「無敵の人だから、こういう事件を起こしてしまった」という筋書きの説得力はあまりに高い。それによって(実行者の死亡により、完全解明はもはやきわめて困難になってしまった)事件にも一定の説明がつくかもしれない。
だがその結果として残るのは、「このような凄惨な事件を起こさないために、社会をどのように改善していくべきか」という教訓ばかりではない。「経済的・社会的に追い込まれた人は、なにをしでかすかわからない」という先入観をも人びとに植え付けていくことになる。
「自分たちと異なる者は、自分たちの社会を脅かすもの、自分たちの社会に負のインパクトをもたらすイレギュラーな存在である」という処理は、この社会にしばしば発生する「不安なできごと」を解消するための筋書きとしてはひじょうに便利である。
しかしそれは「『無敵の人』は私たちに害悪をもたらす」という考え方と表裏一体である。多数のそうした考えこそが、追い詰められた人にさらなる差別と疎外を与え、社会への恨みを募らせる一因ともなってしまう。
自戒を込めて述べる――私たちは、不可解だが大きな事件によって「言い知れぬ不安」を植え付けられたとき、わかりやすい説明を求めたくなってしまう。教訓を示す人の声を信じたくなってしまう。だが、こんなときにこそ「なにを語るべきか」ではなく「あえてなにを語らないか」の重要性が問われているのではないだろうか。
私たちは、こうした事件が起きたときにだけ「無敵の人」の議論を盛んにするのではなく、日々の営みを通して「無敵の人」を減らしていく努力をしなければならない。そしてそれは、「無敵の人をつくらない」という方針によるべきであり、「無敵の人をどのように排除し、不可視化するか」という方法を考えることであってはならないだろう。
「私たちの社会には相容れない、異質な者がやったのだ」という「説得力のある物語」は、平和で安全な社会に生きる私たちの不安や動揺を鎮めてくれるかもしれない。だがそれは、「無敵の人」と形容されるような経済的・社会的に追い込まれた人びとをさらなる苦境と絶望の淵に立たせる物語でもある。
私たちはそのような物語を紡ぎ続けるべきなのだろうか。
私たちの社会には、文字どおり「無敵」の人など本当はいないのだ。誰もがただの人でしかない。傷つきやすく、壊れやすく、幸せになれるかもしれないし、不幸に陥るかもしれない。私たちもまた、明日にはどのような姿にも変わりうる。この社会で生きるどんな人も、私たちの明日を映す鏡なのだ。
腹落ちする物語によって不安や動揺を鎮めるよりも、黙した行動によって「敵のいない社会」をつくっていくことを考えたい。