関連エントリ
戦前の日本・植民地朝鮮の公娼関連統計
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従軍慰安婦資料集(3)戦前公娼制の実態
http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/47775519.html


国民新聞 1912.7.12-1912.7.14(明治45) 
太平洋岸に於ける日本人 (一〜三) 
(意外の発展也) 
六月二十八日 志賀重昂 (一) 

謹啓小生義過般来カリフォルニアを巡遊致居候処、同地方に於る日本人の発展否実力は実以て意外千万と申すの外なく、意外、意外、唯「意外」の二字の外に形容すべき好辞無之候 小生は淡白に申上候、当初はカリフォルニア所在の日本人を極めて安買い致居り例に依りて例の如く官庁側(総領事館)と在留民とは喧嘩致居るなるべく、各種の邦字新聞は相互に喧嘩致居るなるべく、日本醜業婦は到る処跋扈致居るなるべく賭博は公開同様なるべく、邦諺の「旅の恥は掻き捨て」は遺憾なく発揮致居ることなるべし抔予想致し、此予想を以て上陸し此予想を以て巡遊致候、然るに官庁側と在流民とは相親睦して公私共に打解け居り偶々総領事庁員の管内を巡回する際には期せずして歓迎会を催し、邦字新聞は邦人の休戚に関する問題に会えば協議に協議を尽し一斉に筆鋒を揃えて紙上に意見を発表する所などは往年に於ける東京の新聞同盟の当時を回想せしめ、日本醜業婦は日本人会と邦字新聞紙との制裁に依りて桑港(サンフランシスコ)に於てすら三軒までに減じ(邦字新聞紙の醜業婦征伐を初めし頃は三十六軒あり)、ロースアンジェルス市(地位及び長足の繁栄に於てカリフォルニアの福岡市)日本人会にては邦人が醜業婦将た賭博業者を発見する毎に米国官憲に警告し、此程も十名の賭博業者あることを警告し依て以て米国官憲は件の十名を市外に放逐し、両来米国官憲の日本人会を視ること重く、日本人は自から風紀を廓清するものなりとて大に信頼を加えたる抔、何れも小生当初の予想と全然反対致居候

・・・フレスノはカリフォルニアの中部に位する市街にて、北の桑港、南のロースアンジェルス市と共に日本人会には各々日本人風紀の廓清に鋭意せし結果、賭博業者将た醜業婦には此のフレスノに投じ来り、フレスノは頃年来日本人風紀の紊乱せること北米太平洋岸第一と称えられ候処、基督教牧師北沢なる人フレスノに来住し同胞の風紀廓清を以て自ら任じ、其の多年の努力に依り賭博業者将た醜業婦を大半駆逐し、日本及び米国官憲共に喜こび居り候処、賭博場に出入し将た醜業婦を妻とせる面々等は北沢に反抗し、復讎の機会を待ち居れる折柄
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大阪毎日新聞 1912.7.21-1912.8.19(明治45) 
京元線の踏査 (一〜十三) 皐天生

三防は元山を距る十五里渓谷の僻地なるが此附近工事の根拠地として既に工事関係者入込みつつあれば請負者労働者目的の商人娘子軍等早や入り来りて約五十人の内地人あり朝鮮家屋は悉く機敏なる内地人の買収する所となり不廉なる家賃を貪り憲兵出張所長の奥村某其の発頭人なりと元山の内地人中貸家の建築に着手せるものあり此地より漸く元山の勢力範囲となる
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帝国新聞 1912.8.14(大正1) 
渡米日本人職業 

一昨年度に於ける日本人の渡米者は二千百九十八人帰国せる者五千二十四人布哇に渡航せし者千五百二十七人帰国したる者二千三百五十五人にして昨年度は渡米者四千二百八十二人帰国者五千八百六十九人布哇渡航者二千五百五十九人帰国者二千四百六十四人なるが其渡航地に於て就きたる職業は俳優二十七、僧侶二十一、官吏二十八、教師二十四、事務員百九農業家九十五、商人二百九十一、料理店及ホテル主六十八、無職婦人二千四百、理髪人二十二、大工十九、裁縫師十三、労働者二百八人を始めしと其の他なるが右の内四十三年度の渡米非労働者は千八百九十三人にして帰国者二千八百十七人渡布者二百三十五人にして帰国者八百十人而して同年度に於ける労働者は渡米者七百五人帰国者二千二百七人、渡布者千二百九十二人、帰国者千五百四十五人昨四十四年度に於ける非労働者は渡米者三千五百五十人、帰国者二千九百三十八人、渡布者四百十九人、帰国者八百七十五人、労働者は渡米せし七百三十二人、帰還せし者二千九百三十一人、布哇に渡航せし者千七百四十人、帰還せし者千五百八十九人なり尚手職婦人中には醜業婦其大部分を占め居るものと見るべし
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大阪毎日新聞 1912.8.19-1912.10.3(大正1) 
護謨山見物 (一〜十一) 
馬来半嶋廻り 
黒宋公

セランゴール会社を去りレンガム停車場にて林燈と分れ火車にて独りカランに向う、沿道護謨林蒼々の間を過ぎて薄暮カランに達し丘上のレスト、ハウスに入り、夜街頭を散歩し邦人写真店を過ぎりて邦人旅店川原に憩い主人と語る、主人は「在住十四年カランに於ける邦人の開祖なるも今に於て邦人商賈の来るものなく独り例の娘子軍の軒を連ねて醜骸を馬来(マライ)クロンボの群に曝すあり、之より此コーラ、セランゴール、南スイテンハム港、至る処に醜業婦の在住するあるのみ」と云えり


・・・午後一時イボーに下車し同胞八名に迎えられて金田旅館に入り原田(寅)氏所有の自動車にて郊外十七哩なるトロノ錫鉱会社を見る、・・・夕刻帰舎此地在留同胞三百名に近きも多くは例の娘子軍にして正業者は指を屈するに足らず、護謨の栽培をなせるもの市川、村谷、原田、山田等数名ありと
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福岡日日新聞 1912.8.28(大正1)
ゼーアの邦人

露領黒竜州唯一の金山所在地たるゼーア(浦塩の北方十五日程)より二十四日帰朝せる本邦人の談に拠れば同地はゼーア川の沿岸にしてブラゴウェーンチェンスク其他への往復は黒竜江川蒸気の便に頼るも露暦十月十日より翌年五月五日までの結氷期間は橇にて通行することを要すゼーア市の現在戸数は千四百戸許りにして金鉱採掘の為め入込める露人、支那人、朝鮮人併せて約千五百人あり、又日本人は百名許りにして内商店を有するもの九戸即ち医師、写真業、時計商、金銀細工職、理髪職、飲食店、貸座敷業各一戸及洗濯業二戸なり、貸座敷に置くべき娼妓の数は十名を限られあるを以て何れも繁昌を極め五百円以上の貯金を有せざるものなく且つ其年齢の均しく三十歳以上なるも奇観とす、外に日本婦人にして馬賊其他支那朝鮮人の配偶者となり、又は醜業婦たるもの約六十名あり需要品は主として哈爾賓より輸入さるるに付驚くべき高価にして即ち精米一布度四円六七十銭、醤油一樽(一斗入)七円といえる時価なり、・・・(敦賀通信二十五日発)
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神戸新聞 1912.10.22-1912.10.23(大正1) 
比律賓の独立運動 (上・下)

台湾島が我が領有に帰してから、邦人のこの地に渡るもの非常に多く、此の為めに米国は日本移民制限法を設けた位であった。現今は二千人内外もあるが多くは、労働者或は醜業婦、資力ある事業家は極めて少数である。
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大阪毎日新聞 1912.12.13-1912.12.16(大正1) 
吉林瞥見 (上・中・下) 
在奉天 鬼仏堂

在留日本人
吉林は北緯四十三度四十七分東経百二十六度五十三分、緯度は北海道旭川と同じきため気候も似たり、夏季は酷暑なきも十一月より三月に至る冬季は寒気甚しく、最低摂氏零下四十二度に至る、然も風景母国に似かよいて邦人も亦住心地よきところとす、現今住民二百三十六名、常に三百に達せず交通の便開けて既に料理屋魚屋の長春より視察に至るあり、旅館亦増設の計画ありという、明春に至らば急速に増加を見んかという、住民の大半は婦女子にして、婦女子の多くは支那人相手の売笑婦なるに至りては先進国の顔色なし、近頃日清雑種児生るるもの多し国性爺鄭成功を学んで起たんとするものありや否や
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神戸又新日報 1913.2.9-1913.5.4(大正2) 
爪哇 (一〜七八)
(熱帯の日本) 
(燦爛たる黄金時代)
(思出多き旧都) 
南洋生

爪哇の都会と港とを日本に対照して見ると、バタヴィアは東京、タンジョン、ブリオク港は横浜、スマラン港に名古屋、スラバヤ港は大阪と神戸を合せたもので、スラバヤは内地商業の中心たると共に亦外国貿易の中心と為って居る、従って人口も爪哇の都市の中では一番多くバタヴィアよりも繁華だ、併し純粋の商業港で首府でない所から都市の設備や町の体裁はバタヴィアには及ばない、商業地だけあって日本人も亦此港に一番多数居住して居る、三井物産の支店もある京都の稲垣合名会社の支店もある、是等が最も有力なもので其他十余軒もあるが主として雑貨店、売薬店、写真屋、理髪店等で爪哇(ジャワ)で曲りなりにも成功する商売は是等に限るのだ、此外に成功する職業は女郎屋だが娼妓の数は百人内外に達し正業の人間よりも醜業婦の方が却て多い、又此スラバヤは爪哇東部の砂糖の集散地と為って居るから台湾の糖業者の往来するものが多く現に予等と前後して台湾の砂糖会社の重役や技師が四五人も出入りして居た、日本の社外船の砂糖積取に来るのは主として此港で日本とは最も密接な関係を持って居る
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神戸又新日報 1913.4.7-1913.4.11(大正2) 
米国の日本人迫害 (一〜五) 
[社説]

蓋し米国官憲が近時写真結婚は醜業婦を入国せしむるの弊ありとして之が結婚婦人の上陸に峻酷なる干渉然り殆ど禁止的に近き取締を実施するに至りたるは前記理由に基くものにして又日本人を米国より放逐せんとする政策に外ならず人道に反することの甚だしき此取締法の如きは稀なり 
思うに所謂写真結婚に託して醜業婦を輸入する狡猾徒輩のいるは事実にして現に一旦上陸したる後ち事実の発覚して日本に送還されたるものも絶無と謂うを得ず此点に関しては吾輩も甚だ遺憾とする所なり然れども是等不正渡米婦は百中の二三に過ぎず斯る例外の事実を楯として一般結婚婦の入国をも遮ぎらんとするは不理不法の極と謂うべし
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日本新聞 1913.4.19-1913.5.6(大正2) 加州の日本人 (一〜十二)

(十一) 布市、亜市に於ける発展 
葡萄の産地 
フレスノ市(布市)は茫漠として海の如きサンオーキン平野の中心、桑港とロスアンゼルスとの中間に当る処で今より八十年前既に其発達の端緒を開いたが十二三年前までは人口尚一万余に過ぎなかった然るに附近一帯の葡萄園の発達すると共に近時急速なる発達を遂げて今や人口三万五千を有するに至り葡萄酒、干葡萄、ブランデー等の製造が非常に盛になった 

風紀の紊乱
目下日本人の市内に定住する者は凡そ五百あって尚市の附近に散在する者が略ぼ二千内外あるが毎年葡萄採集の期節になれば数千の日本人が各地から集まって来るから日本人社会の発展も亦大に見る可きものがある併し此地の日本人界に於ては支那賭博が盛に行われて醜業婦の数も亦夥しく物価の高い事は他に比類なく人心の不統一にして風紀の紊乱せる事は各地在留の日本人社会中第一と目せられる
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国民新聞 1913.6.1(大正2) 
比島に於ける日本人労働者 
木尾散人

最近に調査に依れば最も多きは大工にして九百八十三名なり然れども其の多数は一夜大工にして比島にては鋸と鑿を用うれば大工と称せらる故に大工の資格を備えたるは其の約二割に過ぎざるべし次は醜業婦にして六百人内百四十人はマニラに在住し他は多く兵営の置かれたる地方に散在す次は農業労働者にして四百人を数う(次は漁夫にして二百七十二人其の過半数はマニラに在住しマニラの鮮魚は多く日本人の手に依りて供給せらる)此の外雑貨商店員ボーイガラス其他の職工写真師理髪師裁縫師按摩植木職等あり
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大阪毎日新聞 1913.6.26-1913.6.27(大正2) 
赤道直下の日本村 ([正]・続) 
(淀に便乗して) 
五月七日ドボー島にて 黒時雨

[(正)] 
五月四日モロッコ群島南部の首府アンボンを発しバンダ海を東航すること四百余浬、六日新ギニヤの西南なるアロー群島中のドボーに着く、ドボーは掌大の土地で人口は附近の島嶼を合せて二三千、中で日本人は五百名内外を数え皆ドボーの碇泊地に集まって居る、陸に上りて散策するに邦人軒を列ね雑貨商二戸、醜業者七八戸、飲食店、下宿屋、玉突屋等四十戸位もあり、軍艦淀の入港するや衆狂喜して各軒頭に日章旗を翻し旁午して歓迎に斡旋する程、宛として小日本村の観を呈して居る 本島は元と僻遠の無人郷に過ぎざりしもの、今を去る二十年前西濠洲ブルーム在住の英人クラーク此附近に真珠採取業を創めんため十二隻のダイバー、ボートを携えて渡来したのが開発の嚆矢で、当時クラークに随伴して十四五名の邦人潜水夫が来島した是れ邦人の魁である濠洲就中木曜島に潜水夫たりし邦人は此島の有望なるを伝聞し相率いて渡来するに至り日露戦役の前後より其数を増加し明治三十八年三月には同胞共済の目的を以て同仁会なる邦人共同の団体(当時の在住者二十余名)を設け四十一年一月之を日本人倶楽部と改称し部費として階級男女によりて年額六盾乃至二盾を徴し以て同胞の親和と共済の費に充つることとし、既に一建物を新設して居る、部費の年収千四五百盾、基本金も五六百盾は出来し居り、建設費には約二千五百盾を投じて居る 斯くて今日では約五百の日本人が此一小島に住し其中約四百名は潜水夫であって、此島附近に於て真珠貝採取の特許権を有せるセレベス貿易会社に雇われ採取業に従事し、他の百名は之れにより衣食せる商人乃至醜業者である、夫婦者二十余組、小児十四五名既に学齢に達せる児童数名あり、蘭領印度諸島に於て邦人の最も多く且つ日本村の形を成して居る場所と云えば先ず此地を指さねばならぬ・・・

(続) 
彼等の多くは和歌山県人にして斯業に従事する既に二十余年に及ぶものあり、仕事が仕事丈けに人気も荒く酒を被りて殺傷することも少からず、昨春も致死事件あり爾来官憲より一切酒類の売買を禁ぜられたと聞く、現在潜水夫は皆海上に遊弋し陸上に在るもの、其家族及商人を合せて百名に過ぎざるも、五月二十日を過ぐれば彼等は悉く此地に引挙げ贏ち得たる黄金を一擲するので、此を吸収せん為め南洋各地に散在する娘子軍は続々此季節を目懸けて蝟集する、現に三十名許りの醜業婦が集まって居る、前年迄は七八十名も来集せしが禁酒令の下りしと貸倒れ多きを恐れてか来集者漸次減少すとの事である余は不幸にして期に先だちて此地に至り潜水夫陸上生活の状況を目撃することが出来ないが、之を在留者に質し彼等の放浪生活を想像して同情に堪えない、
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時事新報 1913.7.4(大正2)
南洋地方の遺利
農業は労少くして利多し
錫椰子等確実の事業あり
(森林商店大嶋支配人談)

南洋ポルチオ島サラワク州は英領に非ず純然たる独立国にして・・・日本人の現に移住せる者約五十名を算し其半数は所謂娘子軍なれども
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中外商業新報 1913.7.16(大正2) 
売薬南洋に発展す 

省資本にて到処成功 
売薬の輸出先 本邦売薬の海外輸出は年を遂うて益々盛大に趣むきつつあり重なる輸出先きは支那、印度支那、印度及び南洋諸島並びに布哇、米国等なるが布哇及び米国に輸出するは唯だ在留本邦人に供給するのみなるも其の他は何れも其の国土着の住民を顧客とし最とも輸出額多く将来有望なるは仏領印度支那、サイアム、馬来(マライ)半島を始めジャワ、スマトラ其他の南洋諸島にして之等諸地方に於ける本邦売薬商人の数は精確に之れを知る能わざれども恐らく幾千を以て算す可し 

土人に信用 
売薬商人は何れも堂々たる風采をなし一見医師の如く一二名の土人を伴いて各地方を行商せるがジャワ島其他未開地各部落の酋長等本邦売薬商人に対しては無料宿泊その他の便宜を与えて頗ぶる歓待し居れり之等商人は簡単なる診察機械を携帯して土人患者の求めに応じ病症を診断して売薬を与う 

重要の原因 
何故に斯く本邦売薬商人が南洋未開地の到る処に往来せりやというに啻に南洋といわす凡そ海外未開地に於ける本邦人移住の先駆者は婦女子にして之等は大抵醜業に従事する者なるが彼等醜業婦の親方と称する者が多くは雑貨及び売薬商を兼営せる為めにて之等醜業婦との関係上婦人薬及び花柳病薬の売行最も夥しく毒掃丸の如きは盛に輸出さるる由 

馬来人と結婚
本邦人の醜業婦中馬来人と結婚して売薬商を営む者なども有り斯く南洋未開地に於ける本邦人活躍の第一着者は売薬商人なるが故に本邦売薬は殆ど至らぬ隈なく土人の間に売れ行きつつあるが近来は利に敏き支配人が贋造の本邦売薬を各地方に行商する外独乙人が本邦品に類似の売薬を製造して盛に支那地方殊に南洋方面に販路を広げつつあれば本邦売薬商人に取っては不意に強敵が現われたる訳にて独乙製の売薬は本邦製よりも優良なれば将来最も恐る可き競争者なる可し
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東京日日新聞 1913.8.6-1913.9.26(大正2) 
樺太島 (一〜三十二) 
旭東生

娘子軍は開拓の先駆となるので此方面は樺太も頗る盛んなようだがシカシ現住本邦人約三万五千の内約二万は男子で女は頗る不足して居るそうな、本邦人既に然り露人や其他の異人種では女子の不足に閉口して居るのでこれがために人種の滅亡を招くことになる。・・・
シカシ便利な散娼制度、芸妓と娼妓と兼帯の美人が散在して其処此処に陣取って居る、無論集娼制度もあるがこれは余り発展しないこと当然である、約束したように臭い物に蓋をする吾妻コートが冬の流行でお高祖頭巾に好ましくない御面相を包んで雪の夜路を辿る所は何れを見ても美人ばかり、白い雪と黒いコートが能く調和されて影長く月光を浴びて行く冬の情趣は別世界の観があるが彼等は極めて無事泰平なもので「内地へ帰りたくはないか」と聞けば「樺太の方が呑気で宜しい」と来る、これは宿屋の女中や下婢なども同様で彼等に取っては樺太は実に呑気な所と見える、さりながら娘子軍は開発の急先鋒である、総じて体格の好い此娘子軍あるがために拓殖上に寄与する所は少くない、何れ植民地は同様だが特に樺太に於て散娼制度を開放して居るのは要領を得て居る。
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読売新聞 1913.8.11-1913.10.5(大正2) 
南洋の大勢 
錦城生

緬甸は仏教国なり、蘭貢に、「マンダレー」に、「タイミヨウ」に、到る所壮大なる仏寺あり、皆尖塔形を成し、称して「バゴク」と云う、塔中仏像の立つもの坐するものあれど、多くは●石、黄銅の涅槃像にして、又涅槃の掛物をも吊す、新嘉坡にて販売する蘭貢(ラングーン)の写真中にも、日本醜業婦十数名が、束髪にて珠数を爪繰り乍ら涅槃像に礼拝するの景あるを見る、・・・

(第六)英国政府は外国の国事犯者を保護す、是れ康有為孫逸仙等の新嘉坡に隠匿しし所以とす。(第七)英国政府は支那人の博奕を官許す、支那人は「ヂョホール」に二箇所の賭博場を有し、半島の支那人にて隠密に博奕を行うものなし、又政府は日本の貸座敷に厚し、貸座敷の主人たるは尽く女将にして、決して男子の営業を許さず、而して其の女将を好遇するや、女将を相手として警察或は裁判所に訴えれば、如何に道理のあればとて、必ず敗訴たらざるなし、然れども女将には良人情夫を有するを許さず、若し是あること露顕せんには、直に多額の罰金を科せられて、国外に放逐せらる、猶お英国の官憲は、日本の醜業婦にも親切にして、毎年幾回か召喚し、其の主婦の待遇如何を質し、若し自由廃業を希望すれば、何時にても釈放すべきを諭す。

・・・元来馬来(マライ)半島の日本人は、十中の六まで賤業の婦人にして、今日に於ても猶を千七八百人も存在すべく、其の新嘉坡に於る日本人の男子の数が、女子に超過するに至りしは、昨年以来のことにして、即ち正業者が賤業者に代るの徴候なるが如し、二十年前までの上海と十年前までの香港にても、日本人は大抵洋妾醜業婦の部類に属し、婦人の数の男子より多かりしもの、正業者の入て賤業者に代るに及び、其の比例は漸く顛倒し来り、今や上海の日本人一万人にて香港の日本人は一千人に達し、賤業者は真に参々として其の所在さえ不明なるに至れり、馬来半島の形勢も亦之に似るあらんとす、

・・・独り真正に日本移民を歓迎するもの、唯此の英領北「ボルネオ」あるのみ、北「ボルネオ」会社の倫敦本店は、日本人の農業には如何なる便宜をも借し、日本人の漁業には如何なる権利をも与うべきを決議し、従って「サンダカン」や「ジエセルトン」に渡来する日本人は、其の醜業に関係する男女たるに拘らず、待遇するに淑女紳士の礼を以てするに至る、・・・

「チモール」島と「ニュー、ギニア」島の間に「アロー」島あり 、其の「ドボ」港は真珠採取の本場として、日本人の採取夫千数百名に達す、為に日本の醜業婦も三四百名に至り、其の一人東京にて高等女学校を卒業ししもの、先年書を雑誌「文芸倶楽部」に寄せ、以て天涯万里なる浮川竹の苦辛を訴えしが、筆鋒活動却て楽観の紙上に現われしこと不審なりき。
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福岡日日新聞 1913.8.16-1913.8.19(大正2)
朝鮮視察談 (一〜三)
大阪毎日社長 本山彦一氏

只今警察制度の中枢になって居るのは福岡県出身の明石中将で此人が憲兵司令長官で警察権の全部を握って居る其他福岡県出身の人は官吏にも実業家にも沢山名望を有して居る一面料理屋でも芸妓にも福岡県出身のものが多く成功者が沢山出来て居る。
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大阪毎日新聞 1913.9.22-1913.10.2 (大正2)
南洋より (一〜五)
黒時雨 新嘉坡

▲有望なアンボン
南部の首府アンボンは和蘭東印度会社が総督を駐箚せしめた所で、往時は蘭領東印度の政治的中心であったから土人中には白人と雑婚せるもの多く其多数者は基督教に帰依して居る現在の人口は約九千で欧洲人が九百、支那人六百、亜剌比亜(アラビア)人三百、日本人は雑貨商一、旅館二、写真業二、其他醜業婦を合せて五六十名ある
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大阪毎日新聞 1913.10.4-1913.10.14(大正2) 
英領北ボルネオ (一〜五) 
黒時雨

本州の人口は二十万八千(一昨年度統計)土人大部分を占め居るも多くは中部の山奥に棲息して産業と何等の交渉を有しない其の他蘭領各島嶼及スールー群島より転入せし土人約一万一千、馬来半島よりせるもの千六百人、欧米人僅に三百五十五人、何れも官吏会社員である、支那人は約三万中堅の階級を形作り本島の産業界に大なる貢献を為しつつありて実に馬来人の邦と云うよりは寧ろ支那の国たる奇観がある日本人の数は二百四十六人内正業に従事するものはコーコ椰ネ栽培業ニ、売薬商一、雑貨商ニ、麪麭焼一、理髪師七、労働者二十八、従僕四十五、他は醜業婦六十九である
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東京日日新聞 1913.11.16-1913.11.21(大正2) 
見た儘の南洋 (一〜五) 
在馬来半島 藤田天民

若し英華交戦して支那人全部引揚とでも出掛けたら(万々なけれど)新嘉坡首め半島の繁昌な諸港は、再び往時の寒村に化するだろう、土着の馬来人は無智な上に回教の信者で蓄財の念が少しもない、其日の衣食を給し得ば足るという者ども、人夫にさえ適せぬ種族、何の事業も経営する能力を有せぬ、日本人はドウかと顧みると、例の醜業婦が先駆となって数十年来在留者追々増殖したけれども、能く運命を開拓した者が果して幾人あるか、

(四) 名物の醜業婦(上)
高い処では喜摩拉椰(ヒマラヤ)の山腹、広い処で西比利(シベリア)の原野、日本醜業婦が到らぬ地はない、けれどもジヤパニース、ムスメの名が世界に轟き、新刊英語字典の中に載せらるるまでに至ったのは、欧亜の通路、世界の公道たる南洋諸港に陣取って黒白の人種、万国の族客を相手に公々然醜業を営むからであろう、彼女等は和漢洋折衷、那処にも類のない一種異様の服装(猿芝居のお姫さま)をなし、筆太に番号を記した楼下に椅子を列べ、英語馬来語打交ぜて行人を呼ぶさま奇異とも醜怪とも形容する□がない、私娼密売なら左ほど目立つまいけれど是はレジスタードと云い、ライセンストと云い、官許の公娼、しかも最も繁華な街□に開業しているのだから堪まらない、一夜五弗ショート、タイムニ弗という相場、支那人が常得意、白皙人にも商えば印度馬来人にも売る、原産地は九州方面、長崎天草が本場、バッテンでなければ幅がきかぬ、近年密航取締□行とあって、補充途絶え、老婆ばかりかと思の外、いずれも妙齢の女子、十五六歳と見ゆる者も少くないとの事、是はチョット不思議なようで不思議にあらずだ、香港行新嘉坡行と云えば、旅行券も必要、其筋の注目も厳しいが、支那行と称すれば、余り六ケしくない、(上海にも漢□にも日本茶館閉鎖以来醜業婦なし)であるから堂々と上海行の切符を買い郵船会社の欧洲行メールに乗込み揚子江の下流か□淞あたりで我敵は本能寺と出掛け、船賃を継続せば那処へでも自由である、現に先頃の郵船にも七八名の女客は確にソレと見えたが果して新嘉坡に着くと忽ち買手が現れ其中の二女一名六七百円に売買調談、四十ばかりの引率婆が十円札百余□帯に□んで帰□したと云う、□品はビーナン、コーラ、□ボー、其他の方面の紹介者に売渡されたであろう、□船諸港の水上署は□□がない、殊に門司警察なんと警部巡査七八名も剣□を緊握しながら、船内限なく捜査を行うが炭庫水槽さては暗□船底に隠れて密航するのは古手な方法、今では最も合法的手段を取り、警察官がノースの尖を掠て平然たるもの此種の密航婦、ではない公航婦も大抵皆欺かれて父母の国を去るので、羅漢相手の辛い勤め、サン泣いて暮すだろう、救済せではと義侠心を動かす日本人士も多いが、其内情に立入るとナンナン、島原五島あたりあらくれ漁夫の女子、年中ふるぼけた紺の筒袖と麦飯で成育した者ども、神経の敏鈍を較べたら、羊豚に勝るだけの程度、羞恥の念など微塵もなく、ドンナ艱難に遭うも無感覚、南洋へは何にしに来たかと問えば憚る所もなく「オンドは○○バ売りに来たダイ」と答えるだから身代金はスッカリ輸出商が着服し、己は六七百円の借金を背負わされても平気な顔、翌日から紅粉を抹し華麗な衣服をきて稼高は叩き分け相応に贅沢も出来る、郷里の姉妹友だちに比すれば、生計の程度、雲泥の相違、彼女等に取って最も得意な境遇、辛い処が有難くて堪まらない、救世軍の救済など入らざるお世話、却て迫害と認られるだろう、流石に英国統治の下にある植民地、自由□業は勝手次第、一たぴ警察署に出で其旨を届けると幾分の借金があっても即時許可され、次の便船で日本へ送還される、駈落も十分な便宜があ□、船の出帆間際に乗込んで仕舞えば、蘭領諸島は勿論香港でも非律賓でも思うままに行かれるであるから寝巻と借金とを楼主へ置土産としてサヨナラを喰わす者も全くないではない、が是は至って少い、到る処開業は出来る、前借も出来る、戸籍だ父母の承諾だ、就業の事由だ、身元の調査だとかいうような面倒もなく、頂天立地、頗る自由であるけれども、彼女等は存外正直で楼主に迷惑をかけるに忍びずという処から、海外漂浪の無頼漢に勧誘されても容易に応じない相な

(五) 名物の醜業婦(下)
また日本ムスメが軒を連ぬる西洋支那の同業者と競争して優勝の地位に立つのは一の特色があるからである、洋娼は概ね皆欧亜の港々を押廻した下等のスレツカラシ、其手腕極て辛辣網にかかった客があれば、法外高価な酒を強ゆる果は懐中に手を差込んで有るだけの貨幣を取上げるポケットを空虚にするまではイツカナ放免せぬ、戸外には骨格の逞しい印度人が請願巡査然と立番して、グズグズいう客は腕力で突き出すポリスに訴えても笑って取合わぬ、支那娼婦は柔和な代りに枕捜しを遣る癖がある、左なくとも信用は置けぬ、日本ムスメは独り此点だけ安心だ、如何に酔払って前後不覚な客でも、よく介抱して携帯品はチャンと保管する、三十弗五十弗入れた財布を投出したまま眠っても、十仙一個も紛失しない、盗む意がないのか、夫れとも盗む術を知らぬのか、おあづけの菓子はカメも喰わぬと一般、習慣性をなしたものであろう、是は日本ムスメの専売として、ドランカードの珍重する所だと聞く、此等幾千のムスメにも自ら現役の年限があって、満期が来ると新陳代謝する、其予備後備は何となるか、ウント貯金して故郷に錦を飾る者は千百の一、十中八九は多少親元へ送金するのが関の山、追々贅沢に慣れ、柄にない三十円五十円の□珍を腰に纏う、何年稼いでも金は残らぬ、其中容貌の人並なのは在留邦人の妻となるラシヤメンは上等の部、多数は支那人馬来人に連添いチャンチャンや褐色児を産む、実に哀れなものである、蘭領諸島の僻□な村落にも日本ムスメは散在し、盛んに稼いでいるので、日本の行商は思わぬ便宜を得る、数年前までは田舎のムスメ或いは楼主(女主人)が邦人を恋しがり、行商を款待するのみか、情夫として養うなどの事実もあった、近頃は呉服化粧品を仕入れて醜業婦あてに行商する者が俄に増加し、競争の結果利益逓減し、今では収支償わぬまでに至ったと云うはなし、先頃瓜哇蘇答羅蘭領一帯の諸島では日本醜業婦の営業を禁止し、去八月末までに廃業せよとの厳命を下した、数千のムスメが職業を失って狼狽したのは勿論、今後日本の雑貨輸出に対する一大打撃であろうと観察する者もある、醜業禁止その動機が那返に在るかは知れぬが、多年免許して居たのを今遽に取消したのであるから、是□日本人排斥の一端を考察せなければならぬ、此事ばかりは体面上抗議もなるまい、常に国権伸張を呼号する論客も外務省当局に迫って、蘭政府の反省を要求せよとは主張しまい、けれども是は蘭政庁の方針を示すもの、何れの方面にも嫌忌と圧迫の意が顕露するのであるから、当局にも其積りで遣って貰わねばならぬ、□□が□らず□□に入った、営業を禁止められたムスメたちは今後ドウなるだろう、既に一部は瓜哇から引揚げて半島に来ったそうだが、新嘉坡でも彼□でも近頃此業メッキリ衰色を呈し、□んど供給が□要の外に溢れる状態であるから、迚も蘭領放逐の同業者を包容□る事はできない蘭領の□で□□□□□は田舎に居る者は其まま留まって私□に□□る事もあるらしい、又此を好機会として土人□□支那人の客筋に□□異種の新家庭を作る者もあろう、男子には職を失ってマゴツキ歩く者もあれど、何にせよ植民地のことで、□女□□を告げているから、苟くも目鼻さえ□全についてあれば、美醜老少どんなものでも□口はある、衣食には困らぬ、であるから今回蘭領官□□退□□れても、スゴスゴ帰国する者はなかろうという、□洋で□業の繁昌する処は濠洲寄りの諸島中にも真珠採取場である、木□島及び其附近の採□場には一年万金を海底から探採するダイヴア□が□を以て□える、乗組員はタッタ七八名、潜水夫の熟練な者は一年二千弗の収入は確なもの其多くは紀州辺の出稼人、命がけの仕事を遣っているのだから、取るだけヒツ使う、日本ムスメも其余沢を蒙って、一ヶ月の□高五六百弗に達する者は珍らしくない、其他の地方は大抵百弗から百五十弗見当、新嘉坡あたりでは一ヶ月百五十弗以上稼いだ者には楼主から懸賞を与える制度□□てているそうだ、全体の数は何人いるか知らぬ□れど、今五千人と仮定し、最低度の稼高一□千弗とすれば、合計五百万弗に上る、此金額がスッカリ内地へ送金されるなら祖国一大都府の市税を免除するに足るだけあるが、彼女等は前後の思慮なく浪費して仕舞い、父母の元へ送るのは十分の一もあるまい、縦令百万弗の貨幣が此途に依って流入するとしても国家経済の上には九牛の一□である、之が為めに帝国の品位に関することは浅からぬ、しかし密航の取締を厳にし、無理に海外醜業婦を撲滅した処で何にもならない、吉原が世界に轟いた日本名物の一である限り、南□諸島の出稼何かある、頑固な政治家、固□な学者が口に筆に世界無比の国体を叫び、徳義万国に□□□と□んでも、□□□□の日本□□の□□を目□し□は□□が□念ながら□□の念を起すまいと思われ□ 
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神戸又新日報 1913.12.8-1913.12.9(大正2)
日満連絡貨物 (一・二)
明年一月一日開始
[日露貨物連絡輸送問題 (其六)]

此等輸出品は果して露人の使用するか或は日本人の使用するものなるやと吟味すれば其多数は邦人の使用に属するらしく然かも邦人賤業婦の多数に由りて消費せられしものの如し

大阪朝日新聞 1914.2.18(大正3)
青島と日本人

五六年前迄は青島に於ける日本人の勢力全く娘子軍に帰し彼等を中心として雑貨店あり裁縫店あり写真店あり菓子店ありと云う有様なりしが青島の発展と共に日本人の発展も著るしく今や我同胞の経営せる会社銀行の支店多数設置せられしより中心勢力は漸く娘子軍を離れ茲に真面目なる日本人発展の一新時期を画したり而して最近に於ける日本人の来往者を見るに従前とは全く流入の傾向を異にせり即ち娘子軍全盛時代は其の本場たる天草島原より上海経由し来る順序にて所謂上海より北進し来りしが今日に至りては専ら大連より南進し来るもの多く芸妓、実業家、雑貨屋、呉服屋、職人又は無職業者と云わず総て然り従って我同胞の使用する日本商品も亦大連を仲継として南進し来る趨勢を示したり然れども神戸より社外船によりて日本人及び日用品の来ることは従来と異ることなし
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北海タイムス 1914.11.16-1914.11.18(大正3) 
比律賓(フィリピン)事情 (一・二・完) 
在麻尼拉(マニラ)市 楚水生

当市に在住する日本人七百名の内半数は醜業婦であると聞いて足下も恐らく一驚を喫することであろう而して此の醜業婦の日本人間に勢力のある事は実に非常なもので日本人は彼等を呼ぶに姉さんなる尊称を以てするこれは尤も一般の在留日本人低級な者の比較的多いのによるのだろうが兎に角此の姉さんの勢力は侮ることが出来ない而して彼等の収入はと云えば一人一ヶ月五百円から八百円迄あると云うことだ嘘の様な話だが事実である 当市のガリテニア街と云うのは実に此の日本人の遊郭で堂々と営業して居る一夜の遊興料一人十五円日本に比較すれば随分高いが相応に繁盛するから面白い彼等の収入は斯く莫大であるから其の贅沢は一通りではない衣装装飾は言う迄もなく仏国の本場から専門の婦人を雇入れて化粧をし一寸外へ出るにも一時間三円の馬車若くは五円の貸自動車を駆り意気揚々たる者である此等の女は何処から来ているかと云うとおもに九州で一度香港、新嘉坡、ボル子ヲ等を経て来た者多く比律賓全島何れの都邑にも此の日本醜業婦を見ない処はないされば外人は日本婦人さえ見れば皆此の醜業婦と見做してしまう日本の威信に関る事今更喋々する迄もない然らば其の他の日本人の状態はと云うに情けない哉あんまり振って居る者はない 

(二) 日本人の状況(続) 
醜業婦の幅を利かしている事は前に云った通り他の日本人はと云えば・・・
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京都日出新聞 1915.2.11-1915.2.12(大正4) 
海外邦人の分布 (上・下)

芸酌婦即わち所謂醜業婦なるものの世界各地に散在せるものを集むる時は此れ亦八千三人に達せる有様なるが此れが分布如何を見るに関東州の千二百八十一人新嘉坡(シンガポール)の千三百四人其重なるものなり
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中央新聞 1915.4.6-1915.4.10(大正4) 
邦人の海外発展 (一〜五)

本邦婦人の第一の活動舞台は新嘉坡(シンガポール)で男子が二千二百六十八人に対し女は二千八百九十八人程いる。之に亜ぐのが浦潮斯徳(ウラジオストク)で男子千九百三十三人に対し女子は二千十二人いる。此外在留婦人が男子より遥かに多い土地は哈爾賓(ハルピン)で在留婦人千四百三十七次が香港の七百八十六芝罘の四百九十印度カルカッタの三百五十六孟買(ムンバイ)の百五十六仏領柴棍(サイゴン)の百三十等である。唯だ恥しいのは是等の在留婦人の約半数が所謂娘子軍であると云うことである。

福岡日日新聞 1915.4.11-1915.4.15(大正4) 
南洋発展策 (一〜五) 
農学博士 玉利喜造氏 (一) 

鹿児島高等農林学校長玉利喜造氏は十数年来勃々として南洋発展策の研究を続けつつありしが今回日独蘭戦の結果南洋諸島が我軍の手に軍事□占領せらるるや氏は其筋の命を受け本年二月下旬同地に出張し馬来(マライ)半島マーシャル群島、卑南等を親しく踏査し此程帰任せるが其談に曰く 近来南洋々々というて大分南洋熱が昂くなった其発展の途に就ては今後種々講究もし計画もする積である将来南洋に於ける邦人発展の余地夫れも十分ある事を私は信ずる而し其れが実際能く行わるるか否かというのは全く今後渡航して行く人の種類に依ることは勿論である、処で是まで南洋方面に出掛けて行く人は多く醜業婦関係の人或は唯一攫千金を夢みた人のみで懐いて居るのは野心ばかり是に伴う技術或は方法というものは持ってゆかない、で中には非常な堅固な決心の下に渡航する人もないではないが是等の人の決意も最初の程はなかなか堅いが忽ちにして徒食浮浪の悪風に犯されて仕舞う、●し幸に此悪い空気に染まない人は到底是れでは見込がないというので直に帰って仕舞う、這ういう風では到底発展が望めるものではない、随って未だ南洋に於ける邦人の発展としては見るに足るものが尠い、裏面に於ける醜業婦の発展是は著しいものがあるが夫れは別ものとして……
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東京朝日新聞 1915.4.13-1915.4.17(大正4) 
欧洲戦乱と我貿易 (一〜五)

因に支那向として如何なる品目が歓迎せらるるやとは従来当業者の等しく頭を悩ましたる問題なるが近来に至り色沢や友禅模様の如何よりも寧ろ強靭を喜ぶの風潮追々判然したれば此方面の発展亦必ずや期して待つべし只東洋、印度行きのものが土人相手にあらずして在留醜業婦目当という一事だけは聊か心細からざるにあらず
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大阪朝日新聞 1915.5.4(大正4) 
南洋と行商 
在新嘉坡 柳田生

如上の始末なので少し資本のある者は七十乃至百円の薬を仕入れて近くは半島スマトラ遠くはボルネ、オセレベス方面に島から島へ村から村へ部落から部落へとさすらうのであるそうして四箇月か半歳か廻り廻って幾多の困苦を経た後五六十円の貯金が出来れば上々吉々少しいきそこなって病気になったり売行が悪かったりすれば所持品を売払って命からがら新嘉坡に逃げ帰って来る者もあるそして其間の困難が一通りでない重い荷を担いで暑い道をてくてくと歩くは勿論夜は汚い土人家屋に丸木を並べた床の上に腰や背骨の痛いのを我慢して南京虫と蚊軍の絶間なき猛襲を受けながら冷たい否暑苦しい夢をむすばねばならぬ時によると日暮れて道を失い曠茫たる荒野に凄い程冴え渡る月影を踏んで猛獣怪鳥の叫びを聞きながら部落を探し廻ると云う嘘の様な事実もある無論一寸した村には必ず同胞娘子軍の居城があって三四年前迄は懐しい日本人と云うので到る処歓待してくれ数日の苦闘を慰するに十分であったそうだが何が扨無教育無頼の徒の事とて直に娘さんを騙し込んでドロンを極め恩を仇で返す事が度重なるので近頃は薬屋と言えば鼻もひっかけぬ女将が多いとの事だ
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台湾日日新報(新聞) 1914.5.12-1914.6.9(大正3) 
南洋と台湾 (一〜一八) 
株式会社南亜公司常務取締役 井上雅ニ述

前陳のドボー島はニューギニヤの南、濠太利の附近に横われる一小島であるが、同島の真珠採取業を経営するものは英国人之に使用する潜水夫は過半日本人で、其数五六百名に及んで居る。其処へ行って見ると宛然小日本村が建設されて居る。無論醜業婦も●を連ねて居るが普通の商舗もある。
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時事新報 1914.12.5-1915.3.30(大正3) 
蘭領南洋 (一〜三十三・三十五・三十七・三十八)

古き日蘭両国人の関係は此処に繹ぬるを止め明治以後我が国人の此の群島に渡来せる以来の事跡を見れば記者は喟然として長大息せざるを得ぬ当初渠等の此処に来れるは決して正業の為めではなかったせ界の劣等種族たる此の群島の土人にすら笑を売る小婦と是等の輔助者たるピンプ(情夫又は親方の義普通兄さんなる尊称を小婦等より受け居れり)とであった売薬行商者の入込めるは日清戦役後である売笑婦ピンプ、売薬行商者是等が土人との接触に於て幾多の醜行悪事の行われたかは絮説するの必要はない
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時事新報 1915.6.19-1915.7.27(大正4) 
日本対支那 (一〜二十九) 
安岡生

醜業婦
殊に支那人の我を軽蔑する原因として指摘すべきものは例の醜業婦なり固より倚門売笑は何れの国にも之あり若しも之を理由として其国民を軽蔑するとせば世界を通じて軽蔑す可からざるの国民あるなし否な最も多く醜業婦を出すの国は却て世界第一流の文明国を以て自ら任ずる欧洲諸国なりとすれば我国より他国に出稼する醜業婦多しとて我国民は深く之を苦痛とするを要せざる可し然れども眼界狭き支那人は其西洋より来れる者割合に少くして我国より来れる者余りに多きを視て其多寡の差を生じたる原因が一は距離の遠近、往来の難易に存し、一は西洋の醜業婦が日本醜業婦と競争し難き事情に存するを知らずして直に日本を目するに醜業婦の特産国を以てし日本人は貧乏なるに加えて淫猥無恥なる国民為りと誤想するものの如し而して支那に於ける西洋醜業婦は我国に於けると同じく身の程をも顧みずして高く自ら標置し主として西洋人を嫖客と為し容易く支那人を迎えざるに反し日本醜業婦の多くは千客万来、相手を択ばざるのみか(芸妓は例外なり)土地によりては日本人の為めに唾棄せられて支那人のみを嫖客とする者なきに非ず此輩は醜業婦中の最劣等なるものにして其醜状惨状観るに忍びざるものあり之を理由としての支那人の悪評に対しては我国人も恐らくば弁解の辞なかるべし
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東京日日新聞 1915.6.25-1915.6.26(大正4) 
満蒙経営論 (上・下) 
法学博士 岡松参太郎氏談

又満鉄沿線にも開拓すべき事業あれども之亦振るわず満鉄会社及之に附随する経営を除いたならば醜業婦や雑貨商の徒の入込むに過ぎない
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時事新報 1915.12.14-1915.12.22(大正4) 
大博後の排日如何 (一〜[七]) 
十一月十九日桑港発 河上清 

(一) 
博覧会の結果如何 
長かりし博覧会の会期も剰ます処僅に二週日とはなりぬ日米親善、排日緩和を第一の目的としたる日本の参同は果して予期の効果を収めたるや否や前触れの大袈裟なりし日本庭園も「来て見れば左ほどでも無し富士の山」の感なき能はず同じく予告の大なりし「ジャパン、ビウテフル」の日本町も「ヂャパン、セームフル」と悪口さるるほど醜悪なるは猶お忍ぶべしとして之が経営の責任ある協賛会社の財政困難にして大博閉会の頃には大破綻を来すべきの虞あり其他日本有数の工業家と称する出品者の中には種々の奸策を弄して脱税を企てたる無恥漢あり移民局に書を送りて都踊一行は多く醜業婦なる事を密告したるものあり其田種々の方面に於て日本人の醜態を現わしたるは吾人の深く遺憾とする処なり
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時事新報 1916.1.15-1916.1.17(大正5) 
青島指定地建築問題 (上・下) 
在青島 特派員 

(上) 一、到る処絃歌湧く 
青島に於ける一般人の入市許可さるるや真先に入込める者の多くは利権屋と醜業婦なりき、就中醜業婦と称すべき芸酌婦は一時青島在留邦人一万三四千に対し一千百余名の多きを数えたり、当時軍政当局に於ても戦後多忙の際一時に押掛けたる是等の人々に対し夫々適処に住所又は営業所を構えしむるは到底不可能なりしを以て唯他日機会を見て整理するの方針を取り当時は彼等の希望し指定せる場所に許可を与えたり、左れば独逸時代には大商店軒を並べたる大通りに之等の営業者跋扈し白昼白堊の三層楼より絃歌湧き硝子越しに友禅の舞姿艶めかしきを見ること屡々にして日本人の生活状態を知らざる在留外人及支那人をして異様の感を為さしめたり、単に外人及支那人をして異様の感を懐かしめたるのみならず戦後の秩序日に恢復するに連れ心ある日本人をして顰蹙せしめたり去る五月大谷軍司令官の任に当地に莅むや斯る状態が邦人発展の将来に多大の悪影響あるを思い直に之が整理の方針を立て時の高級参謀山田大佐の献策を容れ之等芸酌婦を置き若くは之に依って営業する総ての者を一定地域内に収容するに決せり 
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満州日日新聞 1916.1.29-1916.2.19(大正5)
山東経営大観 (一〜十五)
天南生 (一)

戦後の青島は如何なる状態なるか山東の経営は如何に日本人の手に行われつつあるか、・・・
一、市街の整理風紀の維持如何
旧独逸市街は一戸平均家賃七十円、最高二百五十円前後の堂々たる家屋のみにして、大鮑島の支那式家屋も猶お三十円を下らざれば、我薄資者の一戸を数戸に仕切りて雑然と店舗を開き、若くは支那家屋にても陋隘のものを借受け雑居の有様不快の感を懐かざるを得ず、殊に遊廓青楼同然の酒楼旧独逸市街にも散居し、脂粉の売笑婦闊歩し居る事は、風紀上慨すべき事なりとす、吉村青島軍政署長は英断を以て青島第三区に彼等の位置を指定し、建物会社と交渉して移転すべき家屋を建築せしめんとす、為めに幾多の廃業者を出すも、余は賛成に吝ならざるなり。 要するに我日本人の発展には斯くの如き好ましからざる裏面も亦少なからず、余は独り軍当局のみならず、青島人士が真摯奮励此等の情弊害毒を一掃せん事を切望す。

台湾日日新報(新聞) 1916.3.16-1960.3.25(大正5) 
浮田領事南洋談 (一〜五) 
南洋協会講演

只今蘭領東印度に居ります日本人の総数は昨年六月頃の調べで約三千人ある、此日本人が何時頃から蘭領に来始めたかと云うと今を去ること二三十年前頃から漸く来始めた、それが一番始めでございましょう、其時分に来ましたのは重に醜業婦でございます、醜業婦が即ち日本人の先駆者と云っても誤りがないのであります、次ぎましては売薬行商等でございます、醜業婦、売薬行商と云うものが蘭領東印度に来た初めでありまして、それ等が段々発展致しまして斯く今の蘭領東印度方面に於ける日本人が段々と開らけかけて来たような訳で、現今爪哇に数軒の店がある、其他『スマトラ』方面にも数軒ある、是れ等の店の中には元と行商をして居た人だの又は醜業婦を輸入してやって居った先生等が居るのであります、醜業を廃して商売に移り、行商を止して店を持つ、彼等も醜業が元来の目的ではなくして向上進歩して今の雑貨商や何かになって来たのでありますから、之を従前に比しますれば一人の発展ではございますが、併し只今の南洋と云うものは最早醜業婦時代行商時代と云うものは既に去りまして是から着実なる商人及び其他栽培業者の如き者来りて事業を営むの必要を感ずる時代になって今までの人ばかりに専ら任せて置くことは出来ぬ時代になって居ります 現在蘭領東印度に居ります三千の在留民を島別で申しますと爪哇にちょっと八百人ばかり居ります、『スマトラ』に九百人、『ボルネオ』に三百人、『セレベス』に百二十五人、それから『アロ』と云う所に真珠貝の採取をやって居ります、即ちもぐりであります、其真珠を採取する業に就いて居る者が三百五十人、多い時で四百人ばかり居ります総てで三千人ばかりの人数が居りますが、『スマトラ』に居ります所の九百人と申しますと頭数では決して少くありませぬが、其九百人の中の四五百人と云うものは醜業婦醜業婦は今は少いのでありますが西洋人に附いて居ります所謂洋妾に属する者でありまして、此の部類に属するものは前述三千の中にも大分多数を占めて居ります、其他は売薬行商であるとか、或は洗濯屋も煎餅屋もあると云うような風で、蘭領東印度に居ります和蘭人の外の外国人中日本人が一番多いのでありますが、勢力に於ては何等今の処では認むべきものはないのであります、僅に『スラバヤ』に三井物産会社の出張所がありますとか昨年五月から台湾銀行の出張所が出来ましたと云うような所が大きな所で其他『スラバヤ』『スマラン』『バタビヤ』に二三の雑貨商『スマトラ』に於きましては『メダン』に渋谷商会『バダン』に東洋商会、或は大谷商店と云うようなもの、『マカザ』に稲垣商会とか、川原商会と云うものがありますが要するに只今の所では格別日本人の勢力として認むべき所はない、是から益々発展しなければならぬと云う場合になって居ります、又発展すべき見込も充分あるのであります、斯の如く日本人が蘭領東印度に来初めましたのは明治聖代に於きまして今を去る三十年前後が元でそれも醜業婦や行商に依って開らかれたと云う様な有様でありますが翻って日蘭両国の交通の上から見ますとつつと昔のことはいざ知らず三四百年前に於ける日本人は只今の如き意気地なき状態ではなかったのであります、此事に就きまして序ながら私が爪哇に参って居ります中に僅な書類の中で知り得た所をちょっと御話したいと思います
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神戸又新日報 1916.3.27(大正5)
写真結婚問題
桑港 鷹城生

其後の趨勢
昨年日本より桑港(サンフランシスコ)に到着せる邦人は総数五千四百四十七人にして内 男 三、二〇〇人 女 二、二四七人 となり此の二千人の女子中写真結婚者実に八百二十三人なりしは果して利か弊が一考すべきものあり而して此五千有余人中二十七人は上陸を許可せられざりしものにして其理由は・・・

其排斥理由
さればバーネット氏の如き下院に対し写真結婚禁止といえる条項を移民法案中に加えんとし其理由とし斯の如く簡単に結ばれたる結婚式は直に離れ得るものとし又醜業婦の名を之に藉るものなりと解するに至れるも強に無理ならざるべし
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大阪朝日新聞 1916.4.10(大正5)
台湾の過古現在将来 
特派員 瓢斉生

絶海の孤島に向って最初の発展を試みた日本人は八幡船であって、日本人の威力はまだ西班牙人も、葡萄牙人も手だに触れない台湾や南洋諸島にのびていたのを、徳川の鎖国政策に台なしにして了った、漸く今日に至って南へ南への声をきくとは確に矛盾した歴史というべきであろう、当年昂がった武力の焔は、今や醜業婦の横行によって、取返しのつかない不名誉で帳消しにされているのである。
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満州日日新聞 1916.6.9-1916.6.23(大正5)
貔子窩瞥見録 (一〜九)
津上蒼洋

旅館と料理店 同地の旅館は常盤及一山の二軒あり。一山旅館は殆ど其体を為さざるも常盤旅館は土地柄相当に第一流なり。大連方面其他よりの旅客は悉く同旅館に集り、又時々居留有志の会合等に使用せらる。料理店は周防屋、薩州軒、喜楽、田浦屋の四軒あり。之に収容する娘子軍は芸妓三名、酌婦十五六名あり。何れも小岡子の第二流以下にして敢て問題とならざるも貔子窩に於ける彼等はアレでも別嬪にてヤンヤと珍宝がらるるは流石に女ならでは夜の明けぬ国民なり。彼等に就て『如斯片田舎に稼業をなし面白きことありや』と問えば客種悪しく娼業繁昌せざるまでも経費の掛らぬ為め結局収入多く却って身体は気楽なりと答う。お客こそ好い面の皮なり。夫れ然り而して前記の如き劣嬪多き中に周防屋に梅吉、喜楽に小円なる二美人?あり滞在中余等一行の為めに旅館に傭われて朝夕給仕の任に当る。聞く処に依れば之ぞ貔子窩に於ける一流の美人にて旅館より選抜されらるものなりと。茲に特に一言の提灯をブラ下げ置くもの也(完)

大阪毎日新聞 1916.6.24-1916.6.27(大正5) 
南洋に於ける日本品 (一〜三) 
バタビヤにて 岩藤生

蘭領印度総体に於ける日本人の数は僅に二千五百に過ぎず而も其半数は醜業婦なるに於て日本商の如何に勢力微弱なるかを察するに足らん
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大阪毎日新聞 1916.7.18-1916.7.19(大正5)
第二松花江まで (上・下)
[日露協約の締結 其三十三]
陶頼昭にて 鬼仏堂

沿線中嘱目せられて居るは窰門にて支那人の間には張家湾として知られて居る停車場の附近を窰門と名付けて、それより軌条を隔てて数町、張家湾の部落あり逸早くこの地に着眼せしは支那人にして、既に基礎も出来て居る、露国側最近の調査によれば支那人一千十二名、露人三百四十五名にして、営業数の如きも昨年は七十五と称せられしを、本年に至っては一躍百二十九の多きに至った位で、目下彼等支那人等は東清鉄道に向け附属地内の土地租借を請願しつつあるもの二百二十一件に達して王某の如き一個人の名義にて穀物、塩、石炭等の集散場及び汕房建設の名目にて土地の貸下を願出でたる位にて、東清鉄道会社にても近々広大なる地区を設定して一般希望者に対し永久貸下げをなさんと計画中の由である支那人や露国人の発展に対しては、邦人の勢力は未だ論ずるに足らざるは申す迄もない汽車の中から見るとこの村の中程に日光に照されて見ゆるトタン屋根の数棟あり、之即ち日本人の集団である、七十歳に近き某翁がこの部落の邦人中の顔利であると聞いた、此処は二三年前から邦人の数が殖えて来たので、戸数は二十五戸その内の四戸が料理業で、二十名は例の醜業婦である
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大阪毎日新聞 1916.7.25-1916.7.30(大正5) 
南洋開発の好時機 (一〜六) 
岩藤生

欧人移住者蘭領印度全体に於て約七万人と称す而して爪哇にあるもの五万外領にあるもの二万人支那人に至っては七十万を越え其外領にあるもの二十万に達す而して本邦人の蘭領にあるもの僅に三千二百而も其過半は例の醜業婦にして真に産業に従事せるものに至っては僅々千四五百人に過ぎず
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新愛知 1916.8.27-1916.9.3(大正5) 
緩急車 浦塩斯徳(ウラジオストク)瞥見 (一〜七) 
悠々生

試みに、最近の調査に係る浦塩在留本邦人の職業と、其職業に配分されたる各人口を見よ。蓋し思い半に過ぐるものがあろう。詳言すれば、在留邦人約二千名の内、最も多きものが娼妓であり、之が三百二十三名、之に外国人の妾六十名、芸妓十二名を加うれば、其数三百九十四名即ち総人口の約二割に達するのである。此統計によって見ても、我日本人が浦塩に於て、如何に腰を使うことによって儲けつつあるかを察するに足るではないか。
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新愛知 1916.8.28-1916.8.30(大正5) 
隠されたる南洋の宝庫 (一〜三) 
本紙九千号記念講演会に於る久留島武彦氏演

今日南支南洋のマニラ、新嘉坡(シンガポール)、ボルネオ、蘭貢(ラングーン)、セレベス其他へ、天草の女が六千人も往って居る
、之には男が伴って居らぬ、実に思うようにならぬ、それで日本は三百年以前には猛者の国として恐れられて居たが、今は嬉しい優しい懐しい乙女の国として到る処で持囃されて居る、此持囃されて居る婦人は醜業婦、其手から年々五万円乃至二十万円の金を送って来る、之も外資輸入と云えば云えるが、金よりも名誉に関る国の迷惑である、斯る女すら五万円乃至二十万円の金を送る、少し優秀なる人が往ったならば、何百万円と云う金を送る事の出来ぬ筈はない、然らば如何に切込む余地があるか之を極く掻摘んで申上たいと思う
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大阪毎日新聞 1916.10.18-1916.12.31(大正5) 
蘭領印度 (一〜二十一) 
法学博士 市村光恵

(十七) スラカルタ 
六時二十三分ジョクジャ駅を出て汽車は北方遥にメラビ噴火山の峻峰を望みながら東北に馳せる、此辺土壌最も肥沃沿道殆ど皆砂糖畠か煙草畠である、八時五十分汽車はソロ(スラカルタの別名)の停車場に着いた、此所も爪哇(ジャワ)の独立国の首都である、停車場から市街迄は少し隔たって居る、馬車に乗ってホテルスリーアに向う、途中看護服の如き白衣を着けた束髪の日本婦人が二人馬車に乗ってスレ違うた、後から聞けば蘭人の洋妾であるとの事だ、一体日本の婦人は羅紗牝としては西洋人の間に非常に評判がよい、善く働いて倹約で貞節であるとは余が屡々白人から聞いた讃辞である、中には日本人の商館に出て来て妾の周旋を頼む者がある相である、而して日本人を妾にして居る白人は大抵日本人贔屓である、スマトラのメダン当りには沢山此種の洋妾が居ると聞いた、日本人は自己の品性を衒うが為に往々醜業婦や洋妾を痛罵する者があるが彼等にも亦存在の理由がある余は寧ろ彼等に同情する
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京都日出新聞 1916.11.16-1916.11.20(大正5) 
蘭領爪哇事情 (一〜五) 
京都大学教授市村光恵氏講演

千九百五年の統計に依れば爪哇(ジャワ)に於ける日本人は二千余人に過ぎざるも今は余程増加して居る、殊に例の醜業婦の追々減少して着実なる者の増加しつつあるは喜ぶべき現象なり
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大阪毎日新聞 1917.2.15-1917.3.8(大正6) 
西部ボルネオ探検 (一〜十三・十五〜二十) 
多田 恵一

是は敢てボルネオのみに止まったことではないが、特に邦人が多大の信頼を得つつある未開のボルネオに渡航せんと欲する人々は須らく日本人の品位ということに深く注意せねばならぬ。今日彼の醜業婦の如きは表面蘭領東印度諸島から放逐されて居るから日本人としての価値も一段高くなったのは争うべからざることだが、今尚醜業婦全盛時代の余焔がないとはいえぬ。
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京城日報 1917.3.31(大正6)
満洲人口分布
唯遺憾とする所は南満洲に於ける邦人の男女比例は男百に対し女八十七を示すに拘らず北満にありては女百に対し男四十を示し北満に於ける邦人発展の原動力が所謂娘子軍に在る事なりとす

満州日日新聞 1917.5.23(大正6)
出生率増加
在満邦人十万五千人

男百に対する女の割合は領事館管内の長春一一八、三遼陽一一四、七を筆頭に奉天領事館管内の七七、七を最少とし州外にありては四平街九五五開原九四、五なるは娘子軍の比較的多数を占むる為めなるべく其他州内外共大□八五乃至八六の処にあり

満州日日新聞 1917.6.29-1917.6.30(大正6) 
新領土と布教 (上・下) 
文学博士 村上専精氏談

醜業婦が先駆
惟うに植民事業の如きは之を外国の事例に徴するときは先ず宗教家の献身的活躍に俟つものが多いのであるが我邦の新領土に対する遣り方は此反対であって内地に於てさえ余り感心の出来ない人々殊に最も厭うべき処の醜業婦の如きが神聖なる国の発展の先駆を努めるに至っては到底此の事業の成績不良たるを免れないも道理である新領土の風儀を乱し道徳を破壊するが如きものが先ず移住して然る後徳育智育を司る教育家が之に追従するようでは真の同化ということは得て望むべからずであるという事を断言して憚らない
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新愛知 1917.7.24-1917.7.28(大正6)
満洲から西伯利へ (一・二・三・四・五)
六月二十五日チタ市発 旭水生

満洲里駅の人口
四月二十五日夜半海拉爾車站を発したる郵便列車は翌二十六日午前十一時前満洲里駅に着す、同地は人も知る如く東清鉄道西端駅、露、支、蒙各国境地点にして、各国税関所在地たり・・・

在留邦人の状態
在留邦人二百余名中の約半数は売笑婦及之に関係を有する者なるも而も一方に日本病院、東洋医院、久保医院等邦人経営の病院ありて・・・

センナャの花街 
余の投宿センナャ街は俗に下町と称し、チタ河畔埋立地一帯の総称にして、チタ市特別の花柳街なり、露支人の耳にはセンチャ街と云うだに弁財天の在す極楽園を直覚す、昼夜の遊客絡駅絶えざる色街にして、露人、ポーランド人、ワリヤーク人、オロチョン人、蒙古雑種の露人及日本娘の錫を粋を蒐めたる佳人揃い、日露娼家軒を接して『戦雲何処に横わる、政争那辺にかある?』と全然軍国の何たるを知らざる、淫風盛んにして、此処ばかりは不景気知らずの大繁昌、就中日本娼家二十二戸、シベリヤ遠征の紅褌隊員無慮八十九十名、多くは九州出身の猛者揃いならざるはなし 

自ら淫売屋と称す
当地在留邦人にして此種の営業に従事せざる者極めて稀なり、比較的成功者と称すべき人士中尚お此営業を兼営するもの尠しとせず、去れば爾余の少資本家何もシベリヤに流浪多年、洗濯屋賭博師、床や、コックなどの成上り多く、概して内地の正当なる学校教育を経たるものなく、勿論紳士紳商と称すべきものなし故に言語、作法自から内地人と其趣きを異にし、一種独特のシベリヤ式風俗を成せり、彼等は此の種の営業を称して「淫売屋」ち称して意とせず是れ決して他人が呼ぶにあらずして自己亦遜称の意にもあらず、自他平気に「淫売屋々々」と称して怪まず、而して面白きは、高木某外二戸の経営する同業家は之を「女郎屋」と称え他の二十戸ばかりは総て淫売屋と称す、蓋し「女郎屋」は一戸四名以上の売笑婦を収容する権もあるも他は三名以下に限り、若しそれ以上の人員を置かんとせば三名につき一個宛の出入口を設けざるべからず、故に一家四名以上を置ける家は同じ一戸にして出入口二箇所を有し居れり、彼等を称して淫売屋とは称する次第なりと 

出獄人が上等客 
海外遠征の紅褌隊は何処も同じ、九州は天草若しくは島原、佐賀あたりの猛者揃いなるは世人の洽く知る所なるが、当地も其例に洩れず多くは天草、茂木、佐賀、島原出身者多きが如し、そして奇なるは他所に見られぬ年増女の多きことにして、花羞かしき乙女子は蓋し指を屈する程に過ず然も老幼に拘らず其収入は概して七八留より二十留に上る、而して彼等は何れも露西亜式の派手なる洋装をなし露語を囀り見るも恐ろしげなる加薩克兵又は職工、小商人、農夫を対手とせり、殊に近来革命の恩典に浴して放免せられたる出獄人など一時盛んに来遊したれば「監獄人」と云えば花柳界に一時歓迎せらるるの奇観を呈したり、夫れも其筈、彼等は多年シベリヤ流謫の身、殊に獄中異性に接する機会なかりしより、多年在監中の工銭を所持し、之を一夜の豪遊に一擲して悔ず、概して金離れよかりしより、笑君連は何れもこの種の客人を歓迎したるなり
 
醜業組合の現状 
一戸多きは十数名、少きも両三名を下らざるチタ市センナャ美人街に於る我君子国の紅褌隊は最も優勢にして、一昼夜少きも五六名、多きは二十余名の色餓饑を征服しつつあるは驚嘆に値す、而して是等娼家は同業組合を組織し、現に何某之が組長たり、彼等は年久しく露国の圧制治下に弱い商売を営み居れる事とて、露国官憲の如何なる理不尽なる命令にも惟々として服従し来り、自家の主張すべき当然の権利さえ之を放棄して無智なる下級官吏の圧迫にすら萎縮し居れり、彼等は何等結束して向上的発展の方策を講ずることなく、暇さえあれば賭博に耽り居るとは慨嘆に堪えず、特に当業家に必要なる検黴衛生の機関すら之を有せず、自他共に甚大なる損害を醸成しつつあり、併し、個人間の交際は極めて親密にして近隣相助け、旅行者の来るあれば相当の待遇を与え、貧窮者あれば各戸醵金して之を救助し、吉凶禍福互に同情を以て共済補給するの美風あるはセメテもの取柄なり
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福岡日日新聞 1917.8.3(大正6)
日露為替断絶
長崎市場の影響
[露国の為替禁止 (九)]

露国が留貨幣の流出を防ぎ国内の財政整理の為曩に外国為替禁止令発布以来在浦塩本邦銀行は勿論是まで同国と取引ありし銀行の被れる影響は甚大にして同国との為替関係は全然杜絶され従って取引も全く行うを得ず自然的無取引の状態に陥りたり長崎市は従来露国との関係深く個人又は銀行取引共相当の金額を有せし事なれど今は同国との直取引は皆無にて僅に例の娘子軍が便船毎に若干宛送金し来る位なりしが是れ又右の禁止令の為一時は浦塩(ウラジオストク)より哈爾賓(ハルピン)へ廻送し更に当市取引銀行へ送付したる事なれど哈爾賓も露国の勢力圏内にある事とて最早其方法を執る能わず全く本邦との金融は杜絶の有様なれば十八銀行及横浜正金長崎支店の如き既に為替関係を休止し居れり
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満州日日新聞 1918.1.1(大正7) 
対支経済策と支那の現状 
法学博士 田中穂積

海外に居る人は常に此心を以て本国と其国との疎隔を軟らげる様に心がけねばならぬ殊に支那に於ける日本人は最も此に注意すべき筈なるに一向其事なく多くは戦勝者の戦敗者に対する態度を革めず然も海外にある日本人の多くは醜業婦ならざれば無頼の徒にして其品性の下劣にして素行の修まらざる支那人の顰蹙する所である、
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大阪朝日新聞 1918.2.22-1918.2.24(大正7) 
山東民政問題 (上・中・下) 
上海特派員 美土路昌一

人種別の偉観
翻って今試みに大正六年八月一日守備軍調査の青島人口職業別を一見するに、日本人総計一万五千八百三人中不生産的なる家族(八、八四二)を除除きて、他の重なる人員を挙ぐれば、残り六千九百六十一人中、特種婦=芸妓、酌婦、仲居(七六七)、軍人将校(三二七)、文官(七八零)、官衙傭人(七三五)、労働者(七五四)、料理職(一〇七)、貿易仲買(二八八)、雑貨商(二四二)、古物商(一〇四)、請負業(一五四)等は其重なるものである。青島占領せられて既に約四歳、今や此●爾猫額に均しき七里四方の租借地は官吏と醜業婦とを以て半を充たしつつある。又偉観なりと云うべし。
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福岡日日新聞 1918.3.3(大正7) 
新嘉坡(シンガポール)と邦人 

蘭船オヒール号にて新嘉坡より長崎に上陸し二月二十八日神戸に向える青木二郎氏の談に曰く 新嘉坡に於ける邦人の発展は目覚しきものあり一時醜業婦の貯金を以て□を造り各種事業の資金に融通し居たるものが最近にては三井三菱久原鈴木正金台銀の各大商店櫛比して活発なる営業を試み近く大阪商船は南洋南米航路を開き山下汽船も又た南洋に飛躍する由にて其の発展も確かに外人の目を惹くに足る
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大阪新報 1918.4.1(大正7) 
印度貿易 

当地大沢商会の印度視察員の印度より帰来し最近の同地事情を語る所を聞くに左の如し・・・
尚現今に於て邦人の印度に在住する者は孟買(ムンバイ)に三百人、カルカッタに二百人約五百余人と聞きたるが之等の半数は醜業婦の類にて商業に従事する者は僅かに其十分の一に過ぎず
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台湾日日新報(新聞) 1918.5.5-1918.5.9(大正7) 
台湾と南方発展 (一〜四) 
於拓殖講演会 折田台湾総督府副官講演

今日我民族此方面に活動せるもの未だ寥たる状態に在りて而も国辱を念とせざる娘子軍の横行や粗製濫造の商品を輸出して我貿易上の不信用を顧慮せざる奸商や或は浮浪無頼の邦人が一等国民を楯として各処に蛮行を演じて恥とせざるに比較して洵に慨歎に堪ぬ次第であります

中外商業新報 1918.5.28-1918.6.20(大正7) 
最近視察せる南洋経済状態 (一〜二十) 
大阪商船近海課長 上谷続氏談

日本人の発展プレートインデアンペニーシュア半島の物資を研究する前にマレーストテースに就て一言せん、新嘉坡を中心としての日本人の発展は大戦開始以来著しきものあり千九百十六年に本邦会社中同地に支店を有せしは三井、台湾銀行、乙峰等に過ぎざりしが其後今春迄に山下汽船、増田屋、鈴木三菱等何れも支店を新設し其活躍目覚しきものあり一昨年租借せる十万噎は開墾され完全なる護謨(ゴム)園となり本邦在住人の多くはゴム栽培に従事し居れり往年同地領事館は本邦醜業婦発展奨励を以て方針とせるかの如き観ありしに近年に至り其方針は一変して真面目なる移民の斡旋奨励に尽瘁しつつあるは喜ぶべき現象というべし、
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時事新報 1918.8.15(大正7) 
東露経済近況 各国人の活動 
邦人発展好機

東露の同胞
其数約四千五百人に達し其内醜業婦第一位にあり其他写真洗濯理髪時計直し大工等の諸業最も多く貿易商の如き僅か六十に足らず然るに今や我同胞は過激派の圧迫に依り帰国するもの或は浦潮哈爾賓等に集まり目下在留せる邦人は極めて少数にして武市に於ける虐殺浦市に於ける強盗難の如き状態頗る不安なるものあり
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東京朝日新聞 1918.11.25-1918.11.26(大正7) 
比島より (上・下) 
香港にて 孤嘯生

今回突如布達せられたる国民軍陣営(クラウディオのキャムプ)を距る周囲七哩以内の地には遊郭の存立を禁ぜるが如きも亦其発露に外ならず、マニラ市東北に位せるサンパロクのガアデニアは今日迄一画を限り土人日本人等の紅灯を黙許し土人百七十八名と日本醜業婦百四名女将十七名にて盛んに肉の切売を為さしめたるものなるが去る十八日市長ルクバンと市警察部長ホーマンは遂に彼等の退去を命じ全く其自由を拘束する事となれり此の如きは由来民主思想の旺盛なる比島に殆ど稀□の高圧手段と称せられ之れが為め邦人醜業者の騒動困難は殆ど名状すべからざる光景に陥りたるのみに止まらず、此一画を中心とせるマニラ市在留の邦商中頗る密接の経済関係を有するものありて彼等の驚愕又度を失せり、無尽講醜業者各自と女将と貸借関係、家財什器の整理等何等手を染むるの暇なく、郵船香取丸を初めとし東洋汽船コレヤ丸、商船チカゴ丸、エンサン号、シベリヤ丸等マニラより対岸支那並に日本に航海する便船毎に数十名宛退去せしめたり此間或は人身の自由を束縛せりとか若くは此内帰るに家なき憐れむべき遊女十一名を迎え各各妻とも為さんとてハアビアスコルバスに基く訴訟を提起せる物好き抔現れたるも十月二十八日マニラ第一審裁判所に於て移民法に依り追放を命ずる事と解釈せらるるに及んで彼等折角必死の運動も全然水泡に帰し了んぬ、邦人醜業者中退去する事を得ざる実際の事情あるもの病気中のもの無籍日本人抔を合せ約二十名見当尚残留するのみにて這次の一撃は邦人醜業者を一掃し尽くせり相原副領事は奔命に疲れ盛に目を廻す程活動し遊女の怨霊に取附かれ西斑牙迄も悩みたる筐なるに一部邦人中には領事が相当準備の期間を比島官憲の対し保留せざりしは不都合なりとて批難の声を高めつつあり相原副領事に対し誠に気の毒の至りに堪えずマニラ有力の邦人団体たる商工会にては寧ろ傍観的態度を取る外なしと決議したるが兎に角比島政府の果断は推賞に値するものと云わざるべからず土人醜業者全部を比島内の最も女の少き南比タバオに送り夫夫良縁を求めしむべく出航せしめたる手段甚だ周到なりと評せざるべからずダバオ行き土人醜業者に対しては移民法抔何等七面倒の関係あるべきにあらざるを以て法曹界の一問題となり裁判所に出訴し本人等の自由意思を尊重しダバオ行きを決行したりしや宜しく一応法律上の手続を経、当人等の承諾を得ざるべからずとの議論行われ且当市新聞雑誌中には此等醜業者にして果して良縁を得るとするも定めて良母賢妻となり得べきや将来の国民出産の上に如何なる程度迄歓迎すべきや抔皮肉交りに野次れるものなきにあらず予てダバオ日本人会より排斥を蒙りたる南比ダバオ方面の邦人醜業者団も多分此一事業に懲り足元の明るき内に引揚げ夫夫本国帰還の事に落着するに至るべきかと観察せらる。
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大阪朝日新聞 1919.1.24-1919.2.2(大正8)
露人に交わる道 (一・二・[三〜十])
鈴木於莵平

(一)
西伯利は我隣境にして、其距るや僅に一衣帯水のみ、而も彼我貿易の振わざる実に慨嘆に堪えないのである。抑も西伯利(シベリア)に於る日露両国民の接触は端を明治十年頃に発し九州島原辺の漁夫労働者醜業婦連の移住に始まり、追々他職業者の渡航を誘致するに至りて浦潮市街漸く邦人の営業者を見るに至ったのである。
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大阪朝日新聞 1919.2.3(大正8)
我が不評の因
哈爾賓(ハルピン) 牛木生

西伯利(シベリア)に一歩踏み入れた日本人は男も女も醜業婦であれ、洗濯屋であれ、床屋であれ、医者であれ、悉く是れ軍事探偵か間諜か、何れにしても露国を窺い露国を覘うの徒にして種々の迫害を受けた。
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台湾日日新報(新聞) 1919.2.5-1919.2.9(大正8) 
南洋に於ける企業上の注意 (一〜五)
(先ず自力を養え) 
南亜公司専務取締役 井上雅二述

併し人を海外に植えると云うことは吾等の年来の主張である、従来南洋に於ける日本人は醜業婦が主であったが、今日は有力なる資本家や実業家が資本を投ずることになって、醜業婦の影は漸々薄くなり、日本人の地位が漸次高まりつつある、
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台湾新聞 1919.2.10-1919.2.13(大正8)
西濠洲の潜水業 (一〜四)
新嘉坡通信

最近西濠洲(オーストラリア)ブルームから百余名の邦人が国帰りの為当地へ寄港した白人の濠洲と言われ黄金の雨降る濠洲と称えられつつある裏面に如何に邦人が活動しつつ有るか・・・
潜夫生活の裏面と云うと如何にも大事件がひそんで居る様だが事実は只海上生活をして居る人々として女にあこがれ金廻りの良い濠洲では更に大賭博が行われるに過ぎない勿論白人の濠洲として一切の有色人種の侵入をふせぎつつ有れば男に対する女の比が到底新嘉坡の様な平衡に近い物じゃないとは言う迄も無くブルームに在住する所謂娘子軍は総数十四五名然も此の十四五名中最も若いと云われるのが四十歳以上古いのになると六十歳を越えるのが六七人居ると云うんだから金の為にふくれ切って居る彼等の精神が寧ろ気の毒になって来るんだ 女郎料理屋の繁昌期はブルームに於ける是等の下等娯楽場も繁昌するのは彼の地がブルームタイムの二三月を陸上で送るからである二月を皮切りに十一月迄ためた金が十二月の休業期に入ると全く出漁が無くなって今迄の海上無趣味生活は下宿屋の仰臥となるんだ此処で古人が言った事は間違いなく「小人閑居して不善をなす」を実現する第一に突撃する所は女郎屋次が賭博場料理屋の順であるが何と言っても千人に近い荒くれ男に十四五人の女では到底需要に応じ切れないで少しでも申込みを遅れ様者なれば縦令三千ドルが五千の金を積んでも女は見向きもしないのだ

大阪毎日新聞 1919.2.22-1919.2.28(大正8) 
講和問題 (一〜六) 及び国際連盟問題 
法学博士 千賀鶴太郎

是は北米合衆国を始め濠洲及び加奈陀に直接関係を有する事であって、従来彼等が東洋人種に対して行いつつある行動は断じて之を改めしめねばならぬ、彼等は弁じて曰く日本人は衣食住の点に於て我等と相違の点が多い、故に平等の待遇を与うることは出来ぬと、又曰く日本人は労働組合に加入せず又醜業婦を輸入し来ること多しと、其他種々の口実を設けて現に邦人排斥に努むるのであるが而も此等は全然遁辞に過ぎないのである、何となれば斯る事柄は彼地の法律上の規定により警察の力を以て十分に強制し得る性質のものであって、日本人を排斥する正当の理由とはなり得ないからである、
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新愛知 1919.4.13(大正8)
西伯利研究の必要
英米国の西伯利に対する発奮努力を熟慮せよ

西伯利(シベリア)から帰った邦人は斉しく戦前における邦人の西伯利に有せし勢力と、現在のそれとは全く雲泥の差があって、西伯利各地に於ける邦人の発展努力は、真に驚く可きものがあると喜んで居る。然しながら既に米国人が黒竜江上に星章旗を泛べ、幾多の鉱山には着着として工場を建設し、其天然資源に向って、大々的の計画を為し居ると。僅に日本人が出征□隊□駐屯地に、或は雑貨商を営み、或は旅館を経営し、或は売笑婦を働かせつつあるが如き、其経営振□区々末節たるとを比較すれば、真に汗顔に堪えざるものがあるでは無いか。
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京城日報 1919.4.27-1919.4.29(大正8) 
東亜の同人種地帯 (一〜三・□) 
東部西伯利朝鮮及満蒙日本各民族の同人種なるを提唱す 
不合理なる朝鮮の民族自決運動 
東京帝大講師 鳥居竜蔵氏談

最近は哈爾賓(ハルピン)のことも日本人に分って来たが戦前は殆んど知る人とては無かったのである。学者政治家より寧ろ醜業婦の方がよく知っていたようである、
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大阪毎日新聞 1919.5.8(大正8)
南洋講演
大阪商品陳列所にて東郷、木村両氏

大阪商品陳列所にては七日午後七時より事務館に於て実業家教育者の為に南洋の風俗習慣貿易事業等に関する講演会を開催し貴族院議員東郷男、木村新嘉坡陳列館長の講演ありたり木村氏は語る 
新嘉坡は南洋方面の中心市場であって陳列所事業の前途にも面白味があるが今日の処マレー群島蘭領印度の事情位を知り得るだけである故に近く他の方面にも人を派出する考えである而して南洋方面の真相を知らない当時は土人の購買力が非常に低いものであると想像して居たが実際は之に反し購買力も高く又上等の品物を望むので一驚した而して戦前迄彼地の輸入は英蘭独商品多く日本品の如き皆無と云う有様で唯醜業をこととする日本娘子軍が跋扈して居たに過ぎぬ然るに戦争開始と共に蘭独品の輸入杜絶した為め俄に日本品の需要増加し最近に於ては戦前の約十倍となり三億円に達したけれど尚全貿易額より見れば一割である
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万朝報 1919.6.7(大正8) 
床屋洗濯屋の日本人

海外に於ける邦人中には今日迄商人として成功を収めた者が甚だ少い、従米の貿易は多く外人の手に依りて取扱われ、其後邦人自ら直取引を為すに至りても、海外に大なる商店を有する者は極めて稀であった、三井、大倉等の出張店は海外の主なる都市に必ず設置せられて在る、其他の商店と云えば唯日本品の雑貨商あるのみで、多数の日本人が在住する所には種々の商店もあるが、多くは同胞を顧客とするに過ぎぬ、普通に外人を顧客とする日本人の営業で、最も多く海外に存在して居るものは床屋及び洗濯屋である、米国の各地に於て然り、西比利(シベリア)に於ても同様である、床屋洗濯屋等は敢て賤むべき職業ではないのであるが、其以外の職業に従事する者が甚だ乏しい為に日本人といえば女は悉く醜業婦、男は悉く床屋或は洗濯屋である様に考えられて居る
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大阪朝日新聞 1919.7.6(大正8)
浦潮支那人の排日傾向
浦潮 中山貞雄

浦潮(ウラジオストク)在留支那人は従来積極的に排日の行動を執った事は無かった、只過去に於て一度支那人の日本娘子軍に対する非買同盟が行われた事があったが其原因は日本娼妓の或る不法行為に原因したとか云う話であった。

台湾日日新報(新聞) 1919.9.4-1919.9.6 (大正8)
日蘭通商と日本船 (上・中・下) 
バタビヤ三井支店長 菊地泰(寄)

日蘭貿易の現状に就ては、総督府あたりに大分通が居られるので、廻らぬ筆を以って説明するにも当らないが、欧洲大戦前日本から爪哇への輸入額と戦時昨年又は一昨年のそれとを比較して見ると、約八倍に膨張して居る事丈を概念して置く蘭領印度在留邦人約二千人で、其内には旧来の娘子軍も含まれて居るのだが、近年の渡航邦人は余程高等な階級に増加を見つつある事は何よりも嬉しい、
我がバタビヤの日本人会なども、一昨年の春は会員八十名に過ぎなかったが現在は二百名に上り而も其内容が会社銀行商店員等の増加に基くものであるから、従来の醜業婦や南洋ゴロの増加とは全く意味か違うのである

神戸新聞 1919.10.16(大正8) 
婦人労働問題 
社会経済組織の改善

彼の海外に殆ど到らぬ隈なきまで分布せられつつ我国辱を忌憚なく曝露しつつある醜業婦問題の如きも婦人労働問題に□連を有するものというべし、海外に醜業婦の絶えざる所以のものは畢竟現今の社会制度及経済組織の欠陥が偶々此方面に曝露されたるに過ぎざるものと見るを得べし、最も天草島原女の如き、殆ど歴史的習慣的伝統的に海外出稼の醜業婦をなす土地もあれど、是とてその歴史的習慣的伝統的の因由に溯って研究すれば、天草の地が宗教的に早くより海外と交通し、外国人に接触するにおいて甚だき異常を感ぜざる結果、終に惰性を生ずるに至り、惰性の赴く所国辱的観念の刺戟を弱からしめたるに過ざる事を観取し得べく、畢竟生活の真実に発せるものというを得べし、如何となれば元来天草の地たる天然の資源頗る貧弱にして正義を得るに難く、自然女子の如き何等資本を要せずして生活をなし且金を儲け得る海外醜業婦を選ぶに至れるものというべく、その歴史的伝統的に弱められたる道徳観に依りて吾人が感ずるほど彼等は此醜業婦の選定を罪悪なりと思惟せざるに因る。
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大阪朝日新聞 1919.12.9(大正8)
朝鮮動揺の誘因
斉藤総督談

斉藤朝鮮総督は過般来の朝鮮騒擾事件に関し所感並に統治方針に就き左の如く語れり(京城電報) 朝鮮騒擾の裏面に基督教宣教師の宣伝あることは明かなる事実で、その最も悪性なるは京城セプランス医学校のスコフィルドという男で、私は朝鮮に着任前東京で会った、水野総監も会って居るが極めて猛烈な意見を吐き、その思想は常に朝鮮人を扶けて日本政府に反抗せしめようと図り、私に対しても日本政府は、芸娼妓の如き醜業婦を以て朝鮮の植民政策として居るが、その実況は実に酸鼻の光景を呈して居る、その方面の救済はどうするなどと云い、
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大阪毎日新聞 1920.1.3-1920.1.8(大正9) 予算問答 

高木氏
外務省は在外日本国民に対して如何なる程度まで調査し居れるや呂運亨問題も此事実調査によりて邦人たるか否か決定せらるるなり又新嘉坡(シンガポール)に於ける醜業婦二千人を帰還せしめたる理由如何
埴原次官
在外人の調査に関しては領事裁判権を有する土地に於ては之を調査せるも其他の土地においては別に調査機関を設けず又醜業婦送還に就ては田中通商局長説明すべし 田中通商局長
醜業婦全部を送還したるにあらず又原因は同市当局の要求並に在留邦人の意嚮本人の意思などによるものにして圧迫して帰還せしめたるものにあらず 高木氏
醜業婦送還の主唱者は山崎領事なりというが一官吏の意思によって軽々に帰国を命ずるは実に軽率の行為たり次に商務官の設置に関し登用人物の種類及び資格試験如何何故之を外務省所管とし農商務所管とせざりしや
田中局長
商務官登用は従来官吏登用の例外として専ら人材採用の意思あり又外務省管轄としたるも腕を揮うに差支を生ぜしむるが如き事万なからしむる事を期す
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大阪朝日新聞 1920.2.11-1920.2.13(大正9) 
排日を助長する所以 (上・中・下) 
写真結婚禁止に就て 法学博士 
末広重雄

然らば、排日派は何故に写真結婚婦人の入国に反対するか。排日派中の有力者の一人たる米国移民総監キヤミネチーが、理由として揚言する所に依れば、 
(一)道徳上の理由 
写真結婚は其の名の示す如く、写真を以て見合いをなすに止まり、双方相識り相思うのでなく、唯官憲に居出るだけで成立する婚姻であるから、米国国法の精神に反するものである。しかのみならず、写真結婚婦入中、渡米後或は夫と不和を主じ竟に破鏡折簪の悲劇を演じた揚句の果てが、醜業婦に堕落し、米国の淳風良俗を傷くること甚だしいものがある。

神戸又新日報 1920.4.4-1920.4.21(大正9) 
欧航記 (一〜十) 
三月十日新嘉坡(シンガポール)着前日熱田丸にて 本多一太郎

小生前遊当時には邦人の当地に在留するもの約二千其多くは御承知の通り醜業婦及其嬪夫並に彼等に附随せる職業に従事するものにして真に正業に携わるものは十指を屈するに足らず・・・予ては我娘子軍が当地そ其根拠地としてシャム、安南ジャワスマトラを始めとし馬来(マライ)半島の虎伏す山奥、鰐棲む南洋諸島の果に至る迄殆ど秋風の枯草を吹くが如くに跳梁横行せし事も今は過去の事実に属し近年漸く滅亡の機に達し彼南(ペナン)に於ては既に数ヶ月以前全部廃滅し、馬尼拉(マニラ)亦然り新嘉坡(シンガポール)に於ても近く二ヶ月の後には滅亡し終らんとす元来彼等は我民族の海外発展の先駆として称せられたる事もあれども続いて其地に我正業起って漸次其勢力を増加するや彼等は反比例に勢を失い滅亡するを常とせり即ち或意味に於て彼等の滅亡は我商権の確立する事ともなり候


台湾日日新報(新聞) 1920.6.27(大正9) 
圧迫を受けんとしつつある比律賓(フィリピン)の麻栽培 
邦人の栽培者六十四会社 
栽培地面積約二万甲歩

タバオには現在約五千人の邦人が居住して居るが、例の醜業婦も隠然勢力を有って居る、彼等は邦人が多数入込むと同時に遠征して来て今ではタバオから一寸離れた処に一団をなして居る、醜業婦が入込まぬ前迄は邦人は何の事業をなすにも非常に尊敬されて居たものだが醜業婦が入込んでからは邦人を侮蔑する様になった、ソレで在留邦人一同協議の上日本人としての体面を保つべく醜業婦追払いを官憲に掛合った、然るに官憲は日本の醜業婦を追払うとタバオの町が寂れるからと云うので追払いもせず放任して居るが、中々繁昌して居る云々 
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大阪朝日新聞1921.1.17(大正10)
海外には五十万人
国勢調査の投網を地球の上にパッと蔽せた結果

キリスタンの島原さては長崎辺から椰子の花咲く南洋へ出稼ぎしている女達や、排斥々々で遂いまくられる亜米利加辺の移住民の男達夫がどれ程ある事やら、
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北海タイムス 1921.5.7-1921.5.16(大正10) 
薩哈嗹(サハリン)感想記 (一〜三・五〜九・完)  
特派員 鈴木敏三

本年四月十日現在亜港(アレクサンドロフスク・サハリンスキー港)所在人口を挙ぐれば(軍人軍属除く) 邦人一、九六六露人一三、八七朝鮮人六〇四支那人一八六合計四、一四三 にして其後解氷航海安全季に入りて邦人の渡航と相俟ち所在邦人は益々逓増しつつある事予想に難くない、之等の邦人は主として吾軍占領後の経営に要する各般 設備の為入込みし労働者及其労働者並に一般在住民、物資供給を目的とする所謂雑貨商と其関係者大部分にして何れも刹那的掻っ浚い主義、商略を持す者に満ち苟くも相当の調査と用意を有する薩哈嗹富源開発を主眼とする実業家に乏しい尚吾西比利亜(シベリア)撤兵と同時に多斉方面より標泊せる所謂天草女の一団を主とする賤業婦百三二名(中露人五)も包含されているが右表に於て露人、固定に対し邦人の激増は着目すべき現象である
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福岡日日新聞 1921.9.7(大正10)

目覚しく南洋に発展して行く邦人 信用も亦増加した


横浜漁油株式会社南洋支配人藤野規矩氏はセレベスを根拠地として広くコプラ雑貨等の南洋貿易を経営していたが六日商船桃園丸にて門司着帰来した氏の談に曰く

・・・ 和蘭人の日本人に対する感情は同方面に於ける本邦人の先駆者が醜業婦や無頼漢等であったので多大の誤解を受て居たが後漸次着実の事業家が渡来するようになったので信用を恢復向上して現在では和蘭領沿岸警備に当って居る仮装軍艦にも特に便乗を許し便利を計って呉れる程に好感を持つようになって来て居る
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満州日日新聞 1921.11.5(大正10) 
海に陸に驚嘆すべき満州通信事業の発達 
過去十五年間に於ける努力の結晶 
関東庁逓信局長 杉野耕三郎氏(談)

抑吾関東州の通信事業は明治三十九年九月一日都督府が始政するに際し開始されたものであるが尤も、それ迄は日露間の兵火闌わであって満洲全線には野戦郵便局があった。それは三十七年十月末のことである始めて遼東守備軍が金州に置かれた際、軍事郵便が開始されて間もなく大連に移転したがその頃は軍事のみならず我在留民に対しても通信の便宜を与えて居た然しその頃兵火の巷を冒して敢て彷徨するものもなくそれはホンの数人例の醜業婦どもであった。


読売新聞 1921.11.25(大正10)
実行不可能の満蒙移民

今日在外の本邦人総数六十万の中、支那本土、満洲、及び西伯利(シベリア)に在留する者は大約二十六万で、即ち四割五分を占めて居るが、内二十万有余までは南満洲各地で、支那本土、西伯利、北満洲、蒙古の居留本邦人は六万に足らず、即ち在外本邦人総数の一割を出でない。南満洲にありても、鉄道の従業及び労働者、諸会社員、諸商買、賎業者、其の他直接間に満鉄と消長を共にするものを除けば、狭義の移民に属する労働者、殊に農業労働者の如きは何程もない。北満洲、蒙古、西伯利に至りては尚更である。
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満州日日新聞 1922.3.8(大正11)
山東の将来と邦人 
軍隊や官衙の力を頼み過ぎる

山東や満洲や西伯利(シベリア)への移植民は兔角軍隊や官衙の力を頼み過ぎる傾きがある。最前線に立つものは、例の娘子軍、質屋、売薬商、洗濯業者 高利貸の徒で、軍隊が道を開いて奥れるのを待って、始めて資本家、事業家、其他のものが後に続いて出かけ、中には軍隊の御用だけを目的に出懸けるものもあり、随って火事泥を働らくものもあり、そうして只貪り取る事ばかり考えて居るという有様では、日本国民の海外発展なるものに余り誇り得べき所はないのである。
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中外商業新報 1922.5.15(大正11)
満州の例に倣う南洋領事会議
(外務省通商局発表)

第二、在南洋邦人保護取締に関する問題で教育施設、病院施設、日本人会、醜業婦問題其他本邦人取締に関する諸問題の研究
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京城日報 1923.2.13-1923.3.6(大正12) 
南北満洲産業状態 (一〜十三) 
渡辺農務課長視察談

亦最近出来た産業公司の如きも冷蔵会社の手先となって白音太拉の奥地開魯、林西までも貿易に行って居るが非常な好成績で彼等蒙古人は大に日本人を歓迎して居る、それは何故かと云うに将来なれば先ず開拓地には売薬人が這入り続いて醜業婦が行くと云う状態であったが此の地は前記の如く貿易の為めに行くのであり且其人々は立派な会社の人で相当に外国語学校を卒業したとか其他相当の学力を有する人々が出掛けるので非常に諒解が早いので自然彼等も崇拝すると云った傾向があるため遂に今日の如く歓迎を受ける事となったものらしいのである
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中外商業新報 1923.6.24-1923.6.28(大正12)
予をして率直に露国の立場を語らしめよ (一〜五)
アドルフ・ヨッフェ

日本守備隊休戦条約を無視す
(ハ)尼港駐在日本守備隊よりも遥に優勢なりしパルチザンは、市街を占領したる為め日本守備隊は尼港要塞に隠れざるを得ざりき、パルチザン再三再四軍使を遣わし、日本軍と談判を遂げんとしたるに日本軍は此の軍使を殺害したり 去れど遂に「バルチザン」と日本守備隊との交渉成るに至り、休戦協約書を作り之が交換を行えり、該協約書に由りて日本守備隊は、其閉ぢ籠りし要塞より出づるの権利を得たり休戦条約を結びし後パルチザン等は其不規律の為か、或は余り日本軍に信用を置き過ぎたる為か、更に自ら警備する所無かりき。此機に乗じ要塞を出でたる日本守備隊は休戦条約を無視し、パルチザン襲撃を開始せり、此襲撃には尼港(ニコラエフスク)に在りし非戦闘員等も加わり窓口よりパルチザンを射撃したり(醜業婦の如きも之に加わりたりと云う)惨憺たる激戦の後パルチザンは勝利を得た、彼等は憤慨の余り尼港の日本部落を侵撃し、家屋を掠奪し、日本民を虐殺せり
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東京朝日新聞 1924.4.5(大正13)
国際貸借の話 (上・下)
国際財話

第五は移民送金である。たとえば亜米利加への出稼ぎに行って国元へなす送金又は生きながらの地獄そのままの生活をなす売笑婦が異国から国元への送金の如き、何れも日本からは相手国に対する受取勘定となるものである
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大阪毎日新聞 1924.5.7-1924.5.13(大正13) 
高率関税で阻害された対仏領印度貿易 (一〜六) 
総督の来朝で条約改訂迫る

戦争前に於て仏領印度支那に在留した本邦人は約三百名あったがその大半は賤業婦を以て占め、商業に従事するもの少なく経済上の勢力としては我国は実に微々として振わなかった。

大阪朝日新聞 1924.5.25 (大正13)
最近の朝鮮
諸般施設の改善整備により其の進歩隔世の感あり

西伯利あたりの様子によると、西伯利に於ける移住の先駆となったものは例の九州一角の〇〇婦であって其後から裁縫師、時計屋、理髪屋というような者がついて行って居る、其又遥か後から軍人、資本家が行って居る様なわけで精神家などは殆んど行って居らぬ様な状態である、
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東京朝日新聞 1924.6.17-1924.6.18(大正13)
国際商品としての護謨の話 (上・下)
国際財話

而も本邦人が南洋の護謨(ゴム)栽培事業に着手したのは、一九〇七年頃のことであって、当時は所謂娘子軍並に之に寄生した不逞漢の跋扈した時代であった

中外商業新報 1924.7.15-1924.7.17(大正13) 
露支の真中に置れた日本商品 (上・中・下) 
ハルピンにて 清沢生

今はロシア人約十五万五千支那人十八万五千人に対して日本人は約三千人に過ぎず、それも会社員が半分、醜業婦芸者等が六七百人で、残る一千人程が土着の人々、その内で大通りでロシア人を対手に商売しているのは海村という商店一つあるに過ぎない。
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大阪毎日新聞 1924.9.27(大正13) 日
露交渉は至難な状態に在る 
東京の訓電の早きを望むとカラハン氏嘆じて語る

浦塩(ウラジオストク)居留民
日露交渉の解決を切望 日本軍撤退後に於ける浦塩在留邦人は絶えず移動して居るため的確な調査が出来ず果して何人在住して居るか不明であったが二十六日朝敦賀入港の嘉義丸で帰来した船客の談によると今度日本居留民会が調査した九月一日現在の浦塩在留邦人は戸数二百十八戸、男三百九十二名、女二百六十五名、合計六百五十七人で職業別にすれば商人が一番多く四十九人、之に次ぎ漁業者九人、各種職人九人、会社銀行員及び通訳各七人でその他は大同小異で職業は理髪、製靴、時計、洗濯、完公吏、運送業、料理業、新聞通信員、裁縫師等で特殊のものでは医師二名、歯科医一名、僧侶一名である、又在住の女は殆ど家族であるがその中に看護婦三人、産婆一人の外芸妓三人、遊芸師匠二人、仲居十人と更に以前のようなことはないが世界の何処にでも跋扈して居る醜業婦が三十人程居ることは注目すべきことである、次に在留民が非常に遺憾に思って居るのは無職者が二十二人程あることで更に行方不明者が男七人、女七人計十四人と在監者が二人あることである、
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台湾日日新報(新聞) 1926.7.20-1926.7.24(大正15)
日本と東印度との関係由来と現状 (一〜五)

(二) 日清日露戦役後国威発揚貿易大に進展 南洋倉庫専務 半田治三郎氏談
然し多少ながらも日本と東印度の貿易は続けられ明治二十九年の日清戦争後日本の強国である事が世界的に認められ明治三十年九月に新たに和蘭と結ばれた通商航海条約によって邦人は欧洲人と同一な待遇を受ける事になったその以前は支那人やアラビヤ人と同様の取扱を受けていた我練習艦隊の東印度に寄港したのも同年であってそれ以来我貿易の統計表にも東印度欄が設けられたが貿易は勿論微々たるものであった当時在留邦人の大部分は例の娘子軍と之に相手する小売商人で直接貿易なる者は皆無であった
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中外商業新報 1927.4.11(昭和2)
長江沿岸に於ける在留邦人の分布
今回の引揚が如何に打撃か
亜細亜局の調査

なお海外発展には附もののような芸娼妓酌婦等の如き賤業婦も御多聞に洩れず此処では可成り兆梁を擅にし、三百二十九人という数字を示しているが、以上の総ての数字は言うまでもなく領事館に申告されたもののみに依る算定であるから、成都の奥、西蔵(チベット)との国境近くにある遠隔地には多少申告洩れの者があるものと思われる、

台湾日日新報(新聞) 1928.6.4-1928.6.10(昭和3) 
日本人と蘭領印度の農業鉱業 
南洋倉庫専務取締役 半田治三郎氏

欧洲戦争以来日本と東印度との関係は密接になって貿易関係に就ても明治六年頃は僅かに三百万円位であったのが現在は一億数千万円に上り約三十倍の尨大なる増加を示している、ところが貿易関係は異数な膨張であるが日本人の在住民の数からいうと、明治時代の三千六百人が現在は四千人であって殆んど数字の上に於て増加を見ない、尤も内容から云えば発展の著しいものがある明治六年ごろの三千六百人の三分の二は所謂帝国海外発展の急先鋒であった娘子軍とそれに附随した連中で占めていたが、現在ではそれぞれ真面目な商業なり農業に精進している方であって娘子軍の団体は僅にスマトラの一隅に巣喰っている位である、
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台湾日日新報(新聞) 1928.8.7-1928.8.21(昭和3) 
最近の南洋事情 
華南銀行副総理 有田勉三郎氏談

日本の海外発展の道程は皆様良く御承知の通りであって、甚だ憚り多い事でありますが、所謂娘子軍が常に先駆を為してこれに続いて売薬其他の行商人が行き其跡から雑貨商が日本商品の販路開拓に任じ、最後に一流大手筋の会社商店が店舗を開設する順序となっている、
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満州日日新聞 1928.8.15-1928.9.1(昭和3) 
真夏の松花江下り (1〜13) 
秋山生

ハルビンの矢倉に住んでいたおせいさんというは不幸な女であった彼女は矢倉に女中奉公中昨年の結氷期前に遂に島原、天草の女等が一度は辿る運命の道を踏まねばならなかった、最後の便船で彼女は満洲里から姉の瀕死の病気を見舞うため三姓へ急ぐ女と共にハルビンを出発した、其途中船は馬賊のために襲撃され数名の支那人は重軽傷を負うて斃れるものもあったがおせいさんは懐中物も略奪されず無事三姓に到着したのであった、道伴れの女は全部金子を強奪されたが彼女には少しも手をかけなかったのである、これは実に不思議の運命であった−と井川さんは説明した、三姓に住む三十余名の日本女の半面にこうした幾多の物語が秘められているのだ、十余年日本の土を踏まぬ彼女の運命!其れは涙なくては聞かれぬことであろう!
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満州日日新聞 1929.2.26-1929.3.3 (昭和4) 
満洲に於ける庶民金融の現勢 
大連 高橋徳夫述

植民地で儲かる仕事は「金貸と女郎屋」とは卑近な言葉だが一種力強い箴言となって一般に認識されて居る。
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台湾日日新報(新聞) 1929.6.16-1929.6.27(昭和4) 
南洋で有望な産業諸々相 日本の投資一億余 
志摩生

世界大戦以前の南洋は、真珠採収が非常な盛況を呈したものだ所謂海底に瓊璃を探ぐるもので、裸一貫の海国男児が彼の骨格逞ましい真黒な身体を、一日海中に浸けると何十金という大金が其衣嚢へ転がり入る。ここが日本男児である。其勇敢なる、其大胆なるには外人も眼を円くして驚いたものだ一時はドボやロンボックや、アルマエラの辺りをかけて数千の真珠漁り邦人が群集したものだ、而して一日の報償を懐ろにして塒に戻る彼等は直ぐ其足で異った或方面を漁りに廻るそこで娘子軍も殖えて行く、彼女等は其繊腕に襟をかけて明日とも知らぬ命の持主の海の人々を操縦するそれはそれは盛なものであったのだ 

六 
それが一九一四年の世界大戦となって、さる贅沢品の輸出はばったり止まることとなり、図らずも出来た昨日の日本町も、今日は本来の絶海の孤島となって了った。漁夫等も逃げて帰れば娘子軍も逃げて帰る。其娘軍の中には随分尤物もあったようだ。私が爪哇の××邦人旅館で見た千代ちゃんというのも其一人であったが一寸ここ台湾辺では見られない優品であった。アノ声で盛んに蜥蜴‐否海蛇を喰ったのだろう。
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大阪時事新報 1931.5.26-1931.6.26(昭和6) 
アフリカ踏破の旅 
荘司茂樹

遠く二十年の昔、既にこのアフリカの小島に日本人が根を下していた、例の天草の娘子軍だった、現存している四人の彼女等の話を案内人に聞かされた余は、日本人の面汚しと罵る前に、二昔以前に暗黒の此地へ、はるばる印度洋を越えて遠征しなければならなかった彼女等を思い返し、寄る年波を異郷に送り返して、故国に憧れる哀話を、偲んでは暗然とせざるを得なかった。
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時事新報 1931.6.29-1931.7.14 (昭和6)
椰子の葉蔭恋し南洋の旅

サイパンの電灯は十一時半には消えてしまう。電力が不足しているからである。斯て南国は静かに深更に入る。この一面に対して又植民地に附ものの見悪い他の一面がある。げびた傾斜の色巷からは単調なおきなわ蛇味線の音がするだらしない女たちが三四人、客待ち顔に立っている
此の小さいガラパンに遊女屋の多いには全くあきれた。
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満州日報 1932.7.25-1932.7.29(昭和7) 
満洲国の手に帰した呼海鉄道を往く 
ハルビンにて 神蔵特派員発

▲…北満を支配するもの…▲
〇団幹部及び実戦の勇士から懇切な説明を受けて充分状況を聴いた吾々は二十一日朝帰途についた、連日の雨はまだ小止みなく降り続いている、比較的高地である海倫附近は夏とはいいながら夏服では寒い位である、娯楽機関のないこの奥地に駐屯する兵士の無聊さを気の毒に思った、然し皇軍の威力に依って沿線は全く安定したので勇敢な女軍は続々入り込み綏化、呼蘭、海倫には数日前からそれぞれ十数名の娘子軍が近く営業開始の準備中だという、綏化には文化の魁けたるカフェーさえも開店され環境とは馬鹿にかけ離れた「酒は涙か」のレコードが旅行者を喫驚させた、
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神戸又新日報 1932.11.12-1932.11.19(昭和7) 
世界の宝庫ブラジル 
行け一家挙って 
佐藤新吉氏談

今日海外に在る女性にも男性に劣らぬ勇敢さと円満なる性質を発揮してよく男性の事業を援け蔭ながら国家民族の発展に貢献している事実は決して少くないのである、然るに一方又吾国の体□を汚しつつある娘子軍も少くないのであるからこの際婦人の猛者によって海外事情を極め以て我国の婦人が男子と伴って海外に進出し人類の平和と幸福の増進に又優秀なる民族の繁栄の招来に努められる様に一大覚醒を三千万の婦人に渇望するものである(おわり)


報知新聞 1933.8.10-1933.8.19(昭和8) 
日満の新動脈を廻って (A〜I)

鮮満行旅客激増鮮海丸は三二〇〇トンの貨客船、定員一等十二名、二等二十七名、三等二百二名に対して船客は私を加えて五十一名、ついでに職業別に見ると無職十四、学生八、商人八、料理業六、建築業六などさすがに東北、北海道の人が多い、今年の一月から七月までの新潟経由による満鮮向旅客は四百三十二名、昨年にくらべてザッと七倍、満鮮の新興気分がうかがわれる、婦人客も多い、以前は芸妓、酌婦などの娘子軍に限られたが、昨今は家族の呼び寄せが多くなったそうだ、
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大阪毎日新聞 1933.9.4(昭和8) 
緊張の国境へ大アムール河を溯る 
思いきや此僻遠に邦人女子十四名日章旗を仰いでただ感泣 
紅葉織りなす両岸の美観 
駐満海軍部参謀佐々木少佐(談)

黒河から上流では恐らく日本人の影は見られまいと思っていた私らの想像は見事裏切られた、この僻遠の地に十四名もの日本人がいたのだ、それはみな女であった 
ここに二名、金山鎮七名、旺哈達一名、鴎浦一名、漠河三名いずれも四十歳から六十五歳の人人で彼女らは数十年来このあたりに住んでいて今は満州国人の妻になっている、ここでは重病の床について余命幾許もないという哀れな一日本婦人がいた、そのことを聞いた私達は艦からその茅屋を訪ねて行った、日本海軍の将校である旨を告げ何処へ行くのにも離したことのない日章旗を出して見せると病床からからだを起したその女は敬しく日の丸の旗に合掌した 
「明治の天子様がお亡くなりになった年に満州に来てとうとうこんな奥地にまで流れて参りました」の言葉が涙とともに辛うじて語られた、彼女も気の毒な同胞の一人である、去るに臨んで金一封を見舞いのしるしに与えて来た、砂金の街にいる七名の日本人は多数の村民にまじって艦の着く岸に出迎えてくれた、艦上高く、翻る日章旗を遠く見た時彼女らのある者は手をあげ、ある者は飛び上り互に手をとり合って感泣したそうである、満州国の最北端この僻遠の地にも大和なでしこの花が咲く、彼女らは今も故国を忘れていない郷里を後にこの奥地に入ってから二十年、この日本国旗を拝んだのは幾年ぶりのことだろう、私達はその七名の彼女らとその子供を艦の食堂に招いて食事をともにしながら四方八方の話をした、彼女らの日本語は最早、奇妙な語調に変化している、天草、島原地方の人が大部分だった、その半生の運命を聞くことは彼女らの心中を察して差控えたが私達が漠河の奥地を究めて帰って来た時には即製の日の丸の旗をふりなから意気揚々江岸に出迎えていた 
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満州日報 1933.9.30-1933.10.3(昭和8)
黒竜江上流を観る (上)
スンガリーよりアムールへ
駐満海軍部司令部海軍一等水兵 坂津芳一手記

黒竜江沿岸に住居して居る日本人は黒河上陸奥地にも十余名点在して居る大部分は女で天草、島原の出身が多い、彼等の前身は察すれば解ることである、現在彼等は満洲国人の妻となって無事に其の日を送って居る、中には子供まであるものも居た、私達が行った時船の高い所に掲げてあった大きな日章旗を遠くから眺めて懐しい祖国の情にうたれ自然に涙が出たと云って居た
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大阪朝日新聞 1933.10.17(昭和8) 
珊瑚礁望む桟橋に山なす『お国の産物』! 
椰子林の邦人小学校 
第二世も算盤稽古 
ボルネオ、セレベスの記

ここの日本人会長で三十年も内地に帰らないという門教丸氏の言葉によれば、サンダカンの日本人は全部失敗したことになる、西にシンガポール、東にサンダカンと娘子軍の陣営として知られたこの地に、日本人がどっと押かけたのは大正七、八年の好況時代だった、
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大阪毎日新聞 1933.10.18(昭和8) 
三十余年ぶり大阪に来てモダン女浦島は驚く 
担う誉れは、サラワク王国の蔵相夫人パネル仲子さん歌舞伎座へ

仲子さんの白百合のような姿は南島の椰子の葉かげに娘子軍のみを見なれた英国人たちにどんなに美しく映ったことか!!俄然、当時サラワク汽船会社支配人だったエドワード・パネル氏から求婚されて正式に結婚、いまはすでにドリイ(一七)というお嬢さんとチャーレス(一五)という息子をもち、この二児は王様のお気に入って寵愛をうけ南海の王国に親日の雰囲気をつくりだしつつ新らしき躍進日本の新精神を南十字星座の下の王国に生かしている
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