大事なことは別にあるのです。
家光公は将軍であり、武門のトップにある御方ですが、その家光公がそれほどまでに、ある意味不用心とさえいえる個室を利用していたことに、実はもっと大きな意味があるのです。
海外旅行をして驚かされることのひとつにトイレがあります。
Chinaに行きますと、まずトイレそのものを見つけるのが困難なころに加え、あってもそのトイレに間仕切りがあることがほとんどありません。
もちろん一流ホテルなら個室はあります。
けれどもChina人の多くは扉を閉めないで大きいほうの用をします。
そうなのです。Chinaのトイレには扉がないのが普通ですし、扉があっても閉めないで用をたすのが彼らの習慣です。
西洋でもつい近代まで宮殿に個室トイレはありませんでした。
ベルサイユ宮殿のような高貴な王宮でも、ダンスなどを行う大きな部屋の隅に「おまる」や「壺」が置かれ、そこで用をしました。
ある程度壺に溜まると、使用人が窓から中身を捨てました。
たまたま下を歩いている人がいたら、上からおもいきりかぶってしまうわけで、このために貴婦人は晴れの日でも傘をさして道を歩くのが常識でした。
一般の家屋でも単に路上に落とすだけのものがトイレだったりしています。
これに対し、日本のトイレは大昔から個室が標準です。
しかも中にはいって鍵を閉めたら、完全個室です。
江戸時代の長屋の共同トイレも個室です。
奈良時代にはすでに水洗トイレがあって、奈良県の藤原京や秋田でその遺構が見つかっていますが、これまたやはり個室です。
武田信玄が愛用したトイレも現存していますが、もちろん個室です。
しかも水洗式でした。
奈良平安の昔から水洗トイレが使われていたということも驚きですが、それ以上に、トイレが個室になっていたということ、トイレが中から鍵をかけることができる仕様になっていて、そこが密閉された完全個室になっていたことが、日本人を考える上で、実はとても重要なことなのです。
なぜなら理由があるからです。
実に簡単なことです。
日本では薄い板一枚で仕切られた個室トイレに入っていても、そこをいきなり襲われて、扉の外から槍で突かれて死んでしまうなどということが「ありえないことだった」のです。
仮に犯罪者として追っ手に追われていたとしても、追われる側の人がたまたまトイレにはいっている最中なら、追手は用が済むまで、ちゃんと表で待っていました。
それがあたりまえでした。
もちろん敵討(かたきう)ちなどで追う人をどうしても殺(あや)めなければならない場合もです。
義経記をはじめ、いわゆる戦記物の古典はたくさん遺されていますが、その中で、ただのひとりも武将がトイレで用をたしている最中に扉の外から槍で突かれて殺されたなどという話はありません。
相手を殺害する意図を持っているのなら、用便中に襲撃するのがいちばん手軽で簡単です。
用を足している最中は、人がもっとも無防備な状態にあるからです。
そうであるにも関わらず日本では古来トイレが完全個室であったということは、実は日本がそれだけ安心安全な国だったこという、これはひとつの証拠なのです。
襲撃する側も相手が大用をたしている最中なら襲撃は簡単です。
けれども、そのような襲撃をしたら、襲撃をした側が「末代までの恥になる」と考えたのが日本人です。
目的のために手段を選ばないのではなく、目的よりも名誉を重んじ、手段を選んだのが日本人なのです。
このことは、卑劣といわれる暗殺者であっても、トイレで用足中の相手を襲おうなどと考えられないことであったということです。
どれだけ日本人の民度が高かったのかがわかります。
このことは、海外のトイレがなぜオープン・スペースなのかを考えたらわかります。
用足の最中に襲われそうになったとしても、扉のないオープン・スペースなら、襲われる前に、襲ってくる連中を発見して逃げることができます。
いちはやく敵の襲撃を察知して逃げるためには、トイレに扉があったり、囲いがあったりしたらかえって困るのです。
しかも狭い個室では応戦さえ、うまくできません。
扉があるほうが安心という日本の文化と、扉がないほうが、外敵がきたときにすぐにわかって安心という文化、人が人を殺すことがあたりまえの文化と、そうでない文化の違いがここにあります。
日本では、人を殺すということは、記紀の昔から悪しきこととして忌み嫌いました。
それらは古来「穢れ」として忌み嫌われました。
それどころか死そのものまでが、「穢れ」とされました。
ですから戦国時代でさえ、日本の武将たちはできる限り人を殺さないように勤めています。
信長、秀吉、家康の三代の時代をみると、信長だけがやけに残虐性の高い人物として描かれていますが、これは秀吉の時代に、秀吉の善政を強調するために、信長を意図的に魔王のような残虐性を持った人物として意図的に描かれたものであって、実際にはどうだったかというと、最近になって発見された蜂須賀小六の部下の日記などによると、信長は実はお酒に弱くて甘党で、団子や干し柿が大好物、宣教師が持ち込んだコンペイトウなど大好物で、宣教師におねだりまでしていたのだそうです。
そして体を壊して参上できなかった家臣には、大丈夫かと気遣う手紙を送ったり、家臣から諌められたときなども、素直に非を認めていました。
最近では第六天の魔王などと呼ばれる信長ですが、実像は、やさしくて気配り上手でみんなから愛され尊敬されるタイプの人物だったようです。
スケートの織田信成さんは、信長の十七代目の末裔(まつえい)とのことですが、血統というのは争えないもので、もしかしたら信長も信成さんのようなキャラクターだったのかもしれません。
またこの時代の戦記によく見られることですが、戦に敗れた側の大将は、クビを刎(は)ねるという習慣があったというのですが、実際には、いくさの最中に死んだ雑兵のクビで間に合わせ、大将そのものは、出家(しゅっけ・お坊さんになること)させて命を長らえさせたというのが、一般的なならわしでした。
公式記録には、死んだことにする。
けれどその実、出家させてお坊さんとなって、戦いで亡くなった敵味方の兵の弔いを生涯し続ける。
むしろ本当に命を奪うことのほうが稀であったといえるかもしれません。
信長は本能寺の変で、表向きは明智光秀に攻められて焼死したことになっていますが、実は比叡山や本願寺攻め後、それらが宗教戦争となって国内が混乱して治安が悪化することを避けるために信長が描いた壮大なトリックだったという説があります。
それで信長がどうなったのかというと、本能寺の変の何年か後にはローマ法王庁に渡って、ローマ法王の側近になったというのです。それが地動説を支持して火刑に処されたジョルダーノ・ブルーノで、信長は「ジョルダーノ・ブルーノ」(Giordano Bruno)という名前の中に「Oda Nobunaga」という文字を散りばめて残したともいわれています。肖像画を見ると、この両人は、とてもよく似ています。
ジョルダーノ・ブルーノ
(信長(右下)とたいへん良く似ていると言われている。)
信長を討った明智光秀も、表向きは死んだことにされますが、実は僧となって生き延び、息子を立派に育て、家康の幕府開設の際には、新しい国家作りに寄与した天海僧正が、実は光秀の息子だという説もあります。
石田三成も、最後、処刑されたのではなくて、地位を放棄して坊さんになったといわれているし、江戸時代の吉良上野介も、ある説によれば、赤穂の浪士によってクビを刎(は)ねられてなどいなくて、内蔵助(くらのすけ)によって命を助けられ、その後長生きして天寿をまっとうしたといわれています。
もっとも、いずれも公式記録には、そのようには書かれていません。
ただ日本における公式記録というのは、むしろ建前であり、真実は行間から「察する」ことができるようにしておく。
それが日本の書かれたものの特徴です。
奉行所の記録には、厳しい処分を下したと表向き書いてあるけれど、実は、裏からそっと逃してあげる。
そういうことも、昔は実はよくあったのが日本です。
それだけ互いに信頼できる国家であり、民族であったわけです。
ヤクザの喧嘩でも、古来日本では、相手の命を奪うことは、滅多にしません。
刃(やいば)を用いるときも、相手を「こらしめ」られれば足り、敵が「マイッタ」といえば、そこまでとします。
ですから刃物を使うときに、China人のようにいきなり首を狙うことは伝統的にしません。
首を狙えば命を奪うことができますが、日本の喧嘩では、たいてい大腿を狙って刺し、「痛い目」にあわせて、相手に改心を誘うというのが一般的でした。
要するに、いいたいことは、日本人は古来、命を大切にしてきた民族である、ということです。
そういう国だったからこそ、トイレも安心して個室でゆっくりとくつろげる空間になったのです。
そこで考えていただきたいのです。
古来大陸では、敵となった城塞都市は徹底的に殺戮と破壊の限りをつくしています。
幼児は塀から投げ捨てて殺し、奴隷として使えない老人は皆殺し、若い女性は強姦したうえで殺害し、若い男は、奴隷として次の戦の先陣を勤めさせられる。
ですから戦いは常に女子供や親兄弟に至るまで、全員皆殺しになるか、生き残るために戦い抜くかという選択になりました。
これに対し日本では、戦国時代でさえ、城を攻滅ぼしたあと、その城にいる全員、それだけでなくその国(藩)に住む農民、町民、老人、子供、婦女にいたるまで皆殺しにしたなどという記録はありません。
負けた側が大将クビを差し出せば、それでオシマイです。
その大将クビさえも、多くの場合は代役だった、というのが実際のところだったりするのです。
そして戦いの最中に、失われた命に対しては、戦のあとには、敵味方を問わず、ねんごろに弔(とむら)いをします。
どこまでも命を大切にする。
それが日本です。
歴史小説では面白さを出すために、何万の兵力が結集してなんとかヶ原で丁々発止の大決戦が行なわれ、残虐が行なわれたようなことが、よく描かれます。
けれどみなさんが勝った方の大将だったならばそのような振る舞いをされるでしょうか。
あるいはそういう残虐な振る舞いを平気でするような大将に、みなさんはついていくでしょうか。
答えはNOです。
日本の中世の戦(いくさ)の全部が命を大切にして敵を殺さなかったと言っているのではありません。
ときに大戦(おおいくさ)があったことも事実であろうと思います。
ただ、基本的なマインドとして、人をそうやすやすとは殺さない、そういう国であったからこそ、日本のトイレは大昔から、扉のついた個室になっているのです。
どうしても殺さなければならないときは一気に命を奪って長く苦しめるような残酷なことはしない。
実はこれには明確な理由があって、古い大和言葉では「武」のことを「たける」と言いました。
「たける」は、竹のように真っ直ぐにするという意味で、要するに斜めになっている者、道徳から外れてゆがんでいる者を真っ直ぐにすることを「たける」と呼んだのです。
実際古事記では「武」という漢字は神話を描いた上つ巻にはひとつも登場しません。
代わりに「たけふ」と漢字の当て字を用いています。
なんだか歴史教科書をみると、百姓一揆なども、打ちこわしや商家を襲って皆殺しにしたかのような記述が多く見られます。
しかし実際にあった百姓一揆は、いまでいったら国会議事堂前で毎日行われているデモと同じです。
デモの人達はさかんに幟(のぼり)やプラカードを持ちますが、その代わりに筵旗(むしろばた)を立てて行進したにすぎません。
現実問題として、もし百姓一揆が、年中打ちこわしや商家を襲う殺人集団だったのなら、当然のことながら一揆の集団に対し藩主は戦支度の武士軍団を差し向けて、これを皆殺しにしていたはずです。
どこぞの国では実際にそのようにしています。
けれど、そういう武士軍団が一揆の集団を襲ったなどという記録は、日本にはただの一件もありません。
日本の歴史は、特定の思想に染まった人達が宣伝するような階級闘争の歴史ではないのです。
だからこそ日本では、いまでもその特定の思想に染まった人達でさえ、トイレにはいるときには、安心して個室で用をたしているのです。
私達は、毎日、トイレにはいります。
そしてどのご家庭のトイレも、会社や学校のトイレも、みんな大は個室です。
昔の半島のように、毎朝男も女も、家の外に出て、路上で大用をたすなんていう習慣は、日本中どこを探したってありません。
Chinaのように大用は扉のない丸見えの環境でするものという習慣もありません。
なぜ日本のトイレが個室なのか。
それは私達の祖先が平和を愛し、人を殺したり争ったりすることを「穢れ」として忌み嫌い、人と仲良くし、自分も安心してトイレを使える、そういう文化を、古代から築き上げてきてくれたおかげです。
Chinaがお好きなら、どうぞトイレは個室ではなく、オープン・スペースで。
半島がお好きなら、どうぞトイレは、家の前の公共の路上で。
それが嫌なら、日本という国を築いてきた先人達に感謝の心を持つべき、そのように申し上げたいのです。
そうそうもうひとつ付け加えます。
冒頭にテレビ番組で紹介された埼玉県川越市の喜多院の家光公の部屋のことを書きましたが、ここには他にも江戸城内に遭った春日局(かすがのつぼね)の部屋が移築されています。
その部屋も番組で紹介されていました。
部屋は四室あり、このうち三室の天井が少し低くなっています。
なぜ低いかというと、隠し階段のようなものがあって、そこから天井裏の屋根裏の大広間(畳が敷いてあります)に上がることができるようになっているからです。
この部屋について番組では、
「ここは女中たちを折檻(せっかん)するときに使われた部屋です」
というものでした。
もう、ため息が出ました。
その二階の屋根裏部屋には畳が敷いてあり、ちゃんと窓もあるのです。
窓は建物の外からもちゃんと確認できます。
しかも大広間です。
部屋の主は春日局です。
女性です。
そして一階の部屋には押入れスペースがほとんどないのです。
春日局くらいの身分の高い女性になると、たくさんの衣類が必要です。
園遊会やお茶会、和歌会など式典も多々あります。
それらのときに着る衣類には、さらに夏服と冬服も用意しなければなりません。
他にも和装には、たくさんの小物類が必要になります。
それらの保管は、いったいどのようにしていたのでしょうか。
少し考えたらわかることです。
要するに二階の屋根裏部屋の大広間は、そこが今風に言うならクローゼット・ルームだったということです。
普段使わない衣類や小物などは、屋根裏部屋にあげておく。
そうすることで部屋にはモノを置かず、いつも簡素で清潔な状態にしておく。
武家は華美を嫌います。
けれどお局様(おつぼねさま)ともなれば、現実にたくさんの衣装が必要なのです。
そうであれば衣装をどこかに保管しなければなりません。
そしてそれが衣類なら、風通しがよい場所に保管しなければ、湿気の多いお蔵のようなところに保管したら、虫の餌食になってしまうのです。
だから屋根裏部屋に、ちゃんと窓もしつらえてあるのです。
もしそこが「女中たちの折檻部屋」だというのなら、悲鳴が外にもれるような障子の窓をどうして作ったのでしょうか。
むしろそのようなエゲツナイ妄想をする近年の戦後の学者たちに異常性を感じます。
※この記事は2012年6月の記事をリニューアルしたものです。
お読みいただき、ありがとうございました。
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