2018年5月、63歳を迎えたばかりの西城秀樹の死は衝撃をもって人々に伝わった。
追悼番組などでは、〝 ヒデキ〟の残した数々の伝説や打ち立てた記録が紹介され、その死後改めて西城秀樹という歌手の存在の大きさを人々は思い知らされることになった。
スタジアム・コンサートを日本人ソロ・アーティストで初めて開催したのはヒデキ。 いまではよく見られるペンライトもヒデキのコンサートから始まった。
「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」はテレビ「ザ・ベストテン 」で最高得点9999点を獲得という、今でも語り継がれる伝説的記録を打ち立てた。 人々の心に、さまざまなシーンでのヒデキが刻まれている。
5月16日、西城秀樹の一周忌を迎えるにあたり、秀樹と同世代のエッセイスト、泉麻人さんに〝ヒデキのいた景色〟を語ってもらった 。 泉さんのなかに、ヒデキのいた時代が次々と甦り、泉さんが綴る〝ヒデキの青春の光景〟からは、ヒデキが、時代を象徴するまぎれもない 〝トップスターアイドル 〟であったことが鮮明に伝わってくる 。
企画協力・写真提供:アースコーポレーション
さいじょう ひでき
1955年(昭和30年)4月13日、広島市に生まれる。幼少期から洋楽に親しみ、ジャズスクールに通い、エレキギター、ベース、ドラムを勉強した。 小学4年生で兄とエレキバンド「ベガーズ」を結成、中学2年生のときメンバーを入れ替え「ジプシー」を結成し、リードボーカルとなった。この洋楽通ぶりが、デビュー後、他のアイドルとは一線を画す個性となった。72年3月25日「恋する季節」で歌手デビュー。キャッチフレーズは〝ワイルド な17歳〟。「チャンスは一度」でトップアイドルの仲間入りを果たし、野口五郎、郷ひろみと共に〝新御三家〟と称された。「情熱の嵐」「ちぎれた愛」「愛の十字架」「薔薇の鎖」「激しい恋」「傷だらけのローラ」「君よ抱かれて熱くなれ」「ブーメランストリート」「ブルースカイブルー」「ギャランドゥ」など数々のヒット曲があるが、なかでも79年発売の「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」はオリコンで5週連続1位に輝き、日本歌謡大賞はじめ数々の賞でグランプリに輝いた。テレビ「ザ・ベストテン」では9週連続1位、番組史上唯一の最高得点9999点を2周連続で獲得した。また、俳優としても活躍し、映画『愛と誠』『傷だらけの勲章』、テレビドラマ「寺内貫太郎一家」「あこがれ共同隊」「つばさ」、舞台『わが青春の北壁』 『デュエット』『ラヴ』など数多くの作品に出演している。〝ヒデキ、感激!!〟 でおなじみの「バーモントカレー」のCMには73年から12年間出演した。 03年と、11年に脳梗塞を発症するもリハビリに励み、亡くなる前月まで現役としてステージに立っていた。18年5月16日逝去、享年63。
1972年3月25日、「恋する季節」で歌手デビューを 果たした西城秀樹。この日は高田馬場駅前でのキャン ペーンだったようだ。当時は、こんな立看板もレコード ショップの店先にはよく見られた。オリコンの最高位は 42位で、必ずしも順風満帆なスタートではなかった。7 月には2枚目シングル「恋の約束」、11月には振付け が付いた3枚目シングル「チャンスは一度」が発売さ れ、12月には同曲で、当時の人気歌番組「夜のヒット スタジオ」に初出演した。その後190回にわたり同番 組に出演し「ミスター夜ヒット」の代表格の一人となっ た。8月にはアイドルとしては異例のスピードで、東京・ 郵便貯金ホールで、ファースト・コンサートも開催した。 野口五郎、郷ひろみとともに〝新御三家〟と呼ばれる。
1974年、日本人ソロ・アーティストとして初となるスタジア ム・コンサートを大阪スタヂアム(大阪球場)で開催したヒデキ。その後83年まで10年連続での開催となった。そして「薔 薇の鎖」で初めてスタンドマイク・アクションを披露し、その 後、多くのロック・アーティストたちがヒデキのパフォーマンス を取り入れることになった。続く「激しい恋」は、オリコン年 間チャート8位という大ヒットとなり、「傷だらけのローラ」で、 ついにNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。トップバッター として仮面で顔を隠して登場したヒデキは、自身の発案によ り、ステージに白いスモークを湧かせるドライアイスによる演 出を紅白史上初めて行った。また、ホームドラマ「寺内貫太 郎一家」にレギュラー出演、初主演映画『愛と誠』の公開な ど、俳優としても活躍した年だった。
1978年5月には25枚 目のシングル「炎」がリ リースされた。写真は ジャケット写真撮影時 の一枚。作詞・阿久 悠、作曲・馬飼野康二 のコンビによる。
スタジアムが似合う男 西城秀樹と青春の光景
文=泉麻人
シンボリックなヒット曲74 年夏「傷だらけのローラ」
西城秀樹さんが世を去って、もう1年になろうとしている。1955年4月生まれの秀樹に対して、僕は56年4月生まれ。同時代を生きてきた人の死というのは、ひときわ切ない。
そんな秀樹が僕らの前に現れたのは、72 年、高校1年生の初夏の頃だった。まぁ、いまどきネットをチェックすれば、デビュー曲「恋する季節」・72 年3月25 日発売――なんてデータはすぐに出てくるけれど、僕は当時独自の歌謡ベストテンをノートにつけていた。独自といっても、好みの曲を自分本位に羅列するものではなく、テレビやラジオのベストテン番組のチャートを参考にヒット曲の情勢を割と忠実に記録していたのだ。
それによると、「恋する季節」が初めて登場するのは5月20日土曜日(毎週土曜日に作成していたのだ)。しか し〝番外上昇曲〟の欄に18位として記録された後、ベストテン入りはしていない。つまり、さほどヒットはしなかったのだ。ちなみに〝新御三家〟のなかでデビューの早かった野口五郎は、すでに「青いリンゴ」や「好きなんだけど」がスマッシュヒット、さらに秀樹より遅れてデビューした郷ひろみは「男の子女の子」が秋口にいきなりチャートインしている。そう、僕のこのチャートで秀樹の「恋する季節」とほぼ同時期に伊丹幸雄の「青い麦」がベストテン下位に入っているけれど おもえば当時、野口・郷・伊丹を〝新 御三家〟とする声もあったような気がする。
「恋する季節」に続く「恋の約束」 「チャンスは一度」あたりもテレビの 「ベスト30歌謡曲」なんかで見聞きしたイメージはあるけれど、派手なヒットまでは至らず、僕のチャートで秀樹の曲が初めてベストテン入りを果たすのは翌73 年の春。シングル第4弾の 「青春に賭けよう」が4月14日付で9位、 21 日付で7位にランクイン、これが最初のスマッシュヒットといってい いのではないだろうか。
……続きはVol.39をご覧ください。
INFORMATION
妻・木本美紀著 『蒼い空へ 夫・西城秀樹との 18年』 小学館から発売中 1,512円(税込)
西城秀樹シングル曲の コンプリート・ボックス 『HIDEKI UNFORGETTABLE HIDEKI SAIJO ALL TIME SINGLES SINCE1972』 5月16日発売
いずみ あさと
コラムニスト。1956年、東京生まれ。慶應義塾大学商学部卒業後、東京ニュース通信社に入社、「週刊TVガイド」の編集に携わる。84年退社後フリーランスとして新聞、雑誌などで執筆活動を続けている。 『ナウのしくみ』『泉麻人の僕のTV日記 ちょっといい84の話』『僕の昭和歌謡曲史』『東京いつもの喫茶店』『昭和40年代ファン手帳』『昭和マンガ少年』『80年代しりとりコラム』『僕とニュー・ミュージックの時代〔青春のJ盤アワー〕』『大東京23区物語』『還暦シェアハウス』『東京いい道、しぶい道』『東京23区外さんぽ』など多数の著書がある。CMソングの大家・三木鶏郎の評伝『トリロー』 が5月に新潮選書から刊行される。