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【国際】

<終わらぬ「天安門」 事件から30年>(下) 国変える決意 今も同じ

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 民主化デモが武力弾圧された一九八九年六月四日、北京市民や学生の多くは弾圧が続くのを恐れ、郊外や故郷に難を逃れた。

 衛生省傘下の研究所に勤めていた万延海(55)もその一人だ。同僚とともに何度もデモに加わり、四日未明には広場から命からがら逃れた。六日には職場の寮はもぬけの殻になり、万も故郷の安徽省に向かった。

 一週間後に戻った北京の街は、デモの熱気が完全に消え「自分の街ではなくなっていた」。絶望した友人たちの間では国外移住も話題にのぼったが、万は「国内にとどまり、自分の仕事を頑張ってこの国を変えよう」と決意した。

 公衆衛生や健康教育が専門の万が取り組んだのは、エイズ患者や同性愛者の権利擁護だった。しかし、エイズ患者を対象にした電話相談などを始めると、衛生省に「人権や同性愛を宣伝した」と糾弾され、九三年に研究所の職を追われた。

 万はその翌年、市民運動の先駆けとなる「愛知行プロジェクト(後に研究所)」を立ち上げる。「科学と人道主義によって、病気に対する無知、偏見、差別に挑戦したかった」という。最多で約二十人の専任職員を抱えた愛知行は啓発活動のほか、同性愛を描いた映画の解禁を求めたり、各地で相次いだ同性愛者の不当逮捕を告発した。

 しかし天安門事件後、市民の活動や組織に対する当局の警戒は「恐怖に近いほど強かった」(万)。当局は万を監視し、報道機関に万の文章を載せないよう圧力をかけた。二〇〇〇年代前半、河南省で売血によってエイズ感染が広まった問題では告発に大きな役割を果たしたが、問題を隠そうとした省政府は万を目の敵にした。拘束が四週間に及んだこともある。

 さらに〇八年末、一党独裁の終結を求めた「〇八憲章」に万が署名したことが当局の警戒をさらに強めた。翌年、天安門事件二十周年を前に警察から「事件をどう思うか」と問われた。「再評価すべきだ」と正直に答えると、当局の圧力はさらに厳しくなった。

 銀行口座の凍結や警察の立ち入り調査、税務調査などが絶えず、一〇年には職員の給料が払えなくなった。警察の嫌がらせも続き、この年、香港を経て米国に事実上の亡命をした。

 良心に基づいた行動が当局の過度の警戒を招き、結果的に愛知行の活動は行き詰まった。万は「私自身の考えに甘さがあった。政治的な問題に首を突っ込み、活動できなくなった。結果的に中国のエイズ対策に影響が出た」。言葉には先駆者としての自負と、活動ができない悔しさがにじむ。

 一方で社会が豊かになり、力量を増す市民運動は政府も無視できない。万は「政府は弾圧一辺倒ではなかった」とも指摘する。少数民族のウイグル族に対する差別の実態調査では行政と協力し、政府機関の表彰も受けた。万の活動に対し、警察内部では支持と警戒が交錯していたという。

 習近平政権下で政府の統制は強まるなど事態は悪化しているが、万は「政治的な問題と距離を取り、政府と信頼関係を築くことは可能だ」と今も帰国の道を探る。三十年前に誓った国を変えるという思いは今も同じだ。 (敬称略、中国総局・中沢穣、写真も)

<まん・えんかい> 1963年生まれ。上海医科大学公共衛生学院卒業(健康教育専攻)。2010年には「08憲章」を主導した劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏のノーベル平和賞授賞式にも出席。中国国内で「憲章」に署名した唯一の出席者だった。(写真は2016年8月、東京都内で撮影)

◆天安門事件以降の主な歩み

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