江戸幕府が下した竹島渡海禁止令。この禁令の対象は文面どおり竹島(鬱陵島)だけなのか、または松島(今の竹島)を含むのか。この問題の経緯をごく簡単に振り返れば次のようになります。 江戸幕府は1696年(元禄9年)に鳥取藩に対して「今後、竹島(鬱陵島)への渡海は禁止する」と指示。松島(今の竹島)に関しては何も言わなかった。したがって、現代の日本政府(外務省)は「(幕府は)日本人の鬱陵島への渡海を禁止することを決定し鳥取藩に指示するとともに、朝鮮側に伝えるよう対馬藩に命じました。」、「その一方で、竹島への渡海は禁止されませんでした。このことからも、当時から我が国が竹島を自国の領土だと考えていたことは明らかです。」と説明している。 これに対して名古屋大学の池内敏教授は、幕府の禁止令の文言には竹島(鬱陵島)しか出ていなくても、この禁令が出るに至った経緯を詳細に見ていけばそこには松島(今の竹島)への渡航禁止の意が込められているのは明らかだと主張している。経緯というのは、幕府は渡海禁止を決定する前に鳥取藩から「竹島、松島いずれも鳥取藩の領地ではありません」という回答を得ていたことと、松島にのみ渡海することは全く採算が合わないので松島のみに行くということは考えられないため、竹島さえ渡海禁止にすれば松島への渡海も自然になくなる、ということのようだ。 そして、池内さんは実際に「竹島松島両島渡海禁制」と書かれた史料もあることを紹介した。竹島渡海禁止令から44年後(元文5年、1740年)に、かつて渡海事業を行っていた大谷家の子孫大谷九右衛門勝房(4代目? 7代目? あるいは大谷家の7代目で九右衛門としては4代目? このあたりのことは知らない。)が、渡海事業ができないことによる家計の窮状を打開するために当時の寺社奉行ほかに陳情したときに書き残した会話記録によれば、大谷勝房も、また幕府側の寺社奉行(大岡越前守など)たちも渡海禁止令は「竹島松島両島渡海禁制」と理解していたことが明らかだ、という話です。 このことについては、そうは言っても、大谷勝房にはまあそういう認識があったのだろうけれども寺社奉行の認識はちょっと違うんじゃない?という意見を既に書いたことがある。 また、東海大学教授塚本孝氏も同趣旨の見解だ。 「竹島領有権をめぐる韓国政府の主張について」 (東海法学第52号) ところが、今回、池内さんは、塚本氏の見解を真っ向から否定して来た。(池内さんは私の意見など知らないだろうが、当然私の意見も否定されたことになる。) 大谷勝房が書いた嘆願書には「竹島松島両島渡海禁制」という言葉はないので、寺社奉行が述べた「竹島松島両島渡海禁制」と言う言葉は大谷からの借り物ではなくて奉行の明確な認識によるものだというわけです。 該当部分を引用します。 (中略) (「日本と韓国の「固有の領土」論」 『第1回芳村獨島研究会国際学術会議論文集』 韓国海洋水産開発院 2018) まず、この池内さんの文章には明らかにおかしいところが2ヶ所ある。色づけしたところがそうなのだが、一つめの「「竹嶋渡海禁制被為仰付候付」なる文言はなかったが」というのは「「竹嶋松嶋渡海禁制被為仰付候付」なる文言はなかったが」の書き間違いではなかろうか。二つ目の「元禄竹島(鬱陵島)渡海禁令をもって「竹嶋渡海禁制」と認識していたのは幕閣と大谷家の双方ともであった」の「竹嶋渡海禁制」も「竹嶋松嶋渡海禁制」の書き間違いではなかろうか。そう理解しないとその前の段落で言っていることと食い違うし、池内さんが日ごろから言っていることにも反する。こんな大事な結論の部分で正反対の書き間違いをするというのもちょっと信じられないが。 で、問題の文章は、「次にお尋ねがあったのは、竹島松島両島の渡海が禁止されて以後は米子城主の御厚情を受けて経営に努めて参りましたと願書に書いているのは、つまり俸禄をもらっていたということなのか、とのお尋ねだったので、いいえ俸禄ではなくて便宜を計っていただいたという意味でございまして、御厚情と書面に書きましたのは、米子の城下に集まる魚や鳥の・・・・・・と申し上げた」というものです。 奉行が願書に書いてあることから引用して発言したのは「竹島松島両島の渡海が禁止されて以後は米子城主の御厚情を受けて経営に努めて参りました」という部分なのか(解釈2)、それとも「竹島松島両島の渡海が禁止されて以後は」は奉行が付け加えた言葉であって、奉行が嘆願書から引用したのは単に「米子城主の御厚情を受けて経営に努めて参りました」という部分だけだったのか(解釈1)、という問題です。皆さんどちらだと思いますか?(それにしても、こんな細かいことを議論しなければ竹島問題ははっきりしないんですかね。何かおかしいような気がするのだが。) まあ、普通に読めば、「・・・・・・と願書に書いているのは、」とあるのだから、その前に書かれたことの全体が願書に書かれていたことからの引用だと読むのが自然ですね。池内さんが可能性として挙げる解釈1は、全くあり得ないとまでは言わないが、かなり不自然な読み方だ。しかし、池内さんによれば大谷の嘆願書には「竹島松島両島渡海禁制」という言葉はないのだから解釈2の方は成立せず、解釈1の不自然な読み方のほうが正解だという。 ところが、案外そうとも限らない。 まず、大谷の嘆願書とは、池内さんによれば「元文5年申寺社御奉行所様御役人中様あて大谷九右衛門口上之覚」のことだそうで、私はこの史料を見たことはないので本当にそれが嘆願書なのかどうか分からないが、その題名からすれば嘆願書の控えのように見えるし、こういう史料に詳しい池内さんが言うのだから一応そうなのだろうと思って先に進む。この嘆願書を隅々まで見ても「竹嶋松嶋両島渡海禁制」という言葉は出て来ないと池内さんは言うので、それもそのとおりなのだろう。 ところで、池内さんが引用しているので分かるのだが、大谷の嘆願書の中には「尤渡海禁制被為仰付候以後今以御領主様より及渇命不申候様 御憐憫を以御取斗之御事共 是又右ニ書顕候通」という文章があるということは、寺社奉行の確認質問は基本的にこの部分を踏まえてのものだったと見ていいだろう。ただし、ここには「もっとも、渡海禁止を仰せ付けられて以後は」と単に「渡海禁止」という言葉が使われていて「竹島松島両島」という言葉はない。 ここからは私の推測なのだが、この嘆願書はけっこうな長文らしいから、大谷家が窮乏に陥った事情が詳しく書かれているのだろう。とすれば、その中に、「竹嶋松嶋渡海禁制被為仰付候付」という言葉ではないにしても、例えば「竹嶋松嶋両島に行けなくなったことにより・・・・」というように「竹嶋松嶋両島」という言葉ならあるのではないだろうか。 大谷九右衛門の陳情の際にはまず嘆願書の全文が読み上げられた。問題の「尤渡海禁制被為仰付候以後 今以御領主様より及渇命不申候様 御憐憫を以御取斗之御事共 是又右ニ書顕候通」という文章は末尾近くにあるということなので、読み上げを聞いた寺社奉行たちは末尾近くのこの文章を踏まえて、また読み上げの途中で出て来た「竹嶋松嶋両島」という言葉を組み合わせて「竹島松島両島の渡海が禁止されて以後は米子城主の御厚情を受けて経営に努めて参りましたと願書に書いているのは・・・・」と発言した、という可能性も考えられるのではないか。 この推測が当たっているか外れているかは嘆願書を見れば直ぐに判明することで、既に答えは出ているわけだが私には分からない。いずれ池内さんか他の人が嘆願書全文を翻刻してくれるのを見て判断したいと思う。 ところで、私がこのように寺社奉行が「竹嶋松嶋両島渡海禁制」と発言したのは自分の確たる認識によるものではなくて九右衛門の嘆願書からの借り物だろうと考えるのには、もちろん理由がある。既に書いたことだが、嘆願書の読み上げが終わってから、まず最初に寺社奉行たちは大谷九右衛門に何を尋ねたか。「九右衛門、竹島の支配は誰がしておるのか」という質問だった。これは、竹島渡海事業について語るときの基本中の基本の事実関係だ。話の大前提と言っていいことだ。そういうことを牧野越中守は尋ねた。これに対して、九右衛門が「先祖の者が共同で許可を受けて、私どもまで支配して参りました」とこれまた基本的なことを説明したところ、奉行一同は「それは重いことよのぉ」という反応を示した。「それは重いことよのぉ」というのは、言い換えれば「それは初めて聞いた」っていうことと同じですよ。寺社奉行たちは大谷・村川の渡海事業に関して一体何を知っていたのか。何も知らなかったというのが事実だろう。だから、寺社奉行が「竹嶋松嶋両島渡海禁制」という言葉を口にしたその正確な理由は分からないにしても、それが自身の確たる認識に基づいたものだとは到底言えないのだ。 池内さんが言うように、寺社奉行たちが「竹嶋渡海禁止令というものが出ているが、それは実は竹島と松島両島に対する渡海禁止だ」ということを知っていたのなら、それはかなり細かい事情まで把握していたということだ。それが何で、「竹島の支配は誰がしているのか」という竹島問題入門講座初級編のような質問をしたのか。池内さんは池内説によるならば非常に不自然なこの陳情冒頭のやりとりについては何も言わないのだが、なぜこんな質問が出たのか、「奉行たちは渡海事業について何も知らなかったから」ということ以外の何か合理的な理由を説明すべきだろう。 (続く) |
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本記事(シリーズ4)、拝読いたしました。管理人さんの解説を読みますと[解釈2]が妥当のように見えます。ただ気になるのは、「竹嶋松嶋両島渡海禁制」とは、史料嘆願書の隅々を見渡してもない< です。竹島(鬱陵島)でさえ詳しく知らない幕閣が、自ら松嶋< を持ち出したとするのも不自然ですw
2019/2/26(火) 午前 0:54 [ Gくん ] 返信する
さて、元禄竹島渡海禁制令ですが、文面どおり竹島(鬱陵島)への渡海禁止で、それ以上(拡大解釈不可)でもなければそれ以下でもないとするのが、やはり妥当と考えます。幕府の意思を合目的に解釈すれば、竹島紛争の解決をすれば、それで事足ります。ゆえに竹島(鬱陵島)への渡海を禁止すれば充分です。
これを別方向から検討してみますと、元禄令は、大谷・村川両家への竹島渡海免許取り消しを意味します。ゆえに、渡海禁令の対象は竹島のみ、ただ松島は竹島への途次にある島(もちろん鳥取藩領ではない・近代的ないい方をすれば無主地)なので、松島への”事実上の”(禁令上ではなく)渡海禁止の効果も結果的には生じた(それが本文大谷家の認識)。天保時に幕府から公式に出せれた天保竹島渡海禁制令も、竹島だけを対象にしている(それの松島への効果は別論であることは前述)ことが、その裏打ちになると思います。
2019/2/26(火) 午前 0:56 [ Gくん ] 返信する
>幕府の意思を合目的に解釈
そういうことですね。相手から言われてもいないのに、言われているものに付け足して相手のものと認める、ということは普通しませんね。そうしなければならない事情というものが存在しません。
2019/2/26(火) 午前 7:31 [ Chaamiey ] 返信する