死語

自分を説明する、というようなことはしたことがない。
特にまわりが自分のやることを誤解したり理解できなかったりして、大騒ぎして責め立てるようなときがそうで、日本のひとなどは、そういうとき、謝れ、謝れの大合唱になるが、謝る理由がないのに、謝る必要は感じない。
それは何が起きているかが理解できないきみらの問題で、ぼくの問題じゃないよ、もっとしっかり考えてみればどうか、とおもうが、
そんなことを言うとますますたいへんで、日本語世界では、こちらから見ていると「ネットを挙げて」という勢いで非難の大合唱になるのがわかっているので、ほっぽらかしにする。

投げやりにみえるかもしれないが、この方法は案外よくて、説明も弁解もしないので、自分の頭で考えてわかる人しか残らないので、英語でも日本語でも、真の友達だけが残ってゆくという利点があります。

日本語の場合は特徴があって、藤沢のスーパーマーケットでチーズを物色していたら、わしの手をおしのけて自分の手にとってみるおばちゃんがいる。
いちどならず二度三度と押しのけるので、失礼に耐えかねて手を払いのけると、
「ガイジンさんて、こわいわねえ、わたし、手をたたかれたわよ!」と友達に述べている。

雛形というか、こういうことが原型で、再三再四、集団でニセガイジン呼ばわりして、マンガ的なことに、自分ではどうやら「本格的な英語読解法」とでも思い込んでいるらしい、日本の大学受験の便宜につくられた「構文解析」を駆使して、わし英語がインチキであると証明したと触れ回っている人がいる。
このひとなどは、では、対象の現代英語用法を持ち出しては、露骨に受験でこときれてしまった人生の、この人の馬鹿っぷりがわかって気の毒なので言わなかったが、例えば短い表現でもロバート・オッペンハイマーが引用したことで有名になった
“Now I am become Death, the destroyer of worlds” みたいな英語表現は、どう「構文解析」するつもりなのだろうと可笑しかったが、このひとのこそこそとした陰口で、ああ、日本人だなあ、とおもったのは、どうやら敵わないと観念したらしいところで、
「しかし、英語人が相手の英語をくさすようなことを言うことはありえません」と講釈をたれはじめたことで、自分で失礼なことを述べておいて、なんとも言い返せなくなると、相手が失礼なことを述べかけたようなことを言い出すのは日本人の特徴である気がする。

残念なことに、日本の人は、くやしさのあまりだかなんだか、名状しがたいほど卑しい態度を示すことが多くあって、おなじように議論してみる相手の中国人やインド人と較べると、そういう表現をするとまた逆上するのが判っていても、明らかに劣っている。

日本語という言語全体の地盤沈下は、目を覆いたくなるほど、といいたくなることがある。
わしが日本語に興味をもったのは、まず第一には、子供のときの、親切で豁達な日本のおとなたちに囲まれて暮らしたパラダイス体験が理由だが、もし「細雪」や「俊頼髄脳」、芭蕉や北村透谷がなければ、日本語に「子供のときに楽しい思い出をもった国の言葉」以上の興味をもつことはなかっただろう。

過去に偉大な文学をもった言語はいくつもある。
ところどころ偉大な作家を輩出した言語もいくつかある。
でも11世紀初頭というような時代に、長大で、複雑で、入り組んだ、人間の手に負えない人間の心理を表現した小説を生んで、そこからほとんど絶え間なく、現代のいまの瞬間まで普遍性を感じられる文学を生み続けた言語は、数えるほどしか存在しない。

日本語に興味をもった最大の理由はそれで、すぐれた文学を生み出しうる言語は、必ず、その民族の血のなかに分け入っていくだけの価値がある言語だからです。

いっぽうで、ときどき、主にインターネットや新聞メディアのようなものを眺めていて、日本語という言語は寿命がつきたのではないかと思う事がある。
日本語との付き合いは10年になるとおもうが、この10年、日本語世界で語られてきたことは堂々巡りとしか呼びようがない議論で、北に十歩行けば、南に十歩行き、東に八歩行けば、西に八歩もどる。
言い方を変えれば右往左往で、その右往左往を支えているのは、日本語に瘴気としてたちこめる独特の語法で、ただ「日本人は、ゼノフォビックなのではないか」と言えばいいものを、「もちろん、そうでない日本人もいるし、一概に言ってはいけないのは承知しているが、日本人のなかには外国嫌いが、少しいきすぎる人もいるのではないか」としか言えなくなってしまっている。

そういうバカみたいな言い方をしないと「日本人として一緒くたにするのは乱暴すぎる」「ぼくは違う」「暴論であるとおもう」といっせいに不快の表明がロジックの不備追究の形で始まるからで、見ていると、議論全体が、なぜ日本人だというだけで、そんな言い方をされないといけないのか、とか、私は日本人だが韓国人の友達も中国人の友達もいる、そんな言い方は酷いとおもう、というほうに、どんどん流されてゆく。

ほんとうは、「日本人は、ゼノフォビックなのではないか」と問いかける発言者と、その発言を聞く人間の集合全体にとって「もちろん、そうでない日本人もいるし、一概に言ってはいけないのは承知しているが、日本人のなかには外国嫌いが、少しいきすぎる人もいるのではないか」というようなレベルのことは当然のこととして常識として了解されいなければいけないのに、社会としてその常識を欠いているか、あるいは何らかの理由で常識を欠いている「ふり」をするせいで、議論がどんどん低劣なものになってゆく。

めんどくさくなってきたので、自分を例にして結論を急ぐと、なんだか英語が判るふりをして、ニセガイジンと囃し立てつづけてきたはてな人たちが、ニセガイジンと信じたとすれば、ほんとうの理由は、自分でいうのはさすがに、ははは、な感じはなくはないが、もしかすると、こちらが習得した日本語が彼らの目からみて「上手に過ぎる」からではなかろーか。
いっぽうで、実は英語が理解できないので、わし英語の評価ができなくて、英語を母語としない人間が書けるわけがない英語なのは、理解できないのであるとおもわれる。

(はっはっは、言ってしまった)

些末な例をだして話をしてしまったが、日本語全体が世界の現実から切り離されて、どこか、まったく架空な世界へ飛んでいってしまったような実感がある。
言語として、全体が無効であると感じます。

そのことには、自分に引き寄せていうと、どういう理由によって悟ったのか、この頃はトロルおじさんたちは都合が悪くなったらしく「おまえの英語はニセガイジン英語」は慌てて削除して、作戦を変更して、旧来の「反日ガイジン」に戻ったらしいが、日本をちゃんと見つめることなしに、まともな日本語を書けるようになるわけがない「質量のある現実」のほうは、どうでもいいらしい。
「自分は英語が英語人よりも出来る」という宣言だけで、英語が出来ることになって、わし友英語人たちの英語を「たいしたことない」「自分のほうがうまい」と述べるのに日本語でしか言えないことの不思議さを自分で意識すらしないところが、「宣言してしまえば、それが真理」の、いまの日本人の杜撰をあますところなく示していて、そうおもって安倍政権をみれば、なるほど、その手の国民が信任した政権だと、簡単に納得できてしまう。

日本語は現実の重みをまったく欠いた言語になって、放射能が安全だと屁理屈をこねれば、おどろくべし、俄に放射能は安全なものになって、中央銀行が市場にオカネを投下しまくるという「机上の繁栄」が、現実に日本の繁栄だということになってしまう、なんだか文字通りの子供だましの経済繁栄が出現して、いっぽうで、日に日に貧しくなる実際の生活は気のせいだということになってゆく。

ここでは詳述しないが、日本の社会の五衰の根源にあるのは日本語そのものの老衰であるとおもう。
言語が現実から剥離して、言語だけで自己完結する詭弁の世界に陥るという事態は西洋世界では古代ギリシャの末期が知られていて、その結果、古代ギリシャ諸都市はすべて滅びてしまった。
ローマ人たちが子弟にギリシャ語を必須として課しながらギリシャ人の考え方をまねることを厳禁したのは、そのせいでした。

近くは訓詁に凝った清代の中国や韓国がそうで、この二国は結局、当時は現実に密着した言語をもっていた欧州と日本に蚕食されていくことになった。

われわれが日本という社会に見ているのは、実は、「言語が死に瀕した世界」で、そのことは判り切っているが、それをどう当の死語の体系のなかで暮らしているひとびとに伝えればいいかというと、マヌケなことに「途方にくれます」としか言い様がなくて、なんだか曖昧な、ぼんやりした気分になってしまいます。

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5 Responses to 死語

  1. たろう says:

    日本語のことを日本語で書かれているものを読んで日本語で考えて理解しようとするのは
    、鏡のない部屋で自分の姿を見ようとするようなもんで、どこまで行っても分かったような
    気がするだけなのだろうと思う。

    それでも、例えばコメンテーターや政治の人が皆にわかるように丁寧に説明してくれている
    ことに違和感を覚える時、話の中身を理解して自分の論点を整理し反論しなきゃならない
    と思っていたけれど、あえてそれらに耳をふさいで「ノォーーーーッ」ってせんとあかん、
    って思うようになったのは「日本語は現実を語るには欠いている言葉」みたいなのを
    よく目にしたからというのも一助になっておりまして。「神」とかよく分かってないけどね。

    何を書きたいかよく分からなくなってきましたが、要するに特に「日本」「日本語」についての
    文章やブログを読んで「なるほどなるほど」と理解できてる人は僕を含め少ないのかも
    しれませんが今後とも楽しみにしてるのでよろしくねよろしくね、ということです。

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  2. ゼノフォビックは、「外人コンプレックス」と言う言い方で日本人の間では昔から言われていますね。「恐怖」と言うニュアンスは日本人側ではあまり自覚していないのですが、「劣等感」は先の対戦で完膚なきまでに叩きのめされて以降WGIPの効果もあって、より強くなったように思います。
    「自分の実力を過信して無謀な戦いを起こした」事への「罪の意識」か「卑屈」か「後悔」か、認識は個人差があると思いますが、その「心理的に負い目を持っている、弱いところを突き回されるのを恐れる」という点では確かに「恐怖症」なのかもしれません。
    国際人として世界の人と議論をしてきた人の中には、「日本人離れした分析力や思考力・交渉力」を持った人もいるとは思いますが、全体的あるいは平均的な日本人像という点ではガメさんの言う「非多重言語民族」としての認識・理解力の甘さは確かに存在すると思います。

    それでもインターネットの普及によって、誰でも自分の言語以外の世界に触れる機会が増えているので、数十年後には少し変化が出てくるかもしれません。少なくとも私はそれを期待しています(笑)

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  3. じゅら says:

    leukemiaって、ニュースで何度も見かけた覚えがあるけど、なんて病気だったっけ。と思って検索してみました。医学の言葉は何でもそうだったか違ったか、ギリシャ語起源なのですよね。

    この記事を見るちょうど直前に、「日本人ではない」と見なされがちな人々が直面する差別について、不動産探しという面から当事者が書いている記事を見ていたのですが、それがもうまさに、「もちろん全てではないが…」というような先回りに満ちていて笑ってしまいました。いや笑いごとじゃないけど。本当に、いつの間にかこんなふうにしか物事が言えなくなっている。こんな対策が不要な状況であれば、記事の文字数なんか半分くらいですみそうだし、書いたり読んだりする労力も少なくすむんだけど、もう全体がただの泥沼のようです。
    そこにもってきて、「言葉の意味内容や解釈なんて、お上の都合だけでホイホイ左右されていくらでも書き換え可能なんだよ」という世の中になってしまうと、何を言っても書いても全部無駄、無効、記録も伝達も不可能、という事態になるのは必然のなりゆきでしょう。終了!解散!おつかれさまでした!先生の次回作にご期待ください!(空虚な決まり文句)ですむ話ならまだいいけど、私はまともに扱えるのが日本語だけです。身を守るのも正気のよりどころも事実上これしかないのにな。

    しかし今に始まったことではないと思っています。「他人と異なる意見を表明することはその人への攻撃」とみなされるのが基本設定である中、異論を唱えることはその場の権力関係、空気のようなもので上にある方の特権といってよかった。中高年のえらいおっさんからのセクハラを、攻撃とみなされないように冗談めかして拒否する、高度な工夫がほぼ不可欠だという話がありましたね。その一方で、「正論で黙らせてやった」とか、相当ぶしつけで失礼で高圧的なやり方が、武勇伝のようにみなされる例もたくさんあるわけでして。「下」が「上」に逆らうのだけは許さない、上下関係の固定化と卑屈さへの誘導、元からそんな機能があったのだと思います。昔は分かりませんが。そしてこの、権力とか空気の操り方については、社会的地位や性別年齢経済力などの属性以外にもいろいろ要素があって、私がここ最近興味をひかれているのが(これは下手するとただの人でなしになっちゃうんですが)罪悪感です。情緒を操作することにかけてはとても強力な手段。

    なんだかブログを乗っ取りそうになってきたし、食べすぎで脳みそに血が戻ってこないので、このへんでやめますー
    みんなもついったとかその他もろもろでいろいろ勝手な感想を言えばいい!

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  4. 酒井邦秀 says:

    あまりにその通りで、後半は大笑いしました。シェアします。ありがとう。

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  5. jjjnkmddd says:

    なんだか書くのもおかしなしち面倒くさい話で日本語死んだ死んでないの議論の駅はとうに過ぎていてまだ乗っているということは死亡推定時刻の駅名がどこだったかも自分看取れてなくて、誰かに死んでない、と言われたら、あんたいま殺めている事もわからんのかえ、と、ど突きで潰れたそのひとの拳にテッシュの一枚渡したくなるけども、死んだという表現を自分の観測から変えればブラックホールのようになっていてあらゆる些細な感情の重箱の隅から掬って楽しむことのできた語彙の絵の具箱も、仕切りがとれて混ざって濁ってひとつの言葉にかわりブラックホールになった、という絵があります。
    二年ほど前から「最高」という言葉が頻繁に使われており、何かを観た、何かを聴いた感受の着地がただひとつの言葉、「最高」で閉められていて、そら表現者も「今日の演奏は最高でしかなかった」や「最高の瞬間が確かにあった」と書いていて初めのうちはこの「最高」は何の言葉に変えれば的確か考えてみたりしていたが、いわんやinternet、表現者が氾濫させれば受け手も走る「今日は最高の仲間と最高のライブをみて最高の夜!」というのを眺めたとき、あ、これまずいかもと思っていたら終いには仕事依頼のmailの〆にも「最高な感じで仕上げてもらえればと思います」と書かれていたときすでにお寿司、目の前はタイムセールでもまだ残っている鮪の赤身のような夕暮れでした。競わされ慣れていれば速度にのまれること多々で、選ぶ匙を投げればあほみたいにはしゃげるこの場所で、「最高」だと唱えればシャブのように効く。もし自分の感性に的確に詞をかいたとしても「最高というブラックホール」に呑まれてしまう昨今だもんで私、詞も文章も自主的に書くの二年前でもうやめてしまった。母語交々が何書いても読んでも寝言にしか聞こえない。だから書くのもおかしなしち面倒くさい話、だのに書いたのは、独白できるこの深夜と、この語にひと区切りつけたい気分だったからです。終。

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