なぜ「幸喜」ではなく「剛」だったのか。54年前の理由を、本人は知らない。
「僕の名前が柏戸さんから付けられたってことは、おやじからも聞かされていたんだけどね。でも、なんで大鵬(幸喜)じゃなく柏戸だったのかってのは聞いたことないなあ」
与田監督の「剛」は、第47代横綱・柏戸剛から付けられている。父・健児さんは野球と相撲を愛する九州男児だった。与田家に長男が生まれた1965年12月は高度成長期の真っただ中。大相撲は「柏鵬時代」を迎えていた。
当時の子どもは「巨人、大鵬、卵焼き」。対して大人の男は「柏戸、大洋、水割り」を好んだそうだ。しかし、玄界灘の荒波で産湯につかった製鉄の男・健児さんは、ごりごりの巨人ファン。剛少年が5歳のときにつくってくれたユニホームも「GIANTS」だった。左投手だった父は、自らがあきらめた野球の夢を息子に託した。左用のグラブを買い与えたが、剛少年は無理やり左手にグラブをはめ、右手で投げ続けたという。
「ちなみにおやじは右打ちだったんだよね。変わってるでしょ?」。互いに頑固で一徹。社宅前での親子のキャッチボールが、投手・与田の真っ向勝負の原風景だ。しかし、健児さんは息子が夢をかなえてくれたことを知らない。亜大に入学した1984年、長い闘病生活の末、息を引き取った。「オレの死に顔は誰にも見せるな。おまえが棺おけの横に立っておけ。家族の中で男はおまえだけだ。しっかり頼む」と息子に言い残し…。
8日は健児さんの命日だった。だから勝ちたいと思う人ではない。監督とはいつだって勝ちたいものだ。大鵬より柏戸。「剛」に込めた父の思いならわかる気がする。胸を合わさず攻防兼備の大鵬に対し、柏戸は立ち合いから押し一気の豪快な相撲だったからだ。引くな。押せが与田家の教え。再び借金9と苦闘は続く。それでも柏戸のように前へ、前へ-。