冬のひかり

冬の太陽の光がてんでに反射する海の向こうからレザークラスのヨットがこちらを目指して進んでくる。

ときどき、ふらっとして、ハッとさせるが、だいたいは安定して、スピードを出しすぎもせず、滑るように、でもゆっくりと帆走している。

レザークラスというのは、長さが4mくらい、幅が1.4mほどの最小に近いヨットで、ひとりで操艇します。
馴れないひとは10mもいかないうちに転覆してしまうが、なれてしまえば操艇しやすいのでヨットで手軽に遊ぶのによい。
地上でいえばeScooterがいちばん似ているかも知れません。

ちょうどスキーでスラロームをまわるようにしてbreakwaterをまわりこむと、まるでほっとして息をはく人のようにフラットな調子になって、滑り込んでくる。

「うまくなったね」というとウエットスーツのモニさんが水を蹴りながら歩いてきて、子供のときからちっとも変わらない「ニッ」という笑顔でこたえている。

「ガメの水準まで、もうちょっと、かな」

真夏でも水に落ちて15分もするとショックで心臓が止まるほどニュージーランドの海水は冷たいので、モニがひとりで出かけるといつも岸辺に立って見つめながら少しだけ心配する。
陽光の乱反射のなかへ消えてゆく艇体をみつめながら、大丈夫だろうか、と考える。
モニはむかしはそうやってなんでもかんでも心配されるのをたいそう嫌がっていたが、このごろは諦めたのでしょう、嬉しそうな顔はしないが、怒りもしなくなった。

もしかしたら沖合から素っ頓狂で滅茶苦茶なスピードでもどってきて岸辺の近くでたちあがってロデオのマネをしたりしている、あんまり頭がよくなさそうなオットー1世の、2世がいては困るが、案外な腕のよさに、自分でヨットをやってみて気が付いたのかもしれません。

オークランドは、どんどん変わってゆく。
ハウラキガルフも一度、持っているボートのなかでいちばんおおきなボートの船底の掃除に潜水夫のみんなと潜ってみたら、海底には鮮やかな緑色のヘドロがあった。

ふざけて立ってみるとくるぶしが埋まる。
ニュージーランドなどは、世界でも珍しい、まだ死んでいない綺麗な海だけが取り柄なのに、このまま行くとオーストラリアのグレートバリアリーフみたいに死の海になりかねないと述べていた海の汚染を嫌ってクイーンズランドからニュージーランドに移住してきた友達の顔をおもいだす。

PCを開いてみると日本語が並んでいる。

「正義を相対化できてない感じがするんだよね、あの手の人たちって」

と友達が書いてきている。

「研究者だったら、自説が批判を受けて間違っているかもしれないっていう後ろめたさというか、そういう可能性を常に考えながら、少なくとも自分の専門について語るべきだと思うんだけど、自分は唯一の正解を語っているのだ、という風になるとああなる気がする」

「哲人さんという人も、なんというか断言の質が違うよね。
やっぱり研究者の人の発言だと思うもん。

突っ込みを受ける余白を残してあるというか。

オダキンという人もそうだね」

「ガメさんの英語のツイート見てたら普通は気づくものではないかと思うのだけど、まあそういう感じでもないのかな。

英語でツイートしようとしたことがある非ネイティブなら誰でもわかると思うんだけど」

それからぼくらは新しいゴジラ映画

Godzilla II:King of the Monsters
の話をした。

シンゴジラはゴジラ映画の文法を守っていないからダメだった。
ゴジラ映画の文法って、なんだろうね?

最低でも核兵器のメタファーになってないとゴジラではないのかも。

日本の社会のありかたを肯定するも否定するも、好きも嫌いも、まして親日だ反日だなんて、
日本語を通じてできた友達の数が多すぎて、なにを言われてもピンとこない。
「日本」は例えばオダキンという友だちが持つ国籍としてだけ存在する。

日本の人はそれがどれほど異常なことか知らないが、自分が「この人は自分の友だちだ」と感じた友達のために、「友だち」という言葉をたよりにして、苦手な争いごとに次々と飛び込んでゆく日本人の友達たちを見ていると、
日本の特殊性として「友情心の強さ」くらいのことはあげられるのかもしれないが、それ以上は、どんな一般化も思い浮かばなくなってしまう。

日本人にはintegrityがない。

言葉さえ存在しない。

日本人は悪意に満ちている。
はてなをのぞいてごらんよ、今回だって悪意の大合唱で、とっくに片がついたことをまた持ち出して、それまでの話のいきがかりはなかったことにして、大集団で同じ科白回しで難癖をつける。

なんのためかって?
英語もできないニセガイジンを許せないからですよ。
われらの個人主義社会を守るためです。

そうか。

そんなに日本は西洋に較べてダメな国なのか。

でも、では、仕事から帰って、とるものもとりあえず、トーストを一枚口にくわえて、くやしさに唇をかみしめながら、見たこともない「友達」のために、手ぐすねひいてまちかまえる、おっちゃんたちの罵詈雑言の集中砲火のなかに飛び込んでいくのはなぜなのか?

「どっちもどっちのくだらない人」「低レベルの争い」と言われるのを覚悟して、

「なんでおまえがおれに口を利く資格があるとおもうんだ?」と相手にせせら笑われにネットのなかに飛び込んでいくのはなぜか?

「ふっ、これでわたしも魚拓取られて向こう10年晒し者か、いいさ好きなだけ笑えよ」

と書いてくる透明な気持はどこから来るのか?

「あなたとは話ができたんです。ぼくは、だから生きてこれた。
信じられないかもしれないけど、ガメさんと話していなければ、ぼくは生きてはいなかった」

そうか。
日本人はそんなに倫理がないのか。

人間の権利など、なんともおもっていなくて、
Emapathyをもたない、定義どおりのサイコパスの集団なのか。

ところが、ぼくの思考は、もう涙でくもってみえなくなってしまっていて、
日本人でもイギリス人でも、ニセガイジンでも、それどころか火星人やAIだって、なんだって構わなくなってしまっている。

疑いもなく「日本人への敬意」という一般化しうる感情が生まれている。

犬さんと、ナニーさんふたりと、一緒になって走りまわっていた小さいひとびとが、モニを見つけて「ぴゅうううううーっ」と音がしそうなスピードで駈けよってゆく。
もうだいぶん身体がおおきくなっているのにモニにおもいきり飛びつくので、モニがよろめいてしまっている。

人間は、すごいなあ、とおもう。
人間は、神様よりも、やっぱりすごい。

なにが、って?

そんなこと知りませんよ。

それに名前がつけられるのなら、こんな文章を書いているはずがない。

名付けられないなにかに。
突き抜ける青空に似たものに。

光に。

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1 Response to 冬のひかり

  1. wooperlife says:

    ガメさん、いつもありがとう。

    「名づけられないなにか」って、ひょっとすると「心意気」ってやつかもしれない。
    …と思いました。

    普遍性のない、あやふやな、危なっかしいものだと思うけど、私は「心意気」ってなかなか良いものだと思う。

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