唐朝が「倭国史五十四年分を抜き取った」事実は、現に遣使の倭国の存在が、百済・高句麗の如く征伐できなかった証しであり並み居る服属国に示しが付かない。窮余の策は「倭国の使者に日本国の使者だ」と名乗らせた。
| ⬜︎ 311以降気付いたことは、古代史以上に現代史も嘘と欺瞞に満ちていると! 《ご注意》 下記はtwitter記事の転載ですので悪しからず。 なお一番上の●ID行右端「日時」をクリックすると該当TLにリンクします。 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ アレキサンダーの東征で、大秦国が東進し中華に秦国を建国 玉突きに、揚子江下流域に稲作文化を育んだ倭人が、東シナ海に追い出され 九州・半島南岸に上陸し、弥生式文化を植えつけ倭国を建国。 倭人は徐々に当方へ移住し弥生式文化を拡張し農業部族国家を築いて行った と想定。 "壬申の乱で倭国が滅んで以降、大和朝廷はその事実を徹底して消している。 それが1350年を経て現在に至っている。" 日本の国父。奈良の大仏は倭薈(いわい)である。 (米田史学) | 6rosui8のブログ 返信先:@tenzo_cさん 故米田良三氏は、確かに「壬申の乱で倭国は滅亡した」と言っている。 然し、壬申の乱(672年)で倭国は滅んでいない。 その証拠は九州年号であり、 とりわけ「白鳳」は、元年(白村江戦の前年の661年)から、白鳳地震684年迄、 じつに24年間続いている。 白鳳倭王・薩夜麻(=本来の天武天皇)の在位期間でもある。 九州年号はその後も続き、 朱雀(大海人皇子の天武天皇)、 朱鳥(高市皇子➡︎天皇)、 大化(高市皇子➡︎天皇)と続く。 書紀がさりげなく記す 「持統10年(大化2年696年)7月10日、後皇子尊(高市皇子)が薨じた」 が暗殺であった為にその事実を隠す必要があった。 本来の大化改新は50年後の藤原京で廃評建郡の詔。 倭国藤原京内で筑紫朝廷側の高市天皇が、 天下立評➡︎難波複都朝➡︎近江朝➡︎大和朝、と引継がれた 評制度の既得権を大化改新の廃評建郡で取り上げようとした為に、 同じ倭国の大和朝廷の軽皇子(文武天皇)によって、 筑紫朝廷の高市天皇は暗殺された。 「天下立評➡︎難波複都朝➡︎近江朝➡︎大和朝、と引継がれた評制度の既得権を大化改新の廃評建郡で取り上げようとした」 ⇒『新・古代学の扉』頁内で「天下立評」で検索してみた。 古代の「天下立評」は、明治維新の「廃藩置県」に相当、中央集権国家化し対唐の富国強兵策。 倭国名を消す必要あったのは「倭国史五十四年分を抜き取った」唐朝側 天下立評⇒難波複都朝⇒近江朝⇒大和朝、と引継がれた「評制度」の既得権を大化改新「廃評建郡」で取り上げんとした為に、同じ倭国の大和朝廷の軽皇子(文武天皇)によって、筑紫朝廷の高市天皇は暗殺された 返信先:@t0_yanさん 唐朝が「倭国史五十四年分を抜き取った」事実は、 現に遣使の倭国の存在が、百済・高句麗の如く征伐できなかった証しであり、 並み居る服属国に示しが付かない事。 窮余の策は「倭国の使者に日本国の使者だ」と名乗らせた。 で、則天武后は倭国正使・粟田真人の教養、立ち居振る舞いを高く評価した訳^^ □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ で、則天武后は粟田真人の教養、立ち居振る舞いを高く評価 唐朝が「倭国史五十四年分を抜き取った」事実は、 現に遣使の倭国の存在が、百済・高句麗の如く征伐できなかった証しであり 並み居る服属国に示しが付かない。 窮余の策は「倭国の使者に日本国の使者だ」と名乗らせた。 □ |