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ゲストブックの方↓に創価学会の方から質問が寄せられました。
http://blogs.yahoo.co.jp/shounanboy01/MYBLOG/guest.html

とても誠実なコメントに感謝します。

長くなるので記事にしました。
詳しいコメントはhttp://blogs.yahoo.co.jp/shounanboy01/MYBLOG/guest.html
でご覧ください。

>その時の理解の仕方では、例えば、『百六箇抄』の《 釈迦諸仏出世の本懐真実真実唯為一大事の
>秘密なり、然る間万年救護の為に之を記し留む。・・・・
>などとの御文から、日興が相承以外の御本尊には正当性がない。
>その日興がこの本尊を大事にしているのだから、これを本門戒檀の本尊だと捉えるべきだ。
>そういう大雑把な理解をしていました。

>つまり、本門戒檀の本尊であるという直接の記述がなかろうと、日蓮の趣意からすれは、
>実質としてはそうである。
>そういう理解の仕方をしていました。
>しかし、今考えれば、これは少しマズいなとは思います。

そうですね。マズイと思います。少しではなく、かなりマズイと思います。
しかも、kurahashiさんが言われる「日興が相承」の本尊と、戒壇本尊が「別物」であることを、
大石寺4世日道さんが明確に書に記してしまっています。

(三師御伝土代・・・富士宗学要集第五・八頁)
『その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず・・・ 
是即日興上人の御信力の所以なり云々・・・』

つまり、日興さんが相承された本尊には、「日興上人」という文字が記されていたというのです。
相承する相手の名前を書くのは当然です。ですので、なぜ戒壇本尊には相承された相手、「日興」の
字が無く、得体の知れない「弥四郎国重」と書かれるのかは、もう長年「おかしなものだ」とされてきたことを以前記したわけです。

が、日蓮さんは、相承の相手を記すという「当然のこと」をちゃんとされていたことが、大石寺歴代の書にちゃんと記されていたと。つまり「日興上人」と書かれていたというのですね。
しかし戒壇本尊には無い。

つまり、「日興相承の本尊」と、戒壇本尊は「別物」ということになります。

もっと言えば、大石寺圏でいうところの「日蓮→日興」の相承が無かったことになります。
あったのは、他の弟子信徒への本尊授与と同等の「本尊授与」であったということです。
日興さんを師と仰ぐ日目さん、日道さんなどにとっては、日興授与の本尊を重要視した程度でしか
ありません。戒壇本尊などという位置づけも考えも当時は全く見当たりません。

しかし、後世の大石寺歴代はそれではマズイのですね。
そこで、日蓮、日興、初期歴代の言われることと、後世の言うことが違っていようとも、それを正当化する手段がさらに捏造されていくわけです。
そうそれが、「内証」やら「文底」なのでしょう。

kurahashiさんの言われる通り、「マズイ」と思います。


>しかし、本門戒檀の本尊というのが大石寺の捏造であったとして、それがいったい何だと言うの
>だろうか?
>それが、今の自分の単純な思いです。

kurahashiさんはそれでいいのかもしれませんが、私の友人も含め、いったいこの偽戒壇本尊のおとぎ話のせいで、どれほど多くの若者が、会社をクビに、学校を退学になっているでしょうか?
そして、こんなおとぎ話のせいで、「唯一無二」というプレミアを信じ込み、「折伏」という名の勧誘活動に没頭するわけでしょう。
つまり、被害者が加害者になり、更なる被害者を作り続けているわけです。

ある場所で、毎月富士系教団の被害者家族勉強会が行われています。
私も参加経験があります。
そこで、全国津々浦々から我が子が富士系教団に入ってしまって仕事を辞めてしまった。
学校を退学してしまったという悲痛な叫びを聞いてみてください。
戒壇本尊なるでっち上げのせいで、世界平和どころか自分の身内すら省みず活動に没頭してしまう若者が急増しているのです。
これが問題ではないとするのは、富士系の人だけでしょう。


>そうであったとしても、大石寺、顕正会、法華講、創価学会が正しくはないということにはならない
>のではないか?
>そう感じます。

いいえ、そうはなりません。
このでっち上げの戒壇本尊の名の下に、正本堂建立といって多くの人の財産を巻き上げ、そして今でも「供養」「布施」などと金銭を巻き上げるわけでしょう?
「偽」「捏造」のものを正当化して金銭を巻き上げる行為が「正しくないということにはならない」というのも、富士系の人のみの考えではないでしょうか。
信じているものを「間違えている」と言われる苦悩は分かります。
ではせめて、「人に勧めるな」と言っているわけです。
ご自分一人でどうぞご自由に信仰なさればよろしい。例え捏造だろうと偽だろうと、信じているのだからと言うのであれば、一人で信仰すればいいのです。
しかし、それを「人に勧める」ことは、「詐欺になる」と言っているのです。

この話をすると、例えば法華講の人達は言います。
「別に強制しているわけではない」と。
しかし、「勧誘」していることには変わりありません。人に勧めているのです。
つまり、「偽」のものを信じ込ませ、「布施」「供養」させようとしているのではないのですか?
これがはたして正しいことになるんでしょうか?

>また、日蓮出生の本懐を、上行菩薩としての自覚にあるとする考え方は、自分の理解とは違います。
>聖人御難事抄だけを見ればそうなのかもしれませんが、日蓮は、上行ではなく、久遠元初の御本仏
>だとの自覚が出生の本懐だと、そういう考え方を当時教わったと思いますが、これは湘南坊遺さん
>からすると間違いになりますか?

再度お尋ねします。
なぜ、「日蓮」その人の書物よりも、後世の大石寺歴代の言が正当化されるのでしょうか?
「聖人御難事抄だけを見れば」と言われますが、なぜここで日蓮<日寛になってしまうのでしょうか?
「久遠元初」。これもまた、よくもこんな言葉を作ったものだと思うわけですが、
日蓮さんの書には出てきません。もちろん日興さんも、初期歴代の書にもどこにも出てきません。

後世の歴代の言の正当性は、大元の日蓮、相承された日興、妥協してその直下の初期歴代の書と一致することで証明されるはずです。

では、つまり、日蓮さん自身にも自らが「本仏」の自覚があり、日興さんにも「日蓮さんこそ本仏」という書があり、それを相承されたはずの初期歴代の書にもその認識があったのかを証明できるのでしょうか?
できない故に、「内証」「文底」を言う必要があったのではないでしょうか?

相承されたはずの日興さんは

(日興上人日円に進らせ給ふ御状の事・・・富士宗学要集第五・二五頁)
    『一閻浮提の内に日本国、日本国の内に甲斐国、甲斐国の内波木井の郷
     は久遠実成釈迦如来の金剛宝座なり天魔破旬も悩ます可からず、
     上行菩薩日蓮聖人の御霊崛なり怨霊悪霊もなだむべし。』

と言います。その二代あとの日道さんも

(三師御伝土代・・・富士宗学要集第五・十頁)
    『日蓮聖人云く、本地は寂光地涌の大士、上行菩薩六万恒河沙の上首なり
     久遠実成釈尊の最初結縁の初発道心の第一の御弟子なり

だと記しています。
それが20代以上先の日寛の書をもって全く違うものにすり替えられることをどのように御理解されていますでしょうか?

このことには、59世の日亨さんも以下のように言われています。

『日蓮本佛観は開山上人(日興)御代の原始教団には不言の間に実行せられて居た。
中興日有上人は顕はに口にして門の内外に叫ばねばならぬ事となったが、波動は存外
狭かったようである。
第二の中興日寛上人の時更に筆に口に極めての明論が今更の如く非日蓮本仏論者の
耳目を驚かして、寛上独創の本仏論の如く思はしめた』
(福重照平著『日蓮本仏論』序)

つまり、日有さんが言ったけど相手にされず、日寛さんが突然書に残してびっくりされたと。

この日蓮本仏論に関しては、ある捏造教義の受け売りであると私は思っていますが、
証拠は「状況証拠」しかありませんので、触れません。

さて仕事に取りかからなければなりません。

多くの皆様のご意見をお待ちしたいと思います。

閉じる コメント(3)

重ねての回答、ありがとうございます。

なるほど、湘南坊遺さんの大まかな意図が、ようやく自分にも納得できた気がします。

しかし、このブログの記事とコメントを、最初から全て目を通しましたが、初めからこのように明確に書いていれば、あのような無用な議論は避けられたのではなかったかと思います。

ところで、本門戒檀の御本尊への疑義について、今一度、他の人にも、さらに分かり易く書かれるようにされることを提案致します。

と言うのも、自分自身でもなお良く分からないところがあるからで、自身の知識不足、理解力不足を棚に上げて恐縮ですが、さらにいくつかお聞きしたいと思います。

まず、
 1 日蓮出生の本懐である戒檀の本尊というものは大石寺の捏造であって、そういう特別な意義付けをされた特定の御本尊は無い。
なぜなら、御本尊に特別な違いは無いはずだし、大石寺の御本尊を唯一特別な意義がある本尊だとするような日蓮自身の記述が見当たらない。
該当するような記述があるならそれを教えて欲しい。

こういうことだと理解して間違いないでしょうか?

2009/11/3(火) 午前 0:53 [ kurahashi ] 返信する

次に、
 2 その御本尊が誰に対してのものであるのかということを明確にするために、その名前を御本尊に記すというのが、御本尊をお書きになる時の決まりであるが、
大石寺に御安置の、本門戒檀の本尊とされる御本尊には日興の名前が無く、弥四朗国重という名前があるので、これは日興に対して与えられた御本尊とは言えない。
日興以外に与えられたものを、日興が相承するというのはおかしい。
こういうことでしょうか?

また、
 3 御本尊にある、国主、弥四朗国重とはだれか?

 4 十二日と、十三日と、御本尊がお書きになられたとする日が人によってズレているのはなぜか?
日蓮の命日にも関わるこの日を、記憶違いや記載違いとするのはあり得ない。

さらには、
 5 日寛教学がその後の正宗教義の中心になっていることに、疑義がある。

 6 日蓮には、自身が久遠元初の本仏であるという自覚は無かった。そのような日蓮自身の記述は無いので、日蓮本仏論も後世の捏造である。

以上、こういうことだと自分は理解したのですが、大筋において間違いはないでしょうか?

2009/11/3(火) 午前 0:56 [ kurahashi ] 返信する

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やっと真面目に考えてる人が出てきたなぁ(^_^;)
今までの奴らとはえらい違いだ
今までの人達見てるかね?逃げ惑う君たちはちゃんと反省しなさいな
大将くん ぼんさんの返答はまだかね? 削除

2009/11/3(火) 午前 9:43 [ 富士は山だけ ] 返信する

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