寡黙庵 2018年4月の記録        沖縄の地域調査研究(もくじ) 
                  (住所:沖縄県国頭郡今帰仁村字謝名)   
                            
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2018年4月23日(月)

 明日からベトナムへゆく(4月24日~5月1日までの予定)。主な目的は、ベトナムの港町の様子と船。それと香辛料。日本人街やかつての貿易港の痕跡がみれるか。2005年に訪れた座間味島と那覇の泊港の様子を思い出しながら。

2005年4月19日(火)のメモ 座間味村までゆく

 主な目的は慶良間海洋文化館のマーラン船(山原船)やテーサン舟(組舟)やサバニなどの確認である。午前9時発のクィーンざまみ(高速艇)はパスして、10時とまりん発のフェリー座間味に乗り込んだ。座間味島まで約1時間半。穏やかな海上だったので、しばらく甲板に出て島々を眺めながら。フェリーから泊港の現在の様子や外人墓地あたりを確認する。それと沖のリーフが切れた大和口(倭船口)・唐口(唐船口)・宮古口(八重山口)が見えるか。

【泊 港】

・安里川の右岸
・13世紀から14世紀にかけて国頭地方、宮古・八重山・久米島などの船が出入り。
・諸島の事務を扱う公館(泊御殿)や貢物を納める公倉(大島倉)が置かれた。
・近世期に漂着した中国人や朝鮮人などは泊港へ送られた。そこから本国へ。
・漂着人に死者が出ると泊北岸の聖現寺付近の松原に葬った(外人墓地)。
・19世紀になると英・仏・米国の船は泊港沖に碇泊、外人の上陸地。
・明治になると本土と結ぶ大型船や中南部や八重山からの船は那覇港へ、
 山原からの船は泊港へ。

【座間味島】

 ・座間味港
 ・慶良間海洋文化館
    (山原船(マーラン船)・サバニ・伝馬舟など)
 ・ヌル宮(ヌンルチ)
 ・鰹漁業創業碑(役場前)
 ・バンズガー(番所井戸)
 ・番所山
  標高143.5m、王府時代の烽火台が設置される。
 ・イビヌ前
   座間味集落のハマンダカリ(浜村渠)にある拝所。イビヌメーは海神宮である。イビヌメーで
    イビヌメーの話を一生懸命してくれた方がいた。
 ・高月山(座間味集落と港)
 ・阿護の浦
   進貢船や冊封船の寄航地。阿佐船・座間味船・慶留間船などの潮掛地
 ・稲崎
 ・女瀬の崎
 ・安真集落
 ・マリリンの銅像
 ・古座間味
 ・ウフンナートゥ(現在の漁港)
 ・座間味の集落
   座間味の集落は内川を挟んでウチンダカリとハマンダカリに区分される。ウチンダカリに
    古座間味から移動した集落ではないかと言われている。

【慶良間薪】(キラマダムン)『座間味村史』(上)参照

  慶良間薪は山原薪を比較され、慶良間薪は山原薪よりよく火つきがよく火力があったという。
  那覇の泉崎橋から旭橋あたりは船蔵(フンングヮ)と呼ばれ、山原や慶良間の船がやってきて薪や
  材木などを陸揚げしていた。一帯に薪や炭や材木問屋が並んでいたという。薪は泉崎の湧田や
  牧志の瓦焼きの業者が瓦焼きの燃料にした。瓦焼き用の薪はカーラダムンと呼ばれ、安里川の
  河川から水運で運ばれた。カーラダムンは松を輪切りを大割にしたもの。

 座間味の集落は古座間味からの移動か?座間味村役場の前に阿佐儀名の民宿?を見つける。山原の神アサギと同じ?


          ▲フェリーからみた現在の泊港(那覇)の様子

 
         ▲山原船(マーラン船)(慶良間海洋文化館) 
 

 
 ▲山原船(マーラン船)(慶良間海洋文化館)   ▲テーサン舟(組舟)

2018年4月21日(土)

 二人の孫が宿泊へ。雨があがっているので「寡黙庵」へミニトマト摘みへ。雨がつづいていたので、実がはち切れているの目立つ。結構甘みがある。お土産で持ち帰り。

  

 


2018年4月20日(金)

 昨日、昨日と「運天」と「沖縄の歴史」をテーマについてのレクチャーが続く。紹介する時間がないのであらためて。両者から飲み物やショウートケーキ?や魚などのお礼。ありがとうございます。

 それ、出勤。来週から10日ばかり休むので打ち合わせへ。

  

2018年4月19日(木)

 徳之島の亀津町が徳之島町に変更。伊仙町、亀津町、天城町が合併して徳之島町になったと私の勘違いがある。2009年の記録が見つかったのでそのまま掲載。徳之島町資料舘を訪問したとき、手々ノロ関係の資料を見せていただいたことがある。古文書や神衣装、そしてカブの二本簪。火災にあったのか、焼け残った神衣装や文書、二本のカブの簪。簪が焼けると銅色になるのだと。今帰仁村勢理客ノロ(しませんこのろ)の簪も焼かれたと聞いていた。同様な色をしている。

 徳之島ではノロ関係資料、辞令書、城など。伊仙町の阿権集落は古琉球と密接に関わる集落である。集落の屋敷囲いの石積みは鹿児島の武士屋敷囲いと類似している。与論城近くの屋敷囲いもそうである。

 
 ▲画像は徳之島町資料館提供(手々掘田家)            ▲提供は同資料館

2009年5月10日(日)メモ

 亀津(港)からスタートし、伊仙町の村々を訪れながら、神社と集落の関わりの視点でみることはどうかと。村々の地理感覚が不十分なため、なかなか体に落ちてこない。その中で阿権の集落は、他の村と異なった習俗や文化をもった一族の集団ではないか。村名もそうだし、阿権神社の近くにある墓地をみると、墓塔に「平」姓が数多くみられた。それと高地性集落である。石積みの屋敷が目立ち、それが阿権村の人々の気風が表れているのではないか。最初にそんな印象ではいた村である(平一族は琉球王府時代、島津藩の領地時代、さらに明治に至って豪農、大地主であったようである(「村落階層構造の史的展開」『徳之島調査報告書』4 沖国大南島文化研究所。参照)。

 『琉球国郷村帳』(1668年)や『正保国絵図帳』に「あこん村」と登場する。近くの「木之香生活館」でボール遊びをしている子どもたちに声をかけてみた。犬田布の小学生。 阿権の子供達ではなかった。阿権神社を中心として、その裾野に集落が展開しているようにみえる。グスク時代の集落形態に近いのではないか。平家文書は手にしていなが、古琉球までは遡れるかもしれないが、グスク時代まではどうか(集落の詳細調査をしてみたいもんだ。すでになされているであろう)。


          ▲伊仙町阿権神社          ▲古めかしい石垣がある阿権集落

       ▲伊仙町木之香生活館の広場で。犬田布から遊びにきたという。


    ▲伊仙町上面縄の高千穂神社          ▲高千穂神社からみた麓の集落


    ▲伊仙町面縄の坂元権現            ▲坂元権現からみた麓の集落

【徳之島】(伊仙町)

伊仙町

グスク

世之主

ノロ

拝山・ティラ山

地名など

①喜 念

アジマシ(按司の田)・按司屋敷

②佐 弁

グスクダ

佐弁神社

③目手久

八幡神社


④阿 三


浅間按司城跡

阿三は浅間・カムイ焼窯跡


⑤面 縄
 (上面縄)


ウガングスク(恩納城)・シラハマグスク


ノロ


坂元権現・高千穂神社

ウンノーアジヤシキ・クランシキ・空堀・見張所・曲輪

⑥検 福

トラグスク

ノロ

検福穴八幡神社

 ⑦中 山

 山岳城跡・中山城(ネーマグスク)

 女王伝説

 

 

 

トゥール墓 



⑧伊 仙

安住寺跡地に八幡宮と高千穂神社を合祀した義名山神社

安住寺は明治6年に廃止、石象はアガレン山へ。像は鄭迥(謝名親方?)


⑨阿 権

ウードゥ(城跡)・ターミグスク

平家に首里之主由緒記


阿権神社(鎮守の森)


八月踊り

高地性集落、石積みの屋敷、姓は平

 ⑩馬 根

 稲積城跡

 

 

 

 

 桂家・関家は士族

⑪木之香

アマングスク(天城)


⑫犬田布


ミョウガングスク


ミョウガンの按司


明眼神社

9月13日の稲作儀礼のアキムチ(ムチタボレ)

源為朝の腰掛け石・線刻文字・犬田布騒動

⑬崎 原

麦万神社

開拓村・掟

 ⑭糸木名

 

 

 いときなのノロ

 

 

 

 ⑮小 島

 

 

 

 

 

 シマの創世神話(大洞穴)

 ⑯八重竿

 
宿森(グスク)

筑登之が阿権まで水路をひく 

 

 宿森神社(源為朝を神体)

 

 

 


2018年4月18日(水)

 
徳之島は数回訪れている。市町村合併はなく亀津町が徳之島町になる。大正・戦前に東天城村の一部統合などがあるが、現在徳之島町、伊仙町、天城町ある。近世から近年にかけて整理しなおしをしないと混乱を起こしている。沖縄本島と同様な地名が多くみられ、古琉球の辞令書、ノロ関係資料、グスク、墓など。

 思い出すことの一つに伊仙町は近世は面繩(恩納)間切で、「オンナ」と呼ばれている。フェリーから眺めた伊仙町の地形が、ウンノー(オンナ)(大きな場や広場)だと気づかされた。それを沖縄の恩納村に当てはめたらどうなのかと。恩納は大きな広場のことと持論を展開したことがある。徳之島でのことである。「徳の西銘間切の手々のろ職補任辞令書(1600年)」と手々のろの辞令書、焼けた古文書、衣装、それと焼けた二本のカブの簪。(今帰仁村勢理客(しませんこ)ノロの二本の焼けた簪と焼けた色が類似)

 天城町での「徳之島と琉球」(薩摩の琉球侵攻と漂着船など)の講演。古琉球の姿が濃厚に遺っていることを強調した記憶がある。西郷隆盛の島流しの場所、西郷で国からの補助金が獲得できた例。銅山と大城などなど。

 今回は船がテーマ。

・徳之島に漂着した船と処理

・亀津村(徳之島町) 
    弘化5年亀津村沖に異国船が一艘現れ、橋船で七人が上陸、津口番所に来た後本船に戻り、
    大島方面に向かった(「徳之島前録帳」)。
・秋徳村(亀徳)(徳之島町)
    明和5年(1768)尾母村下の浦に漂着した唐船の破損した船尾を秋徳湊で修理し乗組員を帰
    帆させる。
    文化6年(1809)三月井之川湊沖に漂着した唐船一艘を牽引し秋徳湊に回し4月琉球に送り届
    ける。

・和瀬村(徳之島町)
   享保18年(1733)和瀬村下に唐船一艘が漂着、船は破損していたので捨て流し、乗組員15人
    を陸に揚げ琉球に赴く予定。
・尾母村(徳之島町)
    明和5年(1768)尾母村したの宇良御口浦に唐船が一艘が漂着し、船尾が破損しているので
    秋徳湊で修理し、乗組員26人は帰帆した。
    安政4年御口浦に薩摩山川の船が着船するが途中大風波によって難船、帆柱を切り捨て漂着
    したという。

・井之川湊(徳之島町)
   文化6年井之川港沖に唐船が一艘漂着する。
・母間村(徳之島町)
    安永2年(1773)村の沖合いに唐船一艘が漂着したが、乗組員58人は水・薪を積んで帰帆し
    た。
・山村(徳之島町)
   宝栄6年(1709)頃、金間湊(山湊)に南京船が一艘漂着、また享保6年(1721)にも金間浜に唐
    船が一艘漂着。
    嘉永2年(1849)に朝鮮人7人が乗り込んだ船が漂着、山村に11日ほど召し置き、そこから秋
    徳に移し、さらに本琉球に送還している。

手々村(徳之島町)
    元文4年(1739)手々村地崎の干瀬に朝鮮人25人乗りの船が乗り上げ破損したため、西目
    間切の与人達が本琉球に送還する。
・阿布木名村(天城町)
   弘化5年(1848)八月の大風の中、阿布木名村の干瀬に琉球に向かう観宝丸二十三反帆船
    が破船する。
・平土野湊(天城町)
   京和3年(1803)西目間切の湾屋湊を通過したオランダ船が平土野浦に向かい乗組員(84人)
   の広東人と徳之島の通事与人の兼久村の瀏献が対応、本琉球に向かう。
・湾屋湊(天城町)
   享保20年(1735)「澄屋泊り」(湾屋湾?)に朝鮮人男18人、女8人、赤子2人が乗り組んだ船が
   漂着する。
   明和3年(1766)面縄間切の浅間村の浦に唐船(23人)が漂着、湾屋湊から本琉球に送り届ける。
   享和3年(1803)オランダ船が湾屋湊を通過し土野浦に向かう。
・岡前村(天城町)
   弘化4年(1847)沖に異国船(アメリカ船か)が一艘、上陸して鉄砲で鳥などを撃って遊んだ
   あと本船に戻り西の方に向かう。


  徳之島(2007nen2gatu)

2018年4月17日(火)

 
先週から雨が続く。庭先のビワが実っている。食事のレザートに出てくる。自宅の花木を眺めながら頭の切替え。

  

 宮古から久米島を通り、徳之島、奄美大島、喜界島までたどり着きたい。2000年代に島々を踏査したことがある。その当時の体力はありませんが、それらの島々から、島々の異なった個性を拾っていく。そのつど画像に納めるが、それはノートがわり。画像のバックには必ず文章がある。

 宮古島については、沖縄本島の物差しで計るには無理がありすぎる。宮古島の歴史や祭祀などの物差しが必要だと思いがある。古事記の世界が沖縄本島を通り超して宮古島に遺っているのではないか(例えば男女神の出現や祭祀、言語など)。

 宮古島へ渡ったのは、宮古島の集落形態(狩俣)宮古島の遠見所、橋の架かった伊良部島、池間島、来間島の墓など。それと平坦地のグスク。最近行ったのは大神島。30年前に台風に追われながら行った多良間島。宮古島はテーマは別だが博物舘づくりや南静園や昭和30年代の写真アルバムのことで何度か訪れている。上野村のドイツ船のバラスト船や張水港から伊良部島への木造船での馬や車の運航。船の件で資料にあたってみるか。

 宮古島 2010年2月22日(月) メモ  宮古島砂川・狩俣・池間島
 宮古伊良部島(2012年12月)メモ

2018年4月16日(月)

 八重山(竹富町)の島々を往来する船について興味深いテーマだと思っている。竹富島の貴宝院には稲作と関わる道具類がいくつもあった記憶がある。「竹富島では稲作は行われていないのでは?」「稲作は西表まで行っておこなっているのですよ」とのことでした。波照間島に行ったとき、下田原遺跡が島の北側に面してありました。下田原城を見たときの印象は、大規模のグスクだとすると波照間島と石垣島との間に、そのグスクを要とした文化があったのではないか。それらの島々を往来していた舟がどんなものだったのか。

 貴方院には帆船があり、竹富島の蔵元から貢租を運んでいたのかと。島々の往来は刳舟やテンマー(伝馬舟)が使われていたのではないか。手元に参考資料がないので改めて。小浜島は水田あり。

    小浜島
(2006年2月の記録)
    竹富島
(2005年3月の記録) 
     波照間島(2017年10月の記録)

2018年4月14日(土)

 
粟国島の海上交通について『粟国村誌』に
  「本村は離島なる故、本島との連絡は船による外道はなかった。従って昔から船は生活物資の輸入は経済文化の
   発展上欠くべからざるものであった。
   昔の船は、五、六名乗りの伝馬船や山原船で王朝時代の貢租物や生産物資の輸送、その他番所からの公文書の
   発送等、常に危険な航海をしたらしい。特に危険な帆船は順風を頼りにするので航海は思う通りに行かず、那覇に
   行くと十日や二十日ぐらいが普通で一ヶ月も滞在した事は数多くあったとの事である」(237~238頁)と。

  「明治三十五年頃鹿児島運輸会社所有の定期船運輸丸が、離島廻りの郵便船として月二、三回廻航し、その外屯の
  発動汽船前島丸と山原船が交代で運航していたので那覇の往来も便利であった」(237頁)。粟国島には山原船を所有
  していた毛平の船、アデ門の船、ハカンヤの船があった。

 粟国島では港の水路が浅く狭いこともあり、干潮の場合は港口に碇泊させ、伝馬舟で旅客を運んでいたという。粟国島でも「山原船」や「伝馬舟」の呼び方がなされている。粟国島は別調査で三回ほど訪れている。
         
 粟国島参照

2018年4月13日(金)

 『渡名喜村史』に海上交通に触れていたのを思い出した。同史に「山原船とくり船」として海上交通に触れている。そこでも山原船のことをマーランと呼んでいる。当時の様子を一部紹介。

  王府時代から明治の世にかけては、沖縄本島と渡名喜島を結ぶのは山原船であった。山原船
  のゆきさきも年に何回かで五本の指で数えることの程の航海回数であった。本島への用務を
  おび島の役人がのる船えあったし、島で飼育された豚や牛を本島に運ぶのもその船であった。
  渡名喜薪木(タムン)として評判のあった薪木を島外に運んだり、島の人々にとって島外から
  運んでくるのも山原船であった。
  山原船は本島、渡名喜島間を定期就航していたのではなく、大島交易、先島交易のかたわら
  たまに島に寄った。その時に利用できたのである。
  山原船(マーラン船)が那覇、渡名喜の間を往来したのは年に二回程であった。旧五月と旧八・
  九・十月頃の二回であった。
  旧五月に島をでるマーラン船では主に家畜を積出し、旧八・九・十月の航海のマーラン船には
  島の人々は正月用の品々を注文した。八月の航海を特に島では八月旅といっていた。


 
山原船のみでなく地割や島の祭祀や集落などで関心があり訪れている。

  渡名喜島の様子参照(2006年調査)

2018年4月12日(木)

 2007年、10年前座間味村へ。座間味島をみることで山原(やんばる)がよく見えてくるのではないか。そんなことを考えながら島へ。遠見所、印部石、それとノロ神社(ノロ制度の終焉)などについて調査していた頃座間味島を訪れている。その時、「仲尾次政隆翁日記」(1855年)(1855年6月~12月の記録)について少し触れた。

 今回「仲尾次政隆翁日記」に触れたいのは「大宜味間切屋嘉比村宗門改帳」と日記に登場する船(舟)と船で運ぶ品々について記録されているからである。沖縄本島北部では「山原船」の往来が見られた。その頃、座間味や渡嘉敷島の船の往来はどうだったのか。そのことがテーマである。日記に登場する船名をあげると以下の通りである。座間味島や渡嘉敷島の船での交流だけでなく、宮古・久米島・永良部島・名護間切などとの往来があったことがわかる。異国船の姿が見られる。(そこに出てくる品々については別に掲げる)
 ・座間味間切安佐村之船
 ・渡嘉敷間切阿波連村之船
 ・小唐船
 ・宮古船
 ・小舟
 ・沙東丸
 ・永良部船
 ・渡嘉敷船
 ・名護間切之船
 ・座間味船
 ・慶良間之船
 ・慶留間之船
 ・安佐船
 ・安佐村の小唐船
 ・異国船
 ・久米島船
 ・阿真之船
 ・首里大屋子之船
 ・阿し阿け小之船
 ・端帆船(タンプセン)

  座間味  座間味(2007年) 渡嘉敷島(2006年)

 座間味島へゆく。座間味島には座間味と阿佐と阿真の三つの字がある。集落内を歩いていると、屋敷内に祠(殿)をつくり鳥居が建立されている。波照間島で見られたが屋敷をワー(ウタキ)にしていこうとする発想だろうか。山原とは異なる形態か、それとも山原では消え去ったものなのか。

 慶良間列島(馬歯山)、その一島の座間味島の阿護浦など経由の船舶を拾い出した一覧が『座間味村史』(下)にある。それら数多くの記事に目を通すのはお手上げである。情報の非常に少ない島の人たちが、島の前を往来する船や停泊している船を見ながら国の動きをどうみていたのか。島の人たちは「石火矢(大砲)、ウガマリンドー(拝むことができるよ)」、「唐船、ウガマリンドー(拝むことができるぞ)」程度のことだったのかもしれない。あるいは、あるだけの情報で国の動きに思い巡らしたのであろうか。

 一方、『南島風土記』(東恩納寛惇著)に以下のような記事があり、また他の資料をみても、渡唐船や楷船の船頭や乗組員が多くでており、また島と那覇港との往来も頻繁にあり、王府はある種の特別な計らいをしている。王府の動きに、自ずと敏感だったとみられる。
  島民海事に習熟し、古へ進貢船・楷船の水夫を貢し、代ふるに免船の御典を以てしたり、羽地仕置に云、
   「慶良間百姓、加子仕、方々罷渡候、留守飯米、前々は一日に付、雑石五合宛にて候処・・・・(寛文九年
   十二月丗日)


 「仲尾次政隆翁日記」(1855年)の座間味島滞在中の島の役人たちとのやりとりは、名越左源太や西郷隆盛などのことが想起される。流刑者が中央部の情報の提供者でもある。


2018年4月11日(水)

 「太平山船」の絵を「中山伝信録」にみる。太平山は先島(宮古・八重山)を指しているようだ。舟の項目に「貢船の式は、略々福州の鳥船の如し。(略)其各島の往来通載の船は、大小皆尖底にして、底板・・・・・・・」
   (工事中)

 太平山船と独木船図。

『中山伝信録』所収図より

 先島の島々につて与那国町や竹富町、石垣市のことについて振り返ってみることに。与那国島参照。

【与那国島】(2005年3月19日)記録
(15年も経っているので大分変わってるでしょう)

 明日から与那国島と石垣島へゆく。与那国島ははじめてである。これから与那国についての下調べ。地図を広げてみると、沖縄本島北部から直線距離にして与那国島までと、鹿児島県の開門岳あたりに相当する。そう見ると、沖縄県ではあるが与那国島は遠い。今回、与那国島に足を向けた理由の一つに、『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)や『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条、そして『具志川家家譜』の記事である。

 ○『慶来慶田城由来記』(嘉慶25年の奥書:1820 宮良殿内本)
   右嘉慶弐拾四卯九月、与那国島江今帰仁按司様
   大和船より被成御漂着候付、諸事為見届渡海之時、
   西表村潮懸滞留ニ而先祖由来より書写、如斯御座
   候、以上
      辰二月          用庸
   右錦芳氏石垣親雲上用能御所持之写よ里写候也 
      用紙弐拾五枚    松茂氏
                     當整

 ○『中山世譜』(附巻)の嘉慶25年条に、与那国島へ漂着した概略が記されて
  いる。
   本年。為慶賀 太守様。陞中将位事。遣向氏玉城按司朝昆。六月十一日。
   到薩州。十一月二十三日。回国。(去年為此事。遣向氏今帰仁按司朝英。
   前赴薩州。但其所坐船隻。在洋遭風。漂到八重山。与那国島。不赶慶賀使
   之期。故今行改遣焉)

 ○『具志川家家譜』十二世鴻基(朝英)の嘉慶24年に詳細な記述がある(省略)。

 薩州の太守様が中将になったときに、向氏今帰仁按司朝英(鴻基)が派遣されたが、薩州に着く前に、船は逆風に逢い八重山の与那国島に流されてしまった。翌嘉慶25年向玉城按司(朝昆)を派遣した。今帰仁按司鴻基は1816年に琉球を訪れたバジル・ホールと交渉した人物である。那覇港を出航したが、逆風にあい運天港に乗り入れ風待ちをし、運天港から出航したが与那国島へ漂着する。漂着地である与那国へである。

 与那国のことを調べている(『与那国島』(町史第一巻参照)と、膨大な情報があるが頭に入れ込めず。島に行って島の人々の個性と接することができればと開き直っている。

 与那国のことを島の人々は「どぅなん」と呼び、石垣では「ゆのおん」と呼ぶという。そのこと確認できれば、それでいい・・・。ついでに言うなら音として確認できないが、『成宗実録』(1477年)に与那国島に漂着した朝鮮済州島民の見聞録では「閏伊是麼」(ゆいんしま)、おもろさうしでは「いにやくに」、『中山伝信録』(1719年)には「由那姑尼」とある。近世になると「与那国」と表記される。

 与那国島近海が黒潮の玄関口だという。大正13年に西表島の北方沖で起きた海底火山。そのときの軽石が黒潮に乗って日本海側と太平洋側の海岸に流れ着いた様子を気象庁に勤めていた正木譲氏が紹介されている。与那国島近海を北流する黒潮本流と、与那国島にぶち当たり反流する黒潮支流があるようだ。そのことが、与那国島の祭祀や言語などに影響及ぼしているのであろう。

 与那国島について、乏しい知識で渡ることになった。すでに多くの研究がなされているであろう。それらに目を通すことなく渡ることになるが、帰ってから学ぶことにする。まずは島に渡ることから。与那国島から石垣島に渡る予定。


 与那国島、竹富島、西表島、小浜島、そして石垣市内(登野城・大川・新川)を訪れた。三泊四日の山原を考える歴史の旅となった。まずは3月20日(日)の午後と21日(月)の午前中に訪れた与那国島から(ニ、三の印象のみ)。
 
 行く前から久部良バリとトゥングダ(人升田)が気になっていた。これまで見てきた山原の土地制度(地割)と矛盾を感じるからである。与那国島における人減らし(口減らし)。人減らしのため女性が久部良バリ、男性がトゥングダが手段として使われたという。与那国島ゆきの気が重かったのはそれである。


【与那国島をゆく】(2005.03.24)

 特に近世から明治にかけての土地制度の中で、山原では人口を増やせよである(一族の繁盛と村の繁栄と祈願する)。もう少し山原の地割制度や先島でいう人頭税について調べてみることにする。与那国島、竹富島、石垣市(博物館前)の三カ所に「人頭税廃止百年記念碑」が建立されていた。まだ目を通していないが、『あさぱな』(人頭税廃止百年記念)が出版されている。山原の土地制度を実態はどうか、何か手がかりをつかんだような気分でいる。 
   
 与那国島の水田にも関心がある。谷間などにある天水田、それとやはり田原川沿いが気になっていた。川沿いは湿地帯ではないか。予想通り、今でも手付かずの湿地帯(沼地)が広い面積を占めている。近世の絵図を見ると入江である。与那国島の稲作の盛衰は山原(特に今帰仁村)の水田の消滅とことは重なってきそうである。

 与那国島を二日足らずで駆け回っての土地制度と稲作についての印象である。集落の成立ちを知るには、山原とは異なった物差しを必要としそう。

 海底遺跡、その証明は陸上部のサンニヌ台や軍艦岩や久部良バリあたりの特殊な地形が「人工的なものだ」と言える程の説明が必要ではないか。それ程大変なことだ。全くの素人の印象。

【与那国島】
 ・沖縄最後に見える夕日が丘
 ・久部良バリ
 ・久部良の集落
 ・久部良漁港
 ・久部良公民館の後方の拝所(久部良御嶽)
 ・太陽の碑
 ・沖縄県最西端の地(碑)
 ・久部良ミトゥ(池:湿地帯)
 ・久部良岳
 ・比川の集落
 ・比川の浜
 ・比川の学校
 ・ハマシタンの群落
 ・立神岩
 ・立神岩展望台
 ・サンニヌ台
 ・軍艦岩
 ・サンニヌ展望台
 ・東崎展望台
 ・ダティクチヂイ(1664年)
 ・浦野墓地
 ・ナンタ浜(祖納港)
 ・祖納の集落
 ・田原川と湿地帯と水田
 ・水源地(田原水園 1952年7月竣工碑:コンクリート)
 ・与那国民俗資料館
 ・人頭税廃止100周年記念碑
 ・十山御嶽
 ・ティンダハナタ(サンアイ・イソバ、インガン、伊波南哲の詩碑、泉)
 ・トゥングダ(人升田)
 ・水田地帯
 ・人頭税廃止百周年碑
   (大和墓と各遺跡は行けず)




2018年4月10日(火)

 船のことで奄美の喜界島→奄美大島→徳之島→沖永良部島→与論島→沖縄本島(周辺の島々、伊平屋・伊是名島・伊江島・平安座島・宮城島・伊計島・浜比嘉・津堅島・久髙島)→安国島→渡嘉敷島→座間味島→渡名喜島→久米島まで。明治までの船を追いかけて頭をめぐらせてみた。そこまでのことは記憶に新しい。久米島でプツンと途切れてしまう。

 宮古島・石垣島・竹富島(波照間島・西表島)・与那国島などは舟のことを意識しながら渡ったことがない。遠見台のことなどでは何度か訪れいる。10年余になっているので記憶が薄らいでいる。

 そんなことを思い出していると、与那国島の朝鮮の漂着や多良間島の遠見所つとめの役人の記録、宮古島の張水港で大型の木造船の建造、張水港から伊良部島への船などのことがよみがえってくる。イザ書き記すことになると訪れてみないと。先島の島々へ。

展示プラン】(ノロ殿内の遺品)


2018年4月9日(月)

 夕方二時間ほどの作業(紫外線を避ける必要があり)。途中で放棄。これから午前中進めてみるか。

 屋嘉比ノロさんの神衣装が衣装箱Lに納められている。衣装の一点一点は拝見したことはありません。一日限りの展示ができるかわかりまさんが、念のため衣装のタイトルの確認をしておきます(未確認)。衣装箱の一番上の包みに「親ノロ用 ①白地現用大袖衣 ②ハチマキ」とある。それ以下の衣装の包みにも名称が記されているのであろう。 (その確認は元に戻すのに必要) 衣装の呼び方も難しい。大宜味村のノロや神人の衣装が何点もある。今回は屋嘉比ノロさんの神衣装のみであるが、城ノロ神衣装、田港ノロ神衣装、他に喜如嘉や根路銘や饒波などの神衣装がある。それらの神衣装を通して神人が果たしてきた役割や祭祀がクニやムラを統治する手段であったり、村の文化指定にもって行く機会になれば幸いである。

 
  ▲屋嘉比ノロ神衣装を入れた衣装箱

 
  ▲昨日の作業はここまで。                 ▲今日はここまで!

2018年4月7日(土)

 頭を休めるため、寡黙庵の模様替え。真夏の西日があたるので日よけ。ダイナミックの改造をしようとしたが、体力がつづきそうにない。今日は三分の一程度で終了。自分で決めた休日も間もなく終わる。大工をしながら、頭の中では、あれこれとシェジュールの・・・・ 明日は妻の実家のシーミー。来週は寡黙庵のシーミー。
  
  ▲さて、壁をどうしようか?   ▲残してあった材料で。脚立から落ちないように。そこから望む風景はのどか!


2018年4月6日(金)

 今帰仁村玉城のノロや内グスクについて深めているのは、5月6日に屋嘉比ノロ殿内の遺品の展示会企画しているからです。主催は大宜味村田嘉里区のふるさとグラ祭りです。大宜味村史編纂室も「屋嘉比ノロ殿内」の遺品とノロ衣装、「大宜味間切田嘉里村全図」(村史蔵)の展示予定。その展示プランを練っている最中。

 屋嘉比大城家(ノロ殿内)所蔵目録(計31)(資料目録:村史編纂室作成)

①屋嘉比ノロ関係文書)(4点)
  ・屋嘉比前のろくもい御見拝之時御勤日記(同治13年か14年)
  ・屋嘉比のろくもいの荼毘に関する史料(同治11年9月2日)明治5年(1812年)
  ・先祖死亡年号写(光緒6(1880)(明治13年)
  ・証書控(明治32年(1899年)己亥6月)

②屋嘉比関係古文書(4点)
  ・大宜味間切屋嘉比村切支丹宗門改帳(己年)
  ・萬諸日記 屋嘉比村(明治13年甲戌)
  ・口達
  ・覚

③大城記補 卒業証書・教員辞令・献納金(13点)

④土地整理関係 辞令書(11点)

⑤鐵道技手 大城記補(4点)

⑥国頭街道改修工事 大城記補(1点)

⑦終業・卒業証書等 大城記光・ハル(10点)

 

 
③大城記補 卒業証書・教員辞令・献納金   ④土地整理関係 辞令書


                 『大宜味村史』(民俗編)より

2018年4月5日(木)

 大井川の下流域に古い墓がある。その中の二基の墓について確認する。一基目は障子墓と呼ばれるが、そこは平良家の明治以前からの墓のようである。平良家は玉城ノロを出す一門である。途中、ノロは他家に譲り、再び玉城の平良家に戻るいきさつが資料で述べられている。平良家から出たノロは、その障子墓に葬れているようである。数年前、台風で墓口の戸が外れたことがある。一門から調査の依頼があったが、日程があわず未調査のままである。一門はノロ墓とみているが、銘書に「平良筑登上」とあり、平良家の明治以前の方々(家譜に登場)が葬られている。明治以降の墓は別にある(調査したことがある)。そこでノロ墓はノロのみでなく一族(女性含む)が葬られている。  

 平良家については新城徳祐氏がメモを残してある(「なきじん研究10号―新城徳祐資料―調査ノート)。
 今帰仁村玉城 平良家調査(1957.11.22)

 平良家はノロを出す家であるが、ノロを継承すべき女性であっても嫁がせている。明治の平良家の系統図に「長男 平良幸行、長女玉城のろくもいツル」とある。ノロ殿内の女性が嫁いで行ったため、その継承が正当に行われていないため、それを正そうとしたのが「玉城村ノロクモイ跡職願之儀ニ付理由書」(明治35年)である。4月1日で紹介。正そうとした理由は土地整理でのノロ地の処分、それとノロに与えられた国債の受給と関係したと見られる。


  
 ▲新参家譜(泊系士族)                     ▲家譜につづく平良家の系図(明治以降)

 もう一基は、大井川下流域にある木の柱と板で閉じられていた墓である。ドゥマタの墓やアマンガーの墓などと呼ばれていた。平成十年頃、柱と板からコンクリートで閉じられている。下の写真で拝んでいる方は玉城ノロである。以前からこの写真をみていたので、そこが玉城ノロの墓ではないかと、考えていたが、岸本村(玉城)の湧川家の墓だという。湧川家は1715年に今帰仁間切の地頭代を輩出し、1715年(康煕乙未)の飢饉のとき湧川は蓄えていた麦・米・粟などを拠出し、古宇利・運天・上運天・仲宗根・平敷・謝名・仲尾次・崎山・与那嶺の9村の人民を救済した(球陽)。そのことで拝領墓として認められたのではないか。

 
   ▲大井川下流にある墓(ドゥルマタの墓、木墓) ▲拝んでいるのは故玉城ノロさん(1972年)


2018年4月4日(水)

 パッションフルーツ(果物時計草)、バナナ、トマト、イチゴと「寡黙庵」は実りの春。昨年植えたホウライカガミが育っています。オオゴマダラが時々飛んでいます。画像にとろうと追いかけるが二段、三段飛びでおいつけません。もっとゆらりゆらり飛ぶかと思いきや、結構はやい。まだ、撮影ができていない。

 庭の植物の生長をながめながら、ボーとしている時間が多い。でも、気持ちよく仕事は進んでいます。実ったものは食するというよりは、観察しながら気分転換。左肩に乗っている原稿だしはもう少し。

 
     ▲パッションフルーツ           ▲花は時計盤に似ているようだ(果物時計草)

  
      ▲隠れた位置にバナナが(夏には熟するか?)              ▲ミニトマトが数多くなっている


 ▲イチゴは時々食卓に(虫がかじっています)


2018年4月3日(火)

 先日「山原船」をキーワードで国頭村安波までゆく。2011年2月に安波を踏査している。そのころは、ムラ・シマをテーマに調査・研究を進めていた。(画像は平成12年当時) その時「山原船」について少し触れている。2011年の調査記録より。

【国頭村安波

 国頭村安波までゆく。安波について報告する予定あり。名護市から大宜味村のムラを通りながら北上。大宜味村喜如嘉から謝名城へ入る。謝名城の根謝銘(ウイ)グスクへの通りの桜並木は見ごたえがあるからである。それと1673年に国頭間切は分割し、国頭間切と田港(大宜味)間切となる。分割した直後の国頭間切の番所は浜である。そこに番所(地頭代)火神の祠がある。旧正月で拝む方がいるのだろうか。その確認で足を運んでみた。最近、拝んだ痕跡あり。12月に文化財で硯の展示会をしたので硯が頭にあり。祠の近くに二つに割れたを硯みっけ。

 奥間の金剛山の桜、辺土名の上島、伊地などの桜を見ながら、与那から東海岸へ抜け出る。目的地は安波である。安波の斜面の集落。そこには神アサギ、安波ノロドゥンチや上之屋などの拝所。そこから安波のウタキが見下ろせる。ウタキは昭和13年に神社化され、その時に桜を植えたようである。鳥居の側の一本が花を咲かせている。

 安波のウタキの前の橋が御拝橋(ウガンバシ)とある。ウタキに因んだ橋の名称だとわかる。拝原の小字があれば、それによるが、あるいは小地名としてあったかもしれない。また小字に恩納原がある。どういう場所だろうか。すぐに地名議論ができる。

 安波のウタキは山原的なウタキではない。ウタキの祠の後ろに石盛がある。どうも中南部のウタキのイベには、ムラを創設した人物を葬る習俗がある。安波のウタキもそうである。「部落の発祥は浦添間切から船でやってきたさむらい一家によって新設された」との伝承を持っている。なるほどである。つまり、安波は山原的というより、習俗は浦添からやってきた中山の文化を踏襲している可能性がある。ウタキの位置にもそれが伺える。安波川から入り、まずは今のウタキ付近にきて、それから今の集落へ移動。ウタキの場所は、最初に足を置いた場所。

 上之屋の拝所がある。そこは久志間切の川田からやってきたとの伝承がある。その一族は山原の習俗をもった一族である。すると、安波のムラは少なくとも中部と北部の集団の混合である。さらに寄留してきた南山からの一族がいる。それだけでなく、中城や今帰仁などからやってきた人達もいる。各地からやってきて出来たムラ。どのような文化見いだせるだろうか。シニグと海神神祭は山原的。それと神アサギも。

 平成12年と13年の国頭村安波のシニグのアルバムを出してみた。3月5日に国頭村安波でムラの方々と一緒に安波について学ぶことに。祭祀については、安波の方々から教わることにしたい。平成13年は安波の祭祀を行う場所が整備された年のようである。ちょうど、その変わり目であった平成12年と13年に調査をしている。

【国頭村安波

 島袋源七氏は『山原の土俗』(昭和4年)で国頭村安波のシニグについて記してある。昭和の初期と平成1213年とでは、大分変貌している。9年前の画像を追いながら、安波の方々から教えてもらった。(下の画像は与那嶺江利子さんからの提供。感謝。
  ・毎年旧七月亥の日に行う。
  ・昔は五日に渡って行っていたようだが、昭和4年頃は三日ですましている。
  ・ウィキー拝み 祭典の前夜は神人は祝女殿内に集まって祭神を礼拝する。
   それがすむと字で選ばれた男一人は神人の所へ行く。神人は男に盃を捧げる。
   ウィキーの力量徳行等を賞賛する挨拶をし献酬して別れる。
  ・祭当日 早朝から祝女は数多くの神人を従えて字の創始の神と称するヌー神(マシラリの神)を祭(ウタキ内?)、
   御酒と御花米を供えて拝む。これがすむと神アシアゲに引き上げる。神アシアゲでも同様な事をして午前中で終
   わる。
  ・午後四時頃、アシアゲの庭に神人をはじめ字内の男女の全部が集まり、祝女の指揮により一同祭神を礼拝し、
   各自携帯してきた酒肴を開く。
  ・酒宴中数名の女が男の席に行き、「私共の仲間を男が奪い取ったのは不都合である」というような言葉を申し立
   てて大騒ぎを演じつつ男を縄で縛る。古老の話によれば掠奪結婚の遺風だといっている。後は思い思いに散会
   する。
  ・ウスダイコ(三日目か)
   午後四時頃になると、各自酒肴を携えて神アシアゲの庭に集合する。この日は別に祈願もなく、神人も平服の
   ままきて、字内の婦女のウスダイコ踊りを見物する。

 
1995年のシニグ儀式と大分異なっている。民俗だけでなく歴史は生き物であると気づかされる。

 夕がた前に神人たちがヌルドゥンチに集まる。神衣装を着てウガンをする。
 ウフェーヤーの火神を拝む。旧家のウフヤーミーヤーの順に拝む。
 シマンナハからウガミ(ヌーガミ:ウタキ)へ行く。ウガミの祠はシマナハに向っている。
 祠の後ろの石積みは安波の創設の人物の墓とみなされている。
 拝殿の横に香炉があり、ミレー(海の神)に向っているという。
 ここでは拝殿(火神)と墓と香炉を拝む。
 ウガミ(ウタキ)から戻ると神人と紺地衣の女性たちが数名、アサギの座に着く。
 アサギへは階段がある(以前木で出来た階段であった)。
 男達がヒニバンタに集まってくる。
 ヒニバンタの東側は崖となっていて海が一望できる。
 神アサギの前を通るとき男達は一礼して通っていく。
 子供達が魚となる。棒をもった漁師が追い囲む。
 帆柱?を押し戻す所作
 などなど

 
     平成13年のシヌグ(神アサギで)       アサギマーでウシデークを踊る(平成13年)

 
    平成13年の安波シニグ(網の準備中)       新しくできた神アサギの前で(平成14年) 


安波のナカヌヤー?(ウガミへ向う)(平成14年)       アサギマーでの所作の一つ

【国頭村安波

・安波ノロの簪や一連の勾玉や衣装がのこっている。
・安波はマキヨ(マク)名は「おうじまく」である。
・『絵図郷村帳』に「国頭間切あだ村」とある。
・『琉球国高究帳』(1643年)には「あは村」でてこない。
・『琉球国由来記』(1713年)に「国頭間切安波村」と出てくる。
  安波巫の管轄は安波村と安田村。
  安波村のウタキは「ヤギナハ森城」、神名はカネマシノ御イベとある。
    (安波はウタキはウガミと呼び、ウタキの神をマシラジと呼んでいる)
  安波巫火神/神アシアゲ
  海神折目とシノゴ折目が一年越に行われる。
1747年辺野喜・奥村と並んで津口勤番が置かれた。
・道光30年(1850)も「国頭間切阿波村江汐掛之大和船船中之者捕付方ニ差越候足軽共、
 間切々々より夫雇入置候賃分請取候様申出候段、那覇役人より問答返答并御物奉公
 江通達之事」 
・安波の津口(港)に大和船が汐掛することがあった。
・安波川と譜久川が合流し、沖縄最大の川。洪水や暴風時の波浪による被害が多かった。
・廃藩置県の頃、我部・新垣・平識などの一族はシマナカに居住し、地人同様百姓地の配
 分を受けた。他は美作(ツラサク)に居住(屋取)。
・明治14年学校が一校あり、それは首里からきた士族が開いたもの(生徒三人)。
・明治14年の安波の戸数50戸、人口300人。明治3699戸、527人と増加。
・明治14年山方筆者11名中、国頭間切では安田と謝敷に各一人配置。
  安田山筆者・・・安波・安田・楚洲・奥・辺戸の村を管轄
  謝敷山筆者・・・宇嘉・辺野喜・佐手・謝敷・与那・伊地・宇良・辺土名・奥間・比地・浜を管轄。

・明治28年に安波尋常小学校が開設される。
・明治35年内法にあたる「川廻り規定」ができ、各戸順番で川岸巡視を行う。
  近年の規定

  ・巡視時期は畦払より湯風呂切る(10月)迄とす
  ・川廻範囲は上は高石より下は幸地原田尻迄とす
  ・巡廻実施区間家屋 福地光三郎屋より前田屋迄とし、巡視資格及責任者は戸主とす
  ・巡廻巡視時間 朝は八時より晩は七時迄とす
  ・其の他必要事項
 

・安波の経済圏は安田・楚洲とともに泡瀬や与那原方面へ。上納米は与那原経由で首里へ
・山原船は久志間切大浦港をへて与那原方面と往来した。
・『水路誌』」に安波港について「南東より来る波浪を防ぐが故に、大浦湾以北に於ける
 琉球形船の好泊地とす。港首に安波大川あり、高潮には小船を入るるを得、河により
 上流部に安波村あり」とある。

【安波の集落】

 ・安波の集落は安波川の右岸の斜面(清水山の中腹)から麓にかけて発達している。
 ・清水は草分けの家(上大屋)の右手にある。若水汲みや飲み水の汲み場となっている。
 ・上大屋のすぐ下方(前)に神アサギと安波ノロドゥンチ、中屋がある。
 ・ノロは上大屋の一門の世襲。若ノロと勢頭神の同一門から。この一門は川田からの移住。
 ・根神は南山からの移住の一族から。南山タンメー(麓にある新屋)。
   (宮城栄昌は公儀ノロが任命された時、根神であった上之屋から公儀ノロを、一門の次に古い新家系が
    根神となったという)
 ・安波の集落は上之屋から下方、西側へ展開している。そこはシマナハ(島中)とよばれ、そこから対岸の前田原、
  上流部の福地原(学校付近)へ発達している。

 安波の集落について、次のような新聞記事(「ふるさとの顔」(沖縄タイムス:196510月)がある。
  「沖縄では珍しい階段式の家並が、訪れる人の目をみはらせる。まだほとんどがかやぶきぶきだが、このかやぶきが
   かえって周囲にマッチする。伝統的な村落(集落)の趣を残し、ほとんどの観光客が感嘆の声をもらすほど。ここで
   は沖縄の各地が戦争で失ったふるさとの姿を、そのまま残している。山ぞいに家がならび、その下を川が流れて
   いるのは、沖縄ではほかに例がないといわれ、いわば理想的な村落形態だが、安波が、現在の形になったのには
   二つの理由がある。ひとつは、安波川と十三号線ぞいに流れるフーク(普久)川流域がかなり広い平坦地で、耕地
   に最適だったこと。もう一つは、二つの川が大雨のたびにあふれ、平坦地が浸水したことである」と。


     現在の安波のシマナハの集落     清水山の斜面から麓へ展開する集落部(シマナハ)


    ヒラバンタからみた安波の河口(津口)             安波川の下流域

 安波は四つの集落からなる。シマナハ(ムラウチ)が安波の中心となる集落である。シマナハはウイバレーとサーバレー、福地、メーダ、ツラサクからなる。
 シマナハ・・・雛段状の集落形態(ウイバレー:神アサギ・ノロトゥンチ・上之屋)がある。
 福地(フクジ)・・・安波川沿いの平坦地(福地)は明治10年頃から集落が形成される。
 メーダ(前田)・・・シマナハの前方、安波川を隔てた対岸の平坦地。明治10年頃から。
 ツラサク(美作)・・・サフは窪地や小さな谷間。明治30年代から開墾のため集落が形成。

 昭和40年頃の調査で安波には20の門中がある。自称する出身地はすべて安波以外の地である。東村川田・大宜味村謝名城、国頭村比地・浜・勝連町浜比嘉などである。そのことが安波の村としての祭祀に影響を及ぼしていそうである。

主な参考文献
 ・『国頭村史』
 ・『国頭の今昔』など


2018年4月2日(月)

 立ち止まって10年前の調査メモを振り返ってみる。10年でどう変わっただろうか。近々立ち寄ってみるか。歴史は生き物だと実感させられるかも。

20081021日(火)メモ

 山原の三つのグスク(名護・羽地・根謝銘)を踏査してみた。山原の五つのグスクを紹介する予定があるので、グスクを取り巻く集落との関係で見ていくことにする。グスク(ウタキ)と集落との関係で見えてくる法則性から、今帰仁グスクを見ていく。グスクを見ていく場合、どうしても御嶽(ウタキ)と集落との関係を押さえる必要がある。まずは、名護グスクから。根謝銘グスクと今帰仁グスクについては、以前紹介したことがある。名護グスクを構成している要件をあげ、さらには以下のことを踏まえて名護グスクに住んでいたという按司や世の主について触れることに。それらの作業は、今帰仁グスク(ウタキ)と集落の関係を裏付けるための予備作業である。 

・杜はナングスクやナングシク、テゥンチヂムイともいう。
・杜中腹にウチガミヤー・ヌンドゥンチ・根神屋・プスミ屋・名幸祠・イジグチなどの旧家跡がある。
・旧家跡はナングスクの中腹あたりに集落があった痕跡。

・『琉球国由来記』(1713年)の名護村にテンツギノ嶽(神名:イベヅカサ)、名護巫火神、名護城神
 アシアゲがある。七月の海神祭の時、名護巫・屋部巫・喜瀬巫が名護グスク内の神アシアゲに集まり祭祀を行う。
 惣地頭から供え物の提供がある。
・グスク内で行われる祭祀はムラ出の神人を中心に村人と関わるものである。
・グスク内などで行われる祭祀に参加するオエカ人や按司や惣地頭は、どちらかというと来賓である。
・ヌルガー/イジミガー/ダキヤマヌワク
・グスクの頂上部にあがる旧道?の途中にフバヌヒチャの拝所がある(墓がある)。
・フバヌヒチャより上の方に拝所(遥拝か)がある。
・名護グスクの斜面にあった集落が麓に移動している。
・蔵敷(蔵屋敷のことか)
・名護神社か(現在拝殿と神殿がある)
・ナングスクの神アサギ側のミャー(庭)で奉納踊りが行われる。
・宮里・大兼久・城・東江は城から分かれたムラだという認識がある。
・特に城(グスク)はナングスクとの結びつきが強い(ナングスク付近から集落が麓に移動:移動集落)。
・集落と関わる祭祀は、グスク内で行われる。それは御嶽が先行してあり、その後にグスクができる。
・ウタキがグスクとして機能するようになってもムラの人たちは祭祀を通してグスク内の拝所と関わる。
・名護按司にまつわる伝承



 
     名護グスク(杜)の遠景           名護グスク中腹からみた現在のマチ

 
 グスク頂上部への道(フバヌヒチャ付近)       グスクにある堀切の一つ

 
     グスク内にあるイベ?           グスクムラの草分けの人の墓?

 
   名護ヌルドゥンチ跡(現在)              根神ヤーの跡(現在)

 
 グスク頂上部平たん部(ミャー)にある神アサギ      名護神社の拝殿と神殿


2018年4月1日(
 
 4月スタートです。いつもの年度はじめとは異なるスタートです。のんびりと。

「玉城村ノロクモイ跡職願之儀ニ付理由書」(明治35年)と「新参家譜政姓家譜」(大宗)。家譜の一族は玉城ノロを継承した一門のようだ。

  玉城村ノカネイ跡職願い之儀ニ付理由書
  今般玉城ノカネイ職願之義ニ付理由
  奉陳述抑々玉城ノカネイ職タルヤ先々
  我先祖へ御下命相成リ其の後代々吾
  血統内ヨリ継承セシ所タリ然ルニ二百年
  前之事ハ口伝而己ニテ旧記等モ無之候ニ付
  先ツ中古我ガ六代ノ先祖ヨリ順次陳述仕候
  一、先祖武太平良(武太平良ハ六代先祖当)妹ウトヘ継承シ
     談跡職ハ
  二、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ二代ノ先祖ニ当ル)姉
     玉城村松田方へ婚家セシマカへ継承シ談跡ハ
  三、平良筑親雲上(平良筑親雲上ハ四代ノ先祖ニ当ル)妹カ
     ナへ継承シ談跡ハ
  四、本家血統内ニ敬称スルベキ人物
     ナキニテ以テ不心得己ニ前記五代ノ先祖平良筑親
     雲上姉マカ婚家松田方ノ外孫与那嶺村内間
     方ヨリ松田方ヘ養女ニナリシナベヘ仮ニ継承セ
     メ談跡職ニ於テ尚ホ我ガ血統内ニ相当ノ
     人物ナキヲ以テ前職ナベ養妹即チ松田方養
    二女マツ(前職松田マツノコト)ヘ継承セシメタリ然ルニ
    其後チ

       (中略)

    仲宗根村山城方へ引移シタルヲ以テ其跡ヘ私方
    ヨリ新ニ住家ヲ建テ談跡職ト定メタルツルヲ現
    住セシメ神社ヲ管掌セシメ居候然ルニ前職故
    松田マツ方ニ於テハ談親類中ヨリ推挙セントノ考
    案ヨリ拙者ヨリ提出致候候採用願ニ連署セザ
    ル次第ニ御座候間何前件ノ次第披□御
    洞察道ツルヘ御下度此段理由奉開陳候也

  明治三五年        国頭郡今帰仁間切玉城村拾七番地
                            平良幸通 印
                 親戚仝郡仝間切仝村拾六眼地
                            平良幸誠
                    仝上仝郡仝間切仝村廿一番地
                            平良幸佐
                    仝上郡仝間切仝村拾九番地
                            平良幸貴
                    仝上郡仝間切仝村廿二番地
                            平良幸宗