| 9月18日(日) 同じ兄弟でありながら、源頼朝や義経に比べ、あまりメジャーではないと思われる「源範頼」に纏わる金沢区の史跡を歩いてみました。 源範頼は義朝の六男で、母は遠江国池田宿の遊女とされ、同国蒲御厨(現:静岡県浜松市東部)で育ったことから「蒲冠者」と呼ばれていました。 【海蔵山太寧寺】 当寺の前身は、源範頼(久安6年・1150年?~建久4年・1193年?)により瀬ヶ崎172番地(現:関東学院大学付属小学校々地内)に創建された真言宗の薬師寺と云われています。 本尊の薬師如来立像(横浜市指定有形文化財)は「へそ薬師」と云われ、運慶の流れを汲む人の作と伝えられています。 なお、昭和18年(1943年)には横須賀海軍航空隊の追浜飛行場拡張のため、現在地(横浜市金沢区片吹)に強制移転させられ、裏山にあった伝 源範頼の墓も、これに伴い移りました。 伝 源範頼之墓 源範頼は頼朝に謀反を疑われて伊豆修善寺に幽閉され、梶原景時らの討手を受け最期を遂げたことになっていますが、太寧寺の寺伝では鉈切(横須賀市浦郷町)まで逃れて、海に向かって建つ太寧寺へ入って自害したとされ、寺名は範頼の法名「太寧寺殿道悟大禅定門」から付けられたもので、同寺には、範頼の位牌や画像、刀、長刀などが寺宝として遺されています。 『新編鎌倉志』太寧寺の項、「源範頼石塔」には、 「(修善寺にて)坊に火をかけ、自害してこそ失せられける。其後(梶原)景時煙を静み、範頼の焼首取て鎌倉に持て行、頼朝に見せ奉ると有。其首を此地に葬りたるか未詳。」とあります。 私めが学生のころ、(30年近く前)同寺を訪ね、お話を伺ったところでは、 ① 強制移転させられたときの発掘結果は? 左右に各3体づつ納められた甕があり、中央に1体納められている甕とその前に歯だけ入っている甕が あった ② 太寧寺に伝わる範頼の位牌の戒名などは? 表 : 太寧寺殿道悟大禅定門 神儀 / 裏 : 範頼公 建久四癸丑年八月 ③ 自刃の場所がなぜ太寧寺だったのか? 寺が北向きに建てられており、奥州で討たれた弟 義経に想いを馳せていたから ④ 寺号が変えられた理由は? 薬師寺は、のちに栄西(臨済宗開祖)が範頼を哀れみ、院号をとって太寧寺と改めた とのことでした。 この時、貴重な戦前の絵葉書を頂き、また御位牌を撮影させていただきました。 なお、昭和18年(1943年)に刊行された『郷土神奈川』に記載の「長谷寺から太寧寺へ」(赤星直忠)に源範頼之墓の踏査記録(昭和18年5月23日発掘)を発表していますが、それによると 「太寧寺移転の際、発掘した範頼の墓は地下4、5尺(132~165cm)の所から黄瀬戸壺が出て、骨片3箇が入っていた。骨片は火葬したもので、それに祥符通宝、皇宋通宝、景祐元宝、至和元宝、開通元宝、祥符元宝、元豊通宝、皇□通□、皇祐元宝の九枚が入っていたという。他に範頼の墓の左右、後の方から8人分の土葬した人骨も出た。これは範頼の家人のものといわれる。」 と記されています。 範頼の御位牌(昭和62年・1987年撮影) その他、境内には山本周五郎作『赤ひげ診療譚』の主人公である新出去定のモデルとなった小川笙船(寛文12年・1672年~宝暦10年・1760年)の墓もあります。 因みに・・・ こちらが修善寺にある源範頼之墓です。(平成23年・2011年参拝) 新四国東国八十八ヶ所霊場 第74番札所 当初は「三愈山遍照坊」と称していましたが、江戸時代に改名されました。 鐘銘に「当山は源範頼公別邸持仏堂の跡を継ぎ同公の護持仏薬師如来を安置す」とあります。 なお、範頼の御位牌「梵字(大日如来) 太寧寺殿道悟大禅定門 尊儀 ・ 建久四癸丑年八月二十四日」が伝えられており、毎年8月24日の命日には「三河忌」として追善供養が行われています。 範頼の御位牌(昭和62年・1987年撮影) 次回は、範頼が伊豆修善寺から逃れてきたという横須賀の追浜を歩いてみたいと思います。 |
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