与謝野晶子、川端康成、北原白秋ら文人墨客にこよなく愛された宿「落合楼村上」
伊豆半島のほぼ中央、天城山中に位置する湯ヶ島温泉。ここに、古く明治から昭和初期にかけ、島崎藤村や与謝野晶子、川端康成、梶井基次郎、そして北原白秋といった名だたる文人墨客にこよなく愛された宿がある。それが「落合楼村上」だ。
宿の歴史は明治7年(1874年)、周辺地域での金山事業で財をなした足立三敏が来客をもてなすため、家一軒が100円で建つ当時に、25万円という莫大な費用をかけてこしらえた迎賓館に始まる。
当初の名称は眠雲樓。やがて旧幕臣で、明治天皇側近だった宿の常連の山岡鉄舟が、旅館の横を流れる川──本谷川と猫越川が合流するのを見て、「落合楼としては?」と提案したことから現在の名前になったという。
さらに、平成14年(2002年)に現オーナー、村上昇男氏が宿を引き継いでから、落合楼に「村上」の文字が加えられた。
時代をさかのぼるかのような酩酊感、暖簾をくぐると140年前へとタイムスリップ
落合楼村上の身上はなんといっても、「国の登録有形文化財に泊まれる宿」という点だろう。
その風格はすでに入母屋造りの玄関から感じられる。紫の暖簾をくぐると、たちまち往時へとタイムトリップ。暖炉と骨董にかこまれたラウンジで一杯ごとにハンドドリップで淹れられるコーヒーでもてなされ、仲居さんの手引きで館内の深部へと歩みを進めると、まるで時代をさかのぼってゆくかのような酩酊感に襲われる。
明治創建の宿とはいえ、クラシカルツインの部屋は近代的な温泉旅館のそれ。チェアやベッドルームもあり、老若男女の誰もが快適に過ごすことができる。旅の疲れを癒やすべく、さっそくひと風呂あびることにしよう。
浴室はおもにふたつ。うち「天狗の湯」は、ほの暗い巌窟風呂の先に打たせ湯のごとく源泉かけ流しの湯滝が轟々と流れ落ちる呪術的な空間だ。
カルシウム・ナトリウム−硫酸塩泉、弱アルカリ性の泉質はさらりとやわらかな湯ざわりで、乾燥しがちなこの時期の肌をしっとりと保湿してくれる。
男女入れ替え制で愉しめるもうひとつの大浴場「ひさごの湯」は、モダンなタイル風呂でレトロな雰囲気。また、家族で入っても余りある貸し切り露天風呂(無料)も用意されている。
国登録重要有形文化財であることに驕らず、常に未来を見据える落合楼村上の気概
残るは食事だ。14室のみのゲストを迎える落合楼村上の会席膳は、近隣で採れる野菜や椎茸、わさび、天城軍鶏といった山の恵みを中心に、丁寧かつ滋味あふれるものばかり。
もちろん伊豆沖の海の幸も取り揃えており、この日は真鯛、ほうぼう、金目鯛の三種盛りがテーブルに並べられた。
なかでも嬉しかったのが、締めのわさびご飯に、酒のつまみにほど良いわさびの茎。料理をいただいた──松のどんちょうが見事な──宴会場では、リーズナブルな婚礼宿泊プランも用意されているそうだが、その理由は料理人の向上心とスキルを落とさないためだという。そこからは、老舗の名に驕ることなく、常に未来へと目をやる同宿の気概が感じられる。
落合楼村上への投宿は、本物とは何かを知る手がかり、日本の美を学ぶ絶好の機会
かくして心地良い湯と贅を尽くした食、そして情緒あふれる建築によって深い眠りに就いた夜だが、特筆すべきはまだある。
それがチェックアウト後、毎朝10時から催行される、主(あるじ)による館内ツアーだ。
宿泊者以外でもワンドリンク付き1080円で参加できるそれは、館内7つの有形文化財をはじめとした歴史的な由緒を聞けるまたとない機会。とりわけ注目は、大広間にあしらわれた直径一尺四寸にもおよぶ図太い紫檀の床柱。そして前オーナーの居室として使われていた石楠花の間にある、蜘蛛の巣の欄間だ。
国登録の重要有形文化財に泊まることができる宿という由緒と歴史に甘んじることなく、泉質や食事、そしてなによりホスピタリティにも抜かりがない高級旅館「落合楼村上」。
本物とは何か、を知るひとつの手がかりとして、また、日本の美を学ぶ絶好の機会として投宿することをおすすめしたい。
Text&Photography by Jun Kumayama
Edit by Takeshi Sogabe(Seidansha)