松本さん記事の続き 「THE 落とし穴」太田さんの場合 | 世界はあたしのお庭なの

松本さん記事の続き 「THE 落とし穴」太田さんの場合

テーマ:日記ではない

「不良品」発言。
一般の人間的思考で受け取ったなら、人を不良品呼ばわりって…聞いて不快にはなるかもねぇ。
「一般の人間的思考」や感情で受け取ったならね。
だけどそれが紛れもない事実だったなら、逆に現実としてしっかり受け止めるべきだと思うけどー。

さてさて、また違う視点で書こうかな。
正直メンドイけど、死角が見れないってどういうことか書くことにするわ。

やられたもんはやり返す!
あたしをお馬鹿扱いしていた野郎共に目にもの見せてくれるわ!
わっはっは!(やっとそういう気分になってきた)
でもゆかりん優しいから、自分の行いを省みて真っ当に生きたら許してあげるけどね(もう関わらんけど)。

さて。

松本さん発言は非難されてもいるようだけど、爆笑問題の太田さん発言は共感するアホが多いみたい。

太田さんの発言って、松本さんの発言と比較するためのいい材料だね。
彼、めっちゃいいタイミングで真逆のこと言ってくれてるわ。
もしかしたら「わざと」かも?(笑)
この前キムタクと亀梨くんの喧嘩の記事も読んだけど、あれも良かったね。いい対比だった。
芸能界の動きって、表面だけ見てても分からないからね。
さーて、人間はどう見る?って、問題提起にもなってんね。


太田さん発言をまず見てみる。

「犯人は自分の命を重くみていない」、「自分が思ってるような自分じゃなかったと思う」、「特定の病気ではなく、そういう思いにかられた」と、自分なりに加害者の心を分析し、加害者の心に寄り添おうとするようなことを言っている。

ここがまず一つめの落とし穴

一般の人間は、この手の発言に弱い。
大概は「優しい」、「思慮深い」と思うだろう。

確かに加害者の行動は「自分を重くみていない」ように見えるかもしれない。
しかし精神が崩壊し、「殺す」ことを心が求めていたなら、それは「自分の意思の尊重」に他ならない。
命を捨てることを軽いとみる者は多いかもしれないが、それは一面的な見方でしかない。
殺すことに執着している場合は、自分の命をそこにかける事に意義を見出だしていることもある。
そういった場合は、行動を起こし、事を成し遂げる事が、自分の命の使命になってもいて、そのために命を捨てることはむしろ誇らしいことでもあるのだ。
海外では自爆テロというものがある。
あれもそういったものである場合が多い。
他者には分からない使命感や達成感を持っていたりもするのだ。
見ようと思えば、もっと他の視点で見ることも出来る。今書いたものは一例でしかない。

しかし多くの人間は、発する言葉の柔らかさや配慮のあるように感じる言葉に気持ちが良くなり、物事の本質を深く見る前に、太田さんは素晴らしいと結論付けてしまうのだ。
太田さん自身が本心で言っているかも、深く見てはいないだろう。
本心では全く違うことを思っているかもしれないが、ウケのいいものを選んで言っているかもしれない。本当のところは、本人がどういう人間が分かっていないと分からない。
頭のいい者なら、ウケのいい発言がどんなものかは良く分かっている。

「何も感動できなくなったことがあった」、「そういう時って、このまま死んじゃってもいいくらいまで行くけど、それだと人の命も大切に思えない」
次にこのようなこと言ってたようだ。

これが二つ目の落とし穴

太田さんは犯人から離れ、自分の経験からくる考えを述べている。
自分が苦しんだことを話し、その時の自分の心の状態も言っている。
これが大きな「共感」を作る。
犯人をまず思いやった上で、次に自分の苦労話をする。
苦しんだ時の心の内を正直に話すことで(狙ってる場合は嘘だったりもするけど)、人を共感させるのだ。
人は正直に気持ちを吐露する姿に弱い。自分の苦労話だけを並べられるとうんざりするだろうが、他者を思いやった上でだと感じ方は全く違ってくる。
話す内容にもよるが、他者に共感する姿や認める姿を見せられると、単純な者は意図も簡単に共感するのだ。
多くの者は状況は違えど、それなりに苦労した経験を持つ。その時感じたものや、似たような自分の考えと重ねて、自分と同じようなものをこの人は持っているのだと勘違いする。

本来、自分の経験と犯人の行為は別物であるため、同じ視点で見てはならないし、考えてはならない。
自分がそう感じたからといって、他者もそうだとは限らないのだ。
置かれている状況は類似していたとしても、考える傾向や生まれた感情は同じとは限らない。そうなった経緯も違うかもしれない。
他者と自分が同じと思うことこそが、本来は異常的な解釈なのだ。
あくまでも自分は自分、犯人は犯人。
太田さんの発言は、自分と犯人を混同していることになる(狙って発言している場合は、かなり頭のいい人だ)。

私の知り合いに、自分の体験と私の体験を混同して、私を非難した人がいた。
その人は信仰心が強く、自身の信じる神を一心に思っていた。
自分の身に起こること全てが、神からの教えや学びであり、試練だと言っていた。
しかしそれは全く違う。
単に自分の行いを分かっていないだけだった。
彼女の場合は、自分の行動が今の結果を生んでいることに全く気づいていなかったのだ。
かつての自分の行いを悔いていた彼女は、彼女の行いと私の行いが類似していたために、私を非難した。
私の行動には、私なりの理由がある。
彼女の行動には、彼女なりの理由があるのだ。
似た行動を取っていても内容は全く違う。
自分が苦しんでいるのも、私を非難するのも、自分自身の中にそうなる原因があっただけのこと。
愚かで浅はかな者にはそれが分からない。
感情や思い込みは、視野をとても狭くしてしまう。
神を信じるのは勝手だが、信じることによって本質が見えなくなるようでは全く意味がない。
馬鹿が更に馬鹿になるだけのこと。
まずは自分の行いがどうだったのかを知るべきだろう。
名前は出さないが、本人が読めば分かるはず。
わざと色を濃くしてある。
これを読んだなら、神だの何だのの前に己を知るがいい。馬鹿者。
お前にはもう助言はしない。

次に…。
これは面白すぎる。
太田さんは天才じゃないだろうか。もしもわざと言ったとしたなら。
可笑しすぎて腹が痛くなる笑い泣き

ピカソの絵を見たのを切っ掛けに、感動が戻った。
感動して好きになり、好きだと気づけた自分も好きになれた。
そうなれたら、生物や人間の命も捨てたもんじゃないと思えた。

これね…凄いわ!ダメな見本をかなり分かりやすい形で表してる!

これが最後の落とし穴

これよくやる人いるんだよ。
うようよいるよ。
よーへい達のライブでもうようよいるよ。

誰かの言葉や誰かの行動、自然の美しさや芸術作品の素晴らしさ、レジャーやイベント等々。
この物質世界で、「感動」を人に感じさせるものたち。
こういうものがね、更に物事の本質を見えなくさせている。

太田さんの場合は、何かしらの理由があって、生きることを投げ出したくなるくらいになったことがあった。
だから犯人の心にも、そういったものがあるかもしれないと言っている。
凄惨な事件を起こしてしまうくらいの人にも、思慮深い一面を見せている。
酷く苦しいことがあったために、他者の苦しさを分かろうとする心が生まれたのかもしれない(狙っているのでなかったなら)。

しかし彼が一番見なくてはならないのは、「自分が苦しくなった原因」なのだ。
ピカソの絵で感動して前向きになるのではなく、自分自身を苦しめるものは何なのか?を知り、その原因を取り除いたり、原因から生まれている問題を解消することが、最もしなければならないことだ。
何かに感動して苦痛を一時的に和らげても、原因を知ることなく放置していると、必ずまた似たようなことで苦しむことになる。
何度ピカソの絵を見て感動しても、好きなものが沢山できても、苦しみを生み出す元になっているものが無くなるわけではない。

物質世界で多くの人を感動させるものも、心の安らぎや支えとなる宗教のようなものも、苦しみを取り除くものにはならない。
原因を自分で知り、自分自身の力で解消しなければ、いつまでも種は残ったままということ。
理不尽に虐げられて、自分では解消出来ない苦しさを受けることはある。そういった場合は無意味に苦しむことになるが、どんな時も本当に理不尽な目にあっていたかどうかは、自分自身の心の奥底まで見てみないと分からない。
理不尽に感じていても、実は自分が理不尽な行いをしていたということは往々にしてある。


愚かになるか、利口になるかは自分次第。
表面だけを見ていても、物事は何も分からない。
自分を知らねば自分の行為がどういうものかすらも分からないのだ。

松本さんは単にストレートに言ってるだけで、太田さんは裏があるかもしれないのに、何でそれ分かんないんだろうなあ。
よーへいの一部のファンもそうだけど、そういうのを「不良品」って言うんじゃないかと思うわ。
先天的なものでなく、後天的なもので不良品になった系。
凄い迷惑。