戦前日本人の海外売春(1)の続き
大阪朝日新聞 1933.12.2-1933.12.7(昭和8)
スマトラ (1〜5) 南洋を描く
本社特派員 伊藤昇
大正元年だった。北都丸、旅順丸、万里丸の三船が集って南洋郵船組が出来、三月に一隻電気もない怪しげな船で香港、シンガポール、バタビア、スラバヤと一ケ月もかかって通った。『日本船が入るげな!』と娘子軍達が日の丸の小旗片手に港に集ったのはそのころだった。
・・・そこでメダンの邦人発展史をのぞくと、日清、日露、世界大戦の三つの戦争が発展の段階を作っている。ブラワン港もなく、メダンの町も草原だった時に支那人ジヤンクでラブワンに渡って来たのは勇敢な娘子軍だった。まず南洋渡航としては早い部分、その娘子軍が蓄えた金を戦争のたびに献金したり故郷から身内の男を招いて次第に発展の基礎を作ったわけで、日露戦争当時からここに雑貨店を出している人々も数軒未だに続けている。
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満州日報 1934.4.21-1934.4.29(昭和9)秘境三千里を行く (1〜7・完)(西藤特派員発)開魯県はもと東西札魯特旗と阿魯科爾沁旗に属する沙草の地であったが・・・在住の日本人は満洲国官吏、満鉄社員、駐屯軍を除けば十数名で雑貨商一、旅館兼料理業一である日本人の生活物資は多くは通遼から運ぶので飲食物も満鉄沿線と殆ど変らない、興安省南部の日本娘子軍の第一線は且っては林西にまで進められていたそうであるが現在では開魯を第一線としており此処から奥地へは一人も入っていない、開魯唯一の日本料亭幾代には六人の日本人酌婦がいるがその中の二人は昨年七月に熱河省から沙漠を越えて林西に巣を構えて稼業中二千の部下を擁する兇暴無比の大匪首呉芳山に襲撃されモーセル銃を両手で突き付けられながら 馬鹿野郎つ!ピストルが怖くて奥地の稼業が出来るかってんだ見損うと承知しないよ とばかり小気味の好い啖呵をきって流石の頭目呉芳山をして遂に引金を引かせなかったという秋田県生れの凄い姐御がいる 電灯のない開魯の街の冷たい土家屋のアンペラに座って二分芯のランプに照らされて聴く沙漠の蔭に咲く大和撫子の思出話はその一つ一つが血て彩られた恋と闘争の冒険小説である
神戸新聞 1934.8.14-1934.8.19(昭和9) “日本海時代”の花形 (1・3)本社延吉特派員 村瀬要治郎(1) 東満洲の国際都市『図們』の発展 一躍世界注視の交通要衝に(3) 酷寒零下の唄は当らぬ 内地よりも凌ぎよい図們以上のうち三万余市民の一日の汗と油の労働に桃色の慰安を提供する花柳界及びカフェー界の娘子軍の内訳は女給が内地人一七一名、鮮人八一名、芸妓内地人四九名、鮮人八名、娼妓内地人二四名、鮮人七〇名、満人四七名合計四五〇名の日、鮮、満の娘達が鎬を削って物凄い嫖客の争奪戦を繰りひろげている
報知新聞 1934.9.6-1934.9.12(昭和9)
風雲の満露国境
大黒河にて 松山特派員記
大黒河にいる日本人の大多数は工事関係者である、勿論県庁にも県参事以下の日経官吏もいれば税関の日系官吏もある、この外国境警察隊の日系巡査や、外務省巡査もいるが、それ等の数はいうに足りないが、六百人の中にいわゆる娘子軍が百名以上もいるから大したものである 東京会館などという洒落れたカフェーもあれば、菊屋、角屋などという料理屋もある、宿屋も三軒程あって何れも日本人の経営である、面白いことには宿屋には芸妓もいれば酌婦も抱えている、宿屋と料理屋とカフェー、食堂、待合とが同居しているのだから便利なこともあり、便利でないこともあるというもの 物価の高いのは交通不便の関係から止むを得ないとしても、日本人の商人が暴利過ぎるという話をちょいちょい聞かされた、・・・
当地には慰安機関としては何も持たない、従ってその日の活動に疲れた連中はカフェーや料理やへ行く、だからその方面は相当発展していること申すまでもない、百余人の日本娘に朝鮮娘も二三十人もいるようだが、芸妓などは前日から予約しておかないと間に合わぬというのだから東京あたりでお茶を挽いている姐御とはちょいと違うようだ、この娘子軍あるがために、遠く故国を去って国境の第一線でトーチカからのぞいている機関銃の前でも、死なば諸共の大勇猛心で活動が出来るというものだ、娘子軍こそは大陸進出の先駆者であり、勇敢なる紅子群である 彼女等は内地から直接送られて来たものもあるが、チチハル、新京、大連あたりから更に大陸を泳いで来た者が多い 大黒河は大都会だよ と聞かされてハルビンから薄暗い三等室に送り込まれて十二日間溯上して上陸する、出発する時に彼女等が抱え主からもらう金は大概三百円以下である、彼女等は佐賀弁で気焔をあげる 妾達はここまで来た以上戦争を見て帰ります、日本の兵隊さんと共に最後まで踏止まります、兵隊さんが更に進出すれば妾達も一緒に行きます、妾達これでもレッキとした大和撫子なんですもの、祖国意識は内地にいる同輩より強いんですよ 記者は彼女等のけなげな態度に胸を打たれてしまった
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満州日報 1934.11.25(昭和9)
首都大新京水の源 浄月潭工事進む
昼夜兼行完成を急ぐ貯水池 生れる新京の一名勝
偉いもんですぜ、誰を相手にするかこの工事の忙がしい時は日本の娘子軍の群が裾をひっからげ満州狗と喧嘩をしながら店を出していましたがね、大の男も顔負けの形でさあ、つい此間まで居りやしたが商売にならんと見えて街の方に帰っちまいましたよ
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満州日報 1934.12.23(昭和9)
新興大黒河は伸び旅舎の一夜に十円札が飛ぶ
交通地獄から救われる
黒河にて 豊村特派員稿
日本人が七百に垂んとするに驚異の眼を以て市街を一瞥すれば、何と御料理、カフェーなどの看板のオンパレートだ、ジャズが、嬌声が街路に洩れてくる、シベリア出兵当時も在留邦人四百の過半が娘子軍であったといわれ、今また眼のあたり此の情景を見るに及んで、その大胆にして健気な意気に敬服すると共に幾多の哀話と情史が描く醜い明暗双曲線に面をそむけたい。
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台湾日日新報(新聞) 1935.10.22-1935.10.24(昭和10)
タワオに殖産組合設立
北ボルネオ邦人が団結
同組合理事 田中伊平
此処に日本人が発展したそもそもの元は、矢張娘子軍にありますが、今から二十年程前に、久原の護謨園(今の日産)と三菱の椰子園が時を同しうして創設されてから、本格的な発展の道程に入ったものと思われます、
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満州日日新聞 1936.6.23-1936.7.2(昭和11)開拓地を行く佐野特派員その夜我々はチャムスの市について一番古くから知っている町の或る有力者を招き晩くまで町の種々相について聞いたが彼は"此の町で邦人が一番先に進出して来たのは何んと言っても料理店経営者で今では日本人の料理屋が七軒、カフェーが二十八軒もあり、芸酌婦が八十名、カフェーの女給が百名その他二十名、合計二百名の娘子軍が第一線に活動する男達の背後を慰めていること"などを特異の現象のように語った、
満州日日新聞 1936.8.10(昭和11)
事変直前に比べて五十八倍の膨張
”北進日本”の豪華図絵展開 近代都市建設に邁進
斉々哈爾はもと八旗駐坊のため建設された都市である関係上、住民の五割は満州旗人、二割は回教徒によって占めていたが、民国三年に墾戸招待所を設け移民の入植を奨励した結果、漢人が雪崩打って押寄せ、遂に実勢力において主客転倒するに至った、漢人は山東、山西、河北三省の出身者が大部分を占めている、明治三十八年に商埠地として開放せられ、四十一年に日本領事館、大正十一年に満鉄公所の開設を見た結果、事変直前には内地人百二十三名、朝鮮人三百九十名を数えていたが、東北政権四天王の一人、万福麟の圧政をうけて日本人の存在は実に寥々且惨澹たるものであった、斯くして満州事変を迎え、昭和六年十一月十九日、多門師団の精鋭は馬占山軍を江橋に撃破し、懸軍長駆斉々哈爾に入城した、多門師団の吹奏する進軍喇叭を合図に、娘子軍、御用商人たちが第二陣として進軍して来た、これを契機に斉々哈爾(チチハル)は大都市建設の黎明を迎えたのである
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報知新聞 1936.10.28-1936.11.11(昭和11)
ダパオ踏査記(西原特派員)
当時ダバオには日本の娘子軍が九十名からも居て、一時間のショート・タイムの歓栄が六ペソから七ペソという一日の労賃よりも遥かに高価で‐しかもこれが朝から夜にかけて押すな押すなの盛況であったそうな・・・かくの如く渡航者の考え方が大いに違って来た、従って目下栽培者のふところは皆ホクホクものではあるがその割合に金を使わないので町の景気は出ない、それに渡航者としても外務省の方針として娘子軍の進出は体面上面白くないという理由から全部送還し、目下ダバオでは全然その影をひそめてしまった事も町の景気を少からず殺いでいるようだ、
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大阪毎日新聞 1940.9.16-1940.9.18(昭和15)
現地邦人に仏印を聞く (上・下)
一九二四、五年ごろ初めて海防に日本領事館が開設され中村修(すでに故人)という人が初代領事としてやって来ましたが ・・・この中村さんが来てから例の娘子軍が跋扈することは国家の体面上面白くないとフランス人と正式に結婚したもの以外他に正業のないものは全部送還することになりました、大戦が終ると三井、三菱とも河内の店を引揚げましたが海防ではホンゲイの石炭、サイゴンではゴムと米と玉蜀黍の取引があったので三井だけはそのまま店を存置して今日に及んでいます
末松氏
娘子軍弾圧がはじまると海防(ハイフォン)、河内(ハノイ)におった邦人たちも次第に地方へ入って農園で働くとか、独立して雑貨店を開くとかめいめい新生面を求めて分散してしまったのです、つまり仏印邦人の一大転換期が来たわけです、
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報知新聞 1940.11.23(昭和15)
英領ボルネオを見る (上・下)
タワオにて 佐々木特派員発
日本人のボルネオ入植の由来は約四十年前にシンガポール、香港方面に居た日本人娘子軍が渡来したのに始まり、その後日本人の入植するもの漸次増加し、椰子、ゴム、マニラ麻等の栽培、その他水田、漁業に従事する者が次第に多くなって来た、
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東京朝日新聞 1942.1.24-1942.2.1(昭和17)シンガポール座談会 (1〜8)本社シ港と日本との歴史的関係等についてお願いいたします千田氏古い関係は判りませんが、しかし現実の関係は娘子軍です、恐らく明治九年代に行っています、全盛時代には五百人も居ったのです飯塚氏いや、その五六倍もおったよ、私らがみるところによると日本の政府には、南へ行って適するか、南へ行く日本人をどうするかという方針は、なかったろうと思う、だから古い歴史は別として最近三十年位のところを見ますと流れ流れて偶然定住したという簡単なことでやはり華僑の行き方の一部と似ていると思う 明治四十年頃に三五公司が渡った、前に台湾で仕事をやり、対岸の厦門で仕事をやった関係から、南洋のゴムに目をつけたのです、その頃ゴムは一ポンドで三十二、三セントというのが二ドル何十セント、三ドルというような時代ですから、そこで三公司を与してはじめたのがゴム園であった、ゴム園さえ作ると、とに角企業の形になる、ゴムは失敗がないからわれもわれもと行った、そういう意味で日本が進出したのだろうと思う千田氏それは日本の資本および企業の進出だ、最初は娘子軍が元です、マレー半島に二千おった時代があった、これは九州の天草の女が娘子軍として出て行ったのです、娘子軍が行くと着物が欲しいから呉服屋が出来、百貨店ができる、病気に罹るからお医者さんが来、世話焼きが出来る、土地を買うため通弁が出来る、明治四十年には三井物産しかなかった 三井の支店がはじめて出来たのは明治二十年位じゃないかと思う、そうしているうちに今のようにゴム五園が開けた、約二億近くの資本がいった、日本人が南洋の経済上に地歩を占めたのは、この前の世界大戦で、その時に内田商事が来る三菱が来るー台湾銀行だけはその前にありました、明治三十年代でしょうーさらに鈴木が来る、あらゆる貿易商が来た、世界大戦を区切りとして、驚異的に日本人の商売上の勢力が増して、今度は第三国との貿易をやり出した、
報知新聞 1942.2.26(昭和17)
スマトラ夜話 (第一話〜第五話)
その後スマトラと日本人との関係は不明なのだが、明治も二十年代になってマレー方面に多勢いた島原女カラユキさん達が何人かパレンバンやメダンに入国し始めたことは、明治二十九年来メダンに住む邦人の長老植田益雄翁の話によって知ることが出来る、それからぽつぽつ男子群も入島商売をする者が出始めた
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矢津昌永「朝鮮西伯利紀行」明治27年1月13日発行 ※1894年
浦盬を出発す
八月十日快晴、朝八十四度(熊本七十六度)。当市第一流の商店なる独逸アルペルス商館に至り、種々買物をなし、又蛮子の市場に於て、物品数点を求め、夫より貿易事務館、に至りて告別す、川邊、鈴木土橋等の諸氏に送られて、支那の赤猪牙舟より東京丸に乗組めり、同船者は小森、加藤、川田の三氏、及び仏人美好(G.Bigot)氏と、共に五名とす、他等の室には。日本人二十二名、支那人凡そ百名、朝鮮人十六名乗組めりと云ふ
醜業婦
艀船に婦人の一連の乗するもの両三艘あり、諦視すれば皆日本婦人にして、即ち所謂醜業婦なり、彼等今顧客を本船に送りしものなり、其粉粧を見るに、束髪にして洋装するものあり、或は大柄縞の日本服に、細帯を締むるものあり、視然耻る色なく、揚々支那語を放ちて、舟を隔てゝ蠻子の舟子等と戯談す、醜躰見るに堪へず、然れども万里の波濤を踏んで、未知の境に入り、言語不通の異物を相手として。彼が財嚢を絞り、跋扈跳梁するに至りては、其勇に驚かざるを得ず、何れの外人も。我醜業婦には常に一目を譲ると云ふ。而して有髯男子は、却て猫額大の内事にのみ汲々して、身自ら洋波を踏んで、富を外邦に覓むるが如きは稀なり「日本男児は、終に女子の勇に若かざるや」とは、当港一般の評なりと聞く
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766904/60
岸本能武太「倫理宗教時論」明治33年9月19日発行 ※1900年
第七「日本は世界に醜業婦を供給す」
聞く海外に一種の流言ありて、少くとも或る社会に於ては殆んど一の諺をなせるものゝ如しと。其諺に曰く「支那は世界に労働者を供給し、日本は世界に醜業婦を供給す」と。・・・
吾人を以て之を見れば、斯の如き流言の世界に伝播するに至れるには、少くとも内外二個の争ふべからざる事実之が根拠を為さずんばあらず。何をか内外二個の争ふべからざる事実と云ふ。曰く、苟くも航通の便の開けたる処には、米国と云はず濠洲と云はず、我商人より先きに我醜業婦の渡航しつゝあること、是れ外部の争ふべからざる事実なり。曰く、我国に於ける男女間の道徳の極めて陋醜にして、外国人をして我国を淫楽国なるが如く思はしむるものあること、是れ内部の争ふべからざる事実なり。
(一)、之を広く海外を旅行せる人々に聞くに、苟くも航通の便ある処には、至る処殆んど我国の醜業婦を見ざるは稀なりと云ふ。日本商人の未だ行かざる津々は多からん、日本業婦お居らざる浦々は多からざるなり。我政府は固より醜業婦の渡航を厳禁しつゝあり。然れども元来醜業婦となる程のもの、又醜業婦渡航の周旋を熱す程のもの、如何でか奸智に長ぜざらん。されば政府の厳禁に係らず醜業婦の海外に渡航するもの日に月に其数を増加しつゝあるなり。所々方々に在る我国領事の報告は始〔ママ〕んど常に醜業婦の事を含有するにあらずや。斯くして朝鮮支那等の近き国々は云ふも更なり、印度、濠洲、南北アメリカ、又アフリカ等の港湾に至る迄、我醜業婦は至る処に群を為して返って得色あるものゝ如しと云ふ。而して此等外国の人々の多数は、日本を知り又日本人を知るに、先づ醜業婦より知り始むるが故に、彼等は自然に醜業婦てふ眼鏡を通して日本を見るなり。是に於て乎此等の人々、即ち他の方法によりて我国の事を知る能はざる人々が、日本は醜業婦を出す国なりと結論するは、強ち無理とは云ふべからず。曲は彼にあらずして寧ろ我に在るにあらずや。
吾人は速かに適当なる取締規則の発布せられて、遅れ馳せながら、此上醜業婦の為めに我国民全体が誤解と汚名を蒙むることなからんことを欲して止まざるなり。一方に醜業婦ありて我国の面に泥を塗る以上は、如何に他方に面目を維持せんとするも、遂に難事たるを免れざるべし。醜業婦は実に我国の耻辱なり害物なり国賊なり売国奴なり。然れども翻って考ふれば、兎も角も我国は斯く多くの醜業婦を世界に供給しつゝあるに相違あらざれば、責任の幾分は、否な大部分は、醜業婦よりも寧ろ醜業婦を出だせる我社会に在りと云はざるべからず。風見は風の方向を示す。醜業婦の多きは我社会道徳の陋醜を証明するものにはあらざる乎。斯く考ふれば吾人は実に自ら省みて慙愧と慷慨とに堪えざるものあるなり。そは我社会道徳の卑劣なる、我社会は醜業婦を出だせりとの非難を免かれざるものあるを知ればなり。
(二)、我国今日の社会道徳は果して醜業婦を出す程卑劣陋醜なりや。外人あり、日本は醜業婦を出だすが故に其の社会道徳の程度も亦推知すべきのみと云ふものあらば如何。固より醜業に従事するものは日本の醜業婦のみにはあらず、野蛮国にも半開国にも又文明国にも、各々其国固有の醜業婦あることは、古今万国の定数なるが如し。故に単に醜業婦を出すが故に、日本人の道徳は悉く醜業婦的なりと云ふものあらば、是れ実に非常の誣言に相違なし。又真逆斯くの如き臆測をなす人は、少しく思慮ある人々の中には之あらざるべし。然れども日本に於ける男女間又夫婦間の道徳は果して清潔なり高尚なりと云ふを得べきや、泰西文明国の道徳に比して毫も遜色無きか。試みに外国人にして我国に在り、位置より云ふも職務よりも、道徳上責任の重き人々の私行を看一看せよ。或は諸外国公使館の役員の如き、或は諸官省諸学校雇ひの外国人の如き、或は居留外国商人の如き、彼等の本国に於ては彼等は決して敢て為し得ざるが如き醜行の屡々新聞紙上に現出するものあるにあらずや。又新聞紙上に現出するに至らずとも、彼等の醜聞は屡々吾人が耳にする処にあらずや。文明国の公使にして蓄妾するもの多しと云ふにあらずや、有名なる詩人にして醜聞を流せるものあるにあらずや、学生の模範たるべき教師にして道徳上頗る素行の修まらざる者あるにあらずや、姦淫せりとの嫌疑を蒙り本国に住み得ずして我国に逃れ来たれる美術家ありと云ふにあらずや。此等の例は殆んど枚挙に遑あらざる程多数のことなるが、此等は一方に於ては、如何にも此等の不品行なる外人の本国即ち所謂文明国の道徳が、如何に彼等を根本的に感化するに力なきを証すると同時に、又他の一方に於ては、此等の人々をして本国に於ては敢て為し得ざる程の不品行を為さしめて、而も之を咎めざる我社会の道徳の陋醜なるを示すものにあらずして何ぞや。不品行を為すは為す外人の責任なり。然れども本国に於て為し得ざる程の不品行を為さしむるは、我社会の責任にあらずや。若し此等の学問あり地位ある外国人に取りて、我日本国が宛然淫楽国たるの実あらが、其他の無責任なる不道徳なる外国人が我国を淫楽国視するは、必ずしも無理にはあらざるべし。
今試みに我国人間に於ける男女間の道徳に就て考ふれば如何。上は大臣宰相より下は職人車夫に至る迄、夫婦間の道徳は極めて弛廃せりと云はざるべからず。我国に於ては登楼蓄妾は殆んど善悪の問題にあらず、単に貧富の問題なるが如し。蓄妾せざるものは多からん、サレドモ我国人中曾て一度も己れの正妻にあらざる婦女に接せざるもの果して能く幾何人ぞ。多情宰相あれば姦通次官あり、放蕩書生あれば遊冶丁稚あり。芸妓娼妓の跋扈するあれば、目懸手懸の横行するあり。建築物の尤も壮大にして出入者の尤も頻繁なるは遊廓と監獄とにあらずや。泰西の文明社会に於ても遊廓なきにあらず又芸娼妓なきにあらざるべし。然れども社会の道徳的制裁に至りては彼我大に同じからざる処あるなり。宜なり、久しく我国に在留せる一米人が或る外国新聞への投書中に於て実に左の如く云へるや。曰く。
日本の政治界にて最も重要なる位置を占め、愛国者として世人の許す人にして、常に不潔なる妓婦と戯れ遊ぶことあるも、何人も之を非難せざるなり。此一点に於ては日本と泰西の道徳とは大にその趣を異にするなり。ブレッキンリッヂの如き人も日本に於ては安然にその位置を保つことを得べし。女子には淫行の罪を咎むることあれども、男子は殆んど如何なる淫行を為すも自由なり。如此は開明諸国に於て決して許すべからざることなり
と。日本の社会道徳に関して此種の感想を懐くもの決して此一人に止まらざるなり。されば日本に来る道徳上責任ある外国人の稍もすれば醜行を為し醜聞を流すは、云はば其の責任の半ばは我社会道徳の陋醜なると制裁の無力なるとに帰すべしと云ふものあるも、吾人は之に対して如何に弁疏し得べきや。若し又我国が多くの醜業婦を出だすは、其責任醜業婦其者よりも寧ろ之を出だす日本の社会に在りと云ふものあるも、吾人は殆んど之が弁解の辞に究〔ママ〕するものあるべし。
若し世界の労働に従事する支那人が憫むべきものなりとすれば、世界の醜業に従事せんとするものは如何。如何にも腕力的労働は脳力的職業に比して下等なるべく賤業なるべし。然れども共に是れ世界の進歩の為め必要なる職業にして神聖てふ形容詞を冠らしめ得べきものなり。之に反して醜業は何処迄も醜業に相違なく、遂に神聖なるもおにあらず。吾人は「世界に醜業婦を供給す」と云はれんよりは、寧ろ「世界に労働者を供給す」と云はるゝを欲す。吾人は支那人が世界より労働者供給を特色なりと思はれたるを憫むと共に、一層我国が醜業婦供給を特色なりと思はるゝを耻ぢざるを得ざるなり。若し此の流言にして無根ならしめば則ち止む。苟も内外に於て此の流言をして根拠あらしむるが如き事実あるに於ては、吾人は慙愧と慷慨とに堪えざるなり。我国の宗教家、道徳家、社会改良家を以て任ずるもの豈に自省自決する処なくして可ならんや。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758620/32
大橋乙羽 (又太郎)「欧山米水」明治33年12月廿●日発行 ※1900年
新嘉坡
四月十八日船新嘉坡に着きたれども…(p40)
醜業婦
われ等は背広の飾気もなく、嬉々として一卓を囲み、ビールの酔に壮語するを日本語知らぬ白人の、奇しき眼もて見詰むるもありき。食果つれば案内者の来りて誘ひ行くまゝ海岸に沿ふて進めば、支那人の家軒を並べて賑はしく、市場は戸を鎖して人無ければ、只ある横丁を曲るに、こは如何、日本醜業婦が恥を露らしつゝあるを見る。その家四五十戸もあらんか、戸々八九人を抱へ、主婦戸口にありて、遊客を呼ぶ声囂しく、娼婦多くは友染メリンスの単衣に、黒朱子の襟つけたるを着け、髪は前毛を断りて、鏝もてつゞらし、足には黒き靴下を穿きぬ、客は白人最も多く、支那人もまた打交れり。その娼婦の数を問へば、日本人殊に多くして、その数四百に余るべく、欧人も南京も顔色無しとか、その一廓の内には間々白人も交りて媚を売れども、一家三四人より多きは無く、南京娼婦亦二百人余あれども、特にこの地の名物は、日本の醜業婦なり。今は漸く蔓延して、秋風の枯草を吹くが如く、暹羅(シャム)、安南、ジャワ、スマトラを風靡して、醜業社と称する会社組織の、周旋業さへ起るに至れりと。噫、旭日章旗の力も、その百鬼の横行を打消すこと能はずや、予輩海外に遊ぶもの慨嘆に堪へざるなり、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888972/61
藤田四郎「清国視察談」明治35年3月21(?)日発行 ※1902年
(p1に前農商務総務長官 貴族院議員とある)
十五 醜業婦と貿易の関係(p43~)
次に注目すべきことは醜業婦のことである、醜業婦のことに付て私共は外務省に居る時分にも心配したことで当時の政府の方針に依り調べたこともあるが条約改正の前であるから少しでも非難されることは避ける方針であった然るに最早今日あちらに往って見ると醜業婦は誘拐されて往くものは別として自分の自由意志に依って往く所の醜業婦はひどく制限する必要はないと思ふ、日本の貿易は国旗に従ふと云ふ方針を云ふ人もあるが之は嘘である日本の貿易は醜業婦の下に従ふと云ふは実際ではないかと思ふ、先づ以て醜業婦が往って而して後に詰らぬ雑貨が出て往き下等なる日本人が続いて往く夫れから貿易の端緒が出来、領事館が出来、良い商人が往くと云ふ順序が今日亜細亜の貿易の有様である今日我国の醜業婦は多く関西、九州地方から往って居るやうであるが聞く所に依れば今より殆ど二十年前にも随分内地に迄醜業婦が這入り込んだと云ふことである、一例を挙ぐれば揚子江の鎮江の如き数十名の醜業婦が居ったと云ふことである其が今日では一人も居らぬ、其処でどう云ふ訳かと聞いて見ると即ち支那の遊女●が種々の反対運動をやって領事館に訴へる事抔をして遂に皆厳しき命令に依って之を引払はしたのである、而して其貿易如何と云ふて見たならば鎮江は今日互市場であるが其貿易は我国に依って営まれて居るものはないのである、日本人が時々あちらに往くことを聞いて居るが未だ貿易業者が居ると云ふこと迄には至らぬのである若しも醜業婦が数十年前居った儘で之を抑圧しなかったならば今の鎮江の貿易は必ず日本が一大優者となって居ったと思はれるのである、然るに今日では其地を見るに僅に英米等の商人が居るのみである、畢竟之は残念ながら醜業婦を抑圧した結果と断言するを憚らぬのである、私が十数年前印度洋を経て欧洲に往った時分にもシンガポール、コロンボ通りに既に此醜業婦が居ったと云ふことで今では亜非利加、濠洲、其他南洋諸嶋の奥に迄入り込んで居ると云ふことを聞いて居る・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767012/25
桐友散士「夜の女界 : 暗面奇観」明治35年9月11日発行 ※1902年
十三 海外の醜業婦
支那沿岸の各港、上海、香港、寧波から、南洋の方へ掛けて、船の着く港には、大概日本の女と広東の女が出稼ぎに行って居る。此れ等の密航婦が、此処まで密航して来るには、随分、幾多の危険と艱難に遭遇した結果、漸くに上陸し得るので、此の取扱ひを秘密に営業として居るのは、昔しなら所謂女衒と云ふ奴である。
女衒は烏の様な眼をして、諸所方々を彷徨きまはって、無教育な女を欺して、窃に自分の所へ連れて来る。そして、船の水夫と共謀したり、或は、石炭をつみこむ時に石炭運びの女人足にしたてたり、或は荷物にして大きな行李に入れたり、あらゆる秘密の手段を案出して、兎に角に船へ積み込んで了ふのである。で、航海中は時として、非常な惨劇が演じ出される事があると云ふのは、何しろ、人間ではなく荷物になって船底にかくされて居るのであるから、蓄はへて居た食料が無くなって、飢死にして了ったと云ふ話もあれば、又は、窒息して死んだと云ふ様な話もある。幸ひに、命あって、目的地へ付くと、其々受取人が、同じく夜陰に船を出して、秘密に上陸させて、己れの巣へ連れて行き、こゝで、いよいよ醜業をさせる事になるのである。
大体は、本国の青楼と別に変った事は無い。夕暮時から、化粧をして店へ居並らぶのである。店と云ふのは、大抵、大きい硝子窓がある、板床の一室で、其処の椅子へ腰を掛けて並んで居ると、開港場の事だから、各国の船の水夫や、居留民が其の辺の酒屋で、ブランデーとか、ウイスキーとか云ふ、強い酒を引掛けて、鬼の様な赤い顔をして、嚙み煙草をかぢりながら、其の窓を覗きに来る。
もの馴れた醜業婦は聞き覚えの英語で、中から、声を掛けるものもあるが、まだ、馴れ無い新娘は、先づ物怖ろしさに胆を潰して了うだらう。日本人のお客でも、肌を触れるのは身を切られる程に辛いのを、まして、雲をつく様な背丈の高い、大きな赤髯が何してお客に取れるものだらうと、云って、今更、何ともする事は出来ない。・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900369/75
中川柳涯「秘密探偵露国の内幕」明治37年3月6日発行 ※1904年
西伯利亜の風俗(p34~)
・・・殊に西伯利亜(シベリア)内地に於て勢力のあるのは日本の醜業婦で、到る所に露人を籠絡して其の生血を搾り取て居るとか、されば我が国商人が西伯利亜内地に往て開店する時には先づ第一に彼等を頼んで万事の引廻しを為して貰うので、それが最も安全で又最も繁昌する賢き方法であるとか。
読者よ、日本の醜業婦が世界至る処へ出掛けて、恥を外人の前に曝す等と云ふ野暮な理窟を言ひ給ふな、彼等は一厘半銭の資本も入用ずに万里の波濤を越えて猛進し、鬼の如き髯クチャだらけの毛唐や、野獣の如き露人を手玉に取り、搾れる丈け搾り取ってはこれを本国に送るので、其の男子も及ばぬ勇気は雙手を挙げて賞揚すべき値があるのではないか、殊に日本醜業婦が至る所に於て各国の醜業婦を駆逐して独り跳梁を擅(?)まゝにするとは猶ほ更ら醜業婦万歳を嘔はねばならぬ。(p39・40)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/988198/24
長田秋濤「新々赤毛布 : 露西亜朝鮮支那遠征奇談」明治37年3月1日発行 ※1904年
醜業婦と仕切られ(p100~)
西比利亜(シベリア)の日本女郎屋、就中浦汐(ウラジオストク)やハゞロフスクでは日本人を客に取らない女郎屋が沢山ある、其原因は遊費が層まったり、儲けが薄かったりするからであるが、コンナ辺からして醜業婦は自然に朝な夕な露西亜或は支那の客に多く接し、其中でもより多く支那人に接する者故、従って余計支那人の方に親くなるのである、所で又チャンさんの習慣として、本国に立派な妻君を持ち乍ら之を引連れて渡航する事が出来ない、西比利亜に出稼ぎすれば金儲けは中々多いが、空閨孤枕は彼等が祖先からの大禁制、我等日本浪人の様に膝ぶしを抱いて寝る事は到底も出来ぬ、ソコには幸ひ日本の女郎屋があるから彼等は悦んで之に遊びに行く、遊ぶ事の度が重なれば互に親しくなる、チャンだと言ってホレて見れば余り悪くは無い、別けて金払いは日本人よりも好し、女と見れば可愛がる事も亦一通りぢゃ無し、コンナ人間を生擒にして置けば結構な事だと大悟一たび徹底しては女郎も亦之に向って愛嬌を振り撒かずには居られぬ。ソンナ仕儀からデレチャンは
益々デレの度を増して先き先き必ず身請けの相談を持ち出す、女郎は思ふ壺へハマったと喜んで早速之を承諾すれば苦も無く前借なんぞは払って呉れるコーして支那人の妾に行くのを彼地では「仕切られ」といふのだ、其仕切られて行く時には必ず、百円又は二百円の金を約束金として手に納め、扨万事話が済んで輿入をなせば之から先きは女郎共最得意の時代で、愈々自堕落放逸に日を送り、朝も亭主が先づ起きて立ち働けども自分は枕を高ふして床上に鼾でもかいて居て、十時過ぎにでもなら無ければ中々以て床離れをする所じゃない、ソシテ常不断着物はネダル、金やダイヤモンドの指環はセガム、若しも亭主が其請求に応じなければフテ腐れて「私は病気だから」など云って亭主を傍へも寄せ付けぬと云ふオッカない始末、又中に気の利いた連中は月々貰ふた金を諸方に貸付けて七分なり八分なり或は一割なりの利息を取って財を殖す方法を講ずるのも決して少く無い、先づ西比利亜に居て支那人に仕切られてる女に、二千や三千の現ナマを所持せぬ者は無いさうだ。
日本人の資本主
此チャン妾は段々年を経るに随って金を貯るが元々日本人であるから豚尾漢ばかりでは鼻に付いて、軈て否になると見へ、金のあるに任せて往々間夫を拵へる、男の方でも金が目的物だから早速之を承諾すると云う鹽梅式で亭主の目を竊んで妙な快楽を尽して居る、其内支那人が本国に皈ると云ふ様な時には分け前を貰ふて、其儘男の方へ走るし、或は不幸にして夫が財産を貽して死する様なる事があれば早速其の財産は悉皆遺族即ち妾の手に落つるので、死んだが最後、三ケ月も立たぬ内に忽ち日本人の間夫と結婚をして本望を遂げ安楽な世帯を立つると云ふ、夫から男は女の金を元手として何か一事業を遣って見るのもあるが失策しても男の方では元々空っ尻だから何の心配も無い、ソシテちと都合が悪くなれば女を見捨てる丈の事、又た都合が善くなれば善くなったで見捨る事がある、其処で兎や角云ふた処で元々野合の夫婦であるから、何処に持ち出して訴ふべき処もない、実に憐れむべき彼等の末路である。
西比利亜に迷い込んで行ても扨て何も取り付き場処がない、元来無一物で渡って来たものであるから、店一つ開かんとしても資本はなく、女郎屋するにも金はなしと困る場合は其の「仕切られ」に愛嬌を振り蒔ゐて甘心を買い、融通を付けて貰ふ、夫れが為めに日本人の助かったもおは年来幾許なるか分らぬ、実に日本人の西伯利亜にて事業を起したものゝ資本は、十中の八九女郎屋或は仕切られの手により融通されて居るので、特に彼の有名なる支那人「チーフンタイ」の為めに昔し仕切られて居た「おサダ」と云ふ女の為めに資本の融通を付けて貰った者は今でも彼地此地にごろごろして居る位だ。
仕切られの勢力
此の仕切られなる者が西比利亜全体に幾百人居るか判然とは分からぬけれど、誰でも知って居る丈けの大概を申さうなれば、浦汐(ウラジオストク)に於て二三年以前既に三百人から居たと云ふ事、之れは只だ支那人の妾のみであって其支那人の内でもまだ判明されないのがある。此三百人の外に露西亜人或は其他の国人に仕切られて居る人々を算入したならば少く共百位はあるであらう、如何にして三百人といふ事が判明して居るかと云へば、彼等は殊勝にも仲間の不幸なる「仕切られ」に対して夫を保護せんが為め慈善会を設立したさうだ、其の慈善会の発端と云ふは、或日本婦人が或支那人に仕切られた処が、其支那人が余り富有でもなかったと見え、女の方から同情の涙禁え敢へず縦令支那人でも之では可愛想だとの観念より、自分の所持した衣類や古道具迄一切売り尽して其の支那人に入れあげた処、不運といふものは致方がない者で其内ツイ其支那人が死んだ為に女は弥弥困窮に陥って、葬式等は兎に角無事に済したものゝ、扨其後の方法とてはドーにもコーにも考が就かぬ、止むを得ず事情を浦汐の日本人に訴へた処「仕切られ」といへば同胞人中に於て度外視して居る者であるから誰一人として其話に乗って呉れやうといふものが無い、其処で仕切られ仲間が大層同胞人の無情を立腹して、同胞全体が斯な考なら今後決して金銭上や、何かに就て御相談は申し上げぬ、と「仕切られ」中で、慈善金を募集して其の婦人を日本に還したさうだ、夫から以後は之に懲りて将来又た斯の如く不幸なる人があった時の用意にと、一人一円宛月々積み立て決して日本人同胞の厄介にはならぬと云ふ大意気込みで出来た慈善団体の加入者が丁度三百人あって今でも月々貯蓄を為し、会場を本願寺に定め、絶えず持寄りをして居る所を見ると「仕切られ」も亦中々侠骨稜々たるものである。
「ハヾロフス」に於ても「仕切られ」は十二三人も居るが、彼等は寺の寄付金でも、時々折々の募集金でも、二度返事でスグ出す程に物の分りが早い、間には非常に理解力の乏しい者も無いでは無いが之は十分一にも足らぬ位だ、ソシテ彼等は確かに西比利亜に於ける出稼ぎ人としての一勢力を有して居るから、日本人の露西亜人或は支那人の豪商に近づくには乃ち非常に便利なる媒介者である、彼等あってこそ西比利亜の日本人は今日三千計りにも繁殖したのである、「仕切られ」が常に口にする所では、憚りながら日本のお為といふ事は始終忘れませんと、然し境遇が境遇故ドーモ根性のひがむ癖が起ると見へ、一寸した事を云ふても忽ち気に障へ、我等はどうせコンナに零落して居るのだから様々悪口云はれても仕方がないが、誰某さん達でも本を洗へば皆な私の金を借りたればこそ、今日の地位に成ったのであるのに、今更立派さうな口上を吐て、途中で逢ても知らぬ振りして行き過ぎるのは余り不人情ではあるまいか」と面の当りやり込めらるゝので日本人先生大に赤面して下る様な事が沢山ある。だから大概の者は彼等の御気に障らぬ様に頻りに御機嫌を取て居るが是は如何にも止を得ない次第であらう。
醜業婦の出産地(p196~)
西比利亜(シベリア)に渡航して行て醜業婦人と云ふ憐れむべき名称に甘んじて外国人に情を交はして、御髯の塵を払ふて居るもの共の出産地の戸籍を酔狂にも洗って見れば、大概は九州で其多数は九州の内で熊本県天草か、長崎県島原辺りの者で長崎市の内外も沢山ある、其の次は中国から中仙道に懸けてゞある、何故に長崎地方天草辺りが大多数を占めて居るかと尋て見た処で薩張り判らぬが、併し長崎と云ふ処は日本の果であるけれ共、昔から外国人が此土地へ通商貿易の為めに来て居る処より、早く外国の事情に熟して外国人に就て金儲けをしようとの観念を起し、男は料理方を覚え洗濯屋を覚へると云ふ都合で、日本で取った事のない月給に有付くのが娯しさに希望者のあるに任せ伴はれて行て見る気になり、他の地方は云ふに及ばず西比利亜の方へも渡航したものと思はれる、夫から段々尻尾に就て女も渡航する事になった処が、其の渡航した女が女郎になり夫から洋妾に抱へられ甘い汁を吸い思ひも懸けぬ主人の愛を得て、下女も使い下男も役する事が出来、又た古郷に帰る時には金剛石入りの指環は近傍眩ゆき迄に輝かせ、帯締めから頭のもの、衣物は高価なる御蚕ぐるみにて、話しは決して自分の行て居た処だから悪くは申さん、有らん限り弁舌を以て近所近辺の人に宝の山でもある様に云って聞かせる者だから、歳頃の娘さん達はトテモ堪らん、女に第一の大事のものは衣物、其の衣物が思ふ様に着れると云ひ、太平楽も云へると云ひ、朝も晩迄寝て居る事が出来ると云ふので、誰れも行く、彼れも行くと云ふ事になるが、シカシ行き度くても如何にして渡航せば善からんかと思案に暮れて居る矢先き、其事を聞き込んだる誘拐者が有らん限りの甘言を尽して之を誘ひ出し、自分の懐暖めの材料に做すと云ふ様な具合で、斯く一人連れ二人連れて行たのが今日の如く殖えたのである。
長崎人の努力
夫れであるけれ共、西比利亜侵入者の中には長崎人より天草人が多数である、然るに社会上の勢力の方に至っては天草人よりも却て長崎人の方に占めて居らるゝのである、と云ふものは西比利亜全体の日本人が日々の行事は凡て長崎風である、即ち正月元日の飾りものより、極月廿九日迄の礼なり式なりと云ふものが皆な長崎風に依て取り行はれ居る、其の上言語迄が長崎ナマリでなければ行かぬと見へ、天草人の沢山なるにも拘らず、大概自国の言葉を脱して長崎語の「アンシヤマー」「ドンケンシマスノー」「一寸ヲアガリマツセ」「ヨツテイカンノーシ」「一服ヲスイマツセー」等の言葉を上下なしに通用して居る、ソコデ夫の世人が善く歌ふ処の「オンダーイーヤ、ソンゲンシマスナ、バケエシーチヨツタイ、ドーユウコンナンナ、ヨソワシカモンジヤローカ、オンドガアワモチヤホカニアル」と云ふホーカイ節も、彼等醜業婦は出産地の何処たるを問はず、皆常に口にして居るのである、如斯き風で長崎人の勢力は極めて盛んなるものである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761167/107
岩本無縫「東京不正の内幕」明治40年3月20日発行 ※1907年
▲醜業婦輸出の悪漢
紳士風なぞ装ふた腹は鬼にも均しき人物が、よく九州辺を徘徊して、若き娘共を何とかうまく口車に乗せて、神戸又は横浜におびき出し、これを船に載せて海外に醜業婦に売飛ばすを業とする者が今の世には多くある、是等の人鬼共は其弁説のうまきこと到底尋常ではなく、田舎娘はころりと一杯食はされるのだ、故に何と言って此の連中が田舎を廻らうとも、決して其わなに罹ってはならぬ、彼等は其人を見て夫れ相応のうまいことを言ひ、年々幾百人と云ふ罪もなき少女を地獄に連れ行くのだ、先づ田舎の女子共は決して親の家の敷居なぞまたいで遠出するのは善くない、中には馬鹿娘があって、親に隠れて此の手に乗るのがある、今日海外の各開港場、即ち浦塩斯徳(ウラジオストク)、大連、上海、韓国、布哇(ハワイ)、比列賓(フィリピン)群嶋、桑港(サンフランシスコ)、其他至る処に淫売を業として居る婦女子は、これ悉とく此の手に罹って身を売られた人達である、人の振見て我が振直せで、よく警戒するがよい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798829/59
「五大洲探検記1 南洋印度奇観」五大州探検家中村直吉 冒険世界主筆押川春浪編 明治41年8月28日発行 ※1908年
(廿六)退屈凌ぎに偽医師の助手となる(p258~)
新嘉坡(シンガポール)に於ける日本の名物は、領事館員の空言壮語と淫売出稼である、由来日本の淫売婦程侵略性の激烈なものはあるまい、彼等は恰かも空気の如きものだ、地球の殆んど総ての部分を満し尽さんとして居る、而して淫売婦の行く所必ず多少の日本人が伴ふから、是を善意に解釈すると彼等は邦人発展の先駆者であるといへるし、是を悪意に解釈すれば日本帝国の体面に泥を塗るものであると言っても差閊はないのだ、若し前段の解釈をする人は、恐らく出稼ぎ淫売婦に一の正業が伴ったことのないといふ重要なる事実を知らない抜作であらう、吾輩は断言する出稼淫売婦は徹頭徹尾国家の体面を汚すものだと、文明の暗黒面には恐るべき罪悪が潜伏して居るものだ、今日世界の各方面に散乱しつつある幾万の淫売婦は、厳重なる人道と法規の網の目をくゞり抜けどうして故国を去ったのであらう、是れ殆んど一種の魔術ではあるまいか、天下唯一人の多田亀吉君を罵るのは酷だ、婦女誘拐を以て正当なる営利の事業であるかの如く、国家の大法を無視して最も大胆に振舞った彼多田亀吉の如きを出したのは、抑も社会に罪があるのだ。
閑話休題、新嘉坡(シンガポール)とし言へば必ず日本の出稼淫売婦を連想する程有名な処である、吾輩は上陸すると直ぐ土人の人力車に乗って日本人居留地に向はんとした。支那人にしても土人にしても此地方の車夫程無意識なものはあるまい、土地不案内の悲しさ日本人居留地だと言ったつもりなのが、何でも彼でも此処へ曳込めば間違いないと思込んだ俥夫のことだから、軈てガラガラと轅棒を下したのが日本の淫売窟、と見ると二町程両側にヅラリ軒を並べたのが淫売屋で、軒下に廿五六の大年増、蝶々髷に赤の鹿の子を掛け、華美な浴衣を丈長に来て赤いシコギを腰に締めた醜態は何に比べやうものもない、是でも日本人かと思ふと吾輩急に情けなくなってきた。夕に越客を迎へ朝に呉郎を送るといふ文句は、同じながら多少の詩趣を帯びて居るが、呉郎越客どころか白人支那人印度人馬来人何でも御座れの情の切売、夜になると総勢五百人の淫売婦が喃々たる口説に外国人の機嫌気褄を取らねばならぬとは、天下是程殺風景極る悲惨事があらうか!?(p263・265)
(廿八)暹羅(シャム)王維納に墺帝をヘコます(p277~)
当時在暹の日本人は百人足らずで、職業の種類は公使館員、領事館員、錺職、写真師、画家、医師、理髪職、コーヒー店等で、余り大きい声では言はれないが日本の女郎屋も二軒あった。此女郎屋に有名なやりて婆が居るさうだ、彼女は日本を出てから最う卅年にもなるそうで、最初はおさだまりの甘い舌の上に乗せられて日本を脱出で上海に着くと直ぐ売飛ばされ、其後流れ流れて盤谷府へ来たのであるが、人は呼んで上海婆といって居るそうである。此上海婆の其暗黒面には小説よりも奇なる事実が潜んで居るに相違ない!(p285・286)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761084
「五大洲探検記2 南洋印度奇観」五大州探検家中村直吉 冒険世界主筆押川春浪編 明治42年1月1日発行 ※1909年
(二)新嘉坡の醜業婦
日本の醜業婦といへば世界に鳴響いたもので、甲は是を以て日本人の面汚しだといひ、乙は是を以て邦人発展の先駆者であるといふ。其孰れが真理であるかは吾人茲に暫らく措て問はないが、実際彼等醜業婦の現状と見ては、是でも日本帝国に籍を置いてる、日本人の片割れかと殆んど情けなくなるのである。
是等醜業婦が殆んど世界のあらゆる方面に散在して居るのは、今更改めて言ふまでもないが、新嘉坡は其中でも激烈であるやうだ。吾輩の見る処では、其今日あるは日本の船乗が預って力があるらしい。
今より数十年前、日本の船乗が此地に漂着して、其殖民地に女性の必要なる所以を看破し、竊かに案を打ち帰来甘言を以て数人の婦女を誘拐し、直ちに渡航して醜業を営ましめて見ると、殖民地の秩序なき人情の常として、恰も大旱の雲霓を望むが如く、押寄せる白郎黒客、夜毎日毎の枕は数知れず、喃々たる私語低唱、後朝の訣別に片言交りの難有う又来ますが解るやうになって、需要忽ち嵩じて供給遽かに不足となり、旨く人情の弱点を捉へた事業が当った本人は大喜び、直ぐ又幾人かを仕入れて、そも突出しの其晩より、宵の縁喜は鼠鳴きの鳴き損なく、吾から求めずとも来る赤髭南京を初めとし、馬来印度こ好色漢を手玉に取って投げても投げても、色様々の情の綾は解けつ結びつ、赤道直下の宵々、待人の畳算用更に要なく、売る枕の数に抱主の弾く算盤玉の音は日を追ふて忙しげなり。
斯うなると見やう見真似の、我利々々亡者共が、吾も吾もと開始めた悪商売が、抑も今日新嘉坡日本遊郭の盛大をなした基礎となったのである。で、事業夫自身の性質から、固より人間並の血の通ってる輩の、あづかって居る筈もないが、現今新嘉坡日本遊郭の楼主と号する奴等は、多くは内地の喰詰者で、其身元を洗って見ると、裁判官巡査船員等のあがりそれに博徒ゴロ書生等であるやうだ。
九州が醜業婦唯一の輸出地であることは、三歳の童子でも知ってる有名な事実だが、猶且此地方に出稼の醜業婦も、殆んど其の全部が九州出身で、長崎天草島原辺の者が多いやうである。
以前は誘拐の口実として種々の甘言を弄したので、無智の婦女はウカと夫に乗って、新嘉坡三界迄地獄の憂目を見に行くやうになったのであるが、茲に吾人の不審に堪へないのは、比較的教育の普及した今日、尚ほ九州地方から悪漢の甘言に乗って、誘拐される婦女の絶へないことである。是は慥に不可思議千万なことで、過去数十年の間、幾多悲惨の涙を以て書れたる罪悪の歴史は、必ず是等悲惨の子を出したる地方の人々に読まれて居るに相違ない。然るに今日猶ほ是等地方から婦女誘拐の跡を絶たぬは、吾人の最も不思議とする処である。誘拐者の口実がさまで千変万化の巧妙を極めて居るとも思はれないとすればどうしても、此地方の婦女は、或程度迄吾から進んで誘拐されるのではあるまいかといふ疑問が起る。而も此疑問が疑問でなくして、多少根底ある事実ではないかと思はれる節もないではない。
長崎を訪れた人は、稲佐のお栄の邸宅が、稲佐の丘上から全市を下瞰して、十万の甍に有意味の冷笑を浴びせかけて居るのを見たであらう。稲佐のお栄固より新嘉坡の醜業と関係はないが、彼女が西比利亜を横行して、帰来稲佐の丘に斯の如き豪奢を衒ふ所以の者は、慥に長崎付近に婦女誘拐の盛に行はるゝ事実の一面を説明するものではあるまいか!?
女性は虚栄の最も忠実なる崇拝者である。若し此稲佐のお栄以外に、新嘉坡若くは香港地方で醜業に成功し、宝玉と黄金で其汚れたる臭骸を粉飾し、其土臭い郷土に帰り来り、純潔無垢なる村娘の虚栄心を刺戟したらどうだらうか。氷雪寒き西比利亜も鉄石熔る赤道直下も、眼前の虚栄に心狂ひたる婦女の前に何の恐るゝ処ぞ。
斯くして九州地方の婦女が、土臭い生活から脱せんとして、恐しい焦熱地獄にと踏込むので、考へ来れば其悲惨なる運命の責任の半ばは、彼等誘拐されたる婦女が当然受けなければならないのである。
併し中には実際健全なる職業に有付けると思って来たのも少くないので、是等が異境万里の地に於て、其鬼の如き楼主に依って醜業を強らるゝ悲惨の光景は、能く筆舌の尽し得べきことでないのである。
日本遊郭の楼主を親方といふが、是等の親方が醜業婦を仕入れる方法は、実に都合能く出来て居るのである。新嘉坡には印度人の高利貸が沢山居るが、所謂親方共は是から借金して醜業婦を仕入れる。で、其貸借の方法なるものが極めて簡単で、若し一醜業婦を抵当として提供すれば、高利貸は大喜びで六百円乃至八百円を貸してくれる。而も其抵当たる醜業婦は自分の手元で営業させるのだから少しも差閊ないのみならず、借金の八百円位は忽ちの内に消却し尽し尚ほ優に相当の利益を見ることができるのである。
醜業婦に対する楼主の待遇は、世人の想像するが如く残忍なものではないが唯楼主は一意借金で自家の醜業婦の体を縛することを力めるので、無暗矢鱈に煽動して無益な贅沢をさせる、而も其贅沢は必ず楼主の仲介に依ってするのだから、彼等醜業婦の負担は日日増すばかりで、目に一丁字なきもの若くは算数の観念のない輩は、楼主の手加減に依って何時までも醜業を営まさせられる。併し中には玉帳やうのものを用意し、収支の道を明らかにしてる連中は、幾年かの後には負債の全部を償却し、経営惨憺たる貯蓄で、身に綺羅を飾り得々然と故郷に帰るといふ順序になるのだ。
彼等醜業婦の風俗は、浴衣に赤い兵児帯をだらし無く巻きつけ、頭髪は蝶々髷に紅い鹿の子などを掛け、足は紺足袋に突掛けの麻裏といふ拵、夫で以て軒下に椅子を並べ、通り掛りの支那人馬来人及び白人の水夫などを、喋々喃々と呼掛けて居る。迚も正面に見られる光景ではない、吾輩などは是でも正気の沙汰かと疑った位で、世人が是等醜業婦の存在を以て、国辱の大なるものとするのは、強ち無理でないと思った。
茲に小説のやうな事実がある。醜業婦の事を書た序だから書き添えて置かう其当時新嘉坡に中野といふ医者が居た、譚は此人に関してのことなので……。中野君が日本を出発した動機は吾輩勿論精しく知らないが、当事と何とやらさて新嘉坡で開業して見るとどうも旨く行かない、そこで暹羅に渡航した。其時の公使が稲垣満次郎君だ。盤谷府で中野君は公使の尽力で開業したが、其処でも業務は全然失敗に帰し、詮方なくなったので、又も新嘉坡へと逆戻りをした。併し此時は最早再び医者をする勇気も失せ、其隠芸の三味線と舞踏を以て旨く遊郭の楼主に接近し、其お蔭で幇間同様遊郭に出入して居た。
前に述べた通り、新嘉坡の日本醜業婦なるものは、悉く其前身が九州地方の農夫の娘かさなくば、炭鉱付近の石炭担ぎであるために、遊芸の嗜みのあるものとては殆んど絶無の姿であるから、幸にも中野君の未熟の芸当が、日本遊郭中に非常に持囃され、夫が動機で一個の醜業婦が、深く中野君に恋するに至った。一方中野君と雖も木石でない以上遂に其恋を成立せざるを得ないので、夫からといふもの両個は最も深き相思の間柄となった。
処が其醜業婦中々の女丈夫で、其貯財の全部と日々の稼高を惜気もなく中野君に提供し、同君をして遺憾なく医業の経営費に充てしめたのである。斯うなれば中野君と雖も一生懸命とならざるを得ないので、疲弊せる勇気を揮ひ起し幇間時代に受けたる愛顧を縁に、遊郭全部を重なる顧客として、鋭意熱心、仆れて後止むの覚悟でやったものだから、瞬く間に好評を博し、其当時既に其愛人を迎へて楽しい家庭を形造って居られた。
秩序なき殖民地では妙な動機から成功する人がある、此中野君の如きは実に其好模型であるのだ。
(七)瓜哇珍談(p60~)のp64から
日本の醜業婦が殆んど世界のあらゆる方面に発展しつゝあるは、最早掩ふべからざる事実で、吾輩は曩きに新嘉坡の処で其実状に就て少しばかり語ったが更に転じて瓜哇に入るに及び、其侵略勢力の猛烈なのには一驚を喫せざるを得なかった。ソラバヤ、スマラン、到る処多少の日本人の居ない処はないが、而も其日本人が大抵所謂女郎屋の親方なるものである。新嘉坡では此親方が遊郭内に棲むことができないので、中には親方が其副業として雑貨店などを経営して居る。新嘉坡の雑貨店では音宗商店を除いて、他は大抵是等親方の経営にかゝるものである。
話が余事に渉ったが、要するに瓜哇でも到る処日本人が居る、而も其日本人の大部分が女郎屋の経営者であるとしたならば、外のことは兎も角、無銭旅行の吾輩としては、どうしても彼等親方達の同情に浴せざるを得ないので、事実又此種の人々は浮世の荒波と戦った人だけに、其心の奥深には実に深い熱実な同情心を有して居る。我輩も旅行中其同情に浴すること決して少くなかったので、現に汽車がバタビヤに着くと、吉坂虎吉といふ人が非常に同情を寄せられてバタビヤ滞在中は同氏の宅に宿泊するの便宜を得たことを感謝しなければならない。
(八)スマトラ島探検(p75~)
・・・薄暮パレンバンに錨を投じた。で、此処ではバタビヤの吉阪といふ人から紹介されて、同じく女郎屋の親方林弘君を訪問すると同君は非常に喜ばれて下へも置かぬやうに歓待された。
思へ!、日本人の内にパレンバンの地名を知ってるもの果して幾人あるだらう。否恐らくあるまい、而も同胞の夢にも知らざるスマトラの一角パレンバンには、例の醜業婦が偉大なる勢力を以て発展しつゝあるのだ。前記林君は遠征娘子軍を率ゐる親方の内でも、中々の勢力家であったのである。
林君と雖も最初からの親方ではなかったのであるが、途中商業に失敗し止むを得ず女郎屋と宗旨を換えて、現今はパレンバンで大に成功して居る。併し其成功を謳歌すべきか非難すべきかは第二の問題として、同君が一種の奮闘児であったことだけは事実である。厄介になったからいふのではないが、林君の如きは女郎屋に親方として一生を終らせるには惜しい人物である。而も蛮境に醜業を営んで居るもの、是れ人の罪にあらずして境遇の罪である。(p76・77)
(九)彼南に於ける幻燈会(p86~)
ラングン号は新嘉坡を出港しマラッカ海峡を抜け彼南に入港した。・・・
彼南(ペナン)には日本人が二百人ばかり居る。併しながら例に依って其大部分は醜業を営むもので、其他料理店旅館などを経営するものもないではないが、茲に一つ珍しい商売が熱帯の彼南に行はれるといふことを耳にした。珍しい商売、然り珍しい商売である。
此付近一帯、其支那たると印度たると、瓜哇たるとスマトラたるとを問はず日本の醜業婦の居ない処のないことを知ってる人でも、恐らく彼南に玉コロガシの行はれてることまでは、有繋に気が付かなかったであらう。
(十)猛獣の如き婦女誘拐者(p94~)
午前六時彼南出港の英船スマトラ号に便乗して、スマトラ北部探検の途に上った。此航海は曩きに彼南の幻燈で成功したので、左程苦しまずとも済んだのである。船客は例に依って例の如く、スマトラ、馬来の甲板客で満員、日本人は吾輩とそれに同行者の木村といふ呉服行商人で、此外婦女誘拐業者が一人と、是に誘拐されてスマトラに渡航せんとする婦人三名で、日本人全体としては都合六人であった。
新嘉坡付近では此婦女誘拐者のことをピンプといって居る。で、此ピンプが多くの婦女を誘拐し、其悲惨なる境遇に泣かしめるさへ既に天誅に値するのであるが、彼等は是を以て足れりとせず、誘拐の途中必ず被誘拐の婦女を辱しめなければ止まない。中にな其毒牙にかゝったのを恥ぢて、自ら無残なる最後を遂げるものもある。併し又女性の身の心弱くも、其残忍なる圧迫に遇って、泣く泣く彼等悪鬼の獣慾的犠牲になるもの、殆んど十中の十であるに至っては、驚かざらんと欲するも豈に得べけんやで、実に吾輩の如きもスマトラ号の甲板に於て、其惨劇を実見した一人であるのだ。
彼南を出帆してから幸海は平穏であった。其内に日が暮れかゝると、馬来スマトラ共が落日に向って礼拝する。夫が済むと何時とはなしに甲板の上が薄暗くなる、両舷燈檣燈が夢のやうな光りを熱帯の海に投げて、推進機の響きが刻一刻と寂しくなってくる。空は晴れて居るが星光の闇を照す由もなく、甲板客で埋められた上甲板に、僅かに朧気のランターンが二つばかり、暁の夢にも等しき淡き名ばかりの光線を浴びせかけて、夜は漸く深からんとするのであった。
吾輩は船長の好意で船室を有って居たが、蒸熱つで堪らないので、暫時上甲板で涼まうと思って出てくると、有繋に涼しい風が顔をなでる、欄干に凭れ思ふとしもなく越し方の事を辿れば、万感胸に湧いて征途万里の行末が、何時とはなしに案じられる。
星が一つ南に流れた。甲板客は男も女も船の上で船を漕いで居る。途端「お止しなさいよ。」と若い婦人の声が聞こえた。無論日本語で…………。
熱帯の海をスマトラに向って南下する外国船に、夜更けて若き日本婦人の唯事にあるまじき声を聞いては、誰しも好奇の眼を見張るであらうが、吾輩は此時格別珍しいとも何とも思はなかった。といふのは彼南を出るとき誘拐者が其誘拐せる三人の婦人を伴って居た事実を知って居たからである。又一方では如何に悪魔の如き誘拐者と雖も、婦人の強硬なる抵抗に遇っては、有繋にどうすることもできまいと思ったので、格別深い注意も払はなかったのである。併し吾輩の予期は全然外れた。彼等のこと到底常識を以て判断し得べきでない。其又手続に至っては吾輩の口にすべき筋のものでない、あゝ止みなんかな、彼等は終に人間界に籍を置くことのできない輩である。
翌朝未明、スマトラ号は無事デレに投錨した。
デレは人口約一千位の市街で、日本人が八九十人居る。雑貨店も三軒ばかりある。人口一千に在留邦人の八九十人は少し多過るが、御多分には洩れない其大部分は例の醜業婦であるのだ。
デレの雑貨店はかなり繁盛して居る。夫れは一大理由があるので、話を聞いて見ると成程と合点が行く。デレから廿哩ばかり内地に茫漠たる煙草の耕作地がある。其耕主は主として白人である。従って彼等はデレを通過して去来する度毎に、日本雑貨を土産物として購ふことになって居る。と今一つ重大なる理由は、日本婦人が四百人ばかり是等耕主若くは、煙草園に関係ある白人共の妾になって居るので、其日用品は自然デレの日本雑貨店から供給を仰ぐといふ風になって居るためで、さてこそ三軒の雑貨店が相応に繁盛する訳である。
スマトラの内地に日本婦人が四百人も妾になって居るとは、恐らく読者には破天荒な事実であらう。而も東印度諸地方に於ける日本婦人の状態は、到底普通の想像力を以て律すべきでない。来て見れば左程にもなし富士の山といふが此方面を旅行して醜業婦の話を聞くと、実に何から何まで驚くことばかりで、来て見れば聞きしに勝ることばかり、緬甸印度も斯くやあるらん、まだ足も踏み入れないのに、既に其乱脈さが思ひやられる。
煙草耕地に於ける妾の給料は月額三十弗乃至四十弗である。而して此等の妾連は大抵一週一回賜暇を得てデレにやってくる。といふのは要之気保養のためで何しろ煙草の耕地といふのが、漠々千里際涯なき底の境で、而も平常其主人なる白人と相対し、堪へ難い程莫寂しい生活をして居るのであるから、斯くは一週一度の休暇を得てデレに来り、懐しい日本人と相会し他愛もなく遊び暮すのである。で、彼等のデレに来る当面の大目的が気保養であるから、貰貯蓄の給料及び小遣銭は大抵デレで消費い果し、財布の底をはたきながら元の黙阿弥で再び煙草の耕地に帰って行くのである。
然るに茲に面白い事件が持上るのは、デレに居る日本人の無頼漢が、是等妾共の来遊を待構へ語巧みに欺いて、其飽くなきの獣慾を遂ぐるのみならず、甚だしきに至っては其所持金衣類まで捲きあげる奴があることで、妾共も毛色の変った白人の旦那より、同じ種の日本人の方がいゝと見え、だまされると知りながら、不知不識深みに陥るのだそうで、中には日本人を買ったことが其主人に知れ、大騒動の末解雇される者も少くないといふことである。何と厄介千万ではないか。併し吾輩のデレに行った当時は、何等自覚なき妾共も漸く其馬鹿らしさが解ったとかで、日本人を買って裸体にされる奴が非常に少くなったといふ話であったが、夫でも吾輩の目から見ると意外に感ずる程、其お目出度さ加減が激しいのであった。而も斯の如き果敢い慰藉で辛くも其生命なき境遇に甘んずることができるのであると聞いては、吾人日本人として一掬同情の念を禁ずることができないのである。
斯の如く煙草耕作地に雇傭されてる妾共が、新陳代謝してデレに滞在するもの、多きは十五六人少くとも七八人はあるので、是がため日本雑貨店若くは料理店は年中賑って居るのである。吾輩の見る処に依ると、彼等は日本料理店の二階で賭博を行るらしい。で、其際に相手の日本無頼漢と醜交を結ぶやうになるのであるやうだ。
デレは一名メダンともいふ、日本人協会がある。滞在中は柏木亭と云ふ宿屋に止宿したのである。
(十一)林中の冒険
序だから此方面の呉服行商のことを話さう。東印度方面に醜業を営む日本の婦女其数幾百千、是に付随する楼主誘拐者妓夫幾百、是等が是より説くかんとする呉服行商人の常顧客である。(p111)
(十二)馬来半島を経て緬甸に入る(p112~)
・・・スギブセを経て陸路テレンシンに向った。此地方も錫の産出が盛大だ。併し其鉱区は大抵英国人の所有である。
此方面の日本醜業窟は他の東印度諸地方と異り、入口に目隠しがあって、其中に入ると所謂女郎が張店をして居るのが見える。而も長煙管を構へた処は大に国粋を発揮したもので、真黒な素見の兄イ達をして、吸付煙草で魂を有頂天外に飛ばさしめる計略かと思ふと、吾輩もそゞろに物の哀れを催したのである。(p114・115)
ニコバル群島アンダマン群島を左舷に見て、五月一日午後一時頃イラワヂ河口を逆航し無事蘭貢(振り仮名ラングン)に入港した。(p117)
御多分には漏れない日本の醜業婦が、此処にも三四十人は居て、夫が相応に繁盛しつゝあるから妙だ。(p119)
翌日午後六時頃汽車はマンダレー駅に到着した。停車場を出て日本人の居所を訊くと、例の赤帽が親切に教へて呉れた。日本人居留地といひたいが、どうもさうはいへないから日本人の居所と書いたが、外でもない例の醜業窟なのだマンダレーに来ては其処を訪れるより外に行く処はない。日本人といへば醜業婦及び其抱主ばかりだから詮方がない。
赤帽に教わった通り来て見ると成程日本人が居る。いふ迄もない婦人だ。路次の突当る木造の二階家を訪れると、年の頃なら卅七八、顔の白粉焼けのした眼瞼が気味悪く黒くなって、生際の薄い婦人が出て来て、是は又意外だといったやうな顔付をして入口に突立った儘、吾輩の顔を穴のあく程凝視て居る。何しろ異様な服装をした風来坊が飛込んだのだから、先方も定めし驚いたであらうが、まづ名乗りをするに如くはないと、名刺を出して無銭世界探検旅行の次第を物語ると、何は兎もあれどうぞ此方へと導かれたのが二階の応接間、丸卓を中にして吾輩と主婦とは相対して座を占めたのである。
当時日本の無頼漢が多く東印度諸地方に入込み、夕に銅色男子を迎へ、朝に黒色の郎を送る醜業婦が、同胞の慰藉同情なきに泣いて居る矢先を見計ひ、甘い口車に乗せて衣類所持金までも捲上げつゝあったことを聞いて居たので、先づ此種の誤解を避けるために口数を尽して述べ立てると、先方も始めて安心したと見え、
「実は英国政府の命令で、廓内には日本の男子は入れないことになって居りますが、さういふお話で厶いますれば、宜敷う厶います。手前共でお宿を致しますから、どうぞお心置きなく御逗留遊ばしませ。」と早速承諾してくれて、夫からは下へも置かぬ待遇振り、直ぐ一間を吾輩の専用にあてがひ、・・・(p122~124)
(十五)牛糞の如き印度人(p146~)
カルカッタの日本女郎屋は、香港新嘉坡乃至他の各地に於けるものと、大に趣を異にして居るので、其家屋及営業方法が中々ハイカラであるのみならず各楼主の経営にかゝる日本人倶楽部は、慥かに印度南洋方面に於ける遠征娘子軍中に異彩を放って居る。
早合点しては困る、女郎屋の主人公に依って組織された倶楽部は、恐らく遊興を強ゆる一種の機関ではあるまいかと、否々決してさうでない。一体日本人で印度視察に来るものゝ不便とする処は其旅館で、多額の旅費を持って遊山三昧の旅行なら格別、カルカッタに来るものゝ多くは、仏教研究とは仏跡調査が主なる目的で、上等の旅館に頑張って贅を尽す訳に行かない。といって下等の旅館には種々なる障害と弊習があって、迚もポット出の日本人には安心して滞在することができない。要之日本人倶楽部は此不自由を救済せんとする目的で建てられたもので、いはば各楼主の暗黒なる他の一面に於ける慈善的光明面で、軽い財布を首に掛けて印度に来たものは、大抵此倶楽部から多大の便宜を得るので、其献身的設備に対して感謝しないものは、未だ一人としてあるまいと思はれる。(p155・156)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767232/22
宮川寿美子「 女房説法鉄砲 三ぼう主義」明治44年11月20日発行 ※1911年
東洋諸港と醜業婦
茲に、忌はしき話があります。私共が英国に参ります途中、上海及香港に上陸した時には、私共日本婦人四人が皆日本服を着て、見物に出掛けました。
ところが明日はシンガポールに到着と云ふ前夕、船の事務長が、私共に向ひ「明日御上陸の際は必ず西洋服を御用ひなされませ」と、之れを聞いた時、あまりに異様なる為め其故を尋ねましたら、シンガポールにて日本婦人が日本服を着る時には、売笑婦と見間違へられるからとの答へであった。
其時に日本服がかくまで、辱しめを受けて居るかと残念に思ひました。皆さまと上陸し色々話を聞けば、此処には数百人の日本人が居るけれども、三大節に(元始祭、紀元節、天長節、)正々堂々と私は日本人で御座ります。と領事館に頭を出す事が出来るものは、ほんの僅かで、他の多数吾々日本国民殊に日本婦人の名を汚すものであるとの事でありました。其被も折々は怪しげなる相乗りの姿をも見受け、一層忌はしき感じを起しました。
私は未だ日本人の諸処の殖民地には行きたる事がありませんが、若し、其土地に宗教家のやうな精神教育者が先きに行かずに、賤しき島田頭が先きに行きたなら、英国の殖民地と、大いに趣きを異にするであらうと思ひます。・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798475/143
村上助三郎「東京闇黒記. 続編」1912年 ※明治45年
日本娘子軍の勢力範囲
▲海外に勢力ある日本醜業婦
我邦醜業婦の出産地として最も勢力を持って居るのは南日本では九州が本場で殊に激しいのは、天草を随一として、島原付近であらふ、又北日本はどうかと見ると、越後、越中、秋田、山形等であるが、海上万里に迄暴威を振うて居ると云ふ処までは行かぬ。重に内地にごちゃごちゃしてゐる丈けである。
扨て瑞穂の国の清らかなる大日本が海外まで醜業婦を出すやうになった一大理由とも見るべきは、天草の乱である、彼の天草が自由信仰として切支丹乃ち耶蘇教を信じた事が非常に当時の為政者の忌むところとなったのが原因で、遂に島原の騒乱となり、彼等の大敗に終ると同時に、武門富者は非常なる圧迫を受けたのである。それかあらぬか、其の子孫は富と権威の圧する所となり、人にして人にあらざる悲境に陥った。そこで如何なる方法でも左様だ、手段の如何は問はず、兎に角も金を獲ることさへ出来れば、不平を慰安することが出来ると覚へず知らず習慣は第二の天性となって、蘭人などを相手にしたのが海外醜業婦の権輿である。さア、こんな事があると、其土地では大に歓迎した、今迄の水呑百姓一躍して、美服の人となり、家には土蔵が建つと云ふ有様であるから、吾れも吾れもと醜業に進むと云ふ形勢になった、維新以後各国と交通が開けて、海外往来の自由が利く自代〔ママ〕となるからは益々彼等の跋扈を見るやうになったのである、かくて、此の風習は、日本諸国に瀰漫するやうになった、横浜、神戸等の開港場では、ラシャメン上りの婦人が一部に囃されてゐるのも、嘗ては島原天草等の風習が東漸して来た一証例である、恁那ことは決して褒めた事では無い。併し現今の日本の膨脹が奇妙に此醜業婦がさきがけとなって居る、言換れば三味線太鼓の先ぶれが日本の発達であって見ればなんともしやうの無い訳である。
此等の醜業婦が世界に幾何の数を以て蔓って居るかを統計的に顕はすならば左の通りである。
▲海外醜業婦の発展地図(最近の調査)
△北方(敦賀港を出口として流出するもの)
浦鹽斯徳 208人
ハヾロフスク 154
ブラコベシチェンスク 153
ニコリスク 107
ニコライブスク 102
ハルビン 164
トムスク 10
△南方(長崎港を出口とするもの)
新嘉坡 1,600人
馬来半島諸国 65
マラッカ 65
ピーナン 450
蘭領印度 ?
ジャワ 165
スマタラ 280
ボルネオ 160
英領ボルネオ 70
セレベス ?
アル― ?
印度カルカッタ 105
同 孟買 ?
錫蘭 ?
南方にあれども以上のものと稍系統を異にするもの
上海 493
香港 163
ヒリピン=マニラ 110(此地方に在るものは香港と密接の関係を有す)
△西部(門司を出口とするもの)
満州諸地方 1,117(芸妓と称するものも算入す)
同 鉄道付属地 831(同上)
△東部(神戸横浜を出口とするもの)
桑港方面 550
シャートル方面 101
此外布哇及び米国のロッキー山以東の分は省略す
以上は各領事の報告を根拠として編成したるものだから、その実数は四五倍に上ること必定、ドウも一驚を喫せずには居られぬ、我が海外輸出品の主なるもの此等娘子軍の先方に頼りて僅かに発展して行くのである。
▲海外醜業婦の経路
前表の如く北方の露領方面に敦賀を門口とし、南洋方面は長崎方面を門口としてゐる。最も門司からは中国辺の女も随分出る。そして長崎門司辺から出る女は多くは上海、厦門、又は香港より、比律賓諸島に連り直馳せして新嘉坡に赴く者は、馬来半島を根拠として、蘭領印度諸島より英領印度、遠くは亜米利加の東海岸に拡がってゐる、そこで其の経路を辿れば、地方に出づるのは、先づ最初に浦鹽斯徳に落着き、それから北に進んではニコライフスク、内地に入ってブラゴウイスチェスク、ハヾルフスク、遠くは、バイカル以西のトムスウ〔ママ〕まで出掛けてゐる。而して他の一隊は哈拉賓より北満洲に蔓ってゐる。又南方は一度玄界灘を越へたなら、非常に堅い決心が出来る、そして或者は上海に踏み止りて、南清一帯を侵し、香港に上陸する者は、更に比律賓諸島に転じ、新嘉坡に根拠を据ゆるものは、蘭領諸島又は英領印度亜弗利加等にまで及ぼすのである。
彼等が初めて長崎乃至門司を出るにも、無論公然に出る訳で無い、水夫と通じて石炭や貨物の下積になって三日も飲み食はずに心棒する、そして海上遠く山陸も見ない処へ行ってから初めて人体を顕はすと云ふやうな奇抜な真似をやるので、こうなると、船中のものが聚て集って揄揶ても平気の平左衛門で最後の目的を達し、錦を着て国へ帰ることを期するのである、こんな工合であるから、船中で人の妻なども屡々之と見誤られて非常に迷惑することがあるとの事だ。
▲北方に発展せる者と南方に発展せる者
北方の醜業婦は多く寒風肌を刺すと云つやうな土地に向って進むのである、日本内地の醜業婦は三ヶ年四五十円位が普通であるが、海外へ出るやうになると大抵二百四五十円から三百四五十円位になる、いや千円以上にもなる。之は南日本の女でも大抵同格である、そして彼等は郷を出る時は金さへ溜まれば国へ帰ると云ふ考へで行くのであるが、扨て行って見るとそう言ふ訳にも行ぬ、満洲などでは片遊金三円、泊込六円位で客を取るのであるから精々働きさへすれば、直き借金も抜けて帰国も出来さうに思ふが、日本人は情のために精神的捕虜となってしまふ、北国の女は随分胆剛なりと云ふ処もある、浦鹽辺の強盗は金を出せば命を助けると云ふセリフの奴等でない、命を貰ってから金を掠める手合であるが、日本醜業婦の胆力には何時も一目を置いて服従して居るとのことである、併し温い処は何処までも温かい、呼吸も氷ると云ふ宵などに醜業婦等が日本人を訪ねて、洗濯物などを手伝ったり時に爐を囲んで「おしょろ高島」も出るのである、又異郷党と云うても、向うから同情して呉れゝば一身を捨てゝもなどゝ云ふ女が居た、その女が病中に或る露人が半年も介抱した、其恩義に惚れ込んだが戦争が始まる頃であったから、日本人は皆引上げることになったが、此女はどうしても帰らない、残留日本人の捜索が初まって一度二度までは遁れたが三度目に捕まって牢屋へ入れられた。それでも進んで帰らぬ、其夫は二千円の賄賂を使って牢屋から救ひ出したので泣く泣く帰国したと云ふ実話がある。
▲南洋の貿易と醜業婦
南洋で日本醜業婦の根拠地としてゐるシンガポールには、日本旅館と三井物産会社支店と愛久澤直哉〔ママ〕の護謨畑地と外に二三の石と大利商会日新商会等が行って居る、此辺我国人は約千七八百人であるが、大部分醜業婦が其勢力を占めて居る、南洋に於いて日本人の行って居る土地中醜業婦を差引いたならば殆ど零と云ふに憚らない。
此醜業婦は前表の如くシンガポールを中心に馬来半島は勿論、ピーナン、マラッカ、南洋ジャワ、スマタラ、ボルネオ、セレベス、アロウ、濠洲大陸から亜弗利加の東岸にまで遠征を試みて居る、是等醜業婦に伴うて、大に勢力を殖して行くのは、吹矢商人である、プッと一息吹き出すと、小さな矢が向ふの土塀に当って勝った敗たと楽む娯楽的商売と相携へて到る処に調和されて居る。
又商人としては例の米井商会で、之れは丁度醜業婦其他に日本の一般品を供給するを以て非常に利益を得て居る、其方法は丁度富山の薬売が、今年の薬価を翌年に廻って集めるやうに、色々の品物を持廻る、そして現に日本ではどんな品物が流行って居るかを巧みに観破して流行流行と追うて販売するのは実に恐るべき手腕である。此商会が商品で最も先駆に売出したのは、ボンボン時計、マッチ類で、今では三越や白木屋の衣裳までも年々の流行に伴うて販売して居る、醜業婦等が着もしない縮緬の羽織とか、光琳の帯とか、東下駄とか買って、御供物のやうに恭しく奉持して喜んで居るそうだ、勿論熱帯地方で丸帯でもしやうものなら、熱くて耐ったものでなからふ、こんな生活をして居るから、仮へ黒ん坊にても親切に絆されて夫婦になると云ふ実例もあって、最初の目的通り金を蓄めて、国へ帰るのは半数もないと云ふ事だ。
以上の説明で世界を家とする我国醜業婦の動静一般を覗うことが出来やう、国辱と云はゞ云へ、自分は彼等遠征の意気又一点賞すべきところあるを認むるものである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798818/193
山浦瑞洲「一兵卒乃告白」大正元年11月18日発行 ※1912年
麗水は南海岸の一小港にして、日本居留民も百余名を算せしが、此の倉村とては極めて山間の僻村にして、日本居留民は僅か五六人に過ぎず。
さるにても奇なる現象は右五六人内の、一名は順天守備隊御用商人の出張員、一名は料理屋の主人、他は例の醜業婦なること是也兼て聞く『殖民地に醜業婦を送るは是れ植民政策の妙策なるもの也』と、其の言の適否善悪は兎に角、先づ渡韓以来瞥見したる彼の麗水と云ひ、順天と云ひ、又此の山間の倉村と云ひ、彼等醜業婦の跋扈には殆ど一驚を喫せざるを得ず。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/80
酌婦を解せず。市内松公園内、料理店、松金、抱芸者、梅八、事、西本サキは、今度、内地へ帰り、大阪府下、西成郡勝間村生れ、金沢ノエ(十九)が丁度、遊んで居れば、満州にいっては何うか、酌婦をしても、月に七八十円の収入はあると、例の調子で誘ひ出し、一日入港(の)台中丸にて来連したが、満州の酌婦は内地と違ひ、女郎と一緒と解り、這麼(こんな)恐ろしい所であったら、来るのではなかったと、頻りに悔み居るより、松金の主人も呼出され、相談の末、ノエは一先づ内地へ帰る事となる。(満州日日新聞、大正二年八月二日) ※1913年(倉橋正直「従軍慰安婦と公娼制度」p122)
山根伝「現代青年の奮闘す可き南洋の新天地」
第一章 海峡植民地
新嘉坡市
市内の商店は支那人七部を占め馬来人、欧人、本邦人此に次ぐ
邦人経営の商店=市内に住する邦人約三千余人、其大半は婦人にして売笑婦たり、商店としては呉服雑貨を営業し、旅館、売薬店此れに次ぐ、彼等は只蝸牛角上の争に等しく、商品は重に日本人向を専らとし・・・http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947858/15
彼南、(ピーナン)
住民=住民の六部は支那人にして馬来人、印度人、欧人之に次ぐ、本邦人の住するもの二百余人其大半は新嘉坡と同じく婦人にして他は売薬店、雑貨店、旅館とす。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947858/17
第二章 蘭領植民地
スマトラ島
住民=本島の農業耕作に従事する労働者は実に支那人にして賃銀莫大なり、邦人にして移住する者も近時非常に多く、彼等は売薬を主とし電気機械商、呉服商之に次ぐ婦人の双影を認むるこゝにも多し、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947858/19
佐野実「南洋諸島巡行記 : 附・南洋事情」大正2年12月28日発行 ※1913年
醜業婦の大打撃
余は泗水滞在中に或人から左の話を聞いた。一九〇八年に交替した吧城(バタビヤ)総督は非常なる基督教信者で施政方針も前総督時代と異って居る、従て醜業も一九一〇年三月限り禁止さるゝことに為るとの事であった、然るに此三月二十七日の昼頃例の巡査が来て、今日行政長官は日本の醜業婦を役所に呼び、今月限り営業を停止し且つ此の美拿登県管轄意外に出立す可き旨を申渡したが、彼等の歎願に依り来月十五日迄延期を許されたとの事を語った。余等は別に関係ある事でもないが、此事が果してミナド丈けであるか左なくて蘭領全体とすれば、夫れこそ三千内外の醜業婦は如何なるだらう、其の職業の善悪は別論として差当り如何なる所置を取るだらうかとK君と話しをして居る時、女郎屋の主婦が突然やって来て、今日役所での一件を心配相に委細物語って、蘭領東印度全体が此様であるか、又営業を停止さへすれば立ち退く必要もあるまいと思ふが如何で御座いましょうと不平半分に役所で聞く可き事を余等に聞いて居る、余等は兎に角にも、役所と争ふては却て不利益だから船の入港も間近の事であるから、夫れ待ってば泗水地方の様子も分らうしするから、其の船を待つ方が宜しからんと諭してやったが、船が入港して瓜哇地方も同様であると分ったので、今は二軒の醜業屋も途方に暮れて居たが、瓜哇地方は定めし大騒動であらうと想像する。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950708/112
救世軍日本々営「日本の救世軍とは何乎 何を為しつゝありや」大正2年9月25日発行 ※1913年
いつぞやも、警察官が大連市中を巡回するうち、二人の少女が塵箱を探して食物を求むる有様の、如何にも憐れなのを見て之を怪み、取調べて見ると、此両人は姉と妹にて、名古屋の者であるが、芸者の見習として次から次へと売り渡され、近頃大連に来た処が。其抱主が邪見にも、芸を覚えることが鈍いといふては度々絶食を命ずるので、空腹に堪えず、果は塵箱をあさって食物を求めて居るのであると分った。民政署では其二人の少女を取りあげ、これが保護を救世軍の婦人ホームに托さるゝこゝ〔ママ〕になった。ホームの士官が少女に其身の上の事を尋ね、「お父さんは」と問ふと、「もう死んでしまふた」といふ。「お母さんは」と尋ねると、「四人あるうちの何れか」と問返した。次から次へと芸者屋の手に渡り、往く先々の主婦(振り仮名「おかみ」)を「お母さん」と呼ばされて居る故、偶々「お母さんは」と問はれて、「四人ある中の何れか」と問返したなどは、如何にもいぢらしいことではないか。此二人はまだ漸く十三歳と十一歳とに過ぎなかったのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922980/30
烏賀羅門「朝鮮へ行く人に」大正3年8月8日発行 ※1914年
口入業
八軒
月収 八九十円位口入屋の、其看板には、孰づれも皆例に依て男女云々とあるにはあるが、それこそ看板ばかりで、実に釜山の口入屋には、男を取扱ふものは一軒もない。開業以来未だ曾て男を周旋した事はないと云ふものもある。全く女専門だ。例の芸娼妓、仲居、たまに下女、而して、蔭から蔭への日蔭者も無論ある筈。需要口は、釜山にもある筈ではあるが、周旋人は成るべく、遠い土地へ遣りたがる、これには自家の利益上ニ三の理由があって存するのだ。大多数は、馬山、郡山、縣洞、蔚山と云ったやうな、邑落へ遣る。人間商売は薄情商売で、挙って碌なものではないが、中にも口入屋ほど非道なものはあるまい。実際罪悪を云へば女郎屋、婬売屋に優るとも劣りはせぬ。随分下等で、不浄で、何んのシャ面下げて、と憎くい。残忍、横着、舌を二枚も三枚も持ち、千枚張りの面の皮を持たなくば出来る商売ぢやないが。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952070/102
大森清次郎「南洋金儲百話 実行容易」1914年 ※大正3年
第三十話 素晴しい娘子軍の勢ひ
異境万里に咲き匂ふ大和撫子と云へば、実に詩的に聞えるが、晨に越客を送り夕に呉客を迎ふる浮川竹、身を浮草の根もない考へから、国の恥をも恥と思はず、有髯の男子さへ行きがてにする蛮域へも、平気の平左で押掛け行き、黒白黄銅の色を選ばず、一切平等に博愛を振撒き、衆生の色餓鬼を済度し給ふ、ても有難いと渇仰の涙を流す二本棒が、縞の財布の空になる頃は、金の切目が縁の切目との有難い引導を渡され・折角図南の雄志を抱いて踏出して来た青年が、失望落胆自堕落の深淵に沈み行くを常とする。戒しむべきは色欲の道である。
在南日本人の統計を見ても、女子は男子の約倍数ある。其の十中八九は醜業婦であると云ふに至っては、吾々日本人たる者全く汗顔を掩はずには居られない。彼等は大抵九州天草辺の女労働者で、生活の為めと虚栄の為めからで、素より教育もなければ何にもない。生れて只大きくなったと云ふのみの野育ちで、貞操も外分もあったものぢゃない。新嘉坡のマレイステレツへ行けば、軒端に椅子を持出し、赤い模様沢山の衣服を着込んだ、正札付の売女が陳列され、淫猥聞くに堪へぬ言葉を喋り立て、頻りに嫖客を呼び込んで居る。尤も日本の醜業婦ばかりでなく、黒奴、支那人、馬来人西洋人など殆んど世界中の女を集めて、盛んに風俗を乱して居るのである。
植民地で金廻りの好い所から、日本の醜業婦などは頗る収益が多く、身に絹布を纏ひ、金銀珠玉を付けて贅沢な暮しを営み、已に数千金を貯へて居るものもあり。彼等が本国へ送金する高は年々七十万円以上だと云ふ。従って購買力も比較的に強く、贅沢な商品は大抵彼等が買ふのだと云ふから、何だか奇妙な感じがないでもない。で、ドコソコのホテルに日本人が新規に来て居ると聞けば、昼間馬車や自動車などでやって来ることもある。而して彼等の方で散財して遊ぶのである。又中には日本の男子を妾に置くのもある。実に素晴らしい勢ひと言はねばならぬ。
山室軍平「社会廓清論」大正3年10月19日発行 ※1914年
第六章 海外醜業婦
○日本の令聞を奈何
一年程前に在東京の英国人セシル監督は、シンガポールより受取りたる半官的の書面を添へて、一通の公開状を時事新報社に寄せ、「日本の令聞」の為めに其在外の醜業婦を取締らんことを求められた。監督が受取られたる書には、「日本国より馬来に向ふて輸入せらるゝ婦女の売買に関して、少くも教育ある日本人間になりとも、輿論を喚起することは出来間敷や」とあり、事実を証明する為にとて、左の一表を添へてあったのである。
馬来連邦人口調査報告(一九一一年)
男 女 合計
在留日本人総数 337 1,692 2,029
内訳
ペラク在留 125 629 754
セランゴア在留 116 579 695
南セムピラン在留 71 262 333
パハン在留 25 222 247
(摘要)馬来連邦に渡来する日本人の数が、一九〇一年には五百三十五人なりしに、一九一一年には二千〇二十九人となりしは、実に驚くべき増加なり。十年前に在留せし男女の数に比すれば、現今は殆んど各四倍となれり。此劇増はセランゴアにては余り著しからず。此地にては只二百三十三人より、六百九十五人に増したるのみなれども、而かも連邦一般に其劇増すを感ずること甚しといへり。馬来(マライ)連邦に渡来する日本婦人の多くは、醜業に従事する女なり。又日本の男子移民の多数を占むる下等民中には、一定の正業に従事するもの甚だ少なし。
右の表に由て見るに、日本人は男子一人に婦人五人の割合にて、其地方に出かけて居ることが分るので、唯此一事に由りても、彼等の中に如何に多くの醜業婦が居らねばならぬかを、事実の上に示すものと言ふべく、真に汗顔の至りである。時事新報汽車が其事につき「日本人としては如何にも慙愧に堪へざる次第なると共に、道徳高き宗教家の人々が、斯くまでに懇切なる配慮を為すを見るときは、其配慮に対しても、之を其儘に打捨て置くべからず」と論じたるは、如何にも尤ものことと思はれる。
○一箇師団以上の醜業婦
然るに日本の醜業婦が海外に赤耻を晒して居るのは、唯馬来連邦だけではなく、それこそ南満洲、北清の辺りは言ふも更なり、西比利亜にも、印度にも、南洋にも、阿弗利加にも、太平洋沿岸にも、到る処彼等の徘徊しない処はないやうな有様にて、今では海外に醜業婦を輸出すること、日本の如きものは世界にないと称へられて居るのである。然らば一体、日本からはどれ程の海外醜業婦を出して居るかといふに、目下日本人の海外諸国に在るもの約参十万人にて、内雑と其一割位は醜業婦であると伝へられる。それに就て左に雑誌「新公論」に掲げられたる鬼哭生の一文を抜萃したいと思ふ。
日本から醜業婦が海外に出て居ることは聞いてゐた。しかも日本の海外発展は醜業婦から始まると云ふことも聞いてゐた。しかし其数がこんなに多いとは夢にも思はなかった。統計について其示す処を見よ。統計に現はれてゐる料理屋、飲食店、遊芸家業、酌婦、雑業、無職の女は之は大抵は醜業婦である。之を寄せたものは実に各地、左の如き数となってゐるのである。
△支那 16,424
内、関東洲 8,388
間島付近 198
局子街付近 50
頭道溝付近 21
琿春付近 65
安東 771
奉天 790
新民府付近 23
遼陽 300
鉄嶺 289
牛荘 1,924
長春 573
吉林 70
哈爾濱 656
斉々哈爾 452
天津 251
北京付近 51
芝罘 221
上海 747
南京 22
蘇洲 4
漢口 384
長河 6
福州 24
厦門 91
広東及仙頭 53
△新嘉坡(英領)2,086 ※シンガポール
△香港(同) 485
△柴棍(仏領 192 ※サイゴン
△マニラ(米領) 392
△バタビヤ(蘭領) 970
△バンコック(暹羅) 8
△孟買(英領印度) 147 ※ムンバイ
△シドニー(濠洲) 74
△桑港(米国) 371 ※サンフランシスコ
△シカゴ(同) 35
△ポートランド(同) 27
△ホノルヽ( 哇) 913
△晩香坡(英領加奈陀) 83 ※バンクーバー
△亜爾然丁(南米) 6 ※アルゼンチン
△秘露(同) 23 ※ペルー
△墨西哥 24 ※メキシコ
△倫敦(英国) 7 ※ロンドン
△独逸 4
△露西亜 4
△浦潮(露領) 1,087 ※ウラジオストク
総計 22,362人
実に驚くべき数である。日本人の海外に出てゐるものは総数約三十万であるが、其約一割は醜業婦である。此の多くの同胞が何の為に外国まで出て恥を晒してゐるか。其多くは日本の何辺から行ったものか。主な処での彼等の生活の有様は何うであるか。
○海外醜業婦の輸出事情
斯く迄多数の海外醜業婦は、如何にして其本国を立出で、又如何にして各地に集散せられて居るであらうか。
試みに日本郵船会社の欧洲航路の汽船を見るならば、どの船にでも三等客の女で怪しいのが乗って居ないことは無い。之は大抵、香港や、新嘉坡、上海などに行く醜業婦である。月二回の欧洲航路には、毎船往き復りに必ず居るばかりでなく、社外船の如きは実に多い。三等客の幾分は、醜業婦と其関係の男である。之が取締なども厳重だとは云はれてゐるけれども、夫は形式だけで、上海でたゞ水上警察から一応見に来ると云ふ位なもの。彼等は大手を振って公然の渡航をしてゐる。中には石炭の中に隠れて密航するものも無いではないが、之は極めて少数で、大部分は官憲も見て見ぬ振り、大目に通してやるのである。これ等の醜業婦は皆門司から乗船するのであるが、其国元を調べると多くは九州もので、醜業婦輸出で有名な、島原、天草付近から出るのである。中には神戸や東京付近から、近頃では北国からまで、買はれて行くものもあるが、それは少数である。是等の女は何で海外まで恥を晒しに行くかと云ふに、彼等に取っては、海外に行って醜業を営むのが、嫁入仕度に行く位の心持で、所謂稼ぎに出るのである。故に彼等は少しく金が出来ると、日本服の晴着や帯などを買ひ調へる。彼等は全く無智の女である。街頭を行く紳士を捕へて「アンサマ」と云ふより外に、何事も云ひ得ず、語り得ざる憐むべき女である。其多くは貧家の女、百姓の娘で、渡航しては女子供の着るやうな赤いメリンスの浴衣を着て、新嘉坡のマライ街あたりに嫖客を呼ぶのである。我が同胞が海外で斯かることをしてゐるのを見ると、何とも云へぬ不快と哀愁を感ぜずには居られぬ。さて日本の醜業婦の北に行くものは大連を根拠として、これより奥に入るのであるが。南に行くものは、前には香港を中心として、新嘉坡、比律賓、柴混等に入り込んだものだ。然るに香港は近頃日本の紳士、紳商が多くなったので、自然体面を重んずるやうになり、芸妓が多くなって娼婦の方が減ずるやうになった。それが為め近来では新嘉坡が其の中心地点と変り、香港は第二位に下り、其の繁華の度も、新嘉坡は新進の気著しく現はれ、香港は稍停滞の気味がある。香港では事業をしてゐる人々の間では、醜業婦関係のあるものは、排斥されるやうになったが、新嘉坡では、表面は其気味もあれど、内部では醜業婦の助力によって成功し、其の便宜を得て仕事をするものが多く。今では日本醜業婦の南方発展の中心は、全く新嘉坡に移ったと云ってもよい。こゝを中心として仏領印度、ピナン、スマトラ等に入り、スマトラのデリーと云ふ処から、更に英領印度、カルカッタ、ボンベ―等にまで行くのである。
○日本国民の耻辱
明治三十七年の晩春、私共は間もなく英京倫敦にて開かるべき救世軍の万国大会に出席する為め、一行六人にて仏国郵船ポリネシエン号に乗り、欧洲航路にて出発したのであるが、一日船が香港を出やうといふ間際に、私共が食事をし居る最中、忽ち日本を出て以来、絶て聞き慣れぬ駒下駄の音の如きものが頭の上に響くのを聞いた。不思議なこともあるもの哉と、訝りながら尚も食事を続け居ると。そこへ狭い階段を下りて入って来たのは、白地の浴衣に細帯をしめ、団扇を片手に持った二十八人の日本醜業婦の一隊と、それに付添ふ者とを加へて合計三十三人の一行であった。彼等がカラリコロリと駒下駄の音を立て、入って来ると下等な仏蘭西人などの乗客が、拍手喝采して之を歓迎する。此有様を一目見た私共は胸つぶれて最早ナイフも、ホークも、動かなくなってしまふた故。直ぐに食事をやめて一室に退き、一行六人にて先づ涙ながらに天父に号泣したのである。「オヽ我が神よ、これ迄日露戦争の風向の好いことなどを恃み、日本人と生れて来た光栄にのみ酔ふて居ったる私共は、今図らずも、こゝに此大なる国民の耻辱を蒙らねばならぬことゝなりました。私共の区々の耻辱は言ふに足りませぬ。併し乍ら彼等に由て毀損せらるゝ日本国民の体面は、如何にして之を保持することが出来ませうか。一体私共は斯かる場合に出あふた日本人として、殊に日本の救世軍人として、どういふ処置を取ったら可いのでありませうか、神よ力弱き私共を助け給へ。彼の耻を異境に晒らす不幸なる婦人達を憐み給へ、日本国民を救ひ給へアメン、アメン」と
○淫売は日本人の耻晒し
斯くて後、私共は堅い決心を以て起ち上ったのである。「仮令此場合自分共に何程の事は出来ずとも、力に及ぶ限りの事は之を尽さねばならぬ」と。それから毎食事の後で、名を聖書研究に借り、彼等と其他二三の日本人の乗客を目当に、大声に説教を始めたのである。「なぜ、あなたがたは然ういふ不心得なことをして、日本人の顔に泥を塗り、自分では亦滅亡の道に堕ちて行くのか。なぜ今の内に思ひ直して、正しい道には帰ることをし得ないか」と。此ういった様なことを其度毎に説教して居ると。そのうち婦人達の中から私共の一行の、殊に女士官に近づき、其身の誘拐せられた顛末などを訴へて、忠告を求めるものも現はれるやうな始末。それを見て取った付添の者共は、給仕長に相談して、彼等の食事の時間を取り変へ、私共と同じ時刻には食堂に出て来ぬことにしてしまふた。のみならず亦其婦人達を追ひまはして之を監視し、一人も私共の仲間に近づかさない様な工夫をし出したのである。其為め私共は、最早食堂にて説教するともその甲斐がなく、亦彼等と対話する機会もなくなったゆゑ、これではならぬと、今度は誰か持合はせて居った一反ばかりの白木綿を六つに切り、細長い襷の様なものを作り、前の方には「いんばいは日本人の耻さらし。」後の方には「どんな難儀をしてもすぐ正業に就け」といふ様な文句を書き付け。それを肩から懸けて一行六人、朝夕絶間なく彼等の寄って居る辺りを右往左往に散歩することゝし。せめては彼等の眠れる良心に、多少の覚醒を与へんことを努めたのである。
○誘拐の事実
是に至って彼等に付添へる無頼漢の一人は、大きに腹を立て、凶器を携へて、私を刺殺さうと早やり立ったのであるが。其首領が之を押し止め、強て浴室に連れ込み、半日説得して漸く思ひとゞまらせたのださうである。後に其首領なる者が私共に会見を申込んで来たので、同行の矢吹少佐をして私共を代表して対面せしめると。彼は只管私共に詫言を述べ、「どうか新嘉坡迄目をねむって居てくれろ」といふのである。目をねむるにも、ねむらぬにも、私共とした処で、此場になって此以上に為し得る処もないのであるから、其儘これ迄やりかゝった通りをやり続けつゝ、船の新嘉坡に着くのを待兼ね、急ぎ上陸して日本の領事館を訪ひ、領事に会ふて船中にてありし事実を述べ、少く共本人の意志に逆らひ、余儀なくも然ういふ生活を営ませられて居る婦人を救護せられんことを求めたが、更に要領を得なかった。左に掲ぐるは其節、領事への参考にもと、予め船中にて認めて置た書類の謄本である。
一、明治三十七年五月十七日、香港より新嘉坡行の日本醜業婦二十八人、四人の男子と一人の婦人とに伴はれ、仏国船ポリネシエン号に乗込み来れり。
一、彼等の中多く悪漢無頼の徒に欺かれて、日本を去りたる者あり。今も如何にかして故国に帰り、正業に就きたき熱望を有しながら、然も悪漢無頼の徒の手中に陥りて為すべき所を知らざる者あるは、明確なる事実なり。
一、豊後の者にて姫野カツといふ婦人あり。二十歳の少婦なり。門司に滞在中、或男子より小倉に行かんことを誘はれ、之に従ひしに、其の儘石炭船に乗せられ、六昼夜絶食の後香港に上げられたり。而して心ならずも醜業を強ひられつゝあり。如何なる苦労難儀をも辞せず、帰国して正業に就かんことを熱望し、我等の一人に嘆願せり。
一、長崎県篠原上総七十番地八木シナヨといふ者あり、十八歳の少女なり。父は海軍大機関士を勤めたりしが、三年前拍子、兄三人は皆海軍の機関士たり。一人は軍艦八雲に、一人は出雲にありといふ。母より思はぬ先に嫁すべきことを命ぜられ、逃れて神戸に赴く。こゝにて或男子より好き奉公先に周旋せんとて船に乗せられ、其儘香港に連れ来らる。母に詫びて帰国し、正径の生涯を送らんことを熱望す。路用金の如きは、兄にさへ訴へなば送らるべしと信ずと言へり。
一、作州勝間田の者にて服部クマといふ者あり。二十歳也。神戸にて奉公中、佐世保に給料を多く払ふ奉公先ありとて、或男子の其兄と共に来り勧誘するに会し、之に従ふて乗船す。荷物と荷物の間に潜ませられ、数日間食物を給せられず、苦悶を極めたる後、香港にて上げられたり。心より醜業を厭ひ、正業に就かんことを熱望す。
一、松本竹子なる者あり。長崎県上町の者也。高等小学三年級迄卒へたりといふ。亦欺かれて今日に至りたる事情を訴へ、我等の一人に聖書を買はんことを求め、之を与へしに熱心繙読しつゝあり、正業に帰らんことを熱望す。
一、同時に彼等の大部分は、浴衣に細紐のしらだき風体にて、終日船中を徘徊し、下賤なる乗客と戯れ、時としては、裸体にて衆中に出づる者さへあり。印度の紳士にて、絹物貿易に従事するテラスダス氏の語る所によれば、五月十八日午前二時に氏は臥床に在りて寝返りせしに、同じ船室にて、一日本婦人が独逸人なる一乗客の寝台に入り居たるを見たりと。
一、乗客の一人、ドイツ人ウィルヘルム、トレンデル氏は曰ふ、日本の領事は宜しく、此の如き婦人等の上陸の際之を取調べて、其事実、他人に誘拐せられ、心ならずも此の如き有様にある者は、直ちに帰国の手続をなし得さすべきものなりと。
一、又英人、エー、ロニック氏は曰ふ、君等若し事を領事館に訴へんんい、若し必要ならば、余は喜び同行し、逐一余が目撃したる此不都合極まる事態を訴ふべしと。
明治三十七年五月二十日 ポリネシエン号にて
私は今に至る迄、其時出会ふたる婦人達の、気の毒なる身の上を、どうしても忘るることが出来ない。
○大連婦人ホーム
其翌明治参十八ね、日露戦役の漸く終を告げんとする頃から、満洲大連を経て段々奥へ奥へと入り込む日本醜業婦が引きも切らず、中にはひどい誘拐の事実等も甚だ多い様子を、見るに見兼ねて、当時青年会の慰問部に居られた、今の廓清会理事益富政助氏其他の有志が、満洲婦人救済会といふものを起し、彼等の幾人かを救済して、最初の間は救世軍の東京婦人ホームに送り届けて居られたが、余り遠くて不便利故、後には大連にて一軒の家を手に入れ、そこに然ういふ婦人を収容し出されたのが本で、終に一箇の婦人ホームが出来た。後其婦人ホームは之を救世軍に引渡され、爾来八九年間救世軍の手にて経営し、今日迄に計七百人余りの不幸なる婦人達を救護して来たのであるが、救済を受けたる婦人達の身の上に就ては、言ふに言はれぬ程悲惨なるものも少なからず、若しさういふ細かい話を始めたものなら、唯それ丈でも一冊の大きな書物となる位である。併し今はさう沢山なことを述べて居る場合でないから、唯其中の二つ三つ丈を左に紹介することゝ致さう。
本年春頃悪漢の手に誘拐せられて大連西通の某料理店に連込まれし姉妹ありき。生れは山口県吉敷郡平川村の者にて姉は十九歳、妹は十七歳の娘盛り、好き良人を迎へて幸福に暮すべき身の、哀れにも満洲風に誘ひ出され、奉公する気で来て見れば鬼住む宿の恐しき事のみにて、来た其夜より客を取れと強ひられ、厭と言へば打ち叩かれて、姉妹相抱いては泣き悲み居たるが、夜毎日毎の勤め愈々辛く、斯くては命も危かるべしと故郷の空のみ打眺めて、身の不幸を嘆き居たる結果、到底浮む瀬の有るまじければ、寧そ一思いに死なんものと、姉が泣いて言へば、妹も同意し、姉様に別れては生き存へる甲斐も無しと、両人窃に諜し合せて或夜家人の隙を窺ひ、跣足の儘飛出して彼方此方と死場所を探した末、漸く大桟橋に辿り付きて、今しも死なんと用意し居る処を折よく通行の人が認め、危ふく二人を取押へて能々不心得を諭したる上に、先づ婦人ホームに連れ来り、同所にて旅費を調へ、妹は故郷に帰りしが姉は面目なしとて当地に留まり、慈恵病院の看護人としていと神妙に勤め居たるも、此女よくよくの不運と見え、間もなく病死したりといふ。(満洲日々)
これは誘拐せられたる娘等が、悲嘆の余り姉妹相抱いて、投身するのを救はれたといふ物語である。
○娘を誘拐せられて発狂す
こゝに又其可愛い娘を誘拐せられた為め、発狂したる哀れな母親の物語がある。
本年二月、鉄嶺門外料理店住吉館事角伊三郎方へ誘拐されたる女ありけり。長崎県高来軍上総村の者にて、十九歳といふ花耻かしき姿を無惨なる、色魔の犠牲となり、泣く泣く勤め居たる折柄、国元にては母親が娘の安否をのみ思ひ暮して何うして居るやらと心配の矢先へ、不図娘が角伊三郎の手により更に満洲へ売渡されると聞き、驚く事一方ならず、そんな事をされては一大事なりとて、十二歳になる子と、九歳の子とを携へ、遥々大連に渡航して汽車にて鉄嶺に辿り行き、漸く娘に逢ひて事情を聞けば恐ろしき勤めを泣いて暮して居ると判り。母親は殊の外立腹して伊三郎に娘取戻の相談をなしたるも、根が畜生同様の根性なれば、容易く渡して呉れる筈は無く、其上親子を虐待して犬馬同様の取扱ひを為すにぞ、母親は女気の心も心ならず、果は精神に異状を来したる矢先き、九歳になる子が病気に罹りて呻き苦み居るに拘らず、薬一服呑ますでも無ければ却って厄介者だと罵り散らされ、碌に手当もなす能はざる為め、哀れやその子は死亡したり。さらぬだに心を痛め居たる母親は、娘の境遇と、己が身の上と、子供の死亡とに心益々乱れた果は、全くの発狂気となりて、あらぬことのみ口走るにぞ、此事遂に領事の耳に入り、伊三郎は呼出されていたく叱られ、親子三人は領事の手にて始めて人間世界に戻るを得たるが、漸く大連迄帰り来りしものの、帰国するさへ旅費なき有様に、是又婦人ホームの救ふ処となり、事情を聞けば哀れなる話と受持士官山田氏夫妻が甚く同情して、此の悲惨なる物語を社会の人に訴へ同情を求めたる処、世には仏もあるものなり、我も我もと義捐金を送りてその額七十円近くに上り、安心せし為めか母親の病気も全快し、親子三人が手を合せての喜び、幾度か嬉し泣きの涙を溢していそいそ本国に帰り行きしといふ。(満洲日々)
○少女の誘拐者
こゝに又数人の娘を誘拐し損ふて捕へられたる人鬼の物語がある。此ういふ人間の事も紹介して置く方が可いかとも思ひ、左に掲載することにしたのである。
昨日入港の商船大義丸の三等客、愛知県愛知郡下の一色村内藤キン(五十六歳)が同村木村末太郎長女イト(十七歳)同村森定吉長女サイ(二十歳)同村犬飼半三郎長女ハル(十五歳)の三人を拉れて上陸せんとせしを、現場に臨検し居りたる水上派出所の桃井、吉田の両巡査が、例の警察眼を以て如何にも怪しき奴と目星を付け、直ちに水上派出所に引致したる事は昨紙に逸早く報導したる所なるが、其後取調べたる所、全くの誘拐犯たる事判明するに至れり。而も其顛末は頗る込み入りたる事実あるを以て、茲に之を詳報すれば。名古屋市は熱田町字中瀬に雇人口入業の看板を表に掛け居れる野田常次郎と云ふは、口入は名のみにて、実は誘拐専門の悪漢なるのみならず、広く海外各地の同類と気脈を通じ、是れまで其地方の婦人を誘拐しては、海外に送り出したる事数知れず。今回内藤キンが前記三人の小娘を誘拐したるも、全く此男の指金に依るものなるが、偖此のキンの素性と云ふは、一色村の百姓にて、数年前より麦稈細工の営業を始め、村内は勿論近村の小娘を自宅に集めて麦稈編みをさせ居れるものにして、小娘を説き付けるには至極好き関係を持ち居るを知りたる前記の常次郎は、奇貨措くべしと、予てキンに対し婦女誘拐の事を利を以て誘ひたる所、キンは既に六十近き老婆にて片足は棺桶に突き込んで居る年輩なるに拘らず、却々死に欲が強く、つい利の為めに迷はされ、常次郎の同類となり、自分方の工場の婦女を甘く欺きては、常次郎の手を経て満洲より西比利亜掛けて誘拐し来りたるもの、これ迄にも甚だ多く、今回の被誘拐者イト、外二名も此手に乗りたるものなり。
前記三人の小娘は、本年始め頃よりキン方の麦稈細工に雇はれたるものなるが、固より女の仕事の事とて、一日に僅か十銭か、十五銭しか儲からぬより、外の好き儲け口もなきかと思ふ矢先き。廿日程前の事なりしがキンは三人に向ひ、「今度満洲長春の手堅き商家にて、下女が三人要るので雇入に来て居るものがある。月給は向ふ口で十円呉れるとの事だが、行くものないかしら」と話しをしたるに、此三人は騙されたとは知らう筈はなく、つい其話しに乗り気になり、親にも相談して愈々必要なる種々の書類を調へて、去る十三日大阪出帆の大義丸に乗り込み、老婆キンに拉れられて大連に渡来する事とはなりたり。偖て船は去十五日門司を出帆したりしに、キンは此れにてもう大丈夫これから徐々口説に取掛らんと、三人に向ひ。「お前達は国では堅い商家の下女奉公と云ったが、実はさうではなくて、長春に行けば酌婦にするのだ。酌婦となれば、淫売は勿論せねばならぬ。かう始めて聞いたらお前達は驚くだらうが、もう此処まで乗り出して来れば仕方がない。嫌なれば直ぐ此処で前借を返せ、さもなくば、之から私の言ふ事に従ふか」と。死地に臨んだ小兎と知って、狼にも劣らぬ残忍の嚇し文句を浴せ掛られたれども、旅の空とて依頼りにする人も無き小娘三人は、何の分別も立たず、つい渋々ながら老婆の言に従ふ事になりたるを、キンは又々三人に向ひ、大連上陸の際に於ける警察の取調に対しては、何処までも「酌婦となります」と答弁すべしと迄に抜目なく教へたり、水上署にては前記の如く四人の者を船中より引致したる後、小原部長は直ちに取調べに着手したる所、此三人の女は、長春城内三東街料理店内藤ヤス方にて酌婦として拉れ行くものにて、当分大連の磐城町菓子商白木庄太郎、信濃町第三楼民澤一知、若狭町徳泰号犬飼観二の、三軒の内に宿りますとの曖昧の返事をなせり。仍て更に娘の方を取調べしに、前記の如く三人は充分に仕込まれ居る事とて、飽まで酌婦となると申立つるに依り、書類を調べ見れば、総ての手続の完全にして、之には警官も手の付け様なく持て余しの体なり。話頭一転、本月四日入港の大義丸にて渡来したる同郡一色村の西川エツ(十七歳)と云ふ美人は、矢張右の悪婆キン方の麦稈細工の雇人なりしが、キンの勧めに依り前記常次郎の手許を潜り、熱田町冨澤町石田ヒサ(三十五歳)の為めに拉れられ、市内監部通春日洋行へ下女奉公する約束にて来たりしが、話しと事とは全く異り。ヒサの為めに統合街食道楽濱の家に百円にて売り飛ばされ、卑しき酌婦となりたりしが。忽ち子宮病に罹り、業務に堪へぬ所より、どうぞして国へ帰らんと思ふ矢先き。一昨日大義丸の入港すると聞きて、自分の乗り来りしも同じ大義丸なれば、船長に頼めば内地に帰れぬ事もあるまいと、そっと同家を脱け出して桟橋に至り、大義丸に其旨頼み込みたりしに、船員は夫れは水上派出所に行くが宜しいとの事に、直ちに同所に至って泣く泣く保護方を願ひ出でたり。西川エツの水上派出所に保護方を願出でたる際は、丁度イト、サイ、ハルの三人取調べ中なりしが、軈てエツが三人と顔見合すれば何れも同村の朋輩にて、而もキン方にて同じく麦稈細工をなし居りしものなれば。エツも三人も驚き一方ならず、「どうしてこんな処へ来たのか。」「お前はどうして此処に」と、知らぬ外国で朋輩に逢ひし為め、嬉しさ極まって四人は抱き合ひつゝ、どっと其場に泣き伏したり。然るに此時突然悪婆キンが「私が居るから泣く事はいらぬ」と云ふ声にエツは、不図心付いて其辺を見廻せば、直ぐ傍に自分の元の雇主キンの来て居るのに二度吃驚し、何が何やら夢の様にてさっぱり解らず、能く心を静めて其事情を聞いて見れば、前記の始末に又驚きて、エツは更に三人のものに対し、自分の辛き目に遇ひし事を物語りたる後、「決して酌婦などには死んでもなるものでない」と言ひ聞かされ。「今迄酌婦になる」と頑張りし三人も始めて其事情を知り、泣いて警官に対し其真実を物語り、保護を申出でたり。此愁嘆の場を目の当りに見せられし立会の警官は、之に対し頗る同情の涙をそゝがれしが、此時遉がの悪婆キンも自分の前非を悔たるものか。「実は長春迄此三人を拉れて行けば沢山の金も貰へるが、これ限り内地へ帰れば旅費も借りて来た事ゆゑ夫れ丈は支払はねばならぬ。さりとてこうなった上は目的地へ拉れて行けず、全く困りますのは妾だ」と申立てたる由なるが、天罰覿面、実に好い気味と云ふべく、由って四人は直ちに保護して婦人ホームへ入れ、キンは誘拐犯嫌疑者として目下拘留中なりと。(遼東新報)
これに似たやうな少女誘拐の事実は、毎度私共の見聞する所である。
○三等舩室の説教
私が去年の春、大阪商船会社の汽船天草丸にて、大連にいった時のことである。既に玄界灘に乗出して後、事務長が私にむかひ、一等二等の船客の希望であるから、一場の講話をして呉れまいかといふ依頼である故。喜んで之を承諾すると同時に、「併し私は寧ろ三等客に行って話をしたいのですが」といふと。事務長は怪み、「それは何ういふわけですか」と問ふ故。「実は此うして見て居ると、どうも三等客の中に、誘拐せられて、満洲に行くのではないかと思はれる婦人がありますから。出来ることならば今の内に、少し注意をしてやりたいのですが」と答へると。「宜しうございます。それでは今夜、別に三等客の為にも御説教を願ふ様なことに計ひませう」といふて、事務長は迅速に其準備をしてくれた。そこで其夜三等船室に行って、乗客の為に暫く宗教上の話をなしたる後。「時に皆さん、人間の身の上には、何時どういふ思はぬ災難が、ふりかゝることがないとも限らぬものですから。諸君が満洲に上陸の後万一、不幸にして何か自分で自分を持て余す様なことに出あはれたら、大連ではこれこれの処に設けてある、救世軍の支部へ相談にお出でなさい。必ず及ぶだけの御相談相手にはなって上げます筈ですから」と、いふ様なことを、嚙んで含める如くに話したのであった。処が案の錠、其翌々日即ち船が大連に着いた次の日、一人の少女が突然其地の警察署に飛び込み、「どうか私を救世軍にやって下さい」と願ひ出た。其わけをたづねると、此れは備前岡山の者にて、まだ十六歳の少女であるが堅気な家に奉公をする約束にて、他に二人の年長の婦人と一緒に、連れて来られて見ると。堅気な奉公といふは真赤な偽り、直ぐに大連市外の小崗子といふ支那人町の遊女屋に連れ込まれ、醜業を強ひられるので堪り兼ね。其前日船の中で聞いて居った其救世軍にやってくれる様にと、警察署に願ひ出たものであることが分った。警察署では直ぐに其願を許し、私が未だ其地に留って居る間に、少女は早速婦人ホームに引渡され、其保護を受くることゝなったのである。(p381まで)
○排日思想の裏面(p387~)
・・・いつぞや井上胤文といふ人が布哇に於ける日本人を論じて、排日問題の裏面に及ばれるのを聞き、今更の様に慙愧に堪へられなかったことがある。
それからまた、も一つは醜業婦である。尤も外国の女と云へども醜業を営まぬではない。けれども何れも自国人を相手にして居るに反し、日本の女は金さへ貰へばどこの国人でもかまはない。且又数に於ても第一位にある。ホノルヽより少しはなれたイブリと云ふ土地では、日本の醜業婦が三百人住んで居て、五百人までは、いつでも供給する事が出来ると云って居る。外人醜業婦は居ると云っても実に僅少なもので、三百人五百人と供給する事の出来るのは、独り吾々の姉妹のみである。殊にペイデイ(月給日)になると、どこから来るものか、沢山の醜業婦がやって来る。彼等は今日は、どこそこのペイデイだ、明日は彼のキャンプのペイデイだから、と云ったやうに、月給日をつけ込んで醜業を営みに来る。まことに我が同胞は、あらゆる耻を外国にさらして居るのである。(p388~390)
○海外発展の将来(p391~)
故大久保眞次郎氏が、久々にて米国から帰朝せられた時にも、これと似た様な話を聞かされたのである。即ちオグランを中心とする方数十哩の処に、日本人は五六百人しか居ないにも拘らず、それ丈の日本人を相手にする宿屋の数が十三軒、玉突が十三軒、料理屋、銘酒店等が六七件、外に多数の醜業婦、博徒あり。恰かも日本の労働者は、酒と、女と、遊び場とがなければ、一日もやって行けぬものかの感想を与へ、然ういふ事が排日思想を助長して居るのは如何にも残念で堪らないと、いふのであった。(p392まで)
私共は此際有らゆる手段方法を用ゐ、官民共に協力して、在外の我が日本醜業婦を救護し、如何にもして我が日本を、世界第一の醜業婦輸出国たる汚名と事実とより脱れ出でしめねばならぬ。(p410・411)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1748928/189
井上雅二「南洋」1915年 ※大正4年
第八 南洋に於ける日本人(二)小説以上の話題に富める娘子軍
此等南洋に於ける日本人は、その先発隊が、所謂島原、天草の娘子軍であったことは、人の熟知する処である。娘子軍の状況は、優に一巻の書ともなるのであるが、彼等が故郷を出でて北するものは、北清、満洲、西伯利亜に出で、その南するものは、上海、香港を経て、新嘉坡に至り、此処で身の振り方を定める。そして遙かに蘭領印度、濠洲、印度、或は阿非利加の果までも往くのである。
古老に聞くに、新嘉坡に足を印したる日本娘子軍の第一人はおヤスといふ美人であった。彼は初めから醜業婦人として渡航したのでなかった、彼女が風濤万里を物ともせず、遥々見も知らぬ別天地に来た時には、未だ一人の日本男子を見なかった。おヤスは即ち緑の黒髪を、根元より切り落し、ボーイに変装して、外人のホテルに住み込み、その愛嬌と忠勤とは、いたく旅客や主人の愛する処となった。その中、多少の貯へも出来て、事情にも通ずるに至りし折、二三の日本密航婦の来りて例の醜業を営み、非常の成功を収むるを見、彼女も遂にその群に投じたと伝へられてゐる。
是等先駆者の新嘉坡に渡来したのは、明治三四年頃の事であるといふ。さうする中、十四五年頃には、五六十人の醜業婦を数ふるに至り、二十年頃には男女の在留者百名以上に上った。かく邦人の在留稍々多数となるに至ったから、政府で領事館を開いたのが明治二十二年であった。
娘子軍の数はその後益々多く、その活動もいよいよ範囲を広めた。そこで、それ等の中には、成功者といふべきものも出来て来た。英領北ボルネオのサンダカンなる木下クニ女の如きその一人である。彼女は新嘉坡のおヤス女と同じく、此の地の草別で、三十年前、英領北ボルネオ会社の創設当時に、二十八歳の折に渡航し来り、五十六歳の今日まで、此のサンダカンに居住し、数千百の有髯男子を助け、在留邦人にして、此の老侠女の世話にならぬものはない。
予は昨年、此の老女について、北ボルネオ三十年来の出来事を聞き、且つ彼女の一事業として、サンダカン背後の山上に設けたる日本人墓地を見舞った。墓地には、見苦しからぬ読経所も設けてある。彼女は勿論、此の地に骨を埋むるつもりで、その用意として、既に立派なる石碑を、遥々日本の内地より取り寄せて建てゝゐた。
ラヴアンのおフナ女も、此の地方に在留すること二十年、最早五十余の老婆であるが、土地第一の富豪たる支那人の正妻として、矢張り、多数の日本人を世話してゐる。その他一々挙げられぬけれど、是等娘子軍の成功者の中には、真に小説以上の話題を有するものが少くない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953249/47
済軒学人「浦潮斯徳事情」大正4年 ※1915年第十七章 浦潮斯徳以外本邦人の在留する主なる市府(p144~)
第一節 ニコリスク市(沿海州)
在留本邦人は左の如し。
職業 戸数 人口
貸席業 八 男一三 女五〇 計六三
支那人妾 - - 女一三 計一三
計 九一 男一四四 女一六五 計三〇九
第二節 イマン市(沿海州)
職業 戸数 人口
支那人妾 - - 女七 計七
計 九 男一四 女一六 計三〇
第三節 ハヾロフスク市(沿海州)
職業 戸数 人口貸席業 一〇 男一六 女二一一 計二二七外国人妾 - - 女三〇 計三〇
計 一二九 男二九八 女四〇四 計七〇二
第四節 ゼーヤ、プリスタニ(黒龍州)
職業 戸数 人口貸席業 一 男二 女一一 計一三外国人妾 - - 女一九 計一九
計 一三 男一二 女五〇 計六二
第四節 ゼーヤ、プリスタニ(黒龍州)
職業 戸数 人口貸席業 一 男二 女一一 計一三外国人妾 - - 女一九 計一九
計 一三 男一二 女五〇 計六二
第五節 ブラゴウエシチエンスク市(黒龍州)
職業 戸数 人口外国人妾 - - 女二八 計二八貸席業 四 男七 女五七 計六四計 一〇二 男一九二 女二〇〇 計三九二
料理業 三 男六 女三 計九
第六節 チタ市(ザバイカル州)
職業 戸数 人口私娼妓 - - 女六 計六支那人妾 - - 女一〇 計一〇計 一〇二 男一九二 女二〇〇 計三九二
第七節 ネルチンスク市(ザバイカル州)
職業 戸数 人口
貸席業 一 男一 女一 計二娼妓 - - 女十 計七外国人妾 - - 女二 計二計 四 男四 女一三 計一七
第九節 ウエルフネ、ウージンスク市(ザバイカル州)
職業 戸数 人口
貸席業 一 男二 女一〇 計一二計 一〇 男一六 女一九 計三五
第十八章 浦潮斯徳在留日本人の状態第二節 浦潮在留本邦人の職業、人口及戸数
職業 戸数 人口料理店 三 男五 女三 計八貸席業 六二 男三〇 女四五 計七五芸妓 一二 - 女一二 計一二娼妓 - - 女三二三 計三二三外国人妾 - - 女六〇 計六〇