている。ヴァンパイア城は結局のところ人種とジェンダーに関するリベラルな理解を示すことによって、階級の問題を曖昧にしているのである。今年早くに起きた、特権に関する不条理でトラウマ的なツイッターの炎上すべてにおいて、階級的な特権に関する議論は皆無であったということがはっきりしていた。今でも、やるべきこととして、階級とジャンダーと人種の相互連関を問うことが残されている。だが、ヴァンパイア城による攪拌的な運動は、階級を他のカテゴリーとの関連から除外する。


     ヴァンパイア城は次のような問題を解決するために設置された。すなわち、犠牲者として、マージナルな者として、あるいは抵抗する者として自らを現しながら、莫大な富と権力をいかにして維持できるか?と。答えはすでにあった−−−−キリスト教の教会のなかに。つまりヴァンパイア城は、キリスト教が発明した暗い情念と心理的な苦悩という、ニーチェが『道徳の系譜』において説明していた、あらゆる地獄のような戦略に頼るのである。悪しき良心をそなえた僧侶、敬虔なる罪の売人たちの群れ、これこそニーチェが、キリスト教よりいっそう悪しきものがすでに途上にある、と予言したことなのだ。そしてそれは今やここにある・・・。


     ヴァンパイア城は若い学生たちのエネルギーや不安、傷つきやすさを餌にしている。そして多くの場合、ヴァンパイア城は個別の集団の苦しみ−−−−その集団が「マージナル」であればあるほど好都合だ−−−−を、学術的な資本へと変換する。ヴァンパイア城でもっとも褒めたたえられるべき者とは、苦しみの新しいマーケットを見つけ出した者たちだ。かつて搾取されていた集団よりもさらに抑圧され隷属させられていた集団を発見することができるこうした者たちが、きわめて迅速にランクを上げていくことになるだろう。


    ヴァンパイア城の第一の掟:あらゆるものを個別化し、私的なものにすること。この掟は、理論上は構造的な批判に適しているが、実際のところ、個別の振る舞いのみを焦点化するにとどまる。労働者階級に典型的な幾人かは良い育ちとは言えず、時折非常に不作法である。覚えておくことだ。個々人を非難することは、非人称的な構造に注目することよりも、つねにいっそう重要なのだ。現行の支配階級は、ある階級として行動する傾向をつねに絶やすことなく、個人主義というイデオロギーを撒き散らす。


    (わたしたちの多くが「陰謀」と呼んでいるのは、階級的な連帯を見せている支配階級のことだ。)ヴァンパイア城は、支配階級にだまされているしもべとして、反対のことを行う。ヴァンパイア城は〈連帯〉や〈集団〉にリップサービスしつつ、同時に権力によって課せられた個人主義的な枠組みが保たれるようにつねに振る舞う。ヴァンパイア城のメンバーたちは骨の髄までプチブルなので、激しく競争的である。だがこの競争的な性格は抑圧されてブルジョワジーに典型的な受動的な攻撃性のなかに押し込められる。彼らを一緒にしているのは連帯ではなくお互いへの恐怖である−−−−それは次に公のもとにさらされて告発されるのは自分かもしれない、という恐怖なのだ。


    ヴァンパイア城の第二の掟:思考や行動をものすごく難解なものとして示すこと。明るさがあってはならないし、ユーモアなどもってのほかだ。ユーモアは、その定義からして、真摯なものではないだろう? 思考は人々にとってハードな仕事で、気取った声で眉をしかめて行うものだ。信頼があるところならどこにでも、疑いを呼び込め。「急ぐな、それについてはもっと慎重に考えなければならない」と言うんだ。覚えておくがいい。確信を持つことは暴虐なことであり、強制収容所までつながっているかもしれないのだ。


    ヴァンパイア城の第三の掟:できる限りの罪の意識を拡散させよ。罪の意識が深ければ深いほどいい。人は悪い気分でいなければならない。それは人が物事の重々しさを理解しているという徴なのだから。もしあなたが自分の特権に罪の意識を感じていて、他の人々があなたに従属的な階級に位置していることにあなたが罪の意識をさらに感じているのであれば、特権階級にいても大丈夫だ。あなたは貧しき人々のためになにか良い仕事をするだろう、そうじゃないか?


    ヴァンパイア城の第四の掟:物事を本質化すること。アイデンティティの流動化や複数化、あるいは多数化は、ヴァンパイア城のメンバーのために主張され−−−−部分的には彼ら自身の変わることなく富に恵まれ特権的な背景や、あるいはブルジョワに同化した背景を隠蔽するために主張されるのだが−−−−、それと同時に、その敵はつねに本質化される。ヴァンパイア城を動かしている欲望は大部分が破門し告発したいという僧侶の欲望であるから、善と悪との強力な区別が必要とされ、悪が本質化される。戦略に気づきたまえ。ある人物Xが何かを述べる、あるいは特有の仕方でふるまう。こうした言述やふるまいはトランスジェンダーに対する嫌悪やセクシストなどと解釈されるかもしれない。そこまではOKだ。だが事件を起こすのは次の動きだ。Xはそこにおいてトランスジェンダー嫌悪者ないしはセクシストと定義されるようになる。そうした人たちのアイデンティティのすべてが、ひとつの誤って判断された言述ないしは行動上のちょっとした間違いから定義されるようになる。ヴァンパイア城がひとたび魔女狩り用の軍勢を呼びあつめると、犠牲者(この犠牲者は多くの場合労働者階級の出自で、ブルジョア的な受動的攻撃性のエチケットを教えられていない)は信頼できる筋から煽られて怒りで我を忘れる。以前の彼らは自分を追放された者とすることで自分たちを保護していたが、最近では餌に群がってくる狂乱状態のなかで消費されることになる。


    ヴァンパイア城の第五の掟:リベラルのように思考せよ(なぜならあなたもその一員なのだから)。絶えず反動的な怒りをかきたてるヴァンパイア城の働きは、めちゃくちゃ明白なことを際限なく指摘することのなかにある。資本は資本のようにふるまい(これはよいことではない!)、抑圧的な国家の装置は抑圧的なのだ。わたしたちは抗議しなければならない!

    U.K.のネオ・アナーキスト


     第二のリビドー形成は、ネオ・アナーキズム(新らしい無政府主義)だ。ネオ・アナーキストという語は、わたしにとっては、連帯協会のような、実際の労働現場の組織に従事している無政府主義者や労働組合主義者をけっして意味するものではない。むしろわたしはここで、自分たちをアナーキストだと思っているが、政治活動の範囲が学生運動や学生による占拠という域をほとんど越えることがなく、ツイッターでコメントするだけのような人たちのことを考えている。ヴァンパイア城の住人たちと同じく、ネオ・アナーキストたちは通常はプチブルの出自で、さもなければもう少し特権階級的な場所から出てきている。


     彼らはまた圧倒的に若い。二十代、ないしはせいぜい三十代初めの年頃で、彼らのネオ・アナーキスト的立場は、狭い歴史的な見通しからきている。ネオ・アナーキストたちは資本主義リアリズムしか経験していない。彼らが政治意識に目覚めたとき−−−−そして彼らのほとんどはごく最近に、時折彼らが示すような強気でいばりくさった態度に見られる政治意識をもったのだが−−−−労働党はかたくななブレア支持者たちの塊となってしまい、社会的公正さを小さくして、ネオリベラリズムを採用した。だが、ネオ・アナーキズムの問題は、こうした歴史的状況から逃れることをしないで、考えなしにこの状況を反映していた点にある。彼らは主要産業の国営化と国民健康保険の設立および利用に際して労働党が果たした役割を忘れている、あるいはおそらく純粋にそれに気づかないでいる。ネオ・アナーキストは、国民健康保険についての抗議集会に出席したり、残された福祉国家的なものを解体することに対する不平をリツイートしたりしながら、「議会政治は決して何ごとも変えやしない」、あるいは「労働党はいつも使えない」と主張することだろう。ここには奇妙な暗黙のルールがある。議会がやったことに対して反対してもよい、だが議会やマスメディアに入り込んでそこから変化を作り出そうとすることはよくない、というものだ。主要メディアは軽蔑されるべきものだ、だがBBCの「クエスチョン・タイム」は視聴して、ツイッターで不平を述べねばならない。純粋主義が変質して運命へのあきらめになる。メインストリームによって汚されるくらいならばとにかくそこにいない方がましである、自らの手を汚すというリスクを負うよりも、無駄に「抵抗」するほうがましである、というわけだ。
     非常に多くのネオ・アナーキストたちが憂鬱な状態にあるということは驚くべきことではない。この憂鬱さが大学卒業後どうなるかという不安によって強められていることは疑いない。というのも、ヴァンパイア城と同じく、ネオ・アナーキズムの本来の場所は大学のなかであり、卒業資格のために勉強している者や、最近そういう勉強を終えた者たちによって拡散されているからだ。


    何がなされるべきか?


     この二つの構造が前面化した理由は何なのか?第一の理由は、両者はともに資本の利益のために働いているので、資本による繁栄が許され続けているという点にある。資本は階級意識を解体し、労働組合を悪意によって服従させることによって、組織化された労働者階級を従順にしている。それとともに「勤労家族」を自分たちの非常にせまく限定された利益に結びつくようそそのかして、より広い階級の利益を考えさせない。けれどもなぜ、階級的な政治を道徳主義的な個人主義に置き換え、連帯を打ち立てずに恐れと不安を広める「左翼」が、資本と関係するのだろうか?


     第二の理由は、ジョディ・ディーンがコミュニケーション的資本主義(communicative capitalism)と呼んでいるものだ。資本主義的サイバースペースがなければ、ヴァンパイア城やネオ・アナーキストを知らないでいることができただろう。ヴァンパイア城の敬虔な道徳化は長年にわたって特定の「左翼」の一側面であった−−−−だが、人がもし特定の教会のメンバーでないならば、そこで説教を聞くことを避けることはできる。ソーシャルメディアが意味するのは、もはやこうした事態は存在しないということであり、これらの言説によって広められる心の病から身を守ることはほぼ不可能である。
     ならば、わたしたちは今何ができるだろうか?第一に、アイデンティタリアニズムを捨て去ることが必須であり、アイデンティティなど存在せず、あるのは欲望と利害関心、そしてアイデンティティを求めることだけなのだということを理解せねばならない。イギリスのカルチュラル・スタディの部分的な重要性は−−−−ジョン・アコムフラによるインスタレーション"The Unfinished Conversation"(最近テート・ブリテンに収められた)と映画「スチュアート・ホール・プロジェクト」において非常に力強くかつ感動的に現れている−−−−アイデンティタリアン的本質主義に抵抗し続けていたことにあった。人々をすでに存在している等価物の連関のなかに閉じ込めるのではなく、いかなる分節もそれを仮のもので可塑的なものとして扱うという点にあった。あたらしい分節がつねに創造されうるのだ。本質的な意味で誰かが何者かであるということはない。悲しいことに、右派はこうした考えのもとで、左派よりも効果的に運動している。ブルジョワでアイデンティタリアンの左派はどのようにして罪の意識を広め、魔女狩りを先導するかは知っている。だが彼らはどのように改宗者を作ればいいのかは知らない。だが結局のところそれがポイントではない。目的は左派的な立場をポピュラーのものにすることでもなければ、それによって人々を従わせることでもない。そうではなく、エリート的な優れた立場にとどまりはするが、しかし今や道徳的優越によって二倍のものとなった階級的優越をもってそうすることなのだ。「お前はなんでそんなことを話すのか?−−−−苦しんでいるものたちのために話しているのは私たちだぞ!」


     だが、アイデンティタリアニズムの廃絶は、階級を再び主張することによってのみ達成可能となる。中心に階級概念をもっていない左翼はぃべらるな圧力団体にしかなり得ない。階級意識は常に二重のものだ。そこには階級があらゆる経験を形成し形作るやり方についての知識と、階級構造のなかでわたしたちが占めている固有の立場に関する知識の両方が同時に内包されている。わたしたちの闘争の目的はブルジョワによる認知ではなく、ブルジョワそのものの破壊でのないということは忘れてはいけない。階級構造−−−−その構造から実質的な利益を得ている者たちさえも含む、あらゆる者を傷つける構造−−−−こそが、破壊されねばならない。労働階級の利益は万人の利益である。ブルジョワジーの利益は資本の利益であるが、それは誰の利益にもならない。わたしたちの闘争は新しく驚くべき世界の構築に向けてなされるべきものであり、資本によって形成され歪められた数々のアイデンティティを保護するためのものではない。



     これは険しく意気阻喪させる務めのように思えるかもしれないが、実際そうだ。だがわたしたちは今すぐ未来を志向する多くの活動への参加を始めることができる。実際、そうした活動は未来を予示する以上のものになるであろう−−−−それらの活動から高潔な循環が始まり、自らの成就は予言される。そこではブルジョア的な主体性の様態が解体されて、新しい普遍性が自らを構築し始める。わたしたちは、お互いに非難しお互いを利用し合うことによって資本家のために資本家の手の内にある労働をすることなく、いかにして仲間関係と連帯を打ち立てるのかということを学ぶ必要があるし、それを繰り返し学ぶ必要がある。もちろんこのことは、わたしたちがつねに同意せねばならないということを意味するわけではない−−−−そうではなく逆に、意見の不一致が、排除や除名の恐れなしに起こりうるような条件を作り出さなければならない。わたしたちは、ソーシャルメディアの使い方について、きわめて戦略的に考える必要がある−−−−資本の欲望を受けたエンジニアによってソーシャルメディアにおける平等主義が主張されるとしても、ソーシャルメディアの場は最近では資本の再生産のために用いられる敵の領域なのだということをつねにおぼえておかねばならない。だがこのことは、わたしたちがソーシャルメディアという場を占拠することが不可能だということを意味しない。その場所を、階級意識を作り出すために使い始めることにしよう。わたしたちは、資本が果てしなく参加することをそそのかしてくるコミュニケーション的資本主義における「論争」から脱けださなくてはならないし、わたしたちは階級闘争の渦中にいるのだということを覚えておかねばならない。最終目標は活動家に「なる」ことではない。そうではなく、労働者階級を活性化し−−−−それを変形させるための−−−−助けとなることである。ヴァンパイア城の外に出さえすれば、あらゆることが可能になるのだ。
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