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【国際】<終わらぬ「天安門」 事件から30年>(上) 弾圧の記憶 抹消との闘い
「軍のトラックと装甲車、歩兵が銃を撃ちながら前進した。若者がベランダから『ファシスト』『ごろつき』と叫び、兵士らが両側の建物に向けて連射しているのが見えた」 毛沢東の秘書を務め、今年二月に百一歳で死去した中国共産党元幹部の李鋭(りえい)は、天安門事件が起きた一九八九年六月四日、日曜未明の様子を日記に残している。李はこの時、党幹部住宅のベランダから北京市内の混乱を見下ろしていた。 幹部住宅は、天安門広場から北京のメインストリート長安街を西に約五キロの木せい地にある。民主化を求めて広場に集まった学生らを排除しようと、西から進んできた人民解放軍部隊が、進軍を阻止しようとした市民らと衝突。事件で最も多くの死傷者が出た場所とされる。 日記には銃弾で犠牲となった市民の記述が続く。夜が明けると知人から安否を尋ねる電話が絶えず、「(幹部住宅)二十二号棟の家政婦と子どもが死んだ」「二十九号棟では五人が死んだ」「(近くの)復興病院に運ばれたけが人のうち、すでに五十人が死んだ」と被害の状況が断片的に伝わってきた。 李は、民主化デモを武力弾圧したことに「党はなにをもって党であるのか。電話を切ると、涙が止まらなかった」とぼうぜんとする。この日の日記はこう結んだ。「(党は)永遠の罪人となり、汚名を長く後世に残すだろう」 昨年三月までの七十二年間を記した日記は、米サンフランシスコ近郊に住む娘の李南央(りなんおう)(68)によって、中国の歴史資料を収集する米スタンフォード大フーバー研究所に複数回に分けて寄贈された。しかし四月に南央の継母、張玉珍(ちょうぎょくちん)(89)が日記の返還を求める訴訟を北京の裁判所に起こした。 「李の遺産を勝手に寄贈した」という張の主張に対し、南央は「寄贈は父が生前に決め、張も同意していた」と反論する。晩年の日記にも同研究所に寄贈したい旨の記述があるという。 党内改革派の論客として知られた李は、天安門事件では武力鎮圧に強く反対した。今のトップである習近平(しゅうきんぺい)に対しても「教育レベルは小学生並み」と容赦なく、党にとっては最晩年まで目障りな存在だった。李の著書は中国国内では発禁処分を受けており、二月に行われた葬儀では外国メディアが厳しく排除された。 南央は「党が人民を虐殺した天安門事件は党の合法性にかかわる。日記を取り戻し、抹消したいのだろう」と話し、訴訟の背後には「党の組織がある」と言い切る。父の死後は機密漏えいなどのぬれぎぬで拘束されるのを恐れて帰国していない。 党は事件を当初、「反革命暴乱」と厳しく批判、その後も「政治的風波(騒動)」と否定的に位置付けている。学校の教科書も事件に関する記述がないため、事件の存在自体を知らない若者は多い。 元学生リーダーの封従徳(ふうじゅうとく)(53)=米国在住=は言う。「事件は当初から直接的な暴力だけではなく、記憶を巡る闘いだった。党は組織的な力によって事件の記憶を消し去り、歴史をねじ曲げようとしている」 (敬称略) ◇ 天安門事件は中国が一党独裁のまま経済大国となる道を決定づけた。この三十年間、中国の民主化を求める思いは絶えないが、共産党政権の弾圧も終わらない。事件の残響を追った。 (この連載は中国総局・中沢穣が担当します)
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