1.  この夏、わたしはあらゆる政治的な運動から引きこもっておこうと考えていた。過労で疲れ果て、生産的な活動をすることもできず、ソーシャル・ネットワークをさまよい、抑鬱と疲労が増大するのを感じた。


     「左翼」のツイッターはしばしば、むごい、意気消沈させる地帯となる。今年の早い時期に、人目を引くようなツイッターの炎上があって、そこでは左翼的とみなされる特定の人々が「呼び出されて」非難されていた。左翼的な人が言っていたことには時として不愉快なものがあった。だが、それにもかかわらず、彼らが個人的に中傷されて追求されるやり方は、恐れを抱かせるものだった。悪意に満ちた魔女狩り的な道徳主義が放つ異臭がそこにはあった。わたしがこうした現象について表明しなかった理由は、言うのも恥ずかしいことだが、恐れていたからだ。ごろつきたちは遊び場の別の場所にいる。わたしは彼らの注目を惹きたくはなかった。
     こうしたやりとりにおける開かれた野蛮さには、さらに倒錯的なものがつきまとっていて、おそらくそれが理由で、さらに人を衰弱させる。つまりそこには不機嫌な怨み(ルサンチマン)が充満した空気がある。最も数多くこのルサンチマンの標的になるのはオーウェン・ジョーンズ(訳注1)であり、近年英国における階級意識の啓発にもっとも責任ある人物であるジョーンズに対する数々の攻撃が、わたしが意気消沈する原因の一つであった。もしこのことが、英国人の生活の中心地で闘争を実際に引き継いでいる左翼主義者のもとで起こったものであるならば、なぜ誰もメインストリームにおいて彼を援護しないのだろうか? 無力な周縁のポジションにとどまることが、滴り落ちるこの悪意を避ける唯一の方法なのだろうか?


     鬱で麻痺した状態からわたしを脱出させるひとつのきっかけは、住んでいる場所の近くでおこなわれたイプスウィッチの住民集会に行くことであった。住民集会は常に冷笑と不機嫌とを持って迎えられてきた。それは使えない萎んだ代物であり、そこではジョーンズのようなメディア左翼たちが、別のトップダウン的なセレブ文化を見せつけながら、自分たちの勢力を増大させていると、わたしたちは聞かされていた。だがイプスウィッチの集会で実際に起こっていたことは、こうしたカリカチュアとはまったく異なっていた。確かのその夜の前半は、オーウェン・ジョーンズの活気あるスピーチによって高まりを見せるなど、ランクの高い演者によって主導されていた。だが集会の後半は、サフォーク州全土から来た労働者階級のアクティビストたちが語り合い、互いに助け合い、経験と戦略を分かち合っていた。住民集会は、階級的な左翼主義者たちの一例となることなく、垂直的なものが水平的なものといかに結びつくのかと言うことを示す例となっていた。メディアの力とカリスマが、部屋の中にいて政治集会などに行ったことがなかった人たちを引きつけ、そこでその人たちは、熟練したアクティビストたちと語り、戦略を練る。雰囲気は反レイシズムで反セクシズムであったが、左翼の人たちのツイッターに漂う、息苦しく刺してくる霧のように人を麻痺させる罪や疑いの感情からは解放された、さわやかなものだった。


     そのときそこにはラッセル・ブランド(訳注2)がいた。わたしは長い間ブランドを敬愛していた。彼は近年のシーンの中では、労働者階級の出自をもった数少ない著名な俳優の一人であった。ここ数年、テレビのコメディでは、徐々にではあるが冷酷なブルジョア化が進行しており、実にばかげてくだらないアンポンタンのマイケル・マッキンタイア(訳注3)や、虎視眈々と機会を狙ってはいるものの、うんざりするほど退屈で面白みのない大卒の主演者たちが舞台を占拠している。
     「ニュースライト」の放送でジェレミー・パックスマン(訳注4)がブランドにインタビューしたことは今となっては有名な事実だが、その一日前にわたしは、イプスウィッチでおこなわれたブランドの独演会「メシア・コンプレックス」を見ていた。この挑戦的な見世物は移民に賛成し、共産主義者に賛成し、ホモフォビアに反対するもので、労働者階級的な知性に満ちていてかつそれを見せることを恐れず、大衆文化がかつてそうであったような仕方でクィアなものであった(つまり、ポスト構造主義的な「左派」に属する道徳主義者たちによってわたしたちに押し付けられた不機嫌な顔をしたアイデンティタリアン(訳注5)とは何の関係もなかった)。マルコムX、チェ・ゲバラ、現実のリアリティから覆いを剥ぎ取るサイケデリックな政治。それは否定のために鼻先で指を振るような説教ではなく、クールでセクシーでプロレタリアート的なコミュニズムだった。


     次の日の晩には、ブランドの態度が分裂の契機を作り出したということが明らかになった。わたしたちのうちの幾人かにとっては、ブランドが法廷風の口調でパックスマンを言い込めたことは非常に感動的で奇跡のようであった。労働者階級の出自をもつ人物に対して、彼が知性と理性を用いて「上流の」階級をこれほどまでに完璧に論破するような場が与えられていたのがそれ以前のいつだったのか、わたしは思い出すことができなかった。それはブル・グランディ事件のジョニー・ロットン−−−−階級的なステレオタイプに挑むというよりはそれを確信させるような行為−−−−ではなかった。ブランドはパックスマンの知恵の裏をかいた(outwit)のであり、−−−−そこにおけるユーモアの用法が、多くの「左翼主義」における不機嫌さとブランドとを区別するものであった。ブランドによって、人々は自分自身であることに上機嫌になった。道徳主義的な左派が、人々を不機嫌にさせることを専門にしていて、不幸で、頭が罪と自己嫌悪でねじ曲がってしまうのとは対照的だった。


     道徳主義的な左派が直ちに確信したのは、この話は、メインストリームのメディア「討論」における平凡な習慣をブランドが非凡な仕方で破棄したことが問題ではないし、革命が「起ころうとしている」という彼の主張が問題でもないということだ。(この最後の主張は、ブランドが自分は革命を先導したいと望んでいると言ったときに、鈍感でプチブル的で自己愛の強い「左派」によってのみ聞き取られたものだ−−−−つまり、このプチブル的な左派は、「わたしはわたしを先導する成り上がりセレブなど必要としていない」と、典型的なルサンチマンを込めて応答したのだ)。道徳主義者たちにとって、主たる話は、ブランドの個人的な振る舞い−−−−とりわけ彼のセクシズム−−−−に関するものでなければならなかった。道徳主義的左派によって醸成された熱狂的なマッカーサー主義的雰囲気のなかでは、セクシストとして説明されうるような言及が意味することは、ブランドがセクシストである、ということであり、それはまた、彼がミソジニストである、ということも意味するものであった。カットされて干され、仕上げられ、非難されるというわけだ。


     ブランドは、わたしたちのように、彼の振る舞いや使った言葉に責任を取るべきであったというのは正しい。だがそうした問いかけは友情と連帯の雰囲気のなかで行われるべきものであって、最初から公然と行われるべきものではない−−−−メディ・ハサンにセクシズムについて質問されたとき、ブランドはまさしくユーモアに富んだ謙虚な答えを見せたことがあるのだが、それはブランドを裁いた者たちの冷酷な顔つきには完全に欠けているものだ。



    “僕は自分がセクシストだとは思っていない。でも僕は自分の祖母を思い出す。僕が知る限りもっとも愛すべき人だ。でも彼女はレイシストだった。彼女が自分自身をそう思っていたとは思わない。僕が文化的に過去のものをひきずっているかどうかはわからない。僕は「ダーリン」とか「バード」とかいったプロレタリアの言語に対して大いなる愛を抱いていることはわかっている。だから、もし女性たちが僕のことをセクシストだと思っていて、彼女たちが僕よりもそれを判断できるよりよい立場にいるのなら、僕は努力するよ。”



     ブランドの介入はリーダーシップのためのものではなかった。それは霊感であり、軍隊の召集であった。そしてわたしも一人の人間として霊感を受けた。数ヶ月前ならば、金持ち左翼(PoshLeft)の道徳主義者たちがブランドを私的な裁判にかけて人格を毀損したときに−−−−しかも右翼の出版物から収集されていつでも役立てることのできる「エビデンス」でもってそうしたときには−−−−わたしは沈黙を保っていたことだろう。だが今回わたしは、そうした道徳主義者たちの相手をすべく準備を整えていた。ブランドの回答はすぐに、パックスマンとのやりとりそれ自体と同じほど重要なものとなった。ローラ・オールドフィールド・フォードが指摘したように、これは物事をはっきりとさせる契機であった。そしてわたしにとっては、近年多くの自称「左翼」が階級の問題を抑圧してきたやり方がはっきりとわかった。


     階級意識は脆く儚いものだ。学術界と文化産業を支配しているプチブルたちは、あらゆる種類の微妙な歪曲と中断をそなえている。それによって特定のトピックが浮上することが妨げられるし、たとえそれが浮上したとしても、取り上げるにはおそろしく不作法で礼儀に背いたものだと人に思わせるのである。わたしは今まで数年にわたる左翼的で反資本主義的な出来事について語ってきた。だがわたしは、階級について公の場でめったに語らなかったし、−−−−それについて話すよう頼まれたこともなかった。


     けれども、ひとたび階級がもう一度姿をみせたなら、ブランドの件に対する反応のいたるところにある階級の問題を見ないですますことは不可能だった。ブランドは左翼的立場にいるプライベートスクール卒の人たちの三人に直ちに裁定され、また、あるいはさらに問い正された。ブランドは本当のところ労働者階級ではない、なぜなら彼は億万長者だからだ、とわたしに言う人たちもいた。驚くべきことだが、どれほど多くの「左翼主義者たち」が、パックスマンの問いの背後にある傾向に基本的に同意しているように思えることか。パックスマンはこう問うていたのだ。「この労働者階級の人物に話す権威を与えるものはいったい何なのか?」と。別の驚くべきこととしては、実に苦しいことだが、労働者階級の人たちが自らの「権威」を失わないためには、彼らは貧しく、無名で、無能のままでいるべきだと左翼主義者たちが考えているように思われることもある。


     フェイスブックでブランドについて書かれた投稿をわたしに寄越してくれた人もいた。それを書いた個人が誰なのか、わたしは知らないし、そうした人たちの名前を知りたいとも思わない。重要なのは、その投稿がスノッブで人を見下すような一連の徴候を示していることであり、自らを左翼だと分類している人でさえそうした徴候を公にしても大丈夫だと明らかに考えている点にある。全体的な調子は恐ろしく高圧的で、それはあたかも子どもに点数をつける学校教師や、患者を査定する精神科医のようであった。どうやらブランドは「明らかに極度の不安定状態にある...もう一度ドラッグ中毒やそれよりもひどい状態に戻るわけではないが、ある悪い関係ないしはひどく困った活動のなかにいる」と言うのだ。その人が、人々は本当は(ブランドを)好きなのだと主張したところで、ブランドが「不安定である」理由の一つは、まさしく、こういった類の、「左翼」から寄せられる間違った上から目線による恩着せがましい「評価」なのである。ほかにもいささかショッキングで徴候的な側面もあって、そこでは投稿した人物は何気なくブランドの「つぎはぎだらけの教育歴や、独学者に特徴的な、眉をひそめさせるような言葉の誤用」に言及している。これについて、この人物は寛大に「こうしたことはわたしにとってまったく問題にならない」と言うのである。なんと善意に満ちていることだろう!これは十九世紀に「原住民」に英語を教えようと試みた植民地の役人でもなければ、若い生徒のことを書いているヴィクトリア朝時代の教師のことではない。これは数週間前の「左翼主義者」の言葉なのだ。


     ここからどこに向かうべきだろうか?最初に必要なのは、階級を消滅させているこの無慈悲で意気消沈させるような道へとわたしたちを導いてきた言説や欲望のさまざまな側面を確定させることだ。だが道徳主義はいたるところにあって、そこでは連帯は不可能であり、罪の意識と恐怖とが偏在している。こうしたことの原因は、わたしたちが右翼によって脅かされているからではなく、わたしたちが自らに、わたしたちの運動を汚すようなブルジョワ的主体性をもつことを許しているからだ。こうした状況を引き起こしたリビドーと言説の状況として、二つの構造が考えられる。彼らは自らを左翼と自称している、しかし、−−−−ブランドのエピソードが明らかにしたように−−−−彼らは、多くの点で、左翼の消失を示す記号となっているのだ。左翼というものが−−−−階級闘争におけるエージェントとして定義されるそれが−−−−消失してしまったということを示す記号に。(続)




    (原注)この文章はNorth Star20131122日、http://www.thenorthstar.info/?p=11299[現在リンク先の内容は存在していない])に掲載された。この小編はマークの生前に書かれたもののなかでもっとも論争を呼んだもののひとつである。発行当時は、この文章は声の大きい多数の誹謗中傷者に激しい敵意を示したものであり、今日でもそういうものであり続けている。マークがこの文章によって届けようとした問題は、さらに広汎に広がり、悲しい形で、未解決のままにとどまっている。しかしながら、マークの好んだ修辞的スタイルや思考の導き方をこの文章が完全な形でとどめているということを、心のなかにとどめておく価値がある。マークのスタイルや思考は、本書に再掲された初期のk-punkに対する投稿を見ればはっきりとわかる。


    (訳注1)オーウェン・ジョーンズ(1984- )はイギリスのテレビコラムニスト。日本語訳された著作として『チャヴ 弱者を敵視する社会』(海と月社、2017年)、『エスタブリッシュメント 彼らはこうして富と権力を独占する』』(海と月社、2018年)がある。

    (訳注2)ラッセル・ブランド(1975- )はイギリスのコメディアン、俳優、司会者。

    (訳注3)マイケル・マッキンタイア(1976- )はイギリスのコメディアン。

    (訳注4)ジェレミー・パックスマン(1950- )はイギリスのアナウンサー、ジャーナリスト。日本語訳された著作として『ポリティカル・アニマル−−−−「政治家」という奇妙な種族の生態学』(アドスリー、2007年)がある。

    (訳注5)アイデンティタリアンとは、固定されたアイデンティティを口実に、レイシスト的な差別や排斥をおこなう主張の総称。オルタナ右翼の一形態とされる。詳しくは八田真行「レイシズム2.0としての「アイデンティタリアニズム」」(ウェブサイト『ニューズウィーク日本版』、2016912日、https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/09/20-17.php
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