”red” 昨日とは違う視点
テーマ:日記ではない
この文章を、昨日とは全く違う視点での書いてみる。
昨日はよーへい視点(神系人間)と、調和というあり方(平等の元での共存でもある)も含めて書いてみた。
今日はこの物質世界で起こっていることを踏まえて書いてみる。
自分が潰れるのは自業自得
でも大抵のヤツは人を巻き込む
この文章をそのまま受けとると、事件の加害者や被害者、苛められた者、引きこもりと言われる者、病になった者(あたしも)等々は、そういったことで自分自身がダメになってしまっても、困難を越える力が無いだけだから仕方がないということなる。
でも大抵のヤツは人を巻き込む
この文章をそのまま受けとると、事件の加害者や被害者、苛められた者、引きこもりと言われる者、病になった者(あたしも)等々は、そういったことで自分自身がダメになってしまっても、困難を越える力が無いだけだから仕方がないということなる。
そしてダメになってしまった場合は、その影響を家族等の周りの人与えてしまう。
事件を起こせば家族まで非難され、被害を受ければ家族は悲しむ。
介護が必要になれば他者の労力を必要とする。
苛めは実際は関わっていない人達も含めて、問題解決を求められる。
自分だけで終わることは殆どない。
「大抵のヤツは巻き込む」というのは、そういうこと言っている。
恐らく上記のような考え方だと、多くの人は「そういう考え方は冷たい」、「自分はそう思わない」と感じたり、「事件を起こした人や勝手に引きこもった人は仕方ないけど、病人や苛められた人とかは助けてあげるべき」と、現れ方の違いで対処を変えたりするだろうと思う。
誰もが自分の中に自分なりの「正しさの指針」を持っている。
しかし、その「正しさの指針」が、知らず知らずのうちに理不尽さを作ってしまうことを多くの人は知らない。
何故なら個によって作られたり、人間の思考の集合体から導き出されたりした「正しさの指針」は、普遍的で不変的な「平等性、公平性」によって生まれたものではないから。
最近は高齢者の事故が多発している。
その被害はとても大きいものが多い。
高齢になるとどうしても判断能力が鈍るため、事故を起こしてしまう率は高くなるだろう。
だから、判断能力が鈍ってしまう前に免許を返納するのが望ましいというのが、一般的な考え方だ。
しかしことはそう簡単ではない。
日本の社会は、健康的であり、身体が思うように動く人が生きやすいように出来ている。
建物1つ、乗り物1つをとってみても、毛の生えたくらいの配慮はあるものの、小さな子供やお年寄り、身体的不自由のある人が使いやすいものは少ないだろう。
不安なく使えるものは少ないはずだ。
国民一人一人が平等であるのが本来のあり方でありながらも、体に自由がきく者が優遇される社会になっている。
税金を払っていても、当たり前に大きな不平等があるのだ。
それは都市部でも地方でも変わらない。
本来は、「不自由な者が不自由さの少ない者と同等の生活を営める社会」が平等なのだ。
不自由な者が不自由さを感じ、不自由さの少ない者が生きやすいという状況は、弱者は下、強者は上という生存競争的なあり方と同じ。
けれど多くの者は自分が楽に生きられることを中心に考えているため(殆どが無意識)、自分にとって便利な物が出来ると喜び、そういった弱者の不自由さを見てはいない。
強者(不自由の少ない者、健常者)が上になっているとは感じていない。
国に対する要望も、多くの不自由さの少ない者(健常者)が多数派になるため、彼らが生きやすくなる整備が中心になっている。弱者は後回しなのだ。
もしも高齢者が免許を返納しても全く困らない生活が営めたなら、何の躊躇いもなく返納する人は多いだろう。返納出来ないのは、生活に関わる大きな理由がある場合も多い。
ただ、そういった高齢者でさえ、高齢者が生きやすい世の中を作ってこなかったがために、困難を強いられているという現実もある。
彼らが生きた時代も弱者は後回しにされていたということだし、未来を予測しての整備が行われていなかったということだ。
弱者にとって生きやすい社会を作るということは、他ならない未来の自分自身が生きやすくなるということでもある。
自分自身が突然病や怪我をしても、困らない生活が出来るということだ。
事件を起こした者や苛められた者、引きこもりとわれている者も、同じように社会的弱者になる。
何処かの段階で社会に見捨てられたり、理解されなかったり、理不尽な行いによって結果的にそうなっている場合が多い。
事件を起こす者の中には、緻密な計画をたて、必要なものを自ら作ったりして、犯行に及ぶ者がいる。そして成功させる。
世間はそういった犯人を単に非難するが、誰の力も借りずに成功させる犯人は、頭のいい者が多く、彼らを早い段階で救済して能力を伸ばしていたなら、日本の社会にとってとても有益な存在になったかもしれないのだ。
引きこもりと言われる類いの人達の中には、今の社会には馴染めないが、一般的な人間よりも遥かに能力の高い者はいるだろう。
能力値を問わず、引き込もっている一人一人が外に出て力を発揮したなら、それは日本にとってとても有益なことだ。
そういった生きる資源を放置し、果ては犯行に及ぶまで追い詰めてしまう社会を理不尽でないと言うのなら、愚かでないと言うのなら、一体何を理不尽と言い、何を愚かと言うのだろうか。
平等に恩恵を受けれるはずの国民が、一方は優遇され、一方は見捨てられる。
被災者もそうだろう。
一時的には関心は高くなるが、時が経てば多くの者が無関心になり、「不自由さの少ない者」にとって便利な社会を主張する。国はそういった多数派の意見を実現することに躍起になる。
失言だなんだと議員達は騒ぐけれど、そういった時間も税金は減り続けている。
そのような議論するよりも、弱者救済の社会作りに力を入れ、眠っている人材を社会に出す方法を考えるべきだろう。
失言だの、プライベートの問題だのは、場外ですれば良いこと。
マスコミを使った場ででも意見を言い合い、選挙の際に、国民に議員を選ぶ材料として使ってもらえばいいのだ。
一秒一分国の金は減り、国の生きた資源は減っている。
議員も国民も、それを心に留めるべきだろう。
ななこまは、グリーンブックという映画について、コメント欄に感想を書いている。
本人はよーへいと近い考えを持っているとか、私は分かっているという意識が何処かにある上で書いたのかもしれないが、とても不自然なことを書いていることに気がついていない。
文章の中に、「見て見ぬふりをして見下しているセレブ」というような一文があったかと思うが、それは他ならない自分のことなのだ。
セレブが映画のなかでしていたことと似たことを、彼女は私にしていたことに全く気がついていない。
それだけでなく、気がついていないために、あのようなコメントを書くに至っている。
ななこまだけではない。
かつやまーちゃん、他に名を上げた者達も同様なのだ。
りんは語気を強めるような書き方でブログで主張していたが、自分の行動の矛盾点や、物事の本質を分からずに文章化してまうと、後で本人にとって大きな痛手にもなってしまうのだ。
コメント欄でも、ブログでも、Twitterやインスタでも、ネットではないどんな日常でも、物事の本質や繋がり、盲点を見れていなければ、自分が理不尽な行いをしていたり、公平性を著しく欠いた発言をしていることに全く気がけないのだ。
人間は見てこなかった(見えてなかった)、認めてこなかったものが、今の事件や事故を起こしているということを知らなければならない。
私が名前を上げた者達は、私から受けたものではなく、自分自身が行った行為によって苦しみを作ることになった。
自分の行いがどういったものか分かっていないまま他者を非難したり、差別したり、虐げたりするということは、後に自分自身を苦しめる結果になる。
ネットでも、リアルの社会の中でも、多くの人はそういった自分に気づくことなく、他者を非難し差別している。
理不尽な行いをし、他者を利用しているのだ。
秩序というものは法によって守られるものではない。
個人個人の精神と、「分かっていない自分」を知り、他者を知ろうとする心が作るものだ。
自分の行いを正しいと思う心こそ、秩序を乱す。
私自身もまだ分かっていないことは多くあるだろう。気づけていなかったために、一言多くなることもある。それで人を傷つけたりもする。
そういった自分がいることを忘れると、私は傲慢になり、不平等を作るだろう。
誰でも変わらない。同じなのだ。
決められたことを守る これは誰にでもできる一番簡単なこと
なんでそれが出来ないのか…
この文章もそのままの解釈だと、誰にでも分かることだろう。
法律や規則、約束をまもることは誰にでも出来ることだけれど、守らない者が多くいる。
私自身も未成年の時から平気でお酒を飲んでいた。他者に迷惑をかけたことはないものの、決まりを守れていないのはそうだろう。
ただ、先の文章でも述べたように、人間の多くは物事の本質や繋がりが見えていない。もちろん、見えない世界のことも知らなかった。
その状態で決まりを作ってきたのだ。
だからそれらが本当の意味で役に立つものかというと、むしろ悪法だったりする場合が多い。
法等を作ることにより、破らない人が善人であり、常識人と解釈されることも多いと思うが、そういう者達ですら、法に触れないというだけで、気づかないうちに理不尽な行いや歪んだ主張をしていたりする。
そして、そういう者達の気づかれない理不尽な行為によって非難された者が、社会的に孤立し、果ては事件を起こしてしまうことある。
一体どちらが理不尽なのか分からない。
見えない理不尽さは法では裁けないが、裁かれる者以上に裁かれるべき悪質な行いをしている者はいるのだ。
人の心は法で縛ることは出来ない。
むしろ法で裁けないが、巧妙な理不尽者を助長させるものにもなっている。
縛る力よりも気付かせる力なのだ。
気付ける力なのだ。
法以外にも、様々なところに決まりはある。
学校の勉強はしっかりしなければならないのは誰でも知ること。
しかしこれも、所詮は物事の本質や繋がり見れない人間の考えたこと。
時代時代で必要なものはあるにせよ、特に日本の学校のあり方は柔軟性が極端に低すぎる。
その上、勉強が出来る子を作ることに終始していて(または運動)、個々が自分にはどんな能力があるのかを見つけ出せる教育は殆どされていない。
授業中の居眠りはもってのほかで、真面目に学業に励む子が良い子とされる。成績が優秀だと評価される。
しかしそれは一定の基準の元で行われた教えの結果でしかなく、それに興味の持てない子供は、たとえ能力が高くても評価されることはない。むしろ落ちこぼれのレッテルを張られたりもする。
本当に賢い者は、必要のない学びや教えには興味を示さない。
それは学びや教えの殆どを、根拠をもって理解するだけの能力が既にあり、だからこそ聞いても意味のないものだと無意識にも感じているからだ。
今の日本はそういった子供達を落ちこぼれ扱いし、評価の対象外にしている。そして、大人の作った「評価の基準」で高評価を得た勉強や運動の出来る子、聞き分けの良い子に、有能な人材として地位と名誉を贈るのだ。
しかしそういった子供達は、一定の基準の元で行われた教えや学びしか分からないために、応用がきかず力を出せない場合や、物事の本質を分からずに行動してしまう場合も多い。
他者からの教えや学びは、欠落している点が多いのだ。
物事の本質を見抜ける能力を持つ者は少ない。
見抜けないからこそ見抜く力を養う必要がある。
生きるために必要のないことを学ぶよりも、様々な経験や人との直接的な向き合い、物事をよく見る心の目を養う教育こそ、今の日本に一番必要なもの。
そして勉強に興味の示さない子の中にいる、今後の日本を輝かせる宝を持つ者。そうった子を見つけ出す力が多くの大人に必要だ。
大人が関わりすぎずに、子供達だけの力で個々の学校の色を作り上げていくことは、子供の能力を最大に引き出す子供自身が作る学びになる。
何もないところから新しいものを作り出す力は、様々なものに囚われない発想の出来る子供達が一番持っている。
世の中を日々更新する力は、子供達が持っているのだ。
それを分からずに一定の枠で評価するとは、愚かしく勿体無い行いでしかない。
大人が決めた学びを押し付けすぎることも、子供の能力の開花を遅れされたり、開花しないまま終わらせたりする原因になるのだ。
今の日本には様々な残念さがありすぎる。