「ニュースサイトの転載」はサービス終了になりました。 自衛隊機開発秘話FSX編 FS-X(F-2)支援戦闘機の開発と教訓 2011.05.31(Tue) 1. FS-X(F-2)支援戦闘機の開発上の主要トピックスと教訓 F-2支援戦闘機(ウィキペディア) 「昭和56年度中期業務見積」で、F-1支援戦闘機の後継機としてFS-X24機の装備が記載されることになりました。 昭和60(1985)年1月29日航空幕僚長からのFS-X国産開発の可否に関する検討依頼に対して、同年9月17日技術研究本部長は「エンジンを除いて、約10年間で国内開発可能」と回答し、FS-Xは「国内開発」「現有機の転用」「外国機の導入」の3つの選択肢について検討を開始することとなりました。 その後、米国からの「国内開発」反対の圧力が強まり、防衛庁は昭和60(1985)年12月26日「国内開発」を「開発」と改め、「共同開発」に含みを持たせました。 その後の日米間の調整等を経て昭和62(1987)年10月2日、栗原防衛庁長官とワインバーガー米国防長官の間で「FS-Xの日米共同開発」が合意され、昭和63(1988)年11月29日には両国政府間の交換公文および了解事項覚書(MOU)が調印されました。 しかし米国議会の了承が得られず、最終的にF-16Cをベースとした改造開発の着手は平成元年(1989年)となりました。 平成元年(1989年)4月28日のベーカー米国務長官と松永駐米大使間のクラリフィケーションで、量産段階においても米国側にワークシェアの40%を保証すること、フライト・コントロール・システムのソースコードは日本側に開示しないこと、日本側のFS-X関連技術に米国側がアクセスできること等が合意されました。 その後日本国内では平成2(1990)年度予算での「試作(その1)」予算の要求が行われ、米国ではFS-X開発に伴う対日技術供与を巡って米大統領と米議会の駆け引きがあり、平成2(1990)年3月30日三菱重工大江工場に設計チームFSET(Fighter Support Engineering Team)が編成され、やっと本格的に開発作業に入りました。 この開発は、開発完了時期が平成10(1998)年度ではなくて、実際は平成12(2000)年6月までに延長されています。 日米間の了解覚書事項(MOU)には「FS-Xの開発を円滑に推進するため、日米間における所要の調整、協議を実施することを目的として、技術運営委員会(TSC: Technical Steering Committee)を設置する」とあり、当該委員会の日本側委員長に技術開発官(航空機担当)、米国側委員長に米空軍省調達担当次官補(空軍少将)が指定されました。 技術運営委員会は毎年日本で1回、米国で1回開催し、必要に応じて特別委員会をハワイで開催することとしました。この間の事情は、論創社発行、大月信次、本田優著『日米FSX戦争』と新潮社発行、手嶋龍一著『ニッポンFSXを撃て』に詳しく記述されています。 以後、設計から試作に進み、平成4(1992)年5月13日FS-X実大模型審査を行い、同年6月19日実大模型を日米の報道陣に公開しました。 また、同年10月22日米商務省次官代行 Ms Joan Mckentee、同年11月27日駐日米大使のマイケル・アマコストが三菱重工小牧南工場を訪問して、FS-X実大模型を見学しています。 平成7(1995)年1月12日FS-X試作1号機が三菱重工小牧南工場でロールアウトし、同年10月7日初飛行しました。 平成8(1996)年3月22日試作1号機の引き渡しが行われ、以後同年4月26日試作2号機が、8月9日試作3号機が、9月20日試作4号機が納入され、試作機4機で技術/実用試験が実施されることとなりました。 技術/実用試験では、炭素系複合材構造の主翼の一部に強度不足が見られたり、垂直尾翼にかかる荷重が過大であったり、レーダー探知距離が短かったりロックオンが外れるという問題などが起こり、「欠陥機」扱いされたこともあったようです。 しかし、逐次改修して効果を確認して、平成12(2000)年6月末で技術/実用試験を終了し、同年9月12日長官による部隊使用承認が得られ、同年9月25日には量産初号機が納入されました。 当初量産機は130機製造の予定でしたが、最終的に平成18(2006)年12月24日の安全保障会議で総取得機数を94機とすることとし、試作機4機を含め総製造機数は98機となりました。 現在も納入が続いているようですが、平成23(2011)年度には製造が終了することになっていると思います。 この間いろいろな評価がありましたが、残念なことに平成19(2007)年10月31日1機のF-2をIRAN後の社内飛行で航空事故のために失うこととなりました。 さらには本年(2011年)3月11日の東日本大震災で、松島基地所属の18機のF-2が津波のため水没したと聞いています。 FS-Xにつきましては技術/実用試験中そして運用段階の初期に各種の難問が発生して、現在に至るまでにはその後の官民の担当者の方々には筆舌に尽くしがたい御苦労があったことと推察しています。 ここでは主として平成2(1990)年3月から平成5(1993)年3月の間、私が技術開発官(航空機担当)であった期間を中心にトピックスを5点と難問にかかるトピックスを1点、そして教訓めいたことを述べさせていただきたいと思います。 トピックス1 TSCでは毎年、何らかの問題が提起され議論が絶えませんでした。 平成2(1990)年8月1日の#3TSC(東京)、同年10月15日の#1Special TSC(ハワイ)、平成3(1991)年1月29日の#4TSC(ヒル)で問題となったのは、開発総経費でした。 いわゆるクラリフィケーションで平成元年(1989年)松永駐米大使からベーカー国務長官へ書簡が発せられており、その中で米国側のワークシェアは総生産額の約40%になろうとあり、MOUにも規定されましたが、肝心の開発総経費が規定されていなかったのです。 従って米国側としては開発総経費が大きいほど40%の総額は増えるわけですし、そもそも米国の開発は日本の場合と異なって「絨毯爆撃方式」ですから、経費がかさむのは当然です。 昭和60(1985)年度固定価格で技術援助方式、つまり米国GD社からF-16の図面を購入して若干のGD技術者が駐在してその援助を受けつつ開発を進めるというものでしたが、その場合の見積もりが約1650億円でした。 しかしGD社は、技術者が日本に駐在するのみならず、米国FWで技術者がバックアップ体制を取り、さらには製造ラインを展開するという開発分担方式を取るということで約2510億円とし、これを年度展開して約3320億円になるという説明をしました。 しかし、先に述べた理由もあり、彼らの常識では戦闘機の開発は、口には出しませんでしたが1兆円規模というのが常識で、当方の説明は全く理解しようとはしませんし、まして合意には至りませんでした。 最後は、日本の開発責任者がやると言っているのだからということで押し切りました。この問題では、当時の装備局長や航空機課長の努力が顕著でありまして、航空機課長はのちの防衛事務次官の守屋武昌氏でした。 この件については後日談がありまして、GD社は技術者の生活コスト、つまり日本に駐在する技術者の支払う家賃は日本の家主に入るのだから日本のシェアだと言うのですが、これを認めると際限がないので、GD社に支払った段階で米国のシェアということで納得させました。 また技術/実用試験段階での製造会社の支援費用(Contractor's Support Fee)も40%だと言うので、これは開発試験費で予算項目が異なるため約束はできないので、記録を取ることにしようということで折り合いをつけました。 トピックス2 次に問題となったのは、装備品のライセンス生産の件です。 主契約会社三菱重工は平成2(1990)年9月頃から装備品選定作業に入りましたが、その頃私のところには非公式に「米国は装備品のライセンス生産は認めない」ようだという情報が入ってきていました。 案の定、平成3(1991)年7月18日の#5TSC(三沢)で、米国側は「開発段階での装備品のベンダーによるライセンス生産は一切認められない」と通告してきました。 当方は「技術/実用試験の飛行試験の段階で装備品に不具合が発生した場合にはどうするのか、米国企業の技術者が到着するまで飛行試験はお休みをするのか」と食い下がりました。 すると少しは理解したのでしょうか。アイテムごとに審査するということで、平成3(1991)年11月12日の#2Special TSC(ハワイ)でアイテムごとの審議を行い、最終的に96品目のライセンス生産を要求したのですが、結果は25品目のライセンス生産を許可するというものであり、平成4(1992)年2月25日の#6TSC(ミラマー)で回答がありました。 トピックス3 最後は平成4(1992)年7月21日の#7TSC(築城)および平成5(1993)年2月23日の#8TSC(エグリン)で議論となったのですが、派生技術(Derived Technology)か非派生技術(Non-Derived Technology)かの問題でした。 これは後々まで尾を引いて、最終的にはDSAA(Defense Security Assistance Agency)と装備局の折衝に委ねられたと聞いています。 派生技術/非派生技術の区分は、米国の技術を「本質的に」使用しているか否かによって決まり、派生技術と認定さればフローバックの義務が生じることとなり、FS-X以外に使用するとなると米国政府の同意が必要となるなどの面倒なことになるので、日本側としてはできるだけ非派生技術として認定されることが望まれ、米国側としてはその逆となります。 当初、米側は非派生技術はMOUに記載してある日本独自の技術、レーダー、ミッションコンピューター、慣性基準装置、電子戦機器の4アイテムのみと考えていたようであり、非派生技術であるとの挙証責任は日本にあり、日本側は相当苦労して最終的に4アイテム以外の7アイテムが非派生技術と認定されたそうです。 (2)へ続く JBpress.ismedia.jpより引用 ↓記事を読み終わりましたら、こちらにもクリックをお願いします。m(_ _)m |
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