【インタビュー】赤川次郎の新シリーズ『キネマの天使』は映画業界が舞台のミステリー小説。「映画を撮る人たちは、こうであってほしい」
1976年『幽霊列車』でデビューして以来、40年以上も第一線を走り続けている人気作家・赤川次郎。70歳を目前にして、映画業界を舞台にした『キネマの天使 レンズの奥の殺人者』で新シリーズをスタートさせた。
ヒロインとなるのは、映画の撮影現場でスクリプター(記録係)を務める女性・亜矢子。あれよあれよという間に殺人事件に巻き込まれながらも、目の前の出来事に立ち向かっていくハツラツとした亜矢子がなんとも魅力的。映画愛あふれる人々が働く撮影現場に迷い込んだような気分を味わえるのも楽しいが、赤川さん自身、幼少の頃から映画に親しんできたそう。映画との出会い、『セーラー服と機関銃』『ふたり』といった実写化作品の思い出などを、たっぷりと語ってもらった。
スクリプターが主人公のミステリーは初めて。探偵にふさわしい職業だと思う
――スクリプターの女性をヒロインにしようと思われたのはなぜでしょうか。
撮影現場を舞台にしたミステリーは何冊か書いたことがありますが、中心となるのはたいてい主役のスターやアイドル。監督くらいは出てくるけれど、「そういえばスクリプターって、出てこないな」とふと思いついたんです。スクリプターというのは記録係であり、調整役。縁の下の力持ちなんですね。監督の脇にちょこんと座り、すべて細かいことを記録している。しかもあらゆることを覚えていなければいけないので、探偵にふさわしい職業だなと思いました。
――監督の無理難題にも応え、なんでもどんと来い!と頼もしく受け止めるヒロイン・亜矢子がとても魅力的です。亜矢子のモデルとなった方はいらっしゃいますか?
モデルにした人はいないんですが、日本の映画界には黒澤明監督の現場でスクリプターをしていらした野上照代さんや日活の白鳥あかねさんなど“名物スクリプター”といわれる方もいて、本も出されていますね。でももちろん、本当のスクリプターは亜矢子のように崖にぶら下がるような危険なことはしません(笑)。いくら命があってもたりませんよね。
『キネマの天使 レンズの奥の殺人者』(講談社 刊)
――スクリプターというのは監督の女房役ともいうべき、とても大事な仕事なんですね。
とても大事な作業を担っています。デジタルの時代になって、スクリプターを使わない現場というのも出てきているようですが、フィルムの時代にはとくに大事な仕事だったようです。本来はいろいろなことに気配りをして、何が起きても冷静に対処するというのがスクリプターの仕事。本書にも出てきますが、女性の指輪やイヤリングがこのシーンではどうなっているなど、非常に細かいことまで把握しなければいけないので、基本的には女性の方が担われています。先日、映画監督の周防正行さんに偶然にお会いしたとき、本書の話になって。「優秀なスクリプターさんは奪い合いになっちゃうんです」とおっしゃっていました。
生まれたときから、映画がそばに! 映写機の音を聞きながら育った
――映画の撮影現場の雰囲気が生き生きと描き出されます。赤川さんは、映画とはどのような関わりがおありだったんですか?
もともと父が映画会社の人間で、映画にはずっと親しんできました。戦争中、父は満洲映画協会というところにいて。その後、満映のスタッフが博多に引き上げてきたので、僕も博多で生まれ育ちました。その後、父は東映の社員になっていましたが、2階建ての1階が会社、2階が自宅という環境で(笑)。僕はその2階でお産婆さんに取り上げてもらったんです。1階の試写室には日々、本社からフィルムが送られてきて、抜けがないか、傷がないかなどをチェックしていました。他に遊ぶところもないので、僕はずっと試写を見ていたんです。
――生まれたときには、すでに映画がそばにあったのですね!
その頃の東映の映画はだいたいチャンバラで。役者を見れば悪役がすぐにわかる、勧善懲悪の映画ばかりです。市川右太衛門さんが『旗本退屈男』というシリーズをやっていて、主人公の眉間に三日月の傷があるんですが、僕は母親の口紅で眉間の傷を描いて、おもちゃの刀をさして遊んでいたそうです。3歳くらいの頃には、市川右太衛門さんと片岡千恵蔵さんが博多にいらしたことがあって。舞台挨拶のときに花束を渡したことがあるんです。でも僕は当日、ものすごい風邪を引いてしまって。熱でぼーっとした顔をして花束を持っている写真が、今でも残っています(笑)。それくらい映画は身近でしたから、僕は中学生の頃から小説を書いていますが、小説を書くときにも頭のなかで映画を作っているような感じで。頭のなかで映画を上映しながら、それを文字にしていく感じですね。
――映画の仕事に就こうと思ったことはありますか?
高校生くらいまでは映画監督になりたかったんです。でもやっぱり、映画を作るにはお金がかかるんですよね。お金があったら、8ミリカメラを買って友だちと映画を撮ってみたりしたかもしれませんが、僕のうちにはそんなに余裕がなかったので、映画は観るだけのもの。一方、小説はペンと紙さえあればいいので、お金がかかりませんからね。ただ、のちに大林宣彦さんの撮影現場を見に行くようになって、監督にならなくてよかったと思いました(笑)。いくら頭のなかで絵ができていても、それを何十人ものスタッフを使って、現実の絵にしていくというのは大変な作業。頭のなかで想像するのとは、まったく違う才能が必要だと思いました。
大林宣彦監督作『ふたり』で尾道の撮影現場を見学。大林監督はあたたかい人
――本作での撮影現場の雰囲気は、大林監督の現場をご覧になった経験も含まれていますか?
僕の小説を大林さんが映画化した『ふたり』では、尾道に泊まって撮影を見させてもらいました。ただ、大林さんの現場はちょっと特殊なんですよね。尾道の方々がものすごく積極的に協力してくれるんです。しかも、ほとんどの役者さんが撮影をする1か月くらいの間、ずっと尾道に滞在している。普通は出番のないときは、帰っちゃうでしょう。あの映画は、一人の女の子の成長を順番に撮っていくような撮影をしていましたから、役者さんによっては出番のない日が結構、あるんです。そんなときは、みんな尾道をぶらぶらと散歩したりと、まるで合宿のような雰囲気でしたね。あんな贅沢な撮影ができたのも、もうあの時代が最後ではないでしょうか。
『ふたり』(新潮社 刊)
――本書に登場する正木監督と、大林監督を重ねた部分はありますか?
大林さんの方がもっとおおらかですけれど、近いところはあると思います。大林さんはすべてを包み込むような人。大林さんのように、新人の女の子を主役にするというのはとても難しいことだと思います。『ふたり』の石田ひかりさんもほぼ、演技経験はなかったと思いますが、大林さんが寄り添って映画を完成させました。大林さんは出演者の方をハグしたり、初対面の方でも誰でも必ず握手をするんです。あの方、手がとても大きくて、ギュッと握手をされるとすごく温かい感じがするんです。ご病気をされましたが、『花筐/HANAGATAMI』という映画も完成されて、また次を撮ると頑張っていらっしゃいます。
――赤川さんの作品で初めて映画化されたのは、『セーラー服と機関銃』です。映画と密接な関わり合いがある赤川さんにとって、そのときの感慨とはどのようなものでしたか?
初めて小説が映画化されて、文庫本で100万部を超えたのも初めてでした。ただ、相米慎二さんはものすごくユニークな監督で、最初に試写を観たときは驚きました。アイドル映画なのに、ロングショットで撮って薬師丸ひろ子さんの顔が小さくて見えないシーンがあったり、およそアイドル映画らしくない撮り方をしていました。あまりに想像とは違う映画が出来上がってきたので、びっくりしてしまったんです。どうなるんだろうと思いましたが、あの映画は大ヒットしました。きちんと相米さんの映画になっていたからだと思うんです。薬師丸さんも相米さんにだいぶ鍛えられたようです。今はああいう監督もいないのではないでしょうか。僕は相米さんと同い年なのですが、お若くして亡くなってしまい、本当に残念でした。
『セーラー服と機関銃』(KADOKAWA 刊)
実写化作品で思い出深いものは?『幽霊列車』は「ものすごく面白かった」
――映像化された作品も多いですが、映像化に関してはどのようなスタンスでいらっしゃいますか?
結局、作り始めてしまったら何も言えなくなってしまうので…(苦笑)。実は『ふたり』は絶対に映像化してほしくなかったんです。やっぱり僕にとってもとても大事な作品なので、大林さんからお話をいただいたときにも最初はお断りしています。でも大林さんは「尾道で撮ります」とおっしゃってくださいました。そのときに「大林さんはこの作品に本当に惚れ込んで、大事にしてくれている」と感じたので、OKしました。そういった愛情が大切だと思います。『ふたり』もとてもよい映画でした。僕の読者の方でも「私の考えていた場面が、どうして監督にわかったんだろう」という方も多かったですね。
――映像化された作品で、思い出深いものはありますか?
劇場映画では『セーラー服と機関銃』が最初ですが、一番最初に映像化されたのは『幽霊列車』です。新人賞をいただいた翌年に土曜ワイド劇場で放送されたのですが、そのときまだ僕はサラリーマン生活をしていて。岡本喜八さんが監督をされましたが、それがとてもよくできていたんです。テレビで映像化されたもののなかでは、とくにあれが好きですね。ものすごく面白かった。岡本さんは気が短いので、テンポが速いんです。編集のときにフィルムをつないだら、なんと数秒、足らなくなってしまったそうなんです(笑)。困った挙句、「カット」と声をかけたあとのフィルムも使ったという話を聞いていたので、その話も少し本書に盛り込んでいます。
『幽霊列車』(文藝春秋 刊)
40年以上、走り続ける原動力。魅力的キャラを生む秘訣とは
――40年以上もの間、精力的に作家業に励んでいます。走り続ける原動力は何ですか?
作家には休みがないですからね。まったく書かない日は、年に2、3日くらいだと思います。とにかく好きでやっていることですから、苦にならないんです。好きじゃなかったら、40年もとても続きません。僕が新人賞をいただいた当時は出版社にも余裕があって、好きなものを書かせてくれました。僕は『三毛猫ホームズ』を出したのちにサラリーマンを辞めましたが、それからも「ミステリーじゃなくてもいい」と言ってくれて、いろいろなものを書く機会をもらえました。好きなものを好きなように書いていたからこそ、続けられたんだと思います。
『三毛猫ホームズの推理』(KADOKAWA 刊)
――アイディアがわいてくる瞬間は、どんなときでしょうか。
僕はクラシックのコンサートや歌舞伎、オペラなどもよく行きますが、やっぱり、いろいろなことを吸収することが大事だと思います。作家は会社員のように束縛されてはいませんが、吸収するために自由があると思うので、そのために時間を使わなかったら意味がない。面白いものを見たり、感動することがすごく大事だと思っています。そういうことにお金を使わなかったら、いくら稼いでももったいないと思います。
――本書の亜矢子しかり、魅力的な女性キャラクターが登場する点も赤川さんの作品の特徴です。魅力的なキャラを作る秘訣は?
もう、想像だけなんですよ(笑)。ただ、若い編集者から刺激を受けることも多いですね。いろいろな世代の人とたくさん話をすると、面白いですから。あとは、作家であることが特別なことと思わないように、“普通”でいるように心がけています。僕はサラリーマンを12年やっていたので、満員電車や上司とうまくいかないとどれだけツライかも一応、経験しています。普通の感覚を失ってしまうと、読者の方もついてきてくれないと思うんです。もし外で編集者が持ち上げてくれたとしても、我が家では、家に帰ると奥さんと娘が足を引っ張って引きずり下ろしてくれるので、よいバランスがとれていると思います(笑)。
――時代が変われど、今後もどのような作品を書いていきたいと思っていますか。
“こうあってほしい”という人たちを書いていきたいと思います。本書でも映画を撮る人たちは、こうであってほしいなというスタンスで書きました。本当の撮影現場はもちろんこの通りではありませんし、映画づくりの具体的な作業はもっと複雑です。ただ、映画を作っている人たちの精神的なもの、映画に対する思いはそんなに違っていないと思っています。
僕はいつも、読み終わった後にほのぼのとしたものが残る話を書きたいなと思います。やっぱりエンタテインメントである以上、繰り返し読まれるものは後味のいいものだと思っています。なんらかの元気をもらえる――。そんな作品をこれからも書いていきたいです。
(インタビュー・文:成田おり枝)
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