日韓併合前の朝鮮で、諸外国人が見た朝鮮人の生活を見聞して書き残している内容です。 その鋭い観察力は現代を生きる朝鮮人を見ても、根本は相通ずるものが有るように感じてなりません。
●「韓国事情」 マリ・ニコル・アントン・ダブリィ主教
「朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、もっとも傲慢である。朝鮮の両班は、まるで支配者か、暴君のごとくふるまっている」両班は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕えさせる。
その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行され投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまでムチ打たれる。両班の中で最も正直な者たちも、多かれ少なかれ、自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。
なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、今だかつて無いからである。
彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合支払いなしで済ませてしまう。
しかも、この強盗行為を阻止する守令は一人もいない。
両 班
●「新井白石の朝鮮観」(江戸中期の儒学者・政治家1657~1725)
上垣外憲一(1989年)
日本を訪問してくる朝鮮通信使は、日本向けには将軍の襲位祝賀を唱えているが、朝鮮の文献を読んでみると、「敵情探索」を目的としており、これは恩義を忘れたものである。
大体、朝鮮は信義のない国であって、明が清に攻められた時も一人の援兵も送ろうとしなかったではないか。
「夫朝鮮狡黠多詐、利之所在、不顧信義、蓋濊貊之俗、天性固然」(朝鮮人は狡猾で偽りが多く、利のあるときには信義を顧みない。濊や貊と呼ばれた野蛮人民族(朝鮮北東部にいた古代民族)の天性からしてそうなのである 「国書復号経事」)。
新井白石の通信使待遇格下げの根底には、このように朝鮮を軽侮する心理が働いている。日本の知識人たちは、朝鮮のことを礼儀の国などといって持ち上げているが、歴史に照らしてみれば、かくのごとく信義のなき国である。そうした国の使節をそれほどまでに優遇することはない。こうした論理である。
●「朝鮮幽囚記」 ヘンドリック・ハメル (生田滋訳) (ハメルはオランダの船員で、長崎へ向かう途中船が難破して朝鮮に流れ着き(1653~66年の間出国が許されず朝鮮に留めおかれていた)
朝鮮人の誠実、不誠実および性格について語っている。
彼らは盗みをしたり、嘘をついたり、騙したりする強い傾向があります。彼等を絶対信用してはなりません。
●奴婢『ソウル城下に漢江は流れる・朝鮮風俗史夜話』(林鍾国)
その中の「人間家畜の奴婢制度」という章の一節。
奴婢は品物のように売買・略奪・相続・譲与・担保の対象になった。
かれらはただ主人のために存在する主人の財産であるため、主人が殴っても 犯しても売り飛ばしても、果ては首を打ち落としても何ら問題はなかった。
それこそ赤子の手を捻るように、いとも簡単に主人は碑女たちを性の道具にしたものであった。
奥方たちの嫉妬を買った碑女は打ち据えられたり、ひどい場合は打ち殺されることもあった。
外観だけは人間であるが主人の事実上の家畜と変わらなかった碑女たちは、 売却・私刑はもちろんのこと、打ち殺されても殺人にならなかったといい、 韓末、水溝や川にはしばしば流れ落ちないまま、ものに引っかかっている年頃の娘たちの遺棄死体があったといわれる。
局部に石や棒切れを差し込まれているのは、いうまでもなく主人の玩具になった末に、奥方に殺された不幸な運命の主人公であった。
●「新・韓国風土記 第1巻」ソウル市根の深い木社編 安宇植訳
両班階級は常民との約束は到底信用できないもの、彼らに誠意や真実、信義や正直、良識などの徳目を期待するのは無駄なことと決め付けた。
更にそうした徳目を悪魔に売り渡した階層として扱うより他ないとまで認識するようになった。
常民階級が徳目に背を向け… したがって彼らは、ほんの僅かでも己の利益につながると判断すると、喜怒哀楽の感情を度が過ぎるほど、行為や言葉によって示した。
大声を張り上げたり、暴言を吐いたり、下卑た言葉で口汚く罵ったり、時には腕をまくったり拳を振り上げたり、目を剥いて睨んだり胸ぐらを掴んだりするのもそのためであることが少なくなかった。
そうしてこうした粗野な言動こそが、しばしば彼らに利益をもたらしたのである。
●ノース・チャイナ・ヘラルド紙の記事 1905年5月5日号
朝鮮ほど贈賄や腐敗がよく見られる国もないだろう。また、この半島ほどなんの理由もなく騙したり、騙されたりすることが広く行なわれている国もない。そして、今の朝鮮政府ほど詐欺、うそ、横領が満ちあふれ、骨の髄まで堕落した政府はなかった。
その上、朝鮮はそのような自分たちのやり方に慣れてしまい、これに気付かなくなっており、他人の欠点ばかりが見えているのだ。 (エッソン・サード記者)
●「悲劇の朝鮮」アーソン・グレブスト 1912年(スエーデン人)
学者である両班は礼節上、天地の間に起こることならすべからく知っていなければならないし、質問されたことには全て答えられなければならない訳ですが、ただ、わざと騙そうとするのではないが、その嘘っぽい理論で結論を下す論法ときたら全く驚くべき事です。
自分が正しい道理が殆んど無いにもかかわらず、悪びれる様子が全くないのだ。
もし誰かが彼の言うことを受け入れないで別の論理で反駁を加えたりすると、彼は言動を守り抜くために必死の努力をするのです。
なかなか信じようとしない人を説得したり、または自分の正しさを納得させたと自分自身が納得するまでは、決して投げ出したりはしません。
将来性がなく、中国人以上に酷い民族である。1000年前に眠った場所に留まり続けている。
更に良くないのは、その眠りから覚めようとしない事だ。韓国人は独立が嫌なのだ。できれば他者に依存して責任回避をしたいのだ。
彼らの望むことは、何の心配もなく平和に暮らす事だけだ。「独立」と言う言葉は、彼らにとって恐怖を意味し、不信や無法と同じである。
●「朝鮮の悲劇」 フレデリック.A.マッケンジー 1908年 (渡辺学訳)
韓国人は、遺伝としきたりによって、その殆んどは大げさな物言いをする人間か、厚顔無恥の嘘つきかである。それで日本人の非行についての彼らの供述は、検証なしにこれを受け入れることはできない。(ジョージ・ケナン、ニューヨーク・アウトルック紙の論説から引用)
●「在日韓国・朝鮮人に問う」 佐藤勝己 1991年
【佐藤氏は金嬉老事件の裁判で特別弁護人をつとめた(1968年春、在日コリアン金嬉老が借金の取り立てのトラブルから暴力団員を射殺、静岡県寸又峡の旅館に立てこもり、宿泊客を人質にして民族差別の不当性を訴えた事件)】
誤解を恐れずにあえて書くと、今になって振り返ってみると、はじめて、庶民つまり「原コリアン」に会ったのである。
なぜ「原コリアン」かというと、彼は卒直に自分の感情を表明する。
そして、自分の不利になるようなことは、事実であっても断固として認めようとしない。しかし、相手側の非は、どんな小さなことでも針小棒大に言い立てる。
次に目立つことが大好きだ。天才的とも思える組織能力、つまりある特定の人に狙いをつけたらあらゆる方法で接近を図る。看守に贈り物をし、相手がそのワイロを受け取る。それを逆手にとって次ぎ次ぎと要求をエスカレートさせていく。彼の独房の中は、写真で見る限り書斎のようであり、料理する出刃包丁まであった。その結果、一人の看守を自殺に追いやってしまうのだが、これらのことは筆者にとってはまさに驚きの連続であった。
●「韓国事情」 フランス人宣教師 シャルル・ダレ 1871 年から、1872年にかけて、驚くべき飢餓が半島を襲い、国土は荒廃した。
あまりの酷さに、西海岸の人々のなかには、娘を中国人の密航業者に1人当たり米1升で売るものもいた。
北方の国境の森林を越えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、惨めたらしい国状を絵に描いて宣教師達に示し、「どこの道にも死体が転がっている」と訴えた。だがそんな時でさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食料買入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだ。 韓国人は怯えながら生きる生活を続けていたので、感情の安定を失った民族になった。
おそらく韓国人は世界一怒る事を好む民族だろう。怒る事が不安や焦燥感を解決するのだ。代償行為になるし、自尊心を守る手段にもなる。
その自尊心も、虚飾によって作られた自尊心である。だから、ちょっと<触れただけで傷つき、怒りの感情が爆発する。
(試し腹)
(韓国人の遺伝子の特徴について)
米人類学者Cavalii-Sforza
うんぬんについては、完全な捏造デマです。
削除をお勧めします。
[ 小嶋日向守 ]
2019/3/25(月) 午後 9:46
返信する> 小嶋日向守さん、ブログ引越しの件は、下記を参考にしながら研究中です。↓
https://gbvx257.blog.fc2.com/blog-entry-1.html
私は「全てを移動」を信条にしていますので、上手い方法を・・と考え中です。
イイ案が有りましたら、ご教授のほどお願いします。
(試しバラ)の件は、ご助言を尊重して、その部分、削除したいと思います。
[ 泰弘さん ]
2019/3/26(火) 午前 10:15
返信するそのことに関しましては、あとで詳しく投稿したいと思っていました。
本日はとりあえず、こちらのコメントを御覧下さい。
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/58381028.html
発端ニュースの際のコメント
blogs.yahoo.co.jp/chaamiey/58364234.html
[ 小嶋日向守 ]
2019/3/26(火) 午前 11:34
返信する記事内容に関しまして、もう一つ間違いを指摘したいと思います。
◇新井白石の朝鮮観として、1989年 中公新書の「雨森芳洲」という、上垣外憲一さんの著作から引用される、「夫朝鮮狡黠多詐、利之所在、不顧信義、蓋○狢之俗、天性固然」という文章とその意味に関してなのですが、ネット上にはこの孫引きが多いのですが、意味を取り違えています。「○と狢」の表現に疑問を感じませんか? ムジナやタヌキの意味ではありません。エビスの意味です。
原文は下記の通りです。
「夫朝鮮 狡黠多詐 利之所在 不顧信義 蓋濊貊之俗 天性固然」(新井白石 『国書復号経事』)
濊貊(わいはく)は、現在の黒龍江省西部・吉林省西部・遼寧省東部から朝鮮半島北東部にかけて、北西から南東に伸びる帯状に存在したとされる古代民族の、濊と貊です。
つまり、濊や貊と呼ばれた野蛮人民族の天性であるという意味になります。
[ 小嶋日向守 ]
2019/3/26(火) 午後 8:36
返信する> 小嶋日向守さん、色々とご教示有難うございます。
早速、修正させて頂きます。
[ 泰弘さん ]
2019/3/30(土) 午後 4:31
返信する明治十六年頃の朝鮮の不潔さを書いたものとして、これからネット上に膾炙するであろう、津田梅子の同年九月三十日の手紙です。
『津田梅子の社会史』高橋裕子著 2002年 玉川大学出版会で、日本文理大学の清水孝子さんの論文に引用があります。下記pdfの5頁
www.caj1971.com/~kyushu/KCS_04_Shimizu.pdf
清水さんは、「米国人宣教師が日本人を見下すのと同じ視座で、朝鮮人を見下す梅子の視座が見られる。米国人宣教師が日本人を侮辱的に「他者」として捉えていたことに憤慨していた梅子自身が、朝鮮の人々について、自文化中心的な態度をとっているということになる。」とまとめていますが、いやいや、それは清水さん不勉強ですぞ。教条的すぎる。
実際に見た当時の人間のだれもが呆れる不潔さを、どうして清水さんは見方が悪いように取れるのだろう。ある意味凄い。
[ 小嶋日向守 ]
2019/4/10(水) 午後 10:42
返信する『津田梅子の社会史』高橋裕子著 188~189頁
明治十六年(1883年)九月三十日の手紙 (梅子 満18歳)
「父が帰ってきました。2、3日前に、思ったよりも早く着いたのです。朝鮮についてとても興味深くおもしろい話をしてくれました。いくつかの点では、動物の方がこのような汚い朝鮮人よりましだと思いますし、あるところには本当に野蛮な人びとがいるのです。彼らは衣服や食料はとてもよいのですが、粗末に不潔につくられているのです。家は掘っ立て小屋のようだし、妻たちは完全に奴隷か囚人のようです。寝食や労働のために一つの部屋からでることもせず、下層階級の人びとだけが日中、日光にあたるくらいのものです。
[ 小嶋日向守 ]
2019/4/25(木) 午前 11:13
返信する…彼らの習慣は下劣で、何もかもが汚くそして粗野なのです。…父が私に朝鮮について多くのことを話してくれました。あなたの記事のために、聞いたことを書いてまとめたいと思います。きっと、とても関心をもたれると思いますので、書いたら送ります。ある意味で、世界で最悪の国のように思われます。日本で出会った朝鮮の人たちは、人間的にも精神的にも日本人の特徴ととても似ていて、善良で知的で頑強な男性に思われたのですが、どうして人間がそのようになれるのか驚きです。」
アデライン・ランマン(Adeline Lanman 1826-1914)宛て
[ 小嶋日向守 ]
2019/4/25(木) 午前 11:28
返信する> 小嶋日向守さん…井上角五郎の記述などもPDFから書き写して準備はしているのですが、近く出してみます。
ただ、井上の云う同行の先生とは、誰の事でしょうね。
諭吉ではないと思いますが・・?
[ 泰弘さん ]
2019/4/25(木) 午後 5:10
返信する明治19年11月18日からの朝鮮視察旅行の際の日記は、井上自身によって、「時事新報」に連載され、後にまとめて「朝鮮遊覧日誌」と題する冊子として公刊されています。
しかし、井上角五郎の伝記は、のちに弟子たちが書いたものです。
国会図書館近代デジタル『井上角五郎先生伝』
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1154607
したがって、多くの資料からまとめられた伝記では、「井上角五郎は」とすべき箇所も、すべて「先生は」で書いているので、部分的に読むと紛らわしいのです。
井上角五郎の師は、仰るとおり福沢諭吉ですから、井上自身が書いた文章で「先生」とあれば福沢ですが、井上の弟子達が書く先生とは井上のことです。
[ 小嶋日向守 ]
2019/4/25(木) 午後 9:11
返信するこの旅行は、あれほど朝鮮人民のことを考えて努力した井上が、事実上、朝鮮人というものに、ついに匙を投げて、付き合いを諦めて、のちに米国に渡ることにつながる、日本への帰国旅行でした。したがって、この旅行は、一人で行ったものです。ただ、旅行を開始した三日目に、偶然知り合いの工兵大尉海津三雄、随員の樋口将一郎、從者の飯田菊太郎の三氏と出会い、釜山まで、時には別れ、また共に旅をしながら、釜山に至ったものだそうです。井上が賊に襲われ、ピストルを出して難を逃れた時などもあり、そのときは一人旅でした。
[ 小嶋日向守 ]
2019/4/25(木) 午後 9:27
返信する井上角五郎は、国王の高宗からも信頼をおかれていました。朝鮮では役人の収奪が酷いので、かねてから税制調査の必要を唱えていました。そのために朝鮮の各地方を視察したいと国王に言上したところ、快く許可されたものです。そのため内務府の視察員というものに任命されました。中央官庁である、内務府は、その由を各地方官廳に通牒していて、かつ、井上の旅行中特に兵士若干名を護衛につける事となった。その上、国王から旅費、および四年前の、朝鮮事変の際の被害弁償の意味合いで相當金額の下賜があったので、十分に準備を整へることが出来たそうです。
[ 小嶋日向守 ]
2019/4/25(木) 午後 9:44
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