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昔はクーラーなど無かったから、蒸し暑い夏の夜は、戸を開けたまま蚊帳で寝た。蚊帳を吊ってもらうとただもうそれだけで嬉しくなって、おおはしゃぎしたものだ。家の裏には農業用水路があって、季節になるとあたり一面に蛍が舞った。父がある夜、幼い私を連れだして蛍を捕ってくれたことがある。そして、ガラス瓶に入れた蛍をそのまま蚊帳の中に放してくれた。暗い部屋に光る蛍。断片的な、そして夢のような記憶である。

近所を流れる福島川。私はこの川で、水中鉄砲で川エビを突き、投網で鮎を獲って育った。父は投網が好きで、とくに月のない晩などには私もよく連れて行かれた。カーバイトランタンと魚籠を腰に下げ、川下から川上へとさかのぼりながら網を打つのだが、こちらは毎日のように川を歩いているから、どこが瀬でどこが淵なのか川底の様子は手にとるように分かる。しかも闇夜である。敏捷な鮎もさすがに不意をつかれるというわけだ。大漁の晩に凱旋将軍のように鼻高々で帰ると、母が大げさに驚いてくれたっけ。
お隣で床屋を営む浩オジチャン(故人)は転がし釣りの名人だった。床屋が休みの月曜日になると、決まって川辺の指定席に腰を下ろして釣竿を操っている。釣り上げる鮎にそのまま塩をまぶし、ドラム缶の火で炙りながら、浩オジチャンは悠然と焼酎を飲むのである。大人って楽しそうだなあ…と子供心に思ったものだ。あのときの若鮎の苦味、川面をわたる初夏の風の心地よさ。私のふるさとの原風景である。

サイゴウさんは偉かった

明治生まれの母方の祖父がよく「サイゴウさんは偉かった」と言うので、まだ小さかった私は「ジイチャン、なんでサイゴウさんは偉いと?」と尋ねたことがある。すると祖父は「良か若者をドンドン引っ張り上げたからよ。おまえたちも大きくなったらサイゴウさんのように、良か人をドシドシ登用せんといかんど。」と得意気に応えた。
サイゴウさんとはもちろん西郷隆盛のことだ。この時すでに私のなかに、大西郷のイメージが刷り込まれたのは間違いない。

小さな焼酎屋

私の実家はかつて焼酎屋を営んでいた。シラス台地の広がる南九州には、ふるくから芋焼酎をつくる零細業者がたくさんあって、我が家も昭和元年から細々と焼酎を造っていたのだ。いまの機械化された時代と違って、むかしの焼酎づくりはもっと素朴でシンプルだった。祖父母や父母、家族みんなが力を合わせて黙々と働いている姿を、私は今でもはっきりと覚えている。
我が家は小売もやっていた。夕飯どきになると、近所のお客さんがビールや焼酎を買いに来てくれたし、配達注文の電話も必ず何本か鳴る。そのたびに忙しく立ち働くのは母であった。私は母がゆっくりと夕飯を食べる姿を見たことがない。いつも女の細腕で一斗箱を抱え、懸命に商売に励んだ母である。「勉強のためならお金はいくら使ってもよかとよ。お父さんお母さんが一生懸命働くから心配しなさんな」。そんな母の言葉に胸がいっぱいになったものだ。
今では廃業して、焼酎工場も取り壊してしまった。見れば、ほんの猫の額ほどのスペースなのだが、我が家は紛れもなくここで焼酎をつくり営んでいたのである。

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「福乃露」と「くしま」

下宿屋の思い出

「一週間以内に下宿をさがして退寮するように…!」
退寮処分を言い渡されたのは中学三年の11月だった。中高一貫校の中学寮で大部屋生活をしていた私にとって突然の、そしてショッキングな宣告であった。下宿をさがせと言われても、そもそも下宿屋さんは受験を控えた高校三年のお兄さんたちが入るもので、当然ながら大学受験シーズンになるまで先輩たちで部屋はたいがい埋まっているから、中途半端な時期に突然出ていけと言われてもそうそう空き部屋などあるわけがない。ひとりトボトボさがして歩くものの、なかなか部屋は見つからない。刻一刻と一週間の期限が迫る。もうどこでもいいやという気になってとある下宿屋の玄関に立った。「物置でもいいですし、この廊下でも構いません…。置いて頂けませんかっ!?」すると、七十歳くらいと思われる下宿屋のオバチャンが「ああ、物置なら空いてますヨ」と真顔で即答してくれた!オバチャンの気が変わらないうちにと、その日のうちに引っ越した古川少年。山ほど荷物の積んである正真正銘の物置部屋に、蒲団一枚分のスペースだけを確保して私の下宿生活は始まったのである。退寮処分をくらった少年を理由も聴かずに住まわせてくれたオバチャン。肝っ玉オバチャンだったんだなあと今更ながらに思う。
寮を追われた悔しさと、ひとりぼっちの心細さ。打ちのめされた気分で下宿生活が始まった。深夜、独り寂しくラジオを聴いていると、たしかオールナイトニッポンだったと思うが何故かビートルズのナンバーばかり流れている。あれっ?吉田拓郎の日のはずなのに…?と思いながら聴いていると、何とジョン・レノンがニューヨークで撃たれてその追悼番組だったのだ。そう。あの時。あのとき私は中学三年生で、下宿屋の物置で独り寂しく深夜放送を聴いていたのだ。ビートルズは大好きだったから衝撃も大きかったが、なんだか物置部屋に身を隠す落武者気分と重なって、何とも言えぬ哀しい想い出の一情景となっている。

翁の遺言

目黒で焼鳥屋をやっていた頃のことだ。いつものように忙しく店を切り盛りしていると、老紳士がフラリとあらわれ私の前のカウンター席に座った。そのお客はなんと私が学生時代にいろいろご指導を頂いた、ニッポンレンタカー創始者の石川浩三翁(故人)であった。石川先生は学徒出陣で大陸に出征した経験などから、晩年はアジアからの留学生と日本の青年の交流事業に心血を注いでこられた方である。石川翁は熱燗を一本だけ注文すると私に語り始めた。「いいですか古川君、男は三十になるまでは何をやっていても構わない。世界放浪の旅だろうが何だろうが好きなことをやっていいんです。しかしね、三十になったら、人生の目標はこれだと定めて一歩ずつでいいから目標に向かって人生を歩みなさい。君は政治家になるんでしょう?」じっと私の眼をみながら翁は続ける。「それからもう一つ。いずれ日本は東南アジアの権益をめぐって必ず中国とぶつかります。中国は底知れぬ国です。日本がヒステリックになって、頭に血が上ってやり合うようなことになれば、そのときこそ亡国。日本は滅びますよ。これは私の遺言だと思って必ずおぼえておいてください。」そう言って石川翁はお帰りになり、翌々月だったろうか、肺癌で亡くなられたとの報せを聞いた。
それから数年後、私は三十歳になったのを機に郷里に帰って国政をめざすことになる。初当選までに八年かかり、更に十余年を経て、石川翁の遺言からすでに三十年近くが過ぎた。そして今、私は先生の遺言をしばしば思い出すようになっている。私の瞼には先生のお声や表情までもがはっきりと浮かんでくるのである。

ジサマの養豚場

私は三十を機に郷里に帰って政治活動を始めた。そのスタート地点はどこかと言えば、それはまぎれもなくジサマ(爺様)の養豚場ということになるだろう。ジサマは薩摩出身の八十歳。鬼瓦のような顔をした頑固偏屈な爺さんだったけれど、私にとってはかけがえのない恩人である。都城でアパートも借りられずにいた私は、偶然にもジサマに出会い、養豚場に居候させてもらうところから活動を始めたのだ。鹿児島県との県境にある養豚場の冬は寒い。破れ障子から冷たい風が吹き込む夜、私は焼酎のお湯割りを握りしめながら大まじめに青い夢を語り、ジサマはジサマで大まじめに相槌を打つ。そして朝になると二人して軽トラックに乗って選挙区の山奥から山奥へと一軒一軒を訪ねて歩くのだ。三十の青年と八十の老人の変わった取り合わせ。私の政治活動はこうして珍コンビでスタートしたのである。
次第にいろんな会合にも声がかかるようになり、焼酎の席も増えてきた頃だ。深夜酔って帰って部屋の電灯を点けると、そこには蒲団がキチンと敷かれ、枕元には私の下着や靴下までもがたたんである。何度となく私は「ジサマ、洗濯は若者の仕事ですから…」と申し出るが、ジサマは決まって「オハンのそん手は、一万人の皆さんと握手をせんにゃならん手じゃっど。朝起きて、顔を洗って、歯を磨く以外、水を触っちゃならん。」と言うばかり。私は涙をこぼすしかなかった。
「オハンが当選してバンザーイができれば、オイはそんままバタッと倒れて死んでよかとじゃ。」「オイの最後の花道じゃが。」これがジサマの口癖だったのだが、選挙は落選続きである。ジサマも八十五を過ぎ体力に衰えが目立ってきた。自転車にのって一軒一軒ビラ配りをしてくれるのだが、目がよく見えない上にヨロヨロよろめいて本当に危ない。「ジサマ、もうよかからやめてくださいよ。」何度言っても「ワイは黙っちょれ!」の一言。またしても私は涙をこぼすしかなかった。
平成15年11月の総選挙でようやく私は初当選をさせて頂いた。養豚場の居候から、実に9回目の冬である。しかしジサマはその直前の2月に他界。救急車の後を追いかけたが間に合わなかった。何よりの心残りは、とうとうバンザイをさせてあげられなかったこと。あと少しだったのに…。けれども、ジサマはきっと満足してくれていると確信している。なぜなら、あの選挙戦の最終日の夜、今は誰もいないジサマの養豚場をめざして走る選挙カー。スピーカーの喧騒の下からふと見上げると、澄んだ夜空にクッキリと満月が浮かんでいるではないか。そしてその見事な満月が、私に向かって確かに何かを言ってくれたのだ。後部シートの妻を振り返ると、妻も分っているようだった。あれはジサマだと。

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わたしのタカクラケン

落選時代の話である。みかん農家の島田良一さん(故人)は地域のリーダー格だった。地盤・看板・鞄のひとつも持たずに政治活動をスタートした私としては、何とか有力者のお力を借りたくて島田さんのお宅を何度かお訪ねするのだが、なかなかお会いできない。奥さんに取り次いでもらっても、障子越しに「帰ってもらえ」と聞こえてくる…。それでもあきらめるものかと、今度は選果場にまで押しかけた夕方のことだった。ちょうど出荷時期で、ご夫婦は忙しく黙々と作業をしておられる。私は声をかけられぬまま選果場の外でただひたすらに待つ。冬の夕暮れは早く、あたりは急に暗くなり一段と冷え込んできた。(あのときの冷気の匂いを私はいまでも思い出せそうな気がする…。)しばらくして、どうやら作業が終わったようである。島田さんは選果場からヌッと姿を見せるなり「あんた、茶でも飲むか」と一言。すかさず「ハイッ!!」と返事するのが精一杯の私。お宅に上げて頂いて、さあ何と言って自己紹介しようかなんて構えていると、奥さんがニコニコしながらビールを運んで下さるではないか。島田さんはグイッとひと口つけるなり、やおら電話機を手に取って、「今、“タカクラケン”が来ちょっとよ。」と、かたっぱしから電話し始める。30分もしないうちに居間には地域の皆さんが十何人も集まって賑やかに焼酎呑みが始まった。あれよあれよという間の、まるでドラマでも観ているかのような展開にビックリするやら感激するやら。
以来、島田さんは有力な支援者として本当に力になって下さった。性格のハッキリした方で一度納得したらとことんやるというご気性だった。背が高くてにがみ走った感じの精悍な魅力があり、だから島田さんと高倉健のイメージがダブった。あの晩、島田さんは古川青年をタカクラケンと呼んでくれたけれど私の眼には島田さんこそがタカクラケンに映っていたのだ。
ご家族の皆様にもずいぶんお世話になった。地域のお祭りで酔っ払ってそのままお宅に泊めて頂いて、そのうえ翌朝は当たり前の顔で朝御飯までご馳走になり、そこから一日の活動に出かける、なんてこともあった。
私にダッチオーブン料理の楽しみを教えてくれたのも島田さんだった。野外でローストチキンを作り、ピザを焼く。パエリヤもできるしパンも焼ける。地域のみんなでワイワイ言いながら楽しむお姿を、私はずっと忘れないだろう。カッコイイ人だった。

耳を傾けて、傾けて、

“税調のドン”の異名をとった故・山中貞則先生は鹿児島県選出の衆議院議員。平成十五年、初当選のご挨拶にと、東京の山中事務所にお伺いしたときのこと。山中先生は二時間近くにわたり、戦後政治の興味深いお話などさまざまご指導くださった。なかでも、忘れられないのは沖縄の話である。
「戦争末期、アメリカ軍は、沖縄を飛び越して直接、志布志湾に上陸する作戦案をもっておった。もし志布志湾じゃったならば、今ごろオイはここに、こげんして生きちゃおらんじゃろう。沖縄の犠牲を決して他人事とは思えん。じゃっで、沖縄の皆さんの声に耳を傾けて、傾けて、傾け過ぎるちゅこっはなかち思う。」
山中先生のご逝去に際し、沖縄で県民葬がとりおこなわれ、先生に名誉県民の称号が授与されたのは、先生の心が沖縄県民に通じていたからである。
私の両親もまた志布志湾沿い串間の産なので、もし志布志上陸であったならば、私もまた今ここにこうして存在してはいまい。山中先生の言葉を胸に刻み、思いを受け継ぎ、事にあたりたい。

連合後援会長は永久欠番

井上博水先生は中学・高校の大先輩で、都城で医者をしておられた。初出馬のご挨拶に伺った私を気に入って下さって、職業上いろいろ障りもあっただろうに私の連合後援会長として絶対的支持を貫いてくださった。先生とは、中学校では退寮処分、高校では応援団長という妙な経歴まで似ていて、私は先生を親父のように慕った。ドクターとしても、つねに患者の身になってくれる頼もしい存在だったが、一方でクリニックの宣伝広告は一切しない主義で、経営に関してはむしろ無頓着のように見えた。待合室の壁紙がはがれ、ソファーのバネがバカになっていても、そんなことは一切意に介さない。わしは真っ直ぐに医の道を行くのだと宣言しておられるかのような医者っぷりであった。あごひげを蓄えられてからは、山本周五郎の「あかひげ」をもじって「しろひげ先生」などとお呼びしたものだ。井上博水先生は実に、薩摩人らしい豪快さと繊細さをあわせもつ大人であった。享年七十三歳。
弔辞
『訃報を聞いてわが耳を疑いました。つい数日前に、私の家族ともども新年会でご一緒させて頂いたばかりでしたから。(中略)「おいは古川禎久の侍大将じゃ。いつでん古川の横に立って伴に闘う!」その、いつもの先生の口癖の通り、これからの大事な場面においても、先生はずっと私の横にいて支えて下さるに違いない。私はそう理解することに致しました。井上先生とともに歩んだこれまでの私の政治人生で、もちろん政治の道ですから不遇なことの方が多かったのですが、いつでも先生は横にいて私を支えて下さいました。「この場面は山中鹿介じゃな。黙って耐えるしかない。」とか、あるときには中国の武将を引き合いに出して、「ここは義を貫くべし。傷を負っても前進じゃが。」という具合に。少年のように真っ直ぐでチョッピリ茶目っ気があって情義に篤くおとこ気にあふれた井上先生。そんな先生とともに歩めたことは、古川よしひさ、生涯の喜びであり誇りとするところであります。
いま思えば、おやっと感じたことがありました。年末に焼酎を酌み交わしたときに、「辞世ができた」と言って披露なさったのです。死しても益荒男の横にいるぞ、というような意味の歌で、聞いた私は泣きました。しかし「辞世」とおっしゃったものですから、認めるわけにはいきませんから、あえて聞き流したのです。私の不覚でした。あのときの一言一句を胸に刻んでおくべきでした。
先生いまはひとたびお別れいたします。そしてまた必ずお目にかかります。そしてそのときに、私もちいっとばっかい仕事をしてきましたよとご報告ができるよう頑張ります。どうか、その西郷隆盛のような太っとか目ん玉でご照覧あれ。』

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賢人が残したもの

「あの人なら、こんなときに何と言うだろう…」。誰の心の中にも、そんな特別な人が一人くらいはいるのではないだろうか。
親子ほど年齢のちがう小寺暢さん(故人)は落選時代の私によくアドバイスを下さった。まだまだ若く青かった私は小寺さんに随分と導いて頂いたものだ。人間や世の中をよく知る小寺さんの言葉は、いつも唸るほど的確で隙がない。今でも、何かの拍子に思い出しては噛みしめている。小寺さんのお話が聴けるのはいつも楽しみだったが、すべてを見透かされているようで恐ろしくもあった。智的でダンディ。冷徹に現実を洞察しながらも高い理想を掲げて行動する、まさに勇気と品格のある方だった。なぜか煙草はチェリーと決まっていて、「ワタシの下腹にはこれくらいの癌の塊があるんですよ…」呵々と笑いながら悠然とチェリーを吸うお姿が忘れられない。
八年がかりで初当選を果たしたのも束の間、わたしは郵政民営化法案に反対して自民党を追われた。気丈を装ってはいたが苦しい時期だった。そんな時ふと「小寺さんなら何と言うのだろう…」と思い立った。お宅にお邪魔して、仏壇の前に座り、お供えのチェリーを一本拝領する。小寺さんの言葉を思い出しながら静かに座るうちに、迷いや弱い心が削ぎ落とされていくようだった…。
その後もわたしは、さまざまな事柄にぶつかったとき「小寺さんならどうだろう…」と考える。『虎は死して皮を留め、人は死して名を残す』と言うが、賢人はわたしに言葉を残してくれた。

忘れえぬ風光

ある年の七月、参院選の応援で山形に出かけた。飛行機が庄内空港めざして徐々に降下し、厚い雲を突っ切った瞬間、目の前に突如として、鮮やかな緑一色の庄内平野が姿を見せた。ふかふかのカーペットを敷き詰めたような眩しいばかりの青田。農家が田んぼに遠慮して身を縮めるように点在している。旋回する機窓からみえる月山、鳥海山そして金色に輝く日本海、最上川、と続くパノラマの眺望。美しい。まさに息を呑むほどに美しい。生まれて初めて出逢う米どころの壮観にわたしは驚くほどに感動し、そして何故かしら原風景のような懐かしさを覚えた。
わたしは藤沢周平(山形鶴岡出身)の作品が好きだ。藤沢の描く、日本人の奥床しさや気高さ、潔さが好きなのだ。そして藤沢の物語の美しさは、あの庄内の美しさ故に生まれたものなのだと、私は密かにひとり合点している。

言語に魅せられた人

原子力技術の視察でフランスを訪れた際、日本人通訳の古多さん(仮名)に出会った。長身で長髪。しっかりした顎づきの顔にどこか遠くを眺めるような眼差し。日本人っぽさのないハンサムな哲学者という印象であった。お聞きすると、十六歳の頃にリルケの詩に魅せられ言語の奥深さにのめり込んだ古多さん。二十歳で単身ドイツに渡り、皿洗いなどでしのぎながらスペイン人女性と結婚、現在はフランスで通訳や翻訳をしながら生活しておられる。いまも一貫して言語に魅せられた人生だという。なるほど…とひとり得心しながら、異国の地で直向きに生きるお姿に静かな感動を覚えた。
シェルブールからパリへ戻る列車で会話が弾んだ。氏は息つく間もなく語り続ける。言語に関する話題は尽きることがない。ヨーロッパの童話や寓話の背景。擬音の国際比較…。幅広い分野にわたる興味深いお話が次から次へとあふれ出る。私は一言も聴き漏らすまいと一心に耳を傾ける。
「言語はインスピレーションから始まる」、という一言は強烈だった。「だから、詩は神秘性を持つのだ。」「だから、日本語は論理というよりむしろ詩なのだ…」と続く氏の熱弁にわたしは引き込まれた。この方は、人生の大半を外国で過ごしておられるが、氏の見つめる一点は実は日本なのではないか。ふと、そう感じた。
ところで、古多さんは弱視であった。若い頃に視神経を傷めたという。もちろんご本人が望んだはずもなく、きっとそれは天の仕業だっただろう。天は、言語に深く魅せられた人から、あえて視力を奪った。私にはそう思えてならなかった。

和尚と酒

月に一度必ず、東京・谷中の名刹、全生庵で座禅を組んでいる。心に溜まった垢や埃を洗い落とすためだ。学生時代に近くに住んでいたこともあり全生庵を存じ上げてはいたが、こうしたご縁を頂くようになったのは十年ほど前、大先輩である山本有二先生(衆議院議員)にご紹介頂いてからだ。平井正修和尚の全身から発せられる気に圧倒され、以来、頻繁にお会いしてはご指導を頂くようになった。「心にある余分なものを削ぎ落とすために座るのですよ」と教えられるものの、未熟な私には相も変わらず悪戦苦闘の日々が続く。
和尚とはよくお酒もご一緒させて頂く。特に何を語り合うわけではないが和尚と差向いで酒を汲んでいると只もうそれだけで良い。酒は旨く、心は清々しく日本晴れである。
 私は毎年九月、西郷南洲翁の命日にお墓参り(鹿児島市)を心がけている。一方、全生庵を開いた山岡鉄舟翁が西郷と親交があったご縁から、平井和尚もまた毎年鹿児島に招かれている。それならば鹿児島でも一献…と言って始まった酒席も今では恒例となった。霧島の鄙びた温泉宿で、窓を開け放ち、天降川の流れを聴きながら酒を酌み交わすうちに、“よし、生きよう!”と肚に力が入る。

井戸を掘った人

故・谷口勇孝さんへの弔辞より。
『……小学生の頃、礼儀正しくハキハキした女の子が転校してきました。お父さんは背筋がスッと伸びて柔らかい笑顔をされていて、私は子供ながらに素敵なお父さんだなあと思ったことを憶えています。それが谷口勇孝さんでした。
二十年の時が流れ、私は衆議院選挙に立候補するために故郷に帰ってまいりました。予想通り厳しい初陣となりましたが、選挙戦のなかで谷口さんは、さすがは元自衛官ですね、あざやかに陣営の指揮をとって下さったのです。見事な統率でした。その後の落選期間そして当選してからもずっと、谷口さんはそのお人柄と統率力でもって私を支え抜いて下さったのです。昨夜みんなで谷口さんの思い出話をしました。「責任は私が取ります」と毅然として陣頭指揮をとるお姿は、みんなのまぶたに焼き付いています。谷口さんはまぎれもなく、初めに井戸を掘って下さった方でした。
三週間前、病院に谷口さんを見舞いました。薬の影響なのでしょう、最初は会話が上手くかみ合いませんでした。けれどもしばらく両手を握っていると、谷口さんは苦しい息のなかからハッキリとこうおっしゃったのです。「絆を大事にしてください。ふるさとを守ることが国を守ることですよ…。」私は嬉しかった。生命尽きようとしている谷口さんが、力を振り絞って、私のために言葉を残して下さった。私は遺言だと思って心して聞きました…。
ご遺言の通り、しっかりと仕事をいたします。谷口さんが掘り続けてくださった井戸からコンコンと水が湧き出でて、ふるさとを潤すその日まで、御恩を忘れず精進致します。……』

部長の日課

土木建設会社に勤務する窪谷部長(仮名)の元日の恒例行事。それは工事現場すべてを廻り、地霊に御神酒を捧げ安全を祈願すること。元日なのに丸一日かけて、しかも会社の指示でもないのに毎年欠かさず続けている。「現場あればこその土木」が信条なのだ。
災害が発生すると、応急作業にいち早く駆けつけてくれるのは地元の業者さんである。十年以上も前のことだが、台風が吹きすさぶ中、雨合羽にヘルメットをかぶって部長に同行したことがあった。部長はコンビニに飛び込むなりパンや牛乳、お茶におにぎりを山ほど買いこんで災害現場を飛び回る。ダンプの運転席の窓をコンコンと叩いて「ご苦労さん!」と差入れしながら様子を見て回るのだ。真っ黒い空がゴーゴーと唸り声をあげる中での光景に、私は胸が熱くなった。
いま部長は言う。「こんな素晴らしい仕事はない。土木はよく“3K”なんて言われるがそれはウソだ。本当は感謝・感動・感激でいっぱいなんだ。心配なのは、若い連中にこの素晴らしさを伝えられてないことだ…」と残念そうに。でも、そんな部長の生き様こそが美しい。いつもそう思う。
ところで、部長が毎日欠かさない日課がある。それは独り暮らしのお母さんを訪ねること。どんなに忙しい日でも優しい奥さんと連れ立って実家に足を運ぶ。「(亡き父ちゃんと)母ちゃんがオレを育ててくれたから」としみじみ語る部長の姿に、私はいつもハッとさせられる。

二人の日本人職員

法整備支援で中央アジアの国、タジキスタンを訪問したときのこと。首都ドシャンベで、JICA(国際協力機構)の現地事務所を訪れる機会があった。こぢんまりとした質素なオフィスに、日本から赴任した男性職員が二名。限られた予算のなかで、地味に仕事をされている印象だった。
お二人から、タジキスタンの国内事情や国民の暮らしぶりを詳しく聴くうちに、次第に胸が締め付けられた。この国の抱える課題は途方もなく大きく、そしてJICAの現地予算は悲しいほど少ない。お二人の苦悩がヒシヒシと伝わってくるようだった。「自分たちにできることで、効果が最大になる事業とは何だろうか?…」お二人は考えに考えたという。考え抜いて、一本に絞り込み、最終的にやると決めた事業。それは、細々と農地を耕し、農作物を売って生活する人々に向けて、市場の取引値を知らせる事業だったそうだ。市況を知るすべがないために不当に買い叩かれるばかりの農民にとって、市況情報は必ず力になるはずだと。
決して派手ではない。けれども、そこに生きる人々の役に立ちたいと願い、その人々の目線に立って考える。そんなお二人のお姿に、胸のあたりがキューッと熱くなった。

たたきあげの人

二十年ほど前になるが、商工関係団体の勉強会で長島社長(仮名)の講演を聴いた。家業の畜産を継ぐのが嫌で、新たに商売を始めたものの上手くいかない。それでも歯を喰縛って、苦難をひとつひとつ乗り越えて、今日の事業を築きあげたという立志伝物語であった。
当時、政治を志して郷土に帰ったものの落選し、全くの手探り状態で苦しんでいた私は、講演に大いに励まされて、社長あてに手紙を書いたことを憶えている。
その長島社長と最近、久しぶりにゆっくりお話をさせて頂く機会があった。この二十年でさらに事業を拡大し、押しも押されぬ会社を創りあげた社長が、これからをどう展望しておられるのか興味のあるところだ。けれども…と言うべきか、それとも、やっぱり…と言うべきなのか。社長が切々と語ったのは、積極的な事業展開のことよりも、むしろ、失敗や苦労から学んだことを如何にして後継者に伝えていくか、ということであった。世の中は決して自分の思うようにはいかない。知識や技術だけで乗り越えられないこともたくさんある。ならば、結局は体当たりで挑戦し、そして失敗して、体で感覚を磨くしかない…と。
お話を聴きながら二十年前を思い出した。そして、この二十年の自分自身と重ねあわせながら社長の言葉を噛み締めた。