将棋の羽生善治九段が、歴代最多となる千四百三十四勝を挙げた。棋界の第一人者でありながら、今は若手の台頭でタイトルを失っているが、その苦境の中、不屈の心で築いた偉大な記録だ。
羽生さんは四日、王位戦の予選で永瀬拓矢叡王(26)に勝利。大山康晴十五世名人(一九九二年没)が持っていた通算千四百三十三勝の歴代最多記録を更新した。
大山十五世名人は、昭和を代表する大棋士。記録の達成は亡くなった六十九歳の時で、プロ入りから五十二年のことだった。
一方、羽生さんは一九八五年のプロ入りから三十三年、まだ四十八歳での達成。勝率も、大山十五世名人の六割四分七厘を大幅に上回る七割八厘という高さだ。
この間、九六(平成八)年には史上初となる七冠の全制覇を成し遂げ、平成を代表する棋士となった。タイトルを次々に獲得してもおごらず、強さとともにその謙虚な人柄でも尊敬を集めた。
だが近年は、人工知能(AI)を取り入れた将棋ソフトで研究する豊島将之(とよしままさゆき)三冠(29)をはじめ、羽生さんを目標としてきた若い世代の前に苦戦が続いている。
昨年は、これも前人未到の「タイトル獲得通算百期」という大記録の懸かる竜王戦で敗北。二十七年ぶりで無冠となったが、その際の談話が実に前向きなものだった。「しっかり反省し、これから先につなげていけたら」と。
無冠となった後は「前竜王」を名乗ることもできた。だがそれは選ばず、二十人以上いる「九段」の一人として、新たな一歩を踏み出した。敗戦の弁ともども、敗れても屈せず、再び立ち上がろうとする気概のにじむ選択だった。
プロ棋士でもAIに勝てなくなった現代、棋士に求められるのは単なる勝ち負けではなく、知恵と気力を絞って競い合う生身の人間の迫力やすごさ、ひいては一芸に打ち込む人間の美学を、見る者に示すことではないだろうか。
羽生さんが大山十五世名人の記録に並んだ五月二十三日の王位戦予選を、その例に挙げたい。相手は「光速流」の異名を持つ谷川浩司九段(57)。かつてはタイトル戦で名勝負を繰り広げ、今はともに「九段」を名乗る。
中盤は谷川九段が優勢となったが、羽生さんは諦めず、勝負手を放って逆転で勝利。偉大な記録にふさわしい名局となった。この一局を、さらには苦境にあってもなお前進を志すその姿を、将棋ファンでなくとも心に刻みたい。
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